●夏の始まり、ひとつの終わり
何処までも澄み渡るような蒼天が今日も空一面を覆っている。曇りひとつない晴れ模様。それは別離を嘲笑うかのようにただ青々と其処にあった。
日は高く、吹き渡る風も暑さを連れてを青々と茂る草葉を揺らしていた。さわさわと揺れる木の葉が歌う。
梅雨が明けたと思ったら一気に上がる気温。山道を歩く撃退士達の肌にも大きな汗の玉が浮かんでは滴り落ちる。
暑い。正直、凄く暑いけれど、そのことに愚痴を漏らす者は居ない。一同の気持ちはただ、この道の先で待つ少女へと向けられていた。
「自由意思をもったまま、か」
全てを喪い、その命を忌むべき相手の手の内に握られ それでも、人の心を失わず人として最期を迎えようとしている少女。
それはなんて、残酷なんだろう。全てを喪った世界でただひとり生きて、死んでゆく。その苦痛はどれほどのものなのだろうか。
夏が訪れている。けれど、声が死に絶え蝉時雨も聞こえぬ森の中。歩きながらただ静か過ぎる世界に少しだけ不気味さを覚える鴻池 柊(
ja1082)。
アストリット・ベルンシュタイン(
jb6337)の想いも、ただ先のどうしようもない運命へ、と。
「……最後に、ではなく、話がしたかった。もっと、話を聞きたかったですね」
想ってもどうしようもない。祈ってもどうにもならない。けれど、どうしてもそのもしもを願ってしまう。
だけれど。
「せめて、その願いが叶うように尽力しましょう」
アストリットは拳を握る。少しだけ汗ばむ。最期の願いを叶えられるように尽力する、ただいまはそれくらいしか出来ないのだから。
「うん、私達に出来ることを精一杯出来ることをしよう。精一杯願いを叶えて、笑顔になって貰えたらいいよね」
「……忘れられるのは、寂しいもんね」
そんな呟きに返したのは地領院 夢(
jb0762)と、その隣を歩く嵯峨野 楓(
ja8257)の声。
忘れるのも、忘れられるのも寂しい。
愛しい場所が消えて無くなって世界から忘れられ、取り残される。どんな、気持ちなのかな。そんなことをふと考えた楓はまぁいいやと首を振る。
「寂しがり屋な女の子ひとり救えなくて、撃退士なんか名乗っていられないよ、頑張ろう」
今は私達に出来ることを、笑顔にさせてあげたい。田中恵子(
jb3915)の願いはただひたすらに、真っ直ぐ。
天魔に滅ぼされた村は救えない。けれど、其処にただ遺された想いだけは掬い上げよう。
まだ顔も知らないヴァニタスの少女。けれど、親近感を覚えるのはきっと似たような境遇だから。
(天魔に全てを奪われた少女。けれど、私は今この時を生きている――)
瞳を閉じた望月 六花(
jb6514)の瞼の裏に浮かぶのは今は亡き両親の顔。天魔に滅ぼされて永遠に喪った在りし日の光景。嫌でも思い出してしまう過去の幻影を振り切る。今は迷うよりも新たなる場所を見つけたのだから。
「ええ、彼女の生きた証、それを少しでも背負わせて頂きましょう」
開かれる六花の瞳。蒼色の眼差しに映すのはただ、別離の空と決意の色だった。
●昼の蒼、あえかなる別れ唄
高く何処までも澄み渡るような空、風がふけば揺れる草原。その中央に黒髪を靡かせて、少女はただ、空を見上げていた。
「小夜ちゃーん! 会いたかったよー!」
真っ先に彼女のもとへと駆け寄ったのは恵子。その勢いのままに抱き着いた。
「あ、あの……えっと、けれど、私に近づくと貴女の身が……」
けれど、見せたのは暗い表情。
危ないよ。だって、自分はバケモノだから。その言葉の先は声にはならなかった。
戸惑いと恐怖が混じり合って、小夜の顔にやや翳った。けれど、その顔色を察した恵子は優しい想いを込めた声で、明るく包み込む。
「だって、会いに来て欲しいなんて言ってくれるんだもの。これで喜ばないわけがないよー。呼んでくれてありがとねー」
「もしかして、撃退士さん、ですか……?」
会いにきてという言葉でもしかしたらと小夜が訊ねると、恵子は満面の笑みで頷いた。
それでも、抱き着かれて怯えの様子を見せる小夜に自分達は大丈夫だと告げたのは柊。その言葉で漸く小夜も安堵の表情を浮かべる。
「鴻池 柊だ。よろしく」
「私は地領院 夢っていいます。よろしくお願いしますっ」
そんな声に従って皆が次々と自己紹介。恵子も一旦は離れて自己紹介をして、ヒリュウも同じように頭を下げる。
「あ、こっちはキューちゃん。相棒の……えぇっと召喚獣なんだけど、まぁ友達かなー」
順番に顔を見渡して、必死に名前を覚える小夜。頭の中でもう一度反復させて完全に覚えたと思ったら恐る恐る頭を下げた。
「え、えっと今日は態々、お集まり頂き有難う御座いました……沢渡 小夜、です」
その動きに合わせ黒髪が揺れて、白い和服に映えた。雪原のような白地に桔梗が落ち着いた小夜の雰囲気にとても合っている。
「桔梗柄、とっても似合ってますねっ」
「ありがとうございます」
夢のそんな無邪気な言葉に小夜はぎこちなく、静かに照れて微笑む。
「早速だけど、小夜ちゃんとの顔合わせを兼ねてランチなんていかがかな?」
にっこり。微笑んだ楓が取り出したのは紺色のナフキンに包まれたお弁当箱。
「幼馴染み作だから味は大丈夫だよ!」
あれ、幼馴染みさんが? 楓さんは作らないの?と言いたげな顔をした小夜に対し。
「手作りなんて、危険おかすわけないじゃーん」
「え? 危険、ですか?」
「……う、うん。まぁ食べよう」
思わずきょと。首を傾げる小夜他数名。
あ、しまったと言う顔を楓は浮かべるけれど誤魔化すように告げて六花の広げたビニールシートの上に広げられた楓と夢のお弁当。
「なんだか、運動会みたいですね」
「この村の運動会ってどんな感じだったのかな」
そんな楓の問いに小夜はほんの少しだけ考えて。
「都会の学校と余り変わらないとは思うのですけれど、小中合わせて全校生徒10人にも届かない。そんな、小さな学校だったから雰囲気は少し違うかもしれませんね」
ビニールシートで全員座れてしまうくらい。学友というよりは皆きょうだいのような感覚だったから運動で競い合うというよりは本当に楽しむことが目的だった。
運動場の片隅に大きな桜の木があって、毎年運動会はその木陰に大きなビニールシートを敷いて皆でお弁当を食べた。
生まれた頃から知っている子ばかりだから、色々と遠慮がなくて気をつけないとお弁当のおかずをつまみ食いされてしまったけれど、手作りのお弁当を美味しいって言って食べて貰えるのが嬉しかった。
「遠足とか運動会とか、なんだか特別な味がしますよねっ」
夢も自分の記憶と照らし合わせる。普段のお弁当と変わらないはずなのに、何だか凄く美味しく感じられるんですよねと笑う。
「わたし、ゆかりご飯が結構好きだったんですよね。よくお母さんにねだっていましたっけ……」
話しているうちに、すっかり小夜は撃退士達は打ち解けて、自然な笑顔を浮かべられるようになっていた。
そうして、気付いた。目を向けるとビニールシートの端っこで不機嫌そうに座る白髪の青年の姿。
「あの、どうか……しましたか?」
「気にすんな……」
けれど、なんだか放っておけなくて、せめてと縋るように声を掛ける。
「汗かいてますね。よければ、使ってください」
ハンカチは受け取って貰えたけれど、それっきり、御神島 夜羽(
jb5977)はそっぽを向いてしまった。
その様子を不安げに見つめる小夜。
「ところで、こちらで食べないのですか?」
「俺は此処で良いんだ。したい事もあるしな。悪い」
一方、アストリットの問いかけ。柊は持参した弁当から取り出したサンドイッチを囓りながら利き手で鉛筆を弄ぶ。
「なぁ、小夜」
「はい、なんでしょうか?」
きょとりと、柊の言葉に振り返る小夜は首を傾げた。
「この村には、どんな花が咲いてたんだ? 桜とか咲いてそうだな」
「はい。桜は綺麗でしたよ。校庭や郷の桜だけではなくて、山にも自生しているので春先には茂る緑の中にぽつり、ぽつりと桜色が混じるんです」
春には桜や菫。夏には向日葵や朝顔、秋には竜胆や彼岸花が咲いて、冬には雪の中、凛と咲き誇る寒椿。そして梅が咲いて桜が咲いたら、またひとつ学年が上がって。
花々と共に日々が進んでいく。何でもない毎日の積み重ね、平凡な日常が続いて折り重なり合い大切な想い出になる。
目を閉じれば浮かんでくる、あの光景が何時でも蘇るような鮮やかな記憶達。
「素敵、ですね。その光景を知らないのに、まるで目に浮かんでくるようです」
花とともに移り変わる景色を想像してみる夢。この村に訪れて、まだ一時間も経っていないけれど、その光景は鮮明に思い浮かべることが出来た。
まるで、昔から知っていたかのような懐かしさを覚える光景。
聞いたことをメモしながら柊は次の質問へと移る。
「じゃあ、夏の夜はどんな感じなんだ?」
「そうですね。街灯は余りありませんから暗いのですけれど、そのぶん月の光と蛍がとても空が綺麗です。お盆くらいにお祭りもあって……」
もう少し昇った場所に神社が在る。毎年、沢山の提灯を灯して祝うお祭り。
人口の少ない村だから出店は出ないけれど、響き渡る祭り囃子は自然と心を浮きだたせる。そんな風景が好きだった。
「小さい頃、その音色に憧れてお祖母ちゃんにねだって神楽笛を教えて貰っていましたね。そのお祖母ちゃんが亡くなってからは独学ですけれど、ずっとやっていたんですよ」
これは指が覚えている。あの日聞いて、憧れた旋律を紡ぐ為に何度も何度も練習した指
「聴いてみたいですっ。聴かせて貰ってもいいでしょうか?」
そんな夢の言葉に、少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「残念ながら、壊れてしまいましたのですよ。あの日、笛を入れていた鞄毎、吹き飛ばされてしまって……すみません」
「いいえ、こっちこそごめんなさいっ」
夢の手を握って、そっと微笑んだ。
「けれど、この指が覚えています。例え、楽器が壊れてしまっても神楽笛がくれた、その技術も記憶も消えない、誰にも壊せない。それでいいんです」
手を握り返して、夢も微笑んで、ふたりの間に笑みが咲く。
(やりやがったのは、悪魔だっつー話だが、天使も似たようなもんか)
ロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)は天使である自分は余り表に出てこない方がいいと茂みに身を隠し、その様子を見守っていた。
談笑の場をこっそりと抜け出した六花がこちらへとやってくる。
「ロドルフォさん、学校で準備をお願い出来ますか? 校庭の桜の木の下に」
六花の意図を察して頷くロドルフォ。
「あいよ、小夜ちゃんのことは任せたぜ」
「はい、お任せください」
六花から荷物を受け取り、その場を後にした。
昼食後。村を案内しながら歩き回れば日は少しだけ落ちれば心地良い疲労感が少しだけ襲う。
「大丈夫か? 休憩するか」
「折角ですし、学校で休憩をしませんか?」
大丈夫、と断ろうとしたら六花に口を挟まれた。自分は大丈夫だからと遠慮出来る雰囲気でも無くて村の小中学校へと向かうと、校庭の桜の木の下にロドルフォが用意した茶会会場。
ロドルフォの姿に驚いた。軽く挨拶。ロドルフォは天魔ということで警戒されることを恐れていたけれど、天使というより撃退士というのが先に来たのだろう。すんなりと受け入れられた。
揺れる木漏れ日。バスケットの中には沢山のクッキー。校庭に咲いていた花が飾られている。
教室から出され並べられた机を小夜は、指の腹で愛おしそうに撫でる。古ぼけた机に刻まれた数々の傷と落書き。
「コウちゃん……じゃなくて、浩太郎くんっていう幼馴染みが居たんです、その子の悪戯書きですね。これは」
「懐かしいねー、このキャラ」
黒の油性ペンで描かれたイラスト、その線をなぞる楓の指先。確か、子どもの頃に流行りアニメ化された少年漫画のキャラクターだった。
「はい、コウちゃんその漫画好きだったんですよ。横着な子で、よく先生達に叱られていたんです。なんべんも怒られるのに全く懲りなくて。本当に男の子ってバカですよね」
けれど、そんなコウちゃんだったから、ずっと一緒に居られていたのかな。
高校は麓の街へ通っていたから中学時代までの色んなことを話ながら席に座りクッキーを摘まむ。
メイドですから言うだけあって六花の手作りのクッキーと紅茶は口いっぱいに風味が広がるような、優しい味わい。
他愛の無い話に昂じていたらバスケットに一杯にあったはずのクッキーとアストリットの用意したフルーツは無くなってしまっていた。
「そろそろ写真を撮りませんか?」
頃合いを見計らい六花が取り出したデジタルポラロイドカメラ。
実は打ち合わせをしていたらしくこっそりと拝借した花で作ったという花束と花冠をロドルフォに被せられてちょっと恥ずかしい。
セルフタイマーで、全員並んで写真を撮る。古びた校舎を背に、此処に居た証を写真はただ刻んでいた。
写真を撮り終えた後、空中散歩へと行こうと小夜を誘ったのはロドルフォ。悪いですよと遠慮しようとした小夜に悪戯っぽく笑う。
「この美しい光景を見せたいんだ。それは俺の我が侭ってことで、どうだ?」
そうしてふたりは空へと舞い上がった。けれど、慣れない上空は少しだけ怖くて小夜はぎゅっと瞳を閉じてロドルフォにしがみつく。
きつく閉じた瞳を開ければ、自分がよく知る村の知らない光景が其処に在った。思わずその姿に視線が
「何だか不思議ですね……よく知っているはずの村なのに、なんだか違って見えます」
空から生まれ育った街を見るだなんて、早々出来る経験ではない。
「美しい村だな、ここは……小夜ちゃんが護った、小夜ちゃんの村だ」
「ねぇ、ロドルフォさん。私、何か出来たんでしょうか。何か、遺せたのでしょうか」
けれど、今なお残るのは戦禍の跡。それは、後悔の後。
結局は何も出来なかったのだ。人も村も護ることは出来なかった。ひとりだけ生き残り、取り残されただけで――しがみつく手に、少しだけ力が篭もる。
「小夜ちゃんは人として生きることを選んだ。化け物の故郷ではなく、悲劇の郷として終われること……それは、胸を張っていい小夜ちゃんの功績だと思うぜ」
優しいのですね。ただ眼下に広がる村を見ながら、そう呟いた。
●夕の茜、世界は何処までも続いている
気付けば、空は茜色。伸びる影も長く、草の上に広がっている。
いつも帰らなきゃいけない時間はカラスが教えてくれましたと小夜は笑う。
「見せたい、とっておきの場所があるんです」
そう小夜に案内されて辿り着いたのは小高い丘。
誰そ彼時。逢う魔ヶ刻。
何処までも広がるような夕焼け色。日が差す向こうに、地と空は混じり合う。
訪れる藍色、遺す茜色。混じり合うふたつの色の境界をただ、桜色を映す雲が暈かすようにたなびいていた。
「此処からは、世界の全てが見渡せる……そんな気がしていました」
――けれど、世界はこんな場所からは見られないくらい、凄く広かった。
柊さん。私の体を気遣ってくれた優しくて絵の上手いお兄さん。彼より絵が上手いという幼馴染みさんはどんな人なのかな。
楓さん。話しやすい女の子。でも、なんだかちょっと不器用なのかな。考えていることは凄く大人びてそうな、そんな気がしたんだ。
夢ちゃんは、なんだかすごく一生懸命な女の子。将来はどんな人になるのかな。どんな素敵な女性になるんだろう。
恵子さん。出逢って早々抱き着いてきたのも驚いたけれど、私よりずっとずっと年上だって聞いた時は吃驚しちゃった。人の温もりを感じるのは久しぶりだったから、思わず泣きそうになったのは内緒だよ?
ロドルフォさん。天使だけれど撃退士をしているお兄さん。久遠ヶ原には天魔の撃退士さんが他にも大勢いるんだよね? みんなロドルフォさん達みたいに人と仲良くなれたなら、哀しいことも減るのかな。
夜羽さんは、ずっと何か怒ったような顔をしていた。何かあったのかな。けど、笑えるといいなぁ。きっと、優しい人だって私は思うの。
アストリットさんは外人さんなのかな。雪の色みたいな髪がとても綺麗、瞳もなんだかお星様みたいで眩しいな。アストリットさんの故郷はどんな場所なんだろうね?
六花さんはメイドさん。手作りって言って態々焼いてきてくれたクッキー、とてもおいしかったな。どんな材料を使って、どう作ったのかな。聞いてみたいな。
――ねぇ、彼らはどんな世界を見ているのかな。見てきたのかな。
私や待宵村のことについては、沢山話したね。けれど、彼らのことは未だ、全然聞いてないな。
もっともっと、話がしたかったな。話を聞きたかったな。私が知らない世界のこと、私が見たことない空の色を教えて欲しかったな。
日が暮れなきゃいいのに、明日が来なきゃいいのに、時間が止まってしまえばいいのに。
けど、そんなことまで願ってしまったら我が侭になってしまうね。
ただ、撃退士さん達が逢いにきてくれただけで、私にとってはこれ以上に無いくらい幸せなのに、時間が足りないなんて我が侭だよ。
コウちゃんが見たら笑うかな。お父さんとお母さんが聞いたら抱きしめてくれるかな。
世界は私が知っているよりずっとずっと広くて、知らないことがいっぱいあって、知りたいよ。
いつの間にか夕の茜色を吸った涙が頬を伝う。綺麗だな、綺麗だったな。夕陽も世界も全て綺麗。きらきらと輝いてて、もう私には届かない。
先に続くみんな。光の力を持つ撃退士。強くて気高くて優しくて、こんな私の願いも叶えてくれた。
けれど。
「違うんですね。世界は私が知るよりも、ずっとずっと広かったんです」
なんだか、それが寂しくて。けれど、嬉しくて。そうして、残念で。
皆の元に行ける。それは凄く嬉しいことなのに、何故なんだろう。
「ねぇ、小夜ちゃん。あなたはひとりじゃないんだよ」
え、と振り向くと隣に居た楓と瞳が合う。半分だけ夕陽に浮かんだ楓の表情は色々な気持ちが混ざったかのような、静かな笑み。
「今までも、そしてこれからも。――例え、滅んでしまったとしても、この場所はずっとあなたと共に在る、私はそう思うな」
斜陽の中。斜陽の村で、ただ滅びの小さな夜が訪れる。
ふと吹いた夕風に楓のサイドテールが揺らいだ。夢も髪を抑えながら、夕陽を見つめる。
「小夜さんの見聞きしてきたこと、大好きなこの村。私達が知ることが出来たのはほんの一部ですけれど、私は絶対忘れません。そう、誓えます」
私達は、ずっとずっと覚えてる。
この空の色も、この草葉の青々しい香りも。小夜さんから教えてもらったことは全て忘れない。
「……あ……っ!」
ふらりと揺らいだ小夜を慌てて抱き留めたのは柊。そんなの悪いと遠慮しようとするけれど、そんなことは気にしなくていいからと抱き上げられた。
「この方が夕陽、見やすいだろう?」
その後は言葉も無く、ただ落ちる夕陽をじっと眺めていた。墜ちる砂時計は今もまた、ただ淡々と終わりの刻を映し出す。
最後の夕焼け。最期の想い。
――きっとまた、生まれ変われるのならば。
今度は私が彼らのことを知れたらしあわせだって、そう想うんです。
これくらいの願いであれば、きっと我が侭にはなりませんよね。
お父さんが居て、お母さんが居て。コウちゃんが泣き虫だなって手を引っ張って、優しい撃退士さんが見たものをいっぱい聞いて。
あ、けど、この世界から戦いが無くなったら一番いいのかな。ただただ、みんなが笑い合える世界。
――そんな、優しい世界を願ってもいいのでしょうか? 神様。
●宵の藍、螢火の願い
宵の帳が降りる。藍色が一面を満たして夜風が熱を何処かに攫っていった。夜風と同時にふわりと浮かびあがる無数の光。
思わず漏れた歓声。蛍の淡く優しい光が踊る。宵の藍色を吸った沢の水面に映り込む、螢火の小さな揺らめき。
「なんだか、人魂みたいだね……幻想的で、綺麗。蛍がこんなに綺麗に輝いている此処はそれだけ、環境がいいってことなんだね」
楓の呟きが漏れる。古来からゆらゆらとか細く揺れるその姿に、人は魂を重ねてきた。だから、蛍は生まれ変わりの象徴ともされている。
「もしかしたら、迎えに来たかも知れませんね」
蛍の光の中へと、手をかざす六花。この中に小夜の親しい人のものはあるのだろうか。
無数に飛び交う蛍の光の中。なんだか自分の両親の声が聞こえてきたような気がして、少しだけ瞳が潤む。
蛍は死者の魂。たゆたう想い出は光の中へ。全てを喪ったあの日に置いてきた記憶と想いをこの蛍は届けてくれるのかしら、
「そうだと、いいですね」
複雑そうに呟いたのは小夜。
もう、力は殆ど出ない。柊に抱かれた小夜は自分の足で立ちたいと彼に頼む。けれど、すぐにふらついてしまって結局は彼に寄りかかるようにして立った。
「この蛍は、もう長くはありません。もう、時期は過ぎてしまいましたから」
そして、自分も――解っている。
蛍は初夏に舞う火の虫。本来は夏に差し掛かるこの時期には既にその篝火は消え去ってしまっているはず、なのに。
それでも、終わりがくるその時まで蛍は光り続ける。光り続けて此処にいるよ、此処にいるよと訴えるように、ただ精一杯光っている。
其れは唯一遺された優しさのよう。村にただひとつ、残された輝きとともに、蛍とともに逝けるのだ。
「態々、来てくださって有難う御座いました。皆様が来てくださって、本当に嬉しかったです」
笑ってみせる。みせたはずなのに、頬を伝う熱い雫。
泣いている自分に気付いた小夜。泣かないと決めたはずなのに、後悔はしていないはずなのに。
「泣いても、いいんだよ」
そんな小夜の手を暖めるように包み込んだのは恵子の両手。泣いてもいい。笑おうとしなくてもいい。
この世界は美しいものばかりではないけれど、辛いことや哀しいことの方がずっとずっと多いけれど。
「少しくらいは、我が侭を言うことくらい……いいんだよ」
それでも、こんな世界には沢山の愛おしいが溢れている。笑い合って、支え合って、繋がり合って。哀しいことがあっても乗り越えていくだけの力を人は持っていて。
世界は決して美しくは無い。けれど、そんな世界だからこそ愛おしい。
笑顔でお別れなんて惜しすぎる。悔やんで、別れをして欲しい。
「そうですね……この村だけではなく、この世界を、皆さんに出逢えたこの世界は本当に素敵な世界だと想います」
けれど。
「ちょっとだけ、恨んじゃいますよ。もっと、もっと居たかった。人として、皆さんに会いたかった。村にみんなに、皆さんを紹介したかった……! みなさんのことを、この世界のことを、知りたかった……」
残酷な運命を与えた物語。少しだけ狂ってしまった世界の歯車。
天使も悪魔も居る。蹂躙するけれど、この世界に神様は居ない。だって、本当に小さくて、当たり前のような願いさえ神様は許してくれないのだから。
流れる涙。落ちる星。涙でにじむ世界。
ポツリ――恵子の手に小夜の涙が落ちる。
「あのね。少しくらいは、我が侭を言うことくらい、いいんだよ」
残酷な神様に刃向かうことだっていい。ちっぽけな人間に出来ることなんて限られているけれど、泣きたければ泣けばいい。
小夜の手を包み込むように握った恵子の手を更に、アストリット、六花、夢が包み込むように握る。手と手が重なりあう。伝わる穏やかなぬくもり。
「私も、出来れば最期にじゃなくて――、もっと話したかった。もっと小夜さんのことを知って、小夜さんに私のことを知って欲しかったです」
溢れる涙も止めぬまま小夜も静かに頷いた。
噛み締めるように放つアストリットの言葉には何処か、想いが込められていた。遠く想う、何も出来なかった過去。
天魔事件によって、またひとつ終わりが在った。だから、少しだけ何かを重ねていたのかもしれない。
その言葉に小夜も静かに頷く。
「小夜さんは、優しい人ですよね。私はそんな小夜さんが好きなこの村を知れて良かったって想っています……寂しいけど、大丈夫、いつかまたきっと逢えますから」
「こんな世界の愛おしい話、いつかそっちへ行く時に、いっぱい持って行くからね」
更に重なる夢と恵子の言葉を噛み締めるように受け取る小夜。
「私も、ではそのお話を待っています。――けれど、」
けれど?と首を傾げる一同。小夜は一呼吸置いて、告げる。
溢れる涙も止めないまま、ただ明るく務めようと微笑んで。
「願わくは、強くて優しいあなた達が此方へといらっしゃいませんように。――あれ? 最期の願いがもうひとつ、出来てしまいましたね?」
こんな願いをしてしまう自分は我が侭ですねと小夜は笑う。
最初はただ、この村を誰かに覚えていて欲しくて撃退士に手紙を出した。みんなの元へ行けるからと死を受け入れたつもりでいた。
それはただ、諦めていただけ。そんな自分の心が虚しくて、寂しかった。誰かの手に縋ることで逃げたかっただけかもしれない。
――けれど、今は違う。
寂しい。それは変わらない。けれど、誇りを持って旅立てる。忘れていたものを思い出せたかのように、得られた欠けた心のピース。
覚えてる、私もずっと忘れないよ。
「だから、せめて願わせてください。これからのあなた達の行く手の光を、そして幸せを」
優しいあなた達のことを、ずっと、ずっと。
「人ならざるものである俺が保証しよう。あんたは人間だよ」
尚も微笑む小夜に対してロドルフォが掛けたのは、こんな言葉。
苦痛に耐えて、笑うことがどれだけ辛いか。ただ似ていたから、その苦しみが少しは解る。
それこそ、人間の誇りがなきゃ耐えられない。
「頑張ったな。人として誇って良い事だ。自分の決断を」
見てきた光景とは違うかもしれないけれど。書き上げた絵を小夜に見せた柊。
その声に、答えはなかった。その代わりに愛おしそうな眼差しで、微笑んで。
――あ、り、が、と、う。
小夜の唇が微かに動く。音にはならない程の小さな声が空気を振るわす。
笑っていた。涙を流して、くしゃくしゃな笑顔を浮かべていた。
最期はただ、眠るように。寂しがり屋な少女を包み込むように、螢が舞った。
柊は眠った小夜の躯を抱きかかえる。飛び交う蛍もそれに付き慕うように飛び舞う。
仲間達の背を見送った夜羽。苛立ちのまま傍らに在った木を殴りつける。
「クソッ……このザマかよ! これじゃ昔と変わらねェだろうが!!」
ふと浮かぶ光景。過去の幻影。また、だ。
また、届かない。また、救えない。見送るひとつの、別離。
掴もうとすれば手を擦りぬけるように零れ堕ちて、この手とこの力ではまた掴み取ることは叶わない。
「結局、助けられねェのか……俺には……!」
殴りつけ赤くなった拳。それでも、ぎぃっと拳を握れば爪が深く食い込む。その突き刺すような痛みよりも余程心が上げる悲鳴の方が大きかった。
昼も、いらだっていたのは自分に対して。
吐き出す言葉。何かを潰すような声。熱して溶ける出すように漏れる想い。
熱した想いを冷ますにはあまりにも頼りない生暖かい夏の夜風。けれど、ただ夜風は夜羽を包みこむように、吹き抜けていった。
小さな村人達の墓が建ち並ぶ一角に新たに小さく立てられた墓。
六花の手で手向けられた紫色の花が風に揺らぐ。彼女の面差しは何処か遠くを見るように、眩しい瞳で眺める。
「そのお花、綺麗ですね。なんて言うお花なんですか?」
紫苑ですね、と穏やかに言う。
「花言葉は追憶、そして――」
「君を忘れない、だったよね」
過去に誰かが言っていたことを楓はふと思い出す。
ワスレヌグサ。哀しい別離を受け入れて忘れないと誓いを込めた言い伝えのある花。
「ひとりじゃない、みんながいるしわたし達が覚えてる。……だから、もう、寂しくないよね」
瞳を閉じて、確かめるように言った楓の耳に届いたのはそんな夢の囁き。
生がある限りはいつか死ぬ。永遠なんてものはない。今回のことだけじゃない。常に隣り合わせにある死という現象。
そうだね、と頷く楓。死ぬ時は苦しいのかな、解らない。けれど、自分が死ぬ時はどう、思うんだろう。
「その時、私は小夜さんみたいに想えるのかな。傷付けたくない……そんな、大切なことを忘れず、優しくあれるのかな」
これからどれだけの別離を繰り返していくんだろう。どれだけ、さようならと言い続けられるんだろう。
その時は優しくいられるのかな。そのことを受け入れてさようならを言えるのかな。先のことは解らないけれど、そうありたいとただ願う。
「そうだね……世界はこんなにも愛おしい。いつか、この世界とお別れする日が来ても笑顔でいられたら、いいよね」
嘆いても、恨んでも変わらない未来ならば笑顔で過ごそう。終わりの時までひとつでも多くこの世界を愛せるように。それが恵子の誓い。
(……こんなに尊い終わりってのも、あるもんなんだな。俺も、こういう風に終われたら……)
見上げた空には満天の星月夜。声の無い世界を、その欠けを精一杯埋めようと光る星屑達。
ただ、綺麗に輝いていた。切ない程の眩しさ。
「俺が持ってても意味がないからな。持って行ってくれ」
柊はスケッチブックを火にくべる。その声に応えるかのように、煙は天へと立ち上っていった。
確かに此処にひとりの人間の少女が生きていた。
たったひとりで強く、全てを受け入れようと立ち上がろうとしても、結局は泣いてしまった。そんな泣き虫で寂しがり屋な少女が居た。
螢が舞う。別離を惜しむように揺れる螢火は少女を連れてゆくように空へと舞い上がる。
訪れる静寂。夜半の月だけが見守る藍色の世界。最期の記憶。
蛍と篝火と、月だけが照らし出す写真には9人の少年少女が、ただ其処に居た証を刻んでいた。