●京都行きの前、学園にて
白川が占有している教授室に、何処か思いつめたようなノックの音が響いた。
「どうぞ」
ドアを開けて顔を覗かせたのは、櫟 諏訪(
ja1215)と小野友真(
ja6901)だった。
「何か急ぎの用件かね?」
諏訪がいつもの明るい表情で、だが強い意志を籠めて言った。
「今回、自分達も小青に立ち合うことになったのですよー。それで現場の担当者として、当日池永真弓さんの立ち合いをお願いしたいと思うのですよー?」
真弓は元の名をクー・シーという堕天使で、シュトラッサー小青の主である。
「ふむ。理由を聞いてもいいかね?」
白川の声は何の感情も宿っていないように響く。
「おそらく小青の現状は、今までに余りないパターンなのだと思うのですよー? となると、何が目覚めの切欠になるかもわかりません。ティンベルさんの力の行使にあわせて真弓さんが想いを伝えれば、良い方向に向かうのではないかと思うのですよー」
そこまで滔々と語った諏訪が、言葉を切った。
「……と色々並べても、結局のところ目が覚めた小青と真弓さんとを会わせてあげたいだけなんですけどねー?」
友真がデスクに手をかけ、身を乗り出す。
「先生、手を貸してほしいんです。前に一つ貸しがあるいうてましたよね? それ、今使わせてください!」
諏訪の表情からもいつしか笑みが消えている。
「迷惑をかけるかもしれないですけどお願いします」
「何か問題が起きたら、俺、何でもしますから!」
二人は揃って神妙な顔つきで頭を下げた。
沈黙が流れる。
友真が何か言葉を継ごうとしたとき、漸く白川は口を開いた。
「君達が小青のために一生懸命になっている、その気持ちはとても素晴らしいことだと思っているよ」
友真がそっと顔を上げて窺う。白川の表情は固かった。
「だが、小青の事情だけで事態が動いている訳ではないことは、君達も分かっていると思っていたがね」
白川の言葉に二人は鼻白む。
「……池永氏の容体が思わしくないのだよ」
原則として、堕天使やはぐれ悪魔は久遠ヶ原学園内で保護される。それは監視の意味もあるのだが、特例として真弓の様に後見人の元、学外で生活している者もいる。
真弓は堕天した原因である池永氏と別れ難く、病を得て先の長くない彼を見送りたいと京都に居るのだ。
「そんなに悪いんです……?」
友真が眉をひそめた。痩せて弱っていても強い意志を感じさせた老人の顔を思い浮かべる。
「はっきり言って、いつどうなってもおかしくない状態が続いている。真弓さんの立場で考えて貰えないかね? 今、池永氏の元を離れられるかどうかを」
そう言われては無理強いもできない。
「じゃあ、せめて、何か……ネット通信でも、電話でも!」
「ネットは……余り気乗りはしないな」
そこで今日初めて、白川の固い表情が困惑に変わった。
「さっき櫟君が言った通り、何が起こるか分からないのだよ。小青の記憶がどの時点で止まっているのかもね。真弓さんの顔を見たとき、敵対していたあの時点に戻っていないと誰が言える?」
納得できない。
そんな心情をありありと浮かべた諏訪と友真の顔に、白川は苦笑いを浮かべた。
「……まあ電話ならあちらに待機して貰うことはできるだろう。その代わりと言っては何だが、小青のことは宜しく頼むよ」
白川は立ち上がって近づくと、二人の肩を軽く叩いた。
●京都、病院にて
その翌日。白川は狩野 峰雪(
ja0345)、若杉 英斗(
ja4230)、夜来野 遥久(
ja6843)、そして梨香と共に京都に向かった。
天魔によって心身共に傷ついた人々が入院している病院を、堕天使ティンベル達を守るためとはいえ、戦闘の現場にしてしまった。
その事実はずっと胸に重くのしかかっており、遥久は複雑な思いで仮止めされた門に触れる。
白川と並んで峰雪は院長に丁寧に挨拶を述べた。
「先日はお騒がせしまして、本当に申し訳ありません」
貫禄や雰囲気からは、白川よりも峰雪の方が責任者としか見えない。
「何かお困りのことなど、その後ありませんでしたか」
「まあまあ、もう済んだことですから」
院長は柔和な表情でそう言った。遥久が長身を屈めてお辞儀する。マインドケアの柔らかな波動を漂わせて。
「もしご迷惑でなければ、あの壊れた門を修理させてください。力はありますので」
「……ではお願いしましょうか」
「有難うございます」
一礼して遥久は踵を返す。峰雪と英斗は一瞬目をあわせ、その後に続いた。
梨香がためらいがちに口を挟んだ。
「あの、紗代ちゃ……小嶋紗代さんと会うことはできますか?」
「担当の先生に確認してみますね。少しこちらの部屋で待っててもらえますか」
そうして応接室に案内された。
白川は戦闘で損傷した諸々を補償する手続きのために、同じく待つことになる。
小一時間も経った頃だろうか。門のがたつきを直して戻ってきた三人は、意外な光景を目にすることになる。
梨香が白川に尋ねていた。
「先生はお身内を天使によって亡くされたと聞きました。天使を憎くは無いんですか?」
遥久は思わず白川の顔色を窺う。
入口に立つ三人に気付くと座るように促し、白川は梨香を見た。
「余り適切ではない例えだとは思うが。交通事故で身内を亡くしたとして、君は世界中から自動車をなくそうと思うかね?」
梨香が困ったように眉を寄せた。白川の話は時々飛躍する。
「私の父は確かに天使、もしくはその眷属によって死んだと聞いている。だが正直なところ、現場を見た訳でもない。そして学園には自分を先生と呼んでくれる堕天使やはぐれ悪魔の学生がいる。彼らを憎む理由はないだろう」
梨香は黙り込んだ。何か腑に落ちない、そんな表情だが、それ以上は何も言わなかった。
気詰まりな間は院長が入ってきて途切れた。
「大八木梨香さん、小嶋さんが是非にと言うてますので、どうぞ」
「あ、はい!」
「あの、すみません!」
梨香に続いて英斗が腰を上げる。
「もし良かったら、自分も勉強のために皆さんのお話を伺いたいんですが」
もう一度この病院に来たいと思う学生のために白川が用意したのは、『天魔被害者のケアについて』という課題だった。名目とはいえレポートは必須である。英斗には勿論課題をクリアする必要があったが、やはりこの病院の人々のことが気にかかっていたのだ。
「……そうですね、小嶋さんと大八木さんがそれで良いなら」
「有難うございます! 生の声を聞かずして、机上で語るなんて無意味ですからね」
ぽかんとして見上げる梨香の腕を、英斗は勢いづけるように引っ張り上げた。
紗代は談話室で待っていた。
「梨香ちゃん、こっち!」
その表情は思いの外明るく、梨香は内心ほっとする。それでも一言が出てくるには、かなりの努力を要した。
「紗代ちゃん、この前は……ごめんね?」
紗代がきょとんとして梨香を見つめた。梨香は迷う。寧ろ触れない方がいいのかと。
「ああ、梨香ちゃん忙しかったんやし。また来てくれてありがとうね」
結局肝心な部分に触れないまま、他愛のない会話を続ける。
そこに英斗が声をかけた。
「はじめまして、かな。若杉といいます」
「学園の先輩。少しお話を聞かせて欲しい、て。かまへん?」
梨香は紹介すると、飲み物を買って来ると言ってその場を離れる。
幾つかの決まった質問。差し支えのない範囲での、今の心境。そんな会話を続けていると、紗代が少し表情を引き締めた。
「若杉さんて、今まで沢山、戦って来たんです?」
英斗が頷く。
「撃退士かて、死なんて訳やないですよね」
紗代の指が強く膝掛けを握り締めていた。
「そりゃそうです。俺だって本当のことを言えば、天魔は怖いですよ。でも、俺がやらなきゃ誰がやるって感じですかね」
紗代が顔を上げて英斗を見た。
「俺はディバインナイトってジョブなんです。敵の攻撃を防いで、味方を護る役回りが多いかな。そういえば、俺と一緒に来たコ、大八木さんもディバインナイトですね」
「梨香ちゃんも……」
紗代の視線が揺らぐ。
「そうです。俺はどんな化物の攻撃だろうが、逃げませんよ。俺が逃げたら味方に被害が出ますからね」
「それで死んだらどうするんですか?」
紗代の声は氷の礫のようだった。
「守ってもらって、目の前でその人が死んだら、私らはどうしたらいいんですか……!!」
紗代の心には、自分達を助けるために死んだ警官のことがずっと残っていた。
父親よりも少し上だろう、背の高い警官だった。今となっては効かないと分かっている拳銃を連射し、逃げる人々からサーバント達の意識を自分に向けさせ、命を散らした。
家族だっていただろう。こんな所で死ぬなんて思いもしなかっただろう。
あの人を犠牲にして生き残ってしまった。そのことが、紗代を苦しめていたのだ。
英斗は途切れ途切れに語られる紗代の言葉を静かに聞いていた。
「その人は凄い人だよね」
自分が死ぬことは確かに怖い。だがその警官の中では死の恐怖よりも、目の前の命を守りたいという気持ちの方が強かったのだろう。
「その人の事を忘れる事なんかできないだろうし、忘れちゃだめだと思う」
英斗は目の前の紗代に、そして自身に語るように言った。
恐怖を制御し、立ち向かう心。
辛い経験からともすれば英斗の中で折れそうになっていた、守り手としての自負。撃退士として歩み始めた頃の思い。今また改めて心に灯すのは勇気の炎。
「その人は小嶋さん達を守りたかったんだ。そして小嶋さんは生きている。それはその人が、天魔に勝ったって証じゃないかな」
「天魔に勝った……そう思って、ええんやろか……」
大粒の涙がはたはたと紗代の拳にこぼれ落ちた。
院内を見学していた峰雪は、廊下の隅で俯く梨香を見つけて声をかけた。
「大丈夫かな? ……お友達と何かあったのかい?」
梨香は首を横に振り、ハンカチを取り出す。
「私、何にも知りませんでした。やっぱり、ひとりで来なくて良かった」
峰雪は穏やかな表情のまま、梨香が涙を拭いきるまで壁となってくれていた。
応接室には遥久と白川が残されていた。
遠い鳥の鳴き声、静かな山の気配が満ちていた。山はいつもそこにあって、動かない。
「迷わないと決めたのに、迷うことばかりです」
遥久は珍しく苦笑を浮かべてそう呟いた。
「君でもかね。とてもそうは見えないが」
少しからかうような白川の声音だった。
「まあ不惑は四〇歳だ。それまでは迷っても当然じゃないかね?」
「そうかもしれません」
遥久は頭が切れる。それ故に、時に思考の海に溺れがちになる。
余り内面を悟らせないタイプだが、内心では年齢相応の迷いや理想が混然と渦巻いているのだろう。
「……ミスターは、あまり深入りしようとなさいませんね」
「何だって?」
唐突な指摘に、流石の白川も聞き返す。
遥久は静かな目で、じっと白川を見据えている。
古い知り合いだという使徒・川上昇を目の前にしても、白川の表情も姿勢もほとんど変化しなかった。
抑制された感情。行動。
遥久を含めた学園生とも、親しく接しているようでどこか一線を引いている。
それは指導者としてのけじめだけでなく、何か別の理由があるのではないかと遥久には思えた。
「傷口を抉られれば、相手を殴る位は許容範囲だと思いますが。それすらも抑えておられる」
いけしゃあしゃあと、やった本人が言ってのける。
「酷い上司が居るものでね。その辺りはだいぶ慣らされてしまったようだ」
白川はいつも通りの微笑を浮かべていた。それはある種の仮面ではないか。少なくとも遥久にはそう思えた。
「成程。……ではお覚悟ください。私は逃げる者はしつこく追う性質でして」
遥久はそう言ってにっこり笑って見せる。
あの仮面の下に何があるのか。無理に剥がすつもりはないが、剥がれるそのときは見届けたい。
……目標と定めた人物であれば尚更に。
「やれやれ。とびきりの美女に言われれば嬉しい言葉だろうに」
肩をすくめる白川の横顔に、微かな綻びの気配があったことに遥久は気付いただろうか。
●再会、学園にて
直談判が不調に終わったことを、友真は不満げに月居 愁也(
ja6837)に報告した。
「うーん、まあそういう事情ならしょうがないよな」
愁也も天を仰ぐしかない。
「俺、絶対、真弓さんがおった方が小青のためになると思うんや」
「俺もそう思うけどなー……上手くいかねえな、ほんとに!」
ぐしゃぐしゃと赤い髪をかきまわした愁也だったが、不意に友真の袖を引っ張った。
「なあ、あれがティンベル?」
「え? あ、うんそう!」
友真が言うと同時に二人は駆け出す。
長い深蒼色の髪をリボンで束ねた少女が、ネフラウス、ルナ・ジョーカー(
jb2309)と何事か立ち話をしていた。友真に気付くと、小さく笑ってみせる。
「元気そうで良かった! もう学園には慣れた?」
「うん、まだネフラウスに色々助けてもらってるけど」
「あ、俺、月居でっす! 遥久がお世話になってまーす」
愁也が友真と肩を組むようにしてぬっと顔を出した。
「ハルヒサ……? ああ、銀髪の」
「そうそう、銀髪のオトコマエ! 俺の親友!」
「で、愁也さんの保護者な」
友真がそっと付け加えたが、愁也は気にしない。
「良かったらどっか落ちつかね? あ、食ったところ? 甘い物ぐらい入るんじゃね? おごるからさ、行こ!」
「え、あ」
ティンベルの返事もそこそこに、愁也は近くの学食に移動する。
そうして出て来た物体を見たティンベルは、途方に暮れているようにも見えた。
「すごいやろこれー! いっぺん食べてみたかってん♪ 五人やったら制覇できると思うんや」
友真が満面の笑みでスプーンを配る。テーブルの上に乗っているのは巨大なプリンパフェだった。
「これは……食べ物なのか」
ネフラウスはスプーンを渡されたことで認識したらしい。
「やだなあ、それ以外の何だよ! よーし、じゃあいただきまーす!」
「あ、待って! 最初の一口はティンベルやで!」
愁也と友真は、内心の感情を押し籠めた分、普段より騒がしくなる。
「えっと……じゃあ」
恐る恐る挑んだティンベルが目を丸くする。
「……甘い」
「気に入った? じゃあ他の部分も行ってみようか!」
こくこくと頷き、ティンベルは手を忙しく動かし始めた。
結局ネフラウスは早々に撃沈したが、ティンベルは最後までご機嫌だった。
「ふー、流石にお腹いっぱいになるな! ご馳走様〜」
空の器を前に、友真が満足げに両手を合わせる。
そして真面目な顔でティンベルに向き直った。
「……今回のこと、ありがとな」
「?」
「小青……シュトラッサーに力を貸してくれる、てこと」
ティンベルが小首を傾げた。
「うん、でもそれはあたしがここに来るための約束だから」
友真は首を振る。
「そうやないん。確かに頼みごとがあるんは本当なんや。でも自分がやりたくないこと、無理にしてもらいたい訳やないん」
愁也が続く。
「俺もその辺りはちょっと聞いてる。だから、改めて言っておきたいんだ。ありがとう、そして俺らの我儘……事情に付き合わせてごめんね」
ティンベルは困惑した表情でネフラウスを、そしてルナを見た。
人間の言葉の意味が分からない。そんな風情だ。
「……天魔も様々だよね。皆みたいに、こっち側に来てくれたりするし。元々天魔にとって俺達は餌なんだろうけど」
呟いた愁也に、ティンベルが口を開いた。
「ねえ。聞いてみたかったんだけど。人間も命を食べるんだよね。もし鶏が酷い、食べないでって言って反乱したら、どうするの?」
友真と顔を見合わせ、そして愁也が頷いた。
「うん、凄く困るだろうね。だから俺達は、感謝を忘れないようにしたいんだ。さっき言った『いただきます』、そして『ごちそうさま』は、命を与えてくれるものに対する感謝の言葉なんだよ」
不思議そうな顔でティンベル、そしてネフラウスが見ていた。
「……ま、感謝されても食べられる側が納得するかどうかはわかんないけど?」
何を言ってるんだろう。そんな風に愁也が頭を掻いた。
「じゃあもう一つ。小青だっけ? 大体の話は聞いたんだけど」
ティンベルが厳しい表情を浮かべる。
「その子、本当に目覚めたがってるのかって考えた事はある?」
「え?」
愁也と友真はまたも顔を見合わせた。ティンベルは静かに続ける。
「その子が眠り続けてるのはさ、もう戦わせないでって、そう思ってるのかもしれないよ?」
友真の拳がテーブルを叩いた。
「そんなん、二度とさせへん!」
ガラスの器やスプーンが抗議する様に音を立て、ティンベルが身じろぎした。愁也が素早く友真の拳を押さえる。
「あ……怖かったな、ごめん。でも小青だけやない、ティンベルにもこの世界の綺麗なところを色々見て貰いたいんや。これから楽しく生きていけるように、一緒に考えて行きたいんや」
ティンベルはまだ何か問いたげだったが、自分から話題を打ち切った。
「……とにかく約束は守るよ。『ごちそうさま』」
●使徒の眠り
施設の窓口で竜見彩華(
jb4626) が声をかけると、馴染みになった受付の担当者は笑顔で頷いた。
「失礼します」
丁寧に頭を下げ、病室へ向かう。
幾度か訪れた部屋には、いつも通り静かに眠る小青の姿があった。
「もしかしたら、小青さんにとっては夢の中の方が幸せかもしれないんですね」
ティンベルが友真と愁也に語ったことは、彩華も考えていたことだった。
小青が、ネフラウスやその他多くの人々を傷つけた事実は無くならないのだ。
それでも。
「このままで、擦れ違ったままで終わらせたくないんです」
彩華は唇を噛み締める。
このままさようならじゃ何も産まれない。何も進まない。
「ねえ、生きていればこそ、償うこともできると思いませんか」
彩華はベッドの傍に、小青の好物だという月餅と、輝く若葉の写真を置く。
幸せを知ったからこそ、小青は主の真弓を強く求めた。
大事な物を知って、それを奪われる苦しみを知って、そうして初めて己の行いの意味を知ることができる。
だが彩華はわかっていた。そこまで苦しむかもしれないと思いながら、小青に目覚めて欲しいと思うこと自体、自分の我儘かもしれないのだと。
「そのときは私も一緒に悩みます。だからもう一度、私たちにやり直すチャンスを下さい」
彩華は祈るように両手を組み合わせた。
いよいよ明日は、ティンベルがここにやってくる。
約束の時間より随分早く、一同が顔を揃えた。
「あ……あの、今日はよろしくお願いしますっ!」
彩華がティンベルの前で頭を下げる。
「何かお手伝いできることはないですか? 何でも言ってくださいね! あ、緊張してません? そういうときはこの子をもふもふしてると、落ちつくんですよ! ほらもふもふ、もふもふっ!」
呼びだしたケセランにティンベルの手を添えさせる。
「ほら、怖くないですよ?」
「う、うん……」
怖々と丸い生き物を撫でながら、ティンベルは頷いた。
諏訪が人懐こい笑みを浮かべて声をかける。
「今回はありがとうございますよー? 自分達もティンベルさんが疲れないように、なるべくお手伝いさせて貰いますからねー」
「ありがとう……うん、大丈夫、たぶん」
ケセランを抱きしめながら、ティンベルの表情は引き締まって行く。
友真が梨香の肩をつついた。
「友人さん、大丈夫やった?」
梨香が振り向き、微笑んだ。
「有難うございます。何とかいい方向に向かってくれそうです」
友真の顔がぱっと明るくなる。
「そうか、よかった! ……きついよなあ、俺もここ来る前あったわ。梨香ちゃん、そういうの分かってくれる良い友達持ってるね」
「……分かってなかったのは私の方だったんです」
梨香の表情はさっぱりとしたものだった。友真はただ頷く。
「そか。でももう大丈夫やな!」
「ええ」
それを待っていたかのように、白川が建物から出て来て一同を呼んだ。
ティンベルが小青の枕元に案内された。他の者はベッドを取り囲むように散らばる。
「お久しぶりですよー。もうそろそろ眠るのにも飽きたんじゃないですかねー?」
諏訪がそう言って覗き込んだ。最後に会った時と小青は全く変わらない。
その小さな姿に、英斗は幼馴染から聞いた苛烈な使徒の面影を見出すことはできなかった。
(お前を待っている人達がこんなにいるんだ。必ず戻ってこい、小青)
一部始終を見届けるつもりで、英斗は小青のベッドの足元の椅子にかける。
遥久がティンベルの傍に近寄ると、静かに声をかけた。
「今更なのですが、力の行使についてティンベルさん自身には影響はないのですか?」
ティンベルが驚いたように顔を上げる。
「え? ……ああ、うん。自分の意思で使うときは迷惑をかけたりしないよ」
「取引という形になってしまって申し訳ないと思っています。ですが、同じ学園の仲間です。今後も必ず守りますから」
ティンベルの目元が少し柔らかくなる。
「うん。皆を信じてるよ。ただちょっと緊張してるだけ」
愁也は椅子に掛け、無言でベッドを見据えていた。
(小青が目覚めたら、確かに待ってる未来は辛いかもしれない)
綺麗事では済まないことも沢山あるだろう。それでも約束したのだ。
絶対味方になる。幸せだと、目覚めて良かったと思える未来を見せてやると。
全てを手に入れられると思うのは傲慢かもしれない。だが望まねば何も手に入らないのだから。
ティンベルが頷き、白川が携帯電話で真弓を呼び出す。静かな緊張が部屋に満ちた。
電話が繋がるとティンベルが代わる。
「一応、あなたに許可をとっておこうと思って。一度小青の主従関係をあたしに繋ぐけどいい?」
その方が力を加減しやすいのだと説明し、ティンベルが白川に携帯を返した。
「じゃあ始めるよ」
そこで白川に会釈して、ネフラウスが静かに部屋を出て行く。気付いた峰雪と梨香が後を追った。
●堕天使の恐れ
「ネフラウスさん!」
梨香の声に振り向くと、ネフラウスは少し驚いた様な顔をした。
「ティンベルさんについていなくていいんですか?」
「ああ。下手に私が傍にいると、生体エネルギーをうっかり貰いかねないのだよ。それに……」
「それに?」
梨香が促すとネフラウスは苦笑する。
「私の顔を覚えていれば、小青が気まずかろう。記憶を混乱させるかもしれぬしな。で、貴殿らは?」
峰雪は軽く肩をすくめてみせる。
「あの場では部外者の様な気がしてね」
「私も……です」
梨香が誤魔化すように笑う。
「そうか。ではちょうど良かった。少し話をしたいのだ」
ネフラウスは二人を外へ誘う。受付を通る時に会釈すると、僅かに事務所の緊張がほぐれたようだった。考えてみれば、外に予備の撃退士が居るという体裁の方が彼らも安心できるのだろう。
「本当は教師に聞きたかったのだが。戦闘能力を持たぬ堕天使はどのように扱われるのだろうか」
ネフラウスの問いに、梨香が考えながら答える。
「斡旋所のアルバイトをしていますけど、戦闘以外の依頼もたくさんありますから……特に問題はないと思います」
何か言葉を探しているようにネフラウスは眼を閉じる。
「それはそうなのだが。……ティンベルは怯えているのだ」
ティンベルは自分自身が戦うだけでなく、誰かが傷つけられることも怖いのだった。
討伐天使に補助要員として連れてこられたティンベルは、堕天使が目前で狩られたことに恐怖の余りパニックを起こし、その場から逃げ出した。
そして罰を恐れて逃げ回り、結果として不本意ながら堕天したという訳だ。
「戦えないことで放り出されれば確実に殺される。故に皆の願いを聞き、役に立ち、保護して欲しい。だがもし失敗したら? 成功したとして、その後は? 価値の無くなった自分はどうなるのか? ……それがあれの怯えだ」
「成程ね」
峰雪は顎に手を当てて考え込む。
「彼女はどうしたら安心できるのかな」
言葉で納得するのか? 何かお墨付きがあればいいのか?
そうではないだろう。恐怖という感情はそんなことで拭えはしない。
以前梨香は「紗代ちゃんには、私も怖いんじゃないか」と言った。
一般人から見れば天魔だけではなく、撃退士とて不思議で強大な力を持つ恐ろしい存在かもしれない。
もし将来天魔の脅威が去った時、自分達が当然の様に使うアウルの力は、一般人にとって新たな脅威と映るのではないか?
守るために使われる力が不要になった時、それは異端の象徴となりはしないか?
力持たぬ者には、力のある存在は恐ろしいだろう。ティンベルの恐怖、紗代の恐怖、先程の受付の人の恐怖、全て同じことだ。
「たぶん、怖いという感情は消せないだろうね。お互いに」
峰雪自身、仕事と生きる目的を失ったために、唯一残っていたアウルの力を拠り所として学園に来たのだ。天魔に対し強い憎しみを持っていた訳ではない。ただ平穏を脅かす存在を排除する、それだけだ。
だからそれまでの常識をひっくり返すようなアウルの力の発現に、命をかけて戦う事に、自分が武器を振るう事に、そして武器を振るえば血が流れる事に戸惑っていた。
だがいつかそれにも慣れ、アウルの力を恐れる感情も薄れている。
それはどこか危うい状態だ。戦いに麻痺し、力を行使することの意味を忘れ、持たざる者の気持ちを理解できなければ、自分達も天魔と変わらないではないか。
「自分にできる事があるという自信……でもただティンベルさんにこうすればいいと教えても、それができなくなったらどうしようって思うだけだろうね」
「それは、ティンベルさん自身が克服することじゃないでしょうか」
梨香が口を挟み、ネフラウスは怪訝そうに顔を向けた。
「私たちだっていつ戦えなくなるか判らないです、でも撃退士じゃない自分は無用だなんて思いたくないです。上手く言えないですけど」
そこまで言って梨香は我に返った。
「……すみません、偉そうなことを言いました」
「でもその通りだね。決めるのは彼女自身だ。そして案外、今の彼女は強いと思うよ」
峰雪が窓を見上げる。
ティンベルなりに日々を戦って、あの場に居るのだから。
●使徒の目覚め
ティンベルが小青の額に触れ、何事か口の中で呟いた。
長い髪が青い光を帯び、それが次第に強くなって部屋を満たす。
不思議な儀式の様に、ベッドの周りでしっかり手を繋いだ若者たちが固唾を飲んで見守る。
友真は息を詰めて、小青の瞼を凝視する。
(目ぇ覚ます気が一切無いなんてそんな事ないやろ? 目が覚めたら真弓さんに会えるんやで? 人間捨てるぐらい大事な人なんやろ?)
心の中で哀れな使徒に声をかけ続ける。
(真弓さんが死ぬなていうたんやで。今の状態、生きてるなんて言えんと思う。怖がる必要なんかない、一緒にいるから。約束守れんかったって呆れてるかもしれんけど、もう一度チャンスをくれたら、絶対今度こそ一人で行かせたりせんから!)
諏訪は友真が痛い程に握り締める指を黙って握り返す。
(みんなこうして戻ってくるのを待ってるんですよー?)
そのときひと際強く、ティンベルの身体が青く輝いた。と思った瞬間、光は消える。
失敗か?
全員が言葉を飲みこむ。
だがティンベルの顔には微笑が浮かんでいた。
「全部あんたにあげたんだから。動けるようになったらお礼ぐらい言ってよね」
人差指でつついた額の下、小青の瞼が薄く開いていた。
「目が開いてる……!?」
愁也が立ちあがった。遥久がすぐに身を乗り出し、耳元に囁く。
「小青、あなたは今久遠ヶ原学園に居ます。私の言っている言葉の意味が分かりますか?」
「随分長くこのままだったんだよね? 暫くは動けないんじゃないかな」
ティンベルがそう言ってベッドを離れた。その髪はいつしか青色を失い、銀色に輝いている。
英斗は視線を合わせて強く頷く。
「大丈夫。みんな君の仲間だ」
「先生、携帯を! 真弓さんに!」
彩華が泣きそうな顔で白川から携帯をひったくり、小青の耳に当てる。
『……小青?』
その声に応えるように、小青が幾度か瞬いた。
わっと歓声を上げ、愁也と友真が縋りつく。
「ごめん、ほんとにあのときはゴメンな! でも嬉しい、良かった、もう大丈夫!!」
「俺は絶対大丈夫やと思ってたし! 信じてたし!!」
「目覚めてくれてありがとうですよー? ちゃんと話ができるようになったら、ゆっくり皆で集まりましょうねー?」
余りの騒ぎに、控えていた看護士が遂に割り込んで来た。
「はいはい、一度皆さんは出てくださいね! 本人が混乱するでしょう?」
それでもすぐには部屋を離れ難く、愁也は廊下の長椅子に座りこんだ。
背中合わせの親友の温もりが胸に迫り、涙がボロボロとこぼれ落ちて来る。
――カッコ悪い。でも今は良いんだ。こんなに待ったんだから。諦めないでよかった。
愁也の背中を支え、遥久は天井を見上げていた。
突然、鼻の奥に痛みを感じる。続いて頬を伝う熱い物に気付き、遥久は驚いた。
喜びに涙するだけの心の衝動が自分の中にもあったのだ。
きっとこれが『人』であること。弱さに裏打ちされた強さ。
だが流石に気恥かしく、愁也に見つからないようにそっと掌で拭う。指の隙間から紫の瞳と視線が合ってしまったが、これは仕方がないだろう。
●ふりそそぐ光
その日のうちに、ティンベルは長い髪をバッサリ切ってしまった。
効率良く力を溜められる為の長髪は、もう不要という訳だ。
皆にもみくちゃにされ、ありがとうを繰り返し受け取り、ティンベルの中でも何かが変わったのかもしれない。
ボブの銀髪を揺らすティンベルの笑顔は明るい。
小青はまだ完全回復とはいかないが、少しずつ指を動かしたりはできるようになったらしい。
いずれは何かを語るだろう。
学園には今、命を寿ぐ初夏の光が降りそそいでいる。
<了>