●
雨が降っている。
外からの雨音が微かに聞き取れる中、世持森羅はもう一度、はっきりと言った。
「須藤さんを――」
蓮城 真緋呂(
jb6120)が駆け寄ろうとした瞬間、罠が作動した。蓮城の鼻先を掠めた矢は、そのまま彼女の踝の横の地面に突き刺さった。
「あそことあそこ、あとそこにも罠があるわね」
愛用のリボルバーCL3で見つけた罠を打ち抜き仲間に知らせる神埼 晶(
ja8085)。それにしても罠の数が多すぎる。ただの罠の張り方ではない。
「これは『毒蜘蛛の巣』!?」
まるで毒蜘蛛が巣を張り巡らせるかのような罠の群れ。ならば見つけた分が全てとは限らない。
ならばと、弾幕を張るように銃弾を放つが、その銃弾をも易々と避けてゆく。その悠然とした様に、神埼は思い当たるものがあった。
「コレって、世持武政の『神託の目』!? 厄介なモノ使うわね」
舌打つ。その上にこの罠だらけの状況。到底攻撃を当てられたものではない。
「さて、そろそろ幕……といったところかしら。残念ね。あなたのその憎しみと手段、私は嫌いではなかったわ。違う出会い方をしていれば、私も貴女のところにいたかもしれない」
卜部 紫亞(
ja0256)は深い溜息を一つ吐いた後、全ての興が削がれたかのように冷ややかな視線で世持森羅を見抜いた。
「けどもうダメね。負け犬に用はないわ。遺志は継いであげるし、遺品は精々有用に使ってあげるから安心して逝きなさい」
直後、ファイアーブレイクで周囲を一気に焼き払った。
もし迷路を進行しながらの会敵であったならばこうは行くまい。卜部とて迷路の進行に関しては味方に全て任せて殿付近を進み、大して効果は望めないのを承知の上で走り書きでもマッピングはしておく事は考えていた。
だが、ここはある程度の広さがある。ならば彼女の中で取りまとめられた結論は唯一にして簡潔なものであり、ワイヤー・ガス・落とし穴など、罠があろうがなかろうがそんな瑣末なものに気を向ける必要もなく、纏めて吹き飛ばしにかかった。
「さあ、手合わせ願おうか?」
エルマ・ローゼンベルク(
jc1439)は、薄紫色の光の矢を豪快に煌かせながら、後方から積極的に罠へ攻撃、破壊を試みる。
冥界時代所属していた『軍』が下士官以上に配布した護身用小型拳銃を複製・改良した愛銃は護身で、弦月の書の頁を捲る度に空を疾る半月の刃が闇夜を照らす月となる。
出し惜しみはしない。全力で行く。今回こそは手を抜かず全力で戦いたいのだ。
「容赦はしない。慈悲などない。貴様はここで葬る」
牙撃鉄鳴(
jb5667)が射撃で弾幕を張る。その中にマーキングを混ぜ、僅かに刃先に当てさせた。芸当とも言える行為であったが、狙撃を究めた、そして世持武政という人間を知っている牙撃にとっては、この位は造作もなかった。
世持森羅の『神託の目』は、世持武政のそれとは大きく劣っている。
それが分っただけでも、勝算は十二分につけれる目処があった。
ヤナギ・エリューナク(
ja0006)は静かに鎖鎌を構える。鎖の微かな鉄の音が涼やかに場に広がった。
(さて、捕捉すべきは森羅)
世持森羅の誘うような動き。やはり先程の一撃からしても明らかである。
(なるほどねェ……罠、か)
分りやすいからこそ、この態度をも罠と思える。
とにかく、世持森羅の周辺に罠があると見て違いない。ならば森羅が避けた場や罠を張り易そうな場を選び、火遁・火蛇で破壊が最適か。必要最小限の破壊で、必要な通り道さえできればいいのだから。
「ぶち壊して進みますか……っと。――つーか、ルスラン。いつまで寝てンだ? セカンドインパクト症候群、起こされる前に起きろ……っつーの」
エリューナクが語りかける須藤に、蓮城は神埼が撃ち抜いて作った僅かな抜け道を通って駆け寄る。
その間、理葉(
jc1844)が須藤と世持森羅の間に入り、注意を引き付ける。須藤の手当てと態勢の立て直しが完了するまでは相手に斬りかかっても致命傷を狙わない。
前線を彼女に任せ、蓮城は須藤に視線を落とす。
傷は深くはないもの、執拗さを感じる傷の付け方。服の上からもわかる暴力の後は、蓮城でも見るに堪えないものがあった。
須藤に襲い掛かる罠の全てを霊気万象で封じ込め、蓮城は彼の頭を撫で、その肉体を癒しの光で包み込む。
「須藤さん頑張ったね」
むしろ、拉致から蓮城らの到着までよく意識を持ちこたえたものだ。
「私達は彼女を追うから、待ってて」
目覚める確証はなかった。しかし長いようで短い十数秒を経た後、微かな身動ぎと共に須藤は意識を取り戻した。
「あっ、お節介……」
体の痛みに耐えながら、何とか一人で起き上がる須藤。
「お節介じゃない、真非呂よ」
「どうでも……いいだろう」
僅かにうめきながら、陽炎のように須藤は立ち上がった。
「行くの?」
「当然だ」
口の中に溜まった血を吐き出し、左腕で口の端の血を拭う。
「ルスランも訓練は受けてる。ガンガン戦闘は無理でも、ついて来る分には大丈夫だろ」
「お前にしては話の分る事を言う。そういう事だ。足手まといになるつもりはない」
エリューナクの言葉に同意した須藤は、大鎌を肩に担いだ。
「行くなら離れないで……約束」
小指を差し出す。須藤は暫しその小指を眺め、静かに右手の小指を絡ませた。
「だからお前はお節介なんだよ、真緋呂」
そしてその顔を再び見せる事もなく、
「理葉としては直ぐに斬り合いを始めたかったんですが、罠だらけの迷路なんて、さっさと突破してしまいましょう」
「ふん、しょせんあの女の妹だ。そう大した事はない」
肩を並べた理葉と須藤は、罠が張り巡らされた先、世持森羅を見据える。
「とは言っても、罠に掛かってまともに戦闘出来なくなっては意味がありませんね」
罠を回避し、時には破壊しながら進む。それだけで、通常よりも倍の時間がかかる。
必要なのは世持森羅までの安定した一本の道。ならば理葉の軽装の機動力を生かし、率先して駆け抜ける。
「今だ、やれ!」
須藤の合図に、理葉がその小さな体を罠の僅かな隙間にねじ込ませた。
側面から小手を狙い、斬る。
ただし世持森羅もそれは見切ったのか、大太刀の切っ先を振り上げた。
正中線に向かって振り落とされる大太刀の刃を、スマッシュで受け止める。
「小ざかしい真似をする」
刃渡り、そして体格の差から言っても理葉は不利な位置に立たされている。しかし、勝敗は物理的な要因のみで決まるものではない。
「刀が大きければ強いとは限りませんから。……そんなもので理葉を斬れるとでも思いましたか」
世持森羅が太刀を手放して投降するなら攻撃を止めまるが、戦闘を続けようとする限りは容赦はしない。
味方の命が最優先。脅かされるなら殺し合いも、致し方なし。
「因果応報ね。須藤、大丈夫? 私が用があるのはあんただけだったんだけど……やる気満々みたいね」
大鎌を構えた須藤に、神埼は声を掛けた。
「当然だ。徹底的にやるぞ。あの女の妹だ、変わらず陰湿に違いない」
須藤ルスランは筒井リュドミラが嫌いだった。正面突破を良しとしない、影から影への暗殺戦法。それがより一層、須藤を苛立たせたのも事実である。
「須藤、あんたマリオネットは使える?練習しとけって前に言っておいたわよね? 神託の目には、マリオネットが有効だと思うんだけど」
「いつそんな事を言った」
そんな神埼の提案に、須藤は明らかに顔を顰めた。須藤にとってこの提案は藪から棒どころの騒ぎでなく、藪から刃の感覚であった。
須藤は未だ、トラウマを克服できていない。それは須藤自身も自覚しているものであり、ワイヤーというものを想像するだけで背筋が凍えるのもまた確かである。
「……そもそも今、ワイヤーがないから無理だ」
「はぁ?!」
当然、須藤の気の抜けた回答に耳を疑った神埼であるが、気を取り直す。
「まぁ、あんたに頼らなくても策はあるんだけど」
「――何だ」
じゃあ聞くなよ、と出かけた所で口を閉じ、須藤は神埼の言葉に耳を傾ける。
「例えばさ、攻撃の起こりを奴に見せなければ神託の目も十分に機能しないんじゃないの?」
神託の目とは、敵の動きを見切る技である。ならば起点のみでも見せなければ、あるいは。
「悪くない」
「でしょ?」
駆け出した神埼は罠を突破しながらロングコートを目の前に広げ、その影からピアスジャベリンを放つ。巨大な槍と見紛う程の一撃は、罠や遮蔽物ごと世持森羅を撃ち抜いた。
体勢が崩れる。
その瞬間を見逃す事はなく、神埼がシルバーレガースで蹴りを入れた。
(ビンゴね)
攻撃の起点を見られなければ、その分精度も落ちる。
続き、神埼に注意が向いた所で卜部が関節を狙って漆黒の稲妻を放ち、徐々に戦闘力を削りにかかる。直後罠が作動したが、影から影を伝ってそれを避け、牽制の光球をばら撒いて動きを抑えた。
『葬ってあげる』とは言ったが、まともに戦うとは一片たりとも言ってない。ひたすらにねちっこく、苛立たせるように攻める。
エリューナクが傍ら、須藤に耳を打つ。
「(おいルスラン、お前森羅に何か言え)」
「(藪から棒に何だ)」
「(いいから)」
「(……)」
須藤はそのまま耳打ちの返答を比較的大きな声で言い放った。
「今更奴に言う事など何もない。俺は天魔が嫌いだが、それ以前に奴のような愚かで浅はかな人間が嫌いだからな」
さて、これは須藤ですら忘れかけていた話である。
彼の部下の選定基準は『有用か否か』。
かつては選りすぐりのエリートを小間使いにさせ、失敗を犯した者を口汚く罵り、あまつさえ怒りに触れた者は容赦なく処刑してゆく。
天魔以前に、愚かな――と言うよりも気に障る人間が嫌いなのである。
世持森羅は何も言わない。だが顔をありありと顰め、須藤をぎろりと睨んでいる。
「愚か者は去ねよ」
それは彼の本心であった。愚か者など、この世から消えればいい。無論自分も、例外ではないのだが。
「愚か者はお前だ!」
ここで世持森羅がようやく須藤めがけて切り込んできた。
須藤は大鎌を窮屈そうに振るい、時折周囲の壁を削り取りながら世持森羅をある所へと誘い込む。
そこは行き止まり。
形としては須藤が行き止まりに迷い込んだようにも見える。事実、ここの地理を全て把握している世持森羅は、表情こそ険しいものの、瞳の奥に見え隠れしているのは勝利への確信の色であった。
それを須藤は笑う。ありったけの嘲りを込めて。筒井を殺した時すら見せなかった嘲笑を浮かべたのだ。
このような表情をするのはいつ振りであろう。あの春夏冬とかいう男を拷問にかけた時でもこうはならなかった。
「やはりお前は愚かだ。姉より不出来なんじゃないのか」
「何を」
瞬間、須藤の脇腹を掠めるように、彼の背後から魔弾が空間を邁進する。
舌打ちと共に、世持森羅は咄嗟に刀を構えてそれを受け止めた。彼女は今、自らが張った罠のせいで自由に身動きが取れないのだ。
「ほらよ、お望み通りだ」
「お前にしては上出来だな」
魔弾の射手は、牙撃である。
牙撃は世持森羅を追わずに、探知できない罠を警戒しながら敢えて罠の領域内へと侵入。罠が仕掛けられた行き止まりで狙撃手らしく待ちの態勢を取っていた。
行き止まりならば一方向からしか攻められない上に、手狭な迷路と自分で仕掛けた罠のせいで回避もままならないだろうと踏んだのだ。
そこでサーチトラップで可能な限り多くの罠を探し、味方に敵と罠の位置を示しつつ、その折に須藤に声を掛けた。
須藤は牙撃の要望通り、世持森羅を牙撃が待ち伏せる行き止まりへと誘い込んだのだ。
「やはり世持の名を騙っただけの紛い物か。あの世持武政なら、こうは行くまい」
魔弾は侵食弾頭。当たったものを腐敗させ、じわりじわりと壊してゆく。
あの世持武政ならば咄嗟でも受け止めず、弾丸の種類を見抜いて巧みに避けただろう。例え自らの罠が自由な動きを阻害したとしても、何かしらの活路を見出す、恐ろしく強い男だったのだから。
後は大太刀の腐敗を待つだけ。通常射撃を切り払わせてもいいし、仲間に後を託してもいい。それだけで刀は折れるなり歪むなりするのだ。
「そうだ。あの人なら……そもそもこんな所にも来ない」
須藤は一瞬だけ眉を顰めた。姉の復讐にこんな事しかできない女。姉よりも、もっと哀れな女……
――そして奇しくも『敵の標準を変え、誘い出す』という戦法は、エリューナクと重なるものがあった。
だからこそ、後の連携も、清流のように滑らかなものとなった。
エリューナクが割って入り、意識を向けさせる。
「一人増えようが二人増えようが関係はない。殺してやるだけだ」
(憎しみは新たな憎しみを生む。使い古された言葉だけど、それを実際目の当たりにすると哀しいものね)
蓮城の中で影を落とす、言葉にはできないこの感情も、そうなのか。
「殺せるものならどうぞ。簡単にやられる気はないし……あなたの罪をこれ以上増やさせたりもしない」
筒井・世持関係者であれば、話に聞いている『毒蜘蛛の巣』や『神託の眼』の警戒はしていた。だからこそ、大味に突き進む。
「壁や天井は頑強そうだし、遠慮なく壊せるわね」
進む先を照らす灯火のようにアンタレスで罠を焼いてゆき、できた道を駆け抜けて世持森羅の大太刀の間合いを計りながら斬り付ける。
「そんな太刀筋では私に傷一つつけられんぞ」
まるで世持森羅を避けるようにして正面から飛来する矢をエアロバーストの圧縮した空気で弾き飛ばす。
(また本人は罠を避け動くだろうと思っていたけれど、なるほど)
罠とも連携する訳である。
「須藤さん」
鍔迫り合いを押し戻しで止め、刀に一度空を切らせて再び駆ける。
「わかってるよ!」
上手から蓮城、下手から須藤。
須藤に襲い掛かる罠をコメットで打ち壊し、同時に攻める。刀の刃と鎌の刃。
先程から彼女が踏み込まない床があったのを、蓮城はわかっていた。神託の目を掻い潜り、目指すそこ誘い込む事ができればいいのだ。
須藤が後退の跳躍のばねの台に世持森羅を使い、罠の爆発も利用して吹き飛ばす。
ここまでの激戦で体力を著しく消耗している世持森羅も、須藤と罠による強烈なノックバックに耐えられず、全身を覆う衝撃でしばらく動けない。
そこを蓮城が踏み込んだ瞬間、蓮城の足に噛み付くものが一つ。
トラバサミ。
世持森羅の動きに連動するものがあるならば、彼女の意思によって連動する罠もあるのだと、この時気付く。
「手間はかかったが、そうする価値はあったというものだ」
ゆらりと刀を構え直す世持森羅。トラバサミに足を奪われている今、蓮城には移動の自由がない。かといって、跳躍で後退した手負いの須藤が未だある罠を掻い潜って駆け寄れる距離でもない。
ならば、一か八か。
蓮城は、須藤にあるものを投げ渡した。
「須藤さん、これを」
「これは――」
華のような淡桃色をしている糸・ロセウス。目に見えないほど細く、標的を絡めとり肉を切り裂く金属製の糸だ。
「助けてくれるでしょう? この前のように」
須藤がかつて使っていたものよりも随分と出来が荒く、安っぽい。そもそも須藤専用に作られていないのだから当然なのだが、それでも須藤をトラウマの渦に突き落とすには十分であった。
あの時ワイヤーで自分の腕は切り落とされた。その事を忘れてはいけない。いや、忘れようにも忘れられない。
自分はもう、二度と――
「須藤さんなら出来る!」
蓮城は、須藤がワイヤー克服しての援護を信じている。
アウルに覚醒して絶対零度の心を持った彼女が声を荒げ、須藤の名を呼んでいる。
……信じられている? この自分が?
ただ己の神だけを信じ、他は蔑ろにして捨ててきた自分が。世界から憎悪を集め、それを差し向けられてきた自分が。
――信じられているのだ。
道具でもない、一人の仲間として。
今ならば。
「やってやるよ!」
空間に線を引く。
修羅を切り刻む鬼の線ではない。仲間を護る光の線。
マリオネット。
間一髪、世持森羅の動きを見事、止めた。
「できたじゃない」
「……うるさい」
どこか満更でもない須藤の視界を埋め尽くしたのは、彼の背後に隠れていた卜部光弾であった。
影から影へと再び移動し世持森羅の影に降り立った彼女は、黒い雷で世持森羅の体を打ち抜いた。
エリューナクが鎖で太刀を絡め取り、腐食の力を借りてへし折る。脚甲で鳩尾に一発。
受身を取った世持森羅が迫る。目の前に現れたのは牙撃であった。
攻撃は確実に急所を狙ってくるとは推測していた。急所外しで敢えて受ける。身体に食い込んだ刀に力を入れ抜けないように、力を入れる。
折れた刀は牙撃の肩口にめり込んだが、それ以上の事はなかった。予想以上に浅い傷が、牙撃をさらに苛立たせた。
――あの男なら、この胴を袈裟で切り裂いていただろうに。
怒りと共に急沸したのは、失望でもあった。
「目と指以外ならくれてやる」
ゼロ距離で銃口を突きつけ、撃つ。
上塗りの完璧が、全て剥がれた瞬間でもあった。
「今だ!」
更に壁走りで世持森羅の上を取った後、死角に体をねじ込む。
挟撃、上下左右。逃げ場はない。
敵は単独。誰かの攻撃は当たる。
エリューナクの鎖鎌か。
卜部のL’Eclair noirか。
神埼の銀の蹴りか。
牙撃の弾丸か。
蓮城の刀の切っ先か。
ローゼンベルグの月の刃か。
理葉の翡翠の鈍色か。
それとも、須藤の大鎌か。
一斉の同時に行われた攻撃は、誰が世持森羅に王手をかけたものかを曖昧にさせた。
暫しの無音。耳が痛くなるほどの無音が一瞬にも、永遠にも感じられた後、世持森羅の体がゆっくりと崩れ落ちる。
世持森羅の短い悲鳴と共に、卜部は呟いた。
「はい、おしまい。いい夢を見なさい」
再び雨の音が場を静かに支配し始める。
『世持森羅』を名乗った少女・来栖榊にはもう、指一本と動かす事ができなかった。
●
牙撃のワイヤーに捕縛された世持森羅は、抵抗も何もせずただ地に横たわっていた。罠の殆どが作動・破壊された今、これ以上世持森羅を傷つけるものは現時点でなかった。
「お前ェの処遇は……生殺し、ってヤツだな。持ってる情報や気持ち、全部吐いちまいな。きっと楽になる。あ、お前ェの自爆には注意させて貰うゼ? 自害にも、な」
「楽にさせてどうする気だ」
「素直じゃないねェ……」
これは中々一筋縄に行きそうにない。
敵の増援が来る可能性がある。周囲に気を配り油断をせず、神埼は世持森羅に問う。
「世持森羅、なんでアンタ、『神託の目』や『毒蜘蛛の巣』を知っているの? 『夜明けの八咫烏』には参加してない筈よね」
「知ってどうする」
ひどく頑なな彼女から易々と情報を聞き出せる訳もなく、神埼は溜息を吐いた。
その隣、蓮城が須藤に問う。
「……須藤さんは、いいの? またどこかで憎しみが生まれて……私達を、貴方を憎むかもしれない。周囲を傷つけるかもしれない……それでも」
蓮城は世持森羅にこれ以上刃を振るう事はしなかった。無論、彼女ではない別の誰かが世持森羅の命を奪う可能性はあるし、その妨害もしない。
だからこそ、彼が止めてくれないか、それを心の内で祈った。
「俺は」
須藤は僅かに言葉を詰まらせる。蓮城の考えを読み取ったらしい須藤は、世持森羅を静かに見下ろしながら、言葉を静かに滴らせた。
「俺達はこうなった。こうなってしまったからには、最早手遅れだ」
憎しみは安易に消えるものではない。そもそも消す道具など、この世にはないように思える。
いくら平穏の時を過ごし、人としてのささやかな幸福を得たとしても、胸の内で燻る憎悪の炎は決して消え去らない。
誰かを憎み、誰かに憎まれる。
彼らの負の連鎖は止まらない。
永遠に廻り続け、彼らを無限の螺旋階段の中に閉じ込める。
「世持森羅。恐らく地獄の方が居心地がいいぞ」
彼らの歯車は既に狂ってしまっている。その心臓が大気を震わすのを止める最後の一瞬まで、彼らは地獄を抱えて生きる。
「だが生きれば」
生きれば。どうなる。
ここで死なず、生きればどうなる。
「馬鹿な男だよ」
須藤の言葉を振り払い、世持森羅は吐き捨てた。
薄い笑いが、彼女の息から漏れてくる。
「それにお前達はとてつもなく浅はかだ。何も知らずに持ち前の安い正義だけを振りかざして、目の前にある表面的なものしか信じようとしない。本質を見抜こうともしない、そのどこまでも即物的に浅はかだ」
薄衣に滲出するような笑いは、いつの間にか襤褸切れの肉体を痙攣させる程強くなる。
「須藤ルスラン、思い出せよ。お前が最後に殺した女は誰だ。どういう人間だ。お前はその女と、どういう関係だった」
筒井リュドミラ。
須藤と同じ、『夜明けの八咫烏』幹部。
須藤の仲間であった。
「どういう意味だ」
「ならじきに分るさ。馬鹿者が」
笑い続ける世持森羅の心臓に、牙撃は銃口を突きつける。
傷の程は牙撃自身でも思ったより浅く、この力が未完成――否、劣化したものである事を知る。すれば牙撃の怒りは尚昂ぶるだけであった。
「もういいだろう。須藤への復讐だけならまだいい。それだけならその憎しみを称賛すらできた。だが貴様は世持の名を利用し、紛い物の力で夜明けの八咫烏を貶めた。今度は逃がさない。あの世で世持に詫びろ」
躊躇いなど一切ない。むしろまるで予定調和のように、牙撃は引き金を引いた。
「私を殺して……『世持森羅』を殺した気になるなよ」
だからこそである。
「そうだろう、『世持森羅』」
彼女の――来栖榊の今際の言葉が、銃声にも掻き消されずやけに鼓膜を震わせた。
来栖榊だったものが静かに血を流す中、そんな彼女の言葉に応じるかのように、ある人物が静かに、迷路の奥から現れた。
「……アンタ、一体どういうつもりよ」
神埼は問う。
どうして素良が、霧雨鼎を連れてここにいるのか。
どうして素良が、世持森羅と呼ばれたのか。
「そういう事だったのさ。だからこの娘があの短刀を……世持家の短刀を持っていたんだ。そして、あれはあいつの短刀じゃない。素良君……世持森羅の短刀だから」
霧雨が懐から、一本の短刀を取り出した。誰にも見せる事はなかった、世持武政の形見。
「この短刀は、世持家の家宝。八咫烏の足の数になぞらえて、三本拵えられたと聞いている。一本はあいつが、もう一本は私が。――最後の一本は、どこへ行ったのかと思っていた。だからあの時、この子が持っているのに驚いた。だからこその信憑性があった。世持森羅は世持武政の息子だってね」
あの時霧雨は、確かに驚いた。世持森羅という少女は、世持武政の娘であると、そう信じざるをえなかった。例え世持森羅という存在が明らかにでっちあげられたものだとしても、霧雨鼎を黙らせる証拠があったから。
しかし、霧雨鼎の予測は一つたりとも当たっていなかった。
世持森羅は、世持の名を借りて作り上げられた名ではない。
来栖榊は、世持森羅の名を借りていただけでしかないのだ。
では、本物の世持森羅は誰か。そこに焦点が当てたれる。
「ずっと一緒にいて気付かなかった。そもそも君を何者であるかも知らないでいた私が愚かだったという話か」
霧雨鼎とて、世持武政の全てを知っている訳ではない。こと故郷にはいなかった彼の親族については、完全に別の世界の話であった。
そして、素良が何者であるかも、彼女は深く追求しなかった。須藤然り、世持武政が連れて来る子供は、一生語れぬ過去があるからだ。
だからこそ、素良が世持という氏を持っていた事など、彼女の知る由もない。
「俺が何者であるかを話さなかっただけです。あなたの責任ではありません」
「そうだとしても、だ。素良君、君があいつの血を継いでいるとはね」
「直系ではありません。俺は、あの人の叔母の息子ですから」
霧雨鼎は、無償の愛を彼らに与えた。きっと不恰好な愛であったが、彼らを無条件に愛することで今まで彼女は生きていられたのだ。
それが仇になった。
「これは罰か? この期に及んで君を信じられなかった、私への罰なのか……」
霧雨鼎は、されど信じきる事ができなかった。素良という、十数年付き添ってくれた従者が、何かを考えている事を感じていたから。だから須藤を呼び寄せ、危険を冒してまで外に出、素良を止めた。
予感は的中し、素良は静かに佇む。痛みなど感じない体は、彼自身にしか言葉にできない感情で氷漬けにされている。
「いえ」
素良は――世持森羅は、須藤ルスランになりえた青年である。
ただ彼は『夜明けの八咫烏の幹部』ではなく、『霧雨鼎の従者』となった。
憎しみの総量は、凛島透の方が重かったから。
「して、どうしてこのような事をした」
そして、言える事が一つある。
須藤ルスランが世持武政を神としたように、素良も霧雨鼎を神とした。
神が流す涙は雨となる。彼は雨が嫌いだった。
天壌一面に隈なく広がる雨雲が憎かった。
「詮無い事です」
雨が降る。
彼らはもう、何もできなかった。
【続く】