朝、というには多少遅れた、緩やかな午前。
「んみゅ‥‥」
ユリア・スズノミヤ(
ja9826)はゆるゆると起床した。
「‥‥蓮ー」
恋人、飛鷹 蓮(
jb3429)の名を呼ぶも、返事なし。
「蓮、お腹すいたー」
リビングへ移動するも、やはり彼の姿はなかった。
「‥‥みゅ?」
代わりに、書き置き発見。
『少し出てくる』
ユリアの頭上に、豆電球がぴかーん☆ とついた。
*
Spica=Virgia=Azlight(
ja8786)は自室にて、座り込んで天井を眺めていた。
「やっと、ぜんぶ片づいた‥‥」
大きな戦いも一段落付いたし、今年は試験ももう終わり。全くもっていつぶりかというほどの、憂いごとのない休日だ。
疎かにしていたことでもあるし、戦いで使い込んだ武器の手入れをすることに。
愛銃を馴れた手つきで分解し部品を清潔な布の上に置いていく。狙撃銃は編入当初から使ってきた武器だ。いちいち思い出さなくとも、体が勝手に手順をなぞる。
「気付けば、この銃にも‥‥かなり、お世話になった‥‥」
(ここに来たときは‥‥『最強の初心者』を目指そう、なんてことも思っていたっけ‥‥)
故郷で続いていた戦争。その中で、Spicaは両親を喪った。その瞬間の光景と引き換えに、彼女は『本物の笑顔』を作ることが出来なくなった。
(でも、いまは‥‥)
銃身を磨きながら、大切な人のことを思う。それだけで、Spicaの心はほんのりと色づく。
今日は不思議と、様々なことが思い返される。学園で送った平和な日々のこと、仲間のこと、それからもちろん数々の戦いのこと──。
感慨深く振り返りながら、黙々と武器の手入れを続けるのだった。
*
学園内に昔からあるプレハブ施設。いまは『不良中年部』として使用されているその場所で、ミハイル・エッカート(
jb0544)は私物を片づけていた。
「冷蔵庫のプリンも食べ尽くしたし、俺の物は残ってないな」
我が家のように馴染んだ室内を、感慨深く一度見渡した。
ミハイルは学園からの卒業を決めていた。もともとサラリーマンである彼は会社に戻ることになる。
「キャットフードの補充もしたし‥‥さて、仕上げだ」
取り出したのはポスターサイズに引き伸ばされた写真。
写っているのは、純白のドレスに身を包んだ美しい女性──じゃなかった、美しい不知火藤忠(
jc2194)の姿である。
「これは一番目立つ位置に貼ろう」
特別大きく引き伸ばした一枚を入り口正面の壁にばーんと貼り付ける。ほかにもロッカーにテーブル、コタツの天板の裏──貼れそうな場所には容赦なく。
おまけにブロマイドサイズのものをソファーやパソコンの本体カバーの下、それからほかには‥‥。
「俺の藤忠イジリーは卒業後も続くのだ」
最後の部室の飾り付けを、心から楽しむミハイルであった。
*
「ぶえっくし」
「わっ‥‥姫叔父、風邪でも引いたの?」
大きなくしゃみをした藤忠に、不知火あけび(
jc1857)が問い掛けた。
「フジタダは、寒い?」
「いや、心配ない」
リュミエチカ(jz0358)にも顔をのぞき込まれ、藤忠は笑って否定した。
「ミハイルの顔が浮かんだと思ったら急にムズムズときた。よくわからんが、あいつには今度ピーマンを生で齧ってもらう必要がありそうだ‥‥」
「ピーマン」
「それよりチカこそ、あんなところで寝ていたら風邪を引くぞ」
「あそこは、結構涼しかった」
「寮にいないと思ったら、建物の隙間で寝てるんだもん、びっくりしたよ!」
「ほんとにね。確かにまだまだ暑いけど」
砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)もあけびに続く。
「涼を取るなら、冷たいスイーツにしましょう。ほら、きましたよ」
和紗・S・ルフトハイト(
jb6970)が見やる先に店員の姿が見えていた。
皆シャーベットやケーキを頼む中、甘いもの嫌いのジェンティアンだけは野菜サンドだった。
「よし、じゃあ‥‥皆、おめでとー!」
あけびが音頭をとる。
「おめでとー」
乗っかってから、「‥‥何が?」と聞くリュミエチカ。
「無事に試験が終わったお祝いだよ!」
皆無事に終わってほっとしたよー、とあけびは表情を緩ませた。
「姫叔父と和紗さんは進級、私は大学部、チカちゃんは高等部へ進学‥‥ジェンさんは卒業!」
「チカちゃんも中等部卒業ってことだね。だから、皆でお祝い」
「高等部の制服姿が楽しみだな」
ジェンティアンがウィンクし、藤忠はリュミエチカの頭に手を置いた。
「皆、お疲れ様でした。竜胆兄も‥‥流石に今年は留年しませんでしたね」
「就職決まったからね! 流石に卒業はしないと拙い」
和紗の冷静な突っ込みにジェンティアンは苦笑する。
「ジェンは、どこかへ行くの?」
「うん‥‥冥魔空挺軍、ケッツァーにね」
束の間、真剣な表情で答える。
「初めて、叶えたいと思った夢だったんだ」
「じゃあ、魔界に行くの?」
リュミエチカの声が、少しだけ細くなる。
「すぐにってことはないだろうけど‥‥いずれはそうなるかもね」
「チカは魔界から人間界に来た。ジェンは人間界から魔界に行く。入れ替わりだな」
「そうだね」
藤忠の言葉に、ジェンティアンは頷いた。
「和紗も親友に託せたし、安心して行けるよ」
それを聞いて、あけびがぱっと顔を上げた。
「そうだ、お祝いと言えばもう一つ!」
「ああ‥‥和紗は結婚もおめでとう。幸せにな」
「え、あ‥‥。ありがとうございます」
急に振られて、和紗の頬が朱に染まった。
「結婚」
「好きな人と夫婦になるってことだよ。和紗さんは旦那さんとラブラブですよね!」
「え? ええと‥‥」
オウム返しのリュミエチカ。あけびは教えてやりつつ、「いいなぁ」と羨望の眼差しを送り、和紗の朱を深くさせるのだった。
●
プチ探偵気分のユリア。頭にハンティング帽を乗っけて、いざ、恋人追跡開始!
‥‥と、思ったのだけど。
「みゅ、いい香り〜」
通りへ出て早々、焼きたてマフィンのふわふわ香ばしい匂いが──。
「ユリア? ああ‥‥そういえば、朝飯を用意していなかったな」
「ふも!? ふぇんふぁ(蓮だ)!」
というわけで、発見されたのはユリアの方であった。
「‥‥で? 蓮は私をひとりぼっちにしてなにしてたの?」
ユリアは蓮の腕をぎゅーっと抱きしめながらにこにこ顔で聞いた。蓮は頭を掻く──これもいい機会かも知れない。
「‥‥わかった。君に嘘はつけない。‥‥来い」
「蓮?」
戸惑うユリアの腕をとり、蓮は先に立って歩き出した。
*
ベンチの陰で、錆柄の猫が体を伸ばして眠っている。
(彼らも、この空気を感じているのだろうか)
その様子を遠巻きに眺めつつ、ファーフナー(
jb7826)は思った。神界での戦いの後もいくつかの争乱はあったし、先日は横浜ゲートの主・アクラシエルが学園に乗り込んでくるという事件もあった。だが、ひとつの大きな山を越えたという安堵感のようなものは、学園内に確かに漂っている。
そのせいか、見かける猫たちもどこかしら、普段よりリラックスしているようだった。
シャッター音がして振り返ると、小田切ルビィ(
ja0841)がデジカメを構えている。
「猫を見守るように佇むおじさまも、絵になるわよ」
後ろにいた巫 聖羅(
ja3916)がそう言った。
「‥‥そうか、旅立つのか」
ルビィは卒業後、一人旅で世界中を回る決心を固めていた。天魔との長い戦い、そして三界同盟を経て、世界がどう変わりゆくのかを己の目で見るために。
「ダンナはどうすんだい? 学園に残るのか?」
ファーフナーは首を小さく縦に動かした。
「ああ、俺は残る」
「そうなのね、よかった!」
聖羅が手を合わせて喜んだ。
「これからは、復興関連の依頼も増えるだろうしな」
「どこかの誰かさんと違って、おじさまはやっぱり現実が見えてるわよね」
「誰かさんって誰だよ‥‥」
ルビィにべっと舌を出してみせる。
「私も来年度には卒業するつもりだけど、この一年はフリーでやってる撃退士事務所にインターンシップで働かせてもらうことにしたの」
進路を決めるためにも、私も社会を知らなくっちゃね、と聖羅は胸を張るのだった。
「復興ってのは‥‥横浜のことか?」
「ああ。きっとそう、遠くはないだろう」
ルビィとファーフナーは頷きあった。
アクラシエルは撃退士の手を取ることなく去ったが、言葉を拒絶したわけではない。世界が変わりゆくことを認めたのなら、いつまでもあのままではないはずだ。
「そういえば‥‥ミュゼットたちはどうしているだろうな」
ふとファーフナーが思い浮かべたのは、かつて横浜に接する大船の地にいた堕天使と、彼女を新しい家族として迎え入れた人々のこと。
「無事に暮らしているといいのだが」
「ミュゼットなら、さっき電話したばかりだ。元気にしてたぜ」
ルビィも気に掛けていたらしい。
「清水の爺さんたちとも、上手くやっているそうだ──いずれ、戻りたいと言ってたぜ」
彼らが大船を離れるときの無念を、ルビィは覚えている。──これでやっと、少しは取り戻せたのだろうか。
「‥‥こんな風に、依頼で関わったものたちのその後が気にかかるなんてな」
ファーフナーは青空を眩しく見上げた。
「以前は考えられなかった」
「変わったのね、おじさまも」
聖羅が何気なく口にした言葉が、胸に響く。
(そうだな‥‥)
変化は確かにある。だがそのことに恐怖を感じることはもうない。
来年またあの梅林で花見が開かれたら‥‥きっと集まるのは、学生ばかりではあるまい。
その光景を楽しみにしている自分に気付いて、ファーフナーは穏やかに微笑むのだった。
*
(‥‥不思議だな)
Robin redbreast(
jb2203)は学園の構内を歩きつつ、物思っていた。
学園に来たばかりの頃、Robinは決められたことをこなすだけの人形だった。壊れてしまえば、捨てられるだけ。
戦う術は持っていたから、仕事は楽だった──ただ、戦うだけの仕事は。
『撃退士の仕事』には、いろんな種類がある。戦うだけでは達せられない仕事。とりわけ『人の心』に関することは、いっとう難しい。
簡単に切り分けられない出来事に幾度も直面するうち、Robinは人形であることをいつしか脱しつつある。
(もしギジーが生きていたら、どうしていたのかな)
アクラシエルの配下だった天使、ギジー・シーイール(jz0353)の姿が思い浮かんだ。彼は変わりゆく世界を受け入れただろうか。刀を納め、ミュゼットの隣に並ぶ未来も、もしかしたら──。
(辛いこともあるけれど、大学卒業までは撃退士を続ける)
難しくとも、人の心を‥‥願いを叶える手伝いを、精一杯がんばりたい。
(そのために、もっと色んなことを知っていきたいな)
星杜 焔(
ja5378)は、春苑 佳澄(jz0098)を訪ねていた。女子寮の前で、佳澄に袋を差し出す。
「家庭菜園で取れた野菜のお裾分けだよ〜」
両手の袋いっぱいに詰まった瑞々しい野菜を見て、佳澄は目を丸くする。
「いいの? 星杜くんちの分は?」
「ちゃんととってあるよ〜今夜は夏野菜カレーに決まりなのだ」
焔はにこにこしながら答えた。
「俺も卒業が決まったし、菜園もこれで一休みだよ〜」
「そうなんだ‥‥おめでとう、だね!」
お祝いの言葉を述べつつも、佳澄はちょっぴり寂しそうにした。
「夢の実現のために、資金集めとかを頑張ってくるよ」
児童養護施設と小料理屋の経営という、焔の大きな目標だ。
「でも、すぐこの島へ戻ってくるのだけどね‥‥息子も覚醒者だから」
「え、そうなんだ?」
覚醒者の教育ということなら、結局のところ久遠ヶ原が一番充実しているのである。
「うん。だからとりあえず一年間。それで、佳澄ちゃんが良かったらなのだけれど──」
「佳澄」
そこへRobinがやってきた。
彼女が取り出したのは、通っている料理教室のパンフレット。
「まだ、火や刃物は怖い?」
「それは‥‥うん。でも、一緒に行こうって、言ってくれるんだよね?」
素直に頷きつつも、佳澄はパンフレットを受け取って、そっと胸元に抱きしめる。
「あたし、頑張ってみたいな」
「佳澄ちゃんならきっと大丈夫だよ」
焔が嬉しそうに言った。
「それなら、これから一年間──」
「春苑じゃないか。集まってどうしたんだ?」
今度は川内 日菜子(
jb7813)が顔を覗かせていた。
「どこかへ行くなら、送っていこうか」
「久しぶりにゆっくり島内を巡ってみたが‥‥新しい道や建物が出来ていたり、いろいろ再発見があるな」
日菜子は深く息を吐いた。
「春苑も、少し雰囲気が変わった気がする」
「え、そうかな?」
面食らう佳澄に、横顔で笑いつつ。
世界はいつの間にか変わっていく。これまでもそうだったし、これからもそうだ。
ただ、日菜子は──撃退士たちは知っている。その世界こそが、掴み取ったものであることを。
「あの戦いで変わったモノも良い変化だといいな」
‥‥いや、これから良いものにしていこう。いつか、胸を張って語り合えるように。
「それで、なんで星杜の菜園に行くんだ?」
「俺がいない間、佳澄ちゃんが家庭菜園で作物育てたらどうかと思ってね〜」
ようやく用件を口に出来た焔である。
「自分で育てた野菜を調理するのって良いよ‥‥どうかな」
佳澄は、隣のRobinを見た。
「ね、ロビンちゃん、一緒にやらない?」
「‥‥いいのかな」
「一人じゃ困ること多そうだし‥‥日菜子ちゃんも!」
「わ、私もか!?」
突然振られて日菜子は困惑する。三人のやりとりを、焔は微笑ましく見ているのだった。
●
亀山 絳輝(
ja2258)は、桜の下にいた。
春には鮮やかに色づくこの場所も、いまは青々と葉を繁らせるだけ、だけれど。
桜の散った場所で花見をしたこともあった。手元の桜の造花をみて、ふと昔を思い出す。
「旅にな、出ることにした」
絳輝はぽつりと言った。
「‥‥いや、別に就活が嫌だってわけじゃないぞ? 本当だぞ?」
もちろん返事があるわけではない。返事を求める相手は、とっくの昔にこの世にいない。
「男なんていつも勝手だからな」
手の中のカップ酒に口を付け、やけっぱちのように言う。好きに生きて好きに死んだあいつは、その間際でさえ幸せそうで、隣に寄り添いたいという絳輝の願いは最後まで無視されたままだった‥‥だから。
「私も勝手に忘れずにいて、勝手に悼み続けるさ」
旅に出て、たくさんの光景を見よう。美しい光景、あいつが知らない光景を、一つでも多く見てやろう。
「それでいつかそっちに行ったときにでも、魂の価値とやらを検分してくれればいい」
そのときくらいは、ちゃんとこっちを見てくれるだろう。
「もしお前の目にかなったなら‥‥そうだな」
あのときの桜のように、誉めてくれてもいいな。
伸ばしはじめの後ろ髪を指でくるくる遊びつつ、青葉から透ける空を見上げた。
*
リュミエチカたち五人は、学園内の各所をそぞろ歩いていた。
「ここが、私が大学部で好きな広場です」
紹介したのは和紗。広場といってもこじんまりとした空間だ。木陰にベンチが置かれている。
「春は桜、秋は紅葉も見れますし、人も少なく穴場です。
静かに過ごすには良いので‥‥竜胆兄がよく寝ていました」
「あれ、見られてた?」
ジェンティアンは一瞬バツの悪そうな様子を見せるも。
「冬は寒く手厳しいけど、後は年中いい感じだからね。授業サボ‥‥いやいや」
結局悪びれる様子はないのだった。
「ジェンさんらしいなあ」
あけびが言うと、リュミエチカが頷いた。
ジェンティアンは広場を見て、ふと目を細めた。長く過ごしたこの学園をじきに離れる。そして数年後には、きっと別の世界へと──。
「‥‥フジタダは?」
不意にリュミエチカが周囲を見た。いつの間にか姿がない。
「ふふ、すぐ戻ってくると思うよ」
あけびが訳知り顔で言った。
やがて戻ってきた藤忠は、五冊の冊子を抱えていた。
「これを、渡したくてな。撮った写真をプリントしてきたんだ」
冊子はアルバムになっていた。カフェでの光景、今日巡った場所。藤忠、あけび、リュミエチカ、和紗、ジェンティアン。仲間たちの姿。
「ジェンならどこへ行っても大丈夫だろうが、頑張れよ」
手渡されたジェンティアンはアルバムの表紙を、手でそっと撫でて。
「‥‥ありがとう」
心からの礼を述べるのだった。
*
藤忠(の、女装姿)でいっぱいになった不良中年部。ミハイルは端末を取り出す。
「‥‥そういえば、連絡先を聞くのを忘れたな」
頭に浮かんだのは、恵ヴィヴァルディ(jz0015)のこと。それも学園に残っている恵ではない、別の存在のことだ。
「名刺は渡したわけだし、向こうから連絡があるといいが‥‥」
画面を眺めながら呟いた、その途端。端末が鳴動を始めた。
未登録の番号が表示されている。
「まさか‥‥?」
*
牙撃鉄鳴(
jb5667)が訪れているのは、深いコーヒーの薫りに包まれた部屋だった。
恵の本拠地、商会『ステルツォ』である。
「そういえばお前は『どの恵』だ?」
恵は笑うのみ。
「‥‥昔は何をしていたのだ、お前は?」
「何故、そのようなことを聞く?」
「過去を捨て、己を捨ててまで事を成し遂げたかった理由を知りたくてな」
「‥‥ふん」
恵は紙コップに口を付け、時間をかけて喉を鳴らした。
「一人一人に理由はあるが、大したことじゃない。そうしなければ生きられなかったからそうした、それだけだ」
カーテンの隙間から微かに日差しが零れいる薄暗い部屋で、恵は淡々と語る。
「ガキながらに『裏の現実』を知ってしまったものが歩む、陳腐でありふれたストーリーさ。笑えもしなければ泣けもしない。俺たちは物語の主人公じゃないからな」
そのとき浮かべていた笑みは、鉄鳴がこれまでに見た恵のどんな笑みよりも異質に見えた。
「今日は挨拶回りに来ただけだ。依頼があったら呼べ。すぐに駆けつける」
恵に背を向けつつ告げる。
「戦うことしか金の稼ぎ方を知らないものでな」
彼から依頼が来るとすれば、それは鉄鳴が望む類の依頼に間違いないだろう。
扉を開けると、眩しい光が差し込んでくる。
「じゃあな。縁があればまた会おう」
*
御子神 藍(
jb8679)はジュエリーショップにいた。
「これもいい‥‥けど、もう少し‥‥」
ショーケースを覗いて探しているのは、自分の瞳の色を映す宝石。
(旦那様の指を飾るのなら、少しでも自分と同じ色がいい‥‥もの)
既に入籍して姓は変わったが、挙式は後日に控えている。慌ただしい準備の日々は、とても忙しく──藍の心を倖せに満たしてくれている。
「あっ」
深い海のように澄んだ光の煌めきが、蕩けるように淡く、甘く滲み出ている。そんな小さな石に、心を引かれた。
「‥‥きれい、これがいいかな」
愛し君が石を身につけた姿を想像して──藍は密かに頬を染めた。
ショーケースから顔を上げたら、聞き慣れた声。
「あれっ、ユリもんと、れーくん?」
ユリアは硬直していた。
「‥‥これでも、色々と考えていたんだ」
彼女の前で、蓮が語っている。
「君の肌や言葉に触れる度に、君への愛は深まるが‥‥愛し続ける“形”があるのもいいのではないか、と」
「これ‥‥」
ユリアは呆然と呟く。
「ゆび、わ?」
蓮は頷いた。
「えんげーじりんぐ‥‥私、に?」
星が寄り添うように石が並んだ指輪を、蓮はユリアの手のひらにそっと置いた。
「俺たちの、愛の形だ」
ユリアはその手を握り込む。何かをこらえるように、ぎゅうっと己の肩を抱いて。
「‥‥も、もぅ! ドキドキさせないでよぅ!」
精一杯、いつもの調子で蓮の胸を叩く。
「よかったね、ユリもん」
「うみゅ、藍ちゃん!? П、プリヴェ!」
だが藍に声を掛けられ、動揺のあまりロシア語が零れ出るのであった。
「ゆ、指に嵌めるのは、また今度ね?」
「ああ‥‥嵌めたらきっと、君を抱きしめてしまう」
藍は視線を交わす二人を見ながら、自分の心も新たな幸福で満たされていくのを感じていた。
この一瞬が、本当は二度と戻らないものだということを、藍は知っている。
けれど、だからこそ忘れないでいたいと思う。
「環境が変わっても、きっと私たちは倖せだね」
次の夏もまた、笑顔を分かちあえますように。
*
「テン子(愛称)ですが時間なのでこれで失礼しますお疲れ様でしたぁあああーーーっ!!」
「て、テン子ちゃあーん!?」
今日もハッピーストアで淡々と業務をこなした歌音 テンペスト(
jb5186)は先輩のモブ子(愛称)を抱えダッシュで店を飛び出したのであった。説明終わり。
歌音は人目につかないところまでモブ子を運ぶと、そっと下ろした。
「この行為続ける必要ありますか」
「キャラは貫くものなのです、センパイ」
歌音は神妙に答えた。
「私も進級しました。バイトは‥‥いえモブ子センパイとの愛の巣は、来年もばっちり続きます」
「お店が続くとは限りませんけどね」
モブ子は相変わらずそっけない。
「良かったらこれ、受け取ってください‥‥二年ぐらい、この機会がなかったので」
歌音が取り出したそれは、二年半ぶりのバレンタインチョコであった。
「これまでありがとうございました。これからも仲良くしてください」
モブ子はチョコを受け取った。
そして、歌音に笑顔を見せたのだった。
「結局センパイの本名はわからずじまい‥‥シフト表どころか人事マスタまでモブ子になってるとは‥‥」
「キャラは貫く必要が、ありますからね」
*
「‥‥今日はこの辺にしようか、カルラ」
人影の少ない図書室。窓の外が赤く色づき始めている事に気付いて、ドニー・レイド(
ja0470)はカルラ=空木=クローシェ(
ja0471)に声をかけた。
「そうね‥‥やっぱり、気の合う人と一緒だと、勉強も捗るわね」
進級へ向けての予習時間は、順調に過ぎていた。
「あなたと‥‥その、今の関係になったばかりの頃は、そんなことなかったけど」
「‥‥やっぱ付き合い始めの成績ヤバかったのな、俺」
「あの頃は本当に、遊んでしかなかったわよね‥‥楽しかったけど」
ただの友人(と思っていたのはドニーだけだったが)から恋人同士となると、それまで何とも思わなかった日常の何気ない仕草まで可愛く愛おしく、しばらくの間ドニーの頭の中は完全にカルラ一色に塗りつぶされていた。もちろんカルラも。
「けどな、無理もなかったと思う。今も当時も、俺はお前が‥‥愛しい」
「え、ちょっ‥‥」
突然の真剣な愛の言葉に、カルラは顔を真っ赤にした。
「‥‥人少ないからっていきなりそういう事言うっ‥‥!!
ああもう、もう‥‥いま顔見られたら絶対変に思われる‥‥」
周りを見ながら潜めた声で抗議しつつ、火照りを沈めようとするカルラ。そんな彼女に、ドニーはそっと手を伸ばす。
「大丈夫‥‥誰も見てないよ、カルラ」
「ドニー、‥‥」
夕日が照らして、二人の秘め事を影で覆った。
顔を離すと、カルラは熱を持った頬を押さえながらもう一度周りを見た。
「本当にいま、誰‥‥も‥‥」
「あ‥‥」
そこにはモブ子と歌音がいた。
「み、見てた‥‥?」
「すみません、見ました。せめてこっちの目は塞いでおきました」
「センパイが私をがっちりホールドしつつ両手で目隠しを! これは新しい関係へのステップアップ‥‥!?」
「お幸せそうで何よりです」
「ありがとう、モブ子さん」
その言葉に、大切な人と共にある喜びを改めて感じて、ドニーとカルラは笑顔を向けあうのだった。
(しかし『子育て入門』とは‥‥お二人ももうそこまで‥‥)
カルラの鞄から覗いていた本のタイトルに、モブ子は盛大な勘違いをするが‥‥きっと遠からず勘違いでもなくなりそうなので問題ないですよね。
*
「案外荷物も増えたもんやねぇ」
宇田川 千鶴(
ja1613)は感慨深く言った。
「そんだけ長くこの学園にいたっちゅー事やな‥‥不思議な感じやな」
卒業の為に荷物は最低限‥‥のつもりでも、積み上げた年月は箱の数になって積みあがっていた。
「千鶴さん」
声に振り返ると、石田 神楽(
ja4485)がにこにこしながら、寝袋を抱えて持っていた。
「‥‥寝具の手配はしてあるやろ?」
「ええ。でも、これ大事だと思うんですよ私」
神楽はあくまでもにこにこしている。
「‥‥依頼によっては万が一必要な時もあるやろな。しまっとくわ」
「はい」
千鶴は寝袋を受け取った。
「あと、フリーの撃退士の必需品って、なんでしょうね‥‥?」
「まぁ、寝る場所と仕事受ける場所があれば十分やろ。必要なもんは都度調達すればえぇわ」
寝袋を荷物の奥の方へぎゅうぎゅう押し込んだ千鶴は、それが終わると神楽へ向き直った。
「コーヒーと携帯食料は程々に。ちゃんとした食事は作ったるさかい」
そして、付け加えるように。
「私も食べるもんやしな」
もちろん、千鶴は神楽についていくのだ。
「というわけで、今日は何か食べたいもんある?」
暗くなり始めた外を見て、千鶴は尋ねた。「あ、携帯食料以外でよろしゅうに」
「食べたいもの‥‥」
神楽はつと首をひねり。
「湯豆腐ですかね」
「わかった鍋やな」
速攻で軌道修正されるのだった。
*
大狗 のとう(
ja3056)は、砂浜を駆けていた。
今日、彼女は一日ずっと駆け回っていた。そうして島中を巡っていたのだ。
息が切れるまで砂浜を全力疾走して、仰向けに転がる。
「‥‥く、っししし‥‥! わははは! たくさん撮れたな!」
大笑いする彼女の右手には、デジタルカメラが握られていた。
一枚一枚画像を確認しながら、のとうは楽しげに笑い、足をばたつかせる。
古びた駄菓子屋。何の変哲もない階段裏。学校の中庭。
風景ばかりではない。笑顔の者、驚いた顔の者、カメラに向け手を伸ばす様子──賑やかな声が聞こえてきそうな、彼女にとっての日常。
それは、思い出というほどのものでもない。
「ん‥‥」
沈みかけの夕日がのとうを照らすと、唐突に陽気さが消えた。滅多に見せない哀愁を漂わせ、デジカメの画面を見つめている。
思い出は、心の内にある。それで十分。
何の変哲もない今日、彼女が集めたものは、何の変哲もない今。
たくさんの彼女の『大好き』が、画面の中で眩しく輝いている。
のとうは愛しい『今』を、飽きることなく眺めていた。
●
Spicaは武器の手入れを終え、辺りを綺麗にすると立ち上がる。
「今日は、終わり‥‥」
満足げに頷いてから窓の外を覗くと、薄蒼い空の中に、星々が煌めきを放ち始めていた。
*
天宮 佳槻(
jb1989)も、掃除道具を片づけながら空の星を見ていた。
空に増えていく煌めきとは対照的に、いま彼の周りには誰も居ない。
『cafe bar・トワイライト』に今日、佳槻のほかに姿を見せるものはなかった。佳槻は一日かけて、一階の店舗と二階の住居を大掃除していたのだった。
(僕もここを出て、適当な寮に移ってもよかったはずなのに)
そうする気にならず、今もこうして店を綺麗にしている。
それはかつての賑わいと、その中で描いた自分の軌跡への愛惜だろうか。自分を背中から見るような気持ちで、佳槻は思考した。
ふと頭に、群馬を巡る戦いの中で出会った双子の事が浮かぶ。
彼らはどうしているだろう。愛する祖母がヴァニタスとなり死んだ哀しみを、きちんと克服できたのだろうか。
そして彼らの母親はあのときと同じように、負い目があると言って子供に寄り添うことから逃げているのだろうか?
佳槻の胸の奥がざらついた。それは苛立ちに似た感情だった。
(‥‥八重子さんの連絡先を聞いておくべきだったか?)
自分が救った双子の曾祖母に話を聞ければよかったかと、暗い室内で思うのだった。
入り口の扉には、「close」の札がかけられている。
(どんな形にせよ、いつか自分もここを出て行く)
その時に佳槻を見送るのは、この扉と札、そればかりなのだろうか。
*
ルビィと聖羅は、小田切 翠蓮(
jb2728)に夕食に招かれた。目の前には鍋、そしてたっぷりサシの入った牛肉が‥‥!
「おおっ、豪勢じゃねェか。いいのか?」
唾を飲み込むルビィ。
「孫の新たな門出じゃからのぅ。夕方タイムセールの激戦を戦い抜き手に入れた目玉商品じゃ、存分に味わうとよい」
三角巾に割烹着と、完璧なおさんどんスタイル翠蓮である。
「家族水入らずの食事も、暫くは打ち止めじゃなぁ」
食事のさなか、翠蓮がぽつりと言った。
「本当、いきなり『旅に出る』は面食らったわね」
聖羅も同意する。
「もう決めたからな。なんと言われてもやめねェぜ?」
「‥‥まぁ、小田切家の男に放浪癖があるのは分かり切っていた事だし、ね」
「うむ‥‥宿命と言ってもよいのう」
翠蓮の言葉に、聖羅は少しだけ箸を止め下を向いた。だがそれ以上は何も言わない。
止めたところでいずれは出て行く──父親がそうだったように。
「悪ィな」
ルビィの形ばかりの謝罪は、同じ面影を思ったからだろうか。
「まぁ儂の学園ライフはまだまだ続く予定じゃ。おんしらも気が向いたらいつでも尋ねてくるがよかろう」
翠蓮は子孫たちを交互に見る。
「儂にとっては十年も百年も瞬く間よ。おんしらの未来がどうなるか──これからも、変わらずに見守っておるよ」
妖しい微笑みと共にそう告げるのだった。
*
要望よりだいぶ具だくさんな鍋を、神楽と千鶴は向かい合ってつついていた。
「この学園には随分とお世話になりましたね‥‥お世話した事もあるでしょうけど」
神楽がにこにこ言った。千鶴も微笑んで、「そうやね」と相槌を打つ。
すると、神楽が箸を置き、席を外した。
「まだ沢山残ってるで?」
「いえ、一緒に居るのが自然過ぎて言いそびれてましたので‥‥きちんと言っておこうと」
少しだけ畏まった態度で、神楽が言った。
「今後もよろしくお願い致します」
「‥‥そやな、改めて今後ともよろしゅうね」
今日という一日が終わる。
その先に、新たな一日が明日となって、連なってどこまでも、続いていく。