
冬晴れの空の下、プリントを配りながら鹿の世話の注意を説明する作業服姿の男性を、時折メモを取りながら笠縫 枸杞(ja4168)は、わくわく見つめた。隣でパンフレットを見ていた天王寺茜(ja1209)が、鬼燈 しきみ(ja3040)に話しかける。
「冬場は観光客が少ないから、鹿もお腹を空かせてるんだって」
「そうなんですか〜?」
「うん。だから鹿煎餅、奮発して買っちゃった」
「餌やりも楽しそうね。私は鹿の1日も知りたくて‥‥」
茜としきみの話に、枸杞も小声で加わる。何しろ枸杞はゆったりまったりと鹿に癒されたくて、やって来たのだ。
奈良が都だった頃から鹿はこの地に暮らし、大切にされてきた。それを思い、来る前に春日大社の参詣もしてきた枸杞は、どれか1頭についていって観察してみようか、隙あらば撫でられるかな、と楽しみで。
少女達の楽しげな会話を聞きながらアクィナス(ja0680)は、同じ部活の一条 真樹(ja0212)を振り返った。
「マサキくん、誘ってくれてありがとっ」
「ボクも興味あったし。アッキーも餌やるの?」
「うん! 鹿といえば鹿せんべえだよね」
ひょいと肩を竦めながら答えた真樹に、少し照れた様子でアクィナスは力強く頷く。奈良と言えば鹿。鹿と言えば鹿煎餅。実に単純な連想だけれど、彼女もまた一度、本物の鹿に餌をあげてみたくって。
食べてくれるかな、きっと上手く出来るよね、とわくわくするアクィナスに、小さく笑って周りの生徒を観察する真樹である。演劇の勉強の第一歩は、とにかくよく観察する事だ。
きょろ、と辺りを見回した鎭守 永久(ja0270)が、傍らに立つ兄の鎭守 刹那(ja0257)に、胸一杯の期待と、ほんの少しの不安を滲ませた声で問いかけた。
「兄さん‥‥鹿さん、餌付け出来るでしょうか‥‥」
「‥‥気をつけるんだよ」
以前に親戚から、宮島の鹿に襲われて噛み付かれたという話を聞いた刹那は、曖昧に明言を避ける。宮島と奈良、場所は違えど同じ様な行動を取ってもおかしくない。
餌付け、とまでは行かないが、神阪 千鳥(ja1193)もまた鹿煎餅をあげたいな、と思っていて。その隣で月原 アティア(ja5409)はプリントを見ながら、鹿の糞掃除もやってみようかな、などとおっとり考える。
その中で、神宮陽人(ja0157)は願わずには居られなかった。
(どうか平穏に終わりますように‥‥!)
どうにも、何かが起こらずに済まない予感しかしない。
◆
雨下 鄭理(ja4779)は見上げた空に想いを馳せた。
(故人の遺物‥‥見ても良い物なのかそうでないのか‥‥‥)
遥かな時を経た今では当時の様子を知る重要な資料だが、当時に生きていた人々にとっては、例えば家族や恋人との思い出の品もあるだろう。それを、不用意に覗き込むような気が、する。
あくまで体験学習である以上、それほど重要なものが出るとは思わないが。
「‥‥まぁ、やってみるからには、それなりの物は見つけてみたいな」
「ですよね! 聖徳太子の遺物とか見付からないかな〜」
ぽつり、呟いた鄭理の言葉に、対照的なハイテンションでぐぐッと拳を握り締めた沙 月子(ja1773)は、とっても歴史好き。ここから何が出るのか、というよりもう、歴史の舞台に自分が居る! というだけで興奮していて。
「ここで日本の文化が生まれたのかあ、浪漫だにゃあ」
「この辺りは飛鳥時代の集落跡だそうですよ。やっぱり歴史って覚える物じゃなくて、こうやって感じる物ですよね」
楽しげな月子の言葉に、うんうんと頷く佐竹 顕理(ja0843)。さすがは歴史愛好会会長というべきか、土が剥き出しの現場を見回す眼差しにも熱が篭っている。
配られたプリントを見下たアンネリーゼ カルナップ(ja5393)の視線は、けれども静かだ。ここは初めてだが、遺跡自体は過去に何度か父に連れられ見た事があるし。
此処には自分の力になる物があるかと、思いに耽っていたのも、ある。父と遺跡巡りをする度にずっと、その幻想を追ってきたのだ。
故に静かな眼差しのアンネリーゼの背後で、ぐっ、とプリントを握り締めた神鷹 鹿時(ja0217)がトレジャーハンター部の仲間を振り返った。
「絶対お宝を発掘するぜ!」
「お〜!」
「みんな! 調査員さんに迷惑をかけないようにな!」
「お〜! ペンライトも持ってきたよッ!」
同じテンションで拳を突き上げた砥上 ゆいか(ja0230)の言葉に、勢いが一瞬止まる。部員全員の疑問を、天羽 マヤ(ja0134)が口にした。
「何でペンライト?」
「え? だって発掘する時は暗いかもだし‥‥なーんて♪」
「‥‥そうか」
あははッ、と実に楽しげなゆいかの声に、その様子は見えないものの想像はついて、鳥咲水鳥(ja3544)は頷いた。そうして無意識に両目に触れる。
「この眼が皆の迷惑にならない様にしないとな」
「‥‥‥」
呟く水鳥に、ユウ(ja4960)は右手で触れた。そのぬくもりに声なき言葉を感じ取り、ありがとう、と水鳥は微笑んだ。
自分の目は光を持たないけれど、ここには部活の皆が居て、何よりユウがいる。彼女は久し振りの旅行だと本当に楽しみにして居た。
そんなユウとの旅行を、自分も心から楽しみたい。そんな想いでまた、水鳥は微笑んだのだった。
◆
とある老舗和菓子店には、6人の学生が揃って居た。
並べられた道具をわくわくと眺めながら、文月野花(ja0151)は傍らに居た神薙 瑠琉(ja4859)に話しかける。
「簡単な和菓子位しか作った事がないので、本格的なものに挑戦してみたいんですよね」
「私も、お菓子は普段から作ってるんですけど、和菓子職人のような造形が出来るようになりたいです〜‥‥」
「解ります! 季節によって雰囲気も変わるし、綺麗ですよね」
本も読んできたんですよ、と楽しそうな野花に、そうなんですか〜、と頷く瑠琉である。美味しいものも作れるし、見栄えだってそこそこだけど、和菓子の造形は一種の芸術作品であり、憧れずにはいられないのだ。
その和やかな様子を少し離れた所で見ながら、けれどもアリシア・ウェンズディ(ja3927)は暗い眼差しで。
「アリシア。どんなの作るか決めてきた?」
「う、ん‥‥」
「俺は団子を作るんだ。上手く出来るかな」
そんな恋人を元気付けるべく、風巳 将吾(ja4041)は殊更に明るい声をあげ、何かとアリシアに話しかけていた。そも、この和菓子作り体験だってアリシアを元気付ける為に、将吾から誘ったのだ。
だが今の所、彼女の気持ちが上向く様子は見られなくて。
(少しでも元気になってくれればいいんだけどな‥‥)
その為にも出来る限り傍に居ようと、道中も仕方のない場合を除いてずっと一緒に居た将吾である。そうして些細な事で驚いたり、笑ったり、いつも以上に明るく振舞おうとして居て。
将吾の言葉を耳に留めた遊間 蓮(ja5269)が、笑いながら言葉を返した。
「教えて貰えるから大丈夫じゃないかな。料理は得意だけど、和菓子は作った事ないからすごく楽しみ」
「僕は好物の大福を作りたいな! できるだけ大きなのッ! あの大量のあんこも食べたいなー!」
「あんこは食べちゃ駄目だろ」
「まずは作らなきゃね」
目をキラキラさせながら加わってきた露草 浮雲助(ja5229)に、苦笑して将吾と蓮が突っ込むと、えへへ、と頭を掻く。けれどもすぐに、楽しみだな〜、と自分が食べる時の事を想像しながら、本当に楽しそうに呟いた。
もちろん、他の誰にもあげる気はない。
◆
体験学習とは言え、れっきとした発掘作業。となればゆいかを始めとする面々が、どうせ掘るなら、と思うのは当たり前だ。
「だって何か出てきたら、旅行の思い出は想いだけじゃなくて物にも残るンだよー」
「ですよね! 一見地味で価値のなさそうな物にも、歴史がギュっとつまってたりするんですよねー」
「うんうん! って、なんだか普段クラブに居る時より部活動やってるかも、えへへー」
頬をかくゆいかの隣で、慎重に土を削るマヤの瞳は、次第に爛々と輝き始めている。どんな大発見も、地道な発掘調査から。将来の夢でもある考古学者の父の言葉を思い出し、若干返した言葉もテンションが高めだ。
たまにカツンと何かに当たると、すわ遺物か、と声が上がる。その度に、ただの石だと言ったり、古代の瓦だねと笑ったりする、調査員の目は微笑ましい。
愛用の音楽プレーヤーで鳥の鳴き声を聞きながら、サウンド越しに周りの声を聞いている水鳥もまた、教わった通り慎重に土を削った。隣で車椅子から降りて土にペタンと座り、自前の道具で土を削っていたユウが、くい、と水鳥の袖を引いて『ねぇねぇ、コレは遺物かな?』と書いたノートを見せる。
今は光纏しているお陰で見える水鳥は、ユウの指差す方を見つめた。白っぽい欠片に、手を上げて調査員を呼ぶと「それも瓦だね」と答えが返る。
この辺りから見つかる瓦は、歴史的価値は余りないらしい。だから一応確認したら持って帰って良いという言葉に、鹿時のテンションが一気に上がった。
「持って帰れるのか! よし、俺はやるぜ! 親父からもやり方を教わってきたしな!」
「う〜‥‥でも、なかなか出ないにゃ〜‥‥」
鹿時同様テンションは上がったものの、瞬時にしょんぼりする月子である。気合で見つかるのなら苦労はないけど。
くる、と振り返った鹿時が、少し緊張しながらそんな月子に、励ますようにコツを教えた。
「え‥‥え〜とな‥‥、ここはこうして‥‥いやこうするんだ! とにかく冷静で慎重にな!」
「れ、冷静に‥‥が、頑張るにゃ〜」
それは難題だ。咄嗟にそう思ったが、慌ててショベルを振って誤魔化し、作業に集中する。ちなみに月子、発掘体験前に通りがかった別の遺跡でポイ捨てしてる人を見て、物凄い剣幕で怒りに行ってたり。
さすがに此処は学生と調査員しか居ないから、大丈夫だろうが――その光景を思い出しながら、顕理は同じ姿勢ばかりで凝り固まりがちな身体を解す為、現場の脇で軽いストレッチをする。ただでさえ慣れない作業に、すでに身体はバキバキだ。
時折調査員に話しかけ、飛鳥の話やそこから続く歴史の雑談をする。解っているようで、実は古代の歴史はいまだ余り解っていない。
「どんな大発見も、こういう地道な作業あってこそですね」
「ああ‥‥だが、過去と今は変わるものとはいえども、永い年月をえて進んだはずだ‥‥そう簡単に、変われるものだろうか‥‥?」
顕理の言葉に、知らず鄭理は首を傾げた。結局は同じ人間が築き、歩んできた歴史は連綿と積み重なって、逆にその重みに容易に変われなさそうにも思える。
そう思ってしまったのは、こうして過去を求めて発掘するという作業に、己の姿を重ねたからだろうか。ただでさえ単調な作業は、知らず、思考を内に篭らせる。
変わるのだろうか。時を経れば変われるのだろうか。それとも、変わらないのだろうか。自分は‥‥?
そんな鄭理の呟きに、自分を重ねてつい、アンネリーゼは自嘲の溜息を漏らした。
「体験学習なのに、何をしているんだ、私は‥‥」
「ん?」
不思議そうな鄭理の言葉に、なんでもない、と首を振る。せっかくはるばる旅行に来てまで、守護の力を得る事を望み、求めようと必死になっている自分に、気付いてしまった。
力を得る事が悪いとは思わない。けれども、こんな時ですら求めずに居られないのはどこか、間違っている。
「力に囚われ過ぎているかもだな‥‥私。それに気づけただけでも、この体験参加には意味があったかもだね」
「何か新たな発見でも?」
「そんな所」
「‥‥そいえば、私達が今天魔と戦ってる記録も、いつかは歴史の1ページになるんですかね−」
呟きは聞こえなかったものの、晴れ晴れとした雰囲気になったアンネリーゼに声をかけた顕理の傍で、マヤもふと手を止めて空を見上げた。そうして「未来の人達に笑われないよう、頑張らないとですねっ」と決意を込めて呟く彼女に、一体何が見えていたのか。
にゃ〜、と月子が声をあげた。
「どうせなら他も全部体験したかったー!」
「じゃあ後で一緒に周りを散策します?」
「あ、俺もそれ参加ー」
和気藹々とした光景を、調査員達が微笑ましく見守っていた。
◆
生まれて初めて近くで見る鹿の大きさに、永久は緊張して居た。ぎゅっと、鹿煎餅の袋を握り締め、真剣な眼差しで問いかける。
「食べます、か?」
「鹿に聞いても‥‥」
突っ込みかけた刹那よりも、鹿の方が反応が早かった。あっという間に鹿煎餅へ顔を寄せ、有無を言わせず毟り取る――袋ごと。
ぎょっ、と固まる兄妹の前で、鹿は無言で袋ごと勢いよく鹿煎餅を食べている。お腹空いてたのかな、と永久が呟いたが、何かが違う、と刹那は思い。
けれども、傍から見れば普通に微笑ましい光景に、アティアはのんびり目を細めてササラ箒を動かした。落ち葉と鹿の糞を掃き集める。
なかなか終わらないけどやり甲斐があります、と掃除をしていたら、困った様子の千鳥と外国人観光客に気付く。
「どうかしました?」
掃除の手を止めて尋ねると、千鳥と観光客が揃って困った顔を向けた。先に口を開いたのは、千鳥。
「英語しか話せないみたいで‥‥」
「まぁ‥‥お困りですか?」
千鳥におっとり頷き、後半は英語に切り替えて尋ねる。そうして東大寺に行きたいと言う彼に、うん、と頷いた。
「ご案内してきますね」
「ありがとう」
ほッ、と千鳥は安堵の息を吐いて、歩いていく2人を見送った。東大寺に行きたいと声をかけられたのだが、説明が通じなくて困っていたのだ。
さて、と鹿の姿を探す。すぐに寄って来た鹿ににっこりして、紙袋から鹿煎餅を出し、はむ、と齧り付いた鹿の頭を撫でる。あっという間に食べ終わった鹿にもう1枚あげて、今度はふかふかとした首にぎゅっと抱きついて――
「ぅ、わ‥‥ッ?」
――たらつぶらな瞳の鹿が、もっと頂戴、と頭突きした。ぺたんと尻餅をつくと、のしかかってきた鹿がふんふん千鳥の全身を探り始める。
真剣に、身の危険を感じた。カバンの中のお弁当だけは守らなくちゃと、必死に逃れようとする千鳥に、気付いたアクィナスが声を上げる。
「マサキくん。誰か、襲われてるよ?」
「ん?」
同じ方を見た真樹は、鹿の下敷きになっている千鳥を見つけてふぅ、と同情にも似たため息を吐いた。そうしてまっすぐそちらへ向かい、大きく手を振って威嚇すると、幸い気性の弱い鹿だったらしくすぐに逃げていく。
そうして真樹は土まみれの千鳥に手を貸して、ひょい、とお姫様抱っこをした。
「大丈夫?」
「あ、ありがと‥‥でもでも、あの、俺男ですから‥‥! もう降ろして‥‥!」
顔を真っ赤にして足をばたばたさせる千鳥に、ん? と真樹は首を傾げた。まじまじ見下ろす真樹を、なんかかっこいい人だなぁ、と千鳥は見上げるが、真樹はれっきとした女性である。
そんな3人を、パシャリ、白い光が照らした。
「どもーエクストリーム新聞部でーす。いー絵だから撮っちゃったけど、OK?」
「大丈夫だよ」
千鳥を下ろしながら真樹が頷くと、陽人はさらに断り、2〜3枚撮影する。新聞部の彼は公園内を動き回って、鹿と戯れる生徒達の写真を撮っていたのだ。
アクィナスが声をかけた。
「撮ったげようか?」
「じゃ、こっちでお願いッ」
その申し出に、陽人が携帯を取り出した。そうして近くのベンチの上に胡坐をかいて、いつでも良いよ! とイイ笑顔で大仏のポーズを決める。
それに、大笑いしながらシャッターを切った。自分でも出来栄えを確かめた陽人は嬉しそうに友人にメールして。
他の生徒の所に行くと言う陽人を見送り、3人で顔を見合わせてまた、笑う。緊張していた千鳥も、すっかり気持ちが解れたようだ。
「ん、何か食べ物のいい匂いがする」
「あ! えっと‥‥お弁当、一緒にどう、ですか? お礼に‥‥」
「美味しそう! チャーハン、自分で作ったの?」
ひく、と鼻を動かした真樹にあたふたお弁当箱を出した、千鳥にアクィナスが目を輝かせた。うん、と頷いた千鳥のお弁当箱には、美味しそうなチャーハンが詰まっている。
そんなアクィナスに、ホッ、と真樹は胸を撫で下ろした。昨日の夜から旅行が楽しみで良く眠れず、しかも移動でしっかり酔ってしまった彼女を心配していたのだ。
そうしてお弁当を広げ始めた3人を微笑ましく見つめ、枸杞は若草山へと歩く。せっかくだから山頂で、夕日に染まる街や山々を望みたいと思ったのだ。
たくさんの学生で溢れ返る学園で、知らず感じていた疲れも、のんびり過ごすうちに癒されてきたようだ。楽しい気持ちで向けた眼差しの先で、兄妹が鹿を前に「えっと、刹那‥‥撫でてみても‥‥」「うーん‥‥」と顔を見合わせている。
どうやら変な虫に付かれる心配はなさそうだが、妹が鹿に噛み付かれやしないかと、刹那の心配は尽きなくて。そんな刹那が枸杞に気付き、脇腹を突付かれた永久も枸杞を見た。にこ、と微笑みかけられて、勇気を振り絞って話しかける。
「ぁ、あの‥‥ご一緒しても、良いですか?」
「もちろん」
人見知りを克服しようと頑張る少女に、微笑み枸杞は頷いた。そうして3人、今日の体験を語りながらゆっくり山を登る。
かつての都人も、ここから国見を行ったのだろうか。
「わ、遠くまで見えます‥‥」
「ほんとね。あ、ほら‥‥」
眩しそうに見遥かした永久の言葉に、頷いた枸杞が山の麓を指差した。ん? と刹那が目を凝らすと、周りをぐるりと鹿に取り囲まれた茜が居る。
最初は1頭だけだった。茜は宣言通り、鹿煎餅を買って鹿の多そうな場所を探し回り、煎餅をあげて穏やかに過ごしていたのだ。
背中を撫でたり、頭を撫でたり。そうしているうちに、1頭、また1頭と増え始め。
ぎょっと手が止まった茜に、鹿達が突撃した。
「わ、ちょ、あげる! あげるから! 服、服は引っ張らないでッ? ちょ、そこには入ってな‥‥ズボンが脱げる〜〜ッ!!」
「あら、助け‥‥」
「ない方が美味しいかな? で、そっちはどしたの」
おっとりと呟いたアティアに、陽人が楽しげに茜を見捨て、彼女に手を振って去っていく人々を見る。それにアティアは、実は、と微笑んだ。
ただ道案内だけをするのも何だしパンフレットの説明をしていたら、他の観光客も付いてきて。結局ガイドがてら、一緒に見学してきたらしい。
「喜んで頂けて満足です」
「なるほど。あ、撮っても良い?」
その笑顔が絵になると、陽人はシャッターを切った。襲われている茜の姿もしっかり納めてあるけれど、世に出すのは本人に許可を取ってから。
奈良公園でのひとときは、まだまだのんびり続くようだ。
◆
和菓子は、時間内なら幾つ作っても良いという事だった。だから蓮は張り切って、文字通り腕捲りして和菓子製作に取り掛かった。
作るのは、立体的なひよこ型と牡丹型の煉りきり。生地に少しずつ着色し、黄色や茶色、赤に染め上げる。
ひよこの目は、胡麻や豆で作る事にした。気分は完全にアーティスト。
「徹底的にこだわるよ〜」
「職人さんに教えて貰えるなら凝った物にも挑戦出来ますもんね」
こっくり頷いた野花の前にも、同じく練りきりの材料がある。おはぎや桜餅、普段のお料理なんかはよく作っているけれど、さすがに上生菓子に挑戦する機会はない。
野花は職人に奨められ、梅の花を造る事にした。少しずつ色を加えるのだが、思い通りの色にするのはなかなか難しい。
それでも、一段階上を目指して。頑張ろう、と少しずつ形を作る野花の前に居るのは、団子を丸める将吾と、浮かない顔で味噌餡を捏ねるアリシア。
蒸し上がった団子生地を、丸めて、1つずつ串に刺す。何とか全部同じような大きさに丸め、網で焼く将吾を見ながらアリシアはまた小さなため息を吐き、白と薄紅に染めた求肥を伸ばした。
教えられた通りに白の上に薄紅を重ね、牛蒡の蜜煮と丸めた味噌餡を並べる。そうして2つに折り畳めば、花びら餅の完成だ。
「上手く出来たね」
「どれどれ? ‥‥おいしそうッ!」
職人の言葉に、覗き込んだ浮雲助が歓声を上げる。実際、その花びら餅は指導のお陰か、素人にしてはよく出来ていたのだけれど。
逆にアリシアは悲しくなって、ついに顔を覆って泣き出してしまった。
「なん、で‥‥ッ」
「え? ど、どしたの?」
「ごめんッ、ちょっとナーバスなんだ」
ぎょっとした浮雲助に、慌てて将吾が言葉短かに詫びる。それがまた申し訳なく、どうしてお菓子は上手く出来るのに人とは上手く喋れないんだろうと、アリシアはますます悲しくなって。
アリシア、とそんな恋人に呼びかけ、焼きたてのみたらし団子を出して、ほら、と顔を覗き込んだ。
「俺が作った団子。味見してみてよ」
「‥‥」
「美味しいものを食べて、落ち着こう?」
な、と同意を求められて、こくこくと笑顔で浮雲助は頷いた。瑠琉もアリシアを安心させようと、のんびり微笑んで「私のも後で食べてみて貰えますか?」と可愛らしい鹿の練りきりをちょこん、と掌に載せる。
和服にきりりと襷をかけた瑠琉がそうしていると、まるでお店の看板娘みたいで。ね、と蓮がそんな瑠琉に声をかけた。
「こっちも手伝ってくれる? 花びらが大変なんだー」
「はい。綺麗な牡丹ですね〜」
「三角ベラ、結構難しいんだよねー」
ふぅ、とため息を吐き、何とか形になりつつある牡丹の花を見下ろした。けれどもぱちんとウインクして「超大作、期待しててね〜」とせっせと花びらを拵えながら笑う。
どこからどこまで拘りの芸術作品。先に完成したひよこはすでに写真を撮って、現物は持ち帰り用の箱に入れてもらった。牡丹も完成させたいし、出来れば部活の皆のお土産にもしたいし、蓮の悩みは尽きないけれど。
「一緒に頑張れば出来ますよ〜」
「あ、私も手が空いたから手伝います」
「俺も‥‥アリシア、どうする? 手伝える?」
「うん。‥‥もう、大丈夫」
野花に将吾、すっかり泣き止んだアリシアも手を上げて、5人でせっせと牡丹の花びらを作ったり、ひよこをさらに作ったり。あれ、何か乗り遅れた? とまだ特製巨大大福が出来てない浮雲助が、せっせとあんこを丸め始める。
くすくすと誰からともなく笑みが零れた。美味しい和菓子は、人と人の心も繋いでくれる。
◆
夕方には体験学習も終わりだ。お互いの体験を話し合い、楽しそうに歩く生徒達の中で、水鳥もまたユウの車椅子を押しながら、また来れたら良いな、などと話している。
道端のお土産物屋にも、学生が数名。
「やっぱこれっしょ! 大仏柄パンツ!」
「はるり、そんなだから彼女見つかんないんだよ」
「ヒドイ!?」
テンションを上げる幼馴染に、月子はため息を吐きながら真剣に、友人へのお土産を選んでいる。ため息を吐かれた陽人も、横から「生もの駄目だと難しいねぇ」と一緒に物色し始めて。
奈良名物と言っても豊富過ぎて、選ぶのが難しい。葛を買ってみたけれど、皆は何を買うのかなと、一緒にお土産物屋にやってきた枸杞は辺りを見回した。
「ワインあったー!」
「柿ワイン?」
ぐっとガッツポーズの顕理の手元を覗き込むと、伯父さんと約束してたんだ、と返ってきた。ふぅん、とラベルを見つめる枸杞の背後では、月子と陽人は「やっぱ鹿煎餅でしょ!」「友達にあげられるか!」と大騒ぎで。
人間の食べ物じゃなかったんだ、と聞こえたアリシアが肩を落とした。美味しい和菓子と将吾や皆のお陰で元気を取り戻し、一緒に大仏を見に行った途中で、買った鹿煎餅を食べたのだ。お店の人も良いよって言ってたし。
くす、と笑った将吾が恋人の手を握る。それをぎゅっと握り返したアリシアと2人、寄り添い歩いていくのを見て、マヤが瑠琉を振り返った。
「一緒だったんだっけ?」
「ええ。お味はどうですか〜?」
「すっごく美味しい! そだ、旅館で今夜はマクラ投げしない?」
「楽しそうですね〜」
和菓子を貰ったお礼も兼ねて誘うマヤに、おっとり頷く瑠琉である。美味しいと言って貰えるのが、作った身には何よりのご褒美だ。
体験学習は終わったけれど、学生達のお楽しみはまだまだこれからだった。