その日は疑う余地も無いほどの嵐だった。目も開けられないほどの強風に横殴りの雨が撃退士達を容赦なく襲う。レフニムを積んだ十近いゴムボートの中にも水が入り込んでいる。浸水ではない、たった今降り注いでいる雨水だった。
「それでは沙織さんも助けるという方向でよろしいですね」
出発を前に紅華院麗菜(
ja1132)が最後の確認を行う。
「勿論です」
Rehni Nam(
ja5283)が答える。
「回復は沙織さんとできれば鈴木さんのために残しておきたいと思っています。怪我を抑え深追いはしないでください」
「了解ですよ、レフニー先輩」
Rehniの無茶な注文を澤口 凪(
ja3398)はあっさりと呑んだ。
「先輩ができない事を言うはずないですからね」
澤口がRehniの要求をあっさり認めた背景にはRehniに対する絶対的信頼があった。
「では後は手はず通りにじゃな」
作戦を再度確認し、ハッド(
jb3000)はナイトビジョンを装着する。
「あの島を壊して再びここに集まるのじゃ」
ハッドが島の方向を指差す。風雨に晒され目視は難しい浮島だが、偵察部隊からは推察通りの場所に停泊している事が確認されている。
そして島破壊班と陽動班が分割、それぞれの道を進んでいった。
浮島の外では奇妙な現象を体験していた。海の色が違うのである。
「紺色なんですね」
澤口の眼前に広がるのはサメの群れだった。一定の色ではない、常に黒い物体が流れている。
「四神結界いきます」
事前打ち合わせ通りに久遠寺 渚(
jb0685)が一度船を止め、印を結び四神結界を発動させる。
「目安となるものがありませんので、あまり遠くには離れないください」
久遠寺は声を張り上げるが風がその声を掻き消していく。だが彼女の様子は他の撃退士にも通じていた。サポート参加である麻生 遊夜(
ja1838)、桐生 直哉(
ja3043)が目測で射程の位置まで移動、色の違う部分を目標にレフニム爆弾を投下する。
氏家 鞘継(
ja9094)もまずは視界確保に走った。海の上にロープを繋いだ発泡スチロールを投下、その中に自前で準備した懐中電灯を入れる。
「頼みますよぃ」
発泡スチロールの中に水が入っても消えないように、氏家は防水加工のされた懐中電灯を選んでいる。そのため一部の準備金を自腹で出していた。
「これで多少楽になるといいんですけどねぃ」
しかしそう言ったと同時にトリトンの一匹がロープを噛み切った。
「これはしくじりましたかねぃ」
しかし発砲スチロールを持ったところに幾つかの影が集まるのを確認しRehniはコメットを突き落とす。
「全ては敵の攻撃を引きつけるための作戦です。臨機応変にいきましょう」
暴風雨の中で十分な連絡が取れてない。合図を決めていないのは撃退士達の落ち度だった。個々が最大限に自分のやるべき事を行う、それだけである。そして真っ先に狙われたのはRelic(
jb2526)だった。
Relicが狙われるのは前もって考えられていた戦術ではあった。タウントを使い、トリトン達の注目を集めて攻撃を引きつける。同時にRelic自身は光の翼を使いトリトンの射程から逃げる。それが事前に考えておいた戦術である。しかし考慮していない事が二つあった。風雨とトリトンの射程である。
「こっちにおいでよ! ボクが遊んであげる!」
意気揚々と空を舞うRelic、そこに突風が襲う。思わず高度を落としRelicは避難、そして高度が落ちたところにトリトンから打ち上げられた潮が彼女を包み込んだ。
「Relicさん」
二度三度と水柱が立ち上る。不破 十六夜(
jb6122)が叫んだ。その声を頼るようにトリトンが不破へと向かう、波でボートが大きく揺れた。トリトンの攻撃に備え影の書を構える。姿を特定し次第サンダーブレードで攻撃、それは陽動とばれないために派手に戦うという意図もあった。
「ふえ〜ん、家での修練とか戦闘依頼をもっと受けておけば良かったよ」
月も出ていない深夜、新月ではないが厚い雨雲が月どころか星の一つさえも光の通過を許していない。海中での素早いトリトンに対し、不破が捕らえられたのは一体だけだった。
「刺身か、蒲鉾どちらが良いか選ばさせてあげるよ」
それでもその一体の突撃タイミングに合わせる不破、そしてカウンター気味にサンダーブレークで海面を攻撃する。しかし同時に世界が揺れた。少なくとも不破にはそう感じた。だが実際は不破を乗せたボートの振動だった。
「大丈夫ですか」
澤口が不破のボートそばにナパームショットを打ち込む。そしてやや離れた場所に桐生の流したレフニム爆弾を起爆、そちらへとトリトンに誘導をかける。トリトンの動きが変わったところでRelicが再び浮上、不破もボートを再度走らせて体制を整える。だが不破の耳に異音が届く、何かが空回りをする音である。そして一度大きな音を立てると黒い煙を上げる。不破も故障を悟った。
「この作戦って結構、博打的要素が多い気がするんだよね」
出発前から不破は嫌な予感を抱えていた。今回の作戦が分の悪い作戦であるということに対してである。浮島に捕らえられているという少女の確保は条件に入っていないものの、それでも敵の勢力や天候の変化を考慮すると成功率がかなり低くなるとしか考えられなかった。そしてこのエンジントラブル、悪循環が始まっているとしか思えなかった。
「乗ってください」
やや遅れて久遠寺が文字通りの助け舟を出す。自分のボートを不破のものに横付け、そして不破が移動している時間を稼ぐために呪縛陣を詠唱、範囲内のトリトンの足止めを狙う。
「このまま留まるのは危険です」
詠唱完了と共に何体かの影が動きを止める。その動きを止めたところを切り裂くように久遠寺はボートを走らせた。
その一連の動きが氏家の頭を悩ませる。前回の依頼を含め、今までサメが動く姿を見た事が無かったからである。ナイトビジョン越しに見ていた不破とトリトンとの手合わせ、不破のボートの揺れに気を取られて麻痺したトリトンのその後を確認していない。そもそも懐中電灯を撒いた氏家の周りはともかく、他の場所ではトリトンの数が把握できない。
「やってみますかねぃ」
レフニム爆弾を幾つか海へと浮かべ、氏家はアルニラムを手にする。前回はトリトン相手に絡める事には成功したものの動きを止めるまでには至っていない。では止めたらどうなるのだろう。まるで夜遊びをするかのような好奇心と危険を隣り合わせにした甘美な誘惑に氏家は微笑まずにはいられなかった。
「始まりましたね」
外からの爆発音とともに紅華院と共に活動を再開した。目標である塔を眼前に捕らえ、その麓へと向かう。足元は妙な感覚だった。力を入れる事はできる、踏みとどまる事もできる。だが大きな力を入れると足元が揺れる不安定さがあった。
一方でハッドも不安定さを感じていた。風雨である。闇の翼で飛翔しているハッドにとって足元は関係なかった。しかし気を抜けば吹き飛ばされかねないという心配があった。
「結局来たのか」
声のした方に顔を向ける。そこには仲間から聞かされた通りの容姿をした男がいた。鈴木である。だが一点大きく異なっているところがある。聞いていた男の服装はラフなTシャツにジーンズ姿だったが、今は白銀のフルプレートに全身が隠れそうな大盾を着込んでいたのである。
「来なければよかったものを」
「嘘ですわね」
鈴木の吐き捨てるような台詞に紅華院は表情一つ変えずに返す。
「だったらこんなところに停泊しておく意味は無いのですから」
「その気持ちが全くなかったと言えば嘘になるだろうな」
鈴木はあっさりと認めた。
「まだ少し魚腹の人々が賢くなるのを期待していた」
「浮島の存在を認めてくれると」
「そうだな。少なくとも魚印製薬はそう動くと思っていた」
鈴木は続ける。
「魚印製薬はね、戦前から続く老舗なんだ。今は他の企業に押されてはいるが、それでもここの人々の生活を守ってきた。それが堕天使やはぐれ悪魔を労働力として雇いだしたんだ。俺は嬉しかったよ。戦闘が嫌で抜けた連中もいるんだから。だが結局あの会社は扱いきれなかった。倉庫の中に押し込む事しかできなかったんだよ。だから俺はこの浮島をそんな天魔の住処として提供しようと思ったんだよ」
「紅華院殿」
テラーエリアが切れるタイミングを見計らい、空中からハッドが呼びかける。
「それは時間稼ぎなのじゃ。こやつは恐らく我輩達の狙いも陽動も理解しておる。その上で紅華院殿の気を引くように話をつづけておるのじゃ」
会話終了と言わんばかりに再びハッドはテラーエリアで自身とその周囲を闇へと溶かす。そしてハッドの言葉で紅華院は鈴木と向き直る。
「案外卑怯なのですね」
会話は終わりとばかりに紅華院はロータスワンドを奮い上げる。そこに一匹のマウスが走り抜ける。紅華院は見ようとはしなかった。事前に魚印製薬で動物実験の実験台となるはずだった動物がこの島へと移されている可能性は聞かされている。そう即座に判断した。だがそれが却って紅華院の注意を削ぐ結果となる。意識しないように意識した結果が鈴木への動きに対する注意を散漫にしていた。
「卑怯というのは勝った人間だけが言える言葉だ」
気付いた時、既に鈴木の盾が紅華院の頭上に掲げられていた。塔へと攻撃を敢行しようとしたハッドが方向転換し、鈴木へと狙いを変える。
「沙織殿も助けるんじゃろう? このままじゃとそのスズキとかいう男に潰されるのじゃぞ」
中空に登場した雷の刃が鈴木を襲う。ハッドの予想ではその魔法攻撃を盾で塞ぎ、同時に紅華院への攻撃を防ぐというものである。だがハッドの予想は外れた。鈴木は雷の剣を自分でくらい、紅華院への攻撃をそのまま続行したからである。
「少し手を抜きすぎだ」
鈴木の盾は一瞬にして真紅に染まる。鈴木は盾を薙ぎ血を吹き飛ばすが、それでもまだ盾の大部分は赤く染まったままだった。
「ここが敵地だと意識しすぎている。だからネズミ一匹の足音にさえ注意を払わなければいけない。聴覚を閉じれば死角から攻撃が飛ぶ」
鈴木は再び盾を天に掲げる。そして紅華院の頭に下ろした。ハッドの中に紅華院を助けるべきかという選択肢が生まれる。だがすぐにハッドはその選択肢を切り捨てた。そして塔のコウカニウムに狙いを絞り攻撃を仕掛ける。
「正解だ。お前達は塔を破壊しに来たんだ、俺に構っている暇は無い」
鈴木が高説を垂れていると、ようやく紅華院は気を取り戻した。二度の直接攻撃を受けた頭部を右手で支え、左手でロータスワンドを握る。
「それは嘘ですね。あなたは私達から意識を逸らそうとしています」
ワンドを地面代わりのレフニムに突き刺し、自分の体重を支える。
「あなたは私達を激昂させる事で沙織さんの事を思い出させないようにしています」
紅華院は先程と同じくワンドを構えた。そして鈴木に向かって走り出す。
「どこにいるのか話してもらいます」
雨脚は更に激しくなっていた。
「予想通りでしたねぃ」
アルニラムを手に氏家は海中から伝わる感触に確かなものを感じていた。アルニラムの先に巻きついているのは前回同様トリトン、しかし伝わってくる感覚は大きく異なっている。原因は重圧にあった。
氏家が捕まえたトリトンは先程Rehniのコメットの直撃を受けたトリトンである。ダメージを受けたことは間違いないが死亡してはいない。手には少なからず感触が届いてくる。だがしばらく待っても前回のような強い感触には程遠かった。バッドステータスからの復帰が遅い、これが氏家の出した結論である。そしてその結論をレフニム爆弾を並べ、持ち前の感知を活かし重圧のかかったトリトンに狙いをつけていった。
一方で苦戦を強いられたのはRelicだった。嵐の中で高度がとれず、同時に高度を下げるとトリトンの水しぶきの餌食となる。一度体験しただけに、最悪トリトンに打ち上げられた大量の水と共に海面に叩きつけられる恐怖を身をもって味わっていた。久遠寺の四神結界とRehniのコメットという加勢はあるものの、やがてコメットが続いて四神結界の援護が終わる。
「正念場だね。寒くは無いからいいけどさ」
加勢が終わった事を自覚したRelicは大きく息を吐いた。そして眼鏡を掛けなおす。夏場であるためトリトンにかけられた水も嵐の中で吹きつける雨も極端に体温を減らすというほどではない。だが水に濡れた衣類の重さが徐々に重くのしかかり始めている。
そんな時ようやく耳に嵐以外の音が届いた。同時にトリトンの動きが加速を始める。
「塔の崩壊が始まったようです」
不破が風の烙印をRelicにかけて援護する。
「あまり戦力に成れないなら、せめてこれぐらいはしないと」
一時的に強まっていた風雨も次第に弱まり始めていた。
その頃、塔襲撃班は選択を迫られていた。崩壊を始めた塔の中から救助すると事前に確かめ合った道元沙織が出てきたからである。
「沙織さん」
事態が把握できないのか沙織はただ左右を見回している。そしてその脇に猿が控えていた。まるで家族が肩を寄せ合い天変地異に恐れている様子である。
「あれが本当の愛だとは思わないか」
鈴木は悠然と沙織の下まで歩み寄り、負傷していない右腕で彼女を抱きかかえる。沙織の方も鈴木に慣れ親しんでいるのか腕の中で小さくなっていた。そして沙織に付き従うように猿達も鈴木のそばに群れを構成する。
「だが何故か人も天魔も歩み寄ろうとはしない。先に殴られた痛みか、それともいがみ合っている方が都合がいい者がいるのか不思議に思わないか」
「また時間稼ぎですか」
紅華院は鈴木をけん制し歩を進める。塔が自壊を始めた事でハッドも浮島からの逃亡と沙織の救助へと頭を切り替えた。
「だったらまずは死なずにここから脱出してみるといい」
そう言葉を言い残し、鈴木は地面に拳を叩きつける。
「逃がさぬのじゃ」
ハッドが雷霆の書で攻撃を仕掛ける。鈴木は再びその攻撃を左腕で受け止める。
「自分の装備が型落ちなことぐらいは重々承知だ。だからと言ってむざむざ死ぬつもりも無い」
右手に沙織を抱えたまま、鈴木は自らが作った穴へと身を投じる。しかしそこに紅華院が一気に距離を詰めた。
「ここまで来て逃がしはしないのです」
盾も防ぎきれない至近距離へと入り込み、右腕めがけて紅華院はスタンエッジを放つ。そして麻痺により感覚の薄れた鈴木の右腕から沙織を奪還したのだった。
沙織の頭を自分の両手と胸で覆うようにして紅華院は崩れていく浮島をひた走った。頭上から落ちてくるレフニムはハッドが払い飛ばしている。しかしそれさえも気付けないほど紅華院の頭は回っていなかった。鈴木に二度も殴られた頭部が疼いていた。
だが頭部へと意識を向けた瞬間に足元が一気に崩れる。
「これは拙いのじゃ」
海へと落ちた紅華院と沙織を前にハッドは舌打ちした。既にテラーナイトを使い果たした今、ハイドアンドシークのみでハッドは二人を追った。
海面へと近付くと先程の戦闘で何度か見た猿が海へと投げ出されている。身動きが取れない中でも手元に浮かんでいるゴミを投げつけてくる。世の無常と儚さを感じながらもハッドはサルを視界から外し周囲を一望する。沙織ともう一つの捕獲目標である鈴木の確保である。しかし鈴木の姿は無かった。
「既に海の藻屑となったのじゃろうか」
鈴木の顔が脳裏に浮かぶ。片手は潰したものの逃亡したのは間違いない。しかしだからと言って逃げ場所があったのかは検討がつかないのも事実だった。
「気になる事もあったのじゃがな」
鈴木の最後の台詞を思い出しながらハッドは翼を風に乗せた。王の威光をものともせずに落下していくレフニムの間を縫って紅華院の後を追っていった。
紅華院と沙織が発見されたのは嵐が治まり東の空に白み始める頃だった。ダイビングスーツを準備して追いた久遠寺が氏家から借りた懐中電灯を一つ借りて捜索、浮島跡地からやや離れた岩場で張り付いていた二人を発見したのである。すぐさま回復を温存しておいたRehniに救援を求める。だが沙織を前にRehniは痛いの痛いの飛んでいけもちちんぷいぷいも躊躇した。大量の海水を飲み、沙織は既に息絶えているように見えたからである。脈を取り瞳孔を確認し、最後に首を横に振った。
「専門家じゃないからはっきりしたことはいえませんが」
そう前置きをした上でRehniは全員が見守る中でちちんぷいぷいを使用、しかしやはり変化は見られない。そしてもう一度使用としたところで澤口が止めた。
「先輩、もういいですよ。それよりも紅華院ちゃんをお願いします」
その言葉を聞いたRelicは複雑だった。一般人と撃退士の優先順位、死の判断基準、天使と人間の違い。色々なものが頭の中で去来する。
「紅華院ちゃんも私達の仲間ですから」
「‥‥そうですね」
しばらくの沈黙を重ね、澤口の説得にようやくRehniが小さくうなだれた。
「そうですね」
今度は少し力強く、自分の中に喝を入れるようにRehniは呟き立ち上がる。
「大文字さんや長峰さんには私達の方から説明しましょう。遺体も弔ってあげないといけません」
「でしたらあっしもいきましょうかねぃ。ここに置いていくのも気の毒ですからねぃ」
「お願いします」
Rehniの返答を聞き、氏家が亡骸を抱える。そして久遠寺が荷物から着物を取り出し沙織に掛けた。
「今日も朝日が眩しくなりそうです」
「そうじゃな」
ハッドも肺の底から搾り出すようにして声を吐いた。
「我輩は紅華院を病院に連れて行く。空を飛んでいけば救急車よりも早くつけるはずじゃ」
「ボクも行きます」
ハッドが闇の翼を出すのに遅れずRelicも光の翼を出した。
「病院に向かう途中で襲われる事も考えられます」
Relicの提案は半分本心ではあるものの残り半分は自分も何かできることをしないといけないという建前だった。ハッドはそれに関しては何も言わず紅華院を抱えて飛び上がる。
「全速力じゃ」
それだけ言うと二度と振り返らずにハッドは飛んでいく。Relicもそれに続いていった。
「何でこうなっちゃったんでしょうね」
空の彼方へと消えた二人を目で追いながら、不破はそれこそ嵐のように過ぎ去った今朝未明の事を振り返っていた。
「ボク達はただ依頼をこなし、沙織さんと鈴木さんを救おうとした。博打だとは思ったけど勝算はゼロじゃなかった。何が足りなかったんでしょう」
「想像力でしょうか」
久遠寺も空を見上げて答える。
「嵐の中での戦闘なんてやったことがありませんでした。だから何を準備していいのかという機転が足りていなかったのでしょう。今思えば幾つか思う部分があります」
「聞かせて貰えますか」
澤口の問いに久遠寺は静かに頷いて言葉を続ける。
「一番感じたのは連絡手段でした。嵐の中では電話が使えるのか不明でした。視界も十分ではなかったので身振り手振りでも意思疎通は難しかった。それはお二人も感じられた事でしょう」
不破と澤口が頷く。
「ですが嵐が治まり紅華院さんを探している時に思ったんです。集合場所ぐらいは決めておくべきだったなと。そうすればもう少し早く沙織さんも紅華院さんも見つけられたかもしれないのです」
久遠寺は二人を見つけた時の光景をはっきりと覚えていた。顔が紫となった沙織は濡れた服に海藻らしきものが巻きついている。紅華院は血を流している頭部を気にせず沙織の体を抱えている。紅華院から流れた血で岩場は赤く染まり、それが二人を探す目印と同時に久遠寺の記憶に強烈なインパクトを与えていた。
「後は沙織さんの救出を紅華院さん一人に任せてしまったことでしょう。結果彼女が負傷した時のフォローができませんでしたし、彼女にダイバースーツを薦める事も怠っていました」
「渚ちゃん」
説明を続ける久遠寺を澤口が止める。そして笑顔を作り久遠寺に問いかける。
「自分を責めちゃいけないよ。沙織さんの件は渚ちゃんだけの責任じゃないから」
「そうだよ。ボクもボート停まっちゃってどうしたらいいのか分からなかったんだし」
「‥‥そうですね」
二人の言葉にようやく久遠寺は顔を上げた。
「ボートを片付けて私達も依頼人さん達のところへ行きましょうか」
「ですね。いつまでもここにいては油を売ってると思われそうです」
「それは困るよ、ボクはお姉さん探しもしなきゃいけないのに」
「だったら用務員さんに聞いてみたらどうでしょうか。学園長いみたいですし何かご存知かも知れません」
未来の事へと話題を切り替えながら澤口、久遠寺、不破は手際よくボートを片付けていった。
そして後日、道元沙織は魚腹市内の寺に埋葬される。沙織の実母である芳江が一切の関係を断ち切ると宣言したために無縁仏となったが、少なくない人が幼き少女の死に涙を流したのだった