●眠り姫は醒めない夢を見る
月冴ゆる夜に感じたのは、ほんの少しの孤独感。
何故だろう。如何してだろう。そんな、思いを巡らせてみても、仰ぎ見る藍色の夜空は何も答えてはくれない。
「見た目だけなら中々神秘的よね、月光に硝子の薔薇って」
ユグ=ルーインズ(
jb4265)の言葉に黄昏ひりょ(
jb3452)は顔をあげた。
「もう、何人もの人に被害が出ているんですよね。これ以上は犠牲を出させません」
「うん」
浪風 威鈴(
ja8371)が頷く。
「死ぬこと……それが、自然の摂理。だけれど、やっぱり寂しい、哀しいって思うことは……その子を、大切に思っていた……ということ、だよね」
猟師である威鈴は、死という現象は決して避けられない、どの生命にも等しく平等に訪れる現象だということを理解している。だけれど、同時に哀しく辛いことであることも知っている。
(生きること……きっと、それ自体が尊いものだって)
そう、思うのだ。
「だから、見届ける……の」
人生の伴侶を得て強く共に生き歩むことを決めたから。威鈴が、ふと顔を右に向けると夫である浪風 悠人(
ja3452)と目があう。
(俺の護りたいものは此処にあるから)
ふたりを何処か微笑ましそうに眺めていたユグはフッと目を細めた。
「害有る薔薇は、きっちり駆除しちゃいましょ」
「まぁ、動かぬのなら手間のかかる相手ではないな。そう面倒も無かろうさ」
フィオナ・ボールドウィン(
ja2611)の顔には、こびり付いた自信に満ちあふれた表情。
けれど、大切な、或いは、忘れ去りたい想い出の中――どれ程の者が冷静を保っていられるのだろうか。
(大切な思い出を利用されるなんて……)
桜木 真里(
ja5827)の握り絞める手には、知らない間に力が籠もっていた。
踏み混まれたり穢されたくない想い出がある。それを利用するなんて、絶対許すべきことではない。柔らかな若草色の瞳に決意が宿る。
「甘美な思い出ね……」
ロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)は思いを馳せる。けれど。
「そんなものより生きている痛みや恐怖の方が、俺にとってはよっぽど大切だぜ」
やがて見えてきた硝子薔薇。
冷たく鋭い硝子の茨で眠り姫のように微睡む、少女の姿。
「あれが、玻璃子さんね」
暮居 凪(
ja0503)の呟きに、長谷川アレクサンドラみずほ(
jb4139)はごくりと唾を飲み込む。迷ってなんかいられない。
「踏み込まないと戦えませんわ……参りましょう」
「悲劇の連鎖は止めてみせる!」
みずほに頷いた木嶋香里(
jb7748)は扇を構え、言い放った。
●それぞれの、夢と想いと後悔と
来訪者に気付いた薔薇は香る。
それが、力有る者だとは知らずに。
気付けば凪は、懐かしい風景の中に居た。
その世界の中で、彼が笑う。
(彼だけは、私を肯定してくれた……)
――戦わなくても、人を救わなくてもいい。そして、変わらずに居て欲しいと思うよ。
何の力も持たない、一般人だった彼の言葉に、私は救われた。
あの時の彼が、今の私を見たら咎めるだろう。
けれど、それでも――あの救いをくれた貴方に、もう一度会いたい。そして。
(返答を。あの時の言葉に答えを返さないと)
優しい夢に、微睡んでいたくなる。だけれど。
「失った以上、手から零れ落ちた以上。私はそれを取り戻す」
その為に手段は選ばない。選べない。そう、あの時決めた。たったひとりの、名前も残っていない彼の為に。
「足を止めてなんて、いられはしない!」
目にもとまらぬ速さで繰り出される凪の槍。ぱりぃんと、乾いた音を立てて一つの薔薇が、砕け散った。
揺らされた薔薇が、また香りを放つ。
――ねぇ、真里!
真里の瞳に映るのは、別れた彼女。自分を呼び笑いかけていた。それだけで、心が満たされる。
(……俺は、彼女に)
違う、確かに寂しさはある。けれど、懐かしく思いはしても縋るようなことではない。
君影草を見たあの日、雨上がりの公園を歩いた。無邪気に水溜まりに飛び込んだ彼女と跳ね上がる水飛沫。そして、水面に映った彼女の表情。
(大切な思い出だからこそ、土足で踏み込んでくることは許さない)
ぴちょん、と雫が跳ねて、水面に映った彼女の顔が揺らぐ。
少し寂しそうな顔をしていた。その顔に罪悪感だって感じてしまうけれど。
(さようなら、ありがとう)
真里も少し寂しそうな笑顔で彼女に別離を告げる。
陽は沈み、季節は冬の夜。ひゅうっと甲高い音を立てて、弾けた花火。真白に染まる夜空とともに、真里の意識が開けてゆく。
鈍くなっていた思考が、意志が――夢から覚めるように明確になってゆく。
振り返らない。彼女との想い出は大切な物。彼女から貰った幸せと、笑顔。優しい記憶を――穢されたりしてたまるものか。
「……それに大事な部分を勝手に利用されるのは気分の良いものじゃないしね!」
真里は雷の魔矢を放つ。今にもみずほに襲い掛かりそうになっていた茨を断ち切った。
「助かりましたわ!」
「また来るよ、気をつけて」
「ええ! 言われなくても――踏み込みますわよ!」
真里に頷いたみずほは黄金の拳を振り上げる。拳に振り薙がれた硝子薔薇は飛び散り月光に鋭く煌めいた。ひとつが、散る。
すぐさま後方へと下がったみずほに、悠人は聖なる刻印をかける。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですわ」
悠人にみずほは余裕の笑みで返した。
「な……」
一方、フィオナは気付くと古い戦場に居た。そして、その光景に絶句する。ボロボロに傷付いた兵士の死体が山のように積み上がっている。
だけれど、斃れ臥すこともなく剣閃を交え合う双つの影。片や金色の鎧は自分自身。相手立つ銀色の鎧。その隙間から見える顔は紛れもなく自らと同じもの。
「王たる我の内に触れるか嘗めた真似を……その不敬、万死に値するっ!!」
怒りのままに薙ぎ払われた閃滅の剱。パリィン、と甲高い音を立てて硝子薔薇は砕け散る。
荒々しい一撃。沈めた興奮も飛び散る破片とともに、フィオナは冷静な心を取り戻してゆく。
「……さっさと片付けて助け出すぞ。己の選択次第だが、知らねばならぬことが有るのやもしれんのだからな」
漂う御影の香り。
「ロドルフォ、さん……?」
ひりょの声が聞こえる。ひりょはロドルフォに近付き肩を揺さぶるが、彼はぼんやりと虚空を見つめるばかりで、反応はなかった。
――おい、お前、13番目の。
自分を呼ぶ声がした。人間界よりずっと無機質な"故郷"。並べられた同期は皆無表情だった。
悪魔にぶつける為の駒。誰の記憶に残ることもない人形。そんな存在に名など無く、意志もない。
――でも、もう違うだろ?
その声に、のろのろと顔を上げた。
表情しか似ていない男、写真と日記でしか知らない"人間"のロドルフォが其処に居た。
――そんな、情けねえ面見せんなよ"ロドルフォ"。父さんと母さんを任せられないじゃねぇか。
ああ、そうだ。今は違う。今は名がある。性格がある。自分を想ってくれている人だって居る。何もなかった『13番目』ではない。
彼は、にへらと悪戯っぽい微笑みを浮かべ。
――あと、さっさと本命は落とせよ。
「うるせえ……」
都合のいい妄想かもしれない。
彼と会ったことも無いけれど、それでも自分は確かに彼の想いを受け取ったのだと、信じて。
「分かってるっつーの!」
叫んだロドルフォに、かつての13番目の姿はない。
襲い掛かる茨に突っ込み薙ぎ払い、隙を作る。
「やるじゃないの」
見守っていたユグは彼の拓いた道を辿り、玻璃子の身体を抱え上げた。
獲物を逃がした硝子薔薇は更に御影の香りをばらまく。
新たなる獲物を求めるように。
空き地の隅に玻璃子を下ろし振り返ったユグは、言葉を失う。
「お父様、お母様……?」
其処には、この道を選んだ自分がもう二度と会うはずのない二つの影があったから。
両親。彼らは自分に立派な天使――そして男性になることを望んでいた。しかし、自分は彼らの想いを裏切り堕天使として生きている。
それどころか、立派なオネェ。
「けど、アタシは人間と共に生きたかった。自分自身でいたかった」
両親を裏切った。だけれど、愛してる。だから生じる強い罪悪感を、この道を選んだ時の想いで断ち切る。
「……ごめんなさい」
「い、いや……いやぁぁぁ!」
本物には言えない想いを零し、現に戻ったユグの意識。耳に届いたのはみずほの絶叫。
そちらへと目を向けるとみずほは蹲り、顔を恐怖に歪めている。
(わたくしは……わたくし、は……!)
みずほの瞳に映るのは襲い掛かる硝子の茨ではなく、過去の自分だった。
学園に来た自分は新たな技を覚えた。だけれど、それは強い殺戮衝動をもたらすもの。
衝動に抗えず、止めるパートナーを殴り続け相手を、病院送りにしてしまっていた。
幻影は過去の自分。為す術もなく、殴られ続けていた。
しかし、襲い掛かる自分が突然見えなくなった。代わりに見えたのは菫色の髪。
みずほに襲い掛かっていた硝子の茨。それを凌いだのはユグだった。
「お立ちなさいな」
ユグの声に、みずほは正気を取り戻す。
(今は、この力で人を護ることが出来るんだもの。これで、良いわ)
(今は、かつてのわたくしではない――。きっと、乗り越えられますわ!)
想いは、過去から現在へ。
ユグが差し伸べた手。みずほは、ユグの手をとり立ち上がる。その瞳に恐怖の色はない。
燃えていた。炎上。火事。囂々と紅蓮の花が咲いているのを、ひりょは見ていた。
次々と子ども達が業火に巻き混まれていく。苦悶の表情で、或いは絶望の面差しで。
――アハハ! 燃えちゃえばいい!
それを見て、愉悦の笑みさえ浮かべ眺めている赤い瞳の少年がいる。
「ああ……」
赤い瞳の少年と目が会う。燃えているのは、幼い頃住んでいた施設。少年は、紛れもなく自分自身。
辛い出来事に、崩壊した心。そして、力を暴走させ、施設を燃やした。心が、意識が――悪夢の、絶望の漆黒へと染まっていく。
だけれど、光が差した。そうだ、今は自分を心配してくれる人がいるんだ。
「……っぁっ! 負ける、ものかよ!」
ひりょは無理矢理意識を揺り戻した。
――こんな所に可愛い子が隠れていたわね。
よくわからない機材やガラス管が多く立ち並ぶ部屋。覚えていない。
だが、そんな空間の中で、声が聞こえた。とても、懐かしい声。
その人を知っている。それは大切な私の――おかあさん。
――私の声が聴こえるかしら? 理解できているかしら?
お母さんは、深い海のような着物を着ていた。
そして、ニコリと微笑み。
――良かったらウチの子供になって欲しいわ。
それが"木嶋香里"の始まりだった。
彼女から希望を貰った瞬間。よく覚えてはいないけれど、とても大切なものだった。
「だから……私は、もっと辛い状況の人を助けたいって思うの!」
強い想いが、襲い掛かる薔薇を弾き砕いた。
遺された薔薇が放つ甘美な香り。しかし、威鈴と悠人は屈することはなかった。
「俺の一番大切なモノはすぐ隣に居るんでな!」
「……私も、大切な人と一緒に歩んで、いくから……!」
悠人と威鈴の力を合わせた攻撃。
最後の硝子の薔薇が、花火のように月光に飛び散り煌めいた。
●そして、朝陽が拭い去る
「とりあえずこれ、着ときなさいな。アタシのだからちょっと大きいと思うけど」
「うわぁ! あ、ありがとうございます!」
ユグに言われ、己の格好を見返した玻璃子は慌ててユグから受け取ったカーディガンに身を包み丸くなる。至って年相応の反応だった。
「あの子、は……?」
「あの子って……この子のこと?」
辺りを見渡す玻璃子。香里が差し出した写真は、教師に頼み調べ入手してもらったもの。
幼稚園くらいの少女の写真。玻璃子は必死に頷いた。
「でも、どうして、この写真を?」
首を傾げた玻璃子に、皆一様に押し黙る。
少し悩んだ後悠人は落ち着かせながら彼女の背後に立ち、そっと口を開いた。
「どうして、彼女から手紙が届かなかったか……解る?」
「忙しくなっちゃって……」
その言葉は、縋り付くようで。けれど、悠人は首を振る。
「……届け、られなくなったんだよ。ちゃんと、返事を書いてた。ポストに投函しようとしていた。でも、届けることが出来なかったんだ」
言葉を選びながら、悠人は伝える。成る可く傷を付けないように。玻璃子は黙る。
(毎日のように交わしていた手紙が途絶えたこと……本当は、最悪の可能性も考えたことも、きっとあるんだよね)
真里は思考する。しかし、そんな恐ろしい自分の頭の中の予想を振り切り現実から目を背け可能性を信じていた。
「これは……」
「その子が最後に書いた手紙なんだって」
玻璃子は悠人から受け取った手紙を恐る恐る開く。
「その手紙をポストに入れようとした途中で、交通事故に巻き込まれてしまったんだそうです」
ひりょの補足するような言葉。両親からすれば、その少女の最期の言葉。手放せずにいたらしい。
『はりこへ
きょうは、はれです。つゆだから、あめがふってるけど、わたしがはれということにします』
「……ぁっ」
懐かしい文字。彼女は手紙の冒頭に必ず天気のことを書いていた。そして、何でも晴れにしてしまう。
『はりこにもらったビーだまを見て、思いだします。はりこにあいたいなって思います。はりこもそう思ってくれてる?
あいたいどーしだったら、こころはいつもあえる。
わたしは、はりこにあいたい。だから、いつもはりこといっしょにいるよ』
大粒の涙が零れる。ぽろぽろと、便箋に濡れ跡を刻む。
玻璃子は便箋を護るように愛おしそうに抱きしめた。
「……寂しい? けど、ね……ひとりじゃ、ないよ……」
玻璃子を包み込むように威鈴は玻璃子の頭を優しく撫でる。
「本当に、ひとりだったら……哀しくならない。涙が出る、ってことは……心の中に、彼女が生きている……ってことなんだもの」
泣く玻璃子に真里は、玻璃子にハンカチを手渡しながら。
「大切な思い出だから、利用されるのは悔しい。大事なものだからこそ前に進む力にしたいって思うよ」
君も、俺も。だから。
「それに貴女が幸せになる事が彼女が望むことじゃないのかな?」
悠人の言葉にロドルフォは頷き、口を開く。
「あんたの中にも、あるだろ? 受け取った想いや、そいつがいなけりゃ気付けなかったこと」
彼の幻影はもう無い。だけれど、ロドルフォは。死はどうしようもない現象なら――巻き戻らない時の流れならば。
「……そういうのを忘れないことが『生かす』って事なんじゃねえのか?」
だって、其れが彼女が居た証になるのだから。
夢から醒める時間。暫く、泣き腫らした玻璃子の瞳は真っ赤だったけれど。
「夜が明ける、わね」
物思いに沈んでいた凪の意識を現へと呼び戻したのは遠くから射し込む朝陽。
朝を連れ立った陽射しが、世界が白く染めてゆく。
様々な辛いことも、哀しいことも――拭い去るように、朝が来た。