●エントランス
「はい。右側2つめのエレベーターで4階の第3会議室へ向かってください」
鍛え抜かれた営業スマイルの受付嬢が、額にうっすらと汗をかいている。
「……4階、だな」
2メートルを超える長身にしっかりとした骨格。実戦的な筋肉がリクルートスーツを内側から圧迫している。
戦場帰りか特殊な業界な人にしか見えない野襖 信男(
jb8776)が軽くうなずいて立ち去り、直接応対した受付嬢を含む全員が安堵の息を吐いた。
「本当にアポあったの?」
訊かれた受付嬢が涙目でうなずく。信男が出したのは人事のお偉いさんの名前で、その秘書に確認したら最優先で通せと怒鳴るように言われてしまった。
「怖いわね。天使の占領地域がこっちに向かって広がってるって話もよく聞くし」
女性達はどうしても暗くなりがちな雑談を終えて仕事に戻る。大型の硝子製自動ドアが開き、新たな客が小さな足音とともにやってきた。
最初、受付嬢はコスプレ趣味の学生がいたずらで入って来たと思っていた。しかし艶のある白い髪と深山の泉のように深い赤眼、それになにより嫉妬すら起きないほど透き通る肌を見て、思わず生唾を飲み込んでしまう。
「見学……」
和風鞄から書類を取り出すハル(
jb9524)に、百戦錬磨のはずの受付嬢が壊れた人形のように首を上下させた。
隣の受付嬢が変わって書類に書かれている名と手元のディスプレイを見比べた。
許可は出ている。だがこんな美少年が来るなら社内で噂になったりするんじゃないだろうか。
「2階まででしたら基本的に出入り自由です。社員に声をかけられたら指示に従ってくださいね」
仕事中に媚びるつもりはないけれども、前途有望な少年相手に熱心に対応するのは仕方がない。そう自分を正当化する四捨五入して三十路のおねーさんであった。
「ん……」
ハルは深めに礼をして奥へ向かう。
「んー……?」
先程の対応は予想外だった。ハルの出身地ではハルの外見は忌み子の証だ。だから最悪大きな騒ぎになり最良でも驚かれたりすると予想していたのに、ほとんど驚かれもせず普通に対応されてしまった。
「街、だから……?」
入り口の窓越しに見える大通りでは大勢の人が行き交っている。当然のようにその中には複数の人種や様々な格好の人間がいる。
胸の奥にもやもやもやしたものを抱えたまま、ハルは次の手を打つため思考を切り替えた。
「すみません!」
美貌と独特の雰囲気にやられてぼんやりしていた受付嬢達を、元気な声が現実に引き戻した。
鈴木悠司(
ja0226)が新人社会人らしい若さ溢れる自己紹介をして名刺を見せる。
「はい。2分ほどお待ち頂ければ……」
おねーさんの瞳は婚活戦士っぽい。数倍の規模の会社でこの若さで役職持ち。是非自分を印象づけたいと思うのは当然だ。
「ありがとう。でもせっかくだから歩きで向かわせてもらいます。いいよね?」
皇 夜空(
ja7624)とファング・CEフィールド(
ja7828)が軽くうなずき、振り返るとおねーさんも当然のようにうなずいた。
3人とその影に隠れた小柄な女が非常階段へ向かう。
悠司の顔に張り付いていた爽やかスマイルは、とっくの昔に消えていた。
●ビル内
やましいことがあるから徹底的に警戒していた。
それでも撃退士……久遠ヶ原学生の変装は徹底していて違和感に気付くのにも遅れてしまった。
「あの天使を拘束しろ!」
「この状況で騒ぎを大きくしてどうする」
「誤作動ということにしてシャッターを下ろせ。時間を稼いで証拠を消す」
最上階の執務室で怒鳴り声が響く。
多数設置された監視用ディスプレイには、単に仕事でやって来た他者の人間と、監視カメラに向かってピースサインをしている馬鹿天使、さらにそのだ天使に見える変装中雫(
ja1894)まで映っている。
サーバントがタナ(jz0212)の声を認識すると、ビルの主達の意思を完全に無視して動き出した。
そこから十数階下にある無味乾燥な小会議室で、五辻 虎々(
ja2214)が大量の冷や汗を流していた。
「ん。合否は郵送で伝えるから帰っていいよ」
「ありがとうざいましたっ」
人事担当の社員に頭を下げて退出。
慣れぬスーツ以上に慣れぬ空気に疲労して、ぎくしゃくした動きで通路沿いのソファへ移動し腰を落とす。
「きっついなぁ」
ネクタイを緩めようとしてもうまくいかない。諦めて装身具をいじろうとした手が空を切り、大きく息を吐いて髪をいじる。
「黒とか超久々なんだけど」
普段の金髪ではなくただ染めただけの黒。艶などほとんどありはしない。忙しなく行き来する社員を眺めながら再度ため息。
「これ就活生何十回も繰り返すんだよな。すげぇよ」
ふと気付く。防火用にしては立派すぎる分厚いシャッターが複数降りてきている。警報も放送もなく動作音が小さいので皆全く気付いていない。
「あ、危ないんで、来ちゃだめっすよ!」
就活のときに出させれば内定が出ていたかもしれない力ある声が響き、会社の裏切りを知らない社員達に危機を知らせる。
「避難してくださいっす。あっと、俺撃退士っす」
アウルを見てようやく異常に気づいた社員と外部人間が小走りに非常階段へ向かった。
そこから数階上ではシャッターが降りる前から騒ぎが起きていた。
「……何か用か?」
威圧された警備員が一歩下がり、なんとかそこで踏みとどまる。
「身分証を見せてください」
信男がポケットに手を入れると緊張が極限まで高まった。
取り出すのは武器ではなく警察が用意した今日のみ一応本物の身分証だ。身分証を見ても渋る警備を無視して非常階段へ向かう。
「待て!」
「……トイレだ」
ただでさえ迫力のある顔がいらついて歪んでいる気がする。警備員達は顔を見合わせその場に立ち止まり上司に連絡を入れていた。
信男は無言のまま歩く。
本人的には特に気にしていないし演技もほとんどしていない。なので威圧交渉がうまくいきすぎて複雑な気分だった。
「……邪魔だ」
非常階段との境に張られていた細めの鎖を引き千切る。
破砕音が消えるより早くポケットの中のスマフォが振動する。
『気付かれたようっす。急いでください!』
虎々からの連絡だ。
警備が音に気付いて駆けてくる。
信男は仲間のため、同時に何も知らない警備を天使勢力から守るため、おそらく敵が来るであろう非常階段をその巨体で封鎖した。
●非常階段
「逃げるなら監視の薄い場所を選ばないとね」
ファングが声をかけるとタナがへなりと壁によりかかる。
「逃げれると思ったら監視が本職コンビなんてヤダー」
豊かさに欠ける胸の前で拳を揃えて駄々をこねる。
「変わらんな」
夜空が口の端だけで笑う。
気の弱い者が見れば腰を抜かしたあげくにそれ以上の悲惨な状況になりかねない迫力だけれど、タナは相変わらずの不真面目な態度でファングのアニメ要素を取り入れたコーディネートを下から見物している。
夜空に殺気がないのに気付いているのだ。
「システムスタンバイ」
夜空が光纏を展開する。青ざめた光が、黙っていれば美形といえないこともない天使の顔を照らす。
「あのサーバントかなー。積載上限まで武装積んでると思う」
非常階段の上から勢いよく近づいてくる音に気付き、逃げちゃダメかなと言いたげな眼でタナが見てきた。
「安心して下さいね、タナ。 園には無傷で返すからッ!」
2人並んで戦うどころか移動することも難しい狭く急な階段。しかも敵は上から下へ向かってくる。
「悪くない」
上から天使風鎧と山刀で身を固めた人型サーバントが近づいたとき、夜空の口元の笑みが深く濃くなる。
サーバントの力は楽しむには足りないが装備は夜空以上。しかも撃退士ではなく天使のタナに殺意の視線を向けている。
予想通りだ。タナは明らかに夜空好みの戦争を引き寄せる。
「オレ達は貴様等をブッ殺すタメに生まれて来たのだ」
片刃の大剣を引き出す。引き出す動作で安全のための柵を切り倒しそのままサーバントの首筋へ。
「だから! さっさとおっ死んじまえッッ!」
分厚く固くそれでいて扱いやすい盾が大剣の軌道に割り込むが力が足りない。
一瞬の均衡の後左手ごと盾がサーバントにめり込み本体ごと切り倒される。
「check」
ファングがつぶやき。
『ExceedCharge』
大量のアウルが込められた光纏が反応する。
サーバントが真横に飛ぶ。未だ避難が完了していないフロアに移動するつもりだ。
「無は有、有は無。手を伸ばせばそれは届くから」
駆け上がる。
足先から頭の天辺までとんでもない練度で制御されていることに夜空だけが気付く。
ドアを開けたサーバントにファングの拳が触れた瞬間、青い光が溢れて人型の上半身を陥没させ粉砕する。パイルがファングの肘から飛び出、アウルの残滓が噴出した。
●天使に見る夢
夢前 白布(
jb1392)を自分の出身校の現役生徒と勘違いしているせいか、もともと人の良さそうな成年の口は非常に軽くなっていた。
「最近入ってきた中に目立った人にはいないかな。目立ってるのは今の社長だよ。元々グレーゾーンの黒ぎりぎりヤってるって感じの人だけど……」
外で漏らしちゃ駄目だよとウィンクしようとして両目をつぶる。
「ありがとうございます、色々教えてくださって」
社会科見学中の生徒ということになっている白布が礼儀正しく頭を下げた。
「学校の先生によろしくね」
手を振りながら仕事に戻っていく年齢の割には高い地位にいる成年を見送り、白布は普通の生徒のふりを続けたまま高速で思考する。
ここには緊張感がない。企業としての真っ当な緊張感はあるけれど、天使との取引という難易度激高なことをしている自覚がある者が1人もいない。
「関わっているのは役員だけ?」
口の中だけでつぶやいたとき、ポケットの中のスマフォが軽く震動した。
『わーにんわーにんサーバントが出てぎにゃー』
撃退士2人にしっかり守られているのにへたれているだ天使からの連絡だった。
『ちょっ、攻撃目標選択設定私が一番上になっ』
タナとの付き合いも長くなった。だから泣き言を言えているうちは大丈夫と確信できる。
「どういうことです?」
青年が上階からかかってきた電話に答えている。
「そりゃ喋るなと言われりゃしゃべりませんけど」
白布に対し面倒そうなことになりそうだから今日は帰ってと身振りで示す。
結局この日、白布は一度もサーバントに出会わなかった。しかし白布の証言が、この青年を含む多くの社員を冤罪から救うことになる。
そこから1つ上の階は凄まじい混乱の中にあった。
「無茶です!」
「やれ。上からの命令だ」
ありとあらゆる書類がシュレッダーに放り込まれ、サーバーからハードディスクが引き抜かれて金槌で中身を砕かれる。
本当に社会科見学中だった生徒が雰囲気に怯えて逃げていく。しかしただ1人その場に残って情報収集する者がいた。
「大変……」
化粧室で染めた黒髪と着替えた洋服のお陰で目立っていないハルが警察から借りたデジカメで連写する。
数日後に役員が9割方入れ替わる原因になる情報を集めている割に、本人は自分が何をとっているか分かっていない。
「警察さん、の資料の足しに……」
音のしないシャッターを切り続ける。
そうしているといきなり分厚い隔壁が歪んで人の手に見えるものが切れ間から突き出された。
が、固いものが肉を穿つ音が響いて手が引っ込んだ。
隔壁の裏側、非常階段の踊り場で悠司が飛ぶ。踵がサーバントの肩にめり込み剣が落ちて床に柄まで突き刺さった。
人にしか見えないサーバントに強力な武装。しかもいるのは人間の防衛線の内側。動揺が避けられないはずの状況でも悠司の表情は無いままだ。
急加速からの斬撃でサーバントをふらつかせ、床、壁を蹴って後頭部へ蹴りを入れる。タナ作現役天使指揮下の人型が、驚くほどあっけなく倒れて機能を停止した。
●破綻
最上階からの操作でエレベーターの扉が封じられる前に飛び込み、事前に読んだマニュアル通りに上から出てロッククライミング風に17階へ。
雫はどの擬装使うか一瞬だけ悩んだ後、いかにも子供らしい子供の仮面をかぶった。
「君達は?」
警備員が近づいてくる。光纏抜きでも負けはしないが倒すのに時間はかかる程度に鍛えているようだ。
「お父さんが忘れた書類を持って来ました」
役員の名前が書かれた書類入れを示す。高く甘い声に、月丘 結希(
jb1914)がなんとも言えない顔をしていた。
「う、む」
警備員の表情の変化から雫が大まかな事情を察する。
保安的には通すのは論外だが身内を通さないとどう処分されるか分からないような権力者がこの役員なのだろう。具体的には、秘密裏に天使と結んでそれを社内で押し通せるほどの。
「できたら案内していただけると」
「承知しました」
貴族に仕える召使いのごとき態度で警備員がついてきた。
途中、エレベーターが止まっているので階段を使い、人気がない廊下に出たところで馬鹿でかい剣を持った人型と出会う。
「は?」
予想外すぎる展開に思考が止まる警備員。対照的に雫と結希は驚いたふりすらしない。
「この場所じゃ、避けられないし、避けれない」
スマフォで起動準備が整っていた術式を発動。
サーバントを中心に結界が展開され撃退士の防御だけを引き上げる。
「単純な殴り合いってヤツになるけど、回復防御と支援はたっぷりできる分、こっちが有利よね」
サーバントの大剣が近くの荷物を傷をつけ勢いを弱めて雫へ。
結希が展開した網目状防御術式が速度を0に近づけてしまい、大剣は雫の光纏をひっかくことすらできなかった。
あらゆる面でサーバントの得物を上回るフランベルジェを取り出し、上から下へ一振り。
たったそれだけでサーバントの頭頂部から腰までが左右に分かれ、タナ作サーバントの残骸が絨毯の上にぶちまけられた。
「はい、サーバントのお掃除完了っと……人を模したサーバントの処理って傍目から見たら暴行殺人よね」
警備員の悲鳴と嘔吐の音を聞きながらしゃがみこむ。
サーバントの残骸が人に似てはいるがよく見れば違う。厳重に梱包されていた箱の切れ目からは天使支配領域に残されているはずの美術品が見えた。
「間に別の会社を挟むとかすればいいのに、バレバレってのは企業としてどうなのよ」
泥舟につきあう馬鹿を調達できなかったのでしょうねと内心つぶやく。
雫は得物を消して最上階へ進み、踏み込んだ。
「天使」
「ちっ、スパイか二重スパイか知らんが」
雫をタナに似せていた術が解ける。
役員達は即座に表情を取り繕うが、雫の手にある記録装置は最初から今まで完璧に作動中だ。
「法で裁かれるかどうかは分かりませんが正直に話すことを勧めます」
前回信男がタナに着せた久遠ヶ原学園生風の服によってタナの情報が市民経由で広く流れ、それに刺激された天使が過剰に反応した。
その結果が今回の浸透工作破綻であった。