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裏山は静まり返っていた。
長くなった日もすでに暮れ、木々の下は夜と同じ暗さに包まれている。目をこらすと、その中に獣道らしきものが薄っすらと続き、山の奥へと伸びていた。行方不明の子供はここを通っていったのだろうか。
ナイトヴィジョンをつけたファーフナー(
jb7826)が翼を広げる。
小山とはいえ山道だ。上空からの捜索の目も必要だろうとここに来るまでに話し合っていた。あとは地上で手分けして、狭くはない裏山を捜索することになる。
水無瀬 快晴(
jb0745)もサードアイをつけ、インカムの状態を確かめる。手分けする以上、ここからは常に連絡を取り合っていた方がいいと、彼らが話し合ってつけたものだ。川澄文歌(
jb7507)の方を見ると、聞こえるよと答えた。桜庭愛(
jc1977)も頷く。愛はいつもの蒼いリングコスチュームにコンビニによくある白いレインコートを羽織っていた。「山に行くなら白系は必需品です。蜂とか回避用に」と購入したものだ。
町の明かりもここからはよく見えない。文歌もナイトヴィジョン越しに周囲を見回す。行方不明の子供はさぞ心細い思いをしていることだろう。不知火藤忠(
jc2194)の持つフラッシュライトが獣道を照らした。
青白い靄のような光を纏ったRehni Nam(
ja5283)は大佐と呼ぶヒリュウを召喚し、ファーフナーと共に行動させる。
「私自身は地上を行きます」
森の中はどこか張り詰めた雰囲気が漂っている。
そんな空気に急かされ、集まった撃退士たちはそれぞれに出発した。
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星の輝きで光源を維持し、眩い光に包まれる中をRehniは行方不明者の名前を呼びながら進んだ。資料によれば行方不明者はタケトという少年で、ブチという飼い犬も一緒らしい。返事がないか耳を澄ましながら山中を探す。
もしも、彼らが返事を出来ない状況にあるのなら生命探知を使う必要があるだろう。冷えていく山中の気温に急がなければという思いが募る。
仲間の位置は常に愛が連絡を受け、把握していた。
夜目は利かず、歩数もあまり進まないが、レインコートと共に購入した懐中電灯で足元を照らし、二重遭難だけは避けようと懸命に先を歩く快晴と文歌の後を追う。
「……早く探してやらないと、な」
何か聞こえないか周囲に耳をそばだてながら快晴が呟く。
インカムの向こうで微かに頷きながら、藤忠が「ファーフナー」と仲間の名を呼んだ。
「山の北側はどうだ?」
いないようだ、と声が返ってくる。Rehniの大佐からも特に反応はないらしい。わかった、と返し、藤忠は進む方向を変える。
ファーフナーは上空で滑らかに飛行しながら、夜の山を見渡した。
まるで巨大な一つの影のようだが、目をこらし、耳を澄ませて、翼を動かす。
やがて、ファーフナーは、微かに何かが聞こえた気がして上空に留まった。
――遠吠え?
「ファーフナーだ。資料の犬かどうかはわからないが、鳴き声がしたようだ」
連絡し、音の出所に集中する。再び音を捉えた時、ファーフナーはその声が鬼気迫るものであることに気付いた。
ブチであるにしろないにしろ、ただ事ではないだろう。
進むことだけに全力を費やし、その場所へ向かう。場所は山の西側。
「西側なら、不知火さんが近いかもしれません」
愛が急いで連絡する。
その横で文歌が私は先に、と足元を滑らかにして先行した。後から追いつくから水無瀬さんも先に、と愛が快晴に言い、快晴も小さく頷くと文歌の後を追う。
走りながら彼らはじっと耳を澄ませる。
すると、インカムから口調を早めたファーフナーの声とその後ろから小さく犬の鳴き声が流れた。
「攻撃を受けているぞ! 犬が少年をかばっているが……」
撃退士たちの間に緊張が走る。
行く先に背の低い木々が生い茂っている。敵がいるなら索敵で調べなければと文歌が意識を集中させる。
その時、インカムの向こうから聞こえるのと同じ鳴き声を微かに聞いた気がして、藤忠は急いだ。
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茂みの中をガサガサと休みなく移動している音が聞こえる。
腕の長いその奇妙な生き物は、執拗に彼らを襲おうと付け狙っているようだ。恐怖で頭がいっぱいになりながら、タケトは震えた。
ぼくを食べようとしてるならどうしよう。それにブチは? あんなに強く叩きつけられて平気なの?
縋りついたブチの背中から手を撫で下ろすと、ブチの腹が僅かに濡れていることに気付いてタケトはぞっとした。
一瞬でもブチの吠える声が掠れると黒い生き物が近付いてこようとする。ブチはまた吠え声を上げた。
――だれか助けて……!!
そう思った瞬間、そこに翼を広げた長身の人影が降り立つ。
突然のことにタケトはまた悲鳴を上げたが、その人はブチと敵の間に立ち、どうやってかガサガサいう音を少し止めたようだった。
「タケトとブチか?」
影が振り返る。自分の名を知る穏やかな声にタケトは驚き、うん、と答えた。
「救出しに来た撃退士だ、もう怖くないから安心してくれ。怪我はないか?」
助けが、来た。
ほっとしたことで涙がまた一気に目から溢れ出し、タケトはファーフナーに駆け寄った。翼を広げたままのファーフナーはドキリとするが、そっとその頭に手を置いてやる。
「ぼくはだいじょぶ、だけど、ブチがぁ」
はっと犬を見て、ファーフナーは気付く。どうやら怪我が深いようだ。それなのに、あの吠え声を上げていたとは。
まずは大地の恵みを付与しながら、仲間に連絡を入れる。
Rehniが感情を抑えるように静かに応答した。
「……生命の芽、使えます。急ぎますね」
走ることに全神経を集中させて現場に向かう。
彼女たちが到着するまで下手に動かないほうがいいだろう。ファーフナーは「それまで何とかしのぐ」と連絡し、仲間の到着を待った。
そこへ真っ先に到着したのは藤忠だった。
青い光を纏い降り立つ藤忠の動く後を追うように、青い葉が散って見える。すかさず奇門遁甲を食らわし、敵は恐慌に陥った。
茂みから転がり出てくる生き物――猿に似ていて目が赤く、その姿はまるで狒々である。固体の大きさにはばらつきがあるが一様に敵意をむき出しにしていた。
ブチはますます警戒し、再び吠え出す。
「邪魔する猿は斬る」
接近戦で気を引こうと構えながら藤忠は犬の方を見た。回復させたとはいえ、怪我の深さは測れない。強い敵ではなさそうだが、時間との勝負だなと思う。
吠え声がある限り、狒々たちは怯んでいる。それを理解しているのだろう。まるでタケトを救う撃退士たちを補佐しようとでもいうように、横に立ち吠え声を上げ続けた。
そこに眩い光が降り立つ。
Rehniだ。白銀の髪が光を透かし、輝いていた。
「タケト君とブチですね。酷い怪我……今、治します」
生命の芽でブチに光が注がれ、ブチの意思だけで支えられていたような眼光に、僅かにだが生命の光が戻る。
タケトは何もわからないまま、涙ににじむ視界の中でそれを見つめていた。
きっと助かったんだと思いながらも、ブチのいまだ苦しそうな息がタケトの不安を募らせる。
「敵は四体ほどだ。今は距離があるが……いや」
まだ到着していない仲間たちにファーフナーから連絡が入る。狒々同士で揉み合ってもいるが、依然こちらに敵意を向け、距離を詰めてくる。その位置を伝えると、「わかりました」という声が思いのほか近くから聞こえてきた。
それとほとんど同時に、色とりどりの炎を上げた爆発が巻き起こる。不意を打たれた狒々がぞっとするような叫び声を上げて怒り狂った。
その炎を背景に文歌が紫の髪をなびかせて狒々とタケトの間に降り立つ。
「タケトくんだね? 助けに来たよ! 今度は貴方がブチを守る番。ブチを守ってあげて」
タケトにブチのリードを持たせ、落ち着かせるようにお願いする。
それから少し遅れて、闇に紛れてで潜行していた快晴が、炎の爆発に怒る狒々たちをなるべく範囲に収めて、今度は凍てつかせるダメージを食らわす。三体が攻撃をくらい、二体が睡眠に陥ったようだった。
「……眠ればよい」
攻撃がいかないように、必ず護る。銀色の光を纏った快晴は安心させるようにタケトに微笑んだ。
「……よく頑張ったねぇ。さぁ、ここは俺たちに任せて、タケトとブチは帰ろう、な」
ファーフナーがタケトとブチを抱き上げ、空に飛び上がる。
だが、それでもブチは落ち着かず、狒々を威嚇し続けた。このままでは体力を消費するばかりだ。
「ブチ、ブチ……」
タケトは落ち着かせようとリードを引くが、ブチは一歩も下がらない。
タケトを守る――今のブチには、それが全てだった。
そんなブチを無理に押さえ込むのもまだ不安がある。ファーフナーは藤忠に視線を投げた。
これだけ人が集まっていれば、もう大丈夫。もう十分だ。藤忠が頷き、タケトに「ブチを眠らせるが、いいな」と言って魂縛符で眠りに落とした。
ブチは一度だけタケトの方を見てきゅぅんと鼻を鳴らすと眠りに落ち、その瞬間体が怪我を思い出したかのようにぐったりと重くなった。まるで老いた体が限界を告げているようだった。
「ブチぃ!」
それでもまだなお、ブチは吠えようと僅かに口を動かしている。
例えその命が尽きようと主人を、いや、弟を守ろうと。今までも、そうしてきたのだから。
「ごめんね……ごめんね、ブチ……」
タケトはブチをぎゅっと抱きしめた。
「お願い、ブチを助けて……お願い!」
号泣するタケトにRehniが「ブチに癒しの光をかけます」と言い、飛び上がったファーフナーが頷いて高度を下げる。ブチの呼吸は弱まりつつあった。
「敵の手が届くかもしれません、フォローを!」
Rehniの言葉通りに狒々たちは鋭い牙や爪を剥き出しに、襲いかかろうとしている。
「任せて!」
その時、そんな声と共に愛がダイブしてきた。
白いレインコートを脱ぎ捨て、いつものリングコスチュームだ。狒々の気を引き付ける。
そして癒しの光がブチを包んだ。
タケトとブチを絶対に助ける――……その思いが決意となり、撃退士たちの胸に宿る。
(狒々かぁ、しっぺい太郎の説話を思い出すね)
そんなことを考えながら、愛は呼吸を整えて自らの闘争心を解放する。
眠った狒々も攻撃すれば、すぐにこちらへの攻撃に転じるだろう。Rehniも今のうちにスキルを入れ替えた。
ファーフナーはタケトとブチを連れて離脱に移ったが、張り詰めた空気が場を支配し続けている。
そこで木を駆け上ってファーフナーを追いかけようとしている狒々がいることに気付いた藤忠が霊符で打ち落とした。
だが、木から落ちた狒々はそのまま藤忠に襲い掛かる。鋭い爪が藤忠の狩衣を引き裂こうとするが間一髪これを避けて猿は宙を掻く。だが代わりにその牙が僅かに掠り、藤忠は足が麻痺してその場に釘付けになった。
しかし藤忠は落ち着いて素早く判断し、その場に留まったままむしろ声を張り上げて、霊符で目立つように攻撃をする。
囮となった藤忠に先ほどの一体と別の方向からもう一体の狒々が襲い掛かる。
その瞬間を狙って、再び快晴が氷の夜想曲を食らわした。
「……残念だけど、お前たちの相手は俺たち、だよ」
そこに文歌の美しい歌声が響き渡り、快晴の攻撃から更に畳み掛けるように衝撃波が狒々を襲う。
「今度は私たちの絆をみせる番だねっ」
二体の狒々は倒れると形が崩れ、そのまま動かなくなる。藤忠はふうと息をつき、その手から霊符が消えた。
Rehniが審判の鎖でもう一匹ファーフナーを追おうとしていた狒々を拘束する。
それでもまだ噛み付いてこようとする強烈な牙を避けながら愛がその狒々と距離を詰めると、彼女の得意な中国拳法で掌打を連撃し、その中に神気拳を混ぜて強烈な攻撃を加える。まずは胴体に一打。
聖なる刻印を活性化する文歌を背中にかばいながら、快晴が夜の暗さよりなお深い影を纏って弾丸を放った。これを食らったところに、更に愛が頭部にもう一打。狒々の体が崩れる。
残りは一匹。これで片がつく。
最後の一匹を巻き込んで、Rehniが大爆発を起こす。ダメージは浅い。だが、それで良かった。
長刀に持ち替えた藤忠が爆発に混乱する狒々を後ろから切り倒す。
「間に合って良かった……」
と文歌は、聖なる刻印が刻まれた藤忠に胸を撫で下ろした。
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声や体温で安心するだろうから、と言うファーフナーの言葉に、抱えられて上空に逃れたタケトはブチに呼びかけながら毛を撫でた。
「ブチ、一緒に帰ろうね……ブチのおかげで助かったんだよ、死んじゃいやだよ……」
悪魔の翼に怯んだかと思ったが、少年はファーフナーの服を握り締めている。握らせておいてやる間は、泣き止んでいるようだった。
やがて通信が入った。
「終わりました」
愛の声だ。一先ず息をつく。
かつてのファーフナーは他人に関わらないようにしてきたし、同情などもしなかった。入り込みすぎれば傷つく。それを知っていて、自制していた。そしてそれは、ファーフナーの情の深さの証でもあった。
今は少し素直になったのだろう。何とか犬を生かしたいと、そう思う心を認めるほどに。あとは犬の気力次第だろうが、と思いながら再び大地の恵みを付与する。
――自分の犠牲による死を背負うのは辛いから。
戦闘を終え、真っ先にブチの様子を見に追いついてきたのはRehniだった。
「回復していれば良いのですが……」
呟く心配げな表情が、けれど少し和らぐ。
「良かった……」
老犬に、僅かだが力強さが戻っている。殺伐とした空気が消えたからだろうか、寝息も穏やかだ。間もなく家族の迎えが来る。それを無事に待てるだろう。
今度は心からの安堵で再び泣き出したタケトがしゃくりあげながら、帰ってきた撃退士たちを見上げる。
「ブ、ブチを、ぼくたちを、た、た、助けてくれてありがとぉ……」
藤忠が視線をあわせるように横にしゃがむ。
「子供が探検好きなのは承知だ。俺も子供の頃は探検ばかりしていたしな。だが家族に何も知らせず山の中に入るとはどういうことだ。お前の家族がどれだけ心配したと思っている? ブチは命を懸けてお前を守ったんだぞ。いいか、次からはおかしいと思った場所には一人で入るな」
そう言って頭を撫でる
「忠犬には応えてやらないとな」
涙のにじんだ声が「うん」と答えると、タケトの背中を文歌の手が撫でた。
「例え今ブチが死ななくても、ブチは老年だからすぐいなくなっちゃうの。でもタケトくんがブチの事を忘れなければ、ブチはいつまでもタケトくんの心の中で生き続けるよ。今度はブチの様に誰かを守れる様に、そしてもしブチがいなくなっても、いつかブチに胸を張って再会できる様にタケトくんはこれから精一杯生きないとねっ」
穏やかな夢を見て眠るブチが、まるで応えるかのように尻尾を一度振った。