撃退士達が水族館を訪れた日は雲一つ無い快晴だった。水族館の水が屋根の隙間から漏れる日光を反射しまばゆいばかりに輝いている。そしてその輝きの中から水しぶきを上げつつ突如顔を出す二頭のイルカに歓声を上げているものがいた。ニオ・ハスラー(
ja9093)である。
「きゃーイルカさんなのです!! 格好いいっす!! 頑張れっすー!」
最前列にかぶりつきながら手すりに全体重を預け、身体の半分以上を水槽の上へと持ち上げながら手を振っていた。そして彼女の視線の先、イルカショウ特設舞台の中央に立っていたのは紅華院麗菜(
ja1132)、ハッド(
jb3000)、飼育員の女性の三人だった。特に紅華院は今日のために水に濡れてもいいようにと「小等部6年2組こうかいんれな」と書いた白布を縫い付けたスクール水着を着用で臨んでいる。
「見るっすよ、イルカがぴょんぴょん跳ねてるっす。でもおどりこさんにはてをふれてはいけないっす」
意味不明な言葉をニオは連呼する。当の本人であるニオ自身も言っている意味は分かっていなかった。そんな言葉が口を突いて出るほどニオがイルカの雄姿に興奮している事は事実だった。
精一杯アピールするニオに対し、舞台上の三人も手を振って応じる。だが三人の顔には少し曇っていた。優に百人は入れるであろう会場でまともにショウを堪能しているのはニオを含めて四五人しかいなかったからである。しかしニオはそんな周囲の様子を気にすることなく自分の世界に浸っていた。
そんなニオの勢いに触発されたのかイルカは広い水槽の中を悠々と散開、時に大きく跳ねて輪を潜り舞台中央へと戻ってくる。そしてそれに合わせて飼育員は水色のバケツを運んでくる。相変わらずニオはイルカに目を奪われているが、舞台上にいる紅華院とハッドはそれがイルカの餌である事を感じ取っていた。
「これをイルカに与えるのですね」
紅華院とハッドがそれぞれバケツを一つずつ抱え上げる。中を覗きこむとアジやサバのような魚がバケツから溢れだしていた。
「戻ってきたら与えるのじゃったな。後は一度に与え過ぎない事、で合ってるじゃのか」
事前に受けた注意事項をキッドは思い出していた。餌を与え過ぎれば肥満の原因にもなるため適度に与える事と長年少しずつ書き溜めてきたハッド脳内のメモ帳には残されている。問題は長期に渡る眠りのために持ち主であるハッド自身も読めない部分が多くなっている事である。
やがてイルカが中央へと戻ってくる。紅華院とハッドはバケツを手に近づきながら、レコーダーのスイッチをオンにする。そしてバケツから一匹魚を取り出し、大きく口を開けて待っているイルカの口に差し出した。
「こうして間近で見ると改めて可愛いですね」
イルカは二人から餌を受け取ると、そのまま直立して咀嚼しまた水の中に戻っていく。その時二人は耳を傍立てた。確かにイルカの鳴き声らしきものは二人の耳に届いたからである。
「何か聞こえましたか」
「吾輩にも聞こえたのじゃ」
予想外の事に喜ぶハッド、だがはっきりとした言葉では聞こえない。聞き取りためにより水面へと近づくと、再び水面から顔を出したイルカが頬刷りをしてくれた。
「これはむほほなのじゃ」
今まで体験したことのない肌触りに思わずハッドは変な声を漏らす。
「これは役得じゃな」
貴重な体験に舞い上がるハッド、続いて飼育員に連れられ紅華院が前に出る。背中に乗る準備だった。
「やっほー麗菜ちゃん、期待してるっすよー」
ニオはいつしか服を着替えて水に濡れてもいい服装へと変わっていた。そして隣にはニオの行動に感化されたのか子供も一人、ニオの隣で同じように最前列で手すりを揺らしながらかぶりついている。
「ニオさん、ちゃんと撮れてますか」
速度はそれ程出ていない。自分で走るよりも遥かに遅い速度である。だが紅華院は自分の足を使う以上に風を感じていた。開放的な場所である事に踏まえ水上であるために普段と違った水分の多い風というのが理由だった。
紅華院がイルカの上から手を振ってみせる。撮れているというというのは勿論録音の事である。ニオも応えるようにより一層大きく手を振り聞き耳を立てる。だがイルカがゆっくり水槽の周りを二周回る間にはそれらしい音は聞こえなかった。
やがて紅華院が飼育員の手を借りつつイルカから降りる。そしてイルカの方も別れを惜しむように円らな瞳で紅華院を見つめている。そんな紅華院に飼育員が耳打ちする。握手をしてあげようという申し出だった。
「どうやってするんですか」
困惑する紅華院に対しイルカは紅華院の方へとヒレを突きだしている。全てを司会した彼女はそのヒレを握ってあげた。
紅華院とハッドの握手でショウは終了した。いつしかニオも一緒に手を振っていた子供と握手を交わす。そして情報収集を兼ねて子供にイルカついて尋ねてみた。
「イルカさんとお話できると聞いて連れてきてもらったんです」
雑誌社に取材されるぐらいなのだからそれなりに有名な話なのだろう、そう考えてニオはもう一歩踏み込んだ質問をした。
「誰から聞いたっすか」
「売店のお姉さん。ほらあそこの」
子供は特別施設の外を指差した。ニオも一度入口に目を向け、続いて事前に準備した館内マップを取り出す。確かにお土産と軽食の簡易店舗が向かい合って並んでいる。
「ありがとうっす」
ニオは子供に手を振って会場を後にする。そして売店に向かってニオは全てを悟った。そこにはホットドックを手にし嘘を交えつつ子供達に冒険譚を語るRehni Nam(
ja5283)、次のイルカショウの時間を確認しながら録音状況を気にする雨霧 霖(
jb4415)、そして二人の手伝いをする並木坂・マオ(
ja0317)の姿だった。
常磐木 万寿(
ja4472)が道元と顔を合わせたのは駐車場の隅に設置された喫煙所だった。先に来ていたのは道元だったが煙草は口にしているだけで火はついていない。一向に短くならない煙草を咥えたまま前回同様双眼鏡で周囲の様子を伺っていた。
「お久しぶりです」
煙草に火をつけながら常盤木は道元に話しかける。
「ああ、この前の人か」
「覚えていただき光栄です」
常盤木の顔を見て道元も会釈を返してきた。顔を覚えられていることに一応の安心を覚えつつ、常盤木は紅華院とハッドから受け取ったレコーダーを差し出した。
「イルカの音声は録音できましたよ。本人達が直接渡したがっていましたが喫煙所にはあの二人にとって近寄りがたい場所だったようで」
道元は何も答えない。常盤木も敢えて見つからないような場所に移動していたのではないかという疑問を持っていたが口にはしなかった。
「人の言葉には聞こえてないようですが、聞いてみますか」
道元は一度双眼鏡から目を外しレコーダーへと目を向ける。そしてすぐに双眼鏡へと視線を戻した。
「後でいいよ。今マシンを持ってきていないからね」
「専用の機械があるわけですか」
「まあそんなところだ」
常盤木の助け舟に乗る形で道元は話を曖昧に濁して終わらせた。どうやら今回も依頼自体は道元にとって本当の目的ではないらしい。常盤木は道元の様子からそう結論付ける。
前回と今回の共通点は人通りが少ない事、水が関係する事、その程度しか今の常盤木には思い浮かばない。だがこれまでの経験から常盤木には一つ心当たりがあった。サハギン、数か月前まで魚腹市を騒がせていた天魔である。全て退治されたと報告されているが、被害の爪痕はこの周辺にも至る所に残っている。前回の公園の時もそうだった。高層ビルに囲まれた公園だったが、灯りの点いているビルの階層は数える程度だった。
「それでは私はこれで」
道元は火のついていない煙草をそのまま灰皿へと押し付ける。
「お疲れ様です」
一瞬引き留めようかと思った常盤木だが行動に移さず見送る。自分から話してくれるまで待とう、そんな思いが常盤木の中にあった。
道元の姿が見えなくなった頃、常盤木のスマホが着信を告げる。画面に表示された名前は草薙 雅(
jb1080)だった。
「兄さん、どうしたっすか」
同じ頃、青銀 朝(
jb3690)は兄である赤金 旭(
jb3688)の労働先である手洗いを訪れていた。本当に兄が仕事をしているのかという心配もあったが、それ以上にからかいたいというのが本音だった。だが実際に赤金を前にするとからかうというより笑いが先に込み上げてくる。ゴム手袋に長靴、三角頭巾に口にはマスクという普段とは不釣り合いな清掃員仕様で身を包んでいたからである。それでも素肌を晒している顔の一部には煤や埃のようなものが付いていた。
しかしその中で一点だけ不釣り合いなものがあった。肩口に下げられたポーチである。
「落し物、っていうか忘れ物だ。通気口の裏に置いてあった」
「通気口ってそんな所まで掃除してたっすか」
「呼ばれている気がしたんだよ」
飽きれた顔を見せる青銀に対し赤金は真顔で答える。流石にもう青銀も兄を茶化す気分ではなくなっていた。
「これは化粧ポーチっすかね」
ポーチの見える方向へと移動し、青銀は様々な角度からポーチを眺めた。色はピンク、大きさは手の平大。上部には同色のファスナーが付いており開けられるようになっているが、流石にすぐに中を調べるのは気が咎めた。
「青銀、お前も持ってるのか?」
「それは勿論当然っすよ。乙女の嗜みみたいなもんっすからね」
嘘だった。化粧ポーチなるものの存在はこれまでの人間社会から見聞きしてはいるが自分に必要とまでは考えたことがない。当然持っているわけでもない。だが兄の前で自分の威厳を保ちたいがために咄嗟に口からでまかせが飛び出していた。
「それじゃこれ、落し物係りに届けておいてくれ」
赤金が青銀にピンクのポーチを突きだした。それに対し青銀は眺めつつ首を捻る。
「私をパシリに使うっすか」
青銀としては別に遺失物を届けるぐらいやってもよかった。だが素直に兄の申し出を受けるのは癪に障るという気持ちもあった。
「俺がこんなもの持ってる方が不審に思われるだろ。それに俺にはまだトイレが呼んでる気がするんだ」
「何を言ってるんすか?」
思わず青銀が一歩引き下がる。兄も自分と同じ天使であるが、悪魔か何か変なものに憑かれたのではないかという疑惑さえ湧いてくる。
「まあいいっすけどね」
一瞬兄が別人にも見えたが、お蔭で青銀の中にあった兄に対する抵抗心も失せていた。
「ちゃんと掃除するっすよ」
そう言って青銀はトイレから離れようとする。そこで二人は足を止めた。赤金だけではなく青銀までも呼び声を聞いたからである。
昼食時を過ぎてからニオは売店傍のベンチでRehni製のホットドックを頬張っていた。周囲の人の姿は相変わらず少ない。スーツ姿の男性が一人いるだけだった。
「今回我々の元に寄せられたのは、魚腹水族館の名物であるイルカが人語を話すという話でした」
Rehniは相変わらず回想を繰り返している。ニオが質問した子供もやはりRehniが語って聞かせたものらしい。一方で雨霧は傍にいる男性を商品棚から隠れながら観察している。もう彼女の妄想は暴走を開始していた。
「身なりのいい男性、人けのない場所、水族館、この三要素が導き出す結果は撮影会ですね。きっと隠す場所がほとんどないような極細の水着を着せられあられもないポーズを強要されるのです。そしてその写真をネタに脅されお金を要求、最後には遠く離れた言葉もわからぬ異国に名もなき少女として売られてしまうのでしょう。ああ、お父さんお母さん先立つ私の不幸を許してください」
並木坂は他のスタッフとともに首を傾げている。しかし問題の男性は土産物ではなく飲食店の方へと足を向けた。
「何になさいますか」
手を洗い営業スマイルに戻ってRehniは接客する。
「ホットドックとコーヒーを」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げてRehniは準備に取り掛かる。相変わらず遠目で観察を続ける雨露、だが別の客が顔を見せると再び完璧な販売員へと戻っていく。
「少し話を良いかな」
作業途中のRehniに男は話しかける。
「はい、いいですけど」
Rehniは時計を確認した。客足は引いているが次の餌の時間が近づいている。雨露も先程の客が見物するだけで立ち去ったため施設内へと向かう準備を進めている。録音の邪魔になるような事は出来れば避けたかった。
「すみません。今は職務中ですので」
丁寧に頭を下げてRehniは再び作業に戻る。残された男は訳もわからず右往左往している。
「でしたら後でもいいので。道元について話があります」
男はそう言い残して名刺を差し出す。そこには水族館館長長峰と書かれていた。
「噂はでっち上げだったのですよ」
電話口で草薙は常盤木に伝える。
「ここのイルカを運搬していた業者さんとトラブルがあって、客足を遠ざけるために幽霊が出るって悪評を流したそうなんです。でもそれを館長さんがイルカが話すと少し噂に手を加えたみたいですね」
「その商才は感服するね。だけど誰からそんな話を聞いたんだい」
常盤木の周りにはもう道元の姿は無い。代わりに紅華院とハッドが集まっている。
「大文字さんという方でござる。依頼人の部下という方から聞いた話でござった」
「部下か」
常盤木は眉をひそめた。道元にはこれまで二度接触しているが、今回も前回もそんな人物の名前を聞いた覚えはない。ニオとハッドの顔を見るが二人とも首を振った。更に言えば同じ会社の人間なら何故その大文字という人物が直接道元にその話をしなかったという疑問が残る。
「他には何か話されてましたか」
更に紅華院が話を続ける。
「イルカも召喚獣と同様に仲間にしたいとか直接お話がしたいでござるな」
草薙の答えに紅華院は首を捻る。
「他には何か無いじゃろうか」
「他でござるか。そうなると休刊の危機ということなのでイルカに関して幾つかアイディアを出させていただいたでござる。十文字殿も喜んでいたでござるよ」
その時常盤木のスマホが二通のメールの着信を告げる。一通目の差出人は赤金、噂との関連性は不明だがタイマー式のラジオを発見したというもの。二通目の
差出人はRehni、依頼人の友人という水族館の館長から直接道元をよろしく頼むと言伝されたという報告だった。
「今回の依頼はイルカの音声録音でござるよな」
話を聞いて草薙は思わず質問する。
「表向きにはそうですね」
紅華院が答える。
「噂の出所はトラブルのあった運搬先、広まったきっかけはラジオでしょう。原因追究まで頼まれたらそれが結論になりますね」
複雑な表情を浮かべる紅華院。その隣ではハッドが頭から蒸気を噴き上げている。そして何かを閃いたのか立ち上がり特設施設の方へと向かっていく。
「よくわからぬからもう一度イルカくんとの会話を試してみるのじゃ」
「待つでござる。次は拙者の番でござろう」
その日の水族館は終始賑やかだった。