恵ヴィヴァルディ(jz0015)がそこにいたことに、驚きを感じたものはむしろ少数派だったかも知れない。
(過去の情報を整理すると‥‥恵は最大四人、ほぼ同時に存在したはず)
星杜 焔(
ja5378)は、そう考えていた。
いま学園に捕らえている恵は三人。となれば、一人逃げおおせていたことになる。
恵に従っていた天魔ハーフ、汎と漉が無計画に脱走したとも考えにくい。彼らは逃れた恵の元へ向かったと考えれば自然だ。
学園が把握していない隠れ家の存在。そして、「学生だけ」とわざわざ指定した恵の思惑。
(ただ資料を回収させようというだけのことはないはず)
その予測は、果たして的中していたのだった。
「やっぱりいたね」
鬼塚 刀夜(
jc2355)も挑発的な笑みを浮かべながら恵を見ていた。
「メグミンは、水に漬けたら増える、ワカメさんだからね」
恵の頭部を見ながら揶揄するように言ったが、当の恵は小さく鼻を鳴らしただけである。
「私たちは、商会からの依頼で、ここにある情報を回収しに来たんですよ」
水無瀬 文歌(
jb7507)が目的を告げた。厳密には『商会と交渉している学園からの依頼』だが、学園から派遣されたと知れば相手は警戒するかも知れないので間を端折っている。これでも嘘は言っていない。
恵は眉を動かし、「『ステルツォ』から?」と口にした。
「『あちら』の連中はもう、活動を再開しているのか?」
「いや、それはまだだ」
ファーフナー(
jb7826)が首を振って否定する。
「三人の恵は学園内で捕らわれの身だ。だがこの情報を持ち帰り、交渉次第では解放される可能性もある」
「大方の察しはついてるんだろ?」
小田切ルビィ(
ja0841)がしたり顔で言った。
「あっちの恵の一人が、情報の回収と引き替えに学園との協力を打診してきたんだ」
恵は首を動かし、ちらりと窓の外を見る。
「言っておくが、俺たちは特殊な連絡手段があるわけではないんでな。横浜で分かれて以来、あちらの状況はそれほど詳しくない。そいつらが抜け出した後のことは特にな」
顎先が、入り口付近に立っている汎と漉に向いた。
「あちらの恵さんは、ここには『学園生のみ』を派遣するように要請してきました」
浪風 悠人(
ja3452)が言った。
「少なくともあちらは、ここにあなたが居ることを知っていたか、予測していたのではないでしょうか?」
「そうだろうな」
恵は机の上に腰を乗せており、リラックスした様子を見せている。だが、仮に誰かが襲いかかれば、即座に反応できるように気を巡らせていることも見て取れた。
「それで‥‥どうする? ほかと同じように、俺のことも捕らえるか?」
言葉に呼応するように、漉が剣の柄に手を伸ばす。
冷ややかな視線と沈黙が、一呼吸の間絡み合った。
「今日の仕事は『資料の回収』だ。お前のことは何も言われていない」
答えたのは後ろの方に控えていた牙撃鉄鳴(
jb5667)だった。
そして、その言葉に異を唱えるものもいない。
「私は恵さん、貴方の考えを聞きたいです」
文歌はそう言った。こちらの考えを押しつけるつもりはない、だから聞かせてほしい、と。
「敵でない相手と戦うのは、もう勘弁だよ」
と焔。少なくとも恵は、『人類のために』動いている。それは確かであるはずだ。
「いい機会じゃないか。せっかくだから腹を割って話そうぜ」
ミハイル・エッカート(
jb0544)は友人と接するのと同じような気さくさを見せる。
「そちらが望むなら、ここで出会ったこと自体学園には報告しない。全部俺たちの胸にしまおう。それでどうだ?」
恵はしばらく答えず、撃退士たちを見つめていたが──。
「ここは狭いな。漉、リビングルームの準備をしろ」
「はい」
命令された漉がさっと踵を返し部屋を出ていく。それを見て、撃退士たちの緊張もいくらか弛緩した。
「あ、これおみやげだよ‥‥コーヒーによく合うよ」
焔が差し出した、お手製の菓子が詰められた箱を、恵は受け取った。
「では、あちらでコーヒーを馳走してやろう」
●
リビングの大きな机を囲むように撃退士たちが座り、恵も座った。汎と漉が手分けして全員にコーヒーの入った紙コップを配っていく。焔の持ってきたビターチョコビスコッティも皿に移されて置かれた。
「ミルクと砂糖をいただけますか」
悠人がそんな要求をし、
「僕むしろコーヒーじゃなくてミルクください」
刀夜はそう言い放って漉に睨まれた。だが、恵が「出してやれ」と言ったので漉はすごすご引き下がった。
ファーフナーは、汎が自分のところへ紙コップを置きに来ると、彼に向かって目礼した。そもそも彼が招き入れてくれなかったら入り口でひと悶着あったかも知れないのでその礼も込めて。汎は薄く微笑みのようなものを浮かべて、無言のままファーフナーの元を離れていった。
「恵四人って整形なのか? 同じすぎる」
湯気の立つコーヒーに息を吹きかけながら、ミハイルが素朴な疑問を口にした。
「外見に関しては、そうだな」
「全員趣味嗜好とか統一してんのかい?」
こちらはコーヒーを啜りながら、ルビィ。
「もちろんだ。思考まで同じになるように訓練をしている。さっき特殊な連絡手段はないとは言ったが、だから何を考えているのかはだいたいわかるさ」
「へェ‥‥徹底してるねェ」
「でさ、メグミン」
仏頂面の漉が置いていったミルクをくいと飲んだ刀夜が、唐突に切り込んだ。
「フラれたん?」
そもそも、恵は横浜ゲートにいたはずだった。それがここにいるということは──。
「アクラシエルとの交渉は思うようにいかずに手詰まりになった‥‥そういうことだよな?」
とルビィ。
だからこそ捕縛した恵の一人は、学園との協力関係に復帰することを打診してきたに違いない。
恵はふっと笑って、自分もコーヒーに口を付けた。
「さぁな」
「いやいや、ちょっと待てよ」
ルビィは何を言ってるんだとばかり、手のひらを上に向けた。
「アンタ等の狙いはアクラシエルを扇動して三界同盟に亀裂を入れ、戦争を継続させること──だったんだろ?」
「その通りだ」
「だったらその目的が失敗に終わったいま、学園と敵対し続けるのは『ステルツォ』にとって何の利益にもならねェ。それは確かじゃねえか?」
ルビィの訴えに、恵は挑戦的な視線を投げ返す。
「何故‥‥失敗したと言い切れる?」
「何故って‥‥」
恵はここにいる。そして横浜に動きはない。
ならば失敗した──そうではないのか。
「種は蒔いた」
「『芽』が出るのはこれから──そういうことか?」
一人席に座らず、壁際に立っている鉄鳴が問う。
恵はニヤリと笑みを深くして、言った。
「分からんな」
「‥‥なんだそりゃ」
刀夜が呆れた。恵は悪びれもせず続ける。
「種は蒔いた。芽吹くか腐るかは当人次第さ」
「‥‥腐ったとしたら、どうするんだ?」
「大口の顧客を逃すのは残念だが、それだけの話だ。次の取引先を見つけるまでのこと」
そして、言った。
「火種は、いくらでもある」
*
「いくつか確認したいのですが‥‥いいですか」
悠人が軽く片手を挙げた。
「貴方は、あのとき‥‥『廃工場で会った恵』で間違いないですか?」
恵自身の依頼を受けて廃工場に巣くう天魔を排除したとき、悠人らは廃工場を調査した。そのときに出会ったのは、外で待っているはずの恵本人だった──恵が複数存在することを疑う契機となった出来事である。
「廃工場で会った、と言えば会ったが‥‥お前の言っている相手はおそらく別だろうな」
悠人はきょとんとする。恵は心なしか嬉しそうな様子で続けた。
「俺はあのとき車で待っていた方だからな」
「えっ」
何人かは、その答えに目を見開いた。
「‥‥ということはアンタ、俺とは初対面ってわけか」
顎を撫でながらルビィが言ったが、恵は首を振った。
「いや、会っているな。お前とそこのメガネは同時に会っている」
「‥‥浪風です」
こほんと咳払いする悠人。
「廃工場以外でも‥‥ですか? どこで‥‥」
「デモ隊の警備に駆り出されていただろう?」
「‥‥あっ!」
撃退士排斥を訴える団体、『力無きものの声』のデモ警備は、恵が見せた一連の不穏な動きの発端でもある。
「あのときか。確か、アンタは‥‥」
ルビィが記憶を掘り返す。デモ隊の暴動を遠くから眺めていた恵は、撃退士に発見され追求を受けると、そこから逃れるように瞬間的に姿を消した。
「まあ、そういうことさ」
正体ばらしの悦楽を噛みしめるように、恵は言うのだった。
「先ほど、火種はいくつかある、と言いましたが‥‥」
悠人はコーヒーで口の中を潤すと、話を戻した。
「その中には、『西目屋村のゲート』ないし『同盟を笠に暗躍している勢力』も含まれているのですか?」
「西目屋村か」恵は突然出てきた固有名詞に動じる様子もない。「あちらもいろいろ動きがあるようだな」
「‥‥!」
その反応を同意と受け取り、悠人は畳みかける。
「あなたたちは、あの勢力に武器の横流しをしていませんでしたか?」
「ノーコメントだ」
「恵さん!」
恵はぴしゃりと言った。食い下がる悠人に告げる。
「商人というのは信用が第一でな。仮に俺がその件に関わっていたとして、顧客情報をぺらぺら喋る様では商売は成り立たない。
さっきの部屋の資料を探ろうとも思わないことだな。第三者に渡ってもいいように、あそこには相当数のダミーデータを混ぜ込んである。俺たちでなければ判別は出来ない」
「‥‥分かりました」
一度奥歯を噛みしめた後、悠人は頷く。恵はしかし、さらに続けた。「もう一つ、訂正がある」
「なんですか」
「火種は『いくつか』あるのではない。『いくらでも』あると言ったんだ」
横浜、西目屋村。いま表に現れているものがすべてではない。
「全部で幾つ、という話でもない。仮にいまある火種のすべてが消えても、新しい火種が生まれる。人類がこの世界に生きる限り、決してなくなることはない」
「だとしても」
力強く答えたのは、文歌だった。
「今までと変わらず、平和を脅かすものがいれば戦ったり、説得したりするだけです。三界同盟ですべてが平和になるなんて思っていませんから‥‥」
「むしろ大変なのはこれからだ。分かっているよ」
焔も首肯した。
「人がいる限り、争いはなくならない」
天使も冥魔も人間も、根っこは同じく『人』である。それがこの長い戦いで焔がたどり着いた答えだ。だからこそ手を取り合えるし、衝突もする。
「天魔だけじゃなくて同じ人でも、覚醒者と非覚醒者への差別もあるしね」
刀夜は肩をすくめた。
「思い通りにいかなくとも、一つ一つ、対処し尽力していくしかない」
ファーフナーが、重みのある声で告げた。
悠人が改めて、口を開いた。
「僕の母は天魔ハーフです。僕はこの身に天使も悪魔も人間も、すべての血を宿している」
そしてアウルの力も。
「だからこそ、僕はこの世界と対峙し続ける義務があると思っています」
天魔も覚醒者も含めた──人類の未来のために。
「でも、僕の正義では届かない敵も居ます。貴方が僕たちと同じ未来を見据えて、そのために行動しているのなら‥‥お互いに利用しあう関係を結ぶわけにはいきませんか?」
恵は表情を引き締めて、悠人の顔を正面に見据えた。
「人類の未来のために行動している‥‥それは俺も同じだ」
「なら‥‥」
「だが、俺がお前と協力関係を結ぶのは難しいだろうな」
「なぜです!?」
「give and takeなら、アンタにとって悪い話じゃないはずだろ?」
悠人だけでなく、ルビィも身を乗り出した。
「俺にとっては、そうかもな」
「こっちにだってそうだぜ。三界の和平条約が正式に結ばれるまでは、三つ巴の腹の探り合いが続くだろう。今後、天魔人の間ではよりタフな政治的駆け引きが必要になってくる。
そのとき、裏世界に精通し、清濁併せ呑めるアンタたちの様な人材は、絶対に必要になってくる!」
恵はルビィの訴えを、一蹴した。
「それは俺の仕事じゃない」
「だったらメグミンはこの先、どうするつもりなの?」
「世界に火種を蒔き続ける──天魔と人の戦いが、決して絶えないように。
お前たちと敵対し続けることが、俺の進む道となる」
「‥‥何故だ?」
ミハイルが声を差し挟んだ。
「俺も三界同盟が綺麗事で続くとは思っちゃいない。‥‥だが今は戦いの後で、皆疲弊しているんだ。
なのに何故、戦争を続けたいんだ?」
それは当然の疑問であり、あるいは最大の謎であるともいえた。恵は人類の未来のために、この世界に戦いを絶やすまいとするという。
矛盾でないというならば、その真意は?
「お前とは別の恵は」ファーフナーが口を開いた。
「このまま戦争が終われば人類にとって敗北だと言った。──汎は、勝利を望んでいる、と」
部屋の奥に控えている汎と目が合う。汎は頷いた。
「ひとの未来はひとが作る、この世界に神はいない。
天魔と並び立つ上で不可欠なアウルは、未だ不明確な力だ、とも」
「そうだ」
満足そうで、それでいて溜息が混じるような恵の同意があった。
「撃退士という職業が生まれて、まだほんの二十年。アウルの発現が確認された頃から数えても三十年だ。その間に俺たちは、数万年に渡って争い続けているという天使悪魔と対抗しうるほどの超常の力を得た‥‥これが自然なことだと思うか」
「戦い続けることで、撃退士はさらに進化できる‥‥そういうことか?」
「その可能性もある。アウルの力を人為的に操ることは難しい。‥‥少なくとも、アウルを持たないものにアウルを植え付けたり、あるいは強化するといったことに、確立した手段は現時点で存在しない」
文歌が胸の前で拳を握り、小さく息を呑んだ。
「戦争を続けることで人類のアウルを強化する、それが目的。そういうことか?」
ミハイルはふむと唸る。
「確かに、人類に覚醒者が増えれば増えるほど、天魔へ対抗できるものが増えることにはなる。それどころか人類が皆覚醒者となれば、天魔のエサにされることはなくなる──そこが、到達点だと?」
「未来的には、な。だがそれはまだ遠い目標だ。
現時点では、俺はもう少し悲観的に考えている。アウルの力が、天使悪魔に狙われるという危機的状況を脱するために与えられたものだとすれば‥‥戦いが終われば弱まる──喪われる可能性すらある」
「それはあくまで、可能性の話‥‥ですよね」
悠人が確認すると、恵は頷いた。
「だが現状維持だったとしても問題だ。人は百年で死ぬが、天魔は千年生きる──八十年も経てば、先の戦いで主力となったお前たちのうち、人間はほとんどが死ぬか引退しているだろう。こちらの戦力は減り、あちらの戦力は減るどころか増えることになる」
手の中のカップをあおり、中身を空にするとくずかごに放った。
「戦力の均衡がとれなくなれば、交渉も何もない。人間をエサだと考えている連中に、ただ呑み込まれて終わる。
──そうさせないために、人類にはこの先も、戦いが必要だ」
覆されることを拒むように、厳然と言い放った。
重苦しい沈黙が漂う。
汎が恵へと、新しいコーヒーが満たされたカップを渡した。
「‥‥僕の友達はさ」
刀夜がおもむろに口を開いた。
「天魔人が共存できる平和な世界を目指してるんだ」
もちろん、それが困難な道のりであることは承知している──だから。
「だから卒業後は旅に出るって。メグミンの言う『火種』を取り除くために。僕もそれに同行するつもりだよ」
場の空気を敢えて無視するように、刀夜は明るく言った。
「そんな僕らに、メグミンから何か一言! 率直な意見でもアドバイスでも、何かあったら聞かせてよ」
「そうだな」
ゆったりとコーヒーを一服してから、恵はようやく刀夜の方をみた。
「せいぜい死なないように頑張るといい」
「‥‥それだけ?」
「仲間のことは知らんが、お前の能力は聞き知っている。そう簡単には死なんだろうが、こちらも手加減するつもりはないのでな」
「ふーん‥‥まあいいか、頑張れってことは応援してくれてるってことだし」
ソファに深く座り直し、刀夜はミルクを飲み干した。
「僕もおかわりくださーい」
「この先もあくまで戦争を続けるために動くって言うなら、学園と協力するっていうのは難しいよな」
少なくとも学園が公に認めることはあり得ないだろう。天井を見ながら呟いていたルビィだが、ふと思い至って恵へ向き直った。
「──だったら、学園に残っている恵が協力を申し出たのはどうしてだ? アンタの言うとおりなら、つじつまが合わなくなるぜ」
捕らわれの身から解放されるためのブラフか、あるいは恵たちの間で、意思統一のほころびがでているのか。
「協力を申し出てきたのは、三人の恵のうち一人だけだった‥‥一人だけほかと違う判断が出来るなら、その恵がオリジナルなのかな? って思ってたんだけど」
焔は緊張した様子を残したままだ。
「さらに違う判断が出来る、ということなら‥‥オリジナルはあなたの方なのか?」
「俺たちの間に優先順位はない。全員が恵として思考し行動している」
窓を背に座っている恵の背中には、レースのカーテン越しに陽の光が当たっている。夏の暑さのせいなのか、あの特徴的なコートやスーツの上着は身につけておらず、黒のワイシャツとスラックス姿だ。
だが、そのことがこの恵から『恵らしさ』を損ねることはなかった。態度も言葉も、過去に顔を合わせた恵と相違ない。
「俺自身は『ステルツォ』からは離脱する」
「何‥‥!?」
衝撃の宣言を、目の前の恵はさらりと言ってのけた。
「商会の運営は、学園に残っている連中が続けていくことになる」
「だが彼らは先ほども言ったように、解放されたわけじゃない」
釘を差すように、ファーフナーが言った。しかし恵は笑い飛ばす。
「そこら辺は交渉次第だな。伊達に長年学園の裏側を取り仕切っていたわけじゃない。捕まえたお前たちは納得いかないかも知れんが、なんとでもなることだ」
そして、悠人を見やった。
「お前の言う『利用しあう関係』は、あちらと築くといい。究極的な目標は、変わらないからな」
「‥‥彼らは、僕の話を聞き入れるでしょうか?」
「それも、交渉次第さ」
今度の恵の微笑みは、過去に見受けたひたすらに冷たいばかりのものとは、少し異なっていた。
「ここにいるものたちは、俺のことを知っている。人類の未来のために、通らなくてはいけない道がひとつではない、ということも、理解しているだろう? ‥‥『ステルツォ』は、識っているものを無碍に扱うことはない」
「あんたの考えていることは分かった」
ミハイルが再び口を開いた。
「その上で、だ‥‥ビジネスの話をしたい。──二人きりで話せないか?」
そのサングラスの奥の瞳を値踏みするかのように、恵はミハイルに不躾な視線を投げつける。
「汎、漉。こちらは任せる」
「は、はい!」
立ち上がった後は一瞥もしない。腕を組んで立っている鉄鳴の横を抜けて、恵は部屋を出ていった。
*
汎が漉の肩を叩き、漉は顔をしかめて見せた。「あー‥‥コーヒーのおかわり、ほかにほしい人ー」
「おかわりはいただきます‥‥でも、それより。お二人にも話を聞かせてほしいです」
文歌がそう言うと、漉は面食らったようにぽかんと口を開けた。己の胸を押さえて、文歌は続ける。
「私は強制的にアウル能力を持たされ、力に目覚めたらしいんです‥‥」
文歌自身にははっきりとした記憶がなく、真実は不明だ。だが彼女自身は、もしかしたらと思いつつこれまで生きてきた。
恵の実験によって(結果的にではあっても)天魔ハーフとしての力を覚醒させた汎と漉とは、似た立場にあるともいえる。
「お二人は何故、恵さんに協力し続けるのですか?」
「精神制御によって強制的に従わされていたわけではない‥‥ということだろう?」
とファーフナー。汎にしろ漉にしろ、敵対したときとは明らかに様子が異なっている。あのとき感じた異様さはない。
「あれは集中力とか、そういうのを強化するためにやってもらってたんだ」
少しばかり恥ずかしそうに、漉はファーフナーからはそっぽを向いて答えた。汎がその間に、手帳になにやら書き付け、見せる。
『俺たちは皆、自分の意志で彼に協力している』
「命を懸けて、学園から脱出して‥‥そうまでする理由があるのだろう?」
教えてくれないか、と焔が言った。
「アンタたちがそうまで恵を慕う理由か‥‥確かに、気になるな」
ルビィも持ち前の取材精神を見せる。「っと、もちろん勝手に記事にしたりはしないぜ、今日は本音を語り合う日だからな」
漉は汎のことを見上げた。汎が頷き返すのを見てから、口を開いた。
「‥‥俺たちは恵さんに生きる道を示してもらったんだ」
*
恵とミハイルは、資料が山積されている部屋へと戻ってきた。
「‥‥それで?」
前置きなしで、恵がミハイルに促す。値踏みするような視線は相変わらずだ。
ミハイルはゆっくりと背広の内ポケットに手を入れると、名刺ケースを取り出した。手慣れた仕草で一枚取りだし、相手に差し出す。恵は片手でそれを受け取った。
名刺には、全国的にも名前が知られている海外企業の名前と、ミハイルの名前が印刷されている。
「俺とコネクションを結ばないか?」
恵は即答しない。
「俺はいつか取締役になるぜ。海外企業のコネも悪くないだろう?」
「さっき言った通りだ。商会とのコネがほしいなら帰ってから改めて交渉しろ」
「もちろんそうするさ。だがあんたとのコネは今ここでしか結べない、そうだろう?」
恵の視線が、少し動いた。ミハイルはニッと笑う。
「俺は汚い仕事もこなしているからな。あんたのすべてを認めるわけにはいかないが、それでも協力できる余地はあると思っている。
それに‥‥裏で商会とつながりがあるやつはそれなりにいるだろうが、商会を離れて活動する恵と直接コネクションを持てる人間はそうはいないはずだ」
これは絶好の商機だと、ミハイルは踏んだのだ。
「俺をただの大口叩きだと思うならその名刺は破り捨ててくれていい。あんたの目から見て、俺の将来は賭ける価値があると思うか?」
凍えるような視線を正面から受け止めて、ミハイルは己をアピールするかのように胸を張った。
恵は視線をゆっくりと上下に動かし──やがて口元から、空気が抜けるような音が漏れた。
「名刺は貰っておこう」
そう言ってあっさり部屋から出ていく恵の背中を見届けながら、ミハイルは詰めていた息をこっそり吐き出すのだった。
*
「俺たちはもともと、学園の生徒だった」
漉はゆっくりと、己の身の上を語る。
「だけど大した能力は無かった──能なしとしてずっと燻っていたんだ。そこを、恵さんに拾われた。学費を払って貰って久遠ヶ原を退学し、俺たちは恵さんの子飼いになった」
「そして実験体となり、天魔ハーフとして覚醒した‥‥そういうことですか?」
悠人の問いに、汎が大きく頷いて見せた。漉が続ける。
「自分に天魔の血が混じっているなんて知らなかったけどな。とにかく、覚醒した俺たちは戦う力と、仕事を得た。
‥‥もし恵さんが俺を拾ってくれなかったら、俺は今でも目的もなく燻っていたか、のたれ死んでたかのどっちかだろうよ」
汎が片手を挙げ、注意を引いた。
『俺たちは、彼の行動・思考のすべてを知っているわけではない』
「まぁ、実際さっきの話も初めて聞いたこととか、けっこー混じってるしな‥‥」
漉が唇をとがらせている間に、汎は続きを書く。
『だが、俺は彼を信用している』
「それは、何故だ?」
汎が答えを書く、その手の動きをファーフナーは注視した。手は止まることなく書き終えて、答えが示される。
『彼は公正であるからだ』
「公正‥‥?」
「恵さんは、生まれや人種でひとを区別しない。あくまで力や、思想で判断するんだ」
「‥‥どういうことだ?」
ルビィは首を傾げた。恵は『力無きものの声』の活動に手を貸していたし、今現在においても、あくまで天使や悪魔を『敵』と決めつけているように見える。
「いや‥‥確か、恵はあの団体の思想そのものには全く賛同していない、ってあいつが言ってたっけな‥‥」
「アウルに覚醒していようが、天魔の血を引いていようが、己を人だと思うのならそいつは人だ」
「恵さん!」
部屋に入ってきた恵を見て、いつから聞かれていたのかと漉は身を堅くした。
「漉も汎も、ハーフとして覚醒してからも自分は人間だと考えた。だからそのように扱った。それだけの話だ」
少し遅れて、ミハイルも戻ってきた。
「こっちは終わったぜ‥‥なんの話だ?」
「人間とはなんだ、って話かな」
刀夜が両手を広げつつ答えた。
「人間だから人類の味方、とは限らない。天使も悪魔もしかりだ。『あの場所』にいれば、一目瞭然だ」
様々な種族のものたちが、様々な思想と共に生きている場所──久遠ヶ原学園。
「人の思いは千差万別──」
「そうだ」
ファーフナーの呟きに、恵は口角を上げた。
「天使だろうと悪魔だろうと、頭の中はバラバラだ。いくらトップが同盟したと言ったところで、そう簡単には変わらない‥‥ともすれば覆りかねない」
「それを防ぐために、戦いが必要だと‥‥?」
恵は笑みを浮かべるのみ。だがそれは冷笑ではなかった。
「‥‥わかりました」
文歌は立ち上がり、毅然とした態度で言った。
「貴方のことは、学園には報告しません。‥‥でも、私の考えも変わりません。
この先どんな火種があっても、今までと同じように、全力で解決するだけです」
「僕も、僕の道で闘い続けます」
悠人がその隣に並び、告げた。
「それでいい」
恵は満足そうに肩を揺すった。
「それこそがお前たちに求めるものだ」
●
「さて、言いたいこともだいたい言ったし‥‥」
刀夜はぐーんと伸びをした後、漉をみた。
「こっちは特にその気はないけど、漉君がやりたいって言うなら相手したげてもいいよ?」
もちろん、やるなら完全ガチだけどね、と妖しく笑う。
「はあ!? なに言ってんだ、そんな気ねえよ!」
勝手に戦ったりしたら恵さんに怒られるだろうが、などとぶつぶつ言う漉。
「なんだ、残念」
刀夜は笑みを引っ込めると、立ち上がった。
「じゃ、お仕事して帰るとしますか」
そう、今日の仕事は別室にある膨大な資料の回収なのだ。
「忘れてましたね‥‥」
「手早くやらないと日が暮れちまうな」
各々立ち上がり、別室へ向かっていく。その中で、悠人が汎と漉の前に立った。
「戦いの傷は、もう大丈夫ですか」
「見ての通りだ、今はピンピンしてるよ」
漉は照れくさそうに横を向いて答えた。汎は無言のまま、微笑んで頷いた。
悠人も微笑みを返す。
「いつかまた、敵として見えることがあったとしても──今日のところは、敵意はありません。
よかったら、運び出しを手伝ってもらえませんか?」
汎は快く応じた。漉はその後ろを、渋々といった体で付いていく。
焔はその流れに付いていこうとして、ふと恵を振り返った。
「よかったら、俺に商売の助言をもらえないかな」
孤児の受け入れを行う施設に、思い出の味を提供する小料理屋。それらの経営が、焔の目標なのだという。
「変わらぬ芯を持つこと。それから、小さな労を惜しまないことだ」
意外なほどあっさりと、恵は回答をくれた。
「‥‥ありがとう」
彼らしい柔和な笑顔とともに礼を言って、焔も部屋から出ていった。
*
室内には恵と、そして鉄鳴が残された。
二人になると、鉄鳴は壁から体を離し、恵へと近づいていく。
「実際のところ‥‥おまえ個人はこの展開をどう思っている?」
捕らわれている三人の恵のうち一人は、鉄鳴に依頼してわざと捕らわれた。‥‥それはおそらく、目の前にいる四人目を確実に逃がすための工作だったのだろう。
だがそうまでしても、少なくとも今のところは、三界同盟は維持されている。
「すべて思惑通り、でないのは確かだな」
恵はそう答えたが、余裕のある表情はそのままだ。
「だが、イレギュラーは何事にもあるものだ。いくらでも巻き返せるさ。‥‥定まった未来など、ありはしないのだからな」
「お前の思惑通り戦争が継続したとして‥‥その果てに、お前はなにを望む?」
俺のように金のため、というわけではないのだろう。そう言うと、恵の表情がやや崩れた。
「そうでもないさ。金に興味がなかったら商人などやっていない」
「そうなのか?」
「だが‥‥それだけでないのも確かだがな」
その詳細は、語る気はないのだろう。もしかしたらそれは、彼らが『恵ヴィヴァルディとなった』理由の根幹なのかも知れないが。
恵は窓の外を見た。
「俺はそろそろ失礼するとしよう。汎と漉は適当にこき使ったら、ここに置きはなしていってくれ」
「これからどうする」
「しばらくは『営業』だな。何事もまずは地道な努力からだ」
外見に似合わぬことを真面目な顔で言い切る。
「火種を蒔くための、か」
鉄鳴は音もなく、恵へと顔を近づけ、問うた。
「依頼はあるか?」
火種の着火役だろうと、なんだろうと。『契約』が成れば何でもこなす。
「必要になれば、いずれ連絡するさ」
「別のお前は『俺の腹が満たされる程度には戦いは続く』と言った‥‥ならばそれを証明して見せろ」
「ああ‥‥期待して待っていろ、『黒い鳥』」
そして恵の姿は窓ガラスの向こうへと消え失せたのだった。
●
『ステルツォ』の運営情報は無事学園に回収された。
その後どのような交渉が成されたのか、事に当たった学生たちに明かされることはなかったが、しばらくして後、恵ヴィヴァルディは何食わぬ顔で学園内での活動を再開することになる。
密かに道を分かちいった男の存在を、学園は知らない。
それは、ほんの僅かなものたちだけが知り得た秘密。
未来への警鐘であり──ひとつの標である。
<了>