色の名前というのは、膨大にある。
似たような色でも、それぞれに別の名があり無限にも感じるそれらを使えばどの様な色でも表現出来るようにも思える。
だけれど、今見ている空の色はきっと幾千も、幾万も色の名を使ったとしても、きっと言い表すことは出来ない。
「うむ、人の世は、真に美しき世であるな」
そんな、夜明け前の空。街が起きる前のその時間を。はぐれ悪魔はのんびりと眺めている。
人間界に興味を持ち始めてから、未だ長い時間が経ったわけではない。しかし、それでも人界の時の巡りは実に興味深いと
例えばこの空だって、紺色から群青色、そして藍白色へと。微細な変化が面白いとも感じた。
そんな自分は段々ワビサビなるジャパニーズ・ソウルを感じられるようになっているのではないか。だとしたら、物凄く嬉しいことだ。
そんな無駄な考察をしている。だけれど、要するに。
(暇、なのであるー)
何か考えていないと時が止まったようにも感じてしまう。だから、レーヴェは無駄なことを考えてみたりしていた。
何故、夜明け前というのは此程にも長く感じるのであろうか。後ついでに、旅行前日に限って寝られないのも何故だろう。
「レーヴェ、もう起きていたのか」
「うむ! マオか、おはようだ!」
呼びかける声に振り向けば、寝起き姿の姫路 眞央(
ja8399)。
漸く声がした。朝が来たような気がして嬉しさ前回テンションマックスのレーヴェは元気よく答える。
「未だ、日が昇る前のようだね。今日は早朝出発だから、丁度よかった」
「うむ! 今日は良い天気になりそうなのであるぞー! ずっと、空を眺めていたからな!」
得意げに言い放つレーヴェ。いっつあ、どや顔。眞央はじっと眺め問い訊ねた。
「なあ、レーヴェ……いつ、目覚めたんだ?」
「うむ……デンシャなるものが気になって、うまく眠りに就けなかったのである」
正直に白状。しかし、眞央は何となくそんな予測をしていたようで
まるで、遠足前の小学生のようだった。
「じゃあ、とりあえずテレビをつけてくれないか?」
「うむなのであるー!」
得意げにレーヴェがテレビのリモコンのスイッチを押して、無音だった部屋に早朝ニュースキャスターの脳天気な声が流れ出した。その音を背景にして、軽い朝食と身支度を済ませる。
小旅行の準備は前日に既に終わっていた。ちょっとした小旅行だから、その前日の準備でさえ、直ぐに終わってしまったのだけれど。
「服もいくつか持っていくけれど今日は少し時間に余裕があるから、途中で他の物も探すといい。人間界のデパートは初めてであろう?」
「うむ! ふむ、でぱーと、なるものにもいくのであるかー」
「その為にも、今日はきちっと服を着ていこうか」
眞央の言葉にレーヴェは頷き、服を着て荷物を持って眞央の家族達に見送られながら家を出た。少しずつ目覚めてきた街並み。朝の空気は少しひんやりと顔を撫でた。
待ち合わせ場所はある公園の時計台近く。眞央とレーヴェが向かうと、既に皆の姿が其処にあった。
「レーヴェさん、おはようございますっ!」
「うむ、おはようであるー!」
シャロン・エンフィールド(
jb9057)の元気な声にレーヴェも元気よく返した。
そして、シャロンはその姿に少し違和感を覚えた。
レーヴェが、ちゃんと和服を着ていた。乱れず、きちっと。
「おや、レーヴェさん、今日はちゃんと着ているんですね!」
「マオに着せて貰ったのであるー!」
「流石に、いつものような格好は問題あるかと思ってね」
レーヴェと一緒に行動していた眞央が顔を出す。眞央はサングラスを掛けている。
おにーさんは、なんだかオフの俳優さんみたいだね!」
「ああ、こうすれば観光客を装えるかと思ってな。多少奇行に走っても大目には見て貰いやすくはなるだろう」
田中恵子(
jb3915)の声に、答えた眞央。恵子は納得したようにポンッと手を叩き。
「なるほど! なんなら私も、大人でぐらまーな格好してこればよかったかな? のーさつ。おねーさんだからね!」
何処からか取り出した眼鏡をくいっとあげた恵子。下りる沈黙。少し冷たい風が吹き抜けた着もする。
今度は生暖かい眼差しが返ってきた。
「ロリコンさん電車楽しみですねー」
恵子は逃げるようにレーヴェに話し掛ける。レーヴェは元気よく頷き。
「うむ! 人の子のゲートは楽しみであるぞ!」
「まずはそうだね……その人の子、というのはやめようか」
「む」
苦言を呈したのはCamille(
jb3612)。微かにレーヴェは首を傾げた。
老執事から託された純粋すぎる悪魔。この人界知らずっぷりはこれから彼が人界で生きていくには困るだろうから。
「それさ、上から目線すぎるんだよ。だからやめようね。レーヴェも人の世で暮らすから、人の一員になるのだからね」
「我も、人の子の一員であるか……」
感慨深く呟くレーヴェ。そんな彼の背中をバンっと叩いたのはロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)。
「ま、難しく考えんなって。案外人間界暮らしも難しくないもんだぜ。何でも頼ってもいいぞ、俺達は先輩だからな――な、ファウスト」
「ああ……」
静かに頷き答えファウスト(
jb8866)の服装は初夏というのに、裾は長くやや暑そうにも見えるシンプルな服装だった。
「レーヴェさん、それから、ちゃんと耳は隠さないといけませんよっ」
ぽふりと地領院 夢(
jb0762)は、レーヴェにキャスケット帽を被せた。
「あと、ちゃんとお行儀良くするんですよっ!」
「解ったのでなのである! 我は出来る悪魔ゆえ、完璧に成し遂げてみせるのであるぞー!」
瞳を輝かせて言うレーヴェ。思うだけなら、タダだ。
「うん、本日晴天ナリっと」
嵯峨野 楓(
ja8257)は、徐々に朝色に染まり始めてかけた空を眺め軽く微笑む。
雲ひとつない清々しい五月晴れの朝焼け。もしかしたら、未だ梅雨入り前だけれど少し暑くなるかもしれない。
旅立ちの朝は、小鳥の囀りの中。
菫色の空は、全ての音を包み込むように伸びやかに広がっていた。
●
久遠ヶ原を出て、本土に出た。
日が昇るのと同じように、少しずつ目覚めてゆく街並み。運行が始まったばかりの早朝のホームには人も疎らだ。
電子掲示板が示す時刻ぴったり。ホームに流れるアナウンスが、電車の訪れを告げた。
「うわ……ホントに時間ぴったりに来るんだなー」
「貴様は電車は初めてか?」
ファウストの言葉にロドルフォは頷く。遠くから訪れる電車をレーヴェと同じように、何処か
「いつもツーリングだからなー。そういうファウストは?」
「我輩は、移動に使っていたからな」
訪れた電車の扉が開き、一同は乗り込む。
「んー、並んで座れたねー。プチラッキー」
腰かけた恵子がうーんと嬉しそうに呟いた。車内はホームと同じようにがらんとしており、上手く並んで座れた。
「うん……それじゃ、おやすみ……くぅ……」
「え、もう寝ちゃうんですかっ」
早速うとうとし始めた楓に、夢は少し驚きながらも身体を冷やさないようにそっと上着をかける。
「むー……色の違う席があるな……特上席であろうか?」
「あれは優先席だ」
一方、レーヴェの疑問に答えたのはファウスト。チラリと優先席を眺め、直ぐに手元の文庫本に視線を戻す。
「であったら、ファウストは彼処には座らないのであるか?」
「我輩は必要無い。此処に座っているし、それなりには健康なつもりだからな」
後。ファウストは本から視線を離さないまま。
「このように、電車や車の中で本を読むのも出来れば止めておいた方がいい」
「酔うのであるかー? ヒトは酒を飲むと酔うというが、ファウストは電車の中で酒を飲むのか?」
「乗り物酔い、というのもある」
「ノリモノヨイ、であるか?」
きょとん、と首を傾げて質問を次々と浴びせるレーヴェに、ファウストは生真面目に答えることを暫く繰り返していた。
(小夜ちゃんの墓参り、か……こんな気分と状況で、またあそこを訪れることになるとは、思わなかったな)
レーヴェとファウストの声を聞きながら、ロドルフォは窓の外の景色を眺める。遠くに見える山々の緑が、何だか眩い。
小夜の話を聞いた頃にはやりやがった悪魔に、怒りをぶつけていた。しかし、その悪魔は思ったより憎めない奴で。
(ま、未来、何が起こるか解んねーってことか)
ロドルフォは暫く外の景色を眺めていた。そうして、どれほど電車に揺られた頃だっただろうか。
「シャロン、山が見えるのであるぞ!! あれがかの有名なフジヤマであるのか!」
「いえ、あれは富士山ではないと思いますよ。そもそも未だ東京にも入っていませんし……」
そわそれと、レーヴェは落ち着かない様子。シャロンは真面目に答えながらその指差す方向の先を見てみる。
レーヴェの視線の先にあったのは、予想通り何の変哲もないただの山だった。
「しっ 静かにしなきゃ駄目ですよ」
「電車は物珍しいと思うけど、はいはい、騒がないで。声のトーンに注意して」
はしゃぐレーヴェに降り掛かってきたのは夢とカミーユの注意だった。
「他の人は静かにしてるでしょ? 周りの人に迷惑かけないように」
「ですです。大きな声、皆びっくりしちゃいますからね」
「うむ……」
しょんぼりするレーヴェ。お説教するカミーユ。その声に思わずくすりと小さな笑い声が聞こえてきた。
カミーユがそちらへ目を向けて見ると、シャロンが口元に手を当てて小さく肩を震わせている。
「ああ、いえ、すみませんっ! 何だかお母さんみたいだなって思ったんです」
「実際、そんなつもりかもしれないね。何となく幼稚園児の面倒を見る母親の気持ちも今なら少し解る気がするね……」
微かに顔を緩ませるカミーユに、シャロンは納得。
「知らないことを一気に知り過ぎちゃったでしょうか?」
「幸い、素直な子だから飲み込みは早いのかもね」
「ええ、私達が知らない事を沢山教えてあげないといけませんね」
「無知は悲劇に繋がるから。お坊ちゃん育ちで気遣われて育ってきたんだろうけれど、これからは自分でなんとかしないとね……」
そんなことを繰り返さないように。カミーユの言葉にシャロンは頷く。
「人界に慣れる機会とか……小夜さんのことに向き合う切欠とか作ってあげられたらって思うんですけど」
しんみりと呟きながら、ふたりはレーヴェの様子を眺めた。その頃。
「えーと……」
夢は保冷バッグから冷凍みかんを取り出してレーヴェに手渡す。ひんやりと冷たい、橙色のまん丸にレーヴェは軽く目を丸めた。
「はい、冷凍みかん。これを両手に包んで、じっとしていて下さいね」
「解ったのである。ふむ、なるほど……この冷たき果実のように冷静なる心を持てということであるな! 解った。我はレイトウミカンになるのである……」
そうして黙りこくるイケメン。無駄に残念なイケメン。
「ふぁぁぁ……あ、夢ちゃん私にも蜜柑ー」
「はい。楓さん。あ、とと、おはようございます」
楓は目を擦りながら夢に冷凍みかんを貰おうと手を伸ばす。笑顔で答えた夢は楓に冷凍みかんを手渡す。
ひんやりとした冷凍蜜柑の感触に。しかし、未だ眠気が取れない様子の楓は目を擦っていた。
「んー、私朝早いの駄目なんだよね……めっちゃ眠いわ」
「分かります。電車って眠くなってしまいますよね」
電車はことん、ことんと規則正しいリズムを刻んでいる。心地良い振動は眠気と絡まり、再び眠りへと落ちそうになる。
「むー……」
「どうした? レーヴェ」
唐突に聞こえてきたレーヴェの声。眞央が視線を向ければ、はぐれ悪魔は未だ冷凍みかんを手に包み込むようにして持ち、難しい顔をしていた。
「雫がぽたぽたしてきたのである……落ちてきたのである。これもシュギョーなのであろうか。ニンジャとは険しき道なのであるな」
「いや、それは普通に拭けってお前」
振り返ったロドルフォも呆れている。しかし、ロリコンレーヴェは真面目な顔をして反論。
「しかし、この冷凍みかんを持つことが、レイトウミカンへと至る険しき修行なのである。我は挫けぬのであるぞ!」
何か悟った顔をして無の境地を目指すレーヴェ。今ならきっと、素で頭痛が痛いなどと言いかねないだろう。
「……全く仕方ねぇな」
ロドルフォは深く息を吐きながらハンカチを取り出した。
「冷凍みかんを渡せ。とりあえず、拭くから」
「我は修行中なのである」
「何だその理論!」
とりあえず落ちてくる雫だけでも防ぐ。
「レーヴェさん剥いて……というか剥き方わかります?」
「みかんを、剥くのであるか?」
「しかし、ニホン人は皆ニンジャなのであろう? それは、修行に反するのである」
「……あのな、レーヴェ。忍者は」
突拍子もないことを言い出したレーヴェ。彼の瞳を見て、眞央は諭そうとしたが、レーヴェは、至って真面目な表情をしていた。
「だって、駅でぶつからなかったのである。何やらリモコンのようなものを凝視しながらでも人にぶつからぬとは、何か特別な訓練を受けているに違いないのである……!」
「リモコンとは携帯電話のことか? 私もあれは凄いと思うが、しかし、それとニンジャはまた別の話だと思うぞ……」
冷静に諭すように眞央は言う。レーヴェは理解した様子ではあるが、まだ瞳の奧が輝いているところを見るにニンジャの存在を信じて疑わないのであろう。
どうしよう、この人界知らず。
「あ、そーだ! ロリコンさん。新幹線の中からだったら運がよければ富士山が見えるんだよー。今日は良い天気だから見られるかもー」
「楽しみなのである! ジャパニーズ・ソウルはスシとテンプラとフジヤマで持つというのであるゆえな」
何処からその情報を仕入れたのか。思わず恵子は笑った。
●
「買い物してこっかー。まだ時間があるしさ」
「買い物、であるかー!」
新幹線への乗換まで、まだ少し時間がある。
眞央の考えは当たったようで、観光客の集団だと思われたらしい。道行くお節介なおばちゃんに貰った飴玉を口の中で転がしながら楓は案内板を見上げていた。
「折角東京まできたんだし、色々、アキバや池袋でも行くなら歓GAY☆って感じだけど! どうでしょうか? レーヴェさん!」
「ふむー! アキバにイケブクロであるかー。ふむ、何やら面白そうな響きなのであるー」
「それよりも、歓迎のゲイがの発音おかしくなかったか?」
楓の言葉に、それぞれ違った意味で首を傾げるはぐれ悪魔2名。
「んー……流石に、そこまでゆっくりはしていられませんし駅近くの百貨店にしておきませんか? 服が買えればいいわけですし」
「うんうん、経費で落ちるって言うしねー。私も一着……」
「君はダメ」
シャロンにこっそり同調し自らの欲望を叶えようとしていた楓の野望は、ばっさりとカミーユに着られてしまった。
颯爽と女性服売り場へと向かおうとしていた楓の手をシャロンはひき、カミーユに続く。
メンズ服売り場へと向かう道中。バラエティショップの前で眞央は有る物に気付いた。
「文字Tシャツか……」
「うーん、ネタや人避けにはいいかもしれないけれど……これは、服装にカウントしてもいいのかな」
眞央の隣の夢も、静かに眺めている。
じぃっとある文字Tシャツを眺めているレーヴェの瞳は。
「なんか、待てってされてるわんちゃんみたいだねー」
恵子が素直な感想を口にした。
外国人だけではなく、はぐれ悪魔もそそる何かがあったらしい。
※※※
「ふむー、ケイコ。あれは何だ? 何やらサカナのような形をしているが……」
「んー? あ、あれは鯛焼きだよー」
結局、文字Tシャツは買うだけ買ったレーヴェの視線の先には粉物屋。鉄板では丁度鯛焼きが焼かれているところらしかった。
きょとりと、恵子がそちらへと向ける。レーヴェも同じように首を傾げる。
「タイヤ、キ……?」
「タイという魚の形をした菓子だ。中に餡子というものが詰まっている」
付け加えるように眞央が言った。
あんこ。その言葉にレーヴェは自信満々に瞳を輝かせ、得意げに言い放つ。
「アンコ! 我も知っているぞ。マオがこの前買ってきたマンジュウなる菓子の中に入っていたジャムのようなものであろう!」
「よく覚えていたな……」
「うむ、あのしっとりとした歯触りが個性的であってな……あの甘みも程が良かったのである」
ふと気が向いてコンビニで買っただけの小さな饅頭だったのに、思わず感心する眞央。
「ああ、あれは豆だよ。小豆っていうちょっと紫っぽい色の豆なんだ」
「豆が彼程に甘くなるのか。真に不思議である……」
眞央の言葉に逆に感心するレーヴェ。
「入るのは服のお店だけですからね気になるところ全部入ってたらお墓参りの時間なくなっちゃいますから!」
「解ったのであるー」
シャロンの言葉にレーヴェは名残惜しそう。鯛焼き屋を一瞥し、仲間に手をひかれてその場
一同を見送りひとり残ったシャロンは、鯛焼き屋の主人に話し掛けた。
※※※
「おー、馬子にも衣装…ってのはこの場合相応しくねえか……よく似合ってんなそれ」
「ありがとなのであるー! しかし、凄い数になったであるな……」
見た目だけは良いレーヴェを着せ替えて遊ぶのは余程楽しかったらしい。店の人も一緒になり服が山のように積み上がっていた。
ぽむ、と手を叩いた夢が。
「折角ですし、ロドルフォさんも着てみませんか?」
「確かに外見はガイジン仲間かも知れないが、え、あの……」
「問答無用! 面白そうだし逃がすものですか」
楓に試着室に連れ込まれたロドルフォが、その後どうなったのかは――お察し下さい。
※※
新幹線に乗り込んだ一同。
皆が駅弁に舌鼓する中、天麩羅を食べたくて買った天むすと、シャロンがこっそり買った鯛焼きをレーヴェは美味しそうに食べていた。
●
新幹線を降りて、私鉄に乗り換える。ビルばかりの風景に少しずつ緑が混じる。
何度か乗り換えて辿り着いた最寄り駅は、極小さな木造駅だった。列車の発着は一日に数える程。
待合室には石油ストーブと、埃を被ったオセロ。少し古びた新聞紙。
利用者は麓の小さな街と既に滅びてしまった山の中の小さな村の住民だけだったのだから、仕方が無い。
駅前のアスファルトには我が物顔で寝そべった三毛猫が大あくびをしていた。
「次のバスは40分後か……少し時間があるが、どうする?」
アスファルトの上でぽつんと佇むバス停の時刻表を眺めた眞央が振り向いて告げた。
「折角ですし、少し散歩しませんか?」
「ああ、いいと思うぜ」
頷いたロドルフォは、地図を広げた。赤丸印が付けられた場所には事前に調べておいた花屋。
「元々花が一杯咲いている綺麗な場所なんだけどな。墓参りに花がねえってのも何か手持ち無沙汰だし、花屋に行こうぜ」
「そうだね。レーヴェ
駅の付近はちょっとした商店街になっていた。何処か懐かしさを感じる通り。
時折擦れ違う主婦は一同を見ると、少し驚いたような表情を浮かべていた。
「わー! お花、いっぱい咲いてますねー!」
シャロンが感動したような声を上げる。
目的の花屋は商店街の通りの解りやすい場所にあった。こぢんまりとした佇まい。少しくすんだ白い壁。
古ぼけた看板には伊藤生花店と店名が描かれている。
店内のみならず、店先にまで溢れるように咲く花が眩しい程に美しい。
「あ、この黄色い花可愛いねー。なんていうお花なのかな?」
「クロッカス、って言います!」
恵子の疑問に答えたのはシャロン。しゃがみ込み恵子と一緒に花を眺める。
「ギリシャ神話に、このお花に関するお話があるんです」
美青年のクロッカスはスミラックスと恋に落ち、愛し合った。だけれど、神々はその恋を認めようとせず、ふたりの仲を裂いた。
悲嘆に暮れたクロッカスは自ら命を絶ったという。
「それを哀れに思った花の女神フローラが、彼の亡骸に供えたお花がこのクロッカスなんだそうです」
「ふむ……よく知っているのだな」
ファウストの言葉にシャロンは照れたような笑いを返して、クロッカスを指で撫でた。ぽつんと、水滴が落ちる。
「紫色のクロッカスには……愛したことを、後悔するって花言葉があるんだそうです」
「ですが、黄色のクロッカスは青春の喜び、という意味を持っているんですよ」
「我輩もだ」
だから、私は愛することに間違いはないのだと、今でも信じています。そう、強い想いを見せるシャロンに、ファウストは穏やかな笑いを返した。
「レーヴェさん、好きな花を選んで下さいなー。レーヴェさんが、小夜ちゃんにあげたいって思う花を」
楓の言葉に、頷いたレーヴェは腕を組んで真面目に花を眺める。
季節の変わり目。そうしてレーヴェの巡る視線を止めたのは青紫色をした星のような形をした花。
「……桔梗、かな」
「確か……花言葉は誠実、そして変わらぬ愛でしたよね! レーヴェさんにぴったりだと思います」
「うむである! サヤもこの花に似たワフクを着てであるゆえな。好きだったのかと思ったのであるよ」
「きっと小夜さんも喜びますね」
夢の無邪気な声。では、これにするのである!とレーヴェは元気よく答えて、店の中へと入っていった。
その声が、何だか楓には遠くて。その無邪気さが眩しくて。楓は少しだけ目を細めた。
(変わらぬ、愛か)
もう見えないはずの白い花が其処に在った気がした。君影草。あの日の瞳には何が映っていたのだろう。
「楓ちゃん、どうしたの?」
かけられた声に楓は振り向いた。少しだけ低い位置に居た恵子が穏やかな笑み。
「ううん、レーヴェさんいっつも通り元気だなぁって思って、それだけ」
「そっかー」
恵子は静かに頷いて、それ以上は何も言わない。ふと、彼女の表情を見ればその笑んだ瞳は何処か遠くを眺めているようで。
だからこそ、心の呟きが漏れてしまったのかも知れない。
「私は終わったことを、後悔したりなんかしたくない」
「……うん、それが一番。一度しかない人生だもの」
悔いなきように世界を愛して逝けたのならば。恵子はそっと微笑み。
「いつか世界とさようならする日が来ても私は、泣いてもいいからこの世界が大好きだったって胸を張っていけたらなって思うよ。でも、やっぱり笑っていけることのがいいのかな」
恵子の声に、
「カエデ、これプレゼントなのである!」
その声に楓は振り向いた。レーヴェから渡されたのは、菫の押し花の栞。
「これ、どうしたの?」
「『外人のお客さんが来るなんて珍しいね、とお店のおばあさまに貰ったのであるよー!」
曰く、店主の孫が大切に育てたものを押し花にして、ラミネート加工し栞にしたものらしい。
花言葉は、ささやかな幸せ。
「……ありがと、レーヴェさん」
変わることも終わることも後悔することはない、考える程恐いことでもない。
少しだけ柔らかくなった風が、微笑んだ楓の頬を撫でた。
●
日の盛りは過ぎて、やや太陽が西に傾いてきた。
山登りとはいっても、待宵村と麓の街はそれなりの行き来があったらしい。なので、道は整備されていた――と、この場所へ訪れたことのあった4人は思って居た。
「緑がいっぱいだねぇ。森ガールと言うよりは樹海ガールになれそうだよー」
「樹海ガールは、流石にちょっと言い過ぎじゃないかなぁ。精々、野戦ガールくらい?」
恵子が暢気な呟きに、返ってきたのは楓の声。
「……最早、どのようなジャンルかすら解らないが、言おうとしていることはなんとなく解った」
眞央は少し息を吐いて、前を見た。
故に一年ほど前はちゃんと道という形を取っていたのだろう。しかし、一年以上も殆ど誰も通ることの放置されていた道は荒れている。
「あ、ありがとうございます! けど、大丈夫ですよ?」
「撃退士だから体力面は気にしてねえけどさ、女の子の肌に擦り傷が付くのは見過ごせねえんだよ」
「心遣いは受け取っとくよー」
ロドルフォの声に恵子は笑って返し、気付く。
「あれじゃないかな!」
あの日、あの子が居た場所が見えたから。
●さよならと、はじまりと
辿り着いた待宵村は、あの日とちっとも変わっていなかった。
穏やかな時が流れている。緩やかに、季節が巡る美しい村だった。ただ、声だけは永久に喪われてしまった村。
緑は覆い繁って、芝桜が一面に咲き乱れていた。花の絨毯の一角に小さな墓が。丁度一年前に8人の撃退士の手
「小夜ちゃーん来たよー」
ふらりと、久しぶりに会う友人に対するように気楽に墓標に話し掛けた楓。
立ち止まる様子だった
「レーヴェ、サヤは人であること望んだ。だから、墓参りも人の作法でしてあげようね」
カミーユの言葉にレーヴェは頷く。彼が今身に纏っているのは蛍柄の和服でも、デパートで買った洋服でもなく喪服だった。
眞央が幾つか持ってきた服装の中から選んだ服。カミーユに教えられながら、線香と花を供え、じっとレーヴェは墓標を眺めている。
「レーヴェは、サヤに何を言いたい?」
「何を言っても、自己満足にしかならぬのであろう」
だけれど。せめてを言うならば。
「サヤは、我の世界だ。我は小夜と出会うことがなければ、あの狭く暗い冥界の外を知ることもなかったであろう」
だから、生まれた故郷を捨てたことに後悔はない。友や親しい人と別れるのは寂しかったけれど。
「……我は、サヤから世界を奪ったというのにな。本当に身勝手な話だ」
「ね、レーヴェさん。ちょっと、きてくれませんか?」
空気を流すような声。夢は、レーヴェの手をひいた。
「綺麗、ですね」
シャロンの声が漏れた。遠くに見える空には橙色と藍色は今まさに混じり、一つに溶けようとしていた。連れて来られたのは、小高い丘。
眩い程に鮮やかな夕焼けの輝きを映した広葉樹は、黄金色に燦めいている。
「此処、小夜さんのとっておきの場所なんだそうです」
「サヤが……確かに、美しき光景なのである」
金色の目を細め、沈む夕陽を眺める。
「ねぇ、レーヴェさん。小夜さんのこと忘れないでは辛いよね」
レーヴェを呼びかけたはずの夢の声。だけれど、それは何処か独り言のように、謡うように呟く。
「忘れて、も辛いよね。けれど、それに押し潰されたら、きっと小夜さんも、レーヴェさんのお友達も、マオさんも哀しいもの」
重荷にならないように、受け止めやすいように。優しく素直な言葉。
「だから、偶にはこうやって思いだしていきましょう。小夜さんのことも、前の世界のことも」
「ユメ……」
そして、夢は微笑んで。
「出来れば、楽しい思い出と一緒に」
「もう気にしなくていい、ってことじゃなくて前を向いていく為の一歩です。此処にきたことも、こうやって小夜さんのことを思い出すことも……また迷ったり困ったりしたら、声かけてくれていいですから!」
夢に続き出たシャロンの言葉は明るく、励ますようで。
「あ、蛍」
いつの間にか日は沈んでいた。ふわふわと何処からともなく浮かび上がる蛍達が、まるで地上の星のように輝いては揺らめいていた。
「小夜ちゃんが、レーヴェさんに会いにきたのかもしれませんね」
「……死者の魂が蛍になる、という物語も人の世にはあるのだよ」
楓の言葉に付け加えるように呟いた眞央は、和笛を構え奏でる。
流れ出でる音色は、かつてこの村で流れていたものと似ていた。
(死者の魂、か)
ファウストは何気なく儚げに揺れる光に手を翳してみた。
(お前も、其処に居るのだろうか)
愛した女性が居た。彼女をヴァニタスにしたいと申し出たこともあった。
だけれど、彼女は人の生活が良いと言って、それは実現しなかった。
だけれど、一歩間違えれば、ファウストも同じような悲劇を起こして居たのかも知れない。
もし、そうだとしたら再び、その地に立とうだなんて思えるのだろうか。
「……レーヴェは、強いな」
ファウストのかざした手のひらに、ひとつの蛍が止まって、声に応えるように瞬きをした。
「むぅ、ファウスト言っている意味がよく解らないのであるぞ」
ファウストの呟きは、本当にその部分しか音にならなかったから、レーヴェは首を傾げ。
「なぁ、レーヴェ」
ロドルフォは空を仰ぐ。夜空にはあの日のように切ない程に美しい星の海が広がっていた。
「また、来ようか」
「……うむ」
静かに頷いたレーヴェの肩に蛍がとまって、優しく光を浮かべた。
その光が、頬に燦めく水を映したような気もしたけれど、ロドルフォは見ないふりをして、そっと息を吐いた。
空は果てなく、終わりもない。
そんな空の下に広がるこの世界は、想像よりもずっとずっと広い。
新たな世界の知識と、これまでの思い出と、変わらぬ想いを抱いて、ずっと、忘れぬ誓いにしよう。
夏は、もうすぐ其処まで訪れている。