●回想
人格というのは、沢山の知識や経験が積み重なり形成された謂わば一種の記録媒体のようなものだ。
環境でいくらでも変化する。だけれど、環境で固定もされてしまう。
だから、悪魔として生まれたのならば天使と戦い武勲を上げることが当たり前だと思っていた。其れが当たり前のことだと信じていた。
その意味も知らぬまま、それが正しいことなのだと――そう、教え込まれて。
兎に角、勝たねばならないのだと未だ幼かった自分に、大人達はまるで子守歌でも聴かせるかのように言い続けた。
「レーヴェさん、今日もお疲れ様です!」
その日も、屋敷へ戻るとクラウディアがまるで尻尾でも振るかのように駆け付けてきた。そうして、じぃっと自分を上目遣いで見てきて話をせがむ。
時偶我が家に押しかけては自分の話を聞くことは、どうやらこの幼き悪魔の日課になっていたようだった。
「今日はどんな話を聞かせていただけるのでしょうかっ」
そのクラウディアの母と自分の父は旧知の仲らしい。気性も荒くプライドも高い父が唯一信頼していた軍師がクラウディアの母。
その子どもである自分達は、とあるパーティーで知り合い、そして、話す仲になった。
「なぁ、クラウディアよ。ヒトとは何だと思う」
だから、たったひとつでも違う知識が増えれば、それだけで変わってもしまうのだ。
朱が混じれば紅くなるように。其れは難しいようで、凄く簡単なこと。
「ヒト、ですか?」
藪から棒になんです。そう訊ねたそうにクラウディアはきょとん、と首を傾げる。
何でもないと自分は首を振り、話を切って、広げた本の1頁、目に入った青紫色の花に、いつかの声が蘇る。
『私…いえ、私達は貴方にとって小さくか弱く見えるのかも知れません。いつかは死ぬ儚い存在です。貴方の言うように永遠の生を望む者も居るかも知れませんが』
ひとつを知れば、世界は変わる。
ひとつを信じれば、己も変わる。
変わるということは、世界は壊すことだ。今まで信じてきた己が世界を、人格を塗り替えて行く。知ることで、全てが反転してしまう。
声が蘇った。自分にとってはその『ひとつ』の切欠になった、人間の少女の声。
『だけれど、誰かの生を踏みにじり、犠牲にしても何も痛みを感じなくなる存在だなんて……私は、そんなの生きているとは、言えません』
貴方もいつかきっと、解ります。其れを教えてくれる誰かに出会います。私は教えることは出来ないけれど、そんな日が来ることを祈っています。
そうして、哀しそうに微笑み死を選んだ少女の――その最期の言葉の意味が、漸く解ったような気がした。
恋を覚え、愛を知り、そうして悪魔の世界は反転した。
●夜もすがらに
伸ばした手の先さえ見えない程の闇。
新月のように、か細く頼りのない月と星の輝きは厚い雲と木々に遮られて欠片さえも視ることは出来ない。一面を包み込むのは、全てを飲み込み消し去る静寂の漆黒。
草木も深い眠りへと沈んだ夜半過ぎ、世界は死に絶えたように静まり返っていた。
「お坊ちゃま。何故、剣を執らないのです」
だからこそ、静寂の世界を割るような其の声は異質で重たく、不思議な響きを孕んでいる。
レーヴェは自分を見下ろし言うマオの姿を、ただ眺めていた。疲労と傷は深く悪魔の体力を奪っている。まるで地に身が縫い付けられたかのように、上手く力を入れることも叶わなかった。
だけれど、剣を握れないのは違う理由。ただ執事を見つめ動かない彼を、マオは目を細め眺める。
「私は本気ですよ、お坊ちゃま。貴方様が武器を執りたくないと言うのならば、それでもいいでしょう。しかし、こちらに手加減はしませんよ。これは訓練とは違うのですから」
マオは言葉とともにモーニングスターを握り直す。小さく歩を進める。擦れ合う地と靴は小さな音を立てた。
「ちょーっと待ったぁ! 待ったなしは言わせないよー!」
その間を裂くように割り込んだのは田中恵子(
jb3915)の声だった。ストレイシオンを召喚した彼女はびしぃっと人差し指を突き立てて言い放つ!
「けーこさん。ロリコンさん。激おこしちゃうよ!」
マオの声とはまた異なる意味での異質な声に、レーヴェはそちらに目を向ける。そして、驚きと
「ケイコ……プンプンマルなのであるか?」
「そうです! ぷんぷん丸です、ムカ着火ファイヤーですよ! なので、そこのおじーさん。恵子さん達が華麗に邪魔させて頂きますよ! 勝負だー!」
「おや、来客ですか」
マオは恵子の方へと振り返る。其処には恵子を先頭に、撃退士達の姿があった。
「全く、困った王子様だよ」
レーヴェの前に立ち塞がるように現れた嵯峨野 楓(
ja8257)は、はぁっと息を吐く。見た目だけはイケメンなのだから。
「離反するなら、満月の浪漫溢れる夜にしてよね。迎えに来る方のことも考えて欲しいよ」
「どうして、此処にいるのであるか?」
軽口を叩きながらも符を構え、立ち塞がるように立った楓にレーヴェは問う。だけれど、楓はただ手をひらひらと踊らせて振り向かない。
「助けにきたからに決まってるじゃないですか! 仲間を、見捨ててはおけませんっ!」
シャロン・エンフィールド(
jb9057)は、明朗な声でごく当たり前のように言う。
「今の状況は大体聞いていますっ! はぐれる決心をしたのは様々な経緯があるでしょうが、最後の一押しはきっとこの前の一件ですよね」
だったら。シャロンは拳をきゅっと握り、前を向く。戦うことは苦手だけれど――。
「必ず、守ってみせます! ジュリエットが迎えに来るなんて台本も、別にいいですよね!」
「うむ、焚き付けた以上は、それ相応の責任は取るさ」
「とゆーことで、お荷物さんは紅茶でも飲んで一息ついてて下さいねーっと」
ファウスト(
jb8866)の言葉に続くように楓が投げたストレートティーの缶。咄嗟にレーヴェは受け取り、その顔を眺める。
楓が浮かべていたのは、恐れなど微塵にもみせない自信に満ちた表情。それは、他の
「一応聞くが、お前の父親は名誉を重んずる方か?」
「我が家は長く続く武将の家である。天使との戦いで数多くの武勲を立て、上に忠節を尽くしてきた。父上はそれに誇りを持っているのである」
ファウストの問いにレーヴェは頷く。誇りある家なのだ、それが父の口癖だが今の自分にはただ埃有る家としか思えない。そんな、父が家を棄てた息子をどう思うかなど、想像に容易い。
「……ならば、なんとしても貴様を此処で渡すわけには行かないな」
「ファウスト……」
「言ったであろう。貴様は既に我が輩の『仲間』だ。その仲間の危機を救うのが、そして『友』としての役割ではないのか?」
「ふむ……すまぬのである」
「だぁっ! 謝ることなるな面倒な奴だな全く!」
ロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)は、謝りの言葉を口にしたレーヴェを怒鳴り付けてから、彼の前に立ち、振り向かぬまま告げた。
「……やっと、その気になったんだろ。けしかけた責任くらいは取ってやるだけだっつーの。勘違いすんな、俺らもやりたいようにやってるだけだ」
「おやおや、だいぶ賑やかになってきましたね」
その様子を、マオは目を細めて眺めていた。モーニングスターを手に、戦闘態勢は緩めないといった出で立ちの老紳士。
(優しい目、だな)
しかし、地領院 夢(
jb0762)が抱いたのは敵対するような者とは相反の優しい印象。
本を構え、構えを取る夢。
(なんだか、私を見るおねえちゃんの瞳に似ている気がするな)
それは子や姉弟を優しく見守る、保護者の目。その瞳に自分も大切な姉の姿を思い出す。
もし、自分がその姉と別れなければならなくなったら、どう思うのだろう。それくらいに――。
「大切な人、なのかな」
ぼんやりと呟いた夢の言葉に、姫路 眞央(
ja8399)は頷く。穏やかでない状況にも関わらず、ふたりの間からは積極的な敵対的姿勢は見られない。
「レーヴェ……あの悪魔とはどのような仲か?」
「我が家の、執事である。我が生まれた頃より親に代わり育てた、親代わり、名をマオという」
その名を聞いた眞央が少し驚いたような表情を浮かべた。レーヴェは悔しそうに弱々しく拳を握る。
「よりにもよってマオを追っ手に差し向けるとは……父上は」
「旦那様が、何だというのです」
変わらず、穏やかな笑みで訊ね返したマオ。
「はぐれるというのはこういうこと、レーヴェ。愛するということを貫くのはいい。だけれど、それは選ぶこと。こうなることは避けられないんだよ」
やり取りを眺めていたCamille(
jb3612)は、ほうっと息を吐く。そうして、訪れるディアボロ達を薄明空のような瞳で映す。
「どちらにしろ、マオと戦うのはこの人形達を片付けてから。その間に改めて考えておくといい。君の選択の、その意味を覚悟を」
カミーユは仲間達を見回す。
「ああ――さて、こっから先は通行止めだ! これ以上先は行かせねえ!」
ロドルフォはカミーユに頷き、盾を構え叫び、注目。声に誘われるように駆けてきたニンジャの刃を凌ぎ、受け流す。そして出来たほんの僅かな隙。
「今だ!」
「はいっ! いきますっ!」
ロドルフォの叫びにシャロンは星色の髪を揺らし、符を構えた。水月の符から放たれる三日月のような力の刃が、ニンジャを討ち落とす。
「次は、あちらですね!
夢が纏うのは冥府の風。強まる無尽光の力が一気に弾けた。
花火のような夢の光はキシとヒメを呑み込み弾ける。キシは
「ヒメを守る忠節なキシか。人形なのに、よく出来ているね」
カミーユは感心したように呟く。しかし、その瞳には裏腹に強い光が宿っていた。
「けれど」
人形には決して手は届かない、届けさせない。言葉の先は魔具に込めて、振るう珠は黄昏色の光矢を奔らせる。迷いなく伸びた一矢はキシの鎧を砕き、その活動を停止させた。
残るは、ヒメとマオだけ。マオはモーニングスターで叩き着けるが、ほんの僅かにロドルフォや眞央に傷を付けただけ。どうやら、本気では無い様子だった。
「やったか……っていうのは、どう考えても、フラグだよね……」
楓は、遠くから同じようなディアボロが更に現れるのを視認してどっと
「はぁ……全く。おもちゃはちゃんと、おもちゃ箱にしまわないとね!」
軽口を叩きながら楓は息を吐く。
「こうなることは予測していたな」
「何がだ」
ファウストが訊ね返す。
「レーヴェさんのこと。この選択が愚かとは思わない。だけれど、正しいとも思えない」
「そうだな。しかし、我輩はその決断を尊いと思う。それなりの家柄であったはずならば相当な覚悟だろうしな」
殆ど成り行きで人界を選んだ自分とは違う、ファウスト。
「だから私はただ、手をとろう」
楓の言葉にファウストは頷いた。そうして、冷たく吹き抜ける夜風とともに集まる楓の魔力が寒月のように青白く輝く蝶の形をとり、人形達の群れを穿つ。
その一撃すらも、キシがヒメを庇うが。
「ああ、だから彼奴をこんな所で死なせるわけにはしない」
意識朦朧とするキシの背にいるヒメ目掛けて、ファウストが雷撃を放ち、ヒメを焦がす。
まけじとヒメがレーヴェ目掛けて炎弾を放つ。しかし、踊り出て防いだのはロドルフォ。
じり、滲み浮かぶ汗。だけれど、なんとか堪えきる。
「心ない人形にあいつの決意を踏みにじられて溜まるか!」
ロドルフォは、そのまま襲い掛かってきたニンジャ人形を鉄盾で殴りつけ押し返す。
弾き飛ばされるニンジャ。砂煙をも立つ中、体勢を取り直そうとするが、しかし反対側に待ち受けていたのは素早く回り込んでいた眞央が拳で殴りつけ、押さえ込んだ。
倒せば沸いて、沸けば倒す。それを繰り返す。
それから、どれほどが経ったのだろうか。
倒しても、倒しても、沸いて出てくるディアボロ達。少しずつ力を増していくような気もする彼らを、傷付きながらも凌ぎきっていた。
やがて、だけれど、定期的に訪れていたはずのディアボロの姿が確認出来なくなった。
「増援が、やみました……?」
シャロンの呟きにカミーユは頷く。
「……どうやら、あちら側がなんとかしてくれたようだね」
増援が止めば、こちらのもの。連携で
やがて、マオ一人になる。
「レーヴェ」
「何だ」
眞央の呼びかけににレーヴェは顔を上げる。
「……マオと戦うのは辛いか?」
しかし、続けて投げられた眞央の問いに再びレーヴェは俯き黙す。戦うことには慣れていた。人を守る為ならば、かつての同胞と戦うことも、きっと出来る。
それだけの覚悟のつもりだった。しかし、それが幼き頃から自分を見守ってくれた執事に、剣を向けることに辛くて。
「……だけれど、はぐれるということは、こういうことだよ」
眞央に続くようにカミーユはただ静かに言う。何かを変えることは、何かを失うことと同意義。
「例え親しかった友人や親兄弟でも、立場が変われば関係も変わる。いずれは殺し合わないといけなくなる」
「ま、私はそういうのも好きですけれどね」
楓がくすりと唇に人差し指をあてて、言葉を紡ぐ。ファウストは少しだけレーヴェに顔を向け、訊ねる。
「今一度問う。己が選んだ道を貫く、その覚悟はあるか?」
「ヒトの命を踏みにじり、そうしてしか生きていけぬ生というのならば、死を選んだ方が良い――漸く、彼女が言っていた言葉が分かったような気がするのである」
人の子はか弱くも美しく愛おしい存在。レーヴェのその答えに楓は満足そうな表情を浮かべ、告げた。
「じゃあ、揺るがぬ意志というというのなら、その決意、魅せてやりましょ?」
「お前の手で決着を着けたいならそれでもいいし、仲間に任せるって決断もありだぜ」
自分の元居た世界を棄ててでも、愛し続けることを決めたのなら、お前はもう仲間なのだから。ロドルフォは力強く笑った。
(人の愛を知る為にはぐれるレーヴェさん。なら、家族のような存在を撃つようなことは、個人的にはしてほしくはないですけれど……)
その傍らで、そんな言葉を呑み込み、シャロンは黙して様子を見守っていた。
一同の視線が、傷だらけのはぐれ悪魔に集まる。
「……あとは、レーヴェさん自身が決めて。マオさんの為にも」
夢の言葉にレーヴェは暫し悩んだ様子を見せ、やがて大剣を執る。
振るわれた剣。衝撃は蛍火のような燐光を纏い夜の森を駆け抜ける。一直線に伸びた封砲は老紳士悪魔の姿を飲み込んだ。
●愛することに、間違いなんてない
「甘いですね、お坊ちゃま」
「我は攻撃した。傷だらけの今の我の限界である」
「言い訳など、通じると思いますか。何年貴方様のことを見てきたと思いますか。お坊ちゃまは嘘を吐く時は少しだけ右に瞳を逸らされる」
「むっ う、嘘を吐いてなどおらぬっ 真であるゆえ!」
マオの指摘に、レーヴェは必死に取り繕う。マオが意識を取り戻したのは、その直ぐ後だった。
殆ど傷も無い。一瞬意識を奪っただけの攻撃とも呼べない一撃。
優雅な動作で腰を上げるマオに、つかつかと歩み寄ったのは恵子だった。
「お年寄りには優しくしてあげるのが田中家の家訓! 今そう決めたので!」
しゃがみこんだ恵子は得意顔で絆創膏をおでこにぺったり。そうして、優しくその場所をさすりながら。
「いたいのいたいの、とんでけー! これで、完璧! ふっふー、さすが私おねーさんだぜー」
「なぁ、恵子ちゃんよ……その絆創膏はちと小さすぎねぇか?」
ロドルフォの言葉も聞かぬふり。変わらず得意顔を続ける恵子に、マオはくすりと小さな笑いを立てた。
「ふふ……愉快なお嬢さんでございますね」
「けーこさんは、大人のおねーさんですよ! お嬢さんとは、まったくけしからんー」
ぷうっと頬を膨らまし、拗ねた振りをする恵子に、またも和やかな雰囲気が流れる。
「マオ、と言ったね。君はこれからどうするんだい?」
カミーユの問いに、マオはなんてことのない言葉を返す。
「今更、私が出る幕も無いでしょう。好奇心旺盛な少女を連れて、冥界に戻ろうと思いますよ」
「……やっぱり、レーヴェさんを試していたんですか? 旅立つ前に最後にしてあげられる試練のような感じと思っていましたから」
夢の問いかけに、マオはただ静かな笑みを返す。言葉は無い。しかし、それは肯定の意での回答で。
「レーヴェの父からは信頼は厚いようだが……しかし、レーヴェを連れ返さなかった場合、貴殿の命はどうなるのだ……?」
「そうですね。マオは長のお暇を頂こうと思っておりますよ。長く勤め上げましたが、このようなことをしでかすのは、レーヴェ様が最初で最期になるでしょうね」
眞央の問いにマオは直接の言葉は返さなかった。だけれど、そこに込められた意味は嫌でも、すぐに解ってしまう。
「マオ!」
叫んだレーヴェにマオは首を振る。
「ねえ、お爺さんとロリコンさんがどんな関係とか、どんな気持ちでここにいるのか、とか、今日初めて会ったばっかの私なんかじゃ、全然わかんないけど」
それでも、何だろう。もやもやとして上手く言葉にできない感情達。ぶるぶるっと恵子は頭を振って、びしりと指を突き立てる。
「つまり、私が言いたいのはですねー。何でもかんだも意志疎通なんて思わないでってことですよ。レーヴェさんに未だ言っていないことがあれば言うべきです! 口に出しないと伝わんないことだってあるんだから」
そういうと恵子は頬に手をあてて、冗談めかしたように笑った。
「だから、けーこさんはお爺さんのデレデレ、見てみたいなー」
「それは、随分と無茶なことを仰いますね」
困ったようにマオは、微笑みながらレーヴェに瞳を向けた。
「お坊ちゃま……いいえ、レルヴァティエン様。貴方は私に剣を向けた。それが、貴方のお覚悟でしょう。答えでしょう。今までの世界を壊して、冥界や家を棄ててまでもなお、求めた未来でありましょう」
優しき瞳に、意志が籠もる。これは、最後の《執事(ちちおや)》としての――言葉。
「ならば、その意志。貫き通しなさい」
その剣の切っ先を向ける相手を間違えなさりますな。諭すのとは違う強い口調。レーヴェの意志に曇りはない。
「いいんだよ、レーヴェ。それだけの覚悟を持って君に対峙していたんだ」
やや俯くレーヴェに声を掛けたのはカミーユ。
「独り立ちできると証明するのも、親孝行になるのかもね」
「独り立ち、であるか」
訊ね返したレーヴェにカミーユは歌うように言葉を続ける。
「自分の思うがまま、好きに生きる……それは、エゴってこと。愛することは選ぶこと。全てを選ぶことは出来ないから優先順位を決めて、諦めていくしかない」
その道で、人を傷付けたくないと思っていても、避けることは出来ないのならば、例え、別れたとしても――ならば、ひとりでも歩いて行けることを証明するのがせめてもの道。
「……ごめんなさい」
「気になされますな……混じり者のお嬢さん。どうぞ、顔をお上げなさいな」
その傍ら、申し訳無さそうに頭を下げたシャロンの頭をマオはしわくちゃな手で一撫でる。恐る恐る覗き込むようにシャロンは顔を上げた。
「だけれど、愛情が、あったのですよね? レーヴェさんを逃がすことがどんなことになるか……解っての決断、なんですよね」
「ええ。だからこそ、嬉しいのですよ。我らにとってヒトは餌に過ぎません。サヤという少女に感情移入なさるお坊ちゃまのことは。正直、理解致しかねます」
口をつぐむ一同に、マオは言葉を続ける。穏やかな笑みを浮かべて。
「ですが、我らにも愛情はあるのですよ。お坊ちゃまの場合は、それがヒトに向いただけのことです。ヴィントラーゼン家の執事としては止めなければいけませんでしょう」
だけれど、個人的なことを言えば。
「マオは、嬉しくあるので御座いますよ」
直に訪れる寿命も解っていた。レーヴェが恐らく最後になることも。だからか、殊更に思い入れも深くて、ずっと見守ってきた。
「お坊ちゃまに本当の望みの道を歩かせる背中を押してくれた貴方達には、感謝すらしているのですよ」
大切な人程離れるのは寂しい。だけれど、その分だけ願うのはその人の幸せ。だから、夢は言う。誓うように、安心させるように。
「レーヴェさんは、大丈夫だよ」
「はい。友人として、しっかり指導しておきますから」
夢に続き胸を張った楓。マオは頷く。そして、シャロンの姿を眺めながら。
「頼りにしておりますよ、人の子方。人と悪魔、住む世界も時間さえも違う生き物ですが、其処に愛が生まれることもある……このお嬢さんが生き証拠でありましょうからね」
「はいっ レーヴェさんと小夜さんはあんな結果になっちゃいましたけど、私は想うことに間違いなんてないって思うんです」
かつて、迎えに来ると言った父。その父を説得しようとして無くなった母。
傍から見れば悲劇にも。哀しいことだってあるけれど、愛することに間違いはないのだと、シャロンは信じていた。人と悪魔を繋ぐ絆の翼を持つ少女は力強く微笑み、告げる。
「だから、絶対大丈夫です」
やがて、夜が明ける。
戦いの結果がどうであれ、クラウディアと一度落ち合うことになっていた。
ディアボロの増援が止んだということは、クラウディアの戦闘も終えたということ。直に彼女が来てしまう。だから、その前に。
「……くっ。私も老いには勝てませんでしたか。持病の腰痛が……」
態とらしいマオの動作。早くお行きなさい。そう、瞳でいいながら。
間違いなく、これが永遠の別離だ。だから、レーヴェは告げた。
「さらば、であるな。マオ」
レーヴェの言葉に、お元気でとマオの唇が動き声にはならない思いを告げた。
「じゃ……すーさん、お願いね」
恵子の声に応えるようにストレイシオンは傷だらけのレーヴェを背に乗せた。
そうして、夜明け前の雑木林を振り返ることなく9人は走る。
ひとつを得た。ひとつを、失くした。
ひとつの始まりと、ひとつの終わり。
「そういえば、レーヴェよ。人界に疎いなら、暮らすにも苦労するだろう」
「……うむ? 人間界は段ボールで暮らせると聞いたのであるが、違うのか?」
眞央の問いに、レーヴェは真顔で答えた。思わず脱力してしまいそうな回答に、ロドルフォはこけそうになる。
「逆にお前はそういう知識を一体、どこから仕入れてくるんだ……」
「ふむ? マオが言っていたのだ、ヒトとは随分と逞しいなと思ったのである。後、他にも教わったぞ! タバコというアイテムでコンジョウをいれるコンジョウヤキ。失敗すると上司にハラキリを命じられるのであろう? 怖い、国なのである……」
またもや、真顔だ。何に関しても博学なマオの言葉や知識をそのまま信じているようだった。ベタな勘違いというか。なんというか。
「一人にしておけないね、これは……ありがちな勘違いといえばそうだけれど、人間界に溶け込むところからまず、難しいね」
カミーユは、何だか疲れたかようにはぁっと息を吐く。いっそ勘違いも、ここまでくると清々しい。
「……ということだ、人間界というのは案外複雑なもので学ぶことも多い。それに、色々な手続きや等もある、だから、うちへ来ないか」
「いいのであるか?」
首を傾げるレーヴェに眞央は薄く微笑みを浮かべた。
「うちには天使の居候もいる。我が家は広い、今更悪魔が1人増えても何の問題もない」
そう告げると眞央は薄く笑いを浮かべた。
「改めて……私の名もマオだ。奇遇だな」
老執事の代わりを、なんてことを言うつもりはないけれど。
これからは、同じ道を歩む友として、仲間として、そんな掛け替えのない存在として、優しい父親のような表情を浮かべる眞央に、レーヴェは口を開く。
「レルヴァティエン・ヴィントラーゼンだ。しかし、古き友が付けてくれたレーヴェというあだ名が気に入っていてな……これからも変わらずそう呼んで貰えると嬉しいのであるよ」
その友にも、もう会うことは無くなるだろうけれど。改めてはぐれることのその意味を思い知ったレーヴェ。成り生きではぐれた自分とは違う。だから、ファウストは口を開く。
「……はぐれたことで、失ったものも多いだろう。だが忘れるな、貴様は決して独りではない」
「まぁ、辛くても不安でも、しょうがないから支えてあげますよ。友人ですから」
楓もともに微笑んで、ふたりが投げかけた言葉は、少しだけ不器用な激励だった。
そうして、なんとか歩き続けて漸く雑木林を抜けた。
仄暗い世界は、少しずつ色彩を取り戻して行くように光で溢れていく。いつの間にか晴れていた空が段々と紫色に染まって。
夜明け。長すぎた夜の終わりがようやく訪れようとしていた。
「ね、レーヴェさん。空を見て」
消えて逝く星達を追い掛けるように夢は促す。そろりと、顔をあげたレーヴェ。
「あの日もね、こんな綺麗な星空だったんだよ」
夢は懐かしむように語りかける。紫紺色に飛び散り、自由に
「私が小夜さんと話したのは……小夜さんの一生のほんの、ちょっとだけだけれど……凄く、優しい女の子だった。だから、きっとレーヴェさんの今の姿を見たら許してくれそうな気がするな」
あの日、見上げていた空には、満天の星と月が燦めいていた。声の消えてしまった世界を、その欠けを精一杯埋めようと光っていた星屑達。
ただ、綺麗だった。切ない程に眩しい輝き。舞い上がって行った蛍達は、あの日逝った少女を連れゆくように空へと消えていった。
「でね、今日の星空はあの日と何だか似ているって思うんだ。だから、きっと小夜さんが今も見てくれている、今のレーヴェさんを見ていて、許し見守ってくれるって……私は、信じるよ」
「ユメも、優しいのであるな。其方の瞳はなんだか少しサヤに似ておるのであるよ」
しんみりと空を見上げ呟くレーヴェ。朝焼けの空に、星は少しずつ溶けてゆく。
「レーヴェ。お前のそれは愛じゃねえって言ったの、訂正しなきゃな」
「む?」
ロドルフォの唐突の言葉にレーヴェは、星空からそちらへと視線を向ける。堕天使は少し
「お前は、小夜ちゃんを愛してよかったんだよ」
そして、これからも。
「誰かを愛して、愛されていいんだ。お前はそれだけの代償をきちんと払った……お疲れさん」
「ロドルフォ……ならば、我はこれからもロリコンと名乗ってもよいのだろうか?」
「いや、そのロリコンという単語はだな。前から言おうと思ってい――」
ファウストは今度こそ意を決して口を開いた。前回伝えられなかったロリコンという言葉の正しい意味とニュアンスを。だが、しかし。
「はい! レーヴェさんはこれからもロリコンって名乗っていいんですよ。それがレーヴェさんの誇りなんでしょ? 胸を張って語るべきですよ」
「うむ……カエデ! 我はこれからも胸を張ってロリコンと名乗るぞ! サヤを好きで居続けるのである!」
言い掛けた途中で楓に遮られ、またも機会を失ってしまうファウスト。楓は、屈託泣く笑った。それは、悪戯心たっぷり籠もったものであったけれど、レーヴェは気付けなかった。
「……まぁ、いいですよね。それも愛ってことですからっ 私はその気持ち、素敵だと思いますよ」
すっかりと流されてしまい、複雑そうな面差しを浮かべ黙るファウストの姿に気が付いたシャロンがフォローなのか、慰めなのか、よく解らない言葉を投げかけた。
やや騒がしくなってきた一同に、ロドルフォは少し苦笑い。
「まずは、小夜ちゃんに謝りにいかねぇとな」
言いたいことは山ほどあるけれど。
ロドルフォは手を差し伸べた。傷だらけのはぐれ悪魔に。同じく傷だらけの堕天使のその手をはぐれ悪魔は、戸惑いながらも握り返す。
「――こっち側へようこそ、だな。レーヴェ」
ゲートからの供給はない。今まで見守ってくれた執事も、話していた友も居なくなる。
だけれど、これからは笑うことも泣くことも――そして、愛することさえも自由に出来る。
人界で暮らすということは、そういうことなのだとロドルフォは語る。
「まぁ、まずはその傷を治すんだな。そして、落ち着いたなら、いつか酒でも飲みに行こうか」
「うむ……我はニッポンの酒というものに興味あったのだ。何れか、飲んでみたいのであるよ」
同じ、今は亡きヒトの娘を愛した者同士。ファウストの誘いにレーヴェは頷いて――そして、朝焼けの白が世界を染めた。
夜もすがらに、時は過ぎた。
いつかの日暮れ。斜陽の中の涙。舞い上がった蛍火とともに散り堕ちた、ひとつの命。
夜はながれて、終わりを告げる。
遠くを染める朝焼け。暁光の中の笑顔。別離が教えてくれた、ひとつの愛。
眩い程に差し込む暁が見せたのは傷だらけの9人の姿。
やがて、雲間から覗く有明の月と暁は、新たなる日々と絆を映し出すように優しく広がり忘れられない程に美しく、輝いていた。