●懸念
人気のない砂浜に、夏の日差しが降り注ぐ。波音が遠く響いていた。
この時期の海水浴場は、本来ならば笑い声に満ちていただろう。
「封鎖は完了しているようですね」
浪風 悠人(
ja3452)はひとまず安堵する。
警察と撃退署は、一般人の立ち入りをきちんと制限してくれていた。
がらんとした綺麗で明るい海は、どこか寂しげだ。
「たくさんの犠牲者が出てる事だし、早く何とかしなきゃ、ね!」
松永 聖(
ja4988)が、虚しく並ぶ、片付けられた屋台や海の家を見渡した。
クロエ・キャラハン(
jb1839)の表情からは、普段の快活さが消えている。
「大勢を皆殺しね。数が多いか足が速いか。それとも範囲攻撃持ちか、かな?」
ここに来るまでの間に、急遽過去の事件の資料を取り寄せてもらった。
一連の事件と思われる現場は、現在三ヶ所。
かつて貝型のディアボロが出現した現場四ヶ所と、これまでは一致している。
残る一ヶ所がここ、舞鶴港の西側、由良川河口に近い海水浴場だ。
それぞれの事件現場で被害者が発見された位置と分布、倒れた方向。岸壁や砂浜に何か痕跡はなかったか。被害者の人数には行方不明者が含まれているか否か。
それらの情報を直接の依頼人である撃退署の四方は、可能な限り集めてくれた。
「場所は海辺、丸い痕はタコとかイカとかの吸盤なのかな。切り傷の方は別の攻撃方法? それとも、違う敵?」
クロエの言葉に、聖も考え込む。
(犠牲者の情報から行くと、同個体の攻撃とは考え難い……わよね)
情報は多くはなかった。
だが四方のくれた資料を見る限り、いくら一般人とはいえ、一体の敵による攻撃と考えるには無理がある。
(別の敵の存在……)
以前に別のディアボロを、これ見よがしに出現させた場所。
撃退されたにもかかわらず、その同じ場所にまた出現する何らかの天魔。
「ディアボロを操ったか、作った存在が近くにいるかもしれないってこと……?」
「だとしたら何が目的かな。手下の性能試験?」
クロエがやや冗談めかして続けた言葉は、撃退士達の背筋を寒くする。
「もしかして、ゲートの設置場所の下調べのつもりだったりして?」
重い空気を振り払うように、聖が伸びをした。
「何にせよ、水中からと陸上から、どちらにも気を配った方が良いわね」
「ほとんど情報の無い状態です。何が起きてもおかしくありません」
それまで静かに目を伏せていたミズカ・カゲツ(
jb5543)も頷く。
「此度の依頼は情報収集が目的です。無理や深追いはせず、常に撤退することは視野に入れておくべきでしょう」
必要以上に恐れることなく、しかし侮ることもなく。どんな事態にも対応できるように、冷静であれと。
夕刻に再度集まることを確認し、それぞれが事態に備える。
「私が気にし過ぎているんでしょうか」
月夜見 雛姫(
ja5241)が作業の手を止めて、中山律紀(jz0021)に尋ねた。
「どうかな。でも皆が、それぞれ最善だと思うことをやってることは間違いないと思うよ」
雛姫は少し目を上げて、律紀を見る。
何処がという訳ではないが、何となく覚えのある、懐かしい雰囲気の笑顔。
「……何事もなければ一番なのですが」
雛姫は軽い溜息と共に立ち上がり、砂浜を見渡した。
ここに来るまで雛姫が考えていたプランは、一部変更を余儀なくされた。
潮の干満により波の到達する位置は違う。その為、海辺の建造物はかなり海岸線から離れた位置にあった。
長い射程を生かした支援を考えていたが、海の家などは利用できそうもない。
海水浴客がいない為に砂地にあげられたボートを、代わりに使うしかなさそうだった。
「では、後はよろしくお願いします」
「判ったよ、月夜見さんも気をつけてね。くれぐれも無理はしないで」
律紀は悠人に呼ばれ、駆けて行った。
●夜風
昼の熱気を溜めこんだ海が、生暖かい潮風を陸に送り込む。
夜空の下、海は黒々と広がる。東の空にかかった月が、波間に金色の光を投げかけていた。
「じゃあ始めますよ」
『了解。何か変わったことがあったら、すぐ退避してください!』
悠人のイヤホンに、律紀の声が届いた。
手を振る悠人の姿を、各務 与一(
jb2342)は少し離れた岩陰から静かに見守る。
(リスクが高いのは間違いないのだけど。状況が状況だし、被害はここで食い止めないと)
穏やかな表情は普段と変わらないが、内心にはこれ以上命を奪われまいという決意がある。
これまでの記録によると、敵が出現するのはほぼ夜半過ぎ。
悠人はナイトビジョンを装備し、既に小一時間、波打ち際を散策していた。
だが穏やかな海には、なんの異状も認められない。
そこで次の段階に移ることにした。
襲われたのは、海辺で騒いでいた人々。
ただ待っていても敵が現れない以上、状況を再現するのが早いだろうと思われた。
悠人は砂浜に座り込み、持参した花火に次々と火をつける。
火薬の爆ぜる高い音が響き、光の筋が幾本も海に消えて行った。
「できれば依頼じゃなくて、遊びに来たかったなあ」
山に囲まれた町で育った悠人は、海に特別な憧れを抱いている。
潮の香り、足に絡む砂の感触。それらを楽しむ余裕もないのが少し残念だ。
与一がスマートフォンの音量を最大にして、明るく賑やかな音楽を辺りに響かせる。
それから暫く立った頃。
「来るなら来い! というか早く来いよ!」
膝のあたりまで波に浸かった悠人は、半ば自棄になりながら声を上げ、花火を振り回していた。
「……来たっ!」
聖が、ナイトモードに設定した携帯電話を構える。
ナイトビジョンで確保された視界に、不自然に盛り上がる波が見えた。
「でかい……!」
まるでそこだけ、高波の様に。
盛り上がった海面が、猛烈なスピードで悠人に迫り来る。
「出ました、気をつけて!」
悠人の身体が、夜光虫を纏ったかのような青白い光に包まれた。
そのまま陸に向かって駆け出すと、黒い波がぴったり追いかけて来る。
「これって……」
真っ直ぐ駆けて来る悠人には見えない背後に、聖と与一が見た物。
黒い波と見えたのは、高さ三メートルほどもある巨大な丸い物体だった。
波を蹴散らし陸に上がると、黒い物が悠人に伸びる。
「敵は浪風さんから見て七時方向、距離二十……いや、十メートル」
与一が阻霊符に力を籠め、『夜目』を駆使して敵の姿を捉えた。
「動きが速い。浪風さん、気をつけてください!」
悠人は向き直り、正面から敵の姿を確認する。
その瞬間、長く太い物が悠人に向かって鋭く振り下ろされた。すんでの所で大鎌で受けるも、その衝撃はかなりのものだ。
「やっぱり、タコか!!」
砂浜に足をめり込ませ踏みとどまる悠人。そこにまたも太い足が迫る。
悠人は大鎌を打ち下ろし、自分の脚に巻き付く足に叩き付けた。
千切れた足が、砂を巻き上げながら跳ね回る。だがすぐに次の足が、悠人を狙う。
●演舞
「限界ね!」
カメラを収めると、聖が飛び出した。
タコ型のディアボロに一気に駆け寄ると、跳躍。頭上目がけて直剣を突き立てる。
だが敵の肉を貫く確実な手応えはなく、ぬるんと異様な感触と共に刃は押し戻された。
「……刺さらない!?」
サイドステップで距離をとり、聖は唇を噛む。
与一が長大な青い和弓を引き絞り、ひょうと矢を放つ。
飛びゆく矢は綺麗な放物線を描いて、確実にタコの足の付け根に突き立った――と見えたが、やはりタコに変わった様子はない。
「物理攻撃は効かない、あるいは効き難い、ということでしょうか」
与一が軽く眉を顰めた。
クロエとミズカは、海岸べりからやや離れた所でその光景を見守っていた。
複数の敵の存在を予想していたのは、皆同じだ。
だからこの機に乗じて、別の敵――ひょっとしたら、相当厄介な――が襲撃して来ることを警戒し、暫くは感覚を研ぎ澄まし、周囲を窺っていた。
だが、海から現れたのはかなりの強敵だった。
「仕方がありませんね」
ミズカは静かにアウルの力を身体に漲らせる。白銀に輝く豊かな毛並みの尾が、ゆらりと現れた。
「……物理攻撃が効かないというなら」
光り輝く阿弥陀蓮華の小ぶりな刀身を構え、猛然と飛び出す。
一息に距離を縮めると、蠢く足に一撃。と同時に、距離をとる。
ミズカを追って向きを変えたディアボロは、反対側からの痛撃に足をばたつかせた。
「やっぱり魔法の方が効く感じかな?」
足の届かない位置を計りつつ、クロエが護符を手にタコの暴れる様を観察する。
「とりあえず足は減らしておいた方が楽よね」
護符に替え、長大な鎌を手に、クロエが敵との距離を詰める。
視界に問題はない。
先の攻撃で傷ついたと思われる、動きの鈍い足目がけて鎌を打ち込む。
その時。
「うっぷ……!?」
タコが何かを浴びせた。冷たい衝撃を受け、クロエの身体が思わずよろめく。
敵は好機と見てクロエに接近しようとしたようだ。
だがそこに、隙ができた。ミズカが牽制の一撃を叩きこむ。
「早く、今のうちに」
共に素早くその場を離れる。
「スミまで吐くなんて、本当にタコだよね……あれ? スミじゃない?」
クロエが気味悪そうに首を振り、顔を拭う。
「でも動けなくなるようなのじゃなくて、助かったかな」
「大変でしたが、収穫ですね」
ミズカがほんの少しだけ眉を動かし、気の毒そうにクロエを見た。
●遭遇
雛姫はその間も、船の上で暗幕をすっぽりと被り、息を顰めていた。
今のところ、タコの対応は手が足りている。
ならば、他の敵の接近を探るのが自分の役目だと思ったのだ。
念のためにちょっとした仕掛けも周囲に張り巡らせてある。
糸で繋いだ紙コップを、砂に突き立てたケミカルライトに被せたものだ。
どんな微かな動きも見逃すまいと、神経を研ぎ澄ませ、仕掛けを見つめる。
雛姫の鋭い聴覚に、微かな音が届く。
紙コップが何かに潰されるような、乾いた音。背後から。
雛姫は索敵を使い、そちらに意識を向けた。
その瞬間。
「!!」
空を切り裂く音。バラバラになった暗幕の隙間から見える月の光。
咄嗟に向けた銃口から放たれたアウルの銃弾が、闇に光の尾を引いて飛んでいった。
砕けた船の中へと、雛姫の身体が落ち込んで行く。
「やれやれ。さすがに此度は、一人とはいかなんだか」
笑いを含んだ、耳障りなしわがれ声。それは思いの外、低い位置から届いた。
割れた板の隙間から、敵の姿を見る。
月の光を浴びて、てらりと光る身体。
それは大きなトカゲのようだったが、声の漏れる場所にあるのは小さな人間の頭。
水掻きのついた足で踏みしだかれたケミカルライトの緑の光が、異様な陰影をその顔に浮かび上がらせた。
「臭うの。……あと五人か」
くぐもった笑いが響いたと思うと、砂の上を滑るように移動して行く。
雛姫は痛む身体を必死の思いで起こすと、辺りに目を凝らした。
どうにか花火を拾い上げ、素早く点火。
「みんな、逃げて!」
拍子抜けするほど軽い音が、空にこだました。
花火の音と雛姫の警告に、緊張が走る。
クロエは視界に入った敵の姿に、例えようもない嫌悪感を覚えた。
「何……これ……!」
おぞましい姿。押さえていた感情が、身の内にこみ上げる。
だが勿論、ぼんやりしていた訳ではない。
気を取り直すと、タコ型の敵に土産の一撃。すぐさま距離をとる。
「まさか、あいつは……」
与一の表情が緊張に引き締まった。
雪の降る頃、出動した依頼で仲間が遭遇した敵の特徴と、そいつは余りに似通っていた。
「何であっても、射抜いて見せるよ。与一の名に賭けて」
素早く弓を番え、一矢を放つ。
確かに、矢は当たったかと思われた。
だが人面のトカゲは、耳障りな声で笑っている。
「おお、怖。これは油断したわい」
するりと身を翻すと、あっという間に巨大なタコの足の陰へと滑りこむ。
●砂塵
「月夜見さんっ!? しっかり!!」
律紀が壊れた船から、雛姫を引き出す。
船ごと斬撃に晒された身体に手をかざすと、雛姫が呻きながら身を起こした。
「私は大丈夫、たぶんヴァニタス……トカゲみたいな……」
「トカゲだって?」
律紀の頬に緊張が走る。
「それはちょっと、やばいかもしれないね」
呻くように呟くと、雛姫の指さす方へ身を低くして駆け出した。
聖がディアボロを見据える。
距離を取り、ボーティスウィップで少しずつ弱らせるつもりだったが、ヴァニタスが合流したとなるとのんびりしていられない。
「締付けは怖いんだけど……しょうがないかな」
意を決して接近。掌底を見舞うと、そのまま離脱する。
砂地に引きずられたような跡を残し、大きなタコが海側へと押しやられた。
「そろそろ潮時ですか……でもその前に」
タコの足が届かない位置で、悠人は弓を構えていた。
その身体を覆う青白い光がひと際輝く。
相対するのは正面の敵。凄まじいアウルの奔流が襲いかかった。『封砲』の直撃を受け、ディアボロは身を捩る。
「そちらの。口がきけるなら、名前位は聞いておきたいですね」
油断なく弓を構えたまま、悠人がヴァニタスと対峙する。
「名前? わしの名前か? それを聞いてどうする」
ヴァニタスが笑う。
「まあよい。どうせ名に意味などないわ。今はハンザキと呼ばれておるが……」
ぐるり。
ヴァニタスの小さな顔が、あり得ない方角へ曲がった。
――キン!
空気を切り裂く鋭い音。
「うっ……!?」
悠人の身体から、幾筋もの赤い飛沫が飛び散った。
ほぼ同時にミズカが飛び出し、薙ぎ払いをしかけた。
当たれば幸い、当たらずともほんの一瞬、気を逸らせれば。
そして効果を確認するのは、飛び退ってからでよい。
「ふは、は……これはこれは」
ミズカの斬撃は、ヴァニタスを守るように伸びたタコの足に阻まれていた。
切り離された太い足が、波を蹴立てて跳ね回る。
「本来は誰も生かして返す訳にはいかんのだが。少し甘く見過ぎたの」
面白そうに笑う声。
「こいつ一体では荷が重かろう。ここは退散するしかないの」
その声に応えるように、ディアボロが身を引いた。
激しく吐き出された水に砂が舞い上がり、視界を覆う。
――それはほんの数秒だっただろう。
だがその数秒の内に、ディアボロの巨体は波間に漂っていた。
「……っ痛!」
与一に助けられ、悠人が砂の上に起きあがる。あちこちが痛むが、動けない程ではない。
「やられましたね。でも、次はこうはいきませんよ」
悔しそうに悠人が呻いた。
「中々厄介な敵ですがね」
与一が頷く。
今は無理して深追いするべきではない。
だがヴァニタスがここに現れたことには、理由があるはずだ。
そしてその理由がある限り、この海に平和は訪れない。
――ならば、次こそ。
その視線の先、波はただ穏やかに月の光に輝いていた。
<了>