太陽が東の山々から僅かに顔を見せる。木々の合間から漏れる光は霧ともガスとも言えない白い大気の中で屈折し後光のような眩しささえも醸し出していた。
「カイロは足りていますか」
黒井 明斗(
jb0525)が定期的に呼びかける。待機して既に二十五分ほど時間が経過している。圧倒的な森の匂いの中で参加者達の嗅覚が麻痺し始める中、野鼠や鴨など野生の生物が参加者達の前を通り過ぎ水場で休憩を計っていた。
「こうして見るとこの沢には多種多様な生物が住んでいますね。親子ほど体格の違う生物が水を飲みに来る、不思議な光景です」
那斬 キクカ(
jb8333)は周囲を見回しながら狼から見つかりにくい見渡しの悪い場所を探している。目に付いたのは下流側にある一本の大木だった。
「あの大木当たりがいいかもしれませんね。餌は上流の方に仕掛けていますので見晴らしもいいはずです」
鈴代 征治(
ja1305)も覚えてきた周辺地図と実際の地形を照らし合わせながら同じ木に狙いを付ける。餌は事前に準備した鶏肉、それに鈴代が自分の血を数滴垂らしている。
餌はある程度効果があるのか、先に水辺へ来ていた野鼠達が鼻を寄せ合っていた。
「枝分かれしていますから登って休みながら上からの監視もできます」
「ただ風向きが気になるな」
蘇芳 和馬(
ja0168)が懸念したのは風の流れだった。現在は周囲は無風に近い。そのためどちらが風上になるのかが読めなかったのである。
「カイロは大丈夫だ。それよりお茶を一杯頼む」
十分な防寒対策が出来なかった蘇芳はここまで背負ってきた運搬用の檻を点検しながら暖を取っていた。蘇芳と同じく防寒装備まで手が回らなかったRehni Nam(
ja5283)が出してくれたお茶を飲みながら小松 菜花(
jb0728)は気分を落ち着かせていた。
「一般生物と共生し擬態化する‥‥結構厄介なの。しかも相手はニホンオオカミ。公式的には絶滅となっているけど、見つかれば生物学的記録が生まれる‥‥もっとも、数少ないのは寂しいの」
「共生してるわけないじゃーん」
深刻に考える小松に対し、ポラリス(
ja8467)は少し楽に気楽に捉えていた。
「仮に共生してたとしても見分ける方法は今回豊富だからね。私にもぽら汁あるし!」
苦手な犬系である狼にも自分の魅力は伝わるのか、そんな疑問を胸にしながらもポラリスは周囲の気配に探りながら服に付いた植物の種子や霜で濡れた下草の切れ端を取り払っていく。
「問題は縄張りですね。確か前に読んだ本には、自分の縄張りに入った人間を観察し尾行する習性を持ってるとあるから、観察の為に近付いてきてくれれば‥‥」
佐野 七海(
ja2637)は耳をそばだてる。すると佐野の耳が一つの足音を聞き取った。
「大きなものが来ます」
佐野同様何かを感じ取ったのか水辺で休んでいた野鼠や野鳥と言った小動物達も一斉に姿を消した。
「では予定通りに」
小松がスレイプニルを召喚、那斬は陰影の翼で枝葉に当たらぬよう上空へと飛翔する。
「僕も射程圏内へと移動します」
生命探知の射程圏まで黒井はゆっくりと歩を進める。だがその時だった、超音波の射程まで移動していた小松のスレイプニルが飛び立ったはずの野鳥と衝突したのである。スレイプニル自体に怪我は無い。しかし衝突した方の野鳥が意識を失ったのかそのまま地面へと追突した。
突然のトラブルに小松を始め間合いを詰めていた黒井、那斬も進行を停止、狼の動向を見守る態勢へと変更する。だが立ち止まると同時になにものかが走り去る足音が耳に届いた。
「狼はどうなりました」
恐る恐る小松が尋ねる。それに対し黒井がおもむろに首を横に振った。
「こういうこともあるって」
ポラリスが小松に近寄り肩を叩く。
「あの調子ならまた来るだろうし待ってみようよ」
「私もこのまま待機でいいと思います」
しばらく考え佐野も同意した。
「前に読んだ本に自分の縄張りに入った人間を観察し尾行する習性を持ってると書いてありました。一旦距離を取っても向こうもこちらの様子を見ていると思います」
「長期戦になるな」
いつしか降り始めた雪が蘇芳の肩に一粒落ちる。
「凍傷が心配ですの」
ようやく気を取り戻した小松も先を見据えていた。
狼が再び姿を見せたのは一度撤退してから三時間あまり経過してからだった。日はいつしか完全に登り、一度は撤退した野生の生物達もちらほらと姿を見せだし落ち着きを取り戻しつつある。そんな中で狼が顔を出したのは水場から五十メートル近く離れた藪の中だった。
「仮に再度不測の事態が発生するようなら狼が撤退するようなら敵陣に切り込みます。その間に天魔の識別を」
包囲するように少しずつ距離を詰める撃退士達、その中でも黒井は決意を固める。前回の失敗を踏まえての一歩一歩を慎重に進めた。だがそれが却って災いする。雪のせいで数時間前とは様子が異なる路面に足を滑らせたのだ。
何らかの気配を察知したのか狼の顔が動く。その時、黒井と狼の一匹の視線が重なった。
「突貫します」
逃げられる、そう咄嗟に判断した黒井は順番こそ前後したものの狼に対し全力移動を開始。合わせる様に鈴代、スレイプニルに騎乗した小松、ポラリスと続く。
「檻の準備をお願いします。いつでも入れられるように開けておいて下さい」
鈴代はRehniと月乃宮 恋音(
jb1221)に指示を飛ばして黒井の後を追った。十メートル前後まで近付いたところでようやく全体像を認識する。
「狼の数は四で間違いないようです。前に二体、後ろに二体という隊列ですね」
「前の二体はやや小型に見えます。まずは前方二体と後方二体を切り離しにかかります」
鈴代の報告を先に行く黒井が補足する。そして鈴代は前方二体を続く小松に任せ、後方二体の内の向かって右の一体に狙いを絞った。
「余り悠長にできません。天魔かどうかの識別を最優先します」
選んだスキルは気迫、中立者では抵抗される事を憂慮しての判断だった。それに対し狙われた対象はすぐに視線を撃退士達から逸らす。怯んだのは明らかだった。
「後方向かって右、一般の狼です」
「これで全部天魔という可能性は省かれたの」
続いて小松が射程圏内に入ると同時に前方二体に対し超音波を仕掛ける。だがこちらは共にむき出しの敵意と変わらず小松へと向け続けている。
「前二体は天魔ですの。予想通り混成舞台ですの」
スマホ越しに小松が超音波の結果を全員に伝える。
「なら私は手前右をマーキングするね。最後の一体の識別お願い」
残る後方左を他の参加者に任せ、ポラリスは最も近い一体を見据えて首から提げたロザリオに手を添えた。するとロザリオが光り、無数の花びらを生み出した。そして視線の先の狼に向けて飛び出していく。更にそこにポラリスはマーキングを合わせる。
だが既に撃退士達に対し警戒を向けていた狼は花びらを一跳躍で飛び越え、共に前方に陣取っていたもう一体の小型狼と逃亡に入る。残る二体も逃亡を計ろうとするも黒井が二体の前に割り込んだ。
「これで上手く分断できましたね。あとはこちら二体をどうするかですか」
まだ一体は天魔の判断ができていない事も踏まえ脅す程度に攻撃を止める黒井、だが反面狼は本気で黒井に襲い掛かる。しかし狼の鋭い歯を使っても黒井の防御を簡単に抜けることはできない。皮膚の一部を裂くだけだった。
二体の狼の足を止めた事で蘇芳も黒井のもとへと合流する。そして残る一体へと気迫を使用した。
「どちらがボスか分からせるとしよう」
しかし最後の一体も蘇芳に対し敵意をもって応える。
「貴公も天魔か。どういう目的があって野生生物に紛れていたのか知らぬがここで格付けさせてもらおう」
蘇芳が通常の狼と天魔の間に割って入る。その間に佐野が魂縛で通常の狼を眠らせにかかる。
「本当に普通の狼ならこれで眠るはずですけど‥‥」
やや恐る恐るの佐野であったが、予定通りに狙われた狼はその場で一度咆哮を上げて倒れこむように昏睡する。
「それでは保護をお願いします。私は檻の護衛に入ります」
立花 螢(
ja0706)とともに佐野は戦場となった水辺からやや離れて檻の場所へと移動する。そして陰影の翼で上空に舞った那斬は逃げた二体の狼を追っていた。足を止めるために攻撃を仕掛けてみるも全力移動中ということもあるのか狙いが外れる。更に那斬の目の前で予想外の事態が発生する。二体ともが何を考えたのか来た道を戻り始めたのだ。
「逃げた二体、そちらに戻りそうです」
「さっきの咆哮を聞きつけたか」
動きを止めようとするも二体の狼はここに来て散開、那斬一人では対応ができなかった。
「早めに回収するべきですね。僕が行きます」
「ではこちらは天魔をひきつけましょう。その間にお願いします」
「それじゃ私はその援護ね」
黒井、鈴代、ポラリスの三者がが簡潔な打ち合わせを済ませ、黒井は天魔一体に矢を放つ。黒井に合わせて合わせて鈴代は全力移動を開始、眠った狼へと一直線に距離を詰める。そして確実に抱え上げられるように態勢を傾けながら速度を僅かに落とし、狼を地面の雪ごと両手ですくい上げた。
「これでひとまず保護完了ね! 念のためぽら汁も使っておくよー」
狼をすくいあげる為に失速した鈴代
に全力移動を続けたポラリスが一時的に追いつく。そしてもし起きた時の事を考えポラリスがぽら汁を使用、それを確認した上で鈴代は再加速。大きく百八十度旋回し檻へと向けて雪の上をそのまま疾走する。
だが天魔達もそんな撃退士達の動きを見逃さなかった。黒井が抑えていた大型狼は黒井を脇を通り抜け鈴代へ、那斬が追っていた中型二体も鈴代へと狙いを定めた。
「こちらの天魔もそちらへと向かう。手傷は与えたが致命傷にはなっていないようだ」
逃げられた大型狼を追いかけながら黒井は状況を説明する。その時には鈴代は三体に背後から肉薄されていた。
「全力でこちらの行動を阻害するつもりか。まるで仲間扱いだな」
全力移動しつつ仕掛けてきた狼計三体の攻撃を鈴代は二回はかろうじて回避するものの一度は背中に爪を立てられる。戦いは全力移動から始まる高速戦闘の様を呈してきた。
「君に罪は無いのだけれど、もう少しだけ静かにしていてね」
那斬が最後尾から追いかける。ただしまだ継続中の陰影の翼のお陰もあり最短で距離を縮めていく。そして射程圏に入ったと見るや朱雀翔扇を投げ放った。背後からの攻撃で視野が狭くなっているのか大型狼はこの扇を回避失敗、首筋に大きな傷を受ける。
「これで少しは大人しくなってくれるでしょうか」
戻ってきた扇を受け止める那斬、そこに更に黒井も追い討ちをかける。しかし狼の方も黒井の攻撃を見慣れてきたのか黒井の弓矢を紙一枚で回避、そして先頭を行く鈴代へと追いかけてゆく。
「頼みます」
檻は月乃宮の手により既に開けられていた。鈴代は狼を月乃宮に預けるとすぐに振り返り戦線に復帰、そして預かった月乃宮は狼を収監、扉を閉めて月乃宮を先頭にRehniを後方にしてソリを滑らせた。下り坂にソリが合わさり檻の速度は月乃宮の移動力以上のスピードを出していく。その分ソリとソリに乗った檻が暴れるが、そこをRenhiが押さえつける。しかし檻が逃げると天魔三体は合わせる様に更に速度を上げた。
「何なんですの」
逃げる展開を予想していた小松も必死に追いかける。元々の移動力の高さに加えクライムによる移動力上昇が功を奏し追いつくだけなら苦という程でもない。そこで体を前に出し、少しでも足を止める作戦に変える。
「遅い、遅いの。スレイプニルはあなたたちの動きより早く動くの。絶対に逃げられないの」
ポラリスも後方から追いかける。前からはスレイプニルの突撃、後ろからは無数の花びらが大型狼を挟み撃つ。しかし狼はその両方を避ける為に跳躍して回避、小松の目前には花びらが迫っていた。
「ちょっとタイムタイム」
慌てて止めに入るポラリス、小松の急速旋回でかろうじて回避に成功する。だがその間に大型狼は檻へと接近、勢いのまま檻へと体当たりを仕掛けた。
「落ち着いて、私達は貴方をイジメに来たわけじゃないの」
狼の体当たり対しに檻の防衛に回っていた佐野がカバーリング、緊急障壁を展開し自身を盾に大型狼の追突を食い止めに入った。しかし狼の勢いを乗せた渾身の一撃は佐野の作った障壁を突き破り佐野さえも弾き飛ばす。続いて中型の二体が檻へと攻撃を仕掛けるが、こちらは立花が体を張って食い止める。だがこちらも佐野同様に飛ばされる結果となる。
「後で応急処置に行きます。今は耐えてください」
寒さの中で厳しい事は承知していたが、黒井は任務を優先した。その間に蘇芳と那斬が体当たりで疲労を見せた大型狼を連続攻撃で絶命させる。そして中型狼も黒井と戦線に復帰した鈴代が二人で昇天させた。
「あと一匹です」
敵の数が減った事で撃退士達は天魔狼を取り囲み封鎖にかかる。かろうじて一度封鎖を突破し檻を追いかけたが、ソリ効果で距離を置いた檻には届かずポラリスと那斬によってトドメを刺されたのであった。
その後黒井が倒された立花、佐野、そして負傷した鈴代、黒井自身の治療を済ませ下山する。捕まえられた狼は未だ佐野の魂縛で眠っているが依頼人は首を捻っている。
「何か問題でもありましたか?」
黒井が依頼人に疑問をぶつける。
「こうして捕まえてきてもらった君達の前でこういうのも心苦しいんだが」
そこまでの依頼人の言葉と表情で小松は先の言葉を察した。
「まさかニホンオオカミじゃないの」
小松の言葉に申し訳なさそうに里山は頷いた。
「まあニホンオオカミの生息地を晒さなかっただけ良かったとしましょう」
「あとは燻製にならなくて済むの」
黒井と小松が依頼人夫妻をフォローする。その傍らで蘇芳だけが首を捻っていた。
「どうしたの」
ポラリスが声をかけると蘇芳は言葉を選びながら語る。
「戦闘中も感じていたが、先程の天魔は仲間意識を見せていた。実在の野生生物に近い印象だ。それにもう一点、これは今気付いた事だがその狼はメスだ」
「分かるの」
「好きだからな」
ポラリスの問いに蘇芳は頷く。
「ここからは仮説だが、ひょっとしたらこの狼は先程の天魔の妻や母親だったのかもしれない」
「そんなわけないじゃん。だってさっきの狼は天魔だよ」
「ハーフという事もある」
そう言われるとポラリスも否定することができなかった。
「それにな、これも仮説だが天魔は並行世界から来た生物だ。天魔が元々いた世界にはこちらでは絶滅した生物がまだいるかもしれない。ニホンオオカミの存在を私は逆に感じたよ」
そこまで言うと蘇芳は依頼人の方へと向き直った。
「依頼人、この狼をどうするんだ」
「山に返すか動物園にでも寄贈しようと思うが、何か案があるのかい」
「私が飼おう。知識はそれなりにあるつもりだ」
その言葉の裏には蘇芳の新たな決意があった。