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闇の中に針を落してしまった。
それはとても大切なもの。だから必死に探すけれど、光は一筋もない。
眼は何も映してくれてない真っ暗闇。針で指を刺される恐怖を感じながら、けれど指先で探り続ける。
大切だから。亡くしてないから。また見つけて、また逢える――そんな、自分でも信じられない事を続けていた。
夜闇の黒に染まった中、赤い風が響いている。
指を刺された鬼女が、琴線を鳴らして慟哭している。
周囲は黒。何も見いだせない。
飲まれて消えていったモノタチ。ただ掻き鳴らされる手琴の嘆き。
視界が全く働かないせいか、聴覚がそれらを敏感に拾うのだ。そして、胸の奥まで届けてしまう。脳の真芯を揺さぶって、思考を乱す。
ディアボロ。死体から産み出された怪物。
元は同じ天魔だったユングフラウ(
jb7830)。堕天したとはいえ、天使の身だったから深く知っている。
「魂などないと、十分承知しているのに……」
天魔に作られた眷属は虚ろな器。ただの殺戮生物。それを以て悲しい存在と云えるのかもしれないが、少し違うのだ。
理性ではなく、感情が伝えている。鳴り響く弦の音が、夜を弾いて心を刻む。
これは哀しみと喪失の調べ。風さえ赤い色で泣ている気がした。
「どうして、いえ、魂のない叫びだからこそ……魂を失っても叫ぶからこそ、悲しく、辛く、苦しく感じるのでしょうか?」
それは名残で残滓。これは欠片で感傷。
ユングフラウは瞼を伏せて深い氷のような青い瞳を隠すが音色は止まらない。
「やりきれないな……ここまで悲痛な叫びを聞いたとなれば」
僅かに残ったかもしれない魂。それさえも穢された鬼女は化け物として、今も絶望をばら撒いている。
どうしてだと問う事も出来ない。水無月 望(
jb7766)も暗闇の中、じっと音のする方向を見つめていたが、何も見えなかった。だが、いずれ来る。その時は。
「受け止めて、この身に刻むさ……忘れない」
この絶望。悲劇。決して、繰り返させず、化け物となった彼女に人を殺めさせる前に、終らせよう。
だからこそ受け止めるのだと定める水無月の横、月野 現(
jb7023)も苦しげな表情で盾を構えている。彼らは傷つく事は厭わない。だが、どれほどの嘆きと猛りで動いているのだろうか。
希望などない。そんな現実を理解する事も出来ない程。なら、せめて。
「そう、忘れない。悲痛な涙の音を、そして、その最後も」
月野の呟きは誓いに似ている。
諦観や思考は後でいい。今は守る為に。これ以上、血で穢されない為に。それだけだ。
憐れ。悲しみ。同情。入り混じった想いの中、けれど僅かな躊躇いのない者もいる。それは覚悟の重さではなく性質や方向性の違い。
例えば、言葉を発さないヒース(
jb7661)とて、思う事はある。
ただそれを胸に呑むだけ。
道化の身すら掻き毟る音色を奏でる鬼女の涙を、夜の番人として見つめている。
想いと願いは踏みにじられ、戦って壊して殺し、朽ちて消えていく。慰めも憐憫も同情も、一欠けらもヒースの中にはない。
代わりに、己が術を。ヒースという存在そのものをもって、相対しよう。
弔いは刃にて。光などない場所だからこそ、死神の鎌は静かにヒースの仮面の奥、瞳に宿っている。
未だ人と同じ視界しか持たない鬼女が気づかない間に、スマホで位置を特定したと仲間にメールを送る。たどたどしい指先は、そういったものを得意としない事、そして今まだ触れた事のなかった事を示している。
声で発する言葉は、やはりない。
紅の風が、鬼女を纏って流れている。
「角田川……ねぇ、そんな演目を知っている?」
闇の中、囁いたのは支倉 英蓮(
jb7524)だ。
制服の上に朱色の羽織りを着崩した支倉は、ともすれば鬼女の演目を舞う演者のよう。
だが、此処は戦いの場。既に始まっている血の流れは止まらない。その大本を断たねば。
だから、あの鬼女は既に助からぬ身。でも哀しみを歌う姿は、確かに似ていると支倉は思うのだ。
一体何をと、無感動な瞳で見つめる紅香 忍(
jb7811)。初陣だからこそ、決して一歩も引けないし間違えない。
「失ったものの為、ただ、ただ泣き叫ぶ狂女……そのままじゃない」
だからどうした。少し距離を取る忍。自分は失う側じゃない。これから失いたくなくて、豊かな、いや、普通の生活を手に入れたいと思うばかりなのだ。
普通の暮らし。やっと見つけた、か細い希望。決して転ぶ訳にはいかない。余裕なんて、ない。
「だからと、躊躇いや憐みはありませんよ」
仮面を付けた為久(
jb7786)の声は、表情と同じくどんな感情のものか解らない。
見えぬ。解らぬ。辿り付けぬ。
夜闇の世界は広すぎる。戦いの世界は、余りにも長すぎた。
闇の翼を広げ、白桃 佐賀野(
jb6761)は小さく微笑む。
「ふふ、可愛そうなお嬢さん。行く宛もなく彷徨うのは疲れるよね」
だからと、少女の姿をした可憐な少年の悪魔は空を舞って口にする。
その姿を反映するように翼は白。ユングフラウと月野の紡いだ光の上で、天使のように空を踊る。
そして闇の向こう。動く気配。掻き鳴られる弦の激しさ。
「俺が終着点になってあげるよ」
いずれ果てるならば、せめて最後は抱き締めてあげると告げた瞬間――紅涙が無数の刃となってユングフラウへと襲い掛かり、白桃はその間へと落下するように滑り込む。
涙は、血を呼んでいる。
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涙粒とて迅を過ぎれば刃だ。
五月雨のように白桃の身を貫く。触れたものを侵食して朽ちさせていくが、魔に耐性のある白桃のならば深手という程ではない。逆に天使であるユングフラウであれば更に深い一撃となっていただろう。
だからこれは合理性の問題。感情が僅かに入ったとしても、利にしかならない。更なる追撃を阻む為、月野が盾を構えて前進するのもその為だ。
感謝は後で。今、告げるべきは姿を現した鬼女。紅風を纏う存在へ、深青の髪を靡かせて後ろに下りながら、言葉と光輝の珠を投げかけるユングフラウ。
届くかどうかなど解らない。倒すしかない、魂のない存在。心なんてありはしないのかもしれない。
「無くしたから、探し求めるしか知らないのですよね」
ユングフラウは無くした訳ではない。それでも探す気持ちだけは深く共感するからこそ。
「探す手伝いは出来ません。その道は血で汚れているから」
前進する鬼女。その身は血で汚れている。もう手遅れでどうしようもないからみそ。
「同じく黎明を探すものとして、全力で仕掛けさせて頂きます!」
光の外へと隠れつつ、鬼女の背後へとトワイライトを投擲したユングフラウ。これで、背後さえよく見える。
光に照らされた顏を染めているのは、血なのか涙なのか解らない。
「お前に泣き顔や苦痛に歪む顔は似合わない。だから、俺達がここで終わらせる」
前進しつつ、水無月が口にする。手にした直剣を握り締め、己を狙えとばかりに切っ先を下に向ける。無防備であり、一撃は受ける。それがせめてものと思ったから。
けれど、現実はとても冷たくて、鋭い。
白桃を中心に吹き荒れた紅の感嘆。冬風を刃にしたような暴風の嵐。前進し遅れた月野も巻き込まれている。
盾で受け切っても、紅嘆の暴威は何度も耐えられるものではない。距離を詰めなければ危険な相手。明らかに初撃を受けた白桃を最優先で狙っている。
二連撃を受けた白桃へと治癒を施しながら、前へと推して出る月野。
「……来い。これ以上は誰も傷つけさせない」
手琴を奏でる指が、鋭い弦でズタズタになっていのが、一瞬見えたからこそ。
「君が悪い訳ではない。だが、俺達は君を殺すしかない。存分に恨め」
「許せとは言わん……。だが恨むなら、お前を変えた悪魔と同属の俺を恨め……もう、泣くな。そんな顏をするな」
それでも、それでもと肉に弦が食い込む程に奏でる指先。痛々しい姿。全身を持って泣き叫んでいるのだ。
痛みも苦しみも哀しみも。
「全ては、此処で終らせよう。嘆きの詩は、ここでお仕舞」
それが救いになるのか、白桃には解らない。だが、何もしなければ、ただ悲劇を続けるだけだからこそ、白翼をはためかせて前へと出る。光へと引き寄せられた鬼女のそぐ傍まで。
「さあ、最終楽章だ。闇から光へと、望む終わりへと導こう。俺のタクトが、その灯りだ」
故に、残る哀しみを全て吐き出せと指揮棒のように白桃のロッドが振るわれる。
言葉は終わりと共に振るわれる魔の閃光。更に続くのは月野の放つ弾丸に、刃圏へと踏み込んだ水無月の放つ横薙ぎの一閃。闇を払い、紅風を斬り裂いて鬼女に届いた攻撃。
想いも言葉も全て込めて。後は一瞬一秒を早く終わらせる為に――斬首の道化が、引き鉄を絞る。
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三発。背後から受けた不意打ちの銃撃は全て鬼女へと当る。
振りかえれば、そこにいるのは仮面を被った悪魔の道化師。銃口から白煙を立ち上らせながら、恭しく一礼をするヒース。
戦いにおける礼儀。殺す故に、殺されるモノへの最後は敬意を以て。どだい、生き残るのは片方のみ。
その姿に何を思ったのか、鬼女が一瞬止まる。憤激と哀惜を混ぜたような、燃え盛る激情の気配。
だが、その暴発を許しはしない。闇夜を滑る糸が射出され、鬼女の手首を縛り上げる。
掴むのは支倉だ。対摩擦手袋越しに、肉を断ち斬っていく鋼糸の鋭さを感じながら、するりと口にする。
「さて、貴方…悲しい音を奏でるのね……角田川って演目、知ってる…?」
ぎりぎりと肉を斬られながら、ただの腕力だけで鋼糸による拘束を解かれていく。けれど、支倉に焦りなど欠片もない。だから言葉を形にする。
「今の貴方…その主役みたいよ…? ………自分も、だけどね……」
赤き風。赤き涙。紅滴る簒奪者は、まるで己の姿を重ねてみるよう。
言葉が届いたかどうか、解らない。ぎりぎりと、鬼の腕が人の手繰る糸を破ろうとしている。
「そう……行き違って、踏み込む場所を間違えたから……鬼……」
ぼつりと呟き、糸の拘束が弾ける刹那。逆に朱の羽織りを靡かせて、糸の拘束を緩めて後退する支倉。
拘束すれば反撃は当然だ。油断などないし、これで決まるとも思ってはいない。無理に暴れようと全力を振り絞った瞬間、鬼女の拘束が解かれて姿勢制御を崩した所へと、一枚の符が飛翔する。
躊躇いなどない。掛ける言葉は既に。ならば後は、一秒でも早く終わらせる事。
この後にあるものを見る為に。未だ戦いの後、救いと安らぎがあるか解らないからこそ、求める為久の祈りは霊力となって、符に満ちている。
ひらりと、舞う。そして鬼女の足元で炸裂する符術。姿勢を崩した所へ完全な追い打ちとなって、片膝を付いた。
回避不能。攻撃の為の支援としては完全なタイミング。
その瞬間を狙い、闇に溶け込んでいた影――忍が鬼の背中へと跳躍する。操るのは斬糸。その先端は音など置き去りにする程の速さで振るわれているのだ。
狙い、断つのは一つ。
「……貴女の声など知らない、貴女は的、貴女は敵、だから殺す」
だって、その首は声帯を失っている。そうやって言葉を喪失したものに何を語りかけても、何も言葉は帰って来ない。
失ったら戻らない。死体は死体。その当然と原理を身に染みて知っている。
冷徹なまでに、失わない事を渇望した忍の一閃が奮われた。ただ求めた。普通であれる事を。
ディアボロに未来まで、奪われたくない。その想いは凍えた煌めき。兜などなくとも、意識そのものを断つ一撃に、鬼女は両膝を付く。
それでも手琴を手離さないのは何故だろう。朦朧とした意識で、未だに弦を手繰るその姿は、どうして。
「終らないと……その嘆きも、止まらないのですか?」
射程ギリギリより放たれるユングフラウの光球。鬼女の意識を呼び覚ます一撃となったが、それでも最後に届けたい心があったから。
死神の鎌、その穂先が鋭利に、無慈悲に奔る。
「人の心を、命を扱う外道が増えるばかりだ。だからこそ……守れなかった君の代わりに、人間を護り抜こう」
それより早く、トリガーを引いた月野。弾丸は左腕を撃ち抜き、琴を鳴らさせない。
衝撃で宙を掴むように動いた、右手。血濡れの、何も掴めなかった指先。
「その手で、掴みたかった者の所へ行け」
強烈なる激の剣閃。トドメの斬首を狙うものの存在に気づき、その支援となるべく右足を深く切り裂く水無月の刃。
立て続けの攻撃に、身を護る事も出来ない。攻撃さえもできない。ただ、滑空する死神の刃を受ける隙が出来ただけ。
「――――」
仮面の奥、ヒースが想うのはひとつだけ。
ヒースを突き動かす渇望の源泉は、狂的な殺意だからこそ。
アナタを殺そう。
アナタの首を狩り落としましょう。
悪魔からの弔いに言葉も慈悲も不要。これだけの言葉に送られた今、道化の戯言など意味を成さない。
アナタの首を斬り落とし、同じく銀色の鎌刃を以て、アナタを踏みにじった悪魔を狩り殺しましょう。
殺意と殺戮を以て――この悪魔からの弔いとなれ。
静謐を以て斬り飛ばされた鬼女の首。
だが、それでも紅の涙は止まらない。怪我が癒える事を忘れた傷口のように、滂沱と流れる血涙。
それこそ、何をしてもこれを成したモノの嘲笑だと、感じる。では、支倉の胸を打つのは何?
怒りか。悲しみか。それとも同属嫌悪。或いは憎悪かもしれない
「……でも、送るわね……」
ぽつりと漏らし、宙を飛びながら紅涙を零す顏へと意識を向ける。
手繰る武威は抜刀のそれ。アウルを圧縮して鞘走りの如く滑らせる月光の如く最速の連閃。
鞘から放たれ、舞い踊る鋼糸に託したのはただ一つ。
もう泣かせない。その為に原型を失う程に切り刻み、粉々の肉片にまで。
執拗に、妄執的に、けれど、そうしなければきっと涙は止まらないと知っていたから、その場の誰も止めはしなかった。
仰ぎ見れば、月はない。
けれど、紡がれた光にて照らされた支倉は返り血で赤く染まっている。
鬼女を殺した、鬼姫。そんな言葉がするりと出てきてしまいそうな程に美して、凄惨で。
「世の中……やるせないコト‥…ばかり……ですね…」
この世界の理不尽さに。
何もしていない筈なのに不幸へと転がり堕ちる世界へ、悲しみの囁きを、まるで涙のように零した。
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為久が鬼女の胸元にあった指輪を見つけ、白桃が事件の参照にした為、女性の事は判明する。
その場で埋葬する事もあり得たが、墓に入れるのが人の最後だ。
遺族の意向で死んだ恋人と二人を同じ墓へと埋葬する為、業者や機関へと鬼女を渡す際、水無月は花束を捧げた。
手向け。待っている人がいるなら迷わずそこにいって欲しいのだと。
光の先で彼は待っているのだろう。白桃は疑いなく、そう信じている。正しい道へと導けた筈だと。
そして、無念を晴らすべく。或いは、二度と繰り返さない為に。
「この最後を、忘れない」
背後に居たであろう、悪魔も許さない。
重い言葉が、朝日の中に響いていく。