●
海は雨に呼応して、波は高まり砕け散る。
風は大気に感応し、冷気を孕んで吹き抜ける。
師走の華やぎはあっという間に静けさへと溶けた。
「誰もそんなことは望んでいないさ」
舞の言葉を遮ったのはルーイ(
jb6692)だった。
それは、死を以て罪を償うより他はないことを言いかけた彼女を制止へ導く言葉だ。
「罪は生きているからこそ償うことが出来る。その気があるのなら、許されないことなどこの世にはないよ。……受け売りだけどね」
「どうすればいいの? 謝ればいいの? 私は野極さんを殺そうとしたのに!」
錯乱――いや狂乱の渦中にある舞に、ルーイの言葉は響かない。今、舞に、死以外の選択肢が頭にないのだろう。
明確な答えを、ルーイは用意していたわけではなかった。彼は言い淀む。それは決して論破されたわけではなく、その答えを舞自身に考えてほしいと望むものの、彼女の状態からしてそれはあまりにも酷であろうと考えたからだ。
「ほら、どうしようもないんじゃない。もう私に生きる資格なんてないんだよ!」
「聞け、舞。どうしても死ぬってんなら、その前に俺の話を聞いてくれ」
今にも身投げしそうな彼女に待ったをかけるべく、ルナジョーカー(
jb2309)は叫んだ。
不機嫌そうに視線を向ける舞。その足は海の方を向こうとしている。
「俺が舞を助けたい理由だ。舞は俺たちの仲間で友人だ。仲間や友人を助けるのに細かい理由はいらねーよ」
動きが止まった。
そっと、緩やかに舞はルナを見据える。
言葉が届いたのだと、ルナは胸中拳を握った。――が、それは大きな勘違いだった。
「友人? 昨日会ったばかりなのに?」
拒絶といえよう。
少なくとも言葉の上で、舞はルナを友人と認めなかった。舞からすれば、ルナは昨日いきなり上がり込んできて、特に望みもしないスープを勝手に振舞って、自己満足に浸りながら帰っていった謎の人、という印象なのだろう。
だから、友人という言葉を拒んだ。
ショックを隠せず、ルナは奥歯を噛みしめる。
「それに、矛盾してるよ。理由を聞いてほしいのに、理由はいらないなんて」
「ぐ、でも俺は……」
「もういいよ」
言葉もない。
●
「ったく、何してんだか……」
そのやりとりを耳に、そっと呟いたネームレス(
jb6475)は静かにその場を離れた。
港には、一隻の客船が停泊している。客が乗船しているわけではなさそうだが、人の気配はあった。恐らく乗組員が働いているのだろう。
見上げ、ネームレスはタバコを咥えて火を灯す。
冷気と共に煙が肺を満たす感覚にすっと目を細めた彼は、客船へと歩みを進めた。
「……さて、俺も仕事するかな」
●
最早交わすべき言葉もなく、舞は海へと向き直った。
一歩踏み出せば、そこには氷のように冷たい海。
落ちれば死が待っていよう。
「舞さん」
背中に向かって、長谷川アレクサンドラみずほ(
jb4139)が口を開く。
「これがわたくしのエゴと言われても、わたくしはあなたを助けます」
また、舞が止まった。
みずほの言葉が、舞を止めた。
言葉が響いた、と考えるのは短絡的であろう。だが少なくとも、みずほの言葉を聞くだけの何かがあるのは間違いないだろう。
「いいよ、ほっといて」
「いいえ、放っておきません。舞さんの心が悲鳴を上げているのはわかりますわ、それを救いたいと思うのは友達として当然でしょう?」
何も答えない。
それは、みずほを友達と認めている証明でもあった。
しかし不十分。どのようにして救うというのか、舞は求めてくるだろう。
「なあ、舞。お前は加害者だが、その前に被害者だ」
みずほの言葉を引き継いだのは、凪澤 小紅(
ja0266)。
舞は、まだ動きを止めている。
「舞はまず、償われて、救われるべきなんだ。償うのはそれからだよ。だから、学校に自分がどれだけひどい目に遭わされたか話してしまえ。もう我慢するな」
救いの第一歩。それは訴えることから。今まで受けた苦しみを理解してくれる大人を頼ること。そして大人が環境を整えてくれるよう取り計らうこと。
叶うのならば理想的な形ではあろう。
だが、キャロライン・ベルナール(
jb3415)はその言葉に大きな不安を抱いていた。
(果たして、あの担任がそう便宜を取り計らうだろうか)
目の前にいる少女、小倉舞。そして事件の被害者、野極道子。彼女らの担任である北沼という人間を、キャロラインは信用できずにいた。
野極道子傷害事件を捜査する最中で北沼を訪ねたキャロラインは、彼の教育者としてのあり方を疑わずにはいられない言葉を聞いたのだ。
かいつまんで言えば、道子らによる舞へのいじめは、ただの悪ふざけだという認識。状況を改善しようという意識は微塵もないのである。
そんな人物に、環境を整える能力があるのかは甚だ疑問。
彼が担任を離れ、生徒に愛情を以て接することができる者へと変わることを祈らずにはいられない。
「我慢なんてしてないよ。もう、我慢なんて……」
「違いますね。我慢できなくなった、でしょう? その結果、もう死にたいとそうお考えなのでしょう」
話が堂々巡りになろうとしている。沙 月子(
ja1773)は横槍を入れることで、舞の虚を突こうとした。
「良いでしょう」
にっこりとほほ笑む。
全てを肯定する笑みは、慈母のよう。
引きとめるのではない。促すのでもない。突き放す肯定だ。
「事の仔細は包み隠さず、全てお母様にお伝えしますから、後の事は気になさらないで。子の罪は親が背負うもの、でも本人がいないなら償うのは親ですものね」
月子は、以前舞の心を読んだことがある。舞がいじめを受けた時の情景を体感として知っている。
だからボロを出してしまった。普通知り得ないことを知っているから、口にしてしまったのだ。
「……ご両親、とは言わないんだね」
切り返され、思わず月子は口を抑えた。
この時点で、母に限定する必要はどこにもない。通常ならば「母に伝える」ではなく「両親に伝える」と言うところだ。
何とか取りつくろうにも手遅れ。思い当たる節があるからこそ、月子は誤魔化すことができなかった。
「やっぱり、私の心を読んだんだ……。私のこと、疑って……」
それは違う、と言い返したい。
だが、言葉が出てこない。
たった一つの言葉選びが、望む結果を打ち砕いてしまった。
「でもそうだよね、後のことなんて、気にすることないよね」
虚を突き、気付かせ、そして母のために生きるべきであることを意識させる。この算段は失敗だ。
どんな事情があるかは分からない。が、舞の中に、父親の存在はなかった。あるいは、母親の存在があまりにも大き過ぎたのかもしれない。
それを感じ取っていたからこその、失敗だった。
今、月子がどんな言葉を紡いだとしても、舞に響くことはないだろう。
このままでは、舞が身を投げてしまう。
その時だった。
すっと一歩、霧原 沙希(
ja3448)が進み出る。
身に纏う制服を脱ぎながら。
上着だけでない。ネクタイも、シャツも。スカートや、体に巻いた包帯すらも。
慌ててルナやルーイが目を背け、みずほや小紅がその間に入って壁となった。
「何をなさるのですか、こんな時にはしたないですわよ!」
思わずみずほが叫ぶが、沙希は返事一つしない。
下着だけの姿となった沙希。その身に刻まれていたのは、おびただしい量の、黒ずんだ傷跡。
目にした舞は、ギョッとした。
「……これは、撃退士の仕事で、受けた傷では……ないわ」
傷はいずれも塞がっているものの、当時の痛々しさを生々しく残す沙希の体。
凍てつくような海風が彼女の体温を奪ってゆく。正気の沙汰とは思えぬ行動だが、もちろんそれには理由がある。
「……この傷は全て、私の両親から、付けられた傷なの」
彼女が語りだしたものは、虐待の記憶だ。
理由は全くの不当。彼女の両親は、その容姿を気に入らなかった。たったそれだけのことで、沙希に生涯消えぬ傷を随所に刻んだ。
辛く悲しく苦しい記憶。誰にも告げず、胸の内に秘めておきたい記憶。
しかし、沙希はそれを晒した。
「……これは貴女と同じ。小倉さん、私は貴女を、昔の私と重ねていたの」
「どうして、そんな……」
舞は目を逸らした。
沙希が見た舞の姿は、過去の己と同じ。
恐らくそれは、舞にとっても同じであっただろう。
体に刻まれた無数の傷。それはそのまま、舞の心に刻まれた傷と同質のものだと悟ったのだろう。
だから、目を背けたくなった、
目の前にいるのは、まるで自分自身。向きあいたくない己だから。
「……誰かに助けてもらえば、何とか出来たのかもしれない。昔の私には叶わなかった、希望の形として」
「やめて」
「……でも、本当は。そんなのは、只の建前。今、はっきりと分かったわ」
「お願い、もうやめて」
一歩、一歩。
沙希は足を運ぶ。
その度に、舞は彼女を恐れた。
迫ってくる心の闇。
優しく、宥めるような、慰みが。
震えるほど恐ろしかった。
「……私はね。小倉さん」
「聞きたくない、やめて、やめて!」
遂に、舞はショートソードを構えた。
攻撃的行動。
キャロラインの目には、それが自衛に見えた。
今、舞は死を選ぼうとしている。全てから目を逸らそうとしている。
誰も自分を必要としていないと、思い込もうとしている。
それは違うと訴えようとも、受け入れまいとする。
だから、身を呈して舞を救おうとする沙希にも、必死の抵抗をするのだ。
「舞、君は今まで私達の何を見てきた……?」
沙希が言葉を続けるより早く、キャロラインが問いかけた。
まだだ。まだ、沙希の言葉を聞かせるには早い。もう少しだけ、舞の気持ちに受け皿を作ってやらねばならない。
そうすればきっと……。
「目を閉じろ。そして、思い浮かべてみるんだ」
すっと、沙希に上着を羽織らせてやりながらキャロラインは言葉を投げかける。
躊躇する舞。だが、剣を降ろして、静かに目を伏した。
「君が辛い目にあった時、自分の事のように心を痛め、真っ先に駆けつけて君を抱きしめていたのは誰だ」
「……小紅、さん」
小さく、舞は呟く。
そうだ、いじめられていたことがハッキリした時、一番に駆けつけてくれたのは、凪澤 小紅だった。
表情はちょっと少ないけど、ヒヨコが大好きで、いつだって飛んできてくれた。
手を取って、涙を流してくれた。
「困難に立ち向かう事の大切さを背中で示し、君が安らげるように心のこもった紅茶を用意してくれていたのは誰だ」
「みずほ……さん」
不安な時、寂しい時、悲しい時、苦しい時。温かい紅茶を淹れてくれた長谷川アレクサンドラみずほ。
ボクシングに励む彼女は、その試合の観戦に招待してくれた。確かあの時、彼女は怪我をしていた。それでも懸命に、自分より強い相手に立ち向かっていった。
立ち向かうことの勇気を、背中で教えてくれた。
「常に君を守る側になるという強い決意を持ち、どんな理由があろうとも君の側に居続けようとしたのは誰だ」
「沙希さん……」
ちょっと怖い印象だった霧原 沙希。
でも、どんな時だって味方でいてくれた。私が望むようになればいいと、いつでも同じ立ち場に立ってくれた。
自分の姿を重ねて、苦しみを共有しようとしてくれた。
「君を追い込んだ者ともきちんと向き合い、舞にとって最良の道は何かを考え、後ろから支え続けてきたのは誰だ」
「ルーイ、さん?」
ルーイは、いつもふらっと現れた。何が起こっているのかなんてまるで知らない顔で、一輪のゼラニウムを届けてくれた。
「体を壊した君の事が心配で放っておけず、早く体調が良くなるように温かいスープを持って来たのは誰だ」
「ルナ、さん」
ルナジョーカーは、昨日初めて会った。
この人のことは、よく分からない。でもスープを用意してくれた。
どうしてそんなことをしたのか、理解することは難しい。それでも確かに、元気づけようとはしてくれた。
「敢えて他の者達とは別の立ち位置に回り、厳しい言葉で君を奮い立たせようと頑張ってくれたのは誰だ」
「……月子さん」
どんな時でも、沙 月子の言葉は厳しかった。
突き放すような言葉で、追い打ちをかけられたような気にもなった。
それでも、彼女の言葉は正論だった。陥れようとしているわけではない、戦うという道を示してくれていた。
「第三者の視点を取り入れ、感情論では気付きにくい点を調べ、大切な事に君が気付くよう動いてくれたのは誰だ」
「……誰だっけ」
「ネームレスっていうんだってよ」
そういえば、彼の名前は聞いていなかった。ルナが教えてくれて、初めて彼の名前が分かった。
ネームレスとも、昨日初めて会った。その場にいただけという印象が強かったけれども、決して何もしてくれなかったわけではない。少なくとも、ルナと一緒にスープを運んできてくれた。
「もう分かっただろう、舞。一人じゃないんだ、私も、皆もいる。こんなにたくさん、舞のことを想ってくれている人がいるんだ」
心の受け皿が形を成してゆく。
小紅の言葉に、舞は静かに瞼を開いた。
あのネームレスという男の姿はない。でも、皆の姿がそこにあった。
事件を起こし、今度こそ犯罪者となった自分のために駆けつけてくれた人たちがそこにいた。
常に冷静に、乱れた心が揺らがないよう支えてくれた人、キャロライン・ベルナールの姿も。
気がつくと、雨とは違う、温かい水滴が頬を濡らしていた。
「舞、自分の顔を見てみろ。どんな表情をしているか、分かるな?」
小紅の言葉に、涙に触れる。
体は冷え切っているのに、とても温かい。
心の奥に閉じ込めてしまった言葉を忘れていた。
真っ先に求めたいものを忘れていた。
そうだ。
こんなことにまで付き合ってくれた人たちに、もう遠慮することなど何もない。
素直に求めればいいんだと、気付いた。
「助けて……」
自分の心を確かめるように、求めるものを口にした。
この人たちなら、きっと応えてくれる。
期待してもいい。だって、ここまで来てくれたのだから。
「助けて、お願い、助けて、助けて……!」
こんなにもぬくもりをくれる人たちがいたなんて、自分の周りに、こんなにも素敵な人たちがいたなんて、どうして気付けなかったのだろう。どうして目を逸らしたりしたのだろう。
「……さっきの、続き。小倉さん、私は、とても単純に、純粋に、……貴女に幸せになってほしかったのよ。だから……、まだ、間に合うわ。私たちはまだ、ここに居る。ここにいるから!」
沙希の言葉に、舞は剣を落とした。
幸せ。
それは沙希だけでなく、皆が幸せを願ってくれている。
熱いほどの感情が、胸に溢れた。
とめどなく零れる気持ちの渦は止まることなどない。
「……ありがとう」
嬉しくて、声が掠れる。
「私、みんなのおかげで、すごく幸せ……」
応えたい。
祈られた幸福は、舞の中で確かに実った。
仲間がいる。それ以上の幸せは、どこにもなかった。
「だからね」
目元をぬぐい、もう一度全員の顔を、焼きつけるように見据える。
忘れないように、消えてしまわないように。
この人たちのおかげで、幸せになれたのだと。
そう胸に刻みつけて。
「……さよなら」
ふわり。
舞の足が地を離れた。
落ちてゆく。凍える海の中へと。
最期に、幸せになれた。
もう望むものは何もない。
一つだけあるとすれば、地獄ではなく、天国へ行くこと。
閻魔様にお願いしよう。わがままだと言われてもいいから、幸せを抱いたまま眠らせてほしいと。
●
貴女は、どうして欲しい?
大切な人たちに、迷惑がかかるからと離れていたい?
どこまでも広がっている美しい世界を、もっと見てみたいとは思わない?
笑顔でいたいとは思わない?
まだ一緒にいたい人たちがいるんじゃない?
これ以上苦しみたくはないかもしれない。
悲しいこともたくさんある。苦しいこともたくさんある。
でもその何倍も、何十倍も、幸せなことがきっとある。
ここにある。
ここにいる人たちが、幸せをくれる。
だから――。
だから心の底から思う。
幸せにしたい人たちがいる。
その人たちのために生きていたい。
生きていたい!
●
冷たい雨のクリスマスは過ぎ、年は明け、澄み渡った空と白い息の朝。
少ない荷物を鞄に詰めて、少女は船に乗り込んだ。
カモメが歌いながら飛んでいる。
甲板からは、日に照らされてキラキラ光る海が見える。
ようやく起き出した島は、まだ活気に満ちる前。
汽笛がさよならを口ずさむ。
ゆっくりと漕ぎ出すその船は、静かな島から遠ざかろうとする。
冷えた指先を吐息で暖めて、港を見下ろした。
あの場所が見える。
この島で一番幸せになれた、雨の日のあの場所が。
手を振る人の影が五つ。
それに気づいて、少女は身を乗り出して振り返した。
さよなら、大切な人たち。
さよなら、思い出たち。
きっとまた、そこに幸せが生まれますように。
●
「あーあ、行っちまったな」
船が見えなくなると、ルナは溜め息を吐くように呟いた。
あの日、海へと落ちた舞を追って、沙希と小紅が飛び込んだ。ルナもこれに続かんとしたのだが、命綱を探し、これを体にくくっているうちに出遅れ、遂に飛びこむ機会を逃してしまっていた。
波に揉まれる舞を掴み、海面へと出た沙希と小紅。彼女らを救助すべく、キャロラインとルーイが禁を破って翼を用い飛翔しようとした時、そこへ近づく一隻のボートがあった。
それこそ、客船に掛け合ってネームレスが手配していたものだった。
引き上げられた三人の少女らは体温の低下が著しく、すぐさま病院へと搬送されたというわけである。
「二度と会うこともないだろう。寂しい限りだが」
「……でも」
水平線に目を細めたキャロラインの言葉を耳に、沙希は懐から一枚の紙切れを取り出した。
そこには郵便番号つきの住所が書いてある。紙切れの隅には小倉舞の名前があった。
「……会いに行くことは、できるわ」
「な、お前いつの間に!?」
「それなら、私ももらった。入院中にな。みずほ、後で書き写してやろう」
「ありがとうございます、小紅さん」
搬送された先の病院に短期間とはいえ入院している間、沙希と小紅は舞の実家の住所を手にしていた。
どのような形であれ、舞は罪を犯した。幸いにして撃退士の絡む事件に、警察は無力。どのような処分を下すかは撃退庁あるいは久遠ヶ原学園に一任されている。そこで舞に下された処分は、依頼の受注禁止を含む無期限の停学であった。とはいえ、この処分では舞は満足に生きていくことはできないし、これ以上学園に留まることが舞にとって良きこととも思えない。だから彼女は退学し、実家へ帰ることとなったのだ。
そこで、手紙のやりとりがしたいからと小紅が提案し、連絡先を交換した。沙希もその場の流れで舞の実家の住所を手にしたわけである。
これなら手紙を送るだけでなく、実際に会いに行くことだってできよう。
小紅は、共に舞と出会い、ずっと付き合いを続けてきたみずほに。沙希はキャロラインに連絡先を共有してやった。
「あ、ずるいぞ、俺にも」
「いけません。ルナさんはお預けですわ」
「何でだよ、ケチ!」
ついでにと連絡先を覗きこもうとしたルナだが、みずほはこれを拒んだ。
彼女らの周りをぐるぐると回って何とかして連絡先を知ろうとするルナだが、ついに住所を知ることは出来なかった。
「舞が言っていただろう、友達じゃないと」
「あ、あれはそう、きっと混乱してたんだ!」
「あら、わたくしのことは友達だと認めてくださっていたようですわよ?」
「ぐ、ぐぬぬ……」
口で女性には敵わないことを痛感するルナ。
キャロライン、みずほに言いくるめられ、ぐぅの音しか出ない彼であった。
「それだけではない。なぁ、沙希?」
「な、何で私に……?」
表情に変化はないが、胸中ニタニタした様子で小紅は沙希に視線を送る。
その意図を理解出来ず、沙希は少し目を丸くした。
「決まっているだろう。妹に悪い虫を近づけるわけにはいかないものな」
「どうして、そうなるの……。小倉さんは、妹では……」
「少なくとも病院では、舞は沙希のことを姉のように慕っていたぞ? そして沙希も、まんざらでもなかったようだが」
「う……」
図星を突かれた沙希は、分かりにくいながらもほんの少し紅の差した頬で視線を逸らした。
ベッドから体を起こせる程度にまで回復した舞と、同じ病室で一日中お喋りして過ごしてみると、彼女は非常に人懐こく、あの傷を見て尚沙希を恐れることなく色んな話をしてくれた。
己の行動を悔いる様子も時折見せたが、小紅が気にするなと一言口にして、それで納得したようだった。
もしかしたら、彼女はその時点で学園を去る決意を固めていたのかもしれない。だからこそ、別れてしまう前に色々な話をしておきたかったのだろう。
しかし身の上話はほとんどなかった。季節の話、学校の話、舞の故郷の話。
第三者が見ていれば、舞が特別沙希とばかり話していたわけではなく、その場に小紅も交えて平等に接していたことが分かるだろう。
ただ、懐かれることに不慣れな沙希の姿がなんだか初々しく見えたのかもしれない。それを指して、小紅は姉のように、と言ったのだ。
「うふふ、小紅さんも、ヒヨコのお姉さん、と呼ばれていたではありませんか」
「確かにな。すると、私にとっても、舞は妹のようなもの、か」
クスリと笑んだみずほの指摘に、小紅は頷く。
そうであってほしい。思えば、これまで舞と接する時、まるで妹を相手にしているかのような心持ちだったのかもしれない。姉のように慕ってくれていたのならば、こんなに喜ばしいこともなかろう。
●
港の見えるビルの屋上で、ネームレスは静かにタバコを吹かしていた。
汽笛が遠く聞こえる。あの少女が旅立つ頃だ。
たった二日間の出来ごとだったが、妙なことに巻き込まれたものだ。――いや、首を突っ込んだと言うべきか。
不登校少女が現れたと思ったら、それが殺すだの殺さないだの死ぬだの死なないだの……。
くだらないといえばそれまでかもしれない。だが、どうして関わってしまったのかと考えると、不思議だ。まるで自分らしくないというのに。
落ち着こう。
時には、妙な行動をとってしまうこともある。
気まぐれに見かけた少女に関わり、気の向くまま付き合い、気がつけばこんなところに立っていた。
直接見送って手を振るようなガラじゃない。こうして遠くから見送るだけでも、随分と人が変わってしまったかのようだ。
それも、今日までとしよう。明日になれば、またいつもの、名もなき撃退士へと戻るはずだ。
「意外だね、君もかい?」
「……あんたか」
直接港へ行かずに見送るなら、この場所が適している。ネームレスと同じことを考えたルーイは、ほんのちょっと出遅れるように顔を見せた。
「会ってやらなくていいのかよ」
「笑顔ならともかく、万が一にも涙をこぼしてしまったら美しい別れにはならないからね。それに、彼女らならきっと上手く送り出してくれるさ」
ルーイの返答に煙を吐いて、ネームレスはフェンスへともたれる。
船は少しずつ離れて行く。
港には、手を振る人影が見えた。
「結局逃げた、ということでしょうか」
そこに現れたのは月子。彼女もまた、顔を見せぬ見送りだろう。
逃げた、というのは、自分の犯した罪からということ。道子に危害を加えた罪に目を逸らし、故郷へと逃げるのではないか。月子の目にはそんな風に見えていた。
「確かに、舞くんと道子くんの関係がどうなったか、どんな形で罪を償うのか、ということは聞いていないね」
「ということは、うやむやになって終わり、ですか」
ルーイの言葉を受けて呟いた月子の結論は推測に過ぎない。が、あり得ない話でもなさそうだ。
しっかりと償うのであればなおさら、舞は学園に残るべきである。それが学校をやめて里帰りするのだから、罪を償うということは恐らくあるまい。
「つっても、罰はしっかり受けることになるだろうさ」
「どういうことですか?」
「学費だよ」
タバコを踏み消すネームレスを見ながら、月子は納得の声を漏らした。
久遠ヶ原学園の学費は、無事卒業して撃退庁関連の仕事に就かない限りは全額返却せねばならない。舞の家がどれだけ貧乏なのか、ネームレスが知っているということもないだろう。だが、それはかなり大きな負担になるはずだ。
日本中のアウルを持つ子どもたちを集めて教育するこの久遠ヶ原学園。基本的には学費が無料なのだから、どこから出た資金で運営しているのかと考えた時、税金だけで賄えるわけもない。返済しなくてはならない学費はかなりの高額であるに違いなかった。
「罪からは逃れられない、ということですね」
「……何とかしてあげたいけども、こればかりはね」
月子とルーイは嘆息。
必ずしも、笑顔で島を離れたに違いない舞を待っている未来が明るいとは限らない。
「これは償いになるのかしら」
「ならねぇな。ムショにぶち込まれて牢の中じっとしている時間が罰、獄中労働してる時間が償いだ。あの小娘は、今回の件のために学費の返却っつー罰は受けるが、それとは別の償いがあるわけじゃねぇ」
要するに。
「舞くんに、救いはないんだね」
ルーイが言葉を漏らすと、三人とも押し黙った。
港にまで見送りに行った面々は、舞の明るい未来を信じて――いや願って止まないだろう。
だが、救いなき未来の予想図が濃厚なら、きっと笑顔で送り出すことはできない。
せめて、できることがあるとすれば。
「景気づけだけでもしてやるか」
ヒヒイロカネからドラグニールを取り出したネームレスは、その銃口を頭上の上空へと向けた。
これは祝砲だ。
ほんの僅かでもいい。
舞に幸福が訪れるように、未来が明るくなるように。
誰かのことを思ってトリガーを引くことは、もしかしたらこれっきりかもしれない。
あの船へ届けと願いを込められた火薬の音がこだました。