●
傷つけられるのなら、
貴方の手で。
殺されるのなら、
貴方の言葉で。
「人の願いも想いも……縁も……どれだけ時間が経っても、失われないよ……?」
冷たくなるその瞬間まで、
――貴方に誓う。
貴方を想う時、私は――常塚 咲月(
ja0156)は、
「。」
●
彼は、彷徨っているのだろうか――。
嗚咽のような耳鳴りが今もまだ聴こえている。
頭部に受けた衝撃、それは、脳を抉られたのではないかと誤認識してしまう程に強烈で。翡翠 龍斗(
ja7594)は平衡感覚を狂わせたまま、足場を必死に捉えていた。
「――笑っているのかい?」
平素通り、龍斗の聞き慣れた声が乱れた音の波紋に響く。一秒すらの瞬きも許されない後、左の脇腹が龍斗の意思とは反して撓る。回旋の蹴り、二撃目――。
「(狂宴、だな。……そうでなくては)」
大蛇の刀身で胸部への撃を阻止する。
物腰穏やかで、人当たりが良く、誰に対しても気さくに接する久遠ヶ原学園の戦闘科目教師――藤宮 流架(jz0111)。龍斗の眼前に位置するのは彼だ。彼であって、彼ではない。元より、その内面は底知れないのだから“そんなこと”は重要ではない。そう、龍斗にとっては。
「――ええ、笑いが零れるのは当然ですよ。先生」
双眸の朱が濃く、煌めく。
刀身に宿りし大蛇のアウルと共に、翡翠鬼影流の為せる業が一閃。軸足で踏み込み、低へと腰を落とした龍斗が地を蹴る。瞬と、前方へ。
「ああ、俺もだ」
近戦で互いの意思を交わす。龍斗は流架の呼気すら逃がさない。彼の左下からの逆袈裟に、いち早く膝が反応する。半身を下方すれすれまで逸らした回避。転じて、この好機をものにしない龍斗ではない。
「吼えろ」
華奢な腕から放たれた“剛腕”。一歩の間隔もない眼下からの攻撃は、正に天へと昇る光の軌道であった。龍斗は、すう、と息を吸う。刀身から伝わる手応えのなさに――、
「ぬるい」
眦をきつくした。視界に揺れたのは黒曜石の髪糸。空を泳いで、散ったのみ。
流架のその行動はまるで、石を掃うかの如き。龍斗は束ねた髪を乱しながら無様に地を転がる。腹に受けた衝撃のせいで、逆流した胃液が喉を不快に焼いた。
「ほら、出し惜しみしてるものさっさと出しなさい。じゃないと、もう殺しちゃうよ?」
伏せたまま、龍斗は思わず笑んでしまった。
ああ、全く……本当にいつもと変わらない調子だ。この調子で、本気で自分の生徒を殺しにかかるのだから。
「(全く、洗脳されているとはいえ……世話のやける人だ。だが、俺はそれでも――)」
妙に、錯覚を覚える。
揺蕩い、
足掻き、
沈み、
溺れる。
昏い海の中を彷徨っているのは、きっと。
「――俺達だ。
後悔しているのは、業を背負っているのはあんただけじゃない。先生、俺達は同類なんですよ。だから、死合うことがこんなにも愉しい。ねえ、先生?」
海の底で息を潜めているのは、鬼か蛇か。それとも、
「“今度”は、見誤らんぞ?」
修羅か――。
●
呑まれていく黄昏。
空想ではなく、己の視界で開ける山頂。広い草原と野生の花。岩に群生する小さな植物、風雨に晒されて変形した大木。
ありのままの自然の中、草の上を音をたてて音符が走って行く。
「――奏でます。貴女の不協和音で、流架先生の音と心を穢さないで下さい」
紡げ、縁の五糸。
響け、音の羅列なる舞台。
羽ばたくように空へ位置したその空間は、彼の――亀山 淳紅(
ja2261)が自らの世界を歌うカタチ。血の底に沈んだ柘榴の果実が、淳紅の瞳へ凛と熟す。
「降り注げ、歌われるもの――“Cantata”」
淳紅のアルトボイスが五月雨の解錠となる。調和のとれたその音は、光の雨となって眼下の目標――淡花へと放たれた。しかし、淳紅の狙いはそれだけではない。
音色が届く領域にはもう一人の標的、流架の姿もあった。龍斗、そして、純白のメイド服を自らの紅で咲かせながら交戦する、斉凛(
ja6571)の二人を相手にしていたが、時折此方を窺う流架の視線は、実に挑発的で。
「(ああ、意地悪な顔してはる。でも、先生らしいんかな? うん。……ん、よし)
先生ーーー!! 自分、貴方に一曲だけ“リクエスト”があるんですーーー!!」
龍斗と凛は阿吽の呼吸でその場を跳んだ。二人の頭上に「「?」」と、マークが浮かび上がったのは言うまでもない。直後、地面が衝撃で盛り上がり、バラバラに四散する。その一撃一撃の雨の威力は、実力の高い撃退士でも身に受けたなら無事ではすまないだろう。
「まるで音のロンギヌスだな。流石、淳紅」
「亀山様のお声、お優しい音色ですのね。ですが……リクエスト、とは……?」
雨の中、浅紫色の長髪が忙しなく舞っていた。攻撃は全て、受けずにかわす。そうでなくては“支障”が出る――。終始、口角を上げたままの淡花であったが、攻撃が止んだ後。
「幼い顔貌であらせられますのに……随分と激しい殿方ですのね」
結果は、彼女の予測と反したようだ。此方と大幅に距離を置いて佇む淡花の纏う布地は、所々を鮮やかな朱色で濡らしていた。憎らしいほど、致命傷には至らなかったようだが。
「(……さて。聊か“面倒”な位置となりましたね。淡花としたことが、ぬかりました)」
時、既に遅く。淳紅の目的を読み取り、淡花は目尻を細くした。目配せを交わしたはずの相手は淡花の意などお構いなく、風で乱れた前髪を煩わしそうに掻き上げていたが。彼のその様子に、淡花は苦く笑みを漏らす。
「(誠、心を奪われても花弁のように自由なお人ですのね。此処は一先ず……淡花は潜行を、)」
「――させる僕だと思った? るかりんの教え子を甘くみないで欲しいなぁ」
明とした調子に半瞬遅れて、発砲音。
「亀山さんの尽力を無駄にするワケないでしょ。ほら、こっちで一緒に踊ろうよ。僕が付き合ってあげるからさ」
さあ、踊れ。
漆黒の鼠の声を聞かせてあげよう。
毒蛇をとぐらせた、此のヨルムンガルドで。
仮面の下で、森田良助(
ja9460)が無邪気に笑んだ。
淡花の足場を立て続けにすくい、隠密の隙など与えない。特殊な形で練ったアウルを命中するまで猛然と撃ち込む。
「(そうだ、跳べ。もっと、もっと後方へ。るかりんから引き離してやる)」
流架と淡花に連携の策があるとしたら、それはこの場に集結した撃退士六人にとって最もな脅威。初手の内に崩すべき、大きなる一角であった。
「――よいしょ。
うん。覚悟は持ち合わせてきた、……つもりだ。おいらも加勢するよ、森田君」
緋色の蛇の如く――夏雄(
ja0559)が操る鎖が空を這う。
「しかし、珍妙な縁の最期が此処かぁ……。
夕暮れの坂に血生臭い風。……なんだ。最初と特に変わらないじゃないか」
変わったのは、存在していたはずの色。
変わらないのは、理由。
オーケストラを終えた淳紅の視野から、良助と淡花、夏雄の三人は羽ばたくように消えた。
「ん、森田さんらと呼吸が合ったようで良かったやで。……とと、気ぃはってたつもりないんやけど……幾つか喰らってたんねぇ、自分」
暇(いとま)など無い。だが、地へ着地した無意識の安堵からか、じわりじわり、五体の所々に受けていた傷が淳紅の肌から悲鳴を上げ始める。恐らく、投げ苦無――音の雨の中から淡花が放ったものだろう。
キンッ! キンッ!
刀と刀――“刀神”と“闘神”がぶつかり合う音。死合う二人の戦場を、蝶を印した眼帯の“天使”が踊っている。
「(何なんや、この世界――)」
淳紅は涙堂を押しあげた目で流架の姿を数秒睨み、ある瞬間、ふつりと糸を切ったように淋しく微笑んだ。
それは、貴方の大事なものなのではないのか?
自分自身を保つ為に、殺して、生きて、そして死んでいくのか?
罪は哀しい。自分ではない誰かは尊い。理不尽な現実は胸が軋むほど苦しい。だけれど、歌が存在する此の世界は何より愛しい。
淳紅の眼前を奏でる“不幸”――そんな歌なんて、あってはならない。
「……先生。
流架先生!!
教育者って、教えるだけやない。親子よろしく育てる人のことを言うんです」
龍斗と流架が擦れ違い様、同時に放った斬撃がぶつかり合った直後、二人は申し合わせたかのように後ろへ飛び退って距離をとった。
「やや? 俺に説教かい?」
龍斗を見据えたまま、流架は側面に位置する歌謡いへ向けて声を放った。
「――かもしれませんね。
だって、子を殺す言う親が何処にいますか。
教え子殺す言う先生が何処にいますか。
自分、先生の過去のことなんか知ったこっちゃないですけど!」
そして、淳紅は人差し指で、びしーっ! と、流架に狙いをつけ――、
「今!
凄く!
めっちゃ!
まじ!
かっこ悪いですよ! 藤宮 流架“先生”ーーー!!」
思いの丈を叫んだ。
・ ・ ・ ・ ・ ド ギ ュ ン ッ ッ ッ ! ! ! ! !
あれ?
いま、
いしが、
まっはでとんできたよ? by淳紅
「木が……一球で粉砕になりましたわ……」
呆気にとられながらも、凛は冷静に呟いた。
淳紅の右斜め後ろの立ち木が今しがた、弾丸フリーキックという名の石により倒木にあらせられたようだ。……直撃したのは木であるというのに、淳紅の右頬は摩擦を受けたかのようにヒリヒリ痛い。
「あ、外したか。どんまい、俺」
「どんまいちゃいますって……! 自分、めっちゃまじもんの殺意感じたわー……。ていうか、先生」
宙に舞う木屑に項をチクチクとさせながら、眉を下げて、
「“空色の人魚姫”は“王子様”を奪う“淡い姫”をぼっこぼこ! に、どついとくので! 早く戻ってきてくださいね。じゃないと、
愛を歌えない人魚は泡になって消えてまうんですから」
ふに、と笑った。「これが自分の“リクエスト”です」と。
翠玉色と柘榴色の瞳が触れ合う。頬を傾けて目を細めた宵桜の王子の片頬を、手でやんわりと包みたくなる衝動を抑えた空色の人魚は、尾びれを引かれるように駆け出した。
魔法が解ける前に――。
●
もう一度。
良助は同じ箇所を射撃した。
スコープから覗くのは淡花の右腕。既に一発、命中を受けていた。だが、二発目は爆ぜるような血潮は再び噴出せず、飛び苦無で軌道を逸らされる。
淡花は執拗であった。
自身と交戦する良助と夏雄よりも、視野には常に、流架を捉えようとしていたのだ。彼女の変則的な動きは、明らかに良助達から故意に離れてゆこうとする。その様に、良助は胸の内が時化るのを感じた。
「――ねぇ。キミ、るかりんを恨んでるの? それで洗脳して鬱憤晴らししようってんだ? キミって、復讐でさえも真正面から出来ない哀れな人なんだね」
「……まあ。坊やがどの口で仰るのでしょうか。親の躾がなっておりませんね」
歯噛みをしたのはどちらか。
少なくとも、良助の声に淡花が動じる気配は全く見られなかった。正しいものなど映さず、幻に浸っているかのようなその瞳。正直、心底ぞっとしない。
「あれれ? 怒っちゃった? だったら僕ぐらい真正面から倒してみたらどう? それともこそこそ隠れて、るかりんの元へ逃げ――、」
「術式、起動します。――弐型、メテオ!!」
良助が言い終わるよりも先に、懐に何かが飛び込んだ。
――影で形成された棒手裏剣。それは黒い風のように押し寄せる。条件反射で良助が回避に懸けた射撃も、襲いかかる攻撃があまりにも唐突で、多すぎた。
「――ぐっ、ぅ……」
良助は呻く。右肩が大きく傾いて、膝が折れた。それでも立ち上がろうとした途端、咳き込む。足許の草地に転々と赤い花が咲いた。
「(やばっ……身体、誤魔化してたつもりだったんだけど……チクチク削られてたのがココで一気に反動きたっぽいな。応急手当の回復量じゃ追いつかな、)
――お ふ ぅ っ ! !」
それは、例えて言うなら杵で搗かれた餅の状態。
良助は何が起こったのか一瞬混乱したが、ぐぎぎ、と、何とか首を上に動かして確認し――瞬間に理解した。
「……申し訳ない。大丈夫かい? 森田君。……と、背骨君」
夏雄だ。
厚手のパーカーは所々が無惨に裂け、白くま色が赤々と濡れている。怪我の程度は良助と同様、見るに酷かった。
「ぼ……僕なら全然、のーぷろぐらむ……ですよー……!」
「……え? 無計画? ……そうか、それもアリなのかもしれないね。実はおいらも、それに似てたり……似てなかったり、だ」
「――はぃ?」
「いや、気にしないでいいよ。それより、森田君はまだ無理をしない方がいい。座布団にしてしまったおいらが言うのもなんだけど……。ま、まあ、此処はおいらと……あ、来た来た。亀山 淳紅君とで食い止めておくから」
じゃ、ちょっとジャガイモ買って来る――そんな雰囲気のまま、夏雄はするりと戦線へ戻って行った。
双方の雷が頂を掃う。
舞い散る血の華を突き破り、白銀の閃光と死を纏う蹴りが空を奔った。
「ほんっ、ま……きつい、痺れた音やね」
「まあ。見かけによらず、意外と丈夫ですこと」
「それはお互い様では?」
心がざわつく赤い匂い。ライトニングを発動する僅かな瞬を衝かれた淳紅であったが、手傷を負わせたのは此方も同じ。血を撒くのは、淳紅の左肩。そして、淡花の右前腕。
「――させないよ」
淡花は身体を後方へ翻した。夕に浮かぶ彼女の濃い影を縫い留めることは出来なかったが、追い討ちを牽制した意義は大きい。
淡とした口調と、素振りの彼女――。双眸を細めた淡花の表情が夏雄に向く。
「……何か、仰りたいことでもおありなのですか?」
「え? ああ、うん。いやぁ、洗脳って凄いな、って思って。同じ忍軍として憧れる。けど、忍軍に洗脳技術は無かったはずだ。なら、流架戦生君のアレって“誰”がやったのかな、って」
「――戯言を。その問いに、淡花が答えると思いまして?」
「いや、思わない。一応、聞いてみただけだ。あ。こんな機会だ、ついでにもう一つ。
君が一途なのは大変結構。けど、もっと前向きな復讐も世の中にはあると思う。君も幸せになれる方法が。多分。道なんて、幾つあるか分からないしね」
「ええ、そうかもしれません。ですが、幸福とは少しの違いなのではないでしょうか。淡花が“要る”のは、“大切なもの”なのです。淡花が藤の君に触れたのは――壊れてほしいから、そう、淡花が幸福と知りたいから……なのかもしれません」
細い細い糸で、心が縛られているようだった。
いや、違う。縛ったのは、後戻りを塞いだ淡花自身――。
「……なるほど。そういう考え方もあるね。うん、分かった。言ってみただけだ。……でも、気の毒だね。泉流君の気持ちは、最後まで置いてけぼ――、」
背後に気配を感じた。
「(まさか)」
夏雄の懸念は、彼女の黒髪を撫でる風――乗って香る、白檀が答えであった。
「夏雄さん!!」
良助の声よりも速断に、夏雄の身体は動いていた。
●
耳に狂う。
『折角、淡花がご忠告して差し上げましたのに』
浅紫の魔女の言霊。
『お可哀そうな藤の君。……貴女の“お心”も一層、哀れですね』
対峙した瞬間の記憶が駆け巡る。
風のアウルが彼女の琥珀色の柔らかな髪を揺らす。咲月は風の烙印を展開したまま、強打されたような胸の痛みを右の手の平で押さえつけていた。目線が沈む。
「そうかも、しれない……。
でも貴女は……誰を、何を愛してたの……? 自分が愛してた人の想いも……“人として死にたい”っていう願いも無視して……」
咲月は舞っている夕風を全身で受け止め、ゆっくりと首を動かした。
「私は……貴女とは違う……。絶対に、逃げない……先生からも……自分からも……」
狂おしく草原を見つめる。
一人の教師と二人の生徒が、グラスグリーンの舞台で戯れているかのようで。時折、流水の如く跳ねる朱が、咲月の瞳には絵の具のように映った。
「先生を……私の大切な流架先生を、暗い畔へは連れて行かせない……」
細い指にワイヤーを絡めて、舞台へ上がる。
持久戦になれば勝ち目はない。龍斗と凛の援護をしつつ、彼の動きを目で追い、理解しなければ突破口は得られない。全て、覚悟の上。
「痛みを伴わずに何かを得ることは出来ないよ。――咲月君」
流架の言葉が、妙な重さを持って咲月の心臓を乱暴に掴んだ。
・
・
・
彼女は可憐であった。
翻る、真白のフリルスカート。それは凛の戦闘服。メイドである、彼女の勝負服。
「“食べてみたかったな”だなんて、過去形は許しませんわ。絶対に先生を連れて帰りますの」
手にはブラディーローズ。四次元ポ○ットから取り出していたその緋色の小銃――“小”と言えど、凛の身長には不釣り合いであったが。薔薇と蝶の印を銃身に刻み、大切な友からの贈り物を抱えて挑む。
「いい加減、目を覚まして下さいませ。殺し合いなんてやめて下さいませ」
「――やや? 殺し合い?」
流架が尋ね返してすぐ、
ダァン!
銃声が重なる。龍斗が攻撃を仕掛けやすいよう、凛は流架の足元を狙って彼の俊足を阻害しようと行動していた。凛は続けて空気を穿つ。
「なぜ、わたくし達を殺したいのですか? なぜ、共に生きてはいけないのですか?」
「ふふ。凛君は不思議なことを言うね。殺したいのは……そうだ、大切だからだ。君達がとても愛しいからだよ」
「愛しいと……そう仰っていただけるのでしたら、なぜ!」
「なぜ、……かい? そうだね。そうしなくてはいけないんだ。誰かの為じゃない、俺の為に」
「――いいえ、違います。先生は恐れているだけですわ。先生が何よりも信じていないのは“今”のご自身です。本当のこと……真実は、わたくし達が持っていますのよ。どうか、思い出して下さいませ!」
「……おやおや、必死な君も素敵だね。
真実、か……。……。……冷えた真実なんて、もういらないよ。ふふ」
凛の説き伏せに、しかし尚、戯けるように返して、流架の視線は彼女から外された。
――何が楽しいのか。にこにこと機嫌よさげに笑い、流架は龍斗の連突きを弾く。しかし、言葉を交わした凛は“何か”を感じていた。誰かが誰かを想う時、そのカタチはそれぞれで――温かくもあり、ぬるくもあり、冷たくもあるということを。
「くっ……!」
龍斗が思わず呻いたその先には、既に、刀の切っ先が眼前に迫っていた。凛の射撃を回避する都度、流架は着地する方角を選定し、龍斗の死角を見定めていたのだ。だが、龍斗とて伊達に場数を踏んでいるわけではない。
「戦い慣れしているのは貴方だけじゃありませんよ」
数千年続く古武術の継承者にして、現当主。翡翠鬼影流を舐めるな――。その気質は正に、氷塊の中で猛る焔。龍斗の朱眼を一層、血に彩らせた。
龍斗は身体を低く沈ませた後、刃で地表近くを半月に描く。視野にギリギリ映る、流架の右脛を狙っての右片手一文字。だが、
「(――身切ってのけたか。しかし、)」
流架が右足をすいと引いたその瞬間、狙いをものにした龍斗が宙返りを放ち、砂塵を巻き上げた。卑怯もクソもない。視界を奪いつつの、サマーソルトキック。
舌打ちが響く。かわす間もなく、反射的に刀の柄で攻撃を受けたようであったが、龍斗の足は僅かな振動を捉えていた。鈍く、“何か”が軋んだオト。
それでも流架に退る様子はなく、間髪入れさせずの横薙ぎが龍斗の胴を抜こうとしていた。しかし、援護の手がそれを許さない。仕方がないように後方へ飛び退った流架は、龍斗との間を射貫いた金属糸を目で追い、そろり、首を傾げた。ワイヤーを手にする彼女の手元を見たところで、ふっと睫毛を上げる。
「今の先生の世界はどんな色……? 生徒を朱に染める世界……?」
「……? 朱、に……?」
彼女――、咲月を見返した流架の双眸が僅かに細くなった。意味を理解しかねているような反応ではあったが、咲月は求める。ただ、一途に。
そう、懇願したかった。
「そうだね……咲かせてみようか、
君で――」
咲月の目の前で朱が躍った。
一瞬の内の前半分、街ですれ違うように彼は――咲月の頬を撫で、腹を斬りつけていった。
「常塚様!!」
凛は急旋回して加速。咲月の方角へ向かった。
「(すぐに幻想茶会を展開して、――っ!?)」
笑う気配を感じた。
凛の背筋に冷たい汗が流れた瞬間、紅玉の瞳が大きく見開かれる。視界は奪われ、背中から樹木に叩きつけられた。呼吸と血流が妨げられる。
薄目の眼下にかろうじて映るのは、酷薄な微笑を浮かべる流架の姿。左の手の平で凛の細い首を容赦なく絞め上げる。
「……せん、せ……いっ、……や……!!」
「嫌? 嘘をお言いよ。意地悪されるの、好きだろう?」
ぞろりと、凛の耳に毒が融け込む。
羞恥と惨痛とで朦朧とする中、右手の銃が凛の意識に呼応したかのようだった。
0距離射撃からの、殺撃。
ブラディーローズがその身の朱に、更なる朱を浴びる。流架の右太腿からの返り血は、霞んだ凛の視界を鮮明にさせた。
「――先生の足を潰してでも、生きて連れ帰りますの。絶対に死なせませんし、死にませんわ。最上の味を追求したわたくしの桜餅、召し上がって下さると約束したではありませんか」
圧迫から解放された凛の喉から、切実な言葉が放たれた。
刹那。凛と流架の間に、龍斗が素早く身を差し入れようと駆け込んでくる。
「……50%。
流架先生、心臓移植患者の10年後生存率をご存知ですか? 国内の数字だけを見れば9割近いが、国際的な数字を見れば約5割」
龍斗の言わんとしている心づもりに、流架は訝しげな表情で攻めの手を続ける。
「白血球型の一致率は天文学的数字。死にゆく戒音が貴方にもう一度逢いたいと願った故の奇跡だったのかもしれない。凛月が生きているのは、二人の想いが同じだからと……そう思えませんか? それに、提供者の記憶がドナーに受け継がれることもある――、
ですよね? ダイナマ先生」
身体で受けた刃の傷は多く、口の端から滴る血を手の甲で拭いながら、龍斗は背面に向けて声を放った。“彼”を視認した流架の眦が、これまで以上にきつくなる。
「そう言われることも多いわな。人体のふっしぎー、ってヤツね。
――ルカ。オレを斬るんなら、ちゃんと首落とさねーと駄目よ。オレがなかなか死なねーの、知ってんだろ?」
片目を瞑って寄越した愛。
咲月の傍らで回復に努める保健医、ダイナマ 伊藤(jz0126)が淀みなく笑んだ。
●
「避けてみろ! この僕の銃撃から逃げられるものならね!」
意識を取り戻して、まず最初に聞こえたのは仮面狂想曲の音。次いで、強力な攻撃が放たれるのを空気の振動で感じた。
「――目が覚めた?」
うつ伏せの状態で倒れていた夏雄の頭上から声が響く。
身体が鉛のように重い。瞼が動かない。だが、此方の安否を窺う者が誰なのかは分かっていた。
「ん。凛月君は無事かい?」
あの時。
視界に入れる前に、彼女――御子神 凛月の存在を感じた瞬間。金剛の術で咄嗟に身構え、衝撃に備えながら、身を挺して凛月の盾となった夏雄。だが、淡花に抗うことすら出来ずに弾き飛ばされてしまったのを最後に、プツリと記憶が途絶えていた。
「平気よ。……その、ありが、……とう。
あのちっちゃい小学生――良助、っていうの? 生意気ね。“夏雄さんが身体張って護ったんだから、今度は君が責任もって彼女を護ってね”って言い付けたのよ」
「(――いや、小学生じゃないんだけど)」
見た目は間違っていないが。
だが、良助の指示は的確であった。凛月に参戦出来る力がないのは、皆無。故に、彼女が素直に従ったのは自覚あってのこともあるのだろう。
「流架さ、……いえ、藤宮 流架は“無事”、なの? ねぇ、夏雄。私……私、あの人を、――」
「凛月君」
視界がゆっくりと開けていく。
「女の刃は最終手段だ。それでは想いは伝わらない。――結果だけしか残らないんだ」
過去の苦しみを通してしか未来を見極められないのは、哀し過ぎる。
「言葉を尽くし、想いを叫べ。刃傷沙汰はそれからでも遅くはない」
「夏雄……」
「――かな?」
「…………」
「あ、いや。誤解しないでほしい。これは、おいらなりに言葉を尽くしたんだ。君は、淡花君と同じになっては駄目だ。例え、流架戦生君が受け入れてしまっても」
身勝手な理由からは、自分を欺けられない。
猛烈な気流と、その渦から視認出来た光弾――。夏雄と凛月の全感覚へ、一つの戦闘が掻き消えたことを訴えていた。後、押し潰すような静けさだけが残る。
「“今、生き延びるのはどっちだろう”って、地獄を思い出させるような戦いだったよ。でも……君、馬鹿だよ。君の傍には誰もいない。でも、るかりんの傍には僕らがいる」
膝立ちになっていた淡花の身体が、ずるり、横へ倒れた。ゆるく胸を上下させ、喀血し、
「……い、いえ……淡花、には……泉流……さ、まが……」
弱々しく、囁く。
「――シンパシー不可、か。
ほんま、可哀想なお姫様ですね……。もう誰も、貴方を迎えにはきぃひんですよ。愛したお人の棺、貴女自身が遠ざけてしもたんですから」
良助と淳紅は、足許の草地へと血を注いだまま彼女を見下ろしていた。互いに相当量の血を流していたが、崩れ落ちるわけにはいかない。撃退士としての、心向けの意地。
「ち、がう……淡花の、とこ、ろへ……帰ってくる、と……言って……くれた……」
その一言を残し、淡花の意識は消えた。
夢を見る。いつか訪れる死の先で、愛する人に会える夢を。
その時まで、唯、独り。
●
――大切だから、傷つけたくない。
「教え子を殺すことが楽しいですか? 先生、もうおやめに――、あっ、……んぅ……!!」
彼女が踊る度、朱が白に映える。
問いかけ、腕の中に流架を捉えた瞬間。彼の温もりは凛の鳩尾を穿ち、白い項を露わにしながら伏せる凛の首元へ刀が振りかぶった。
「流架ぁぁっ!!」
血濡れた金色の龍が叫ぶ。腹の腑全てを吐き出すように、激しく。
神速の詰め。
流架の左肩を押し貫いたのは龍斗の刀。龍斗の脇腹へ刀を捩り込んだのは――したり顔の流架の刀。「(謀られた)」と、龍斗が悟るよりも早く、腹部の激痛に苛まれる。刀身を引き抜かれた腹からは血潮が噴き出し、その傷口を狙いに一の蹴りが見舞ったのだ。龍斗の身体は箒で掃き出された小石の如く、転がる。
「……五月蠅いな」
不意に、流架が呟いた。
「君達、耳に……心に五月蠅いよ」
怒ったような、泣きそうになるのを噛み堪えているかのような。首筋を片手で押さえ、俯くその反応は――、
「ごめんね……傍、離れちゃ駄目って言われたのに……」
突如、虚脱した。
無意識の太刀。その一刀が、刀身を伝って流架の手を赤に染める。
「自分の世界の色が消える位なら……消えない様に必ず護る……。先生……“先生と生きていくと望んだ未来は常世じゃなく、現世だ”……弟からの、伝言……」
熱い血が、喉を通ってくる。
咲月の右肩が僅かに傾斜する。肉の内を、無機質な刀が深々と抉っていた。それでも、咲月は歩を進める。両の手で刀身を掴み、自身へ引き寄せる。
「私、ね……先生になら首だってなんだって渡すよ……? けど、今の先生には何も渡さない……」
貴方の微笑んだ顔、
貴方の喋る声、
貴方の触れた温もり――。
「全部、私にとって大切なもの……だから、」
貴方が吐き出す吐息も、温度も、言葉も、
唇で触れて――“今”を、奪う。
「……だから、戻ってきて……?」
離れた唇は慈しみの色で笑み。短い沈黙の最後、一つ、吐息を零した咲月は、一片舞う花弁の如く地面へ倒れた。
己の唇を咲月の血で濡らし、流架は瞠目したまま咲月を見下ろしていた。
その表情は、次第に混乱と憂苦で滲んでいく。――何故? と、哀しさで心が吹き荒ぶ。
そうだ、何故?
「……さ、……つき、く……咲月……?
凛、く……、
龍……斗……?」
洗脳されてからの記憶が怒濤する。身体の奥がしん、となり、頬が凍る。
「俺が……やった、のか……? 君達を……君達の身体も心も、俺が斬り裂いた……のか……?」
戦慄く唇を引き結び、握り締めたままの刀の柄が一瞬不規則に揺れ――止まった。“それ”が何を意味するのか。咲月の傍らに飛んで来たダイナマが、硬い語調で放つ。
「ルカ。常塚なら大丈夫だ。斉も翡翠も、森田も亀山も夏雄も、アイツらはオレが受け止めっから。だから、――頼む」
「…………。……俺、は、――――、ああ……、
無理だ」
世界が終わるかのような深い溜め息をつき、流架は笑った。
終わらせるのは、
「――あ、此処にいたのか。おや、ダイナマ保険医君も。ええと……皆。“無事”で何よりだ」
誰の首?
相棒の鉄パイプを杖につき、覚束ない足取りで。
「阿呆面打開の為に此処まで来たんだけど、事情を知った瞬間、おいらの動く理由は無くなってしまっていたんだ。
だがしかし、こんな時の為に一つ動機を作っておいた。……今更だけどね。ほんと、今更だけど。正直言いたくなかったけど。……だけど」
ふらり、歩いたまま。
「流架戦生君。おいらと友達になろうじゃあないか」
地に滴り“紡ぐ”朱は記憶。夏雄の歩みは止まらない。
「あの日の坂の延長で、おいらは友を得て帰ることにした。
さぁ、その為に――」
風に流れて、夏雄のフードが後ろ髪を撫でる。破綻なく整った面を流架に据えて、
「次は“誰”を助けてほしいんだい?」
差し伸べた。
手の平を、自分の言葉を。
「――、…………」
眩しい。つい、目を伏せてしまいたくなる。
だけれど。
何故か、逃げられなかった。
「……ん。
じゃあ……“俺”を、助けてくれるかい?」
傷つけるのは嫌だ。
だが、手放す方がもっと恐ろしく。
彼女の冷えた体温を、彼の“応えた”温もりが塞いだ。