●
賑やかな通りを一つ入った所で、夜来野 遥久(
ja6843)は控え目な佇まいの一軒の店に気付いた。
「……この店、前からありましたか?」
「どうだろうね? 覚えがあるような気もするのだが」
ジュリアン・白川(jz0089)も何かを思い出そうとするように首を傾げる。
「見た所、悪い雰囲気でもなさそうです。もう一軒ぐらい宜しいですね、ミスター?」
極上の笑みを向ける青年に、白川は軽く肩をすくめた。が、拒否ではない。
今日は遥久の誕生日祝という名目で連れ立ってきたのだ。まだ帰るにはもったいない時間でもある。穏やかなドアベルの音と共に、二人は店に入った。
ドアのすぐ前には、六道 琴音(
jb3515)が立ちつくしていた。
「あれ!?」
印象的な目をぱちぱちさせて、辺りを見回す。
「私、どうしてこのお店に!?」
「六道さん、こんな所で奇遇ですね」
名前を呼ばれて振り向くと、見知った顔。
「夜来野さん、白川先生、こんばんは。あの……今日は新年会かなにかでしたっけ?」
「どうでしょう。私たちは偶々この店を見つけて入ってみたのですが」
「そうですか……」
琴音が振り向くと、カウンターから会釈するバーテンダーの大八木 梨香(jz0061)と目が合った。
「お連れ様はあちらですよ」
「えっ大八木さん? ……連れ?」
ますますもって判らない。
だが示されたテーブル席にちまっと座っている小青(jz0167)を見たとき、突然全てがクリアになった。
(そうだ、私、小青さんと待ち合わせをしてたんだ)
金の瞳が真っ直ぐに琴音を見ている。
その拗ねたような表情に、思わず琴音は噴き出しそうになった。
「ああ、目を覚ましたんですね。良かった」
遥久が目を細めた。酷い怪我を負って眠り続けていた少女の元気そうな様子に安堵する。
「良かったなあ……夢みたいだ」
突然、すぐ傍で慣れ親しんだ声が聞こえた。
いつ入ってきたのか、月居 愁也(
ja6837)はつかつかと店の奥に進み、小青の頭をぐりぐりと撫でた。
「な、何をする!!」
「いやーお前、マジで寝すぎだって!!」
愁也の目が僅かに潤んでいるのに気付き、遥久は小さく呟いた。
「真弓さんもお呼びすれば良かったですね」
それから……と、遥久は共にこの喜びを分かち合い人々の顔を思い浮かべた。
リーガン エマーソン(
jb5029)は賑やかな一角をちらりと見遣り、静かにカウンター席に着いた。
「いらっしゃいませ」
「バーボンをダブルで」
「どれになさいますか?」
バーテンダーが幾本か並べた瓶の中から好みの銘柄を示し、改めて店を見回す。
「ここは何か懐かしい匂いのする場所だな」
不思議なことに、腰を落ち着けてみると周りの物音は遠く穏やかなざわめきに変じた。静かな音楽がベールとなってリーガンを包みこむ。
「お気に召しましたのなら嬉しいです。お好きなお店とでも似ていますか?」
バーテンダーはそう言って微笑み、グラスを置いた。
「ああ。古い友人たちと飲み明かした店を思い出すな」
リーガンはグラスを軽く掲げ、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
バーテンダーの女は、カウンターを出て店内を巡る。
テーブル席のひとつには、実年の紳士とその妻らしい女性、テーブルを挟んだ向かいには美しい娘が二人座っていた。
「何かお持ちしますか?」
長良 香鈴(
jb6873)はテーブルの下で重ねていた双子の妹の長良 陽鈴(
jb6874)の手をそっと握る。
「ヒカちゃんと対になるようなお酒なんてあるかしら? ……とにかく何でもいいわ」
普段より少し固さの残る香鈴の声を聞きながら、陽鈴はどうして此処にいるのかをぼんやりと考えていた。
寒いのは苦手だ。だからなるべく冬の間は外出しない。なのに何故、こんな夜にこんな所に居るのだろう?
ああそうだ、飲み物。陽鈴は顔を上げて答える。
「あの、折角だからホットカンパリでも頂こうかしら。今日は寒いから」
「承知しました」
穏やかな会釈と共に、バーテンダーは席を離れる。
少し離れた席には、憮然と座る陽波 透次(
ja0280)がいた。
向かいに座っているのは、二十代前半と思しきどこか不敵な笑顔を浮かべる女性だった。
紅色の長い髪がとても美しい。
突然、女が席を立つと、透次の隣に移動する。
「な、なんだよ」
『この機会をずっと待ってたの。久しぶりに会えたんだもの、もっと嬉しそうになさい』
女は白い指を伸ばし、顔をそむける透次の顔を強引に振り向けたかと思うと、突然唇を重ねた。
「……!!」
驚きの余り一瞬反応が遅れる。
だがどうにかしなやかな肩を掴んで引きはがし、透次は口元を拭うと声を絞り出した。
「何考えてんだ、息子相手に……ッ!」
女は全く動じるそぶりも見せず、満足げに微笑んでいる。
カウンターに戻ったバーテンダーは、椅子に掛けるメリー(
jb3287)に声をかけた。
「お待たせしました、メリーさん。来てくださって嬉しいです」
「久しぶりなのです! 大八木さんは凄く変わったのです!」
そう言う長い髪を風に遊ばせていた少女も、すっかり大人になっていた。髪はサイドを編み込んでポニーテールにすっきりと纏めてあり、淡い薄紅のブラウスの胸元は豊かな曲線を描く。薄いライトグリーンのタイトスカートから伸びたすんなりとした足は、黒の華奢な靴が良く似合う。
「メリーさんはメリーさんですけど、とても綺麗になられましたね。毎日が充実してるって感じがします」
バーテンダーの表情がふと緩み、素のままの梨香が覗いた。
「もちろんです! だって、お兄ちゃんはますますかっこいいのです! あ、写真を見せてあげますね!!」
セピアブルーのシュリンクレザーのバッグから、秘蔵のコレクションを取り出すメリー。
キラキラ光る眼は、少女の頃に戻っていた。
●
ずいぶん客が多い店だ。
普段のファーフナー(
jb7826)ならそう思った段階で、入口で踵を返していただろう。
だがいつもの癖で、瞬時に店内の客を一瞥していた。
そして店の奥に座る後ろ姿に身体が強張る。
(まさか)
ゆっくり振り向く女は、彼の姿を認めるとふわりとこぼれるような笑みを浮かべた。待ち人がようやく現れた。そんな表情だ。
バーテンダーの案内の声も遠くに聞こえる。ファーフナーは引き寄せられるように女の方へと歩み出した。
すぐ傍まで近付くと、怯えたようにその足が止まってしまった。あるはずのない存在を理性が拒否するのだ。
だが女が身じろぎした時に立ち上った香水の匂いに、全ては過去に引き戻された。
顔と同じく深い皺の刻まれた男の心は瑞々しさを取り戻し、同時に塞がっていた傷も生々しく口を開く。噴き出すのは身悶えする様な生の感情。
「久しぶりね」
耳をくすぐる声は甘く、切なく。痺れたような感覚に足元がふらつくのをやっと押さえ、女の艶やかな髪に触れた。
「お前はちっとも変わらないんだな」
「貴方だって」
言われて見ると、あの頃の若い自分の指。まだ色々な物に届くと信じていた頃の……。
「何か飲むか? ……ああ、お前の好きなのは……」
向かいの席に座りながら、その空間がガラス細工のように崩れるのを恐れるかのように、囁き声がかわされる。
バーテンダーに声を掛けられ、エルナ ヴァーレ(
ja8327)は我に帰る。
「何かお持ちしますか」
目の前の同席者から目を外さず、うわ言のような声を漏らした。
「そうね、何か……ああ、今日はお酒はいらないわ」
「では暖かいココアでもお持ちしましょう。おふたつで?」
白い髪の少年に首を傾げて見せると、バーテンダーは離れて行った。
エルナは向かいに座る少年の左目に残る、三筋の傷跡を見つめていた。
やがていつもつけている蝶を象った眼帯をそっと外す。白い肌には少年と対の様に、一筋の傷が刻まれている。
「ココアだって。あたい、普段はビール飲んでるのにね」
でもこの姿じゃ飲めないものね。それに今日の出来事は何一つ忘れたくない。
気がつけば少年と同じ、十歳ぐらいの頃のエルナが座席で足をぶらぶらさせていた。
「うん、日本の学校は楽しいわよ。特に今の学校はね。遠足とか旅行とか行ったり、変な奴をぶっとばしたり……」
ミルクと砂糖たっぷりの暖かいココアを飲みながら、エルナは沢山の話をする。
少年もココアのカップを両手に包み、その話をただ微笑みながら聞いていた。
梨香はカウンターに戻り、メリーに笑いかける。
「すみません、放ったらかしで」
「ううん、お仕事ですから! あ、そうです。何かメリーにお勧めのカクテルがあったらお願いしたいのです!」
「ふふ、では何かお作りしますね」
梨香は慣れた手つきで幾つかの瓶から液体を注ぎ、シェーカーを振る。
その姿を頬杖をついて楽しそうに眺めていたメリーが、ふと眉を曇らせた。
「大八木さんは背が高くて、プロポーションが良くて羨ましいのです……」
「えっ?」
今度は梨香の方が困った顔になる。
「確かに、棚の上の物なんかは取りやすいですけど……私は寧ろメリーさんみたいな、可愛いらしいブラウスなんかが……」
あと、つくべきとこに必要なモノが充分についているとか。
どこかどんよりした梨香の表情は昔のままだったが、手はちゃんと動いている。シェーカーから出て来た優しいピンク色の飲み物は、グラスにぴたりと収まった。
「どうぞ。ミリオン・ダラーです」
パイナップルを添えたカクテルグラスをメリーの前に置く。
「メリーは思ったより背が伸びなかったのです……」
ふう、と溜息をつき、メリーはグラスを口に運んだ。
大好きな兄は筋骨たくましい美丈夫だ。せめてすらりと背が高ければ、並んでいてももっと様になるのに。
「それでもお兄さんと今でも仲良しなんて、羨ましいぐらいですよ」
梨香がそう言うと、メリーの顔がぱっと明るくなった。
「だってアラサーになって、年々渋みを増して行くんです! 鍛え上げた上腕二頭筋や大胸筋、鋼鉄みたいな腹斜筋、三角筋も前腕筋も逞しくて惚れ惚れするするのです!」
滔々と語るメリーの目は、アルコールの酔いも手伝ってうっとりと宙を見つめる。
「……良く見てらっしゃるんですね」
梨香としてもそう答えるしかない。
「あ、でも流石に、一緒にお風呂は入っていないのですよ!!」
ずるっ。
カウンターの上を梨香の上半身が滑っていた。
●
二杯目のグラスを傾けるリーガンは、隣に誰かが座るのに気づいて顔を上げた。
「お前……」
眼鏡の奥のブルーの瞳が見開かれる。
椅子が軋む音、懐かしい気配。リーガンは思わず座り直す。
新しい顔ぶれにバーテンダーが近づいてきた。ああ、やはり注文は同じバーボン。
リーガンは少し笑いながら肩を竦め、自分ももう一杯と声を掛ける。
「随分久しぶりだな」
グラスを合わせる音も懐かしい。
語りたい、語るべき多くの言葉が喉元にこみ上げる。だが喉を焼く酒でひとまずはそれを抑え込む。
今はもう逢えないはずの懐かしい戦友。共に傷つき、涙し、怒り、そして彼は手の届かない場所へと去っていった筈だ。だが彼が今、この場にいることに、何の不思議も覚えなかった。
「笑ってくれて構わない。私にはまだ、護るべきものがあるのかもしれないという考えを捨てられないんだ」
本来なら既に彼らと同じく、傭兵にはある意味最も近しい場所に居る筈の自分だ。
どういう訳か生き残り、その結果新たな道を見出すことになった。
「年を経たゆえの傲慢、なのだろうね」
戦友が笑う。だがその笑い声には、暖かさがあった。
「私の経験から、次代を担う連中に伝えられる何かがあるのかもしれない。そう思うと、こんな命にもまだ使いみちがある様に思えるんだ」
傷だらけの分厚い手。この指の間からすり抜けて行った命は数知れない。
「それでもまだ、守れる命はある筈だ」
握り締めた手に、あるいは戦友に宣誓するように。リーガンは静かに、けれど力強く語るのだった。
遥久と白川がカウンター席に並んで座ると、直ぐにバーテンダーが近づいてくる。
「そうですね……誕生日ですので、私に似合う酒を選んで頂けますか?」
まるで謎かけの様に遥久が微笑んだ。
「君は時々、私を過大評価しているように思うよ。冷や汗ものだな」
白川は苦笑いしつつ、注文する。
運ばれてきたのはウォッカライム、そしてカクテルグラスの底に白いパールオニオンが沈むギブソンだった。
「どこまでも透明で、甘くなくしっかり強い」
白川はそこで言葉を区切り、悪戯っぽく笑う。
「そして何やら底の方に抱えている」
「それはどうも」
遥久は澄ました顔でグラスに口をつけた。
しばし冗句を交えつつ語るうちに、話題が依頼の話に戻る辺りは生来の生真面目さ故か。
京都での共闘は、プロフェッショナルという言葉の意味を遥久に深く印象付けることとなった。
「超えてみせると言いましたが、中々先は長そうですね」
「何、偶々さ」
実際の年齢より老成して見える遥久が垣間見せる悔しそうな表情が珍しく、白川は小さく笑う。
ふと、真面目な表情で遥久が尋ねる。
「そういえば、撃退士としての能力が発覚した時……ミスターはどうでしたか?」
学園に来てもうすぐ三年、得た物は数多い。だが遥久はその能力を数年間、ひたすら隠し通していたのだ。
今、数々の出会いと別れを経て、自分は「どう生きるべきか」を繰り返し考えている。
天使や冥魔は人に似た形をしていても、根本的に人とは違う。だが撃退士の力は果たして人のものと言えるだろうか?
共に学園に来た親友の愁也は、経験を積んで揺るぎない目標と信念を持つに至った。
では自分は?
いつの間にか「お目付役」であり、常に先導していたはずの自分を、愁也は追い越しているのではないかと思うことすらある。
「発現した時か……余り思い出したくはないが。ただただびっくりして、流れるまま、という感じだったかな」
白川は珍しく、照れたように笑っていた。
透次はテーブルの上で拳を固く握りしめていた。
睨みつけている相手は、傍らの母親――正確には、生前の母親だ。
傍から見れば、青年が年上の女性にからかわれているように見えたかもしれない。
『顔真っ赤よ、透次。意識しちゃった?』
くすくす笑う声も、言葉も、何処か遠い所から響くように思える。透次は拳を一層強く握る。
「黙れ変態」
『ふふん、ご馳走様! 男前になった時、唇を頂こうと狙ってたのよね』
ころころと笑いながら、とんでもないことを言ってのける。
『他の女にファーストキスなんかやらないわよ? いやーそれだけが心残りで死んでも死に切れなかったのよね。うん、満足満足♪』
昔からこうだ。
強引で傲慢で、子供っぽくて。でも憎めない女性。
透次の三倍は強くて、百倍頭も良い、燃えるような正義感で世界を駆け抜け、多くを救った正義の味方。
けれど母は沢山の人を救った代わりに、自分の子供を置いてけぼりにした。
寂しかった。
憧れだった。
最高の撃退士で、最低の親。それでもその背中は憧れで、ずっと母の様に強くなりたいと思っていた。
「男前なんかじゃない」
思わず本音がこぼれ出た。
透次には救えなかった命がたくさんある。
「僕には才能がない」
――母さん程には。その言葉は流石に飲み込んだ。
●
香鈴は手元のホット・イタリアンが温くなっていくのをぼんやりと感じていた。
ホット カンパリのレモンとオレンジで対、ということらしい。
(ヒカちゃんと楽しく新年デートだと思っていたのだけど)
どうして正面に両親がいるのか。そっと窺うと、陽鈴の顔にも困惑の色が見える。
「お久しぶり、かしら」
陽鈴がぎこちなく切り出す。
「パパとママ、二人が揃った姿を見るのは初めてだったかしら?」
香鈴も笑顔を向けるが、それは少し冷たい物だった。
父は大企業の管理職。ハンサムだが、少し冷たい印象を与える容貌だ。
その印象の通り責任感が強く、立派に仕事をこなしているらしいが、その分家庭を余り顧みない人だった。
香鈴と陽鈴の記憶の中では、父が笑っている記憶は余りない。
隣に座る母もやっぱり、二人が覚えている「困ったような笑顔」だった。
母はファッション雑誌の編集長。やはり仕事はやり手で、子供は家政婦に任せて世界を飛び回っていた。
恐らく香鈴と陽鈴の事は愛していたのだと思う。けれどただ高価な服をプレゼントすることでしかその愛情を表現できない人だった。
「……ちょっともう一杯、何か貰って来るわね」
香鈴が陽鈴を促して、一度席を立った。
「ねえヒカちゃん。どうしようかしら?」
カウンターに寄りかかり、香鈴が溜息をついた。陽鈴は言葉を選ぶようにして囁く。
「パパとママが嫌いなわけじゃないし、ずっとカオちゃんが一緒だったからさみしくなんかなかったわ」
だからママ、そんなに困った顔をしないで。
「……そう言ってあげれば、子供の頃みたいに笑ってくれるのかしら」
「ねえ、バーテンダーさんはどう思う?」
香鈴は新しい飲み物を用意している女に問いかけた。
「そうですね。実は私の父もちょっと似ているかもしれません。ふふ、でもお二人のお父様ほどハンサムではなかったです」
穏やな笑みを浮かべ、仕事に一生懸命で、厳格だった父の事を短く語る。
「大人になって分かったのは、大人だからって何でもできるわけでもないし、何でも分かっている訳ではないということですね」
「……そうかしら」
香鈴が首を傾げた。
「親だって弱かったり悩んだりするのだと。そう心から分かったときが本当の親離れなのかもしれない、と今は思います」
バーテンダーは元の席に戻るよう、二人を促した。
テーブルにはカクテルではなく、暖かな紅茶が人数分置かれた。真中には数枚のクッキー。片目をつぶるとサービスですよ、と言ってバーテンダーは席を離れる。
紅茶を啜り、父が訥々と語り始める。
元気そうで安心した。撃退士は辛くないか。仕送りは足りているのか。
そんな言葉が出てきたことに、香鈴は目を見張った。
(……心配なんて出来るのね)
香鈴の微笑みが柔らかい物になる。
「うふふ、ありがとう。苦労なんて何も無いし学園生活はとても楽しいわ」
陽鈴はほっとした。
たぶん、カオちゃんも分かってる。
パパもママもちゃんと私達を愛しているし、私達だってパパとママが大好きなんだから。
「大丈夫、昔も今もとても幸せよ。心配しなくてもカオちゃんに近寄る悪い蟲は一匹残らず駆除するわ」
おっとりとした笑顔で、結構過激な発言をする陽鈴である。香鈴が目を見張る。
「あら、私だって。これからもずっと、ヒカちゃんを護る盾よ」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。これからも大丈夫、二人でなら。
「だから心配しないで。たまには……たまには手紙でも出すわ」
「二人とも体に気をつけて、お仕事頑張ってね」
母はずっとハンカチで目頭を押さえていた。父は頷くと、母を促して立ち上がる。
連れ立って店の外へ出て行く後ろ姿を、香鈴と陽鈴は手を握り合いながら見送った。
●
愁也は全てを拒絶する壁の様な背中に、思わず笑みを漏らした。服装は見た事がない物だが、間違いない。あいつだ。
「ああそっか、盆と正月は帰ってこれるんだっけ」
テーブルを回り込み、ドカリと前に座る。
「一富士二鷹三茄子って言うし、茄子に乗ってきたのか?」
「……滅茶苦茶だな。お前は本当に二十歳を過ぎているのか?」
憮然とした顔で腕を組むのは京都で倒れた筈の使徒、蘆夜葦輝(jz0283)だった。
「そもそも来るときは胡瓜の馬で、帰りが茄子の牛だ。それと関西にはない風習で……」
「はいはい。……久しぶりだな、あっしー」
「誰があっしーだ」
即座にコースターが飛んでくる。大げさに避けながら、愁也はまた笑った。
「新年の酒の席で、何でそんな仏頂面なの? 少しは楽しそうな顔しろよ。ほら、かんぱーい!」
グラスを無理やり合わせる。
「闘志剥き出しの猪武者が、これ程お調子者だとは知らなかったぞ」
蘆夜はそう言ってグラスを煽った。
「そりゃお前が悪いよ。俺の大事な親友を傷つけたんだからな」
その報いを受け、蘆夜は倒れたのだ。
だが最期の言葉が愁也の胸に強く残った。
「自分でもやっつけてから興味が湧くとかホントわかんねえけどさ。一度こうやって話をしてみたいって思ってたよ」
「馬鹿馬鹿しい。お前と俺は敵同士だ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
蘆夜は新しいボトルを注文する。
「それでもさ。一度聞いてみたかったんだよね。お前、もし撃退士としての力があったら、何してた? ……何を、したかった?」
学園で知り得た情報では、蘆夜は撃退士になりたかったという。
もしも彼の望みが叶っていたら、学園で一緒に戦っていたかもしれないのだ。
「益体もない。俺には無尽光の力は無かった。それが事実だ」
にべもなく蘆夜は切り捨てた。
「あーあ、あっしーって撃退士になってても、潔癖すぎてどっかで踏み外してそーだよな」
愁也は勝手にボトルを取り上げ、自分のグラスにたっぷりと注ぐ。
「ま、そうなったら俺がブン殴ってでも止めるけど」
蘆夜の涼しい目元は以前と変わらない鋭い光を宿していた。
だがほんの僅かに口元が緩む。
「お前の様な奴にこそ、撃退士は相応しかったのだろうよ。今なら分かる」
「うわ。どうしたの。病気? ……って冷たい冷たい!!」
蘆夜が愁也の襟首を掴むと、氷を滑り込ませる。
……きっとこれは夢。俺の願望。わかってる……。
愁也は笑いながら、頭のどこかでずっとそう呟いていた。
愁也を眺め、小青が呆れたように言った。
「ああいう奴だったとは知らなかった」
琴音は小さく笑う。
「でも小青さんが目覚めてよかった。真弓さんも皆さんも、ずっと心配していたんですよ」
「……色々と世話を掛けた。すまない」
小青は生真面目に頭を下げる。
「そうだ、なにか注文をしないといけませんね。小青さんは何を飲んでいるの?」
「……酒がいいと言ったら出してもらえなかったのだ」
憮然とした表情で烏龍茶を啜っている。確かに実際の年齢はこの場の誰よりも上だろうが、見た目は少女なのだから仕方がない。
琴音は小さく笑って、手を上げた。
「大八木さん、サラトガクーラーをいただけますか?」
直ぐに注文の飲み物が運ばれてくると、琴音は小青を安心させるように梨香の袖を引いた。
「ほら、こちらの大八木さんも久遠ヶ原学園の仲間なんですよ。これからは一緒にがんばりましょうね」
人間だった時も、使徒になってからも、小青の幸せはただ主と共にあったときだけだった。
だから沢山の事を教えてあげたい。
仲間と一緒に笑って、自分でやりたい事を見つけて。
そこには主の真弓もいて、今度こそ小青は幸せになれるはずだ。
勿論、罪は罪として残るだろう。そこから逃げずに立ち向かうことも、小青にとっては大事なことである。だから。
「何かあったら私に言ってくれれば協力しますから。頼ってくれていいんですよ。ほら、向こうにいる月居さんや夜来野さんも、他の皆さんも、きっと力になってくれますから」
それぞれ楽しそうに笑っている愁也や遥久を指し示す。
「ひとりにはしませんから。小青さんは、何がしたい?」
「私は……」
傷ついた小青の手を握り、最後まで力を分けてくれた琴音の事は覚えているのだ。
「誰かの力になりたい」
皆のように。皆がしてくれたように。
●
両親の背後で扉が閉まると、香鈴はうんと伸びをした。
「なんだか肩が凝ったわね、楽しいお酒を飲み直したいわ」
「そうね。今度はカウンターに行かない?」
陽鈴もほっとしたように笑う。ふと香鈴がそこに座る人物に目を止めた。
「あら。ブロマイドでよくお見かけするジュリアン先生ね。ご挨拶してもいいかしら」
クスッと悪戯っぽく笑う表情は、いつもの香鈴だ。いや、何かから解き放たれた様な晴れ晴れとした表情は、いつもより輝いている。
(カオちゃんがちゃんと笑ってくれてるなら、それが一番ね)
陽鈴と香鈴が近付くと、遥久がさり気なく席を立って移動する。
「こんばんは。大学部の長良 香鈴と、こちらは陽鈴よ。先生とは一度ゆっくりお話してみたかったの」
「ああ、こんばんは。では何か一杯ずつどうだね?」
「あら嬉しい。じゃあお邪魔しますわね」
香鈴と陽鈴が白川を挟んで座る。
「では、今日の記念に。一杯ずつですけれど皆様にスパークリングワインを」
未成年の方はすみません、と断って、バーテンダーはグラスを配る。
「あっしー、乾杯だ乾杯!」
「お前はこれ以上ちゃんぽんするな!!」
グラスを取り上げようとする蘆夜の手を愁也がしっかりと掴んだ。
「なあ。お前の言葉に今、返事するよ。俺はずっと力無い誰かの為に戦ってるつもりだった」
じっと見つめる瞳に蘆夜は無言で応じる。
「だけどお前に逢って、目指してる『何か』がはっきり見えてきた気はするんだ。きっと本当は、お前が自分でやりたかった事なんだと思う。だからお前に言っておく。俺は、この力を弱い誰かを護るために使って見せるよ」
ずっと伝えたかった言葉。やっと言えた。
「だから乾杯だー!!」
「阿呆かお前は!!」
二度とない夜ならば、心ゆくまで笑おう。例え夢の中でも。
透次の前で、母は受け取ったグラスを目の前に翳した。
『何を言い出すかと思えば』
大げさに溜息をつくと、母は軽く睨んでくる。
『確かにあんたは鷹から生まれた鳶かもしれない。でも私を鷹にしたのはあんたよ、透次?』
自分を見る幼子の瞳に気付いていない筈がない。
子供を得て命の輝きを知ればこそ、他の不幸な命を救いたいという気持ちも強くなる。
『私は、私を見る透次のその瞳に応えたかったんだ。私が迷わず戦い抜けたのは、あんた達姉弟のおかげよ』
母は微笑んだ。愛という物に形があるのなら、それはこの微笑みだろう。
『ごめんとは言わない。ありがとう、透次』
身勝手だ。
でもそれが透次が憧れた母。だから透次は椅子に背中を預けて言った。
「母さんは傲慢で良い」
『傲慢じゃなくて自由なの! 色々背負ってしかめ面してないで、透次も自由に生きなさい? ま、そうも行かないのが透次の良い所だけど』
グラスを合わせて乾杯しよう。自慢の息子に。憧れの母に。
グラスを上げる白川の前に、そっと違う器が置かれた。中で揺れるのは、プリン。
「こ れ は」
聞かなくても分かる。
「あちらのお客様からです」
気の毒そうにバーテンダーが示すのはグラスを掲げる遥久だった。いつもの悪戯である。
「すみません、一度やってみたかったんです」
満足そうな笑みがそこにあった。
「先生なあに? プリンがお好きなのかしら?」
「結構可愛いわね」
事情を知らない香鈴と陽鈴がくすくす笑う。
乾杯。
エルナはジンジャーエールのグラスを、少年と合わせる。
いつもあの森で一緒に過ごした、そして目の前で逝ってしまった懐かしい少年の顔。
きっと今日限りこの世ではもう逢えないだろう。
あの日あたいは決めたんだ。
魔女になるって。だってもう誰も目の前で失いたくないから。
「だから安心しててよね。それで、次に逢うときはまたいっぱい話をしてあげるわ」
エルナにいつもの不敵な微笑が戻っていた。
少年の笑顔が輝く。がんばって。そんな声も聞こえる。
けれど乾杯のグラスの音が消える頃には、その姿は見えなくなっていた。
「次に逢えるのは……うん、占い師は自分の事は占っちゃだめなのよね」
さよなら。またね。せめてこの声が彼に届きますように。
メリーは店内を見回した。
あちらこちらで囁く様にかわされる会話、そして満足そうな笑みを浮かべる人々。
話して分かり合えるならたくさん話をすればいい。
例えそれが天魔であっても、分かり合えば共に暮らすこともできるだろう。
その為に何ができるのか。理想を夢想で終わらせないためにはどうすればいいのか。
「メリーに何ができるかが大事なのです」
「何かおっしゃいましたか?」
梨香が独り言に反応したので、メリーはにっこり笑って見せる。
「メリーはこれからもいっぱい頑張るってことです!」
甘い飲み物には少し違和感を覚えたが、リーガンも乾杯に加わった。
戦友とグラスを合わせ、中身を飲み干す。
「行くのか」
懐かしい面影がすこし寂しげに微笑んで立ち上がった。リーガンは空になったグラスを掲げる。
「それでも私は足掻き続けると誓おう。お前達の分まで」
死に損ねた自分にしかできな事を、生の続く限り。
ファーフナーは黙って女とグラスを合わせた。
前にこうしたのは、とてつもなく昔のように思える。
取り戻すことができないならと存在を否定し、忘れ去ろうとした全てがここにあった。
優しい会話、穏やかな微笑み、共に生きると誓った相手。
「お前と逢わなければこんな思いをすることもなかったな」
女は目を伏せ、白い指をファーフナーの手に添えた。
手に入れたからこその喪失の苦しみ。
人肌の温もりを思い出せば目の前にある現実が辛くなる。だからこそ不要な物だと憎み、否定してきた。
慈しむ様なバラード、穏やかな時間。ずっとこうしていられたら……。
「今夜は逢えて良かった。もう眠れ」
ファーフナーは精一杯の笑顔を作って見せた。
名残惜しさも、愛おしさも、全て封じ込めて席を立つ。
他人が見れば愚かだと思うかもしれない。
それは無常で残酷な現実に唾を吐いて生きてみせるという、せめてもの小さな意地の表れだった。
店の扉が閉まる。
●
琴音はベッドに起き上がり、辺りを見回した。
いつも通りの学生寮の自室の光景だ。
「あれ……私、なにをしてたんだろう」
もう覚えていないけれど、何かとても楽しい夢を見ていたようだ。
窓の外には見慣れた景色。
「そうだ、こんど小青さんのお見舞いに行こうかな。皆さんを誘って」
記憶の底の奥深く、共に見た夢はきっと繋がっている。
<了>