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ディメンション・サークルを抜けると、雲ひとつない澄んだ青の秋空が広がった。波音と潮の香りが一気に押し寄せる。
「上手く連絡が取れるといいのですが」
少し思案気に呟き、エリーゼ・エインフェリア(
jb3364)が光信機を手にする。
ほどなくして、撃退署の四方が応答する。
『……我々が離脱すると同時に、阻霊符使用中断、ですね。了解しました、他の天魔も見当たらないようですし、何とかなるでしょう』
四方が言葉を継いだ。
『私の勘ですが。今回のハンザキは今までと違います、気をつけて』
怒号、悲鳴、それらを運ぶ強い風。光信機から漏れ聞こえる音から、かなり切迫した状況が判った。
「違う、とおっしゃいますと?」
『おそらく逃げません』
これまでの目撃情報では、ハンザキは何処か本気でこちらと戦うつもりがないような動き方をしてきた。
交戦状態になっても、自身は充分余裕をもった状態でディアボロを置いて戦線を離脱する。
『……ゲートの完成が間近なのでしょう。とにかく皆さんが到着次第、一般人の保護を優先します。申し訳ありませんが、後は宜しくお願いします』
久遠ヶ原の撃退士達は、現地へ走りながら四方の言葉の意味を考える。
「こっちも向こうも時間が無い……ってカンジね。一刻一秒が命取り」
松永 聖(
ja4988)が己を奮い立たせるように、強い声をあげた。
「その時間。こっちのモノにしてみせる!」
造船所の鉄塔が大きく見えてきた。いよいよだ。
クロエ・キャラハン(
jb1839)は中山律紀(jz0021)の脇を駆けながら、提案する。
「律紀先輩、生命探知使ってもらえないかな? もしいっぱい反応があっても、じっと動かないのがハンザキじゃないかなって思うんだけど」
律紀は少し思案する。
「わかった。やってみるけど……あんまり期待しないでね。相手がヴァニタスじゃ、俺の生命探知じゃ無理かもしれない」
月夜見 雛姫(
ja5241)はその言葉を聞きながら、決意を籠めた強い目で、迫る鉄塔を見上げた。
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鉄塔と建物の並ぶ隙間に、時折強い風が吹き荒れる。
ミズカ・カゲツ(
jb5543)はその風の元であるディアボロを、静かに見つめた。
「ふむ。あの竜単体でも難敵の様ですが」
とにかく大きい。加えて、どうやら姿を隠しているヴァニタス。なかなかに厄介な状況だ。
「けれど、此方とてそう簡単に引く訳にもいきません。少なくとも風竜は打ち取らせてもらいます」
それは誰もが同じ思いだ。
頷き合うと、撃退士達は打ち合わせ通りに散開する。
風竜から見て左手となる南側の建物の陰に、ヤナギ・エリューナク(
ja0006)と律紀が身を顰める。
ヤナギが金色の目を細めた。
「律紀、お前とつるむってェのも久しぶりだな」
そして、ハンザキ。
雪深い冬の湖北で出逢ったヴァニタス。
「何企んでるのか知らねーが、遠いところまでご苦労なことだぜ。今回はちぃっとばかり俺も噛ませてもらうぜ」
咥えていた煙草を、ヤナギは惜しそうに揉み消す。
「で、どうだ? 何かわかるか?」
「今のところ動かない反応というのはないですね……」
律紀が唇を噛むのを見て、ヤナギが軽く肩を叩く。
「居ないモンは見つかんねェだろ。見つかりゃラッキーでいいんじゃね?」
敢えて軽い口調。一見斜に構えて見えるヤナギのさり気ない気遣いに、律紀の頬が緩む。
海を背にした風竜から見て真正面、西側の建物には別班が回り込んでいた。
「あの竜……そしてハンザキさんに凡人の矜持、見せてやります」
間下 慈(
jb2391)の視界に入る、黒いコートの袖に並んで空いた穴。
沢山の人の、沢山の大切なものを踏みにじってきた魔の眷属に、叶うならば今日こそひと泡吹かせてやりたい。
はやる気持ちを押さえつけ、慈はクロエを振り返った。
「準備はいいですかー?」
クロエが頷くのを見て、同時に飛び出した。……それぞれ、異なる方向へ。
クロエは風竜の真正面から、溜めこんだアウルの力を解き放つ。怯むことのない、強い視線。
「ほら、こっちですよ」
巨大な竜の鼻面を狙って、射程外からアウルの銃弾を撃ち込んだ。
風竜は身を捩るようにして大きな翼をはためかせ、低温の息を吹きつけた。
だが、充分な距離を取って下がるクロエには、いずれも届かない。
風竜はそれをを悟ると、陸へ向かって巨体を進ませた。
それを一層誘いこむように、慈のショットガンが吠える。
「いやですかー? でもまだ付き合って頂きますよー」
クロエと位置を確認しあいながら、風竜の意識を引きつけ、じりじりと後退する。
今回、冥魔達の動きは陽動だと予測されている。
それならば、主目的はここにはない。
何らかの意図を持ってここで暴れているのなら、それが達成されれば逃げる可能性が高いだろう。
それが時間なのか、それとも他の何かなのか、それは今のところわからないが。少なくとも風竜を内陸側に引きこんで、海への逃走を阻む必要があると撃退士達は考えたのだ。
進み出た竜の巨体が、北側に潜む各務 与一(
jb2342)の目前に現れた。
(……ハンザキは姿を見せないか)
与一の索敵の網に、まだヴァニタスはかからない。
警戒は続けなければならないが、まずはディアボロだ。
「じゃあ始めるよ。援護は俺に任せて。この弓が届く範囲では、好き勝手はやらせないからさ」
「頼んだわよ、与一」
聖の小柄な身体に、力が満ちる。
「まずはあんたからよ、覚悟しなさい!」
双剣を構え、聖自身が放たれた矢のように飛び出した。
狙うは、正面に気を取られたディアボロの足元。巨体故に、自重を支える足を傷つければつけいる隙ができるはずだ。
「いくわよっ!」
鈍重な風竜の足に、刃を突き立てる。
だがさすがに太く頑丈な足は、それだけでは大した傷を負ったように見えなかった。
――グオワァッ!!
竜は、遠くから撃ち込まれるアウルの弾丸に苛立っていた。
接近してきた小さな人間は、その苛立ちをぶつけるのに格好の相手だったろう。
「……ッ!!」
長く太い尾が唸りを上げ、聖の身体が吹き飛ぶ。
そのまま踏みつぶそうとするように、風竜が向きを変えた。
「おいおいどっち向いてんだよ、デカブツ」
南側から接近していたヤナギが、壁走りで竜の背中を駆け登り、その首筋に刀を突き立てた。飛び散る血飛沫が、海風に煽られて霞のように広がる。
風竜はヤナギを巨体に乗せたまま、岸壁を音高く踏みしめる。
――ギャオォオウ……!!
そのまま鉄塔に接近すると、ヤナギの乗った背中から体当たりした。
「うわッ……と!!」
咄嗟にヤナギは竜の背を離れる。
そのまま鉄塔を垂直に駆け下りるところに、風竜の尾が叩きつけられた。
「……ッ!?」
ヤナギの背に、激痛が走る。
それでも何とか、踏みつけにくる風竜の足を掻い潜り、ヤナギは一度距離を取る。
「ヤナギさん!!」
飛び出した律紀がヤナギを庇い、そのまま物影へ引きずり込む。
「大丈夫ですか?」
「ちィッ、あいつ案外頭悪くねェな……」
軽口を叩けるのは、無事の証拠。律紀はほっと息をつくと、ひとまずヤナギの怪我を癒す。
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どうにか背中のヤナギを振り払ったものの、継続するクロエと慈の銃撃を受け、風竜はもがくように翼で風を起こし、冷たい息を吐く。
その翼にも衝撃を受け、巨体が揺れた。
「ふむ。やはり翼を封じるのが早いようですね」
ミズカの刃が、翼の根元を貫いている。
「さあ、もう逃げられませんよ」
エリーゼの声と共に光り輝く鎖が幾本も現れ、風竜に絡みついた。
ミズカとエリーゼは、仲間が風竜をひきつけている隙に岸壁を透過し、背後に躍り出たのだ。
かつては相対する世界にいた二人が広げる光と闇の翼が交錯し、竜は完全に動きを封じられた。
その時だった。
『本命を見つけたよ。北の鉄塔の傍、気をつけて!』
与一の警告が耳を打つ。
エリーゼは光の翼で空を舞いながら、眼下に現れた敵を見つめる。
「あれがハンザキね……」
鉄塔に掴まった、小さく醜悪な生き物。
そのくしゃくしゃの顔は、嗤っているように見えた。
「やれやれ、図体が大きすぎるも考えものだの。お前にはまだもう少し粘ってもらわねばならんに」
耳障りな音は、笑い声だ。
初めて遭遇する者にも、それは判った。
「少し、聞きたい事があるんですが」
緊張が支配する場に、雛姫の声が響いた。
「無茶だ、雛さん……!」
ハンザキの前に無防備に身を晒す雛姫に、律紀は呻き声を上げる。
ヴァニタスには色んな奴がいる。
人間と変わりない感情や容姿をもつものもいるらしいが、少なくとも律紀の知る限り、このハンザキというヴァニタスはそうではなかった。
少なくとも、人間との会話に積極的に応じるタイプではない。
だが、雛姫は必死だった。
少しでも役に立ちたい、情報を得たい。
その為に身を顰め、只管ヴァニタスの姿を探っていたのだ。
「どうして何度も、私達に見せつけるみたいに出て来るんですか」
交戦記録から割り出されたハンザキの攻撃予想範囲の少し手前で、雛姫は足を止める。
ハンザキはただ不快な声で笑っていた。
「あなたにとって大事なものが、この舞鶴西港に……」
「だったら如何すると?」
遮るようにハンザキが言葉を発した。
「もうお前たちにできることなど何もないわ。事、此処に至ってはの」
嘲るように言うと、その姿が消えた。
いや、消えたように見えたのは、小さな身体が落ちるように鉄塔を離れたからだ。
雛姫が身構えるのと、ハンザキが尾を翻すのはほとんど同時だった。
咄嗟に飛び出した聖が、双刀を振るう。
「自分がいつも有利だと思わないことねっ!」
とにかくこちらに気を引きつけ、一瞬でも気を逸らす。
そのつもりだったが、見事かわされてしまった。まるでこちら全員の動きを読んでいるようだ。
くるりと向きを変えたヴァニタスは、鋭く尾を振る。
聖は勢いをつけ近付き過ぎていた。
雛姫はせめて一矢報いようと銃を構え直し、敢えて逃げなかった。
与一の必死の回避射撃も及ばず、聖と雛姫の全身に赤い筋が幾つも走った。
傷を負い、倒れるふたりを庇うように、ヤナギが割って入る。
「また会ったな……手前ェが覚えてるかは聞いてねーケド……っ!」
一気に距離を詰める。
そのヤナギにも、ハンザキのカマイタチが襲いかかった。
「クソッ、なんてヤローだ……!」
一撃離脱の迅雷のお陰で致命傷は免れたものの、ヤナギの肩から夥しい量の血が溢れ出す。
「まだ……話は終わってません……!」
雛姫がよろめきながら立ち上がろうとする。
その耳に、与一の優しい、少し悲しそうな声が届いた。
『残念だけど、君の言葉は届かないみたいだ』
雛姫だけに宛てた通信だ。
『ここからは戦いに専念すべきだよ。死んだら、会話を試みる事もできなくなるからね』
悔し涙に歪む視界の中、雛姫は自分に向かって走って来る少年の姿を見る。
与一は通信を切ると、即座に弓を構え直した。
「俺は弓使いの各務 与一。お相手願えるかな?」
ハンザキ目がけて、ナパームショットを撃ち込んだ。
(視力に頼らないということは、他の感覚が優れているんだね。なら、それを乱させてもらうよ)
爆音が響き、隙ができると読んだのだ。
だが、その音の中、ハンザキは迷う風もなく走り出した。その先には、風竜がいる。
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エリーゼの光鎖で動きを封じられた風竜は、反撃らしい反撃も叶わない状態だった。
既に片方の翼は垂れ下がり、まともに動かすこともできない。
「これで、どうですか」
普段のクロエの快活さはなりを顰め、まだあどけない瞳には戦士の冷徹さが宿っていた。
放った銃弾が下顎を掠める。
「もう少し……僕達は勝てますよー!」
慈はすぐそばにいるはずの宿敵の存在を振り払うように、声を上げる。
私情を捨て、自分の役割を果たすこと。それが、奴に勝つこと。
自身を特別な存在ではない『凡人』と定義する慈は、己にそう言い聞かせる。
上空から舞い降りては攻撃を浴びせ、離脱。
こうして幾度も風竜を翻弄していたミズカが、宙を舞いながら、状況を見渡す。
「ふむ、厄介ですね」
ハンザキのカマイタチに、仲間が倒れるのが見て取れたのだ。
「挟撃されるのは面倒ですね。急ぎましょう」
構えた刀に、紫焔が燃え上がる。ミズカは全身に力を漲らせ、風竜に刀の切っ先を向け飛び込んだ。
「ただ操られるだけの哀れな下僕としての生を、長らえることもないでしょう」
ミズカは眉一つ動かさないまま、風竜の喉元に刃を深々と突き立てた。
倒れようとする風竜から刀を抜き、ミズカが注意を促す。
「来ます、ハンザキです」
撃退士達は互いに距離を取る。ハンザキの範囲攻撃を一斉に食らわないためだ。
だがハンザキは、撃退士達の脇を素早くすり抜けると、風竜の身体によじ登った。
そこで初めて、ディアボロがもう使い物にならないことを悟ったのだ。
「まあよいわ。役目は充分果たしたわの」
意外にも、どこか労うような響きが籠る声だった。
ヴァニタスはあり得ない方向に首を傾け、周囲をぐるりと見渡す。
「成程、覚えのある匂いがすると思えば……」
くっくっと、しわがれた笑い声が漏れた。
慈は、長らく追いかけてきた敵の姿をじっと見据える。
今になって分かったのだ。
このヴァニタスは、視覚でも聴覚でもなく、嗅覚を頼りに行動していたことを。
その為夜の闇を好み、初めての場所では案内役を必要としていたのだ。
「ハンザキさん、観念してくださいねー。もう逃げ場はありませんよー?」
風下に回り充分な距離を取りつつ、銃を構えた。
クロエとミズカはただ黙って、再びアウルの力を溜めて行く。
与一の弓が、ひたとハンザキを狙い澄ます。
張りつめた空気の中、寄せては返す波の音がいやにのんびりと響き渡った。
その空気を切り裂いたのは、エリーゼによる空からの一撃だった。
(当たらなくてもいい、ほんの一瞬気を逸らせることができれば……!)
焔の剣が、ハンザキの目前に突き立つ。
それを合図に、銃弾が、矢が、そして光の槍がヴァニタスに襲いかかった。
さしものヴァニタスも隙間なく降り注ぐ攻撃に、避ける先がない。
大きく跳ねた身体が風竜の上から転げ落ち、岸壁のコンクリートに叩きつけられた。
じわじわと血溜まりが広がって行く。
終わってみれば、呆気ないものだ。
そう思った時だった。
光信機を通した律紀の切羽詰まった声が、それぞれの耳に響き渡る。
『皆、すぐに離脱を……!』
その理由は明らかだった。
目の前に広がる青い海。そこに突然、巨大な光の柱が立ち上ったのだ。
呆然と立ちすくむ撃退士達の足元から響く、か細い笑い声。
「……ついに……時は来た……! わしはここで、失礼いたしますぞ……」
誰に宛てたものか判らない言葉を最後に、ヴァニタスは息絶えた。
一つの終焉。
それは次なる戦いの開幕を告げるものだった。
<了>