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雨が降っている。
人では最早どうしようもない、悔恨と憎悪の雨。嫉妬の雨粒が地に落ち、狂信として弾けてゆく。
(雨か……)
奴らは自分の復讐に世持と八咫烏の名を利用した。牙撃鉄鳴(
jb5667)は、それを許すわけにはいかなかった。
だがそうだとしても、墓石も偽物も、『世持森羅たち』の憎しみは肯定しよう
世界は綺麗事だけでは成り立っていない。
一度抱いた憎しみは洗い流せない。例え女神の流した涙でも、身にこびりついた憎悪は雪ぎ落とす事など、できはしないのだ。
あいつらも、須藤も。そして牙撃も……
「あぁそうか……貴様が……なら、生かしてはおけないな…」
ヤナギ・エリューナク(
ja0006)は、音もなく鎖鎌を構える。鋭く研ぎ澄ませた刃は氷、裏打ちされたのは燃え盛る熱。地獄の業火すら超越する、永遠の炎。
「……墓石。お前ェは何を見て来た。何を感じて来た。俺はお前ェを止める。それは……きっと鼎の願いでも在るからな」
炎は希望を灯し、照らす。雨に打たれても消えない炎は絶対である。
煙草の煙に揺らめきながら、彼は疾風となる。
素良は無痛症の上、聴覚異常発達。なら、それを利用させて貰う。
簡単だ。
まずは聴覚を壊す。大きな音で隙を作るのも構わないが、その手は『二度目』が通用しなくなる。
(……鼓膜をヤる、か)
消去法で弾き出された答えは残酷なものであったが、最も確実なものでもあった。
(よくわからないのよね)
神埼 晶(
ja8085)は、引き金を引く前に、今一度よく考える。
(『夜明けの八咫烏』がなくなって、それがなんで『須藤を殺す』って思考に繋がるのかがさ……世持武政の仇を討ちたい、というなら久遠ヶ原学園をターゲットにするのが筋じゃないの?)
それとも、おめおめと生きている須藤が許せないか。
可能性があるとすれば、恐らくは後者。――何にせよ、ここで須藤を殺されると、神埼が十に合わせる顔がなくならから、困る。
銃弾を一発。素良と須藤の間に撃ち込む。
「ちょっと待った」
意識を向けた隙に会話で時間を稼いで状況と思考を整理したい。
「須藤は確かにむかつく奴かもしれないけど、私、須藤を護衛する任務中なのよね。須藤が狙いってんなら、黙ってるわけにはいかないなぁ」
「ならばお前も殺す。それで問題はない筈だ」
極めて単純明快な解である。だが素良のその解は、神埼にとっては問題外だ。
「素良、あんたがいなくなったら、霧雨さんはきっとものすごく困るわよ。日常生活に支障をきたすと思うわよ。それを天秤にかけて、それでも私達とやろうっての?」
「勝てば」
その響きには、確かな覚悟が滲み出ていた。
その響きには、確かな生への執念があった。
恐らく素良は、これ以上のイレギュラーが存在しない事を確信した上でここに来た。
「勝てばいいだけの話」
確信した。
(止まらない、か)
素良の行動の全ては、霧雨鼎の為という理由に帰結する。帰結は妄信となり、妄信は暴走を引き起こす。そうなれば最早信仰の対象の心行きなど、瑣末にも感じられなくなる。
暴走は止まらない。
暴走は止められない。
止めるとすれば。
彼女の弾丸が、一直線に空間を切り裂く。そこに迷いなど一切存在しない。
そして迷いが一切存在しないのは、素良とて同じ。
太刀筋を避ける。
(こんな事もあろうかと、あの時、なるべく素良の太刀筋をみておこうと手合せをしておいた甲斐があったわね)
あの時、とは即ち世持森羅との最初の接触の折、素良と行った手合わせの事である。
頬の先、一寸に満たない空間を切り裂かれながら、一気に射撃を繰り広げる。
射撃の暴風雨。音と光が嵐となる中、その厚い雨雲に隠れながら、続け様に足を狙う。
蓮城 真緋呂(
jb6120)はある場所に位置取っていた。
ある場所、とは即ち――迷路という、道は常に曲がり続け、直線と言えどもたかが知れているこの空間の――それ故に、ワイヤー外であるのに蓮城の攻撃射程となる、絶好の場所である。
そこから、極彩色の炎を撒き散らす。
炎はやがて花火となりて、ほのかに暗い空間を華美に照らした。
起きたのは爆発。須藤にダメージは与えないが爆発で自我を取戻すよう、放ったのだ。
須藤の短い悲鳴が聞こえると共に、軽く吹き飛ばされた彼は咄嗟に受身を取った。
「何すんだ!」
恨めしい顔で蓮城を睨むが、そこには我を失った気配はない。殺気立ってこそいるが、これは平時でも時折見る顔である。
「落着く……のは無理でも、貴方の力を無駄にしないよう考えて」
「……わかったよ」
思考のワンクッション。殺意と憎悪
(絶対に……誰も死なさない!)
ワイヤーを輝く彗星群、色とりどりの爆発で空間を埋め尽くし、薙ぎ払う。こうして空間自体を埋め尽す攻撃なら神託の目も全方向故に対応困難だろうと踏んだからだ。
衝撃でふらついた素良がすぐさま体勢を立て直し、蓮城に斬りかかる。それを峰で受け流し、がら空きになった膝の関節を狙って斬り付ける。
「友軍の裏切りなど、よくある事だ」
別に珍しい話ではない。エルマ・ローゼンベルク(
jc1439)からすればそうだった。敵に仲間だった筈の人間が加わった、それだけの事。
仲間だった筈人間が、元から敵であっても変わりはない。
「これは私の戦争であると同時に、貴様の戦争でもある」
彼女からすれば、もはや思想などどうでもよかった。
『彼女』が『エルマ・ローゼンベルク』として存在するそもそもの理由は戦争のみである。
硝煙と血肉のにおい。噎せ返るようなモノクロオムと血まみれのレエス。耳を澄ませば断末魔で、耳を塞げば軍靴の行進。冥界で彼女がそうなった瞬間から現在に至るまで、それは変わらない。
「素良といったか。まさかこうなるとはな……だがまあ良い。戦争をしよう、この間のようにな」
初めて素良と相対し、戦ったのはいつの事か。正確な時間など彼女にとってはどうでもよく、『戦った』という事を覚えている肉体と精神の、燻りのような確かな感覚こそが重要であった。
今はその感覚の再来。燻り続けた炎に、今ようやく火薬が与えられて爆発した。最早自衛という概念は存在せず、愛用の銃が戦いへの喜びを幾度となく上げる。
「痛みによる限界が無いとは、こういう事か」
ローゼンベルグの全力を受け止める素良に、何の反応もなかった。
「誰かを殺そうとする者は誰かに殺される。それは冥界も人界も変わらぬ。貴様が私を殺すか、私が貴様を殺すか、その違いだけだ。今までも、これからも、それは変わらん」
エルマ・ローゼンベルグという女は、息絶える最期のその一瞬まで戦争で自らの生涯を埋め尽くしたいのであった。
黒が翻る。
薔薇紫の驟雨が、また降った。
「ルスラン! そのままヤれ!」
「何をする気かは知らんがやってやるよ!」
エリューナクの言葉に従い、須藤が素良に肉薄する。大振りの鎌が素良の視界を埋め尽くす中、エリューナクが壁走りで接近。
同時に、神埼が壁を撃つ。素良狙いでないのは、その音響で全ての行動音を掻き消す為だ。
蓮城は素良の聴覚の鋭さを逆に利用し、甲高くホイッスル鳴らし騒音で怯ませる。
そして牙撃は自身と素良、そして霧雨。この一直線の位置取りになった所で、侵蝕弾頭をワイヤーでの防御が間に合わないように連射。
「――!」
銃弾が霧雨のすぐ真横を掠る。ぐっと堪えて押し黙っていた霧雨であるが、意図しない故意の威嚇射撃に顔から血の気が引く。
勘のいい素良ならすぐに気付くであろう。これは即ち、『避ければ霧雨鼎にあたる』状況なのだ。
切り払って刀が腐敗すれば良し、身体で受け止めてもダメージにはなる。
「来い。今更止められるような憎しみでもあるまい」
「是非もない」
素良は激昂こそしなかったが、自分が攻撃を避けることで霧雨に被害が及ぶのはまこと心外であった。
しかし、この刀は霧雨から貰った、何者にも替え難い代物。その身に侵食弾頭を受けつつも斬撃。牙撃はそれをシールドで受け、全力で刀を振るえないよう敢えてワイヤーの傍に位置取りしつつ攻撃。 痛みを感じないことは分かっているので頭部や心臓、喉などの急所を狙う。
ここでようやく、ある形が出揃う。
エリューナク、牙撃、須藤。
三方向からの同時攻撃。
これでは流石の素良も、対応に一瞬の隙ができる。
この隙――一瞬の隙こそ、全ての要となり得るのだ。
珍しく少しだけ目を見開いて驚きを見せた素良の顔を見ながら、エリューナクがワイヤーで素良を拘束。隼が木陰から飛び出すかのような突きで鎖鎌の鎌を喉元に引っ掛けつつ、精一杯の遠心力を付録に片方の耳――否、側頭部を殴る。
同時に、牙撃が素良の耳の側めがけて発砲。銃声を間近で聞かせ、エリューナクの殴打に更なる追撃を加えて両耳の鼓膜を破った。
「耳の良さが命取りだ。もう聞こえてないか」
牙撃は鼓膜の破れた素良を見る。ワイヤーの拘束から解放された素良であるが、バランスが保てないらしい、覚束無い足元は僅かにだがたたらを踏んでいる。
無痛覚と言えど、肉体や器官はエリューナク達と同じ。切られれば血は出るし、衝撃を受ければ鼓膜は破れる。
そして衝撃を受けた為に三半規管のリンパ液も揺れる事から平衝感覚も失う。足元が覚束無くては、自慢の膂力も発揮する事ができない。
「これで自慢の聴覚とバランスはバラバラ、だろ?」
更に。無痛症でも痛覚が無いだけでダメージは溜まる。
ただ痛みを感じないだけで、自己再生などは一切しない。
(後は、ヤレるなら目潰し。それに自慢の足への攻撃を中心に行うことで 物理的に動けなくすることも可能、だな。)
追撃。
それに、素良は先程から汗を一切かいていない。無痛症に付随する、高頻度で発生する発汗能力の低下か。
ならば好都合だ。
汗が出ないという事は即ち、熱が体内に留まるという事である。それだけ体温の調節は不可能になり、体温は上昇の一途を辿る。そして上昇した体温が人体にどういった影響を及ぼすのか、それは語らずともわかる事であった。
エリューナクが狙うのは、体温の上昇による脳のショート。即ち自爆である。
既に素良はかなりの熱を溜め込んでおり、鼓膜が破れた事もあってかなり
「終わりだ。屍の烏にすがり続けた偽者の幻想。俺が終わらせてやる」
牙撃は弾を込める。トドメはブーストショットを心臓に二発、頭部に一発の、計三発。
確実に、一言も発する間を与えず、誰の手も言葉も届く前に、邪魔が入ろうと殺しきる。
「言いたいことは偽物に言った。聞きたいことなどない。貴様の憎しみが、俺のそれより劣っていただけだ」
迷いなど一切ない。
引き金を、
「誰も無意味な人殺しにはさせない!」
その時、光纏を解除した蓮城が素良の前に立ち、壁となる。
かなり驚いた素良が、口も開けて呆然と蓮城を見上げていた。
「なんで」
今の素良は鼓膜が破れている。しかし完全に聞こえていないという訳ではない。骨を震わせる僅かな音を聴覚が拾い、言葉を拾い集めている。だからこそ蓮城の言動には、本当に驚いたのだ。
「霧雨さんが大切なら貴方の為に涙を降らせないで。もう喪う苦しみは……」
蓮城は、喪う苦しみを知っている。そしてこの苦しみを知っている者が蓮城だけではないという事もまた、知っていた。
蓮城は霧雨に向き直る。
「霧雨さん、私言ったわよね『貴女の願いを聞かせて』と」
「私の願い……」
ワイヤーの結界から解放された霧雨が、蓮城の言葉を一つ一つ、重く受け止めてゆく。
「どんな気持ちで生きてきたか、これからどうしたいのか、ちゃんと素良さんに伝えて。素良さんがいたから笑えて、彼に共に生きて欲しいのでは」
素良。全く笑わない、喋らない、御影石のように黒く、墓石のようにいつも佇んできた青年。気付けば自分が支えられる側となっていた、従者の青年。
「言葉にしないと伝わらない事もある。素良さんだけでなく霧雨さんも」
言葉。数多ある素良への感謝。いつも何かしてもらう度に言ってきた礼の言葉。しかしそれだけでも足りないたくさんの言葉。
「私は」
霧雨の言葉を聞いて素良はどうしたい?
そして霧雨は、素良に何を求める?
「……私は素良君がいてくれる、それだけで良かったんだ」
言葉は自然に溢れ出て、零れてゆく。
「正直に言うまでもない。私は素良君がいなければ困る。素良君の飯はうまいし、わざわざ遠くの菓子屋にまで行って日々違う菓子を買って来てくれるし、選書のセンスはいいし、有事には敵から守ってくれる。それだけで……それだけでいいんだよ」
どうしてこんな事を、もっと早くに言えなかったのか。
「何も言葉にできなくてすまない。こんな不甲斐ない主で……本当に申し訳ない」
霧雨鼎はされど泣かなかった。涙をぐっと堪え、素良が今まで拒み続けていたものを見せないように、これからも素良の主でいれるように。
「おれは」
絶え絶えの言葉で、素良は胸の内にのみ秘めていた。
「おれは、あなたのえがおがみたかった」
言葉。ずっと恋焦がれていた笑顔。
「けれど、おそらくもうみれません。おれがいちばんわるいのだから」
そうだ。素良は全ての張本人。いずれ、鼎と離れて暮らさなければならない。
だが、そこで蓮城は諦めなかった。
考えるのだ。
素良の罪と言えど、須藤未満の筈。須藤同等、それ以上の処罰はない筈。
そこで浮かんだのが、十の顔。
「監視」
今どうして須藤はここにいる。天魔を憎み、人を殺めた彼が、極刑を逃れてここにいるのか。
「……監視付なら霧雨さんと残りの生を全う出来ない?」
「――それだ」
須藤すら、その妙案に指を鳴らした。
監視付。だが、それでも素良は霧雨鼎の隣で、霧雨鼎は素良の隣で、共に暮らす事ができる。
「はは……二度に亘る従者の無礼、許してくれたこと、感謝する」
霧雨鼎は笑う。その声は、収まり始めた雨の中ではよく聞こえた。
●
かくして、素良――世持森羅は、生き延びる事となった。
夜明けの八咫烏、その幻想と雨に隠れた蜃気楼を胸に、再び霧雨鼎の従者として、生きる事となる。
しかし。
一件落着の後数日、精密検査を受け鼓膜を治した素良はある事を医者から告げられる。宣告は重いものであった。しかし素良は、隣にいた霧雨・須藤と共に静かに受け入れた。
「何て言われたんだ」
病院から帰ってきた三人に、時の軽快さを潜めたエリューナクが静かに問う。それに素良は表情一つと変えずに答えた。
「俺の体は持って五年、と」
素良の命は長くともあと五年であると、診断を下されたのだ。
無痛覚の体。
その体を酷使し続けた代償は、世間にとってはあまりにも大きく、彼にとってはごく矮小なものであった。
元よりあの時喪われる筈だった命。与えられた五年という時間は、奇跡にも等しいものである。
「しかし――先の苦難を乗り越えても五年か。短いな」
「いいえ、五年あれば」
五年あれば何ができるだろうか。
「できれば、俺の代わりとなる人を」
霧雨の剣術を授け、宝刀を託し、そして――
「馬鹿を言え。素良君は素良君で、他に替わりなどいない。確かに五年あれば、私の世話をしてくれる者を探し出す事もできるが」
素良が言いたいのはそれだけではなかった。
自由を失った両足を憚り、哀れな孤児に愛を与えることで孤独から目を背けてきたこの女性に、愛を与えられる人間を。人生としての伴侶を。
……もっとも、そのような大役を担えるただ一人の人間は、最早この世には存在しない。
世持武政。やはり何度考えても、早くに失うには惜しい男であった。
そして、そんな男の事を考えて、今更になってようやく感じた事がある。
『夜明けの八咫烏』とは恐らく世界で一番不器用だった男が、世界でただ一人愛した女の為に作った、いっとう大掛かりで驚きに満ちた存在なのだと。憎しみの指先で回された発条で動く、歪な八咫烏のからくりであったと。
もっともこれは素良の所見でしかない。創造者は既にこの世におらず、その意図を確かめる事など誰にもできないのだから。
「須藤……いや、凛島透」
だからこそ素良は頼む。かつて八咫烏であった青年に。自分がそうなりえた青年に。
「いつか俺がいなくなった時、この人を頼みたい」
須藤ルスラン。真の名を、凛島透。
素良がいなくなるその時、彼はどうなっているだろうか。もしかしたらその時は須藤ルスランという名ではなく、凛島透として。かつては一度殺した人生を再び歩み、そしてまた小さな幸せをかき集めながら、ささやかに過ごしているかもしれない。
とは言え、これは無限に拡がる未来の一つでしかない。
「わかりきった事を言うな、馬鹿が」
「そうか」
あの一件から、素良はよく笑うようになっていた。笑う、と言っても半紙を歪ませたかのような薄い笑いであったが、それでも大きな変化の一つであった。
「ありがとう」
「はっ」
素良の言葉に、須藤は今世紀最大の衝撃を頭に食らったような顔になった。
「お前が礼だと?! この俺に! お前が!」
「礼は言うだろう。それは軍人として、そして人としての礼節であり、矜持というものだ」
ローゼンベルグが須藤を宥める。
「しかしお前に生活能力はあるのか」
「見直したと思った端からお前はァ……!」
そして大きな変化は霧雨鼎にも。
「こら素良君。ルスランをそういじめるものではないよ」
「失礼しました」
彼女はかつてのように表情を曇らせる事はなく、澄み渡る青空のような表情は晴れ晴れとしており、素良が恋焦がれていた笑顔も時折見せるようになっていた。
「大丈夫。こう見えても昔、私達が家事を叩き込んだから。今でもしっかりやってる?」
「やっている! 何故お前らはいつもあらぬ疑いを俺にかける……!」
「そりゃあ……日頃の行い?」
「ま、そういうこった!」
神埼の隣、大爆笑するエリューナクを見て怒りにもんどり打つ須藤。
「むぎぃー!」
「そういった無様な姿を見せられると、やはり俺を殺すのも相当先だな」
「お前も絶対にいつか殺すー!」
牙撃に食らいつきながらもぎゃあぎゃあと叫ぶ須藤にも、今は後ろ暗いものを感じない。
「ふふ、いいものだね。平和とは……このようなものを言うのかね。これが……これが私の求めていたものだったんだね」
「ええ……」
蓮城と霧雨が眺める彼らは、仲良くじゃれ合う猫のようであった。
「少しわかった事がある」
「わかった事?」
「ああ。素良君があいつの従兄弟と聞いてね、世持武政の幼馴染としての感覚でね」
霧雨鼎は笑う。それは、久しく見せなかった、ひどく穏やかな笑顔であった。
「あいつが私に勝てた事など、一度もないからな」
●
帰りの時間が近付いてゆく。荷造りを終え、霧雨邸の玄関の前に置いた彼らに、手ぶらの須藤がおもむろに言った。
「お前達はもう帰れ。終わった後も数日引きとめて悪かったな」
「帰れって……須藤さんは?」
「俺はしばらくここに残る。お前達の迎えと一緒に監視が来る手筈だ。後始末の事もあるし、鼎さんや墓石の事も心配だしな」
蓮城と素道の会話に割って入ってきたのが、松葉杖で立つ素良である。
「お前に心配される筋合いはない」
「黙れ墓石」
「うるさい、すっとこどっこい」
「すっ……」
憎悪が晴れた今、素良と須藤はかつての仲を取り戻したように、蓮城には見えた。
もっとも、当然ながら蓮城は彼らの昔を知っている訳ではない。ただあの二人を見守る霧雨鼎の、安堵の微笑みを見て、そう確信を持てる。
「無理はしちゃ駄目……約束」
「わかってるよ」
そして須藤。数々の苦難を乗り越えた後の彼の表情は、また幾分か人間味を取り戻していた。
「貴殿とはまた、相対したいものだな」
「俺が生きている内ならば、いつでも」
「それではまた近々」
ローゼンベルグの恭しい敬礼に、素良も会釈を返す。
「じゃあな、世話になった。ルスラン、ちゃんと歯は磨けよ?」
「俺は子供じゃない!」
「本当か? お前はそこらのガキよりガキらしいけどな」
「なんだと?!」
「はいはい。落ち着くの。怪我人がすぐそこにいるんだから、怪我に響いちゃ悪いでしょ」
須藤をからかうエリューナクに、須藤をなだめる神埼。
そんな彼らを足元に、空を見る者が一人。
「雨は止んだか……」
霧雨邸の屋根の上、佇んだ牙撃は、こちらに近付いてくる車を遠景で見た。
どこかに影が落とされているのかもしれない。落とし込まれた影は水面下で浸透していき、再びこのような事件を引き起こすやもしれない。
そうなれば再び、牙撃の出番と相成るのだ。憎しみを咀嚼する者。憎しみを食らう者。
日陰のコートを翻し、いつか降る雨を待ち続ける。憎しみを紡いだ白い髪が、陽の光を反射して輝いていた。
雨は既に止んでいる。
どこかで烏が鳴いている。そんな気がした。
【了】