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「あの娘よ」
千鶴の指差した先、荒れ果てた神社の境内に天界の使徒は立っていた。
だがしかし、半壊した社の前に佇み、ぼんやりと夜空を見上げる姿はごく普通の少女でしかない。
「放棄された地区の神社にたった一人…? 確かに気になりますね」
黒瀬 うるか(
jb6600)が怪訝な顔を浮かべる。
少女の周囲を浮遊する白狐と白兎の姿。そして、手にする身の丈を超す刀。それらが辛うじて少女が少女であることを否定していた。
「…天界に忠誠を誓った輩は、どいつもこいつも使命感に燃えているものと思っておりましたが、あのような子もいるのですねえ。調子が狂います」
饗(
jb2588)が遠く小さな、あどけない横顔を見つめる。そこに悪意や邪気、ましてや狂信的なものなど見えはしない。
その姿にアストリット・ベルンシュタイン(
jb6337)が瞳に寂しげな色を湛えた。
「子供が天界に帰順するほど、この社会は生き辛いのか……いえ、今は目標に集中しましょう」
自らに言い聞かせる為の呟きが虚空に溶け、代わりに藤村 将(
jb5690)の軽口が闇を叩いた。
「あのちびっこが天魔だとして、タコ殴りにする。つーのは絵的にどうなんだ?」
にやりと浮かべる笑みはこの依頼を、シュトラッサーという相手を舐めているのだろうことを窺わせる。
「平和的に解決したいもんだな」
見た目が少女と言うのも彼が真剣さを欠いている要因なのかもしれない。
一方、初めて向き合う上位の敵の姿に、小夜戸 銀鼠(
jb0730)は緊張感を張り詰めていた。…そのはずだった。
「…夏なのに、雪が降って、その中に一人で。オレだったら、心まで冷え切りそうだ…」
相手を見据えるほどに、緊張感が戸惑いへと変わっていく。
話には聞いていたものの、己より幼いと思われる存在を実際に前にして、彼の心は想像以上に波打っていた。
「出来れば戦闘は避けたいわね」
銀鼠の心情に同調するように、久原 梓(
jb6465)の顔も曇る。天魔と言えども見た目が子供というのはやりにくい。相交える必要があったとしても回避できるに越したことはない。
「最初、戦わない。話し、聞く」
鬼一 凰賢(
jb5988)が魔具をヒヒイロカネに収納し、他の者たちもそれに倣う。
まずは千鶴の要望に従い、語りかけてみる。戦うか否かはそれからだ。
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「赤良瀬先生、まずは私が声をかけてみます」
梓の申し出に、千鶴は意図を悟って頷いてみせる。
梓は先頭に進み出ると意思疎通を発動、満月を見上げる少女に第一声を投げかけた。
『こんばんは』
意思疎通は一方的に意思を伝えるだけで会話はできない。それでも遠距離から呼びかけることは、相手の反応を安全に確認できるという利点がある。
少女は不意に投げかけられた言葉に頭を巡らせ、そしてこちらの姿に気付いた。
梓は警戒を与えぬよう注意しながら、できるだけ優しく呼びかけ続ける。
『初めまして。私の名前は久原 梓って言うの。虐めたりしないから、そっち行っても良い?』
彼我の距離は30m程度。少女の発した言葉は勿論のこと、口の動きもまだよく見えない。
だが、それらに気を使うまでもなく、少女は静かに応えを示した。
声を発することなく、視線を逸らさぬままにゆっくりと抜き放たれる長刀。それに応じて二体の浮遊する白き獣が威嚇体勢を取る。
冷たい冷気が肌を撫で、それが殺気と気付いた梓は語りかけ失敗と判断した。
「答えはNOみたいよ。なんて言えば良いかしら」
「間合いに注意してもう少しだけ近付いてみましょう。できれば、あの子の言葉も聞いてみたいしね」
千鶴が歩き出し、それに学生たちが続く。
銀鼠と将は先立つ千鶴を護衛するように、彼女の傍へと進み出た。
大きな声ならば届くだろう距離。だが一息では近づけないだろう位置で足を止め、千鶴が声をかけた。
「私は千鶴。あなたの名前、教えてくれる?」
けれど反応はない。間合いを測っているのであろう視線だけが、撃退士たちに冷たく突き刺さる。
「ひとまず、これを飲んでお話ししませんか」
アストリットが少女の表情の向こう側へ向かって、イチゴオレを差し出してみる。
ふと緩む殺気。
表情は変わらずとも明確に示された反応。うるかが期待を込めて後に続く。
「初めまして、私は黒瀬うるかって言うの」
クマのぬいぐるみを胸に抱き、クマの手をふりふりしながら呼び掛ける。少女の仕草や表情の変化を見逃すまいと、うるかの表情は穏やかながら目は鋭い。
(あの子は、敵。見た目に惑わされてはいけないのよ…)
行動と相反する気持ちが、自らを言い聞かせるように胸の中で渦巻く。
少女の視線がぬいぐるみに向けられる。しかし返る言葉はなく、表情も殺気もそれ以上の変化は無い。
「んー…おー、鬼一凰賢。名前、何?」
続く凰賢の言葉。そこで初めて少女が言葉を発した。
「おー?」
僅かに首を傾げ、疑問を返す。その反応はあどけない少女そのもの。その姿に、銀鼠は思わず声を重ねていた。
「…名前…何て言うんだ…?」
しばしの沈黙、後に返答。
「………ヤコ。阿賀野 弥子」
漸く得られた言葉を前に、うるかが機を逃すまいと質問を畳み掛ける。
「あなたはここで何をしているの? 何か目的があるの? 誰かに言われたの?」
しかしそれは気が逸っていたのかもしれない。知らずに進めていた足は一歩、いや半歩だけ誰よりも前に進み出る。
「黒瀬さん!」
千鶴が叫ぶ。が、それは一瞬遅く。
うるかの足は少女――弥子の警戒網を僅かに踏み越えていた。
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次の瞬間、弥子の身体が発条の如く弾けた。
距離を詰める小さな身体が、一瞬で冷たく鋭利な殺気で満ち溢れる。
素早く戦線を整えようとする撃退士たちを怜悧な目が射抜き、誰よりも早く淡雪纏う白刃をうるかに向かって走らせた。
咄嗟に間に割って入るアストリット。しかし、彼女の鏡面が如く磨き上げられた純白の鎧ですら、少女は容易く貫く。
白き刀身が紅に染まり、無機質な声が死神と化す。
「人には恐怖を。撃退士には――死を」
それは弥子が主から授かった言葉。思考することもなく、従事していた命令。
弥子の言葉に呼応し、白き狐と兎のサーバントが体から氷雪を吹き上げる。舞い上がった氷雪は半壊した社に、倒壊した神木に、朽ちた境内に降り注ぎ、真夏の夜を白く覆っていく。
「赤良瀬先生、あんたはここに居なッ!」
千鶴を後衛へと誘導を終えた将が前線へ足を走らせる。寒さ対策に身に着けた真っ赤なマフラーが夜風に踊った。
「無茶しないのよ!」
千鶴が魔法攻撃で援護すれば、凰賢がルキフグスの書を開いて攻撃に転じ、アストリットがサンダーブレードで応戦する。
しかし、幼き使徒はそれらを軽々と回避する。
「さぁ、おっ始めようか?」
アストリットや凰賢と肩を並べ、将の身体が強敵を前にした昂ぶる気持ちで突き動される。
だが、そんな彼の出鼻を白兎が挫いた。周辺に舞い散る氷片を収束すると、将の身を巨大な氷柱の中へと閉じ込める。
他方、白狐は吹雪を巻き起こすとアストリットと凰賢の身を白く包み込んだ。
「まずはお前を落としましょうか?」
敵の攻撃法を確認した饗が後方よりゴーストアローを放つ。狙いは範囲攻撃を仕掛けた白狐。
悪魔である彼の力は天界の敵に多大な効果を発揮する。その身を穿たれた白狐は、強烈な一撃の前に空中で大きくよろめいた。
立て続けにうるかのクイックショットが火を噴き、梓が陰陽護符で攻撃を放つ。
そんな中、銀鼠は己の中の迷いを抑え込んでいた。
(現実はゲームじゃない…戦闘中に迷えるほど現実は甘くないんだ…)
けれど、迷いを理由に自分だけ攻撃の手を緩めるわけにはいかない。
未だ頭霞める迷いを無理矢理振り払い、アステリオスで攻撃を仕掛ける。
と、うるかが不意に自らの異変に気付いた。
「指が…っ!?」
トリガにかけた指が小刻みに震えている。敵の撒き散らす氷雪の影響で、身体の動きが鈍り始めていた。
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白狐を狙ったうるかのクイックショットが空を切る。同じように後衛の遠距離攻撃が当たらない。
「…冷たいよね」
告げる弥子の言葉は死神の如く。口から漏れる白い吐息と、肺に流れ込む冷気が撃退士たちに今を夏だと忘れさせる。
月明かりが雪降る夏夜をさらに白く染めあげ、撃退士たちの体を凍えさせた。
「寒い? なら、あったかい、造る」
仲間たちの鈍った動きを察し、凰賢が【火行陽術】流炎蛇丙式を発動。蛇の如き炎が周囲に火を撒き散らしながら地を這う様に跳ねる。
だが、攻撃は弥子の身体を包み込んだものの、辺りに飛び散った炎は瞬く間に消えてしまう。
「アカシックレコーダーの炎焼は対象以外には燃え広がらないわ!」
千鶴の叫びに反応して、凰賢が倒壊した大木めがけて流炎蛇を撃ち直す。
「これ、燃えた、あったかい」
それに倣い、辺りに転がる木々を炎焼させる梓とアストリット。
「これは助かりますねえ」
饗は燃え盛る炎の中へと飛び込むと、他の者もそれに続いた。自然の炎ではダメージを受けないことを逆手に取り、炎の熱で身体を暖める。
そして、その熱は将を閉じ込める氷柱へも影響を及ぼしていた。
「やってくれたな」
氷柱を破壊して脱出した将が息を深く吐き出し、強引に自然な呼吸へと整える。
「お嬢ちゃんが何人ヤってようが、俺はどうでもいい」
不敵に笑う将に、弥子が怪訝な視線を返す。
「問題は、俺とお嬢ちゃんが戦って、俺が勝った時。俺が興奮できてるか? って話だよな。違うか?」
将は破山を発動すると、発動された氷雪の盾を貫いて少女の体に深く拳をめり込ませた。
「よし…っ!」
その拳に確かな手応えを感じる。
「…なぜ笑ってるの?」
だがそれでも尚、振るわれる白刃が虚空に雪を散らした。
幼き姿からは想像もつかないほどに頑強さ。相手が使徒であることを再認識する。
弥子は返す刀で将を斬り抜くと、一撃で意識を刈り取った。淡雪の中へと将の身体が沈み込む。
白刃はそのまま止まることなく凰賢へ。
「その刀、良いもの。銘、何?」
身に迫る刀に興味を示しながら、凰賢は神速思考〜不要避〜によって回避を試みる。だが、その切っ先は彼の予測を遥かに超える動きで闇に煌めいた。
続けざまに二人を切り裂いた小さな身体が夜の闇を滑る。
アストリットは魔具をバックラーへと換装すると、幼き使徒の攻撃を凌ぐことに専念を始めた。
一方、身体に熱を戻した後衛たちの攻撃は白狐に攻撃の手を集中させていた。
仲間の攻撃を避けるタイミングを突き、銀鼠の放ったゴーストバレットを放つ。
「いつまでも、護りに甘んじるわけないし。雪も氷も、止めさせてもらうから」
不可視の弾丸が白狐の頭を貫き、その体が宙で跳ね――地に落ちた。
それはまるで大粒の雪が舞い降りたように、静かで。音もなく。
「コン…っ!」
小さな悲鳴が戦場を駆けた。
凍りついた顔に初めて感情らしいものを乗せ、少女か仇を討つべく後衛へと迫る。
「…中身はただの幼子か」
初めて見せた見た目相応の反応に、饗は冷静にこれを迎え撃つ。
手をかざし、少女を中心にして喚び起こされる狐火。凝縮された冥府の力を宿した炎が、一瞬で少女の全身を呑み込んだ。
「成り行きでシュトラッサーになりましたか? ただ言われたから戦いますか? お前はこの先、何のために主に仕え戦うんです?」
燃え盛る炎に向かって呼び掛ける。
やがて冥獄の炎が鎮火する。そこにあるのは融解しかけた氷雪の盾。
盾を広げて尚、ダメージは軽くなかったのだろう。少女の体は黒焦げになっていた。
「…コンが…護ってくれた」
崩れ落ちる氷雪の陰から弥子が飛び出す。
「…それが分からなければ、今後辛くなるだけですよ。使い捨てのゴミで終らない方が、人生楽しいと思いますがね…」
躱せないことを理解した饗は言葉を続ける。しかし、それが感情を吐露させた少女の動きを止めることはなく。
灼かれても尚、美しき白き刃が、冥魔に染まりきった饗の肉体を深々と斬り裂いた。
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天魔であり少女。少女であり天魔。
その姿が、地に伏し身動き一つしない饗へと刀を突き立てようとしている。
「止めなさい!」
うるかが銃を構え、それを静止する。振り上げた手を止め、少女の視線がうるかのそれと重なる。
『殺ス事、ソレガ私ノ使命』
それは内なる声か。少女の訴えか。
傭兵として幾度となく人を殺したことはある。人を殺すことにも躊躇いはない。子供に銃を向けたことはなくとも、相手が使徒であることは頭で理解している。
けれど…それでも…。
(なんで…どうして撃てないの? あの子は敵! 撃て、撃て、撃て!)
動けぬうるかを置いて、少女が不意に饗の傍から飛び退いた。
一瞬後、彼女の居た空間を銀鼠のアステリオスが通り抜ける。
「どうして、こんな何もないところに一人でいる? 家に帰ろうとは思わないのか…?」
帽子を引き下げ、直視しないように少女の顔を見る銀鼠。
夏にも関わらず、燃える木々の狭間に立っているにも関わらず、佇むその姿は色々な意味で寒そうで…。
「帰る場所なんて…ないから」
弥子の答えが思考を遮る。白狐が倒れて後、弥子は明らかに反応を示すようになっていた。
アストリットが再び少女と向き合う。
「ならば、今はどうしてこんなことをしているのですか? 貴方はなぜ主と一緒にいないのですか?」
「どうして…?」
その問いに弥子は思案する。
何故、ワタシはこんなことをしているんだろう?
言われたから?
誰に? 主?
……ああ、そうだ。
彼女の凍り付いていた記憶が熱を取り戻す。
「ヌシ様は、もういないんだ」
感情の籠らない、そして何かを覚悟した声。それは無機質で冷たく、けれどどこまでも澄んでいて…。
その言葉の指す意味を探して、一瞬、撃退士の思考が奪われる。
「おいで、ピョン太」
その隙に弥子は白狐の遺骸を抱えると後退を始めた。
呼び戻した白兎と共に半壊した社の上に立つ。振り向いた少女の口が言葉を風に乗せると、その姿は瞬く間に闇の中へと消え失せた。
「追わなくていいわ」
追撃するか否か逡巡した撃退士たちを千鶴が静かに制する。
既に重体者が1名、気絶者が1名出ている。これ以上の深追いはリスクが高い。
「主が…いない」
千鶴が弥子の言葉を反芻する。その意味を噛みしめるように。
「あの子、また同じ事しそうよね。今度こそ逃がさないんだから」
梓は直感していた。おそらくそう遠くないうちに相見えるだろうことを。そして、それはうるかも同じように感じている。
(きっとまた会う。そのとき、私はあの子と戦えるの…?)
夏夜に雪が降る。
地に降る六花は白く、淡く。
木々を燃やす赤き炎が身体の表面をなぞれば、その熱は容易く淡雪を呑み込んでいく。
それでも。
幼き使徒が残した言葉は、熱無き熱で静かに撃退士たちの心に沈んでいった。
―――私にはもう、何もないから…。