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マスター:樹 シロカ
シナリオ形態:イベント
難易度:易しい
形態:
参加人数:20人
サポート:2人
リプレイ完成日時:2017/09/06


みんなの思い出



オープニング

●白昼の白

 京都の夏は暑い。
 周囲を山に囲まれた盆地を川が流れ、気温も湿度も高いため、ものすごく暑い。
 濃い緑に彩られた古都には、今日も陽炎が揺らめいていた。
 中山律紀(jz0021)は開け放した窓から、その様子を眺めた。
「なんかあっという間で、それなのにものすごく長い時間が経ったみたいな……不思議な感じだよね」
 京都駅近くのタワーも白く揺らめいていた。
 その向こうには、美しい庭園を持つ神社があるはずだ。
 建物の中からは見えないが、左手(東側)には東山、その北側の比叡山を越えれば滋賀県だ。そして右手(西側)には中京城がある。
 激戦はこの地に始まり、この地は最後まで激戦の中にあったのだ。
「でも、こんな風にゆっくり遊びに来ることができて、良かったよね」
 律紀の言葉に、大八木 梨香(jz0061)も頷いた。梨香の実家は京都市内にある。
「そうですね。なんとなくですけど、街の雰囲気も穏やかになったような気がします。自分の気持ち次第なのかもしれませんが」
 律紀は何かを思い出したような苦笑いを浮かべた。
「あー、うん。一応は試験も終わったことだしね。でも落ち着かないうちの前倒し試験って、もうちょっとこう……優しさがあっても良かったよね!!」
 とはいえ、それも終わってしまえばあとは野となれ山となれ。

「ところでさ、大八木さんは大学部に残るの?」
「はい、少し勉強したいことができましたので。資格を取ろうかと」
「お。やっぱり司書?」
「いいえ。……心理カウンセラー、です」
 律紀が少し意外そうに梨香を見る。本にかじりついているか、斡旋所でバイトしているかのイメージの同級生から、意外な言葉が出てきたからだ。
「理由とか……教えてもらっていい?」
 梨香はいつも通りの表情で、ちょうど斜め前に座る一団を見やった。
 そこに神妙な顔つきで座っているのは、人類側に降りたシュトラッサーの小青(jz0167)である。両隣には現在の彼女の主である堕天使の少女ティンベル、同じく堕天使の青年ネフラウスがいた。
「……堕天使も、はぐれ悪魔も、感情を持っていますから」
「え?」
 梨香が困ったような笑いを浮かべる。
「そんなことが自分にできるかどうかわからないんですが」
 梨香の友人は、身内を天使に害された。だが人類と天魔との和解という事実は受けとめなければならない。
 そして堕天使やはぐれ悪魔も、身の置き処に悩んだり迷ったりする。 
 それを知った今は、せめて悩みに耳を傾けるひとりになれれば……そう思ったのだという。

「えっとでも、自分の心を整理したいっていうのもあるので、まだまだこれからなんですけどね」
 人は変わっていく。他人との接触を好まなかった梨香が、このような考えを持つようになるとは本人も想像すらしなかったことだろう。
 今度は、梨香が律紀に尋ねる。
「中山さんはどうされるんですか?」
「俺?」
 律紀は頭を掻いた。
「んー、実はまだ迷ってるところなんだ。久遠ヶ原に残って、先生になれたらいいなあって思いはじめたんだけどね」
 かつては、祖父の仕事であった陶芸家という道をぼんやりと思い浮かべていた。
 だが、自分にできること。そして自分にしかできないこと。
 それが何か、戦いの行方が見えた頃からずっと考えていたのだ。
 そして思い付いたのは、自分の経験を伝える仕事だった。
「ふふ、似合いそうですよ。お兄さんみたいな感じでとっても慕われそう」
「……それって、大学は無理ってことかなあ」
「えっ」
 一瞬の間。
 それを打ち破ったのは、一学年上の梨香の友人、山本若菜の声だった。
「はいはーいおふたりさん、なんかいい話っぽくまとまってるけども! ちょーっと現実見てね?」
 若菜の言葉を待っていたかのように、仲居さんたちがなだれ込んできた。
 それぞれが湯気を立てる土鍋を持っている。
「ほんま堪忍しとくれやす。このタイミングでクーラーが壊れるやなんてねえ。でも夜には直るいいますし。久遠ヶ原の学生さんがお泊りで、助かりますわあ」
 仲居頭の言葉に、一同が黙りこむ。

 今回、試験打ち上げとして、有志による京都旅行が企画された。
 大学部の星徹子教授のコネで、お盆の時期の京都に市内のホテルを確保できたのは実に幸運だった。
 だが不運は突然やってくる。
 同じホテルで昼食を取る予定だった外国人の団体観光客が突然のキャンセルとなり、『キョートといえばトーフでしょ!!』と用意された湯豆腐コースが浮いてしまったのだ。
 ――よし、これを平らげてくれたら宿泊費をタダにしよう!
 旅館側のこの提案を喜んで受け入れたところ、驚いたことにクーラーが壊れてしまったのである!

 梨香が咳払いをして立ちあがる。

「皆さん、今回は打ち上げ旅行へのご参加、有難うございます。旅行代金の分、美味しいお豆腐をいっぱい召し上がってくださいね!」
「「「うわーーーーーい!!!!」」」

 変わるもの、変わらないもの。
 久遠ヶ原学園の学生達に、平穏無事という言葉は遠いようだった。


●想いの還る先は

 夜の街を照らす明かりも、深山には届かない。
 黒々とそびえる山を、街のいたるところで人々が見つめる。
 遠くから鐘の音が響き、次々と灯る炎にざわめきが波のように広がってゆく。
 五山の送り火とよばれる、夏の京都の恒例行事だ。
 今宵、あの明かりを道標に、魂は街を離れあの世へ帰っていくという。

 何処へ行くのか。
 何を思うのか。
 見送る人の瞳もまた、炎を映して導となる。


リプレイ本文

●白い奴

 土鍋の中で、くつくつと沸き立つ湯。
 若杉 英斗(ja4230)はさっと顔をそむけ、席を立つ。
「おっと、眼鏡が曇るね。ちょっとごめん」
 当然、彼がその部屋に戻ることはなかった。

 ふと気付けば、部屋にいる人数は最初より随分少ない。
 梨香は溜息をつくと、眼鏡をはずした。
「他に行きたい場所があるなら仕方ないですね。ではいただきましょう」
 程良い固さの豆腐をさっと湯からあげ、少し甘いつゆに浸す。
 ユリア・スズノミヤ(ja9826)は口の中いっぱいに広がる穏やかな甘みを、うっとりと堪能する。
「んー、舌触りめっちゃクリーミー☆」
 暑かろうが熱かろうが、余り気にしない。寧ろ気になることがあった。
「ひとつだけ、大事なことを聞きたいの」
 真面目な顔で幹事役の梨香を見据える。
「な、なんでしょう」
 美女に真顔で迫られ、やや引き気味の梨香。
「お豆腐の在庫は充分かにゃ?」
「え? あ、はい、それは……」
「じゃあ思いっきり食べていいんだよね! 食べ放題なのに、みんなが足りなかったら寂しいもんね」
 ころっといつもの笑顔に変わり、ユリアがまた湯豆腐を口に運んだ。
「大豆の風味もとっても濃厚だし……はぅ、幸せー☆」
 もしかしたら今回、ユリアひとりでもなんとかなるのでは……。


 もちろん、他にも勇者は存在する。
 雪室 チルル(ja0220)はお椀の中でほかほかと湯気を立てる湯豆腐を、寄り目になって見つめていた。
「こんな猛暑の中で湯豆腐なんて、頭おかしいよね?」
 大変ごもっとも。
 だがそこで敵前逃亡するチルルではない。
 ふうふうと息を吹きかけながら、ひとさじ口の中へ。美味くないわけではないが、とにかく熱い。
 実をいうとチルルは、熱い食べ物があまり得意ではなかったのだ。
「もうさっさとエアコンを直した方がいいんじゃないの? どうなの? あ。せめてポン酢だけは冷凍庫から出したのをちょうだい!!」

 汗を拭きながらチルルが苦闘していると、向かいにきちんと座った天宮 佳槻(jb1989)が淡々と呟く。
「夏場は冷たい食べもので内臓を冷やしやすいし。熱い時に熱いものを食べて汗をかくのは、本来は理にかなっていると聞きます」
 とはいえ、せめて風情のある川床などならよかったのだが。
 窓を開けても湿った熱い風がどよ〜んと漂うだけなのが辛い。
 佳槻は豆腐の入った器をそっと机に戻すと、静かに立ち上がり声を上げた。
「どなたかー! ダイヤモンドダストとか氷結晶とかのスキルを使える方、いませんかー?」
「はっその手があったわね!!」
 チルルの両手が白く輝き、みるみる氷塊が……!

 だが湯豆腐が凍り豆腐になる前に、人影が立ちふさがる。
「お豆腐は敵じゃないからね〜……美味しくいただくがいいのだよ〜……」
 星杜 焔(ja5378)が固まった笑顔のまま、ヴォーゲンシールドを構えてぷるぷる震えていた。
 佳槻がひとつため息を漏らすと、鳳凰を召還した。
「時間限定でも、無いよりは多分マシでしょう」
 鳳凰は制限時間いっぱいまでけなげに羽ばたき、その翼で風を送る。
 湯気が多少は散らせるし、はりつく汗も蒸発するだろう。
 ……鳳凰の見た目が若干暑いことは無視する方向で。
「あらあらすごいわねえ」
「写真撮れる?」
 若干距離を置いて見守っていた仲居さんたちが、スマホをかざしている。
 いくら京都とは言え、戦場以外でアウルの発現を見ることは珍しいのだろう。
 鳳凰がひっこむと、ヒリュウがふわふわ跳びながら団扇を使う。その姿は可愛いと大絶賛だった。
 後にこの画像が若干の修正を加えられ、SNSで拡散されたとか、されなかったとか。


 焔は星杜 藤花(ja0292)と差し向かいで湯豆腐をつつき始めた。
「わ〜い湯豆腐だ〜大好きなんだよね〜」
 暑さよりも美味しいものを食べたいという欲望が勝り、焔は嬉しそうに湯豆腐を口に運ぶ。
「美味しいねえ、それにいいお出汁だねえ〜いくらでも食べられそう〜」
 とはいえ上は下着のシャツ一枚、タオルを頭に巻いた姿なのは仕方ない。
「京都のお料理はどれも絶品ですね」
 藤花はレトロモダンの紫色地の浴衣も涼しげに、器に豆腐をよそい、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
「京の暑さの理由は、土地の歴史にもあるんですよ。もともと水の底だったと聞いたことがあります」
 山に周囲を囲まれた盆地は、夏は暑く冬は冷え込むのだが。
 湯葉に麩まんじゅう、そしてお漬物。
 どれも長い年月を経て受け継がれてきたものだ。
「ふふ、ぶぶ漬けなどもいただけると熱くてもさらりと喉を通りそうですね」
「そうだね〜あ、それから、お土産も買って帰ろうね〜」

 楽しそうな会話を耳に、華宵(jc2265)は窓の外に広がる空を見上げた。
「夏の京都は初めてだけど。昔は冷房なんてなかったから……結構耐えられるわね」
 長く生きてきた者にも、まだまだ知らないものがある。
「とはいえ、暑さで体調を崩してしまっては困るわね」
 運ばれてきたおしぼりやお冷を、顔を真っ赤にしている同行者にそっと差し出す。
「あ、すみません。ありがとうございます」
 律紀はおしぼりを受け取り、顔をぬぐった。
 華宵がくすっと笑う。
「無理はしないでね」
 歌音 テンペスト(jb5186)はそんな華宵の前に、湯豆腐を入れた器をそっと差し出す。
「他の人のお世話だけで、ご自分が召し上がってないようですわ」
「あら、ありがとう」
 歌音は控えめに微笑むと、更に別の学生の元へ。
 少しでも手が止まっている学生には、遠慮せずにどうぞと豆腐をプレゼント。
 熱い愛の心は熱い中でもとどまることを知らず、更に学生達を熱くさせる。
「やれやれ……旅館は暑いけど。あたしの愛はもっと熱いわね」
 歌音は更に熱く燃える心で、狙った獲物……もとい、大好きな人との距離を縮めつつあった。

 鐘田将太郎(ja0114)は律紀と並んで、汗をぬぐいつつ豆腐をすくい上げる。
「京都といやぁ湯豆腐だが、クーラーなしかい! まあ、らしいといえば学園らしいがな」
 将太郎は律紀の器にとりわけることも忘れない。
「ほら中山、まだいけるだろう?」
「うっ……ちょっと休憩……」
 実においしい湯豆腐だ。だがさすがに、食べ続けていると辛くなってくる。
「なんだ? 中山はもっとしっかり食った方がいいぞ」
 笑いながら律紀の背中を叩く将太郎。
「何をするにせよ、食って鍛えて、丈夫な身体を作るのが基本だからな!」
「くっ、そう言われると弱いな……!」
 律紀が苦笑いで自分の器を取り上げ、更にひとくち。
「むが!?」
 突然顔を真っ赤にして、コップに手のばす。
「味を変えたら結構食べられるわよ! 熱さも吹き飛ぶわね!」
 チルルが激辛一味の入った器を持って、ぴょんぴょんと逃げて行った。
「〜〜〜〜!!」
「油断大敵ってやつか……おい、大丈夫か?」
 将太郎は自分の水も回してやりながらも、手元の器は手でしっかりガードしていた。
 なかなかに世の中は厳しい。


 そんな騒ぎの中で、小田切 翠蓮(jb2728)は端然と座っている。
 土鍋の蓋をそっとつまみ上げ、湯の沸き立つ具合をチェックすると、豆腐を浮かべた。
「湯豆腐といえば冬とばかり思うておったが。真夏の京都で湯豆腐を食すは、今時の『とれんど』じゃったりするのかのう?」
「とれんど、とはなんだ?」
 向かいに座った小青が小首を傾げる。
 翠蓮はふっと笑うと、優雅な手つきで豆腐をすくい上げた。
「そうじゃのう、今様とでも言い換えるかのう」
 差し出した器を、小青は少し困ったように見つめる。
「べすとの頃合いじゃ、ほれ」
「私には、食べる意味がない」
 翠蓮はくっくと笑う。
「相変わらず頭の固い娘じゃのう。食う意味など誰が気にする。ほれ、周りの浮かれ具合を見よ」
 そう言いながら翠蓮は野菜を入れ、湯葉を入れ、他から伸びる手を箸で牽制する。
 食う意味はなんとでもなるが、鍋の煮え具合には煩いらしい。
「……そういうものか」
 小青は豆腐を口に運ぶ。
「ところで小青殿は進路をどうするつもりなんじゃ? 何か夢はあるのか?」
「夢……」
「儂の孫は学園を卒業することにしたそうじゃ」
 小青が僅かに身じろぎした。翠蓮の孫のことを思い出したのだろう。
「貴方も卒業するのか?」
「儂は留年じゃ」
 からからと笑う翠蓮。
「学園の行く末を共に見届けるも、長く生きる者の特権じゃろう」
「……そうか」
 小青の表情は、どこか安堵しているように見えた。

 梨香は会場をはらはらしながら見渡していた。
「あっ鳳凰が……ううっ健気すぎます」
 華宵や翠蓮が年の功(?)でカバーしてくれているが、なかなかゆっくり湯豆腐を味わうこともできない。
 焔が食べやすい温度になった湯豆腐を、そっと差し出す。
「大八木さんも少し落ち着いて食べるのだよ〜。何かあったら皆で謝ればいいのだからね〜」
「何かって、星杜さん、おそろしいことを」
 そう言いながらも、梨香は座って器を手に取る。
 焔はにこにこ微笑みながら、梨香の進路希望に触れた。
「大八木さんはね〜カウンセラーにむいてると思うんだ」
「そうでしょうか……」
「だって、完全にぼっちだった頃の俺でも話しかけやすかったんだよ。人に話をするのが苦手な人でも、大八木さんになら相談できるんじゃないかなあ」
「私もそう思います」
 藤花もやわらかく微笑む。
 引っ込み思案だった梨香が、他人に夢を語るようになった。
 他人を話すことが苦手な焔が、結婚し、家庭を持つまでになった。
 少し前なら夢でしかなかったことが、どんどん本当になっていく。
「先輩にしかできないことが、絶対にあると思うんです」
 痛みを知るからこそ、見えるものもあるから。

 そういえば、と藤花は律紀に顔を向けた。
「律紀先輩、寧々美先輩のご卒業おめでとうございます」
 その言葉に、律紀がぶほぉと水を噴き出しかける。
「お姉さん卒業できて良かったねぇ。一日で英語がすごく身についてびっくりだったよ」
 焔が続けると、おしぼりで口元をぬぐいつつ、律紀は強張った笑いを浮かべた。
「ありがとう、身内のことながら謎すぎるんだけどね! 4年生をだぶってた訳じゃないし、年次って何だろうなって思ったよ!!」
 まあそれでも、姉が新たなステージに羽ばたくことはめでたいことだ。……たぶん。
「ぼっちといえば、中山くんとも色々あったねえ……おとうふ……白い……」
 一瞬、焔が遠い目をした。
「またロールケーキでも作ろうかな」
 律紀が笑いだす。
「俺、あれからロールケーキ食べるとき、紙袋被りたくなるんだよね」
「それは〜……記憶の上書きが必要そうだねえ」
「そうしてもらえると助かるよ!」
 
 和やかな思い出話を聞きながら、梨香はやっぱりこれでよかったのかもしれない、と思う。
 まだ心に残るひっかかりも、これから勉強していけば受け止められるように……
 そんな物想いは、隣に軽やかに着座した歌音によって遮られた。
「あら、こんなところに空席が。奇遇ですわね」
 確かに空いていた。梨香が一番端だったので……。
「大八木お姉様、去年の京都では大変でしたね」
「歌音さん……」
 身体は戦うことに慣れていても、心がついてこないこともある。
 梨香が将来を考えたのも、あの出来事があってこそだろう。
「歌音さんは優しいですね」
 時に驚かされるが、歌音の行動は素直な本質から生み出されるものだ。
 以前の梨香なら、それを理解することも難しかったかもしれないが。
「お姉様、これからどうなさるんですか?」
「え? ああ、学園で勉強を続けようと思います」
「その後は?」
「そうですね、資格を取って仕事ができればいいんですが」
 そうじゃない。歌音がききたいのはそこじゃない。
 だが逆にいえば、梨香には心当たりがないということだ!
「歌音のここ、あいてますよ」
 頬を染めて瞼を伏せる。右手は自分の腿の横に、左手は腿の上にあった。なぜか空いているというより、開いていて……。
「歌音さん!」
 梨香がさっと膝のハンカチをかけて全開部分を隠しつつ、腕を掴む。
「お手洗い! いっしょに行きませんか!!」
「まあ、大八木お姉様ったら……」
 歌音は嬉しそうに手を引かれて行った。
 梨香がかみ合わない会話の意味に気付く日は、永遠に来ないだろうが。


 力尽きたヒリュウが団扇を残して消えた。
「ありがとう、助かったよ」
 佳槻は最後まで頑張った召還獣を、心からねぎらう。
「でも夕方からはお店が混むだろうし、お腹いっぱい食べられたのはよかったかも」
 豆腐はほぼ完食。
 最後まで幸せそうに食べ続けたユリアは、上品に手を合わせた。
「はふぅ、美味しかったー! ごっつぁんでっす☆」
 ……あの細い体のどこに入るのか。
 佳槻がひとつ頭を振る。
(胃の中に絶対零度のブラックホールとかそういう……)
 そこに宿の主がやってきた。
「いやほんま、お若い方はガッツがありますなあ。よかったらお風呂の用意できましたし、どうぞ……」
「それは是非」
 佳槻は主も驚くスピードで、自分の荷物を手に立ち上がった。


●追憶の古都

 宿泊するホテルは新しくはなかったが、独特の趣を感じさせた。
(この辺りがいかにも京都らしい、というところでしょうか)
 藤花がさりげなく飾られた書を眺めていると、スマホを手にした梨香が足早にやってくる。
「え? 外? どうして中に……」
 何事かと後を追うと、自動ドアの外に見知った人影が立っていた。
「あらジュリアン先生」
 かつての大学部教員、白川だ。梨香が何かメモを手渡していた。
「……折角ですし、皆さんに一言ぐらい……」
「すまないね、結構恥ずかしがり屋なんだ。……おや。今は星杜君、だったね」
 白川が藤花に笑顔を向けた。
「ご無沙汰しています。お元気そうで安心しました」
「君も変わりないようだ。ああいや、綺麗になったよ」
「あら……」
 藤花が目を見張る。
「以前より、いい意味で自信に満ちている。……幸せそうだ」
「有難うございます」
 白川は藤花の柔らかな微笑みに、揺るぎない強さをも感じたのだ。
「彼にも宜しく。私は少し用があるのでここで失礼するよ」
「はい、伝えておきます。それから……先生、有難うございました」
 守られる存在から、自分を信じて立つ、誰かを守る存在に。
 言葉で伝えられたわけでなくとも、藤花は学園でそれを自分の物にしたから。
 丁寧に頭を下げる藤花に、白川は軽く手を上げて応えた。


 夏の日差しは中空を過ぎる頃。
 京都駅の展望階で、加倉 一臣(ja5823)は街を眺めていた。
「えっと……【四辻砲火】をやったエリアってどの辺だっけな」
 小野友真(ja6901)が元気よく挙手する。
「はいはいっ、土地勘なら関西人に任せろー! あっちにタワーがあるから北やろ、んであのエリアは……」
 友真の笑顔が強張った。
「……俺な、大阪人やから。京都はもひとつでな」
「そんなことだと思ったぜ」
 月居 愁也(ja6837)がにやにや笑いながら友真の頭を小突く。
 バスの運行図を広げた夜来野 遥久(ja6843)が、南の方角を指差した。
「ここからは見えないようですが」
 全員が見えない彼方を見つめた。
「京都は……初めて大きな戦いに出た所で。四辻砲火は大将が表彰されて誇らしかったん」
 友真が誰にともなく呟く。
「あの頃はほんまぺーぺーやったし、出来ることも少なくて。でも力不足を理由に諦めたくなかった。今思うと、めっちゃ強がってたなあって」
 今こうして立っている駅でも、学園生は戦った。
 一臣が友真のオレンジ色の頭をくしゃくしゃと撫でまわす。
「この京都駅に辿り着くまでも、酷い戦いだったもんな。今の街ってあの頃と変わり過ぎて……」
 ふたりが見つめる先を見遣った遥久が、訂正する。
「ああすみません、もう少し西側でしたね」
 愁也がたまらず噴き出した。
「さっきあっちって指差したあああ」
「車! 車だったら! 完璧にわかるから!!!」
 今こうして笑っていると、天使ザインエルの脅威を目の当たりにした頃が嘘のようだ。
 それでも諦めなかった。それでも戦った。
 そして今、京都にいるのだ。

「さて、じゃあどこから行きますか」
 一臣が促すと、愁也が遥久を、そして友真を見た。
「まず、あの洋館に行きたい。それから……」
 愁也は手に提げた紙袋を見る。その中には日本酒の小瓶と小さな花束が入っていた。
 友真が何かを堪えるように空を見上げる。

 ――花を、手向けて来ようと思うんだ。
 愁也が声をかけると、小青はいつもの睨むような目を向けた。
「ユドーフはサボるのか」
「うっ……いや、時間的にちょっと、厳しいなって……!」
「あのな、真弓さんがどんな花を喜んでくれるのか、小青にも選んでもらいたいねん」
 友真が慌てて付け加えた。真弓は京都で命を落とした、小青の大切な主だ。
 小青を見ると苦い思いが溢れだす。
 大怪我をさせてしまったこと、自分の想いをうまく伝えられなかったこと。
 言葉を選ぶのはいつも難しくて、大事な物は焦るほど指の間から零れ落ちていくようで。
「花……芙蓉や牡丹、蓮があれば……」
 小青は意地悪を言った訳ではないが、何れも夏の京都で切り花を求めるのは難しい花だった。
「たぶん、花は何でもお好きだ」
「あのさ小青。これからどうすんの?」
 愁也がいきなり切り出した。
「ほら、学園生が嫌ならさ。少し先になるけど、いつか一緒に仕事するのもいいかなって! どうよ?」
「まず月居が仕事をするところが、想像できないのだが……」
「うっ」
 小青は随分と言いたいことを言うようになっていた。
 だが愁也は、かつての寂しげな姿に比べればずっといいと思う。
「今、大八木の手伝いをさせてもらっている。司書になってはどうかと言われた」
「へえ……!」
「ええと思う! ほら、学園の図書館にはいっぱい本あるし!」
 友真も嬉しそうに頷く。
「とはいえ、試験があるらしい。まずは読み書きからだ」
 小青はそう言って少し笑った。
「今の主どのからは目が離せないしな。だが先に何があるかなど分からない。また気が向いたら声をかけてくれたら嬉しい」
 小青が自分の考えを自分の言葉で伝えられるようになった。
 愁也と友真は、それが嬉しかった――。

 小青の主が命を落とした洋館の跡は、更地になっていた。
 目を閉じれば、それぞれに悲しい最期を遂げた者達を思い出す。
 遥久は白い百合の花束を、そっと地面に置いた。
「それでも池永氏は最期まで人であり続け、真弓さんと共に逝くことができた。幸い、だったのでしょうか」
 愁也は百合の花束のとなりに、青紫色の素朴な花を供える。
「紫苑の花ことばは『あなたをわすれない』なんだってさ」
 小青と話をしていたところに梨香が通りかかり、ホテルに飾られていた花を提案したのだ。
『私もさっき聞いたばかりなんです』
 綺麗な花だったので宿の人に名前を尋ねると、これが紫苑だと教えられた。
 花ことばの意味もあり、この時期にはなるべく飾るようにしているのだという。
 多めに用意してあったからと分けてもらったのが、持ってきた花束だった。
 友真はその時に交わした言葉を思い出す。梨香もまた、小青との関わりで変わっていた。
(どんな出会いも、無駄やない。だからできるだけ、ええ方法で関わっていきたいな)
 紫苑の花は、友真と愁也の胸にも揺れている。この場にいない小青の代わりだ。
 ――あなたをわすれない。

「では私はここで」
 遥久の笑顔が邪悪に輝く。
「あー、もうそんな時間?」
 愁也が諦めたように遥久を見送り、一臣が苦笑する。
「なんかいつにも増して輝いてない? 俺の気のせい?」
「愛の語らいが待ってるらしいからなー」
 ……その相手の無事を、そっと祈る愁也である。
「んじゃこっちは次だ」
 愁也はちらりと友真を見る。雨の気配もないのにビニール傘を持っていた。
(考えてることは同じだよな)
 大通りでタクシーを拾い、思い出の場所を告げた。
 一臣がふっと笑みを浮かべる。
「愁也は……うん、そこ行きたいだろうなとは思ってた」
「あー予想してた? そりゃね、蘆夜のおかげで俺の進路決まったっつーか。背中蹴り飛ばされたようなもんだしね」
 後ろに流れていく街並みを眺める。
「……要塞の跡地ってどうなってんのかね」

 運転手を待たせ、入り組んだ道を歩いて行く。
 要塞の悪夢の記憶を打ち消すように、跡地には新しい建物がびっしりと立ち並んでいた。
 だが若木を植えた緑地もあって、小さな石碑が作られていた。
 愁也は地面に小瓶の酒をふりまく。
「馬鹿な奴だよな。ただの人間が一番強いって、もっと早く気付けばよかったのに」
 この地で果てた使徒を思い、彼の最期の言葉を噛みしめる。
「弱いものが弱いからって見捨てられない世界。お前が渇望してた未来。俺が代わりに叶えて、いつかまたここで笑ってやるからな。覚えとけよ」
 愁也はしばらく目を閉じ、そして振り向いた。
「さてと。次は友真の想い人に会いに行くか!」
「え、ちょ、その言い方! そんなんやないし!!」
 慌てる友真の背中を、一臣が押す。
「まあまあ。そろそろ日も暮れる、人が増えたら移動に時間がかかるしな。友真くんの心残りがないように急ごうか!」
「……途中でビール買っていい?」
「いいね。ツマミも調達しよう」
 立ち去り際、愁也は再び振り向いた。
「お前も羨ましかったら、ついてきていいんだぜ」
 無論返事はなく、若木の枝がざわざわとゆれるばかりだった。


 橋の上から鴨川を見下ろした狩野 峰雪(ja0345)は、思わず口元を緩めた。
「噂には聞いていたけれど、本当に等間隔なんだねえ」
 川岸にはまだ暑い中、色々な人が座っている。
 川の西側にはずらりと川床がせり出し、提灯が揺れていた。
「あら狩野さん、どうされたんですか」
 呼ばれて振り向くと、梨香だった。依頼に同行したこともあり、こちらを覚えていたらしい。
「折角京都まで来たから、少し散策してみようと思ってね。そちらこそお出かけかな?」
「ええ、お土産をちょっと」
 それから少しだけ並んで歩く。
「宿の方が、何かお土産を皆さんにとおっしゃって。だから私が勝手に決めてしまいます」
 それからしばらく無言で歩く。
「あの、狩野さんは卒業されるんですか」
「僕? うん、そうしてもよかったんだけどね。どうせ脱サラした身分だし、もうしばらく学生生活を続けて……勉強のほうを頑張ろうかと思ってるんだ」
「そうですか。じゃあまた学園でお会いできますね」
 梨香が重厚なたたずまいの店の前で足を止めた。
「あ、ここなんです。甘いものが嫌いな方もいらっしゃるでしょうけど、少しぐらいならいいですよね」
 色とりどりの飴が並ぶ店だ。
「そうそう、ご存知かもしれませんが、もう少し行くと祇園です。最近は旅行者の入りやすい店もあるって、さっき宿の人が仰ってました」
 梨香は手を振って店に入って行った。
「あんなにおしゃべりする子だったかな」
 峰雪は軽く肩をすくめ、ぶらぶらと歩きだす。
 京都には色々な人間が歩いていて、楽しそうに店をのぞいたり、写真を撮ったりしている。
(でも誰にでも、悩みや苦しみがあるのだろうね)
 ふとよさそうな構えの店を見つけ、入ってみる。
 それなりに繁盛していて、店主はほどほどによそよそしいのが好ましい。
 峰雪は隅の席に腰を落ち着け、好みの銘柄の酒を注文する。
「お土産、か……」
 勤め人だったときは、そんな暇がなかった。撃退士として出動したときは、それどころではなかった。
 しばらく会っていない子供たちの顔を思い浮かべ、峰雪は後で何か探してみようかと思う。
 それを理由に、久々に食事でもどうだと声をかければ、子供たちはどう答えるだろう。
 店の客が口々に交わす会話が意味を失い溶けていく中で、異邦人はひとり空想を楽しむのだった。


 白川の向かった先も祇園だった。
 待ち合わせの相手はすぐに見つかる。というか、皆が振り向くので、嫌でもわかる。
「お待たせして申し訳ない」
 ユリアがパッと顔を輝かせた。
「ジュリー先生! 来てくれた!」
「もう先生でもないからね。お誘いには遠慮なく応じるよ」
 金髪で白スーツ姿の胡散臭い白川と、立ち姿も美しい銀髪のユリアが並ぶと、やたらと目立つ。
「うみゅ、じゃあジュリー……さん? んー、私の中ではジュリー先生なんだよなぁ……ダメ?」
「ご自由にどうぞ」
 打ち水に濡れた路面に、ぽつぽつ点き始めた灯りが映り込む。
「夜の祇園は、艶やかさも加わるって聞いて。見てみたかったんだ」
 この古い都が残ってよかった――きっとみんなもそれぞれの場所で、そう思っているのだろう。
 だから聞いてみたい。
「ね、先生。先生の選んだ今の路で……大切なこと、もの、増えたかな? 素敵な想いで溢れてる?」
 赤い瞳が宝石のように煌めく。
「そうだね。少なくとも後悔はしていないよ」
「ならよかった! ふふ、それにしても、やっぱり先生は綺麗だねん☆」
「よかった。君を幻滅させないで済んだようだね」
 並んで歩くうちに、大きな通りに出る。向かい合ったユリアがにっこり笑った。
「久しぶりに会えて嬉しかった。あー……でも、先生とダンスしたかったにゃぁ」
 白川は少し考え、それから手を差し出す。
「では今からではどうですか、姫様」
「え?」
 ストリートミュージシャンの奏でる音楽に合わせ、白川が適当なステップを踏む。
 踊りに秀でたユリアは、この冗談みたいなダンスにも軽やかにあわせた。
「ジュリー先生がこんなことするなんて意外!」
「もう先生じゃないからね」
 きっともう、学園にいた頃のような煌めきに出会うことはないだろう。
 だが……だからこそ……
「大切な人と、ずっと幸せにね。真珠色の姫君」
 白川はユリアの手の甲に、儀式めいた口づけを贈った。

 ファーフナー(jb7826)は橋の上からわっと響く声に、いぶかしげな視線を送る。
「……大道芸か」
 夕暮れ時の鴨川には、送り火を少しでもよく見ようと多くの人が集まっていた。
 ファーフナーも浴衣を着ているので、そのひとりに見えるだろう。
 突然、誰かと肩がぶつかる。
「あっすみません!」
 カップルの片割れの男に、ファーフナーは気にするなというように軽く手を上げてその場を離れた。
(場所が場所なら、どちらかが死んでいたかもな)
 咄嗟に反撃しなくなった自分に少し呆れもしたが、悪い気分ではなかった。
 ホテルで別れる前に、小田切ルビィ(ja0841)が軽口を叩いていたのを思い出す。
『おっ、誰かと思ったぜ。そうしてると、浮かれた外国人観光客のフリもできそうだな』
 ルビィの言うとおり、今のファーフナーはその気になれば一般人に紛れ込むこともできる。
 憎しみと恨みだけに支配されていた自分が、学園に来てこれほどまでに変わったのだ。
 ――だから学園に残ることにした。
 まだ解決しなければならない問題は山積している。天魔だけでなく、これからも学園にやってくる者はいるだろう。
(恩返しというほどのものでもないが。それにしても、だ)
 自分の経験が未来に役立つと、一体誰が想像できただろう。
 道路へ上がり、橋を渡って、予約していた店に向かう。
 ともすれば見過ごしそうな路地を入っていくと、街の喧騒は遠くなった。
 案内された納涼床はまた賑やかだったが、不思議と世俗とは隔絶された感がある。
「こちらのお席にどうぞ」
「ああ」
 運ばれてきた飲み物で喉をうるおし、生ぬるい風を頬に感じる。
 ファーフナーにとって食事は栄養を摂るためのもので、酒は眠りにつくためのものだった。
「あちらが大文字になります。ここが最初で……」
 独特のイントネーションで語るおかみの言葉に相槌を打ち、ファーフナーも首を巡らす。
 誰かと他愛のない会話をすること。
 余暇を余暇として楽しむこと。
 ようやく手に入れた、そんな『当たり前』も、これからは楽しんでいこう。
「すまないが、何か料理に合う酒を見つくろってもらえないか」
「はいはい、すこうしお待ちくださいねえ」
 人々のざわめき、川の流れる音。
 今のファーフナーはひとりで座っていても、ひとりぼっちではなかった。


●ここから始まる物語

 湯豆腐との戦いに勝ったつわものどもは、思い思いの時間を過ごしていた。
 里条 楓奈(jb4066)は田中 裕介(ja0917)の部屋を訪れる。
「すぐ部屋に来いって……何かあったのか?」
「ああ、すみません。これ、どうですか」
 裕介はいつもの穏やかな表情のまま、大きなトランクを開く。
 出てきたのは、落ち着いた緑地に白い百合を飾った女性用の浴衣だ。
「よく似合うと思いますよ」
「む……確かに良いデザインだが……着付けは無理だぞ?」
「それはご心配なく」
 裕介は衣装にこだわりが強く、用意してきたからには自分が着付けもやるつもりだ。
「では着替えましょうか」
「え……と……」
 楓奈はさすがに躊躇する。着替えるということは今着てきた服を脱ぐということ。
 裕介に見られるのが初めてというわけではないが、やはり気恥ずかしい。しかし浴衣は着てみたい。
「むぅ……わかった、手伝ってくれ……」
 しばらく迷った結果、顔を赤らめながら覚悟を決める。
「大丈夫。リラックスしてください」
 裕介は手際良く楓奈の浴衣を整える。
 グラマーな楓奈は簀巻きの用にタオルを巻かれているのだが、裕介の着付けは苦しくない。
 すぐに裕介自身も黒地の浴衣に着替え、白い帯を締めた。
「とてもよく似合っていますよ、楓奈」
「うむ……裕介もなんだか少し、いつもと違って見えるな」
 儀礼服の印象が強いが、束ねた真っ直ぐな黒髪が浴衣に良く似合っていた。
「……少し、緊張するぞ」
 小さくつぶやくと、裕介には聞こえなかったらしい。
「え? 何か?」
「いやなんでもない!」
 裕介はいつもと同じように微笑んでいた。

 すっかり日は落ち、人がひしめき合う中を、裕介は楓奈の手を引いてするするとすりぬけていく。
「こっちからなら行けそうですね。ああ、足元に気をつけてくださいね」
「う、うむ」
 どうにか場所を確保するが、押し寄せる人波に、ぴったりと身体を寄せ合うことになる。
「大丈夫ですか? 暑くありませんか?」
「大丈夫だ。……点火はもうすぐだな」
 楓奈は身体を伝わる熱に、暑さどころではなかった。
 一緒に歩けることがこんなに嬉しい。いや、歩くだけならずっと前から一緒だ。
 裕介と一緒に歩くことが、特別な意味を持つこと。それが自分だけのものであることが嬉しいのだ。
 だが……
「ああ、火が付きましたよ!」
 真黒な山に、大きな【大】の文字が浮かび上がった。歓声があがるが、それは他の行事の声とは少し違って聞こえる。
「お盆にこちらに帰ってきた魂が、迷わないようにする目印なんですね」
 楓奈は裕介の横顔を見ているうちに、思わず呟いていた。
「私で……良かったのか?」
「え?」
 裕介が振り向く。
「その、こうしているのは嬉しいのだが……」
 うまく言葉が出てこない。裕介は返事の代わりに、楓奈の指の間に自分の指を滑り込ませた。
「勿論ですよ。……愛しています」
 楓奈の返事は音になる前に、柔らかく塞がれていた。
 大丈夫。
 もし迷うことがあっても、こうして手を繋いでいるから……。
 裕介は絡ませた指に、少しだけ力をこめた。


 華宵は人混みを避けて、静かな河原に腰を落ち着ける。
 杯を三つ並べ、それぞれに酒を注いだ。
 それは長く生きてきた中で、それぞれに大事だった人たちとの語らいだった。
「昼間は相生神社へ行ってきたよ。連理の賢木はわかるだろうか。……皆に幸あれ、と祈ってきたんだ」
 返事の代わりに、川の流れる音がさらさらと答える。
「俺はまだ生き続けるようだ……」
 見送るばかりの生に慣れたといえば嘘になるだろう。だが素晴らしい日々は確かにあった。
「お前達は幸せだったろうか。俺達の子孫はこの先の世界を、幸せに生きてくれるだろうか……?」
 自分の血を分けた子供達のため、世界を守ろうと戦った。そして。
「それは叶ったと思っても構わないだろう?」
 もうひとつの盃に酒を満たし、他の三つに向けてかざす。
「乾杯だ。付き合ってくれ……あちらへ戻るまでだけで構わないから」
 誰も知らない酒宴を、華宵は静かに愉しんだ。


 英斗はホテルに戻って時計を見る。 
「よし、間に合った」
 昼間の京都を堪能し、更に送り火を特等席で見られる贅沢な日程だ。
「みんな屋上かな?」
 屋上では皆が思い思いに陣取っていた。
「あ、若杉くん。間に合ったねぇ」
 焔がスマートフォンから顔を上げ、声をかけた。
 藤花と一緒に、なんとか送り火を愛息に実況中継できないかと、苦戦しているようだ。
 黄昏ひりょ(jb3452)は持参したアイスティーを皆に配っていく。
「ちょうどいい時間だよ。暑くない? よかったらどうぞ」
 受け取った英斗は、すぐに口をつけた。
「ありがとう! ちょうど喉が渇いていたから助かるな」
「お代わりもあるからね」
 そう言ってから、ひりょはデジカメを構えた。
 ズームの具合は昼間に確認しておいたので、おそらく遠くの左大文字や船形も少しは見やすくなるだろう。
 まだ少し時間がある。大事なアルバムを取り出して開いた。
 いろんな場所で撮影した写真は、一枚ごとにその時の気持ちを呼び起こす。
「帰ったら昼間の写真も現像して、整理しないとな」
 また一枚ずつ、思い出が増えていく。
 その重みと暖かさに、ひりょは暫く目を閉じた。

 やがて20時になった。
「すごい。一気に火がつくんだ」
 英斗は柵に体を預け、浮かびあがる文字に見入った。
「5分後に西側の【妙法】ですよ」
 梨香が声をかけた。5分ごとに、順に西へ向かって点火していくのだ。魂を西方浄土へ導くために。
「京都か。いろいろあったよなぁ」
 激戦に次ぐ激戦。傷を負った仲間もいれば、倒れた強敵もいた。
 今も目を閉じれば、傷の痛み、炎の熱がよみがえるようだ。
「……これで本当に終わったのかな」
「え?」
「いや、なんでもない!」
 確かに、天界や冥魔界を相手にした戦闘は一区切りついている。
 だが人間も、天魔も、一枚岩ではないだろう。
 できればこの街が、もう二度と蹂躙されないようにと願ってはいるが……。
「そういえば若杉先輩は、ご卒業されなかったんですか?」
 梨香の質問に、英斗は即答する。
「一度にたくさんの学生が卒業したら、久遠ヶ原も困るだろうから。まだしばらく学園にいるつもりなんだ」
「それは心強いです」
 馴染んだ人々もいつかは飛び立つ。当たり前のことだが、それは寂しさを伴う。
 梨香はまじめにそう思ったが、英斗の心の声は聞こえない。
(すごい人数の美少女が集まっている学園は、間違いなく世界一の楽園じゃないか! そう簡単に卒業できるわけがない!)
 ……『美少女』に対する関心が犯罪と呼ばれる年齢になる前に、英斗に良い相手が見つかるように祈ろう。

 歌音はさりげなく英斗と梨香の間に入りこみ、さりげなく梨香を連れて静かな一角へ移動する。
「大八木お姉様、お疲れでしょう。送り火ぐらいはゆっくり見ませんか」
「ありがとうございます。歌音さんは羽を伸ばせましたか?」
 梨香も気遣われたことが嬉しいと、表情に出せるようになった。
「そうですね。羽はついていませんが、愛の天使ですから」
 答えになっているような、なっていないような。
「学園に来てから、良いこともあって、失敗もあって。あたしも世界が大きく変わったように、色々と変わったと思います」
 歌音の表情はいつもどおりで、内心は分かりにくい。
「お姉様も初めてお会いした時とは少し雰囲気が変わりましたが。あたしは変わらず好きですよ」
「えっと、はい……ありがとうございます」
 好きの意味は色々で、それが梨香には伝わりにくいわけだが。
 それでも好きという気持ちを真っ直ぐに向けてくる歌音は、とても眩しく思える。
「いい方向へ変われたらいいのですが。……難しいですね」
「変わるものも、変わらないものも一つの自分です。大切にしていきましょうね」
 そっと寄り添い手に触れてみると、梨香は無造作に握り返した。
「まだまだ学ぶことがたくさんあります。それで変わるものがあってもいいんですよね」
 いやいや、さすがにちょっとは変わってくれないと困る。
 歌音の心の声がそう言っていた。


 ひりょは会話を邪魔しないように、タイミングを見てアイスティーをすすめて回った。
「うわ、いつ用意したの?」
 受け取った律紀が尋ねると、穏やかな笑みを返した。
「内緒だよ」
「へえ? あっそういえば、黄昏くんも卒業するんだね」
「うん、やりたいことがあるんだけど、学園ではできないことだからね」
 誰かが傷つくところを見たくない。守りたい。
 そんな思いで必死になっていた戦いに一区切りがついて、ようやく自分の夢を追いかけられるようになったのだ。
「でも学園での経験は無駄にはならないと思うんだ」
 ひりょの言葉に、律紀も頷く。
「うん、そうだよね。俺もそう思うよ」
 送り火は西へと移って行った。船形であの世へ還る魂たちとも、1年のお別れだ。
「でもいつかまた学園にも寄ってほしいな。俺はたぶん、いると思うから」
「そうだね。またいつか」
 あの世に比べれば、いつでも戻ってこられる場所だから。
 ひりょは遠くにまたたく送り火を、デジカメ越しに追い続けた。

 将太郎はアイスティーを飲み干して、律紀を見る。
「中山は学園に残るのか?」
「そのつもりです。あ、ちゃんと決まった年数で卒業はしますけどね!」
 将太郎が声を上げて笑った。
「鐘田さんはどうするんですか」
「俺も学園に残る。後輩の指導ができればいいと思ってな」
 コップを弄びながら、将太郎は以前の依頼を思い返す。
「いろいろな依頼を受けたが、その中にアウルや感情のコントロールがきかない奴がいたりしてな。カウンセラー志望としては、そういう後輩を放っておけないだろう?」
「ああ。うん、なんかわかります」
「力の使い方を教えたり、メンタルケアしたり。本人が撃退士として活動したいなら、なれるようにサポートしていきたいんだ。それが、俺のやりたいことだ」
 律紀が腕組みをする。
「鐘田さんは具体的だなあ」
「何?」
「俺も学園で教職目指すつもりなんですけど、そこまで具体的には考えてなかったから」
「まあいいんじゃね? これからゆっくり考えていけば」
 ということで、と将太郎は律紀の頭をぐりぐり撫でまわす。
「これからも宜しく頼むぜ」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
 律紀は自分でも驚くほど、明るい声で答えていた。


 遥久は、鴨川沿いの静かな店にいた。
「お待たせしてしまったかな」
 聞き覚えのある声に、遥久が目を上げて微笑む。
「御元気そうで何よりです、ミスター」
 白川は向かいに座り、面白がるように遥久を見る。
「それで? 君のことだ、何か理由があって呼び出したのだろう?」
「ええ、送り火を一緒に見たいと思ったのですが……それとはまた別件で、本日は結婚の申し込みをしようと思いまして」
 白川の胡散臭い笑顔と遥久の邪悪に輝く笑顔が、送り火よりも眩しく向き合う。
「それほど悪い話ではないと思いますよ」
 遥久が机を滑らせたのは当然ながら婚姻届ではなく、印もサインも空欄の雇用契約書だった。
 雇用主は遥久の名義である。
「卒業して事業を始めます。ミスターにもいずれお越しいただきたく」
 白川は続きを促すように無言のままだ。
「人に添う撃退士として在りたいと仰いましたね。私は人と天魔を繋ぐ撃退士として、その在り方を探します」
 学園で得た仲間、そして共闘したかつての敵達。彼らと人とが、共に手を携えて生きる未来を叶える、その礎として生きるという。
「夢に過ぎない、とお考えかも知れません。ですが、夢は叶えれば現実です」
 白川は唇だけを動かした。
「……君の大事な人間を、2名思い浮かべてくれたまえ」
「はい?」
 遥久が思わず問い返す。
「その2名と君。このうち誰かが死ぬ。三分の一が死ぬとは、そういうことだ」

 これは遥久にも理解できた。2004年の大惨事のことで、白川はその生き残りだ。
「今日は何人か学園生と会ったんだよ。皆、自分の足で立って、未来を向いていた」
 白川が言葉を切り、喉を湿す。
「ここに来るまでずっと考えていた。逝ってしまった仲間にも、あんな未来があったのだろうかとね」
 白川に彼らを忘れることはできない。
 彼らの家族に忘れろとも、敵を許せと言うこともできず、生き残ったこと自体を呪いのように背負い続けている。
「だが復讐が何も生まないことも理解している。……たぶん、君達は集合体としての敵ではなく『個』を見ることができたのだろうね。だから未来は君達に任せることにしたんだ」
 遥久はようやく、白川の本心に辿り着いたように思った。
「まあどの道、しばらく日本を離れるしね」
「といいますと?」
「ある国で鬼軍曹をすることになってね」
 いつもの胡散臭い笑みがいつの間にか戻っていた。
「それはそれは。返り討ちにはご注意ください。では暫く猶予期間としましょう。いつか、そう遠くない未来に、貴方から共に働きたいと……そう仰って頂けるよう頑張りますので」
 白川が肩をすくめる。
「では今日のところは仮契約で許してもらおう。そうでもなければ君は諦めてくれないだろうしね」
「もちろんですとも」
 遥久の笑顔は今日一番の輝きを放っていた。


「あーあ。遥久、今頃どうしてるかなあ」
 かつての激戦地で、愁也が夜空を仰いだ。
「さすがに今日明日でどうこうはないだろう……ないよな?」
 笑顔でいいかけた一臣が一転、真顔になる。
 友真は神妙な顔つきで、缶ビールを前に正座している。
「俺、思うんやけど。米倉……とか蘆夜とか川上とか、他にもいっぱい死んだシュトラッサーがおるやん? 小青ひとりぐらい、こっちで幸せに生きててもええよなって」
「真弓さんから託された『希望』だもんな」
 一臣はふたりの言葉を穏やかに受け止めた。
「とても無理だって思うようなことを、俺達はやり遂げてきたんだ。これからもきっとやれるさ」
「うん、そうだよな」
「やる。やったる!!」
 その言葉は、ここで散って行った者達にも聞かせるように強く響く。


 ルビィは屋上を見回し、ようやく目的の相手を見つける。
「よっ! ふたりは灯篭を流してきたのか?」
 相手は小青とネフラウスだった。
「いや。ここでユドーフを食べていた」
 ネフラウスは灯篭を流すとはどういうことかと尋ねた。
「ああ、山に火で文字を灯すのと似てるぜ。想いを乗せた灯篭を川に流すんだ」
 撮ってきた写真を見せると、ふたりとも顔をくっつけるようにして覗き込む。
 ルビィは小青の真剣なまなざしに、微かな胸の痛みを覚える。
 小青は誰よりも大事な存在を、自らの手で葬った。
『命なら2番目だ』
 そう言って小青の背中を押したのは、ほかならぬルビィだ。
 あの言葉が間違っていたとは思わない。
 だが泣くこともなく、燃える館を見つめていた小青のことはずっと心に引っかかっていた。
「……あのよ」
 言いかけたところで、ちょうど小青の言葉とぶつかった。
「小田切にはすまないことをした」
「え?」
「あ、何だ? 何か言いかけたな」
「いや、俺のはいい。何がだ」
 小青は爪先を見つめるようにうつむく。
「……嫌な思いをさせただろう。だが、私がすべきことを成し遂げられたのは、小田切のお陰だ」
 ルビィも黙りこむ。
 小青自身もずっと苦悩していたのだろう。
 言葉は想いを伝えるには余りに物足りない。だが想いの欠片だけでも伝えるには、言葉を使うしかないのだ。
「俺でよければだが……何でも相談に乗るぜ?」
 ポケットを探りながら、ルビィは間をもたせるように言葉を続ける。
「ここまで来たら、お前のキツイ気持ちも一緒に背負ってやるよ。何もできなくても、吐き出しちまえば楽になる事もあるだろうしな」
 そう言いながら、連絡先のメモを小青の手に握らせた。
「いつでも連絡して来いよ」
 きょとんとした顔でメモを受け取った小青に、ネフラウスが真面目腐った顔で呟く。
「イケメンのメアドゲット、だな」
「……おい、なんでそういう言葉だけ覚えてんだよ」
「学園の女子学生が教えてくれたのだ」
(誰 だ よ!!)
 ルビィが額を押さえていると、小青が携帯電話に四苦八苦している。
「ええと……どうやって登録するんだったか」
「あ? ちょっと見せてみろ」

 ――きわめて短いメールが、小青からルビィに届くのはそれからしばらく後のことになる。
『ありがとう。ずっと忘れない』
 添付ファイルには紫苑の花の画像が添えられていた。


 変わるもの、変わらないもの。
 それぞれに道を選んでも、あなたのことは忘れない。
 共に過ごした日々は、ずっとあなたと共にある。
 久遠ヶ原学園はあなた達の還る場所でもあるのだから――。

<了>


依頼結果

依頼成功度:大成功
MVP: −
重体: −
面白かった!:12人

いつか道標に・
鐘田将太郎(ja0114)

大学部6年4組 男 阿修羅
伝説の撃退士・
雪室 チルル(ja0220)

大学部1年4組 女 ルインズブレイド
思い繋ぎし紫光の藤姫・
星杜 藤花(ja0292)

卒業 女 アストラルヴァンガード
Mr.Goombah・
狩野 峰雪(ja0345)

大学部7年5組 男 インフィルトレイター
戦場ジャーナリスト・
小田切ルビィ(ja0841)

卒業 男 ルインズブレイド
我はメイド服の伝道師・
田中 裕介(ja0917)

卒業 男 阿修羅
ブレイブハート・
若杉 英斗(ja4230)

大学部4年4組 男 ディバインナイト
思い繋ぎし翠光の焔・
星杜 焔(ja5378)

卒業 男 ディバインナイト
JOKER of JOKER・
加倉 一臣(ja5823)

卒業 男 インフィルトレイター
輝く未来を月夜は渡る・
月居 愁也(ja6837)

卒業 男 阿修羅
蒼閃霆公の魂を継ぎし者・
夜来野 遥久(ja6843)

卒業 男 アストラルヴァンガード
真愛しきすべてをこの手に・
小野友真(ja6901)

卒業 男 インフィルトレイター
楽しんだもん勝ち☆・
ユリア・スズノミヤ(ja9826)

卒業 女 ダアト
陰のレイゾンデイト・
天宮 佳槻(jb1989)

大学部1年1組 男 陰陽師
来し方抱き、行く末見つめ・
小田切 翠蓮(jb2728)

大学部6年4組 男 陰陽師
来し方抱き、行く末見つめ・
黄昏ひりょ(jb3452)

卒業 男 陰陽師
来し方抱き、行く末見つめ・
里条 楓奈(jb4066)

卒業 女 バハムートテイマー
主食は脱ぎたての生パンツ・
歌音 テンペスト(jb5186)

大学部3年1組 女 バハムートテイマー
されど、朝は来る・
ファーフナー(jb7826)

大学部5年5組 男 アカシックレコーダー:タイプA
来し方抱き、行く末見つめ・
華宵(jc2265)

大学部2年4組 男 鬼道忍軍