「は、羽根、なんて……持って、ないです」
連れて行くなら持っている羽根を渡すのが条件だと告げた雨野 挫斬(
ja0919)に対する、千本麻美の答えがそれだった。胸元で腕をギュッと抱え込み、目と口元で必死の意志を顕わにする。
持っていると、彼女の目が言っている。
渡せないと、彼女の引き結んだ口が主張していた。
撃退士を信用しないわけではない。恩もある。だけど、彼女にとってこの羽根は、もしかしたら両親の命を救う最後の手段となるかもしれないのだ。おいそれとは渡せなかった。
その麻美に対し、雨野は再び繰り返す。
「私達の仕事はあなたの護衛で、御両親を助けに行く義務はないの。むしろ危険な病院に護衛対象を連れてったら、私達は怒られちゃうわ。なのに連れてくのは、あなたの気持ちが解るのと、あなたを信じたいから」
雨野の言葉にも嘘はない。
撃退士の本来の任務は、麻美を護衛し、麻美と天使ギメル・ツァダイ一派との接触を避ける事である。依頼内容に忠実であるなら、そもそも病院になど行く必要はないのだ。
「もう一度だけ聞くね。羽を持ってる? もしあるなら渡して頂戴」
「……持って、ないです」
麻美の答えも変わらない。
黙りこくってしまった二人の間に、青空・アルベール(
ja0732)が割って入る。
「雨野、強制はいけねーのだ。麻美が持ってないと自分で言うなら、それでいい。無理矢理では、収まる話も収まらないよ」
「……行こう。ここで押し問答をしている時間はない。裕康氏の車を借りれば、全員が行ける筈だ」
続く久遠 仁刀(
ja2464)の言葉に、止まっていた撃退士達が動き出す。
病院は今この瞬間にもディアボロの襲撃に晒されている。久遠の言葉通り、そして銀甲冑の告げた預言に耳を貸す迄もなく、残された時間は多くないに違いない。
黙って背を向けた雨野の背後で、麻美は大きく息を吐く。
そんな麻美の後ろから、蘇芳 更紗(
ja8374)が声を掛けた。
「麻美様」
「は、はいっ!」
「今は、羽根の事は置いておく。ただし、ついて来るのなら必ずこちらの指示には従う事。御両親を助ける為にも、麻美様の安全の為にも、それが同行にあたっての最低の条件だ。約束できるな?」
蘇芳の言葉に、麻美は頷いた。
千本家の車庫に残されていたミニバンに、麻美と八名の撃退士達が次々と乗り込む。定員八名の車内が多少狭苦しいが、緊急事態に文句を言う者もいない。運転席に座った久遠がキーを回し、エンジンを掛ける横で、助手席に座った雨野がシートベルトを掛けながら聞こえよがしな独り言を呟いた。
「しっかし、偶然麻美ちゃんが通う病院に、偶然両親がいる時に偶然悪魔が攻めてきたのを、私達が知るより早く騎士さんが知らせてくれるなんて凄い偶然だねー?」
勿論皮肉。それは、天使を信じるなという、雨野からの形を変えた忠告だ。
俯く麻美。
ルームミラー越しにそんな麻美の様子を見ながら、久遠はアクセルを踏み込んだ。
「行くぞ。多少荒っぽくなる、しっかり掴まっておけ!」
●
栃木県T市、中野坂総合病院。
郊外に建つこの病院の広い駐車場は、まるで地獄そのものと化したかの様であった。
燃える車、叫び声、ぶち撒けられた赤い血の跡。
今しも巨大な化物百足が、一抱え程もある太い胴部に無数の足を蠢かして、逃げ惑う女性に襲い掛かろうとしている。女性に迫る、ザワつく足音。絶対の死を前に、彼女が叫ぶ事すら出来ずに息を呑んだその瞬間、両者の間に一台のミニバンが盛大にタイヤを軋ませながら割り込んだ。
「ディアボロッ! 人を襲うなど私が許しません!」
「きゃはは! 大物発見、遊びましょうよ!」
バンから飛び出す、機嶋 結(
ja0725)と雨野。
二人は共に声を上げ、臆する事なく巨大百足に襲いかかる。それぞれの得物が分厚い甲殻を左右から斬り裂くと、百足は奇声を発しながら駐車場の上に崩れ落ちた。その隙を逃さず、バンの車内から神喰 朔桜(
ja2099)が『禁戒の縛鎖』を放つと、彼女のアウルが無数の黒い鎖となって地より湧き出し、暴れる百足の体を地面へ縫い止める。
「蟲に恨みはないけれど、蟲に掛ける慈悲もないな。意味もなく、踏まれて死ぬのが蟲だよね?」
「全く、皆派手だねぇ。……おネーチャン、怪我ない? 立てるかい? ここらはちょっくらアブナイぜ、俺達がアイツらを引き受けてる間に、敷地の外まで走って逃げな」
仲間が足止めをしている間に、狗月 暁良(
ja8545)は百足に襲われていた女性を助け起こす。幸い大した怪我もないようで、彼女は何度も頭を下げながらディアボロのいない方角へと走り去った。
「目に付く範囲で、駐車場内に他の人間はいないようだな」
最後にバンを降りながら、久遠はヒヒイロカネから身の丈を超す巨大な長剣を顕現させる。ツヴァイハンダーFEに更に強化を重ねた、学園生の中でも同クラスの魔具を振るう者は滅多にいない逸品だ。
「先行陽動班五名。精々派手にやってやるか」
得物を構える五人の撃退士達の前で、黒い縛鎖をギリギリと引き摺りながら、大百足がゆっくりと身を起こす。如何なる生命力故か、機嶋達が最初に与えた傷口は、早半ば塞がろうとしていた。騒ぎを聞きつけて、病棟周辺にいた他の小型ディアボロ達も集まってくる。
「こちらにディアボロを集めれば、それだけ病棟を襲うディアボロの数が減る道理。元より、ディアボロを生かして返すつもりもありません。滅びなさい」
まるで機嶋のその言葉が合図であったかのように、撃退士目掛けてディアボロ達が一斉に襲い掛かる。
戦いが始まった。
―――駐車場で戦いの火蓋が落とされようとしていたその時、ディアボロの手薄な箇所を選び、密かに院内へと侵入する四人の人影があった。
「麻美、準備はいい? 手を話さないで、しっかりと捕まってるのよ」
「はいっ」
九曜 昴(
ja0586)と、彼女に背負われた麻美。その二人の周囲をカバーする蘇芳と青空。
陽動班の五人が敵の耳目を集める中、麻美を含めた四人が院内へ突入。麻実の両親と共に、院内の出来るだけ多くの人間も併せて救出しようというのが、今回撃退士の立てた作戦である。正直、たった八人の撃退士には手に余る状況ではあるが、増援の撃退士達が来るのをただ待っているわけには行かなかった。
「麻美、私達は中の様子はよく知らない。中での案内は宜しくな?」
クロスファイアを構えながら、麻美に声を掛ける青空。
一行の先頭で周辺の気配を伺っていた蘇芳が、合図と共に建物の中へと突入する。
「行くぞ」
●
「生存者は居ないか!?」
近付く虫型ディアボロを冷刀マグロで殴り飛ばしながら、蘇芳が叫ぶ。横でクロスファイアを撃ちまくる青空。二人の後ろを、麻美を背負った九曜が続く。
一行は一瞬足りとも足を止める事なく、院内の長い廊下を駆け抜けた。
先行班の陽動が効いたのかディアボロの数は疎らだが、それでも散発的に遭遇する敵は一匹や二匹ではない。まともに相手をしている暇はなかった。
「麻美、次はどっち?」
「えっと、血液内科だから……左です! 廊下の突き当たりに診察室が!」
青空の質問に答える麻美。通い慣れているだけあって、彼女の案内は的確だ。一行は足を止める事なく別れ道を左に曲がり、廊下を抜けて診察室へと飛び込んだ。
診察室には。
―――誰もいなかった。
白かった筈の部屋の中は、今は乱れた赤色であちこちが塗り潰されている。
転がった椅子、撒き散らされたカルテ。
そして、喰い荒らされ、白衣を血に染めた男性の死体。
「先、生……?」
九曜の背中で、麻美がそう呟いた。
「麻美、見なくていい。御両親じゃない事だけが分かれば、今は十分なのよ」
九曜が、咄嗟に麻美の視界を手の平で覆う。目の前の死体が麻美にとって他人でないのは、面識のない彼女にも想像がつく。だが、今ここで彼女を立ち止まらせるわけには行かなかった。
「そうだ、麻美様。御両親を探そう。きっと二人共麻美様の事を心配しているに違いない」
「恐らく、上なのだ」
鋭敏聴覚スキルを発動させた青空が、天井に目を向ける。
「ここに来る迄でも、あまり生存者とは遭遇しなかった。生きている者達は、それぞれの判断で皆上へと逃げたんだと思う」
「行こう、ここに来る途中に階段があった」
駆け出す蘇芳。
青空は一瞬、気遣わしげな視線を麻美に向けるが、彼も直ぐに走り出す。後に続く九曜。
九曜の背で、麻美はじっと目を閉じたまま動かない。
●
外での戦いは、激しさを増して尚続いていた。
何とか一匹目の大百足を倒した五名は、間髪入れず、病院の外壁に張り付く二匹目の大百足に矛を向ける。
堅固な殻と、常識外れの再生力を併せ持つ大百足は、単体でも非常に強力なディアボロだ。その大百足に小型ディアボロ達も交えながらも、撃退士達は一歩足りとも引こうとはしない。
「いやーッ!!」
気合一閃、機嶋の大太刀より放たれる光の波が、壁に張り付く大百足を横合いから張り飛ばす。
激しい光の奔流に、一瞬外壁に食い付いていた百足の足が緩んだ。その瞬間を狙い、地面より無数に噴き上がる神喰の黒縛鎖。体中を黒い鎖に戒められた百足はバランスを崩し、堪らず地面に激突。地震のような地響きが駐車場に木霊し、大量の砂埃が辺りを覆う。
―――『ソレ』が現れたのは、そんな戦いの最中の事だった。
砂埃の中で気配を探っていた狗月は、傍らに仲間の気配でもない、百足達でもない、もう一つの気配を感じて一瞬、身を固くする。
「……どしたい? 呼ばれてもないクセに、少しガマンが足りないんじゃないか? 銀ピカバケツ頭サン?」
軽口を飛ばしつつも、狗月の鉤爪に油断はない。
彼女の傍らに立っていたのは、被甲した戦馬に跨った銀甲冑の騎士だった。天使ギメル・ツァダイの手足となって働くサーバント。
「あれ、騎士様? 何か用事でもあった?」
狗月の近くにいた神喰もまた銀甲冑の姿に気付き、笑顔のまま、慎重に彼我の間合いを測る。
しかし、戦意を放つ撃退士達に、銀甲冑は武器を向けようとはしない。
「……貴様達に用はない。我はただ間近に迫る運命の時を迎える為に、ここに来たに過ぎぬ」
「運命?」
「そうだ。お前達人間も、愚かな悪魔共も、所詮ギメル様の見通す運命の掌の上。……見ろ」
神喰と狗月の前で、銀甲冑は離れた病棟の一角に、籠手に覆われた指先を向ける。
思わずそちらに目を向けた二人。
そして二人は見た。病棟三階の屋上から、天に伸び上がるようにして突如出現した三匹目の大百足の姿を。百足の長大な体は虚空で弧を描き、重力に引かれ、猛烈な勢いで病院の外壁へと激突しようとする!
「あれは!?」
誰かが叫ぶ。
百足の狙う先に見える、二階の廊下を逃げる群衆の姿。
更には、大百足に気が付き、必死に廊下を走る九曜達の姿さえもがそこに見えた!
銀甲冑は告げる。
「運命の刻だ」
●
ドガラッシャ―――ンッ!!
肉体を破城槌そのものと化しめた大百足の体当たりは、轟音と共に病棟の外壁を爆散させた。
悲鳴と破砕音。百足は瓦礫の山を踏み躙りながら、遂に病院二階の廊下へと侵入する!
「まずいぞっ!」
「麻美、危ないからここにいて!」
冷刀マグロを構える蘇芳。九曜も麻美を背中から降ろし、アサルトライフルを小脇に抱える。
二階に逃げ延びていた避難民の集団を、廊下の向こうに発見した矢先に起きた大百足の襲来だ。長い廊下の先には避難民達が、更にその向こうには壁をぶち破って侵入してきた大百足が。避難民達に対する距離は、百足の方がやや近い。
「……麻美、麻美か? それに撃退士の、何でこんなところに……」
「お父さんっ!?」
避難民達の中から上がる、裕康の声。それに応える麻美の悲鳴!
その声が聞こえた瞬間、青空は、蘇芳は、九曜は反射的に廊下を全力で走り出した。同時に、瓦礫を蹴散らして裕康へと迫る大ムカデ!
撃退士達には、今がその時なのだとハッキリと判った。
間に合うか間に合わないか。
麻美が、天に助けを乞うか乞わないか!
「私は一人になったけど。彼女をそうさせるわけにはいかねーからなッ!」
全力で駆ける三人の中で、青空の足が一歩先に抜きん出る。彼の驚異的な脚力が、限界を超えて自らの体を前へと運ぶ。逃げる群衆を超え、裕康の脇を走り抜け、目指すは大百足の顎の前。自らの身体そのものを盾と化し、大百足の突進を食い止める為に。
実を言うと、本当は怖い。怖いからこそ、青空・アルベールは笑顔を作る。
ヒーローは負けない。
怖くても、笑うからこそヒーローなのだ!
―――次の瞬間、青空の体に激しい勢いで大百足の巨体が激突する。
●
大百足の開けた破砕口から、後を追って真っ先に飛び込んで来たのは機嶋と久遠の二人だった。二階の廊下で、百足はまだ生きていた。機嶋達はそれぞれの武器に破魔の白光を宿し、自らの最大奥義でもって大百足を粉砕する。
「青空さん!」
「生きてるか、アルベール!?」
ビクビクと蠢く百足に止めを刺しながら、機嶋達は青空の姿を探す。
外の駐車場から二人が最後に目にした光景は、青空と大百足が正面から激突したシーンだった。青くなって青空の名を叫びながら瓦礫の山を踏み越えた二人は、そこで泣きながら青空を抱える麻美の姿を目の当りにする。
「あた、イタタ! 麻美、まだ生きてるから、そんなに泣かないで」
「だって、青空さん、こんなに血が……!」
「―――なんだ、割と元気そうだな、アルベールの奴。……それに見ろ、やっぱり麻美はギメルの羽根を隠し持っていたか」
「それは当然でしょう。彼女にとっての唯一の『力』ですもの。手放すわけがありません」
久遠の視線の先で、麻美は白鳥のような大きな羽根を握って泣いていた。
天使に狙われた少女が、それでも手放すことの出来ぬ天使の羽根。
「天の助けか、虚無への罠か。……どの道、ここで彼女があの羽根を使う事はもうないでしょう。行きましょう、久遠さん。敵は、そして私達の仕事はまだ残っています」
「違いない」
●
八名の撃退士達は病棟三階に立て篭もり、増援到着まで何とか生き延びる事に成功した。
最終的な死者は二十六名。生存者は六十名を超える。状況の厳しさを思えば、これは望外の成果と言っていいだろう。それではめでたしめでたし……と締めたい所ではあるが、懸念すべき事も残っている。
「何かあっちゃイケナイと思って、俺は銀ピカバケツ頭の野郎を見張ってたんだけどさ。あいつ、最後にこんな事言ってたぜ?」
狗月の伝えるところによると、銀甲冑は青空が大百足の突進を食い止めた辺りで、途端に興味を失ったかのように馬首を巡らし、空の向こうへ消えていったらしい。
「何だっけ、再びウンメイの糸が編まれる日を待て、だったかな? 偉そうだよな、あいつ。次あったらぶん殴ってやる」
恐らく、その日はそう遠い先の事ではないだろう。