「‥‥いて下さい、リュミエチカ。我々には交渉の用意がある」
周囲を巡回するアルペンの目を掻い潜り、塀の内側へと身を滑らせた九十九(
ja1149)の耳に、アルバートの声が届いて来た。
それほど大きな声ではなく、鋭敏聴覚がなければ正確には聞き取れないだろう。その証拠に、ほかにその場にいる黒服の男女──そしてリュミエチカの声はほとんど聞こえてこない。
「どうだい?」
「まだ、始まったところ‥‥さぁね」
片耳に嵌めたイヤホン越しにアサニエル(
jb5431)の声が聞こえる。
必要な機材をそろえる余裕はなかったため、彼の聴覚が会話の流れを知る唯一の手がかりだ。
アルバートの交渉を彼らを含め六人の撃退士が見守っていた──息を潜めて。
玄関先に立つ彼らに見つからないように、左右に分かれている。見張りのアルペンに気をつけつつ、それぞれの方法で、少なくとも一息で駆けつけられる位置にはつけていた。
「あなたがリョウを殺してディアボロやヴァニタスにするというのなら、我々は敵対するほかない。しかし、少なくともあなたにそのつもりはない。ならば、歩み寄る余地があるのではありませんか?」
交渉の子細は黒服に任せているのか、アルバートは時折口を挟むだけのようだ。声は落ち着いており、交渉の進展はまだ見えない。
九十九は注意深く声の調子を聞いた。穏やかなまま終わることは‥‥おそらくないだろう。
(会社勤めは世知辛いさねぇ)
その尻拭いをさせられる自分たちも大概だが。とにかく、獅号にトラウマを植え付けるような結果にだけはしてはならない。
「落ち着いて下さい。彼が言っているのはあくまでも一つのアイデアです」
アルバートの声が固く早くなる。九十九は端末越しの仲間に注意を呼びかけた。
●
獅号 了(jz0252)は、ここしばらく居続けた部屋で、まんじりともせずにいた。
あの日以来の来客は、久遠ヶ原ではなく球団の人間、アルバートだった。しかも玄関からリュミエチカを呼びつけたのだ。
扉の前には今日もアルペンがいて、ぬいぐるみのように佇んでいる。様子を見に行くことは無理だった。
窓を見やれば、カーテンの一部がそよ風に揺らいでいた。リュミエチカがボールを投げ込んだ跡は、そのまま残っている。
──と。
カーテンがふわりと持ち上がる。また風が吹いたのかと思ったその時、隙間から何かが落ちてきた。
ドスンと床に落ちて鈍くはねたそいつを、ほとんど反射的に獅号は拾い上げる。
それは野球のボールだった。
リュミエチカと投げ合ったボールは、グローブと一緒にまだそこにある。手にしたそれをくるりと回した獅号は、何か書き付けられているのを見つけた。
アルペンが目だけでこちらを注視しているのを感じながら、書かれた内容に彼は体を強ばらせた。
●
東條 雅也(
jb9625)は屋根の上に身を伏せて、交渉を観察していた。
声は聞こえないが、アルバート達の身振りが徐々に大きくなっている様子は見える。そっぽを向いたリュミエチカが、不機嫌そうなオーラを漂わせていることもだ。
(あの子は獅号選手を慕っているんだろうな)
詳しい経緯はわからないが、先日同道した際の態度などからそれは伺えた。
であれば余計に、獅号を取り返そうと交渉に来た彼らのことは警戒するはずだ。
自分たちのことも──。
雅也は軽く頭を振って、その考えを追い出す。
「撃退士であることを、俺は決めたのだから」
「まずい様子だねぇ。各自、注意──」
イヤホンから九十九の声が聞こえてしばらく。黒服の男が、リュミエチカに左手を差し出した。手のひらを上に向けている。
リュミエチカの声は聞こえなかった。ただそこから動かず──黒服の方へと顔を向けた。その途端。
男は心棒を抜かれた人形のように、へなへなとその場に尻餅をついた。
「決裂さね!」
雅也がその光景を何かと重ね合わせる前に、九十九の声が響いた。
●
男の様子と九十九の声の両方に押されて、六人全員が一斉に飛び出した。
恒河沙 那由汰(
jb6459)は蜃気楼によって隠していた姿を露わにする。もう身を潜める必要はない。
リュミエチカは眼前で跪くような格好になった男を見下ろし、右手を振り上げている。次にその手がどうされるのかは明白だった。
(そいつを殺したら了に怒られるぞ!)
彼女の脳裏に向かって直接意志をとばす。雷で打たれたようにして、リュミエチカの動きが一瞬止まった。
その隙に仲間達が近づいていく。
雅也が屋根の上から飛び降りてきて、リュミエチカの背後に立った。双剣を手にはしているものの斬りつけることはせず、かわりに呼びかける。
「駄目ですよ、リュミエチカ。彼らを傷つけたら、獅号選手が傷つくことになる」
「──うるさいっ!」
感情を昂らせた少女は雅也の声を跳ねのけるようにして、差し上げたままの右手を振り下ろす。
が、その手はイアン・J・アルビス(
ja0084)によって遮られた。
「誰一人としてやらせる訳にはいきません」
全力で駆けたイアンは黒服の前にその身を滑り込ませる。
「また、邪魔をしてっ!」
リュミエチカは激昂し、イアンへさらに追撃しようとする。そこへ光の槍が飛来して、彼女の動きを押しとどめた。
「悪いけど、そうはいかないさね!」
アサニエルはリュミエチカを挑発するように、大きな声を出した。
( ゜3°)<セーギのミカタ、ひょっとこ仮面見参☆ミ
ひょっとこお面に加え、縫い合わせた茶色と白の布をマントの様にはおった
新崎 ふゆみ(
ja8965)も高らかに声を上げつつ駆け寄り、腰を抜かしている黒服の男の元に屈み込んだ。
「しごー選手はともかく、他の人はブッコロ☆されてもおかしくないんだよっ☆ミ」
黒服を担ぎ上げようとするが、地面に根を張ったように動かない。呆けたように視線をさまよわせ、正気を失っているかのようだ。
「くぅうっ‥‥」
それでも撃退士としての膂力で何とか引っ張り上げようとするのだが。
「危ない!」
九十九が叫ぶ。周囲を囲んでいたアルペンが砲台となって光弾を撃ち出して来たのだ。ふゆみは咄嗟に盾を構えて重い一撃を受け止めた。
●
「始まったわね‥‥」
端末を介さなくとも、戦闘の音は裏手に潜むマリア(
jb9408)の耳にまで届いていた。
(チカちゃんは何を考えているのかしら? アタシにはわからない)
わからないものを汲むことはできない。用意すべき器の種類も大きさも、まるで見えてこないからだ。
そうでなくとも、サイは‥‥ボールはすでに投げられたのだ。
壁の向こうの室内は静かなままだ。獅号からのリアクションはないが、もう待つ余裕はない。
端末にあらかじめ登録しておいた番号を選択する。コール音が鳴り始めたことだけを確認して、マリアは窓を見据えた。
ブーン、ブーン‥‥。
獅号の尻ポケットから、何かが鳴動する音が聞こえた。
アルペンの目が動き、獅号を見ている。何か余計なことをしていないだろうな、と警戒している目だ。
「‥‥気になるか?」
獅号はポケットに手を差し入れ、ゆっくりと引き抜いた。
その手の上でなお鳴動する携帯電話を、アルペンへと差し出す。アルペンは初めて見る餌だな、とでも言わんばかりに鼻をひくつかせた。
外の喧噪は室内には届かない。端末は鳴動を続けている。
獅号が生唾を飲み込んだ、直後。
ガアアン! と派手な音がして奥の扉が蹴破られ、旋風の様に突入してきた何かがアルペンを吹っ飛ばした。
「‥‥っ」
言葉を失くしている獅号の前で白銀の髪を振り乱した少女は、アルペンが動きを止めているのを確認してから獅号に目を向けた。
「‥‥久しぶりですの」
橋場・R・アトリアーナ(
ja1403) は短くそれだけ言った。
「どうやら上手くいったみたいねン」
割れた窓のところからマリアが室内に入ってきて、状況を確認する。
「‥‥こちらはボクが引き受けますの」
「お願いするわぁ♪ ‥‥さ、行きましょ。了ちゃん」
アトリアーナに頷いて見せ、そして獅号に手を差し伸べた。
「‥‥獅号のことはよろしくお願いしますの」
アトリアーナはすでに獅号に背を向けて、束の間の放心から回復しつつあるアルペンを見据えている。
マリアのもとへと向かった獅号は、途中で一度振り返った。
「橋場! 出来れば──」
だがそこまで言って口をつぐむ。
「いや‥‥頼む」
そして、マリアと共に窓から出て行った。
●
「ここまで来れば一人で逃げられんだろ」
滑るようにしてリュミエチカの元を離れた那由汰は、肩に担いでいた黒服の女を地面に立たせた。女は青ざめた顔をしていたが、しっかりと立って、背を向け駆けていく。
「もう一人は‥‥くそっ、まだか」
男の方を仲間が連れてくる様子は見えない。「だりぃな」と口中で毒づいて、また丘を登っていく。
アルペンの光弾が立て続けに二発、アサニエルの足下で爆ぜた。砕かれたアスファルトのかけらが爆風にのって彼女を打っていく。
「くっ‥‥まだかい!?」
交渉団と獅号の確保がすめば、後は逃げるだけ‥‥黒服の男を背負うふゆみの方へ、声をとばす。
「もうスコシなんだよっ‥‥!」
ふゆみは黒服の男を背負い、走りだそうとしていた。
男はそこそこ恰幅がよかったが、背負えないということはない。ただ、彼がふゆみの走りやすいように協力してくれる様子は、まるでなかった。
目は開いていて、意識はあるように見える。だが呼びかけには応えず、どこか異様な雰囲気だ。
それでも何とか男を背負いあげたが、そこへアルペンの光弾が飛んでくる。
ふゆみは盾で防ごうとするが、動きを阻害されて間に合わず、身体で防ぐ格好になった。
男ともども地面を転がる。黒服には当たっていないだろうが、その分彼女はまともに受けた。
「大丈夫ですか!?」
アルバートがふゆみに駆け寄り、彼女を助け起こす。
「ディアボロは私が抑えます。あなたは彼を、早く」
拳銃の様な魔具を顕現したアルバートはそう言い残してアルペンへと向かっていった。
リュミエチカの前にはイアンがいた。彼女が連れていたアルペンは雅也が抑えている。
「今度こそ逃がしませんよ」
イアンは強い口調で決意を口にする。
「また、チカの邪魔をするの」
「二度も突破されてなるものですか」
前回はリュミエチカの動き出しを封じることに成功しながら、どういうわけか彼女を抑えることは出来なかった。それゆえに、再び彼女の前に立つ。
「リョーを連れて行く奴の、味方をするなら」
リュミエチカがサングラスをはずした。黄金色の瞳がイアンの前にさらされる。
その瞳を見たのは二度目だ──そう、あのときも。
「アンタも、殺してやる」
見すくめられて、イアンの身体から力が抜ける。自身の意志と行動が剥離していくのを、他人事のように見ているだけしか出来ない。
「いけない、リュミエチカ」
双剣でアルペンの突撃をいなしながら、雅也が呼んだ。「殺しては──」
リュミエチカは取り合わず、その場に膝を突いたイアンへ向かおうとする。
しかし右手を振り上げるのと同時に、背後の玄関の扉が音を立てて開いた。
「どうして‥‥」
出てきたのはアトリアーナだ。リュミエチカははっとした表情でイアンから身を翻すと、屋敷の中へと戻ろうとする。
「行かせない」
だが、当然アトリアーナが許すはずはなく、バンカーを装着した右腕を振るう。
「どうして、皆邪魔をする! チカはリョーと一緒にいたいだけなのに!」
「自分の都合を押しつけるだけなのは、友達とは言わない。友達が困ることをしたらダメ」
ヒステリックに叫ぶリュミエチカに、アトリアーナは淡々と答える。
「リョーは困ってなんかない! 一緒に来てくれるって言った! 連れて行ってくれるって、言った!」
「獅号を待っている人は沢山居る。ボクも待ってる。‥‥友達が大切なのは、貴方だけじゃない」
リュミエチカは、獅号を『トモダチ』だと言う。だがやはり、彼女のそれはアトリアーナの考えるそれとは大きく異なっている。
教えて、理解してもらえれば‥‥まずは友達の友達として、関係を作っていけるかも知れない。
少女の大きな黄金色の瞳を覗き込む。
「‥‥?」
だがその途端、両足が震えた。武器を持つ右手が信じられないほど重く感じ、態勢を崩す。
リュミエチカは、呆然とそれを見ていた。
「まずいね‥‥」
アサニエルは舌打ちした。彼女の位置からでは詳細はわからないが、イアンにアトリアーナ、二人が動けなくなっているのは見て取れた。
リュミエチカがアトリアーナへと一歩近づく。もう一度注意を引くべく、狙いを定めて。
「やめろ、チカ!」
反対側から響く男性の声に手を止めた。
彼女ばかりでなく、リュミエチカも、その場の全員がそちらを見た。
二体のアルペン──屋敷を巡回していたはずの個体だ──に挟まれて、マリアと、そして獅号がそこにいた。
●
「しごー選手‥‥」
ふゆみが久々に目にする獅号は、しっかりとそこに立っていた。だがやはり、いくらかやつれているようには見える。
「う‥‥」
彼女の背中でやっとこ背負われていた黒服の男が、意識を取り戻したかのようにもぞ、と動いた。
アルバートは油断無く状況を観察していた。リュミエチカは獅号に気を取られているし、アルペンも動きを止めている。状況を打開するには──。
「待つのさぁね、今は」
だが、銃を構えようとする動きを九十九が押しとどめた。
「やめろ」
獅号はもう一度、そう言った。
リュミエチカは足元のアトリアーナを見下ろして、問う。
「コイツを殺したら、リョーは傷つくの?」
「ああ」
「リョーは‥‥チカとは一緒にいたくない?」
「そうじゃない。だが‥‥」
口ごもる。帰りたいと答えたら、リュミエチカは暴れ出すだろうか。
「リョーは」もっとも近くで意識を保っている雅也は、彼女の瞳が一瞬さまようのを斜め後ろから見た。
「チカの、トモダチじゃない?」
「‥‥」
迷うような沈黙が、答えになった。
「わかった」
リュミエチカは、下を向いた。
「トモダチじゃないなら、いらない」
「違う、俺は‥‥」
抗弁しようと足を踏み出した獅号の前に、アルペンが立ち塞がる。
「うるさい、さっさといなくなれ!」
リュミエチカは叫んだ。めいっぱいの、拒絶だった。
立ち尽くす獅号の腕を、マリアがとる。
「‥‥行きましょ」
今はそうするより他はないと、その目で語る。
「ああ‥‥」
獅号は力なくそれに従った。
「なあ」
那由汰は近づいて、イアンを助け起こしながらリュミエチカに声を掛けた。
「俺は『はぐれ』だ」
悪魔でありながら、人間と共に生きる存在。
「お前がもし、了と一緒にいることだけを望んでいるのなら‥‥俺たちと一緒に来るっていう手もある」
リュミエチカは返事をせず、那由汰を見ようともしなかった。
「ま‥‥考えておいてくれや」
頑なな姿に背を向けて、他の者達と共に、丘を後にした。