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船はエンジン音を響かせ、暗く静かな海へと滑りだした。
黒くうねる波の上に、心許ない小さな明かりが揺れる。
何処から現れるか判らない敵を迎え撃つべく、撃退士達は今までの事件の状況を再現し、誘き出すことを選んだのだ。
「上手くかかってくれればいいのですがね」
操船を担当する撃退署の四方が、前方を睨む。
各務 与一(
jb2342)は波間に意識を飛ばしつつ、答えた。
「もしポイントに到達してもかからなければ、エンジンを全開にするか……これを使いましょうか」
手にしたのはスマートフォン。船の機器に接続し、大音量で音楽をかけるのだ。
これまで舞鶴に現れた敵は、騒音に釣られて出てくることが多い。
「前回の出現状況の再現ですね。静かな海とは程遠いでしょう、これなら」
船の僅かな明かりを受け、潮風に煽られるミズカ・カゲツ(
jb5543)の銀の髪が輝いていた。
「ふむ。港を出ようとする船のみを襲っているのには、何か意味がありそうですね」
だが今はそれに思いをはせるより、先にやることがある。
これまでの被害の影響も大きいが、現在まだ舞鶴港は機能不全に陥っている。
一日も早く脅威を取り除かねばならないのだ。
「索敵は俺がやる。ミズカちゃんにはフォローをお願いするね」
与一は僅かな明かりを頼りに、暗闇に鋭い視線を投げた。
「判りました。私も充分に注意します」
ミズカは静かに頷いた。
今回は地上とは勝手の違う海の上だ。
天魔は普通、地中からは来ない。普段の戦闘では、足元に気を配ることはほとんど不要なのだ。
だが船底の板一枚の下に、今、ディアボロが息を顰めているかもしれない。
波の音、風の運ぶ匂い。ほんの僅かの変化にも気を配る。
舞鶴港の周辺に出没するディアボロ達。
それを率いているというヴァニタスに、間下 慈(
jb2391)は覚えがあった。
「ふむ、そうですか。ハンザキさんと仰るのですかー」
漁船の操縦席の丸い窓から暗い海を見据える。
落とさないよう拳銃を固定した右手が、無意識にコートの片袖をさすった。
大事な物に疵をつけられたことは、今でも許し難いことだった。
だが今は目前の任務に集中する。きちんと仕事をこなすことが、奴をいつか引きずり出すことに繋がると信じて。
「あー、どうですか、聞こえてますかーちゃんと救命胴衣着ててくださいね? ないよかましですからねー」
ハンズフリーのマイクを通じ、他の船の仲間の了解の声が届いた。
「なんだかあいつは……危険な匂いがする」
松永 聖(
ja4988)が呟いた。
集魚灯はあるだけ点灯しているが、夜の海面を照らすには余りに弱々しかった。
「今回はあっちが仕掛けて来ない限り、様子見かな」
勿論、来ないと言い切れる訳ではない。警戒は必要だろう。
月夜見 雛姫(
ja5241)は両手に拳銃を構え、油断なく周囲を見渡している。
(ハンザキさん……どうして舞鶴港に固執するのかな)
出発前に読みこんだ、撃退署の四方がくれた資料から、その理由は充分推察できた。
だが、どうすれば敵を止められるのか。
今はまだ、それも判らない。まずは目前の脅威に対処するしかないだろう。
「地図によると、もうすぐのはずですね」
船に取り付けられたGPSと照合し、改めて神経を研ぎ澄ます。
一番最後に出港した船を操縦するのは、中山律紀(jz0021)だ。
船の縁に捕まり、クロエ・キャラハン(
jb1839)は港を振り返った。
桟橋につなぎとめられた多くの船は、眠るように静かに波間に漂っている。
ほとんどが入港した後、出られなくなった船だ。
「来るのはいいけど逃さない。やっぱりゲートかな?」
「もしそうだとしても。こんなところでは立ち止まれないんでね」
浪風 悠人(
ja3452)が狭い船の上で身を屈め、操縦室に入った。
「中山さん、良かったらこれ使って。暗い場所で役に立つから」
夜間の視界を確保するナイトビジョンを手渡す。
「ありがとう、助かります。じゃあ遠慮なく借りますね。壊さないようにしなくちゃ」
律紀が嬉しそうな笑顔を向けた。
「お互い頑張りましょう」
そんな会話を耳にしながら、浪風 威鈴(
ja8371)はただ黙って海を眺めていた。
ハンザキというヴァニタスの目的。クロエの言う通り、何かこの先に待っている、大きな出来事があるのかもしれない。
それでも。
「今は……やれる……こと……しなきゃ」
ほんの僅かの間目を伏せ、呼吸を整える。
船は目指すポイントに差し掛かりつつあった。
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進路の両脇には、真っ黒い小山のように見える横波鼻と三本松鼻がせり出していた。
港への出入り口となっているここは海流が複雑である。
大きな波が盛り上ると、小さな漁船は持ち上げられ、また落とされた。
「自分で操縦しててなんだけど……さすがに船酔いしそうだよ」
律紀がややげんなりした様子でこぼしながらも、何とか船を操る。
また大きな波が押し寄せてくるのが見え、律紀が身構えたそのときだった。
「来たようですね」
悠人の全身が青白い光に包まれ輝きを放つ。手には白夜珠。
「船を止めてください」
「了解。錨を下ろします! こちら中山。敵と遭遇……」
律紀が仲間の船に連絡している間に、黒い大波は滑るように距離を詰めて来る。
クロエが唸った。
「一体じゃないみたい」
夜の暗さを物ともしないナイトウォーカーの術を持ってしても、海中の敵の姿は捉えにくい。
それでも敵が一体ではないことは判った。
「他の……敵……」
威鈴の表情が険しくなった。
足元のおぼつかない海での戦闘。戸惑いがないといえば嘘になる。
だがまずは自分の役割を全うしなければ。灰燼の書を手に、バランスを取りながら船の上を移動する。
波間の黒い小山が大きく盛り上がる。
と、一本の太い足が、船を抱えようとするように伸びた。
「どっちだ!?」
悠人の手元から、白刃が飛び出す。
盛り上がった黒い巨体に白刃が吸い込まれるように消えると、伸びていた足がしなり、海面を打った。
「効いているのか……じゃあタコの方か!」
再び海中に潜ろうとする大ダコに、クロエはファイアーワークスで攻撃を仕掛ける。
「行きます!」
花火の爆発のような色とりどりの光と波飛沫が飛び散った。
逃げ切れないと思ったか、ディアボロは長い触手をクロエを抱え込むように伸ばしてきた。
「汚い足で触らないでください。この頭足類」
クロエは魔法の刃を備えた大鎌を振り上げ、一本の触手を薙ぎ払う。
「クロエさん、難しい言葉知ってるね……?」
律紀が残る一本の触手に槍を撃ち込む。
以前のデータを見る限り効果は薄いかもしれないが、ひとまずはクロエから遠ざけねばならない。
「なるべく本体に近いところを狙いましょう。足先を狙うのは効率が悪い」
悠人が白珠に念を籠める。輝きを増す青い炎が、一喝と共に激しく迸り出た。
封砲の一撃が見事に決まり、足が吹き飛ぶ。たまらず大ダコはクロエから離れた。
「よし、やったぞ」
しかしそれは、次の行動の準備でもあった。
勢い良く噴き出された海水を、狭い船上で避けるのは至難の業だ。
「きゃっ……!」
まともに食らったクロエが、眩暈を起こし座りこんだ。
「逃がし……ません……」
威鈴の魔法書から炎の剣が浮かび上がり、光輝を残しディアボロに突き刺さる。
「よし、この調子なら……!」
悠人の追撃。タコが足で激しく波を打ちつけた。大きな揺れが、船を揺らす。
だがそれも断末魔の足掻きだった。
やがて長く伸びた足を揺らし、ぽかりと浮いた黒い頭が横倒しに浮かび上がる。
「他の……船は……大丈夫?」
威鈴の声に、クロエを助け起こしていた律紀が、操縦室に飛び込んだ。
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目標のポイントに近づくにつれ、慈は船のエンジンをわざと音高く噴かしていた。
そこに律紀からの通信が入る。
「やっと出ましたねー」
敵が何なのかは判らない。だが大きく船を旋回させると、漁火目指して突き進む。
「さて、どっちが先に来ましたかねー?」
闇の彼方に、漁船のものではない光が瞬くのが見えた。
既に戦闘に入ったらしい。
船を近付けると、太い足をばたつかせるディアボロの姿が確認できた。
身を乗り出した聖が口を尖らせる。
「また現れたわねっ、あのタコっ! 今度こそ八つ裂きにして酢の物にでもしてやるんだからっ!」
残念ながらそれはちょっとお勧めできない。もちろん聖にしても、本気ではないのだろうが。
「一匹だけ? 他は?」
「……いましたよー。攻撃は頼みますよ」
慈が大きく舵を切った。振り落とされないように、聖と雛姫は姿勢を低くして船縁にしがみつく。
長い足を漂わせ、タコ型と戦う船に接近する巨大なクラゲ。
「滋賀県民を……いや、間下家舐めんなッ!」
その進路に慈は船を回り込ませた。
このクラゲを操る存在、故郷を踏みにじった存在が近くにいると思えば、熱くもなろう。
「見えたわっ」
大きな傘のように波間に白い身体が浮かんだと思うと、細い紐のようにしなる触手が伸び上がる。
聖は双剣を手に立ちあがった。
「まずは、あの足を切り落として行かなくちゃね!」
まともに電撃を食らっては、撃退士といえどさすがに厳しい。万が一麻痺したまま船から落ちるようなことがあれば、クラゲの餌食だ。
「この……っ!」
鋭い剣先が翻る度に、触手が次々と跳ね飛んだ。
「こっちは任せてくださいー」
慈も回避射撃で、自分に近い側から聖をサポートする。
だが弱く細い触手は、次々と伸びて来るのだ。
(足を追いかけてもきりがない……何とか本体を狙撃できれば)
雛姫は暗い海に浮かぶ、白く丸いクラゲの頭を見つめる。
的は大きい。だが闇雲に撃っても、致命傷にはならないだろう。
その間に、ついに無数に伸びるかのような触手の一本が、聖の腕を捉え巻きついた。
「つぅ……ッ!!」
全身を走る激痛に、聖が思わず膝をつく。
何とか斬り払って逃れようとするも、身体がいうことをきかない。
聖の身体が船の上で引き摺られる。クラゲがまるで勝ち誇ったように、絡みついた触手を引き寄せる。
その瞬間、チャンスを待っていた雛姫の目には、クラゲの傘が歪んだように見えた。
傘の内側が船を向いたのだ。
「そこっ……!」
雛姫は無数の触手の根元、おそらくはディアボロの急所を狙って銃弾を撃ち込む。
幾本もの触手が千切れ飛び、銃弾がクラゲの傘を貫いた。
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ヘッドセットから届く状況報告に、四方が緊迫した声を出す。
「気をつけてください。おそらく近くに別のがいるはず」
与一は『索敵』で周囲を探る。
『索敵』はそこにある程度の大きさの生物がいることは確認できるが、それが何かまでは判らない。
その網に、波間から頭を覗かせる何かがかかった。
――敵なのか。それとも、魚か何かなのか。
与一は目を凝らし、相手の存在を確かめようとする。
そのほぼ真下、船の陰。白い物体が、徐々に大きくなってくるのが判った。
「来たよ。船から見て四時の方向。ほぼ真下」
言うが早いか、船縁に足をかけると弓を引き絞り、強烈な魔法の一矢を放つ。
波が泡立ち、飛び散った。クラゲは急速に浮かび上がってくると、無数の長い触手を船へと伸ばして来る。
「ふむ。電撃ですか……厄介ですね」
ミズカがナイトビジョンの位置を直す。気を溜める術に、身体を包む銀色の光が輝きを増す。
「何れにしろ、私にできるのは斬る事だけです」
ここぞという一瞬、抜刀・煌華を抜き放つ。
昼間のごとき眩い光が弾けると、白銀の刃がディアボロを切り裂いた。
「これでも食らえ!」
ミズカに合わせ、四方が片手に持った符に念を籠め、炎の礫を叩きつける。
クラゲの丸く白い傘に幾つもの穴が空いた。
無数に見えた触手は千切れ、長さもまちまちになっている。
それでもまだクラゲは逃げ出さなかった。逃げるという行動を選ぶだけの知能すら与えられていないのかもしれない。
ミズカはその存在をよく知っていた。誰かの思いつきで作られた、哀れな存在。
だからこそ、完全に断って解放してやるのだ。
建御雷を具現化し、闇の翼でミズカは宙に浮かび上がる。
「これで終わりです」
落下するように一気にディアボロに向かって舞いおりると、思いと力を籠めた刀を突き込んだ。
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海面には長々と三体のディアボロの躯が浮かんでいた。
(これで本当に終わりなのかな……?)
雛姫の抱く懸念は、他の皆も感じたことだっただろう。
そして嫌な予感ほど当たるのだ。
「毎度勤勉なことだの。そなたらには感心するわい」
しわがれた耳障りな笑い声が海面から響く。
慈が船から身を乗り出した。
――忘れもしない。あいつだ。
タコ型ディアボロの巨大な頭の上に、ずんぐりとしたオオサンショウウオの身体が張り付いていた。
判っている。向こうが手を出してこなければ、こちらから手出しはしない。皆でそう決めたのだから。
逸る気持ちを押さえ、普段通りの口調になるよう、慈は声をかける。
「ハンザキさんですかー、ちょっとお話しましょうよー今日は貴方と戦う気しないんですー」
手は出さないが、可能ならば少しでも情報が欲しい。
相手が語ることを全て信じる訳ではないが、何か手掛かりが得られれば。
「前には琵琶湖にいらっしゃいましたよねー? 広さ以外は海よりずっといい湖だと思うんですけど、わざわざこちらに来られる用事があったんです?」
黙って聞いていたハンザキが、笑い声を漏らす。
「それを聞いてどうする?」
危険な気配。それを、その場の全員が嗅ぎ取った。
「贄にもならぬ物どもが、しつこく邪魔立てしおってからに」
ハンザキが小さな身体に力を籠めるのと、聖が船の後ろについたエンジンに覆いかぶさるのはほとんど同時だった。
空を切る鋭い音。聖の身体がズタズタになるかと思われた瞬間。
見えない刃は何処へか逸れて行った。
威鈴と与一が同時に放った回避射撃が間に合ったのだ。
そしてその間にハンザキは海中へと消えていた。
船がようやく港に戻ってくる。
銃を手にした威鈴は、人が変わったように厳しい口調になっていた。
「あんた死にたいのか!」
「船ごと沈んだら困るじゃない!」
聖が言い返すと、与一が微笑んだ。
「助けてくれて有難うね。そしてこの弓も命を救うために。与一の名にかけて、誰もやらせはしないよ」
雛姫は船を降りるや否や、真っ直ぐ律紀に駆け寄り飛び付いた。
「ひ、雛さん!?」
さっきまでの冷静なスナイパーは何処へやら、縋りつき泣きじゃくる姿に、律紀はただ頭を撫でるしかなかった。
どうにか落ち着いたところで、ハンザキがカマイタチを使う瞬間にマーキングを撃ち込んだことを報告する。
「以前の、由良川河口の方角ですか……」
四方が地図に落とし込んだ情報に唸り声を上げる。
それは更に大きな災厄の前触れだったのだと、後に知れることになる。
<了>