●
南側に面した部屋で、一同は状況を整理する。
ジュリアン・白川(jz0089)のいる二階の書斎は、本が傷まないように窓は少なく、西側と南側に面して、かなり高い位置に細い非常用の開閉窓があるのみらしい。そこからは西側の吹き抜けを通した玄関付近と、庭の一部しか見えないようだった。
それでも宙を舞う巨大なコウモリと、オオカミ型のサーバントが幾体も確認できたという。
『直ぐに合流したいが、こちらには二人の一般人がいる。放置もできまい。すまないが暫くそちらで池永氏と真弓さんを頼む』
ハッド(
jb3000)が通話に割り込んだ。
「二階の雨戸を閉めてもらえぬじゃろうか。窓を破って侵入されるのは極力防ぎたいのじゃ!」
『いざとなれば相手は壁も壊すだろうがね……まあこちらの様子が見えないのはいい案かもしれないな。これだけの家なら、電動だろう。池永氏か真弓さんに聞いてみてくれたまえ』
「わかったのじゃ!」
「申し訳ありませんが、そちらからも狙撃が可能でしたら宜しくお願いします」
夜来野 遥久(
ja6843)の依頼を、白川は一応承諾する。
『視野が狭い、余り期待はしないでくれたまえ。その代わり索敵は極力使って行く』
両手を強く組み合わせ、六道 琴音(
jb3515)が息を吐く。
「これまでの事を考えると、敵の狙いは真弓さんでしょうね」
竜見彩華(
jb4626)も同じことを考えていたのだろう、思案気に目を伏せた。
「……こんな所まで押しかけてくるとは、仕事熱心な事だ」
グリムロック・ハーヴェイ(
jb5532)が冗談ともつかない口調で言う。
「よほど切羽詰まっている……のかどうかは知らないが、とにかく迷惑極まりないな。早々にお引き取り願うとしよう」
普段通りの物静かな表情のままだが、金の瞳がほんの一瞬、強い生気を帯びた。
「断るのなら、刃を持って出迎えるまでだ」
この家の誰一人、傷つけさせはしない。
その思いは全員共通だった。
すぐさま対応策の相談が始まる。
何処から天使が来るかは判らないが、池永氏、真弓、小青(jz0167)、いずれに遭遇しても危険極まりない。ならば集めて守った方が確実だと思われた。
「集めるなら池永氏の部屋ですね」
遥久が僅かに眉を顰める。先日会った様子から見るに、池永氏は下手に動かすと身体に障る。
「じゃあ俺が迎えに行く」
月居 愁也(
ja6837)が立ちあがると、櫟 諏訪(
ja1215)と小野友真(
ja6901)も後に続く。
「学園までの護衛にって呼ばれて来てみたら。結構出番が早かったな!」
友真がわざと冗談めかすように言った。
応接室を出て、家の中央にある坪庭を回り込み、ちょうど斜め向かいに当たる真弓の部屋へと急ぐ。
ノックすると異変を感じていたのだろう、直ぐに真弓が扉を開いた。
「アヴィオーエルですね」
諏訪がひょいと顔を出し、敢えて明るい調子で声をかける。
「ちゃんと守るので無茶はしないでくださいねー?」
ぎこちなく微笑む真弓の背後から、じっとこちらを見据える金の双眸があった。
諏訪はその目を優しく見返し、言葉を選んで語りかける。
「すぐに信用しろとは言わないですし、できるとも思いません。でも、今は自分達のやり方についてきてくださいなー。真弓さんとふたり、無事でいて欲しい気持ちは本当ですよー?」
もっと伝えたい事はある。だが今は先を急ぐ。
後を引きうけたのは愁也と友真だ。
友真は以前、学園祭で束の間の自由を楽しんだのだろう真弓を見ていた。あのときとは別人のように張りつめた表情。
「久しぶりやなあ。元気そうで良かった。あの後センセに怒られへんかった?」
友真が笑いながら手を差し出すと、真弓は一瞬怪訝そうに首を傾げ、直ぐに花がほころぶように笑った。
「ええ、お陰さまで。その節はお世話になりました」
差し出した手を真弓は柔らかく握り返した。友真はまだ真弓の後ろで鋭い目でこちらを見ている小青にも声をかける。
「話を聞いて気になってたんや、会えて良かった。よろしくな」
「早速で悪いんだけど。ここから池永さんの部屋に移動して貰いたいんだ」
愁也が話を切り出す。
いずれ真弓は池永氏と一緒にいたいはずだ。こちらの人数も余り多くない。それならば纏めて保護した方が早いのだと。
「有難うございます。とても心強いですわ」
安堵したように真弓が声を漏らす。
「大丈夫。皆、絶対幸せになる」
友真が力強く断言した。
ほんの僅か身じろぎした小青の前に、愁也が膝をついた。
「なあ小青、幸せになりたいんなら、俺らが助けるよ」
小青の中ではこのままアヴィオーエルの元に真弓を連れて行けば、あるいは天界に戻れるかもしれないという希望が残っているのだろう。
(小青は不服なんやろな……)
息を詰めて愁也を睨むように見つめる小青に、友真はそう感じた。
だが少なくともこれまでに見たアヴィオーエルの言動には、真弓の無事を信じる要素はない。
「何があっても味方する、皆でそう決めたから連れてきたんだ。俺らと先生、合わせて九人を信じてくれよ。そして、真弓さんが大事に思ってる人の事も、今だけは真弓さんと同じぐらい大事に考えてほしいんだ。俺達もお前を信じるからさ」
愁也の目が真っ直ぐに小青を見つめる。
「俺らを、人間を信じろなんてすげえ難しいのはわかってるけど。真弓さんの事は信じられるだろ?」
ついに小青は小さく頷いた。
●
愁也から移動開始の連絡を受け、遥久と諏訪は邸の南東に位置する玄関へ急ぐ。
扉に手を掛け開く直前、吹き抜けの上方を見ると、高い窓から手を振る白川が見えた。
「では行きましょうか」
「ここを抜かせるわけにはいかないですしねー? しっかり守りますよー?」
頷き合うと、扉を開き外へと躍り出た。
扉が開き、そして閉まる音に、愁也は唇を噛む。親友の遥久を信じてはいるが、心配はそれとは別物だ。
「頼むぜ……!」
坪庭を回り込むように廊下を渡り、池永氏の部屋の前で真弓に声をかけた。
「絶対戦闘に参加しないでくださいね?」
扉が開くと、中から琴音が顔を覗かせた。
「真弓さん、先日は貴方の決断をみせていただきました。ここからは私達の決意をみせる番です」
友真が扉の具合を確かめながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
「全員が幸せになれる道が見えてるんや、皆で掴もうな」
広い庭は綺麗に整えられていた。お陰で見晴らしがよく、敵の姿は直ぐに確認できる。銀色の影が宙を舞い、奇岩を配した枯山水を飛び越え、幾体ものオオカミ型サーバントが見えた。
「蝙蝠から確実に落としていきましょう」
「了解ですよー?」
猛然と駆け出し、少し離れた大きめの岩にそれぞれが身を寄せる。諏訪はスナイパーライフルを構え、早い動きを眼で追った。
「ここからは行かせませんよー?」
射程内に入った一体の蝙蝠を狙って放たれたアウルの銃弾は、確実に翼を撃ち抜いた。だが蝙蝠は抗うように羽ばたき、最期の力を振り絞るかのように接近して来る。その後ろから隠れるようにもう一体。
「……!」
諏訪が岩に手を掛け、そのままがくりと首を垂れた。
「櫟殿! ……やはり睡眠スキルか」
遥久は霊符を取り出し、まず先へ行こうとする一体を仕留め、直ぐに聖なる刻印で諏訪の意識を回復させる。
「大丈夫ですか?」
「……面目ないのですよー?」
苦笑いを浮かべて頭を軽く振り、諏訪は再びライフルを手にする。
オオカミの群れは二手に分かれ、一隊がこちらへ、別の隊が西へ向かう。邸を取り巻くように移動するつもりらしい。
全てを食い止めるつもりだったが、二人で当たるには数が多すぎた。
「そちらへオオカミが行きます、ご注意を」
遥久が屋内に警告を送る。
彩華は西隣りの応接室に駆けこんだ。雨戸が閉まっていて、室内は薄暗い。
ロックを外し、手動でわずかに開いた隙間から外を覗く。
「……怖いのが来たら教えてね」
ストレイシオンを建物外部の壁際に召喚する。彩華のいる部屋の北側が、池永氏の部屋だ。
そこで斥候を任せ、もし天使が現れたら防御結界を。人間並みの知能なら、これ位の指示は理解できるはずだ。
だが知能があるという事は、恐れを知ることでもある。温和な気性のストレイシオンなら尚更だろう。
「ごめんね、私も一緒にここにいるから」
彩華は雨戸の隙間から手を伸ばし、『分かっている』とでもいうようにこちらを向いたストレイシオンの鼻面を優しく撫でた。
ハッドは池永氏の部屋の北側、キッチンに潜む。
「ふむ〜それにしても、こっちを立てればあっちが立たずじゃな。ひとの縁とはまったく難儀なものよの〜」
電動式の雨戸は力を籠めて押し上げると、外を覗くぐらいの隙間ができる。
ハッドは雷霆の書を手に、北と西の窓を交互に睨んだ。
「とはいえ、吾輩の目の前で天使風情をのさばらせる訳にも行かぬのじゃ〜。大仙んと真弓んと小青んがようやく辿り着いた幸せの形を壊されるのも癪というものじゃ」
そのとき、窓の外に銀色の影が近づくのが見えた。
ハッドはハイドアンドシークで気配を消し、蝙蝠が近づくのを待つ。
邸の周囲を窺うように音もなく影は飛びゆく。呼吸を合わせ、ハッドはアウルを爆発させた。
「ここはひとつ王の威徳を示すしかあるまいて〜!」
不意打ちを食らったサーバントは、弾かれたように宙を跳ねたかと思うと地面に墜落する。
蝙蝠は一体ずつ確実に数を減らしつつあった。だがオオカミは数が多い。しかもその動きは、訓練された猟犬のそれだった。
四体ずつが東西に分かれ、駆ける。最初に遭遇した玄関付近の遥久と諏訪に目もくれず、西側のオオカミは建物を回り込んだ。
壁際に彩華のストレイシオンを見つけ、二体が飛びかかる。
「ここから崩させる訳にはいかねえだ。あ、いかないの! ごめんっ、ちょっと頑張ってね……!」
まだ天使は現れない。ストレイシオンの痛みを自分の身体に感じながら、彩華は耐え続けた。
その間にすり抜けた二体が辺りを窺うように駆けまわったかと思うと、やがて一斉に顔を天に向け、遠吠えの様に吠えた。
それが合図だった。
「見つけたか」
アヴィオーエルはやや緊張した白い顔を上げる。
遠吠えからすると、サーバントは生命反応が集まっている場所を感知したようだ。
原住民共はクー・シーを庇うつもりだ。となれば、身を寄せ合って守りを固めていることだろう。
そこに、獲物はいる。
「お前は後で来い」
天使派は純白の翼を広げ、深い緑を湛えた楠の梢から飛び立った。
「承知しました」
壮年の男が首を垂れる。シュトラッサーの川上である。首尾よくアヴィオーエルが裏切り者を始末し得たことを確認するのが彼の仕事だ。――あるいは、失敗した事を。
遠ざかる天使をどこか不遜とも見えるほどの飄々とした風情で見送り、一人呟く。
「ここは俺の戦場ではないからな」
手出しは無用。ただ見届けるのみだ。
●
オオカミ型のサーバントは、中々にタフだった。
「これでどうですかー?」
飛びかかる一体が前足を撃たれ、つんのめった様に地面に顔をぶつける。そこに遥久が頭を狙って雷撃の刃で貫こうとするが、顔の半分を血に濡らしながらまだ牙を剥き、こちらへ向かって来る。その身体を飛び越えて、別の一体が現れた。
それでも残りは一体。と、思った時。
「あれは……」
白い翼を広げたアヴィオーエルが現れたのだ。
スコープ越しにその姿を認め、諏訪は狙いを定める。向こうの弓より、こちらの方が射程が長いはずだ。
「きましたねー? ここは通すわけにはいかないのですよー?」
天使の纏う鎧を溶かすアシッドショットを撃ち込む。確実にその一弾は天使の右腰の辺りを貫いた。だが天使は落ちることなく諏訪と遥久に迫る。流石は天使、抵抗力はかなり強いらしい。
「来ます、私の後ろに」
遥久がカイトシールドを嵌めた腕をかざし、諏訪を背後に庇った。その時にはアヴィオーエルは光の矢を番えている。
稲光が真っ直ぐ向かって来るような激しい光。
その強い矢を、遥久は足に力を籠めて受け止める。損傷、軽微。遥久の口元に微かな笑みが浮かぶ。
「……問題ありませんね」
だが天使はそのまま高度を上げ、代わりに新手のオオカミ型サーバントが四体、追い立てられるように走って来る。
振り仰ぐと、白川が半身になりながら、拳銃を握った手を南の窓外に突き出していた。
だが流石に姿勢が保てず、狙い難いようだ。天使はその銃弾を物ともせず、剣を振りかざすと玄関の上の嵌め殺し窓に叩きつけた。
家が軋むような激しい振動。床に降り注ぐガラスの音。
「アヴィオーエルが来たの!?」
彩華はストレイシオンの召喚を解き、すぐに西南の部屋を走り出た。
ストレイシオンは頼りになるが、屋内では動きが取り難い。続けて呼び出したヒリュウは待ちかねていたように、彩華の周りを元気よく飛びまわる。
吹き抜けには既に愁也がいた。
「あんの、陰険天使……!」
グリムロックも廊下を駆けて来る。
「せめて楯の一枚とでもなれれば……!」
二階の高さから舞い降りて来る天使を見上げ、グリムロックは身構えた。
だが敵は天使だけではなかった。さっきまでいた応接室から何かが雨戸にぶつかるような激しい物音が響いたかと思うと、扉を打ち破ってオオカミ型サーバントが二体、踊り出たのだ。
「ここは抑える。天使の方を頼む」
グリムロックは雫滴るような白刃を振り抜き、サーバントに対峙する。
「悪い、任せる!」
愁也は身を翻し、池永氏の部屋へ向かって駆け出した。
「ああ、ここから先へは行かせない。……絶対にだ」
グリムロックのベンティスカが強い光を帯びる。間合いを測り、向かって来るオオカミにその光の束をぶつける。
――ギャウン!
先頭のオオカミがフォースをまともに受け、後方へ吹き飛んだ。
それを避けた一頭が立てる牙を剣で受け止め、そのまま押し切る。
「こっちから、お願い!」
彩華の指示でヒリュウがサンダーボルトを放つと、二頭は手足を突っ張ったままその場で痙攣したように動かなくなった。
「よし、今の内に」
「ボコボコにしちゃるべー!!」
彩華が勢いよく腕を振り上げたとき。
ボコ。ボコボコボコ。
北側のキッチンの方から、雨戸に何かがぶつかる音が響く。
「こっちからも来たのじゃ〜! 気をつけるがよかろ〜」
北側のキッチンから、どこか緊張感に欠けるハッドの声が届いた。
部屋の中では池永大仙氏の寝台の傍で、真弓が険しい顔を戸口に向けていた。
「真弓さんはここにいてください! 私達が必ず抑えますから」
琴音は真弓の肩を優しく押さえた。そして怯えたように真弓にぴったりと寄り添う小青に顔を向ける。
「小青さん、貴方と真弓さんの未来は私達が必ず守ります。私達を信じて下さい」
琴音には勝算があった。あの天使の得意なのはどうやら弓。家屋の中では使い難いはずである。
少なくとも通路を塞いでしまえば矢は止められる。
いや、止めて見せる。いざとなれば、自分の身を楯にしてでも。
琴音は激しい決意を胸に、敢えて優しく笑って見せる。そして踵を返し、部屋を後にした。
アヴィオーエルは吹き抜けから坪庭を通し、真っ直ぐ池永氏の部屋を見据えていた。
まるで真弓の居場所を知っているかのようだ。
「退け! 邪魔立てすると容赦はせぬぞ!」
アヴィオーエルは立ちふさがる琴音に向かって弓を引き絞る。
(この距離でも弓を使おうとするんですね。余程弓の方に自信があるのかも……)
琴音は怯むことなく楯を手に身構える。
光の矢が猛烈な勢いで琴音に襲いかかった。歯を食いしばり、細い腕が軋む程に力を籠め、楯で受け止める。
アヴィオーエルはいかにも不快そうに眉を寄せた。その目の前を、小さな生き物が横切る。
「今度は何だ!?」
「しっかりっ! 頑張って!!」
ヒリュウは彩華の応援を受け、直ぐに取って返すと天使に向かってサンダーボルトを浴びせた。
「当たるか!」
だが僅かの間でも、そちらに意識が逸れれば充分だった。
「よっしゃ、貰ったあ!」
僅かに開いた扉に身を顰めていた友真が、小さく吠えた。
隙間から覗く双銃から、練り上げたアウルによる精密狙撃の銃弾が天使に向かって飛んでいく。
アヴィオーエルの、弓を構えた左肩が鮮血を噴き出した。
「……ええい、邪魔をするなと……ッ!」
天使は鏃の向く先を変える。怪我により威力は減じられたとはいえ、まだ充分その矢は驚異だった。
扉に滑り込む直前、僅かに先に届いた矢が友真を扉ごと貫く。
「友真、しっかりしろ!!」
次撃が来れば命にかかわる。駆けつけた愁也は、友真を急いで部屋に押し込んだ。
治療に駆けつけた琴音と入れ替わり、愁也はプロスボレーシールドを油断なく構えて天使の襲来に備える。
「何という事を……!」
顔面蒼白になった真弓が、絞り出すような声と共に立ちあがった。
「駄目です! ここは私達に任せてください!」
琴音は友真の傷を癒しながら、真弓を制する。
「真弓さん、俺は大丈夫。それよか小青、ちょっと」
友真が肩を押さえて身体を起こすと、小青を呼んだ。
「なあ、真弓さんが攻撃すんのは、まずいんやろ? そしたら今、真弓さんの気持ちを代弁できるんは小青やと思う。少しだけ力貸してくれんか?」
「私の、力を……?」
怯えたような金色の瞳を真っ直ぐに見つめ、友真が静かに語りかける。
これは先に皆で話し合っていたことだった。
小青が完全に天界を捨て、寝返った事。それを証明するには、今の主の天使に刃を向けたという事実が一番効果的なのではないか。
逆に言えばそれを躊躇うようなら、完全に天界への未練は断ち切れていないことになる。
「繋いだ手ぇ離さん為に。な?」
頼むから、こちらへ来ると答えて欲しい。
友真の目が強く訴えていた。
●
長年追い続けた獲物はもう目と鼻の先にいる。アヴィオーエルは血の流れる左肩を押さえ、荒い息を吐いた。
部屋の入口は狭く、そこに二人の原住民が立ち塞がっている。だが、二人だ。今、犬どもが相手している連中が合流すれば、もっと状況は悪くなる。
いっそ部屋ごと潰すことも考えたが、混乱に乗じてまた取り逃がすかもしれない。先の一矢で、肩も限界だった。これ以上弓を使うのは難しい。
アヴィオーエルは弓を剣に持ち替えた。
「刺し違えてでも、その首貰うぞ」
およそ天使に似つかわしくない、禍々しい表情。一気に部屋の入口に向かって駆け出す。
「折角繋ぎ直した絆、切らせてたまるか!」
アヴィオーエルが息を整える隙に、愁也の準備も整っていた。魔界の将の名を冠する楯が、紅蓮の炎を纏う。
「いい加減しつっこいんだよ!!」
「ええい、そこをどけと言うに!!」
愁也の楯がアヴィオーエルの剣を受け止める。激突の勢いに弾かれ、互いが一歩下がったときだった。
愁也の脇を小柄な影がすり抜ける。
「小青!!」
ほとんど悲鳴のような真弓の声が、かつての自分のシュトラッサーの名を呼んだ。
小青は跳躍し、双剣を今の主の両肩に打ち込んでいた。
だがその剣は僅かに鎧を弾いたのみ。小柄な身体を貫いて、剣の切っ先が部屋の中からありありと見て取れる程に突き出ている。
「痴れ者が。他の者ならいざ知らず、お前の剣が見切れぬ私ではない」
アヴィオーエルが嘲笑する。だが小青は口元から血と共に声を吐きだす。
「……勿論、わかっています」
小青の目はアヴィオーエルの肩越しに部屋の外を見ていた。
気配を隠し、必殺の一撃を撃ち込むべく機会を窺っていたハッドがそこにいたのだ。
「我輩はバアル・ハッドゥ・イル・バルカ3世。王である! 我輩の雷を受けるがよいぞ!」
「な……!?」
ハッドの雷が背中から天使を貫く。属性攻撃を乗せた魔法書の雷は、カオスレートの大きな隔たりによって天使にとっては致命的な一撃となった。
小青から剣を引き抜くのがやっとで、そのまま崩れるように片膝をつく。
乱暴に突き飛ばされた小柄な少女の体が、どさりと床に落ちた。
「畜生、なんで……!!」
愁也が怒りを露わに、楯から突き出た刃を力任せに叩きこみ、アヴィオーエルに止めを刺した。
「……ここまで、か……無念だ……」
ごぼり。血と泡が口から溢れ出す。討伐天使はついに、己の流した血だまりに倒れ伏した。
●
屋根の上に川上が座っていた。ちょうどアヴィオーエルが叩き壊した隙間から、目的の部屋が見渡せる位置だ。
一部始終を黙って眺めていた川上は、最後に一体残った銀蝙蝠を呼び戻す。
「任務は失敗……か。まあ命懸けの努力を蔑むグラディエル様ではないでしょう」
それは誰が聞いている訳でもない、アヴィオーエルへの手向けの言葉であった。
「さて、では俺はどうやって帰るかね」
立ち上がった川上は、ふと建物の中、坪庭沿いの階段を降りる人影を認めた。
何かが意識に引っかかり、思わず身を乗り出して覗きこむ。
するとその男もこちらを見上げた。
金色の髪には違和感があったが、その背格好、顔立ち。拳銃を構えた姿。
「白川警部補っ……!?」
川上自身が驚くほどに素っ頓狂な声が漏れた。
二階から学生たちの奮戦を見守るしかない状況に、白川は苛立っていた。
ハッドが背後から天使を攻撃したのを確認し、もう大丈夫だからと室内の二人を説き伏せて、どうにか書斎を後にする。
それでも一応階段で索敵を使いサーバントがいないか確かめる。そこで壊れて日の射す屋根の上に、気配を感じて銃を向けた。
地味なスーツ姿の壮年の男だった。民間撃退士ではない。ならば、こいつが京都で時折存在が確認されているシュトラッサーか。
その使徒の名が白川の古い記憶と結びつくのと、相手が声を発するのはほとんど同時だった。
「川上の……おじさん……?」
男の顔は、まだ白川が子供の頃、家にときどき遊びに来ていた『楽しいおじさん』の顔だった。年齢もそのままに……。
最後の一頭のオオカミが倒れた。
「やったのですよー!」
手の甲で汗を拭い、諏訪が大きく肩で息をする。
「あちらが気になります、急ぎましょう」
遥久が促した。
玄関からは壁と階段が視界を遮り、皆のいる部屋が見えないのだ。
一歩出たところで白川が階段にいるのを見かけ、遥久は声をかけようとした。だがその視線が固定された先に気付き、諏訪を無言のまま手で制する。
「驚いたな。お父さんそっくりだよ。道貴君か? それとも正義君か?」
川上の言葉は頭を素通りした。
「そうか……年賀状だ」
白川はようやく以前の手紙の文字に思い当たる。
「親父がいつも、こいつの字だけは何が書いてあるか想像がついても読めない、と……」
「酷い言われようだな」
苦笑いを浮かべる顔。様々な思いが一気に湧き上がり、眩暈がする。
「貴方が、何故シュトラッサーに」
「人間には限界があるからさ。君の父上の様にね」
白川は無言のまま銃口を向けた。
「しかし君が撃退士とは随分と皮肉なものだね。まあいい。私はこれで退散するよ。もう遭うこともないだろう」
川上はそう言って顔を引っ込めた。
一瞬白川の爪先が動く。が、直ぐに向き直ると、振り切るように階段を駆け降りた。
去るなら追う必要もない。それよりも大事なことが今はあるのだ。
階段を降り切ったところで佇む諏訪と遥久に気付き、白川は困ったような微笑を浮かべた。
「全くの役立たずで申し訳ない。そちらは片付いたようだね」
尋ねるべきか否か。尋ねてもいいのか。二人の無言の逡巡に、白川は淡々と答えた。
「シュトラッサー川上昇は、私の父の元・部下だったよ。学園に戻ったら報告しなければならないね。それよりも、あちらが気になる。急ごう」
そこからは血だまりに倒れる天使の姿が見えていた。
●
池永氏の部屋の床は、赤黒く血で汚れていた。
それは天使の物だけではない。
衣服が汚れるのも厭わず琴音が座り込み、持てる限りの治癒術を小青に施していた。
「しっかりしてください、もう血は止まります」
「これは、どうしたことだ」
室内の惨状に白川の表情がこわばる。咄嗟に池永氏と真弓、そして学生たちの無事を確認する。ようやくおびただしい血は、真弓の膝枕で目を閉じる小さなシュトラッサーの物であることが呑み込めた。
「傷の具合は?」
遥久が大股で琴音の傍らに歩み寄るが、琴音は唇を噛み締めただ首を振る。ヒールで対処できる事はもうないのだと、見開かれた瞳が告げていた。
「なんで、あんなところで飛び出したんだよ……!」
愁也が拳を震わせる。
確かに、小青に好機を作る力を借りたいと思っていた。
それは今の主に対する裏切りだ。けれど小青の心が本当に求める主が真弓なら、一緒に生きられるようにしてやりたかったのだ。
こんな形になることを望んでいた訳ではない……!
「お前達を、信じたからだ」
「え?」
眼を閉じたまま、小青が血の気を失った唇を動かす。
「人間を殺しすぎた私は、どの道、人間の世界には戻れない。でもクー・シー様が、人間の中にあって幸せなら……」
小青の瞼が僅かに開いた。
「お前達を、信じる。だから約束してくれ。クー・シー様を、見捨てない、と」
「約束するわ! でも、あなたがちゃんと確認しないと! だから……」
彩華が眼に涙を浮かべ、小青の手を握る。だがその手にはもう力が入らないようだった。
初めはただ、目の前の不幸が見過ごせなかっただけだった。
けれど、すれ違ったまま終わるのは悲しすぎると思った。
どうすればいいのかは判らなかったけれど、とにかくこちらにおいでと手を引いた。
金の瞳はずっと『しあわせになりたい』と訴えていたから。
――幸せになりたい。その願いが、こんなに難しい。
真弓が白い手で小青の頬を優しく撫でた。
すっかり穏やかな色になった瞳が、夢見るように真弓を見上げる。
「小青、こんな所で死ぬ事は許しません。これは命令です」
はたはたと大きな雫がこぼれ落ち、小青の頬を濡らす。
「はい……クー・シー様……」
うっとりと眼を細め、そのまま小青の小さな頭がかくりと傾く。
「小青ッ!?」
「大丈夫、気を失っただけです」
そう言ったものの、小青の受けた傷が回復不可能であろう事は、遥久の目にも明らかだった。
それから暫くの後、邸の中が少し片付いた頃だった。
別室に移された池永氏は白川を呼んだ。
「折り入ってお願いしたい事がありましてな」
曰く、小青を可能な限り生かしてやって欲しいと。その為の協力は惜しまないと。
「勿論それは有難いことですが……理由をお伺いしても宜しいですか」
「私の身に何かがあった時、真弓に生きる理由を残しておきたいと思いましてな」
寝台の上ではあったが、老人は真っ直ぐ背筋を伸ばし、しっかりとした口調で告げる。
「あれには私以外に身寄りもない。私が生きているうちは、どんな事をしてでも私が守る。ですが、私が死んだ後、あれがどうやって生きて行くのか……ずっとそれが気にかかっておりましたが」
老人の目はどこか遠い所を見ているようだった。
「どんな形であれ小青が生きてさえいれば、あれも生きて行けると思うのです」
それは遠い昔、クー・シーに天界を捨てさせた男のせめてもの情愛か。
何かに導かれて出会い、愛し合った者、憎み合った者。
人間も、そして天使も悪魔も、出会うことで生まれるものがある。
それは遠い未来へと伸び、何を生み出すのか。
白川は自分の背後に、前に、幾本もの何か細い物が繋がっているようなビジョンを見た。それは目の前の老人に、学生たちに、そしてあのシュトラッサーにも繋がっている。
「わかりました。私に可能な限り、手配しましょう」
何かは分からない、だが粛然とした気持ちに打たれ、白川はただそう答えた。
さっきまでの血生臭い空気が嘘のように、春の穏やかな光と風が邸を包んでいた。
陽光に温まった岩に腰掛け、友真が空を見上げる。
「なあ、あのアヴィオーエルって天使やけど。もしかして、小青が真弓さんに懐いてたんが羨ましかったんかな」
「知らねえよ」
拗ねたように愁也が答える。その赤い髪を、くしゃくしゃと遥久が掻きまわした。
「な、なにすん……!!」
「悔しいのはお前だけじゃない」
見上げた遥久は、いつも通りの涼やかな横顔。だが言葉には抑えようのない感情が滲む。
仲間も、真弓達も、誰一人として殺させはしないと心に決めていた。
だが結局、小青を守り切れなかった。忸怩たる思いは消えない。
それでも小青は、最後には自分の望み通りに生きたのだ。
彼女は今、ようやく安らぎを得たのかもしれない。
はたり。
静かな庭の隅で、赤く艶やかな椿が一輪、苔の緑に落ちて行った。
<了>