リュールが連れ去られたと知った瞬間。
ユウ(
jb5639)は身体がふわりと浮き上がる様な、不思議な感覚を覚えた。
闇の翼を活性化したわけはないし、足もしっかりと床を踏みしめている。
なのに足元が覚束ない気がして、ユウは玄関先のカウンターに手を付いた。
そこに置かれた空っぽの充電器が眼に入る。
「リュールさん…何としても助けないと」
自分の声が震えているのがわかった。
そう、彼女がいなくなったという事実に衝撃を受けたのだ。
同時にそんな自分に驚いてもいた。
しかし、今は狼狽えている場合ではない。
冷静を装い、いつもの様に笑みを絶やさず、衝撃を受けた理由も敢えて考えず――けれど、仲間達の話し声は右から左へと抜けて行く。
「…やられた、ね。でもまだ終わりじゃない」
七ツ狩 ヨル(
jb2630)が、ぽつりと呟いた。
「リュールさんを誘拐するなんて…許せないのだよ! 絶対に助けるのだよ!」
フィノシュトラ(
jb2752)はいつでも元気一杯、ストレートに感情をぶつけて来る。
(あたし達の所為…なんて焦っても、センセは絶対否定してくるわよね)
鏑木愛梨沙(
jb3903)は、ひとつ深呼吸。
だから、何も言わない。
自分に出来る事を精一杯やる、それだけだ。
手短に話し合った結果、メイラスとは交渉で片を付ける事が決まった。
しかし門木は浮かない顔で皆に尋ねる。
「…本当に、それで良いのか? 俺の言う事が正しいとは、限らないんだぞ?」
「正しいとか正しくないとか、そういう事ではないのですよ」
シグリッド=リンドベリ(
jb5318)は何の迷いもないキラッキラの瞳で門木を見た。
「章治おにーさんが殺したくないっていうなら、メイラスを倒す選択肢はぼくにはないのです」
自分一人で倒せるほど強くはないけれど、とにかくその精神で。
「それじゃ、だめなのです?」
「…いや…」
困った様に頭を掻く門木に、今度は華桜りりか(
jb6883)が言った。
「正しいか、そうでないないかは…今はまだ、わからないと思うの、です」
その答えが出るのは、きっと全てが終わった後だろう。
見えない正解を探すよりも、まずは動くことだ。
自分はどうしたいのか、何を大切にしたいのか、それだけを考えて。
「章治兄さまが望むなら、あたしはそれを叶えたいし、その意思を尊重したいの、です」
その芯さえブレなければ、きっと求める答えに辿り着けるだろう。
決して門木の言葉を鵜呑みにして、諾々と従っているわけではない。
一方、敢えて正解を探そうとする者もいた。
「今メイラスをただ倒しても同じことが続くだけ、ですか」
カノン(
jb2648)が眉間に皺を寄せる。
奇襲に成功すれば、今の戦力でも倒せるかもしれない。
だが、その穴は必ず誰かが埋める事になる。
新たな戦いと、更なる犠牲。積み重なる憎悪。堂々巡りが終わらない。
それをどこかで絶ち切る必要があるならば。
「個人的にも、撃退士としてもメイラスを許すわけにはいきませんが…」
許す事と交渉のカードを切る事は、また別の問題だろう。
犯した罪は、いずれ必ず償わせる。
「なりふり構わぬとは言いませんが、手は考えましょう」
「メイラスのこと、私もあんま好きじゃねーけど」
青空・アルベール(
ja0732)が珍しく頬を膨らませて頷いた。
「今はそれより大事なものあるから」
正直、積極的に協力したい相手ではないけれど。
「少しの我慢で皆が笑顔になれるなら、その方が良いのだ」
一転、にこりと笑う。
「…そうか」
頷いた門木は、僅かに肩の力を抜いた。
自ら最前線に立つ彼等が、自分達の意思でそう決めたなら、それで良い。
「…俺は何の力にもなれないが…黒咎達の事は、任せてくれ」
とは言うものの、報復を目的に使徒にまでなった彼等が、そう簡単に納得してくれるとは思えない。
いっそここでリュールを手放し、諦めて見せれば――
だが、そんな考えを見抜いたかの様にシグリッド=リンドベリ(
jb5318)が言った。
「ぜったい、リュールさん連れて戻ってきますから…!」
頭をなでなでするのは、もはや恒例の儀式なのか。
「…うん、わかってる」
その点に関しては心配していない。
「…帰ったら、皆で遊びに行こうな。遊園地が良いか」
「ゆうえんち…!」
「サトルさん達も、みんなで行くの…」
「…ん、準備しておく」
門木は弟分と妹分の頭を纏めて撫でる。
そしてカノンには、人差し指で眉間を軽く撫でてみた――その、何と言うか、そこに刻まれた皺を伸ばす様に。
「…そんな顔してると、取れなくなるぞ?」
くいくい、ぐいーん。
って、誰のせいだと思ってるんですか、誰の。
と言うかカノンさん、こいつ思いきり引っぱたいても良いですよ? どうします?
一応、本人としては緊張を解そうとしたつもりだった様ですが。
しかし平手を喰らわせるにしても、お説教にしても、他の何であろうと、今はお預けだ。
「まだアジトがバレたことに気がついていないのだよね?」
フィノシュトラが情報を確認する。
「だったら準備されちゃう前に急いで、でも慌てずに、助けに向かわないとだよ!」
「奇襲は早ければ早いほど効果的です。出来れば休まず向かいたいところですが…」
「スキルを変える時間さえあれば、私は休まなくてもへーきなのだ」
仲間達の様子に目を向けたカノンに、青空が頷いた。
「俺も、大丈夫。ちょっと体力は減ってるけど」
「だったら、あたしに任せて」
学園に寄って治療を受けるつもりでいたヨルに、愛梨沙がヒールをかける。
「減った分は回復してから入れ替えるから、大丈夫よ」
アスヴァンにはスキルの使用回数を回復させる便利なスキルがあるのだ。
「行きましょう…早くリュールさんを助けるの、です」
りりかに促され、一同は学園へ急ぐ。
その後ろ姿を見送り、門木は黒咎達の待つ施設へと向かう――その前に。
「…まずは、料理屋の手配でもしておくか…」
こんな時には手料理を用意して、家で待つ方が喜ばれるのかもしれないが。
流石に千切りキャベツとカットフルーツだけを大量に盛られても、ね。
「この場所ですね」
レイラ(
ja0365)がスマホに表示された位置情報を確認する。
行く手の崖に刻まれた深い縦皺の様な亀裂。
IDの反応はそこから少し入ったところで途絶え、ゲート内部の位置情報までは知る事が出来なかった。
「ここから先は出たとこ勝負ってわけね」
雨野 挫斬(
ja0919)が、辺りに気を配りながら亀裂の奥から漏れる淡い光に視線を据える。
以前と同じく、周囲に見張りの姿は見当たらなかった。
「ゲート内は分かりませんし、メイラスが立て直す前にリュールさんを見つけて保護すべきですか…」
カノンがディバインランスを構える。
「生命探知に引っかかると少しは楽なんだけどな」
愛梨沙が軽く肩を竦めた。
全体が効果範囲にすっぽり収まるくらいの広さで、通路の見通しが良くて、迷う要素の欠片もなければ――なんて無理ですね、はい。
「それが有効だとしても」
ユウが注意を促す。
「リュールさんに扮したコピーである可能性も考慮しておいた方が良いでしょう」
今のリュールをコピーしたものなら戦力的には全く脅威ではない。
しかし標的を分散させてこちらを惑わせるつもりなら、それは充分に効果的だろう。
「とにかく音を立てないように、静かに侵入するのだよ!」
フィノシュトラは手持ちのアクセサリや音が出そうな装備を外してバッグにしまい始めた。
「でも誰かがゲートに侵入すると、持ち主にはすぐにわかるんだったよね」
「えっ、それじゃ奇襲にならないのです…?」
ヨルの言葉にシグリッドが思わず声を上げ、フィノシュトラも手を止めて見る。
「かもしれない。でも、ここを作ったのがメイラスとは限らないし」
寧ろ部下の誰かに命じて作らせたと見る方が良いだろう――外に見張りも置かない様な、重要度の低い使い捨ての拠点だとしたら、尚更。
そう考えると、侵入者発見の報が作成者からメイラスに届くまでには多少のタイムラグがある筈だ。
「急ぐ必要がある事には変わりないと思うけど」
「それじゃ途中でテリオスさんを見付けても、お話する時間なんてないのですね…」
パスワードの一件によって、シグリッドはテリオスを良い人認定した様だ。しかも完全に。
ちょろいとか言わないであげて下さい。
しかし、どうやら「お友達になりましょう作戦」が実行不可能である事を悟って、がっくりと項垂れる。
と、そこに――噂をすれば影。
「私が、どうかしたか」
崖の斜面から染み出る様に、テリオスが姿を現した。
「テリオスさん!」
シグリッドが嬉しそうに尻尾を振る。
が、りりかがそれを制した。
「他に誰が聞いているか、わからないの」
小声で囁き、忍法「霞声」でテリオスだけに声を届ける。
「テリオスさん、どうか、お話を聞いてほしいの、です」
呼びかけてみると、普通の声で返事が返ってきた。
「ここに他の耳はない」
どうやらメイラスに聞かれる心配はない様だ。
「私達は、出来れば君とは戦いたくねーのだ」
青空が武器を収めたまま声をかける。
「君はどう? 戦う理由、あるのかな?」
返事はなかった。
だが、何か言いたそうに目を逸らした様子を見て、シグリッドは確信した。
(テリオスさん、やっぱりいいひとなのです…!)
何という前向きポジティヴ思考。
「ぼく、テリオスのおにーさんとは戦いたくないのです」
その手をとって、苺ミルクのキャンディを握らせる。
「これ、おいしいのです。頭とか心とか、ぐるぐるして疲れちゃった時に舐めると良いのですよ?」
あ、もしかして食べ方がわからない?
「包み紙は食べちゃだめなのです。こうして剥いて…はい、あーん?」
給餌職人マスターシグリッドに「あーん」されて、口を開かない者はいない。
テリオスは興味のなさそうな無表情を装ってはいるが、吐き出したりしないところを見ると気に入ったのだろう。
「それは、甘くて美味しい幸せの味なのです」
はい、餌付け完了。
「お話が出来て、相手を理解しようと思うことが出来るなら種族関係なく仲良くできると思うのです」
美味しいものを美味しいと感じる事も同じだし。
「ぼくはテリオスのおにーさんと仲良くしたいのです」
見る。
「…駄目ですか」
じっと見る。
テリオスは黙って目を逸らした。
今度はりりかがチョコを握らせてみる。
「これも、幸せの味なの、ですよ?」
その香りに刺激されたのか、テリオスの口に付いたチャックは多少滑りが良くなった様だ。
「お前達はメイラス様を倒しに来たのだろう? ならば黙って見過ごす事など――」
しかし、りりかは首を振る。
「一先ずあたしたちのする事見ていてほしいの、です。何かしたいなら状況を確認して行動してほしいの…」
「何をするつもりだ」
問われて、りりかは皆の心積もりを語る。
「そんな事が出来ると思うのか」
「出来るか出来ないかじゃなくて、やるのよ」
挫斬が答えた。
「だからメイラスの居場所を教えて。あとリュールと杖の在処もね」
しかし。
「私は主人の命を受けてここにいる。お前達の目的が何であろうと、ここを通すわけにはいかない」
「あ、もしかしてバレたら粛清されるとか?」
「だったら、メイラスには停戦交渉でここで足止めされていたって言えば良いと思うのだよ!」
フィノシュトラがそう提案してみる。
「それが無理なら、私たちのことを見なかった事にしてほしいのだよ? あ、でもそれじゃ見張り役が何してたって言われるかもだね…」
「それなら、何とかなると思う」
ヨルが言った。
「テリオスはこのまま、ゲートに逃げて。それで、敵が来たってメイラスに知らせればいい」
どうせ知らせなくてもすぐにバレる事だ。
「俺達はその後を追いかける。それならテリオスが案内した事にはならないよね」
その提案を反芻する様に黙り込んだテリオスは、暫しの後。
懐から取り出した短剣で自らの腕を斬り付けた。
「何するんですか…!」
シグリッドが慌てて短剣を取り上げようとしたが、もう遅い。
思いきりよく刃を滑らせた皮膚から鮮血が溢れた。
「逃げろと言うなら、それなりの理由が必要だろう」
無傷のまま敵に背を向けるわけにはいかない。
「それはわかりますけど…っ」
自分の命を軽く見すぎている、この態度。
やっぱり似ている。
「そんな簡単に、自分を傷付けちゃだめなのですよ…!」
「何故、お前が泣く?」
シグリッドの頭に乗せられる手。
それはいつもの慣れた感触よりも細くて柔らかく、ふわりと軽い。
「見失うなよ」
そう言うと、テリオスは腕の傷を抑えてゲートの中へ飛び込んで行った。
カノンが真っ先にその後に続く。
ただテリオスの背中だけを見て。
彼に対して啖呵を切って見せた手前、撃退士としての信を曲げてメイラスとの交渉に臨む事には申し訳なさを感じもする。
しかし、だからこそ無様な失敗は許されなかった。
これが最善の策であると、信じて主張するだけでは何の説得力もない。
実際に示して見せなければ、誰も納得はしないだろう――犠牲になった者や遺された者達、それに何より自分自身が。
そのすぐ後にレイラと挫斬が続く。
途中の通路に何かがいても、進路を妨害しない限りは無視して通り過ぎ、ひたすら奥へ。
青空とヨルがその背後に隠れる様に、その更に後ろにはフィノシュトラとシグリッド、りりか。
長射程のエクレールを手にしたユウが、闇の翼で殿を飛ぶ。
いかにも急拵えのゲートらしく、その作りは簡素で装飾もない。天井も低く、気を抜くと頭をぶつけそうだ。
ただ、どこもかしこも黒一色。
明るさは充分な筈なのに、暗闇の中にいる様な錯覚を覚える。
(黒尽くめの服装。黒咎って名前。パスの「#000000」も意味は黒、だ)
走りながら、ヨルは思考を巡らせた。
(ここも真っ黒だし、メイラスは『黒』に何か拘りがあるのかな…?)
足元に目を落とすと、やはり真っ黒な床には転々と赤い血の跡が続いていた。
「メイラス様!」
前方でテリオスの叫び声が聞こえる。
「敵襲です!」
その声に、メイラスは傍らの台座に置いてあった杖を手に取って立ち上がった。
小さな黒い丸テーブルと、黒い革張りの応接セット。
その中にひときわ目立って浮かび上がる白い姿が、驚いた様子もなく顔を上げる。
「早かったな」
「リュールさん!」
ユウが思わず声を上げ、黒い背景に溶け込む様なメイラスの姿に銃口を向けた。
躊躇いもなく、ダークショットをその頭部に撃ち込む。
流石にこの不意打ちは効いたらしく、メイラスは思わずテーブルに手を付いた。
傷口を押さえた黒い手袋に赤い血が滲む――が、杖は離さない。
その姿を包み込む様に、ヨルが放った幾多の炎が派手に踊り狂った。
勿論リュールには当てないし、威力よりもその派手な見た目でメイラスの目を惹き付ける事が目的だ。
「リュールは取り返させてもらうのだ」
青空がバレットストームで炎に暴風を上乗せし、それを隠れ蓑にメイラスに近付く。
(愚直は自覚していますが、慣れない小細工をして上手くいく保証もなし――)
カノンは赤い熱風の中に真っ直ぐに飛び込んで行った。
馬上槍試合に挑む騎士の様にディバインランスを真っ直ぐに突き出し、声を上げ、狙ってくれと言わんばかりに。
レイラもまたメイラスの背後に回り込み、その後頭部に強烈な踵落としを叩き込む。
同時にフィノシュトラが異界から呼び寄せた無数の手がその身体を縛り上げた。
明鏡止水で気配を殺したりりかがそっと近付き、その手元にワイヤーを絡ませる。
が、それは身体を縛る手の束縛と友に絶ち切られてしまった。
「なるほど、少しは出来ると言いたいわけか」
何故か少し嬉しそうに、メイラスは口元を歪める。
「だが、ここまでだ」
その手の中でアロンの杖が光った。
黒い壁が白く見えるほどの眩い閃光が迸り、光弾が四方八方に飛び散る。
その攻撃はリュールにも容赦なく襲いかかった。
が、間に入った挫斬がそのダメージを庇護の翼で肩代わり。
更に瞬間移動で飛び込んだフィノシュトラがメイラスを思いきり突き飛ばし、リュールの手を引く。
「今のうちに、こっちに来るのだよ!」
その身を庇いつつメイラスから引き離し、ブレスシールドを発動した愛梨沙を加えた三枚の壁で取り囲んだ。
後は杖を奪ってしまえば、メイラスも取引に応じる気になるだろう――他に何かとんでもない隠し球でも持っていない限りは。
「こんなの全然痛くねーのだ」
ここが正念場だと、青空は怯まずに突き進む。
(この一瞬に全部をかけなきゃね)
迅雷で飛び出し、メイラスの手元を狙ってショットガンの銃床を振り下ろした。
痛打に合わせて再びりりかが杖に糸を絡める。
そのタイミングを見て、青空はメイラスの身体を全力で弾き飛ばした。
反動で杖は手を離れ、宙に舞う。
黒い翼を広げ、手を伸ばし、メイラスはそれを取り戻そうとした。
だがユウの射撃がそれを阻み、カノンもまた攻撃の手を緩めようとはしない。
二人とも本気で倒しにかかっている様に見える勢いだった。
「テリオス!」
流石に堪りかねたのか、メイラスが手助けを命じる。
しかし。
「手出しはさせないよ」
その足元から闇の鎖が湧き上がり、テリオスの身体に絡み付く。
――束縛魔法かけるから、抵抗しないで――
予め意思疎通で言われていた通り、テリオスは無抵抗のままにヨルの術中に落ちた。
「メイラス、観念するのです! スゥちゃんお願いします!」
シグリッドはスレイプニルのスゥちゃんを呼び出してメイラスに突撃させる。
「涎まみれになるがよいのですー!」
パサランがいれば頭から丸呑み前進ベッタベタの刑にして貰うところだけれど、いないものは仕方がない。
「頭がじがじだけで勘弁してあげるのです」
しかし流石に、それを簡単に実行に移せる相手ではなかった。
「あぁっ、スゥちゃん!」
杖がなくてもメイラスはそれなりに強い。
翼による飛翔からの回し蹴りで、あっさり吹っ飛ばされるスレイプニル。
だが、メイラスの反撃はそこまでだった。
「まだ抵抗するつもりなら、こちらにも考えがあります」
ランスの切っ先を突き付け、カノンが迫る。
その背後では、ユウがぴたりと銃口を向けていた。
二人とも本気で倒す姿勢を崩していない。
実際このまま交渉が決裂すれば、それを実行に移しかねない勢いだった。
勿論、そう見せるのも作戦のうち…の、筈だ。多分。
「メイラスさん…」
りりかが声をかける。真っ直ぐに、きちんと顔を見ながら。
「あたしは章治兄さまが貴方を生かしたいというので、その意思を尊重したいの、です」
「この程度で私を倒せるつもりでいるのか?」
メイラスは鼻で笑う。
「でも、リュールさんは返してもらったの、です。杖も、あたし達の手にあるの…」
アロンの杖は今、リュールが持っていた。
「…ねぇメイラス、今回のゲームの感想聞かせてくれる?」
ヨルが訊ねる。
奇襲の成功だけでも、完全にこちらの負けとは言えないだろう。
もし負けではないと認めるなら、こちらの話くらいは聞いてくれないだろうか。
「まあ、良かろう」
メイラスはそれを認めた。馬鹿にした様な笑みを浮かべたままではあったが。
「それで、何が望みだ」
「ねえ、取引しない?」
挫斬が答える。
「先生の生みの父親に会わせてよ、ぶん殴りたいから」
「センセイとは何だ」
「ああ、そっちじゃ別の名前なんだっけ…ええと、エルなんとか」
「エルナハシュ・カドゥケウス」
後ろでリュールがツッコミを入れる。
「そう、それそれ。ありがとね、リュール」
それを聞いて、後ろに下がっていたテリオスが眉を寄せた。
しかし挫斬は構わず続ける。
「私達が勝てば、人間に負けるって失態を犯した父親に恩を売るなり付け込めるわ。私達にはその力と頭があると思わない?」
「思わんな」
「なんでよ、そんな筈ないでしょ? 実際こうして貴方を追い詰めてるじゃない」
いや、追い詰めているは言い過ぎかもしれないが。
「私達はこれからも強くなるわ。今の私達より上司を倒した私達を殺した方が貴方の力の証明になるでしょ?」
メイラスは答えない。
「私達が負けても、人任せで失敗した先生を今度は自分の手で確実に殺した方が安心できて、点数稼ぎになると思わない?」
負けないし、殺させたりしないけどね!
「どっちでも貴方に有利よ。悪い話じゃないでしょ?」
そう言われて、メイラスは面倒臭そうに顎でテリオスを呼んだ。
お前が相手をしろ、という事らしい。
呼ばれて、テリオスは大きく溜息を吐いた。
「やはり人間とはこの程度のものか」
「どういう意味?」
「あれの実の父親は、私の父が殺した。そう言った筈だが」
それに、その男は悪魔だ。
メイラスの上司では有り得ない。
仮にテリオスの父と勘違いしているのだとしても、彼はただの天使である。
ただの天使が大天使の上司になる事など絶対にない。
「残念だな」
テリオスは悲しそうに首を振った。
「待って下さい」
だが、今度はレイラが口を開く。
「貴方は――」
メイラスを見た。
「本来戦うべき仇敵『冥魔』と密約を結び、圧倒的弱者から搾取し、あまつさえその運命を弄ぶ。過ちを知りながら糺すこともできず、徒に時を過ごし立ちあがる勇気もない」
「今度はただの妄想か」
メイラスは哀れみを込めた視線を返し、大きな溜息を吐く。
「全く、意味がわからぬ」
「違うならば…何だというのですか?」
「どうやら我々には共通の言語というものが存在しない様だ」
メイラスはこれまで、人間を一応は話の通じる存在として扱って来た。
だからこそゲームを仕掛けもした。
しかし、その認識を根本から改めるべきなのかもしれない。
「やはり、ただの餌か」
レイラの目論見としては、わざと事実とかけ離れた虚構を投げて、それに対する反論から隠された本心を暴くつもりだった様だ。
だが、事実の中に僅かに虚構が織り交ぜられてこそ、人は「そこは違う」と言いたくなるもの。
完全なる虚構はただの言いがかりにすぎず、それは大抵の場合、黙殺される。
そして交渉は決裂、武力でも解決へ――
「まだ話は終わってねーのだ」
その流れを青空が止めた。
「勘違いは誰にでもあると思うのだよ」
きっとメイラスも、完璧が好きなテリオスだって。
いや、完璧ではないからこそ完璧を求めるのかもしれない。
だから、もう少し付き合ってくれないだろうか。
「悪いけど、風雲荘で言ってたこと聞かせてもらったのだ」
「私達が使える手札であるなら手元に残すそうですが」
カノンが言葉を継いだ。
「今回こちらがゲームに勝った事で、状況が変わったのではありませんか?」
「このまま点数稼ぎしたところで、君は何も変わらないよ。そして準備は、整ってからじゃ多分遅い」
そちらの目論見は知っていると仄めかし、青空は何故か一枚の雑巾を取り出した。
「私だってあんま協力したくねーけど。ほんとはぶっ飛ばしてーけど」
雑巾にはマジックで「メイラス」と書いてある。
僅かに湿り気の残るそれを、青空は思いきり絞り上げた。
繊維が破れる程に、ありったけの力を込めて。
「私は可能性のある一番最良の未来を望むよ。それを叶えるためなら、君だって殺す」
ぽたり、僅かに一滴の水が滴り落ちる。
「でも今はこれで勘弁してやるのだ」
もし協力する気があるなら。
「お互い譲歩することで見える新しい未来もあるんじゃねーかな」
この提案を蹴るなら、メイラスの未来はこのボロ雑巾だ。
「だから今はこのまま、リュールさんを返して下さいなの、です」
りりかが言った。
「それに、サトルさんとアヤさんとマサトさんの洗脳を解いてもらうの、ですよ」
「…ふむ」
メイラスの表情が変わった。
「だが、その女を仕留め損ねた場合、私の信用は地に落ちるだろう」
そうなれば雌伏の後に反転攻勢に出るという計画そのものが成り立たなくなる怖れがある。
「相応の対価が必要だが、貴様らにそれが用意出来るのか?」
「必要とあらば、杖は返しましょう」
カノンが答える。
「それに、今後も人命を賭けない条件でなら『ゲーム』を何度でもすればいいでしょう。こちらはその都度返すだけです」
そうしてある程度予定調和の争いを続ける事で、互いの練度も上がるだろう。
武力だけでなく、情報の面でも互いに協力するメリットは少なくない筈だ。
「ゲームなら、こういうのはどうかな」
ヨルが言った。
「天界は白、俺達は黒」
白と黒、最終的にどちらが勝つかという息の長いゲーム。
「人界は沢山の色に溢れてる。けど全ての色を混ぜ合わせればそれは黒になる」
厳密に言えば暗灰色だが、そこは敢えて黒で。
「だから、俺達は黒だ」
黒に拘りがあるなら、自分も黒だと同調してくれないだろうか。
最終的には人界の黒で天界の白も呑み込んでしまいたい――と言うと、白を黒で塗り潰す様でイメージが良くないかもしれないが。
そこには人間界の混沌で天界の秩序を呑み込んで、和解に持ち込みたいという意図もあった。
だがメイラスは首を振る。
「即物的な連中に抽象概念は通用せん」
リュールと同等か、それ以上に価値のある、目に見える成果が必要なのだ。
技術や人材、すぐに使えて利用価値の高いもの。
「そう、例えば…貴様らのセンセイだ」
途端にあちこちから抗議の声が上がった。
「そんなこと、出来るわけないでしょ!」
「そんなの論外なのだよ!」
「絶対にダメなのです…!」
「渡さないの、ですよ?」
愛梨沙にフィノシュトラ、シグリッド、りりか。
恐らく他にも心の中で抗議の声を上げた者はいた筈だ、多分。
「ならば他に何か、代わりになるものを用意することだな」
それさえ手に入れば協力関係を結ぶ事も考えよう。
さもなくば、いずれまた狙う事になる。
リュールか――いや、手柄としては門木の方が遥かにポイントが高そうだ。
「だが、今暫くは預けておく」
今回のところは、このまま引き下がろう。
黒咎達の洗脳も解いてやる。
あれはもう使い途がないし、術を継続させるのも面倒だというのが正直なところだが。
「次の機会まで、よく考えておくことだな」
杖を取り返したメイラスは一同に退去を促した。
それまでずっと周囲を警戒したままだったユウが、漸く緊張を解く。
「リュールさん、ご無事で何よりです」
改めて無事な姿を確認して気が緩んだのだろうか。
気持ちと一緒に涙腺までが緩みそうになって、ユウは慌てて天井を仰いだ。
すぐに平常心に戻り――と思ったら、リュールに頭を撫でられて、ぎゅっとハグされて、背中ポンポンされて。
「ありがとうな」
なんて言われても、我慢…しなくていいと思います。
「リュール、帰ろ? センセが待ってるよ?」
愛梨沙がその手を引て歩き出す。
だが何人か、その場を動こうとしない者達がいた。
「ついでに訊きたいんだけど、個人的に」
挫斬は改めてメイラスに訊ねてみる。
「高松の両親の仇の天使も解体したいから、教えてくれると嬉しいな」
だが上位の者は数が限られているとは言え、ノーヒントで探し出せるほど少なくもない。
それに例え知っていたとしても、解体するなどと言われては教えられる筈もなかった。
向こうでは、りりかがテリオスの治療を行っている。
「けがをさせてしまってごめんなさい、です」
自分達が傷付けたわけではないのだが、何となく謝らなければいけない気がして。
それに、やっぱり心配だから。
「あと、よかったらテリオスも…」
フィノシュトラは言いかけて、言い直した。
「テリオスさんも、そこにいづらくなったら学園に来てほしいのだよ? 何かあったら先生も私も悲しいから、無理はしないでほしいのだよ?」
何と返事をすれば良いのかと迷っている様子のテリオスに、青空が言った。
「そういう時は、素直にありがとうって言えば良いのだ」
ほら言ってごらん?
「…、……」
あ、逃げた。
本当に気を許して良いものかどうか、未だに計りかねているのだろうか。
それでも最初の頃よりは随分と丸くなったけれど。
「ちょっと遊びに来るだけでも良いのだよ?」
「そうそう、今度みんなで遊園地に行くのだ!」
角を曲がって姿を消したテリオスを、二人の声が追いかける。
「今度は、こんなゲームではなくお互いが楽しめるゲームをしましょう、です」
最後にりりかが、メイラスに向かって小さく頭を下げた。
そして夜。
「だから何でお前は人の部屋でクダ巻いてんだよこのヨッパライ!」
挫斬は高松の部屋に上がり込んでいた。
「使徒になるのはいいけど全てが終わったら私に殺されるとかは止めてよ?」
すっかり出来上がってベッドに倒れ込む。
「紘輝を解体するのはきっと狂うくらい気持ちいいんだろうけど、終わったら自殺するくらい落ち込むから」
床にはストライクを取ったボウリングのピンの様に一升瓶が転がっている。
「それと付き合ったら昔の事教えてくれるって約束忘れてないから気が向いたら話してよ。んじゃお休み。あ、下着は気合いれたから悪戯してもいいむにゃぐぅ」
「しねぇよ馬鹿! つか付き合ってねぇし!」
え?
同じ頃、風雲荘には新しい住人が増えていた。
しかも一度に三人――そう、術を解かれた黒咎達が一緒に住む事になったのだ。
未だテリオスの使徒ではあるが、他人に危害を加える怖れはないという事で、学園への編入も認められる事となった。
それから更に数日。
約束通り、皆で遊園地に行く事になった日の朝。
風雲荘の庭先に、見覚えのある人物が立っていた。
淡く明るい緑色の髪に、薄いブルーの瞳。少し丸みを帯びた顔立ち。
「遊びに来いと、言われたので」
テリオス、わりと人の話をストレートに受け止めるタイプだった――?