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8月15日更新分 
「どう攻めるのがいいかな」
鳥海山の主たる少年が、鼻唄まじりに思索を巡らせていた。それはまるでゲーム攻略を楽しむ子供の様であり、浮かぶ笑顔に悲愴の色はない。
―――例え、事態が彼、力天使トビトの思惑通りに運んでいなくても、だ。
「予定通りに進んでばかりじゃ、盛り上がりに欠けるもんね」
トビトの声に応えるように、鳥海山の木々がさわさわと風に揺れる。
本来であれば、今頃はゲートを展開させた白神山地にて、戦力を補強させていた事だろう。来たるべき北への侵攻に向けた前線基地を構築する為に。
「冥魔の総大将と遊べるかと思ったんだけどな」
そもそも今回の鳥海山の動きは、言ってみれば冥魔への仕返しだった。昨年、北海道を拠点とする冥魔軍が青森へと侵攻を果たした事は、長らく北への侵攻タイミングを見計らっていたトビトにしてみれば、面白くない、の一言に尽きる。
故に、トビトはゲート展開を伴う白神山地への侵攻という形を示すことで、冥魔を牽制したのだ。
東北をお前たちの好きにはさせないぞ、と。
だが、冥魔の鼻っ面へ叩き込むはずだったカウンターパンチは不発に終わった。その目論見を打ち砕いたのは、冥魔ではなく、歯牙にもかけていなかった人類。
正直なところ、人類への認識は『路傍の石』でしかなかった。冥魔に目を向け続けていた為、足元に転がる存在を忘れかけていた。実際、鳥海山を易々と落とせた事実を考えれば、脅威になり得たはずがないのだ。
しかし、人類は短期間のうちに、こちらを躓かせる程度には力をつけていたらしい。
「ちょっと痛い目、見せとかないとだね」
薄く、冷たい笑みが張り付く。
躓いてしまったならば、排除すればいいだけのこと。丁度、東北中枢の都市、仙台に足掛かりを得ている。ここを落とせば、人類も大人しくせざるを得ないだろう。
「というわけで、サーバントを色々と送り込んでるところなんだよ。身体の調子はどうだい、ヴィルギニア?」
トビトが後ろを振り返ると、そこには力無く項垂れる菫色の天使の姿。
ヴィルギニアは白神山地から戻ってからというもの、ほとんど口を開かず神妙な顔をし続けていた。トビトの信に応えられなかったことに、相当堪えているらしかった。
――否、恐らくそれだけではない。
鳥海山の天使たちの中で、冥魔への純粋な敵愾心に於いてヴィルギニアを上回る者はいない、とトビトは考えている。その最たる理由は無論、過去の戦において彼女の翼が奪われたことにある。
彼女自身、自分に忠誠を誓うにあたり特別に意識はしなくなっているようだが、事此処にきて報復――彼女にとってみれば一種の『復讐』の機会から遠ざかったことは、無意識下でも何かしらの精神的影響を与えているはずだ。
「意外と抵抗してくるもんだからさ。ついついムキになっちゃうよね」
空気を和ませようと、トビトがおどけて見せるも反応はない。不意にヴィルギニアの顔が上がった。
「人類の抵抗……ですか」
その眼に、深い悔恨の念を湛えた灯火が揺らめいた。
(私の命はトビト様の為……失敗を悔いるのはこの身が朽ちるその時でいい)
トビトに抗うモノが、邪魔をするモノがいるというのならば、鉄槌を下さなければなるまい。もはや何の躊躇も遠慮もいらないのだから。
「……失礼致します」
かつての呼び名『白雷』の頃の眼差しを湛え、ヴィルギニアが寡黙に立ち去ってゆく。その背に声をかけることなく、トビトは静かに見送った。
「何か心配事でも、トビト?」
ヴィルギニアと入れ違うように現れた声に、トビトがゆっくりと振り向く。すぐ背後には、いつから居たのか、一人の青年が佇んでいた。
美しい黄金の髪が緩やかに波を描く、美しい黄金の髪。水晶の如き蒼の瞳が、すべてを見透かすかのように輝きを放っている。その姿は、人類の神話に出てくる天使の姿そのもの。
名をラファエロ。古くよりトビトに仕え、身の回りの世話をしている天使だ。
「今回はたまたま不覚を取った様ですが、彼女は優秀です。そんなにご心配なさらなくてもよろしいかと…」
「そうなんだけどね」
唯一心許す付き人の言葉に、トビトが苦笑を浮かべる。
力の一部を失ったとは言え、ヴィルギニアの実力はまだ並の天使よりも遥かに上にある。人類に遅れを取ることはまずないだろう。
しかし、だ。
万が一『何か』が起きた際は、二度目の失態だ。生真面目な彼女の性格を考えれば、それこそ死にもの狂いで事を成そうとするだろう。
だがまだ早い。トビトにとって、彼女は信頼に足る優秀な手駒のひとつ。今失うには惜しい存在だ。
「ねぇ、ラーファ。ちょっと彼女を助けてやってくれないかな?」
「承知致しました」
ラファエロは特に質問を重ねることもなく、即答と共に恭しく一礼を返す。
「ありがとう」
「お前の為ならば」
ラファエロの言葉に、トビトの顔に穏やかな笑みが浮かぶ。それはいつもの何かを含んだ態とらしさは無い、心許した者に向ける屈託の無い自然な姿。
「それじゃ、まずは冥魔とやり合う前に、路傍の石をはね除けるとしようか」
トビトが足元の石を思い切り蹴飛ばす。それは遠く、吸い込まれるように青空へと消えてゆき。
―――数時間後。トビトの元には、仙台襲撃に向けた多数のサーバントが召集されるのだった。
(執筆:津山 佑弥)
8月21日更新分 
岸と岸の幅はそれほどでもないが、はっきりと大地を分け隔て、分断するかの如く流れる川。
水面は比較的穏やかではあるものの、川底が映らず、青いというよりは黒くさえ見えるその川は、誰が見ても泳ぐには危険であると感じさせる。
そんな川の岸辺に、黒い影が水底から浮かび上がってきた。
黒い影はゆっくりと大きくなり、次第に人の形を成すと、水面に顔が現れた。顔は短く息を吐きだし、そして荒い呼吸を繰り返しながら、のろのろと岸へ這いあがる。
堤防のコンクリが濡れて黒く染まり、その上にぐったりと横になったのは真宮寺 涼子だった。
(予定よりも流されたか)
細目で周囲をぐるりと見回し、自分の記憶にある地図と照らしわせて、おおよその位置を探る。
「追ってきた気配もないから、もっと早めに出てもよかったのだが――念を入れる事に、越した事はない……」
しばらく眼を閉じそのままでいたが、照りつける太陽を何かが遮り、耳に馴染んだ羽音に目を開いた。
目を凝らすと思った通り景色の一部が歪んでいて、よく見えていなくともそれがヤタガラスだとわかる。
そのヤタガラスが涼子の隣に降り立ち、身を起こした涼子――途端に、あまり変化したことのない表情が、信じられないというものへと変化した。
「ダルドフ様が、行方をくらませた……?」
にわかには信じがたい話だが、涼子にとって天使からの伝言は絶対。それもトビトからの言葉ともなれば、疑う事すらおこがましい。
先ほどまでの緩慢な動きはなんだったのかというほど勢いよく立ち上がり、水を含んで重くなったジャケットを脱ぎ捨てると、トビトの元へ急ぎ、疾走するのであった――
「やあ、久しぶり。橋のやつは別だけど、あいかわらず、手間をかけて侵攻しているね」
「――ja」
ほんの小さな違和感を感じつつも、両手を後ろで組み、足を肩幅まで開いた姿勢で涼子が応えると、トビトは手を合わせ、無邪気な笑みを崩さぬまま楽しそうに口を開いた。
「君は君のご主人にそっくりだね。
もっとも、君のご主人は人類に少し肩入れしすぎちゃって、僕への義理立てとの板挟みに悩んだ挙句、姿をくらませる事であやふやにしようとしてるみたいだけどね」
ありのままでもないがほとんど隠す事無く、トビトの口からダルドフが行方をくらませた理由が語られる。
そしてそれだけでは終わらず、涼子自身も知らなかった、ダルドフと人類、それに撃退士達との間にあった親密すぎるやり取りも次々と語られていた。それこそダルドフ本人も、そこまで知られているとは思っていないであろうところまで。
事細かすぎると涼子自身感じ取り、窓辺で留まっているヤタガラスへ、トビトには気づかれぬ程度の一瞬だけ、視線を向けた。
(色々と見ていた、という事か)
とはいえ、それが不服などともちろん涼子は思わない。
それに最初の違和感も、合点がいった。報告らしい報告はしてこなかったはずだが、それでも涼子の行動を知っているような口調だと思っていたが――事実知っていた、それだけのことである。
仙北侵攻の細かな敗戦を見ていたのに何も言ってこなかったのは、信頼しているからではなく、そこまで期待していない……もしくは口で言っているほど、重要視しているわけではないのかもしれないと、トビトの話を聞きながら分析していた。
(それはそうと……ダルドフ様らしいと言えばらしいが、人を殺さぬという信念を掲げるだけでなく、何故、そこまで人類に肩入れをするのだ。搾取するために生かすならともかく、守る様な行動までとって。
天使様に守られるほど、人間に価値はないというのに)
「――とまあ、新しいお願いをしようと思ったのにいなくなったわけなんだよ。
そこで代わりに、君が動いて欲しくて呼んだわけだけど……どうかな?
片目を閉じ、外見通りの仕草でトビトがお願いを口にすると、涼子は考えるのをやめて即答する。
「ご命令とあらば、従うまでです」
「そっか。それなら、すぐ動いてもらおうかな。
ヴィルギニアが仙台に乗り込むつもりでいるみたいだからさ、それの援護という形で乗りこんでほしいんだ。
君も気づいてると思うけど、最初君にお願いした仙北は確かに落したくはあるけれども、それほど拘ってないんだよね」
いつものおどけたような口調で先ほどの分析を裏付ける発言をするが「けど」と、すぐに声のトーンを一段落として涼子の瞳を覗き込んだ。
顔は柔和なはずなのだが、その目で射すくめられた時、涼子は背筋が凍りつくような錯覚に陥っていた。
「こっちに関しては、ちょっと本気だよ――躓かなくてもいいところで、躓かされたんだからね」
普段とかわらぬ無邪気で柔和な笑みを浮かべているにもかかわらず、その威圧感は年端もいかない子どもにしか見えないのにまさしく、上位の天使である事を証明する。
だがそんな威圧感もすぐに消え、にっこり笑ったトビトが涼子の後ろに回る。
威圧感が消えても緊張が解けずに、冷たい汗が流れ続ける涼子の背中をトビトは突き飛ばし、悪戯っ子の様な表情を涼子に向けた。
「そんなに緊張しなくていいよ。
君の活躍次第でヴィルギニアもだいぶ楽になるんだけど、ただの使徒である君にそれほどの活躍は期待していないから、気楽にね。
戦力の分散さえできればいいかな、くらいなんだから」
そんな優しい言葉をかけると、トビトは涼子に背中を向けてその部屋を後にしようと、戸口へ向った。
すると「あ、そうだ」と、指を一本立てる。
「君の主の処遇だけど、もちろんそれなりに厳しく言い渡すつもりなんだ。そうしておかないと、示しがつかないからね」
「……理解はしております」
厳しいがどんな程度かわからないが、涼子自身、そうなるだろうと思っていたし、仕方のない事だと思っていた。
涼子の言葉で満足げに頷いたトビトが、戸に手をかけた時、さらに「ああそうだ」と、わざとらしく手をポンと叩く。
「君が予想以上に上手く活躍してくれたら、君の主を不問にしてあげてもいいよ」
そして、どんな表情を浮かべているのか涼子に見せる事無く、トビトは後にするのだった。
残された涼子は俯いていたが、やがてナイフを引き抜く。
『涼の字。お前さんが人を恨む気持ちもわかるが、人も捨てたもんじゃないぞ? 天使の俺が言うのもおかしな話だがな。
だから俺は人が好きで、人を殺さんと誓っている。押し付けかもしれんが、涼の字も人を殺さぬと約束してくれんか』
かつて、自分の主から言われた言葉を思い返す。
その冷たい刀身に目を落しながら、またさらにしばらくたたずみ、やがてポツリと漏らす。
「……すみません、ダルドフ様。貴方との約束をひとつ、破らせてもらいます」
柄を強く握りしめ、真っ直ぐに顔をあげた涼子も踵を返すと、足早にその場から立ち去るのであった――
(執筆 : 楠原 日野)
9月5日更新分 
東北における天使との大規模戦闘。その初戦の流れは人類側が有利状況を進めたと言えた。
天使軍の第一目標と目されていた『撃退庁東北支部』司令の囮として、
部隊を指揮していた副司令官・片倉花燐は、久遠ヶ原の撃退士達の作戦が大きな成果を上げ、現在も健在。
逆に彼女を討つべく指揮を撮っていたヴィルギニアは一時撤退にまで追い込こまれるのだった。
一方、使徒である涼子は、主人ダルドフの処遇をトビトにちらつかされ戦場に立っていた。
主人との約束を裏切る道を選んだが、やはり久遠ヶ原の撃退士達の活躍と想いによりもう一度その選択を見直す――。
初めて相対する事となった天使、ラファエロ。その戦闘指揮能力は高いものであったが、辛くも人類はその侵攻を凌ぎきる。
戦況の不利を悟ったラファエロの後退は許したものの、サーバント軍には大きな損害を出したのだった。
天使トビトが容易と踏んだ人類防衛網の突破は、尽く失敗に終わる。
これにより天使軍は、大きな方針転換を余儀なくされた。
そして――
●
「別に、強制するつもりはないんだけどね。ただ、このまま退くなんてありえないと思うだけで」
少年は嘯く。まるでそこには何の思惑も存在しないかのように。
その言葉を信じてきた。
――いや。今も、信じて、いる。
「承知、しました」
天使様が、間違っているわけはない。
「そう? ……まぁ、がんばって。期待してるからさ」
これは天使様に捧げた身。
今更だ。この程度の怪我が、無茶が、何だという。
無邪気に笑う少年の、笑みの裏に潜む邪気には、気づかないふりをした。
そうするしか、なかった。
大樹の根たる彼に。
枝葉の如き自分が、言えることなど何もないのだから。
●
「これ以上は失敗出来ない。いえ、既に余裕を持てる状況ではないのは理解っていますよね」
「……」
撤退をした天使の軍勢の中心に近い位置の上空に彼らは居た。
波打つ豊かな金髪を風に靡かせる二人の男女。
一人は涼しい顔。もう一人は、いつもの柔和な笑みを消し何処かを睨むように厳しい表情。
ラファエロとヴィルギニア。共にトビトの腹心として忠誠を誓う天使。
けれど、その間を流れる空気にどこか感じる刺々しさは、状況の厳しさだけが理由ではないのかもしれない。
「今、神樹には預かり物が在ります。
ここでの成果はそのままメタトロン様への覚えに繋がるはず。……そう、たとえ失敗であっても」
そう告げるラファエロの言外の意図を、ヴィルギニアは正確に汲み取る。
求められているものも。
「トビト様の為なら、是非もありません」
「貴女なら、そう仰ってくださると思っていました」
そう告げるラファエロがかざした手を開くと、不思議な輝きを放つ種があった。
それを、淑女の手を取る紳士のような優雅さをもってヴィルギニアの手に落とす。
知るものが見れば、彼らの本拠地である神樹に揺れる幻燈と同じ輝きだと分かっただろう。
「ゲートを確保出来ていれば、『それ』を使う必要は無かったのですけれどもね。
……しかしこのままでは、エネルギーが不足なのは明らかですから」
なおも説明を続けようとするラファエロに、ヴィルギニアは輝きを持つ手とは逆の手を挙げてそれを制した。
理解している事を、いちいち丁寧に説明される事ほど心を逆撫でするものもない。
良く思わない相手であれば、尚更だ。
けれど、その想いは内にしまい、彼女はいつもの柔和な笑みを浮かべ、制した手を差し出すように返す。
「もう場所の目星はつけています。勿論、エスコートぐらいはしていただけますよね?」
その問いには、ラファエロも笑みをもって応えた。
その後、天使軍は新たな動きを見せる。
そして人類は、余裕を捨て『覚悟を決めた』天使の強き進軍を見るだろう。
●
種を撒く。
花が咲く。
花は散り、そして新たな種が撒かれる。
無駄なものなどなにもない。
ヒトという苗が持つ、総てのエネルギーは、やがて大樹へと継がれていく。
すべては、大いなる力の為。
まだ見たことのない、大きな花を咲かせる為――。
(執筆:コトノハ凛、クロカミマヤ)
9月22日更新分 
さわり、さわり。木々がざわめく深い森の中。
汗の伝う長い金髪を鬱陶しげにかきあげ、鏡国川煌爛々は荒い息を吐く。
「……意味わかんないですし」
吹き抜けるのは、涼の心地良さというよりはむしろ胸を掻き乱す旋風。
気の早い紅葉が目の前で巻き上げられるのを、呼吸を落ち着けながらぼんやりと眺め追う。
「えーとえーと、むつにーいなくなってて、根暗ッチーノも…いなくなって」
指折り、思い出しながら出来事を数える。己に教え込む様に、ゆっくりと。
蝉時雨の降り始めた初夏。
寡黙だが優しかった六万が死んだ、と告げたのは片翼をもぎ獲られ昏い笑みを浮かべた主で。
蒸し焼く熱気に包まれた真夏。
主の、赤黒く染まる枯れ木の如き矮躯が、手折られ命の灯火を失うのを眼前で見た。
夏という時節は、東北の地では特に駆け足で去って行く。煌爛々の心が、追い付けぬ程に。
「むつにーも根暗ッチーノも、どっちも、撃退士のせいで。そんで」
死ぬ場面を直接見たわけではない。だから、ソレが嘘か本当か知るすべは無い。
教えてくれる人も、気にかけてくれる人も、もう誰も居ない。
ひとりぼっち、でもそれはただ昔に戻っただけ。ちっとも大した事じゃない。なのに。
「みんな………トモダチ、だって」
脳裏に、人影が浮かぶ。変わらぬ笑顔は、己の願望が魅せる幻だろうか。
最初は容赦無く戦った。そのうち、何故だか助けてくれるようになった。
引き出しの奥には、入りきらない程の贈り物たち。形の悪いトリュフもイケ渋ダンディなオジサマのブロマイドも一緒に選んでくれたシャツも――真摯に語りかけてくれた、言葉も。
どれもこれも、勿体無くてずっとしまいこんだままで。
「あーーーもーーーーだからよくわかんないですしいいいーーーー!!!」
笑いかけてくれた暖かさを振り払い立ち上がる。何よりも、嬉しかったモノなのに。
鉛の如く鈍く引き摺るのは、身体か心か。休んだはずなのに、鈍痛の様な疲れが取れない。この所、ずっと。
止まることを知らない汗をそのままに、煌爛々は当ても無く彷徨い歩く。
――地面に滴り染みこむ雫を、汗と誤魔化しながら。
●
「あの時ヴィルギニアが失敗してなければ、もう一人ぐらい大天使を呼び寄せて、神樹を産ませようと思ってたんだけど」
唇を尖らせ、トビトは足下の石ころを蹴り上げる。
その仕草はまるで――いや、まさに。
悪戯を咎められた子どものような、無邪気さで。
「動かせる駒もだいぶ減っちゃったし、ヴィルギニア本人がそれでいいっていうなら、しょうがないよね?」
精神的にも不安定さを見せる昨今の彼女を思い返し、トビトは溜息を吐いた。
天使級には荷が重いとはいえ、権天使であり気心の知れた彼女を、あえて使い捨てにする理由もなかったのだ。……当初は。
「まぁ、いいか。きっと彼女なら、命を懸けてでも『樹』を根付かせてくれるハズだしね」
「……文字通りの命懸け、か」
『神樹』を生み出すには膨大なエネルギーが必要となる。
一介の天使には荷が重すぎるほどの、――命にも匹敵する膨大なエネルギーが。
ゆえに濫用できるものではない。
ゆえに、命じられるものははない。
――その宣告が、命を捨てろという最後通牒に他ならない以上。
「そういえば、お礼がまだだったね。……彼女を手伝ってくれてありがとう、ラーファ」
「……気にするな。其れがトビトの為ならば、私は」
「ありがとう。……でも大丈夫、いずれにせよもうすぐ決着はつくしね」
彼女は――ヴィルギニアは、その身をもって償うだろう。
ゲート展開の失敗という重大な責を。
主君たるトビトを、意図せぬ形ではあれ裏切ってしまった事実を。
「神樹が根付いたら、あの方にも報告を入れないとね。きっともっと楽しくなると思うし、成功させたいなぁ」
「……微力ながら、私も動こう。少ない手駒の総てを用いてでも、彼女の祈りを遂げさせなければ」
「うん、まずはソレだね。何せ祈りの最中は、陣から出られなくなっちゃうわけだから。
折角、最期の大舞台なんだ。こっちで出来る限りの支援はしてあげなきゃ、さすがに可哀想だよね」
神樹はじきに花開く。
積み重ねられた幾千の骸の思念と、ヴィルギニアの命を賭した祈りによって――
●
「…………あー」
乱れた朱い髪を適当に撫でつけて、女は溜息を吐いた。
居候に宛がわれたにしては高級感のある部屋だった。入浴を終えたエゲリアは、あられもない恰好で床に寝転がっている。明かりを灯すことすら面倒に思えた。
窓の外に星空。静かな夜の一室で、金色の双眸が天井を見つめた。
(これからどうなるかしら……)
自身が所属する天界勢力――力天使・トビトが率いる一軍は、新たな支配領域の構築に失敗した。
その結果、ゲートを展開できなかったヴィルギニアは動きが鈍り。陽動で仙台市を攻めたダルドフは所在が知れず。そして、フェッチーノが死んだ。
「軒並み上手くいってないわね」
かく言う自分も勝利には程遠い結果に終わったことは棚に上げ、エゲリアはぼやいた。
声の中に怒りや苛立ちは無かった。諦観と面倒臭さだけが込められていた。
あれだけの戦力を失ったにも関わらず、トビトは仙台を攻略するつもりらしい。自由に動ける身ならば、とうの昔に見限って他所へ行っていたことだろう。
だが、上司からの命令が変更されない現状、トビト配下のヴィルギニアに従うというエゲリアの立場はそのままだ。
(……自由、か)
手のひらを見つめる。地に転がる視線が脳裏に浮かんだ。額に手を置く。
まだやるのか。やるしかない。もう終わっても良いのではないか。いや、まだだ。
幾度となく繰り返した自問自答。それをもう一度反芻して、エゲリアは立ち上がった。
本心を隠すことには慣れていた。自分への裏切りではない。これは贖罪。私に課せられた償い。逃げることは、許されない。
服装を整え、鏡の前に立った。
戦いの傷は癒え切っていない。最後に全快したのはいつだったか。そんなことは、今の彼女にとってはどうでもよかった。戦えるならそれでいい。狂戦士を演じられるなら、それで。
「さぁて、っと。そろそろ、お仕事の時間かしらねえ?」
ひっひひっ。
女は笑って、部屋を後にした。
●
フェッチーノの死。
ダルドフの不在。
そして今度は、ヴィルギニアの――。
配下の天使やシュトラッサーをも困惑させるこの状況に於いて、未だ愉悦を追い求めるかの如きトビトの言葉。
その裏に存在するのは、圧倒的かつ絶対の自信と、人類への侮蔑に他ならないだろう。
莫大な犠牲を払うに値する、神樹。
それがこの大地に産み落とされた後、一体何が起きるのか。
識る者は――未だ、何処にもいない。
(執筆:日方架音、猫野 額、クロカミマヤ)
