●
真紅に光るゲートを前に、天使オーガストは宙に佇んでいた。
オーガストは銀色の翼をはためかせる。その様は美術品のように、ぞっとするほど美しい。
けれども、
「折角の素敵なレディが……台無しだね」
ルティス・バルト(
jb7567)は、そこに美はないと断じた。
「…………」
セレス・ダリエ(
ja0189)は隣に立つ友人の手を握りしめる。
――君武のあの真剣な瞳が脳裏に焼き付いている。本当に大切なものを取り返したいと願う目。もし、自分がその立場になったとしたら?
「――行きましょう」
その手を握り返して、ケイ・リヒャルト(
ja0004)はセレスと目配せを交わした。
愚問だ。唯一無二の絆を引き裂かれる痛みなど、想像するに余りある。
「頼まれているからな。仕方がない」
やれやれ、と緋打石(
jb5225)は肩を鳴らす。
「……毎回、面倒なことになるな」
谷崎結唯(
jb5786)は銃を構えながら、小さく溜息を吐く。
「まったく、オチがこれではいよいよもって三文小説だ」
もっと色々読ませねばなるまい、と緋打石は口の端を歪めた。
「排除します」
機械的に言うと、オーガストは真紅のゲート内へ下がる。撃退士達がそれを追いかけると、猛烈な圧迫感が全身を支配した。
――ゲートによる敵対者への能力制限。どうやら一切の手加減はないらしい。
こうしている間にも、このゲートは周囲からエネルギーを絞り取っている。さながら圧搾機で、もしもの場合に想定される被害規模など考えるまでもない。
時間との勝負が始まった。
●
ゲートを抜けると、そこは一面の砂漠であった。
灼けるような日差しに、吹き付ける風は砂を巻き上げて視界を遮る。瞬く間に武装が熱を持って、水分や体力を奪っていくのだ。
宙に佇むオーガストの傍に、二体の獣人が現れる。猫と狐。どちらもエジプト風の衣装を着込んでおり、どうやらこのゲートのイメージはその辺りらしい。
『無貌、気取り、か』
不意に光信機越しから仄(
jb4785)のそんな呟きが聞こえてくる。どうやら何か思い当たる節があるらしい。
「だとしても、いつもに増して中途半端じゃがな」
緋打石がそう返す。猫はともかく、狐は『いつもの怪奇小説』との関係性が見いだせないし、そもそもぴんと来ない。恐らく元ネタがマニアックな部類なのだろう。
もっとそれを考察している場合ではないし、重要なのはそこではない。
「それで、『蜘蛛の糸』は読んだのかー?」
からかうように緋打石が言うが、オーガストは意にも介さず右腕を上げる。合わせて猫が楽器を、狐が盾を――それが武器なのだろう――を振り上げる。
「……こうなりゃ少年漫画的に殴り合って解決じゃな」
「さて、そろそろ始めようじゃないか、レディ達」
どこか場違いな声色と共に、ぱんぱん、とルティスが手を打ち鳴らした。ナンバーワンホストらしい、優雅な仕草だった。
無論、出てくるのは酒類などではない。
セレスが風の渦を解き放ち。
それに合わせようとする狐の腕を、ケイが撃ち抜き。
そして、ルティスの召喚した無数の彗星が、天使達の頭上に降り注いだ。
どぉん、という派手な音と共に、砂埃がもうもうと舞い上がる。
ここで『やったか!?』などと口走る者は誰もいない。今はとにかく先へ進むことが肝要なのだ。
初手から派手な範囲技をぶっ放したことには、勿論相応の理由がある。
個人差があるにせよ、ゲート内部というものは基本的に侵入者を拒む構造になっている。この場合は砂漠の迷路だ。
うずたかく積まれた砂が壁となり道を塞いでいる。さらさらと流れる砂は掴まることを許さず、また猛烈な熱を持っている。
そこで『コメット』と『マジックスクリュー』だ。
いちいち迷路に付き合っている時間などない。そして壁を登れないなら壊してしまえばいい。いくら砂が流体じみていても、風圧にはそう逆らえない。
その目論みはある程度成功したと言っていい。撃退士達は更地に戻った砂漠を駆け抜けていく。
●
不意に開けた場所に出る。
瞬間、魔力の刃がセレスの首元めがけて飛んできた。
「セレス!」
「――――」
だん。ケイの愛銃がそれを撃ち抜き、セレスは間一髪で身体を捻る。結果として、刃はセレスの左肩を軽く抉っただけに終わった。
――オーガスト及び二体のサーバントは背後から追ってきている。
ということは。
「おっと、新手のナイトのようだね」
セレスの傷を癒しながら、ルティスは攻撃のあった方向を見る。すると、迷路の向こう側に消える影があった。
「ライオン……?」
「の、ようだな。遊撃手といったところか」
結唯の呟きを緋打石が肯定する。飛行している二人からは、またエジプト風な装束を身に纏った獅子獣人が影に潜むのが見えた。
「影からの狙撃……厄介ね。アレを優先的に倒しましょう」
「……分かりました」
頷いて、セレスは雷を右手に宿す。そのすぐ後ろにケイが追従し、影に潜んだ獅子を追いかける。
「それじゃ、こっちは狐狩りと行くかの」
「イエス、マム」
言うが早いか、緋打石は空高く舞い上がる。そして狐めがけて拳を振り下ろしにいった。合わせるように、ルティスの魔道書と結唯のPDWが火を噴く。
後ろから追い上げてくるオーガスト一行のうち、まず最初に倒すべきはそこだと判断した。いや、『倒さざるを得ない』と言うべきか。
初手で与えたダメージを鑑みる限り、庇いスキルに加えて治癒スキルを持っている。盾役兼回復役というのは中々にリスキーな布陣だが、いずれにせよ潰さなければ猫とオーガストには攻撃を届かせられない。
「排除します」
オーガストはただ冷たくそう繰り返すだけだった。
●
一方、後方にて。
「あの、ところで逃げませんから。これ、ほどいてくれません?」
「ダメ、だ」
君武の懇願を仄は一蹴する。ただでさえ拘束具で自由の利かない君武を、さらにロープで縛っているのだ。完全に犬の散歩である。
もっとも『敵対勢力のシュトラッサー』なのだから当然の措置であり、こうして戦場に連れてくるだけでも異例――もっと言えば異常事態だ。何かあれば監督者の手落ちという処分になる。
「いえちゃんと理屈は分かってます、分かってますよ。でもね、なんというかこう、この絵面は完全に犯罪です」
「我々、の、業界、では、ご褒美、という、のだろ、う?」
「やめてくださいよ。ていうかこんな格好、下手すればお嬢様の好感度が下がるんですけど!?」
「――仄、だ。状況、は、どう、だ?」
「マイペースゥ!」
君武の嘆きを完全にスルーして、仄は逐次光信機で連絡を取る。双眼鏡で状況を観察しながら――日差しはあるのに太陽らしきものが存在しない――仄は機が熟すのを待っていた。
奇しくもあの霊園での状況と酷似している。そういえばあの時も、仄はこの執事を守る立ち回りをしていたのだ。
奇妙な縁もあったものだなと仄は思った。
まあ、だからどうということもない。
依頼だから、やる。それだけのことだった。
光信機から通信が入った。
「ファイ、ア」
仄は、小さくそう告げた。
●
オーガストの攻撃は、魔法を主体とした爆撃型であるようだった。広範囲を巻き込む技が主体なのは血筋というものなのだろう。あるいは洗脳を施した本人の趣味によるものか。
ともあれ、どかんどかんと砂塵が巻き上がる様は、ある種壮観ではあった。
「そうだねえ、状況は五分五分ってところかな?」
ルティスは攻撃を紙一重で回避しながら、光信機にそう返答した。あくまで余裕を含ませて、内心では回復量とダメージの比率を計算しながら。
「チッ、面倒くせえ!」
射線を合わせる。いかに狐が庇いスキルを持っていようとも限度というものがある。オーガストを含めて三体、まとめて捉えられる位置から、緋打石は雷を奔らせた。
僅かな手応え。
悠々と楽器を片手に踊る猫が、相手の能力を底上げするスキル持ちだと把握するのに時間はかからなかった。狐相手にまごついている隙に、補助魔法で地盤を固めきる。なるほど、嫌な布陣だった。
ぱきゅん。砂山に身を隠した結唯が闇の弾丸を放ち、それは確かに狐の身体を蝕んでいく。
それでも効いていないわけではない。確実にダメージは蓄積されている。
しかしそれは冥界側に傾けたカオスレート補正故に、という一面もあった。
それは被弾しやすく、またダメージが増えるということでもある。
オーガストが腕を振ると、光の槍が緋打石の心臓めがけて飛んできた。天界の力が冥界の力へ、磁石のように吸い寄せられていく。
「喰らうかッ!」
ここが使い時だと判断し、緋打石は模擬戦用の盾でそれを受け止めた。『空蝉』、いわゆる身代わりの術。
三歩ほどバックステップして、緋打石は状況をリセットした。
雷が唸る。水の刃が飛び交う。
セレスと獅子との戦いは、撃ち合いの様相を呈していた。
「……私とほぼ同じ動き。変」
そしてお互いに当てきれなかった攻撃が砂の壁を打ち崩す。どうやら一定の耐久度があるらしく、迷路は所々ただの砂山と化していた。
「砂漠で水使いなんて、いい趣味してるわね」
不意打ち気味にケイの弾丸が獅子を貫く。獅子はセレスと拮抗している以上、ケイに回す手数が足りない。そして遊撃タイプである以上、耐久力もそこそこ程度なのだろう。
何をするにせよ、遊撃の遠距離攻撃は厄介だ。潰せるなら早々に潰すに越したことはない。ケイは鞭に持ち替えると、軽くしならせて獅子の腕を絡め取った。
――それにしても、暑い。
灼熱の太陽。照り返す砂。吹き荒ぶ乾いた風。
『砂漠は暑い』という概念をそのまま持ってきたかのような、そんな環境だった。
撃退士の身体能力をしてもなお蝕まれるその気候が、このゲートの最大の障害と言っていいだろう。
常時降りかかる温度障害。ゲートによる能力の制約。二重の拘束が、いつも通りの十全な性能を引き出すことを許さない。
故に、対応が遅れた。
一瞬のことだった。
「――セクメト」
不意にオーガストがそんなことを呟いた。誰かがその意味に気づくよりも早く、異変は発生した。
ただ楽器を打ち鳴らして補助魔法をかけていただけの猫が、瞬く間に漆黒の姿へ変貌する。
そうして、黒猫はその爪を振るった。激しい衝撃波が周囲に発生し、あらゆるものを引き裂いていく。
セクメト。エジプト神話における殺戮の神――バステトと同一視されることもあるという。
強いて言うならケイとセレスが対応している『テフヌト』も同一視の対象ではあるので、その辺り詰めが甘いのだが――そんなことはどうでもいい。
果たして、セクメトの猛攻は辺り一面を薙ぎ払った。
砂の迷路も纏めて破壊してしまい、コア障壁が見えてしまっている。だが、邪魔者は薙ぎ払ったのだから構わないだろう、とでも言わんばかりの凄惨な笑みを浮かべた。
オーガストはそれを咎めるでもなく、能面のような無表情で「状況終了」と独りごちて、
確かに、ぎょっと表情を強ばらせた。
コア、そしてその前に立つセクメトを飲み込むように影が伸びていた。――全く意識していなかった西方から。
想像を絶するエネルギーが充填されたアウルの光が、コアに向かって一直線に飛んできていた。――東方から。
「壊れろ」
アルドラ=ヴァルキリー(
jb7894)は指を鳴らす。影から伸びた無数の刃が、黒猫ごとコアを切り刻む。
「祈れ」
測定外があるとすれば、のこのこ敵が踏み込んだこと。ファーフナー(
jb7826)の放った光波は、黒猫ごとコアを焼き尽くした。
天使オーガストは、悲鳴を上げた。
●
何のことはない。ファーフナーもアルドラも、『既にゲート内にいた』のだ。
ゲートに踏み込んだのは全員とほぼ同時。
ファーフナーは光を歪めて――蜃気楼、実に砂漠とは相性がいい――、アルドラは闇に紛れて――強すぎる日差しは影も強い――、その場をやり過ごした。
そうして相手が『五人の部隊』を相手取っている間に、各々横から迂回してコアを先んじて狙ったのである。
これは時間との勝負。
ならば、時限式の敗北条件は早々に潰すに限る。まともに正面突破していたのでは、とても時間が足りないのだから。
あと数分――ややもすると数秒もすれば周囲の人間を吸い尽くしていたはずのゲートコアは、こうしてあっけなく破壊されたのである。
それにしても、呆気ないほど簡単に引っかかってくれた。機械的な反応だとは思っていたが、まさか本当に機械的な判断――探知できない相手は無視――しか下せないとは、果たして『洗脳』としてどうなのだろう?
「あ、あが、ああうあ――――」
オーガストは墜落すると、胸元を押さえてのたうち回る。
コアへのダメージは主へと返る。いくら障壁で減衰したとしても、強烈な攻撃を一瞬で二発も叩き込まれたのだ。悶絶しない方がおかしい。
「……痛ゥ……。とんでもねえ隠し球控えてやがったな……」
「…………」
地面が砂で助かった、と緋打石は嘆息する。恐らくは結唯も同じ感想なのだろう。
セクメトの斬撃は空中にまで及んでいた。空中にいたからこそクリーンヒットは避けられたのだが、それでも撃ち落とされてしまった。別形態で補助を積み込んだ上で、不意打ち気味に不条理な物理攻撃。実にえげつないサーバントである。
「いやあ、実に刺激的なレディだね……」
ルティスはおもむろに立ち上がると、しかし余裕のある口調でうんうんと頷いた。傷は痛むが、しかしそれよりも大事なことがある。まずルティスは緋打石と結唯に治癒を施した。
「む、すまんの……」
「いえいえ、レディの美しい身体に傷が残ってはいけませんから」
治癒の残りはあと二回。ケイとセレスはどこにいる、とルティスは周囲を見回した。
程なくして、近くの砂山が盛り上がった。そしてケイとセレスが顔を出す。傷だらけの二人は、しかし確かな足取りで立ち上がった。
「大丈夫かい、レディ達?」
ルティスは惜しみなく残りの治癒魔法を二人に投げる。その姿にケイは苦笑した。
「それはこちらの台詞かしらね。もう少し自分を大事にしたらどう?」
「お気になさらず。傷ついたレディほど俺の心を苛む存在はないんだよ」
そこでふと、ケイの手に鞭が握られていることに気づいた。それは足下の砂山に繋がっており、そこには、
「……こちらは撃破しました」
セレスがぽつりと呟く。そこには、二人が対峙していたテフヌトの遺体が転がっていた。
あの一瞬。
ケイは反射的に鞭で相手を引っ張り寄せ、攻撃からの盾にしようとした。――自分ではなく、セレスに向かう攻撃を防ぐために。
セレスも反射的に動いた。テフヌトは引き寄せに対抗しようとした。それが隙になり、テフヌトの腹部に電撃がクリーンヒットした。
その後の事は記憶にない。
ただ、獅子の遺体がズタズタに引き裂かれている以上、いくらかは盾に出来たということでいいのだろう。
さて。
「いたい、いたい、いたい……」
蹲るオーガストに、狐がいつの間にか近づこうとしていた。回復魔法を用意しているのは明らかで、
「失せろ。これ以上はやらせん」
アルドラの召喚した無数の刃が、それを飲み込んだ。
ほぼ瀕死の狐は、しかし健気にも自分の役割を全うしようと立ち上がり、
「駄目だ」
駄目押しとばかりに、上空から降ってきたファーフナーの槍に、喉元を突き破られた。
こうして、三体のサーバントも駆逐されたのである。
●
子供の頃、こっそりと人間界から本を持ってくるのが好きだった。
私は天界しか知らなかったから、人間界の本には知らないことが沢山書かれていた。
とても汚くて、おぞましくて、低俗な世界。
それがどうしても、私には手に入らない、素敵なもののように見えてしょうがなかった。
あれらの本はとっくに燃やされてしまったけれど、いつまでも記憶に残っている。
多分私は、ずっと人間に憧れていた。
だから、あの時。
彼が話しかけてきてくれた時、私は多分――
「うぐ、あぅ、アアア―――」
痛い、痛い、痛い。
何が痛いのかも分からないくらいに痛い。
何をしているのかも分からないくらいに痛い。
何をされているのかも分からないくらいに痛い。
痛い、痛い、痛いよ。
お願い 誰か 助けて
「ようやく言ったな、この戯け!」
すごく嫌いなやつがいた。
「……お嬢様!」
彼がいた。
●
ゲートを破壊し、サーバントを討伐したものの、オーガストの説得が難航した。
コアからフィードバックされたダメージによって洗脳に揺らぎが生じたものの、暴走状態に陥ってしまったのである。
脈絡のない言動と攻撃。悶え苦しむ姿はあまりにも痛々しかった。
「お前はそんなになってまで父親を信じるのか? 子供を愛さない親は親じゃない。ただのクソ野郎だ!」
緋打石は叫ぶ。
「まったく、許しがたいね……」
ルティスは眉を顰めながら、オーガストのアウルを自浄出来るように持っていく。『洗脳』にも効果があると信じる。少女が悶え苦しむ姿など、一秒足りとて見ていたくはない。
「お前は自分を利用する奴の傍にいたいのか? それとも本気で心配してくれる奴の傍にいたいのか? 考えたことはあるのか!? というか散々噂されている通り、天界はブラックだ!」
「君の望みは何だ? 間違ってもこんなことではないだろう? 誰にも縛られん、素の君が、君の願いが私達は知りたいんだ!」
緋打石の必死の説得に合わせて、ダメージの薄いアルドラが前に出る。
同じく万全の状態であるファーフナーも前に出る。そして、オーガストを見て何かを思い出していた。
親の期待に応えるためだけに自分を殺してきた彼女。人の社会に溶け込むために己を殺してきた自分。
誰も、全ての望みを手に入れることなど出来はしない。何かを捨てて選び取っていくしかない。
ならば、後悔のない選択を。
ファーフナーから送ることの出来る言葉は、それだけだった。
「苦しいことは自分たちが引き受ける! だから、こっちに来い!」
「我々の場所は、自分を抑えなくていい。そういう生き方もあるんだ!」
二人の悪魔の呼びかけに、しかしオーガストは悶え苦しむ。
「すまん、遅れ、た」
そこに君武を担ぎ上げながら、仄がとことことやってきた。
流石に拘束具付きの成人男性を引っ張ってくるのは大変だったので、嫌がる君武の意向を綺麗にスルーした結果である。
百五十センチ弱の少女にロープで繋がれた上、軽々担ぎ上げられてさめざめと泣く成人男性。もの凄い絵面であった。
「うう、もうお婿にいけない……じゃ、なくて。お嬢様!」
「出番、だ。執事」
君武を降ろすと、仄はロープをほどいた。拘束具は残っているが、それでも君武はしっかりした足取りでオーガストへと向かっていく。
オーガストが君武を見た。
「たす けて」
不意に、オーガストがそんなことを呟いた。
「お嬢様……!」
そして身体がぐらりと揺れて、真っ逆さまに墜落した。
受け止めようと君武が走り出す。しかし両腕が塞がっている状態ではどだいそんなことが出来るわけもなく、
「ぐべ」
転んだ上に、背中に主人の頭をしこたま打ち付けるという醜態を晒したのであった。
●
ゲートの外から救急車のサイレンの音が鳴り響く。
あらかじめセレスが呼んでおいた救急隊員が駆けつけたのだろう。犠牲者については祈るしかない。恐らくはこの結果次第で、オーガストの処遇が決まるからだ。
なんとも締まらない絵面にはなったが、しかしオーガストは正気を取り戻したようだった。
伸びている君武の隣で、オーガストは精根尽き果てた様子で座り込んでいた。
「全く、手間をかけさせる」
ぶっきらぼうな結唯の言葉にぎくりと肩を振るわせる。しかし結唯の傷を見て
「……ごめんなさい」
などと。なんともしおらしく素直なことを言うのであった。
「今までよく頑張ったね。理想の自分を演じ続けるなんて、なかなか出来ることじゃないんだよ」
ルティスはそう微笑みかける。
「そんなこと……」
「なあに、レディ達とのダンス、なかなか楽しかったよ。これも何かの縁さ。是非レディの本当の『魅力』を見たいものだね」
目を逸らすオーガストの隣に、ケイがしゃがみこんだ。
「もう、無理しなくていいのよ? 貴女は貴女のままでいいの。そのままで」
柔らかく言う。そして小さくハミングした。
「……その曲」
「執事さんから教えてもらったの。思い出の曲なんでしょう?」
まあ、原典はもっとおどろおどろしい曲ではあるのだが。それでも優しい、耳に染みいるような、暖かなハミングだった。
「ああ、そうじゃ。ほれ」
そろそろ移動及び搬送、という段になって、緋打石が思い出したようにそんなことを言った。そして一冊の文庫本をオーガストの目の前に突きつける。
「え?」
「お前さんのゲームは些か内容が偏りすぎておったからの。もうちょっと教養を深めるといい。何、たまたま持ってた分じゃ。どうせしばらくは処遇だなんだで暇になるだろうから、それでも読んでおくといい」
ホラー系ミステリの金字塔とも呼ばれるシリーズ、その一冊目だった。たまたま持っていたにしてはやけに新品のような気がするが、緋打石がそう言うのならそうなのだろう。
オーガストは最後までその本をじっと見つめていた。
そして、天使オーガスト及びそのシュトラッサーである君武は、学園に確保された。
その処遇については、撃退士達の関与できるところにない。
●
その後の話。
学園の高等部に、新しい生徒が編入されることとなった。
なんでも堕天使で、それも大層な美人ということだ。まあ天魔の同級生もそろそろ珍しくはなくなってきたかもしれないが、やはり『転入生』という単語はスクールライフにおいて浮き足立つものである。
教師に連れられてきた女生徒は、美しい銀髪を持っていた。長くウェーブしたそれを後ろで一つに括っている。
着ているのはカジュアルなガールズファッションだ。しかし恐らく雑誌の情報を鵜呑みにしたのか、まだ服に着られている感じが漂っている。後は視力でも悪いのか、眼鏡をかけている。
教師に促されて、少女はおっかなびっくり挨拶を始めた。
「え、えっと。江戸川葉月といいます。よろしくお願いします」
――ああ、そうか。例の神話を日本に持ち込んだのは。
緋打石と仄は、そんな理由を推測して納得した。
ともあれ、これにて一人の天使の話はお終いである。
めでたし、めでたし。