「君たちが久遠ヶ原の戦士たちか」
主天使・アクラシエルは目を開くと、穏やかな口調で言った。
ミハイル・エッカート(
jb0544)が、まず口を開いた。
「黒髪の背の高い男、あんたを訪ねに来たか? 何か言ってたか?」
「ああ、来ていたよ。なかなか不遜な男だった」
すぐに誰のことか察したらしい。
「あの男が残していった問いの答え‥‥君たちが持っているといいが」
ファーフナー(
jb7826)はその言葉に、片眉を小さく動かす。
「あの男というのは‥‥恵か」
「大方あいつに挑発でもされたんだろ?」
小田切ルビィ(
ja0841)は呆れたように左手を振ってみせた。
恵ヴィヴァルディ(jz0015)が『人類のために』蒔いた火種の、これもその一つ。
「‥‥ったく恵の奴め、後始末する方の身にもなれってんだ」
ルビィは苦笑した。
「こうした形で再戦とはな」
鳳 静矢(
ja3856)がアクラシエルと見えるのはこれで三度目。横浜にゲートが出来たその瞬間、そしてゲートの解放戦。二度に渡り目的を果たすことなく撤退の憂き目にあった。
静矢にとっては期せずして、リベンジの機会が訪れたとも言える。
水無瀬 雫(
jb9544)にとっては別の意味もある。
(久遠ヶ原の学生として、氷雅さんと共闘する最後の機会‥‥ですね)
隣に立つ咲村 氷雅(
jb0731)の横顔を、ほんの一瞬だけちらりと見やった。それから彼よりも一歩前に立つ。己の役割を果たすために。
*
戦いの前にアクラシエルから申し出があった。ハンデについてである。
「長期戦を望むのか‥‥それもいいね」
彼の範囲攻撃二種類を使用しないことを取り決めると、アクラシエルはそう言って不敵に笑った。
「だけれど、決闘と言ったからには、決めた以上の手加減をするつもりはない。死にたくないのなら、殺す気でかかってくることだ」
「──決闘、ね」
ルビィは正面に立つと、真っ向から視線を交わした。
「けどよ? 殺し合いだけが目的なら、ハンデなんか付けねえよな?」
アクラシエルは問い掛けに答えを返さない。ただしっかり、ルビィの紅い瞳を見据えた。
「力無き者の言葉は探るに足らないか?」
ミハイルが言った。いつものように気安い雰囲気を醸し出しながらも、ニヒルに笑う。
「ならば力で語り合おうぜ」
愛用のライフル『ブラックファルコン』をその手に顕し、険しい表情のアクラシエルを見据えた。
「答えを探しに来たのだろう? そういうのは嫌いじゃない」
「今は期待しよう。この戦いが、私を──」
アクラシエルは続きの言葉を呑み込んだ。
「さあ、かかってくるといい」
戦いの始まりを、決然と告げた。
●
「よぉ、堕天使になった気分はどうだい?」
体を低く沈めながら、挑発心ありありで言ったのはラファル A ユーティライネン(
jb4620)。
「私が──堕天使?」
「天使は上の命令に絶対服従なんだろ? あんたは天界の王じゃなさそうだからな。上が戦闘を禁じているのに、従わずに私闘を挑みに来ているんじゃ、堕天したも同然だろ」
彼女らしい、容赦のない物言いが浴びせられる。堕天使を狩る組織の長が堕天使に堕ちたとなれば、受け入れ難い事実に違いない。
「私は堕天使ではない」
だがアクラシエルは眉ひとつ動かさず、言い切った。
「私の心は今も天とともにある。命令違反の咎で主上が私に死を賜るのならば、喜んで殉じよう。‥‥だが、それはこの戦いの後のことだ」
「どう言い訳したって、あんたはもう堕天使さ」
ラファルは重ねて言い、それから飛び込んだ。見る間にアクラシエルへ近接する。
「見やがれ、俺の六神分離合体!」
低く溜めた姿勢から飛び上がると、彼女の体は爆散した──否、四肢が分離した。忍軍の奥義の大胆なアレンジによって、彼女はまさしく『合体ロボ』と化す。
四肢がアクラシエルの後方へ回ろうと動く。戦輪を両手に持ったまま、彼の視線がそれを追う。
そこへ、ファーフナーが横合いから組み付いてきた。繰り出した槍は簡単に戦輪に受け止められたが、構わず、告げる。
「‥‥迷っているのだな」
「迷い?」
アクラシエルは問い返した。
「私が?」
「三界同盟が実現したことで、今迄信じていた唯一絶対の正義が揺らいじまったんだろ?」
ルビィが言った。
天界こそが唯一至高である、とするアクラシエルの思想は、人間界ばかりか冥魔界とさえ結ぶという三界同盟によって、否定されたにも等しい。
しかも、その同盟は新たな天界の長であるアテナによって承認されたのだ。
「自分の信じてきたものが‥‥自分の価値観が根底から覆される。それは目を背けたくなる事実だ」
ましてその価値観のために邁進してきたアクラシエルならば、それは己の人生ごと否定されたも同然だろう。
「私が迷っている?」
アクラシエルは、自問するようにもう一度言った。
「私は──」
Spica=Virgia=Azlight(
ja8786)が、未だグラウンド上に立つアクラシエルに高度をとって狙撃した。冥魔側にレートを持つ彼女の弾丸を、アクラシエルはほとんど気にも止めなかった。
(効いてない‥‥? どれだけ‥‥硬いの‥‥)
むしろ、彼に今何かを与えているとすれば、それは。
(ファーフナーの‥‥言葉‥‥?)
ミハイルのアシッドショットが、主天使の右大腿に着弾した。腐敗の弾丸が根を張る感触に、さしものアクラシエルも眉を動かす。
ラファルの分離した左腕がアクラシエルを攪乱するように飛び回る。その隙にラファルは右腕を体に戻すと、その形状を変化させた。
「もらったぜ」
側頭部に拳をぶつけると、地面に押し込むように超振動させると、アクラシエルの動きが一瞬止まったようになる。
ルビィが隙を逃すまいと飛び込んだ。左側面から大剣で斬り付ける。肩口に刃がまともに食い込んだ、が。
「‥‥硬ってぇ!?」
一見それほど頑強には見えないアクラシエルの肉体は──あるいは纏っている装備の影響かも知れないが──鋼のようだった。刃は通らず、跳ね返される。
「ならば、これはどうだ!」
静矢が弓の弦を引き絞り、アウルを練り込んだ一矢を放つ。彼のアウルの光である紫に輝く矢は、アクラシエルの強烈な天の力に反応してさらに輝きを強くした。アクラシエルは防御のための白光を生み出したが、矢は光を突き破って相手の左腕に刺さった。
エイルズレトラ マステリオ(
ja2224)はヒリュウ──ハートを召喚すると、アクラシエルの背後に回るように指示を与えた。自身は敢えて真っ正面から近接すると、ステッキに仕込んだ妖刀の切っ先で剥き出しの喉を狙った。だがこれはアクラシエルの戦輪に寄って防がれた。
アクラシエルは、幾分か余裕を取り戻していた。
「私の護りをこの程度で貫けると思っていたのなら‥‥ずいぶんと甘く見られていたものだね」
「面倒くさい人ですねぇ」
エイルズレトラはなおアクラシエルの正面に立ち、挑発するようにステップを踏む。
「強くて倒しきるのが難しいとか、最高に面倒くさい」
「この学園の精鋭ならば或いは‥‥と、思ったのだけどね」
「申し訳ありませんが、我々はたまたま手が空いていただけの寄せ集めですよ」
「本当にその通りなら──」
アクラシエルの、下がっていた左手がひらめいた。同時にその手の戦輪が、エイルズレトラに向け直線的に射出される。
吹き飛ばされたのは、エイルズレトラが身代わりに置いていったトランプばかり。半身になって避けた彼の指示を待つまでもなく、後方からハートがアクラシエルに噛みついた。
しかしアクラシエルは意に介した様子もなく、言葉を続けた。
「その通りなら、君たちをただ叩き伏せるまでさ」
「お前の望みは何だ?」
氷雅がアクラシエルに問い掛けた。
「何を望み、誰のために戦う?」
「私が望んでいるのは天界の繁栄、ただそれだけさ。隅々まで静謐に保たれた天の世界を維持する、そのためにこそ『ネメシス』の存在もある」
誇らしささえ漂わせ、彼は答えた。だが、氷雅はほとんど間髪を入れずに言い返した。
「違うな」
「‥‥何だと?」
アクラシエルの目つきが、少しだけ鋭くなった。氷雅は臆することなく断じた。
「それはお前の望みではない。上からのお題目をそのまま口にしているだけだ」
「私を愚弄するのか?」
「違うというなら答えろ。お題目でないお前の本心を。それさえ出来ないのなら、お前は思考を放棄して愚直に命じられるまま動く人形ということだ」
「私は天を愛している‥‥心からね。
その天を守る為に不浄なる悪魔を祓うのがこの戦争‥‥そして、役目を放棄し堕落した天使──堕天使に裁きを与えるのが私の仕事だ」
氷雅が『お題目』と断じたのとほぼ同じ内容を、アクラシエルはもう一度言ってみせた。
アクラシエルは飛び上がった。五メートルほどの上空から戦輪を繰り出す。戦輪は時計回りの弧を描いて氷雅を襲ったが、彼へと到達する直前、眼前で噴出した水柱が戦輪を押しとどめ、氷雅を守った。
ファーフナーは水柱を抜け勢いを弱めた戦輪に迫り、すれ違いざまに槍で叩いた。回転を止めた戦輪はそのまま地面に落ちる──と思われたのもつかの間、すぐに勢いを取り戻すと、ファーフナーをはね飛ばすようにしてアクラシエルの手元へと戻った。
「無駄なことだね」
アクラシエルは笑みを浮かべたが、氷雅を戦輪から守った水柱の主──雫がその笑みを押しとどめた。
「なぜ悪魔を不浄だと言い切れるのですか? 堕天使たちの声に一度でも耳を傾けたことがあるのですか?」
「それは私たち天使の魂に刻まれた原理であり、真理だよ。悪魔は不浄であるからこそ悪魔であり、弱さに呑まれてしまったものが堕天使となる──私たちは彼らを浄化するための戦いを、君たちが想像すら出来ないような長い間、ずっと続けてきたんだ。
耳を傾ける? そんなことをしたところで、天に背いたものたちの妄言に耳を汚されるだけさ」
氷雅から肩代わりして受けた雫の傷を、水無瀬 文歌(
jb7507)が癒した。そうしながら、文歌は毅然とした様子でアクラシエルを睨みつける。
「そのようにひとくくりにするのでは、相手の本質を見誤ることになりますよ」
彼女たちがこれまで出会った悪魔にも、堕天使にも、さまざまなものがいた。ひとりとして同じではない。
「お前の言うようなものも確かにいるだろうが、堕天使の中には天と自身の在り方に悩んで堕天した者も少なくはないだろうさ‥‥お前のようにな」
次の矢をつがえたまま、静矢が言った。
「私を堕天使と一緒にするな」
アクラシエルの声に感情の萌芽がある。ラファルがすかさず突っついた。
「さっきも言ったろ。あんたがどう思ってようが、端から見ればあんたも堕天使そのものなのさ」
「違う」
「嫌なものに目を背け、耳を塞いで‥‥それで本当に貴方の望む世界が手にはいるのですか?」
雫も畳みかける。容赦のない撃退士の言葉は、攻撃以上にアクラシエルに鋭く突き刺さっていく。
「分かったような事を言うな」
「分かってなどいません。本当の望みは本人にしか分からないことですから」
きっぱりと、そう答えて。
「だからこそ、貴方に問います。貴方は何を守りたいのですか?」
天界か天使か、それとも己自身か。
「何度も同じ事を言わせないでくれ」
アクラシエルは、若干苛立った様子で頭を振った。
「私が望むのは、清浄なる天の世界を守ること‥‥それだけだ」
「思った以上にカチンコチンじゃねェか」
その答えに、ルビィは思わず呆れた声を出した。
「こりゃ、もう少し叩いて頭を柔らかくしてやる必要がありそうだな」
静矢が矢を放つ。二発目のラストジャッジメントを、アクラシエルは空に体を滑らせて躱した。
もちろん、主天使を空で自由にさせておく訳にはいかない。ファーフナー、エイルズレトラ(とハート)、ルビィはそれぞれの翼で追いすがる。
「あまり高空へ上がられると、支援が追いつかなくなります‥‥!」
「分かっている」
氷雅も雫に答え、飛び上がりつつ空の味方に呼びかける。
「上をとれ、自由にさせるな」
「任せろ!」
ルビィが応じた。エイルズレトラがまたアクラシエルの正面に入る。
「適当にお相手しますから、気が済んだらお引き取り願えませんか?」
すれ違いざま、囁くように言葉を残していくエイルズレトラに気を取られた隙に、ルビィは真上をとった。
力を込めて突き込む。アクラシエルはすぐに振り向き白光で防いだが、打突の勢いまでは殺しきれず降下した。
「戻ってきたな。今度は俺の魔刃を喰らいな!」
地上で待ちかまえていたラファルが刃で切りつける。それはアクラシエルの固い守りをすり抜けて、肉体を直接傷つけた。
「おっ、俺のアシッドショットの効果が出始めたか!?」
ミハイルは喜んだが、今のはラファルのスキル効果である──とはいえ、すでに二発の腐敗を呼ぶ弾がアクラシエルに撃ち込まれているのも事実だ。
そして、三発目。
「これも命中、さすが俺だな」
自画自賛の直後、戦輪の面がミハイルを向いた。熱線が瞬く間に伸びて肩まで届く。
文歌がアウルの鎧でミハイルを包んだ直後、小爆発が起きた。
「大丈夫ですか?」
「ああ‥‥一発くらいはなんとかな。だがさすがに高位天使だけあってひと味違うぜ。スピカあたりが喰らったらやばいな」
最後方に独りでいるSpicaのことも、その気になればアクラシエルは狙えるだろう。いまそうしないのは、多数の味方が彼を取り囲んでいることがひとつだ。
そのSpicaは味方から離れてライフルを構えている。切り札のひとつ、ダークショットはまだ使わない。
(いま使っても‥‥多分、決め手にならない)
主天使の真骨頂はその防御力だ。それは一射目の手応えのなさで知ることが出来た。レート差を含めれば、味方の中で頭ひとつ抜けた威力を持つ彼女の弾丸でも、ただ撃つだけでは決定打足り得ない。
それはアクラシエルがSpicaを狙わないことからも明らかだ。つまり、現時点では彼女は優先排除すべき対象ではないのだ。
機会を待たなければならない。ミハイルのアシッドショットはその一つ。
そして。
(さっき、みんなと話していたとき‥‥)
攻撃を立て続けに浴びても平然としていたアクラシエルが、氷雅や雫の言葉に対しては苛立ちのような気配をみせた。
そもそもなぜ彼はここへ来たのか。本気で天界に背くのならばもっと簡単で有効なやり方があるはずだ。決心が固まっているのならば──。
(そうじゃないから‥‥来た‥‥)
『問いの答え』とは、断定できない心の揺らぎ、茫洋たる未来への不安──すなわち、迷いだ。
それは己の悪魔の血を自覚した者たち──かつて(あるいは、いまも)ファーフナーが持っていて、Spicaの心に宿り続けるものと同じなのかも知れない。
「天使だって、やっぱり迷って‥‥」
世界が大きく変わるとき、誰もが迷う。人も、悪魔も、天使も。
その事実こそ、強敵アクラシエルに勝利するトリガーなのだろうか。
ルビィはアクラシエルに高度を稼がせないよう頭上を押さえ続けている。
「この世に『絶対』なんてありゃしねえ。『正義』だって相対的なモンだ。心の数だけ溢れてやがる。
だからこそ、異なる存在を尊重する努力が必要なんだ」
「絶対なるもの、それこそが天だよ」
「本当に頭の固い人ですねえ」
エイルズレトラが呆れた様子で肩をすくめた。──もちろん当人に見えるように。
「それが思考を放棄していると言っているんだ」
氷雅も言い募る。アクラシエルの注意を分散するために、彼もわざと視界に入ってみせる。
「何を──」
言い返そうとしたアクラシエルが、つと押し黙った。眼球が動いて睨つけた相手は、ミハイル。
「よし、全弾命中だ──ぅおおっ!?」
四発のアシッドショットをすべて命中させたミハイルに、戦輪が弧を描いて襲いかかった。咄嗟に盾を顕したが防ぎきれず、体をくの字にして横に吹き飛ばされる。
「ミハイルさん!」
「ギリギリセーフ‥‥まさに起死回生だ」
痛みに顔を歪めながらも、ミハイルは体を起こした。文歌が回復を施す。
「もっと早く吹き飛ばしておけばよかったね‥‥」
アクラシエルは僅かに微笑みを残して呟いた。戦輪を残す左手に力が込められる。
「ロックオン‥‥穿て‥‥!」
Spicaのライフルから放たれた闇色の光弾が、その左肩に命中した。弾ははじかれ空へと消えたが、アクラシエルの体勢が崩れた。
「隙ありだ!」
氷雅が飛び込む。彼の手から生まれた数多の蒼い蝶が、アクラシエルの顔と体に群がる。さらに背後からエイルズレトラの小竜が組み付き、動きを阻害する。
蝶と竜を振り切ったとき、眼前に大剣の切っ先があった。
「──っ」
再びルビィの突きを受け、アクラシエルは地上へと落ちた。そこへ、今度は静矢が迫っていた。
「さて‥‥私の得意技も見せようか!」
紫の鳳がアクラシエルにもろにぶち当たり、呑み込む。後方へ抜ける衝撃波をくぐるようにして迫ったラファルが、二発目の魔刃で背中を切りつけた。主天使の鮮血が散る。
撃退士が畳みかける。ファーフナーが降下しつつ槍をふるった後、Spicaの二射目。今度は右肩を捉えた。
「面白いものを見せてやる」
いつの間にかアクラシエルの傍へ移動していたミハイルが、口の端を吊り上げて言った
「出てこい、古の魔獣、戦士よ。その力を見せつけてやれ」
沸き上がるアウルにコートの裾がたなびく。ミハイルの背後に彼の愛銃が四丁、新たに顕れた。
それらはミハイルの手の中にあった『ブラックファルコン』とともに、それぞれ姿を変えた。ある銃は神話の神に、ある銃は伝説の一角獣に。
一角獣がいななくと、彼らは純粋なアウルのエネルギー体となって吹き荒れ、アクラシエルの体に幾度と襲いかかった。
暴風のような攻撃、だがそれが過ぎ去っても、アクラシエルはまだしっかりとその場に立っていた。
「いい攻撃だったよ、だけど──」
アクラシエルの体が淡く発光する。
「自由にはやらせん」
癒しの光を見た氷雅が、阻止せんと飛び込む。だが加護を打ち消す破戒の剣は白光に受け止められた。剣は崩れたが、癒しの光は消えない。
「君たちは確かに強い。だけど、天界と冥魔界をまとめて相手にして、なおかつ勝利を掴みとれるほどだとはやはり思えない」
「当たり前でしょう。僕たちだってそんなことは思っていませんよ」
エイルズレトラが当然と言わんばかりに返した。
「だが、現実は違う‥‥君たちによって、天界は変えられてしまう。私の愛した清浄なる天が消えてしまう。
何故だ? ‥‥君たちは、なにものだ?」
「やっと少し本音がでたな」
ミハイルが言った。
「私たちは貴方がたに力で勝ったとは思っていません。力の優劣や勝敗で決まる以外の戦争の終わり方だってあるんです」
文歌が胸を張った。エイルズレトラが続く。
「僕たちはただの隣人として、対等の関係であると認め合っただけです」
ラファルはその言葉を、どこか遠くに置き去りにされたかのような気持ちで聞いていた。
(‥‥ま、俺は天使に恨みがある訳じゃねーしな)
この戦いは、彼女にすれば予行演習のようなものだ。いつでも刃を突き立てられるように機を伺っていればいい。そう考えて、今は口をつぐむ。
「君たちが、隣人‥‥?」
アクラシエルは心底不思議そうに、呟いた。初めて見た食べ物を含む時のような、あやふやな口の動きで。
「私たちと、対等だと?」
「そうです」
文歌はきっぱりと答えた。
「人の文化を愛し、京言葉を話すようになったアナエルさんは弱いですか? 単純な力の強さが本当の強さではない‥‥貴方だって、本当はもう気づいているのでしょう?」
戸惑っているのが分かる。それはアクラシエルが初めて見せる、はっきりとした綻びだった。
「世界は変わる。天使たちも生き方を変えようとしている。あんた一人、心が立ち止まってどうするつもりだ」
期待を込めて、ミハイルは一歩踏みだす。
だがアクラシエルから返ってきた言葉は拒絶に近いものだった。
「天が変わるなど‥‥ありえない。あってはならない。私の信じてきた世界こそ至上のものだったはずだ!
ミカエルすらも‥‥あのお方さえも惑わせる、君たちはなにものだ! 私には理解できない!」
「理解できないではなく、しようとしていないだけではないですか」
厳しく言い放ったのは雫だ。
「ルールに従えないものたちをただ断罪して‥‥それで本当に貴方の望む清浄なる世界が手にはいるのですか」
「いま一度自分を見つめ直せ、アクラシエル」
氷雅が告げる。
「それが本当にお前が思っている理想郷(エリュシオン)なのか。
それとも暗黒郷(デストピア)なのかを」
「‥‥君は、私を愚弄するのか」
右手を眼鏡に添え、表情を押し隠したアクラシエルが問う。
「過ちを起こさないヒトはいない」
「私は天使だ」
「例え、神であってもだ」
その言葉を聞いたとたん、アクラシエルの体から蒼いオーラが吹き出た。突如強まった圧力に、それぞれが身を固くする。
「私一人に勝てない木っ端どもが、その名を口にし、あまつさえ貶めるのか!
永久の時を掛けて築き上げてきた天の世界を過ちだったと罵るか!」
肚に響く怒りの舌鋒が轟く。
「勝った負けたとか、あなたの頭には二元論しかないのですか。‥‥ははあ、さてはあなた、脳筋ですね?」
エイルズレトラは相変わらず飄々とした態度でからかった。返答は戦輪の叩打。鋭さを増した一撃を、再びトランプ・カードを身代わりに躱す。
「怒っちまったぜ、いいのか?」
ミハイルは苦笑しながら氷雅を見たが、平然としたものだ。
「これくらいしなければ、本音は出て来まいさ」
「おカタいのは、嫌いじゃないけど‥‥そのせいで、首絞めてるように見える‥‥」
そう言ったのはSpicaだった。銃を収め、前線に近づいてきている。
「ああ、これで少しは固さも取れるだろう。今が攻め時だ‥‥防御は雫、頼むぞ」
「はい、氷雅さん!」
怒りのアクラシエルはルビィを右の戦輪で叩き払い、空へ上がろうとした。だが雫がその足に取りついて阻止をはかる。ラファルが後方から仕掛けたが、ほとんどカウンター気味に繰り出された左の戦輪がこめかみを捉えた。
「っと、危ね」
すんでのところで魔装を身代わりに置いて逃れる。
アクラシエルは続いて氷雅に戦輪を投げつけた。雫が彼を守るために戦輪に飛びついたが、生み出した水柱ごと弾き飛ばされる。
正面からはファーフナー。槍の穂先がわき腹を掠めると、衣が破れて赤い筋が付いた。
「価値観とは勝ち負けではない」
突きの姿勢のまま、両目を見て告げる。
「他人と勝ち負けを競っても意味はない。戦う相手は自分自身だ」
「何を‥‥」
「世界が変わっても、過去が無になるわけではない。新しい、経験したことのない世界の始まりだ」
『今まで通り』でいることを捨て、未知の世界へ踏み出すことは恐怖を伴う。かつて己の出自をひた隠しにし、役割を演じることに心を砕いてきたファーフナーはそのことを知っている。
「一歩踏み出して、認めてしまえばきっと新しい喜びが待っているはずだ」
そして、そのことも。
「虚言を引っ込めろ、半悪魔!」
放たれた熱線がをファーフナーは避けず、受けた。胸の辺りが熱く焼け、小爆発が起きる。
「過去に留まることは停滞‥‥交わることで俺たちは成長できる。迷うな、アクラシエル」
ファーフナーの背中から幾筋かの茨が伸びてアクラシエルの体に絡みついた。
「なんだ、これは‥‥!」
茨の棘から流れるものは、彼にとって毒か、薬か。
アクラシエルは戸惑うように動きを止めた。それを見て、Spicaが飛び込んできた。
「チャンス‥‥!」
手にした槍は赤く発光しながら次第に形を巨槌へと変化させていく。至近距離まで踏み込み、思い切り振り回し、叩きつける。
ばしん、という音とともに空気が震えた。
「‥‥」
アクラシエルは、無言でSpicaを見下ろしていた。槌と体の間に戦輪が差し込まれており、纏わせた雷撃は霧散していた。
「このような攻撃が、効くとでも‥‥?」
言葉は変わらない。しかしその声には当初のような余裕ぶりはかけらもなかった。
Spicaは後退せず、問い掛けた。
「ニンゲンって、天使のエサだったけど‥‥今も、そう感じてる‥‥?」
「君たちは‥‥君たちは、エサではない」
弱々しい、それが答えだった。
「あなたが、迷っているのも‥‥分かる」
私もそうだから。
「主義とか、思想は‥‥否定しない‥‥。けど、いろんな存在がいるのも‥‥認めてあげて欲しい‥‥」
アクラシエルの見下ろすような視線がSpicaへ届いた。その瞳は、さまざまな感情のいろで揺れ動いている。
「私には‥‥分からない。君たちのことも。これからの世界のことも」
戦輪を構えたままで、その言葉は呟き漏れた。
「だから私は‥‥ああ、そうだとも! 私は答えを得るためにここへ来た。君たちを斃すか、君たちに斃されるか! その結果こそ、問いへの答えになる!」
アクラシエルが再び飛んだ。撃退士の包囲をかいくぐって後方へ。
「何か仕掛けてくるか!」
今までにない動きに、静矢が警戒を発した。
アクラシエルの全身がまばゆく発光を始めると認識した直後には、視界を覆う光が放出されて撃退士たちを呑み込んだ。
グラウンドの土は一瞬にして水気を抜かれたかのようにひび割れ、地上は陽炎が揺れていた。
アクラシエルの正面には、男が一人立っている。ファーフナーだ。
「まさか、私の奥義を受けて平然としているとはね」
天地の霊気をその身に纏い、あらゆる技を遮断する奥義。ファーフナーはその光で、アクラシエルの光に真正面から抗して見せた。
「だが、一人残ったところで‥‥」
「一人ではありません」
反論は地上から聞こえた。文歌が膝を震わせながら、立ち上がろうとしている。
「まだ貴方と分かり合うまで諦めるわけにはいきませんからっ‥‥」
頬が煤けていても、目の力は残っている。
「そうだ」
氷雅は声で応じたが、立ち上がることは出来ないでいた。
「追い求めた理想が目の前にあるんだ‥‥この程度の障害を乗り越えられずして‥‥」
強い意志で意識を保っていたが、体は彼に覆い被さるようにして倒れている雫を払いのける力もない。
彼に出来たことは、その手に蒼い蝶を生み出し、放つことだけだった。
蒼い蝶が風に乗って流れるのを、アクラシエルは不思議そうに見つめていた──目を奪われていた。
「既に変化はお前の中に訪れている」
呆然と立ち尽くすアクラシエルに、ファーフナーが告げた。二人の間に光の魔法陣が生まれたが、アクラシエルはわずかに眼球を動かすのみ。
「こうやって学園へ足を運んだ事実だ」
静矢はアクラシエルの後方へ回り込んでいた。目一杯の力を込めて弓を引く。
「今度は肩だけでは済まんぞ‥‥!」
ルビィは左手から。翼で急制動を掛けつつ、大剣を振りかぶる。
ファーフナーが魔法陣を槍で突く。静矢が矢を放つ。ルビィが大剣を振り下ろす。
そこから生まれたいくつもの光と闇が、アクラシエルを引き裂いた。
光と闇が過ぎた後、全身を傷だらけにしたアクラシエルは空を見上げ、一度笑った。
そして撃退士たちを見て──。
「君たちの勝ちだよ」
そう告げると翼を失い、地に落ち倒れたのだった。
●
アクラシエルは、十分もすると意識を取り戻した。
「迷いは晴れたのか」
「ああ」
頷いて見せた微笑みは、当初よりだいぶ素直なものに感じられる。
「君たちのおかげだ」
手当を受けていたラファルはその様子を見ると、ふーんと唸った。アクラシエルの方へ体を向けると、悪戯っぽい笑顔を向ける。
「あんたも学園こいよ、長生きしてんだから色々な物に触れねーと損だぜ」
「確かに、此処には人も天も魔も居る」
静矢は頷いた。
「完全に調和がとれず争うこともある‥‥だがその中で研鑽しあい進歩してきた想いも強さもある。そういう世界の在り方を知るにはいいかもしれんな」
ルビィが主天使の傍へ近づいた。
「俺はより良き明日を目指して戦ってきた。これまでも、これからもな。
──出来ればアンタにも協力して貰いたい。共に未来を作っていこうぜ」
武器を持たない、右手を差し出した。
アクラシエルはその手をしばらく見つめた後──手は取らなかった。
「悪いが、その手を取る資格は今の私にはない。私はあくまでも天に属するものだからね。まずは今回の勝手について、我が主上に沙汰をいただかなければ」
立ち上がり、ルビィの肩をぽんと叩く。
「私は天界を愛している‥‥天の形がどう変わろうと、そのことに変わりはないからね」
「まあ、いいんじゃないか?」
そう言ったのはミハイルだ。
「横浜を出て、こうして俺たちの前に来てくれただけでもありがたいんだ。言葉を交わす機会が出来たんだからな」
今すぐ変わらずとも、ゆっくりでいい──その兆しは、もう見えているのだから。
「君たちには、世話を掛けたな」
立ち去ろうとする背中に、ミハイルは続けて声を掛けた。
「横浜、元に戻してやってほしい」
「それも主上のご沙汰次第さ」
アクラシエルはそう言った後、ふと歩みを止めた。
「ただ‥‥もうあのゲートの戦略的な価値は、ほとんどないのだろうけどね」
*
主天使の学園襲撃という前代未聞の事件は、こうして幕を閉じた。
負傷者はでたものの死者もなく、校庭ひとつ荒らされただけで済んだことは行幸といえるだろう。
エイルズレトラは去り際のやりとりを聞いてこう漏らしたらしい。
「やれやれ──本当に、面倒くさい人ですねえ」