その日もまた、雨だった。
リュミエチカ(jz0358)は空き教室に向かう。
廊下の窓の外は、どんより薄暗い。空全体がなんだか重くのしかかってくるように見えた。
つと立ち止まり外を眺めていた彼女は、やがて遠くから聞こえてくる異質な音に気づいた。
微かなその音は、リュミエチカが再び歩き始めると次第に大きさを増した。
歩くにつれ、理解する。
──これは、旋律だ。
しっとりと潤いを持った、雨の日の旋律。だが重くはない。ゆったりと自然に、心に染み渡ってゆく曲。
‥‥などと、音楽に疎いリュミエチカが考えたはずもないが、本能的に旋律を受け入れながら、音に導かれるように歩いていく。
旋律は、まさに待ち合わせの教室から流れていた。
教室にはすでにメンバーが集まっていた。
旋律を奏でているものは窓際に腰掛けていたが、リュミエチカに気がつくとゆっくりと弓を引く手を休めた。
「‥‥岳雲」
リュミエチカが名を呼んだ。それはある時彼女が教えられた彼の本当の名だ。
「しばらく振り。‥‥だけど、元気そうでなによりさぁねぇ」
糸のように目を細めて、九十九(
ja1149)はリュミエチカに微笑みかけたのだった。
*
「雨の日は、こうして楽器を弾いていることが多いかねぇ」
戯れに二胡の音を響かせながら、九十九は言った。
「ふうん」
彼が操る弓に合わせて弦が震える様子を、リュミエチカはじっと見ている。「チカも、弾ける?」
「そうさねぇ‥‥簡単なものなら、出来ると思うけどねぇ」
「他には?」
「他は‥‥本を読むくらい、さぁね」
それで十分、退屈はしのげる。それが九十九の日々の暮らしであった。
「本‥‥教科書は、時々読んでる」
「それもいいけど、他にも本はいろいろあるさね」
「そうですわ!」
颯爽と会話に加わってきた少女・桃々(
jb8781)。
「桃々のおすすめはリビングに寝そべってゴミックを読むことですわ」
「ゴミック」
「説明しよう!」
明らかにピンときていないリュミエチカ。桃々はこれでもかと胸を張る。
「『ゴミック』とは! 落ちなしヤマナシウリなしのゴミのようなくだらない漫画のことである!」
せっかくのご高説を、リュミエチカは口を開けて聞いていた。
だが桃々はこのくらいではめげない。そんなことではゴミックマスターなんてやってられない。
「いきなりゴミックを通読するのは玄人向けなので‥‥今日は普通に面白い漫画を入門編に持ってきましたわ」
背中のバッグを外す。
「ちなみに、このバッグは『ゲレゲレさん』」
「ゲレゲレさん」
リュミエチカ、今度は頷いた。
桃々はゲレゲレさんの中から、どんどんゴミ‥‥コミックを取り出し、積み上げていく。ちなみに、諸事情によりタイトルは伏せるが、聞く人が聞けば一発で「あああれか」と分かってしまうゴ‥‥コミックたちである。
「手始めにこの辺りがおすすめですわ」
桃々から手渡されたコミックを、リュミエチカはしげしげ眺めた。表紙を開き、中を覗いて。
そして、聞いた。
「‥‥どうやって読むの?」
リュミエチカは、漫画を読んだことが無かったのである。
●
話が一段落したところで、一行は学園の外へ出た。
「何するの?」
訝しむリュミエチカに砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)が明るく答えた。
「雨の日を楽しむための‥‥まずは、下準備からね」
「いろいろ買うぞ。荷物持ちは任せろ」
不知火藤忠(
jc2194)に背中を押され、島にある商店街へ向かう。
*
まずは雨具の取り扱い店へ。
「レインコートとブーツと、気に入った色を揃えて買ってみたら、雨の日の外出が楽しくなるかもしれない」
と言ったのは、ファーフナー(
jb7826)。
「リュミエチカちゃんはどれ着たい? 何をするにも好きなものでが一番だからね」
ハンガーから似合いそうなコートをどんどん外して見せつつ、ジェンティアンはノリノリである。
*
雨具を揃えたら、スーパーへ。
「リュミエチカさんは、料理の経験はありますか?」
買い物かごを手に陽波 透次(
ja0280)が尋ねた。
「‥‥少し」
「今日は簡単なものですし、僕も手伝うから大丈夫ですよ。ええと、ジャガイモと、タマネギと‥‥」
透次は手早く食材を選び、かごに入れていく。
そこへ藤忠が近づいてきてかごにそうっと何かを入れた。見れば、甘いお菓子の箱である。
リュミエチカと目が合うと、藤忠は無言のままいたずらっぽく笑い、人差し指を唇に当てた。
*
続いて手芸店へ。
「雨の日は、室内で手芸とか、どうかな? ‥‥と思いまして」
案内するのは、ここでも透次だ。
「こんな感じの、マスコットぬいぐるみを作ってみませんか?」
リュミエチカに見せたのは、鞄につけた小さなうさぎのぬいぐるみだった。
まずは主体となるフェルト生地の色を選ぶ。
「何を作ってみたいですか? うさぎじゃなくてもいいですよ」
すると、リュミエチカは意外にも迷うことなく、薄い紫色の生地を取り上げた。
「アルペン、作る」
「‥‥アルペン?」
聞き覚えのない単語に透次が首を傾げていると、九十九が助け船を出した。
「リュミエチカのディアボロさぁね。‥‥ここに来る前、いたのさね」
「アルペンは、チカのトモダチ」
リュミエチカの言葉と、ことの顛末を知っているらしい九十九の様子を察して、透次はそれ以上詳しくは聞かないことにした。
●
「なんだか、ガボガボする」
「すぐ慣れるのさぁね」
購入したばかりのレインコート、レインブーツを着込んで、リュミエチカは感触を確かめるように足踏みをした。
赤いチェック柄のコートと、赤いブーツ。フードを被ると、いつも身につけているサングラスの異質さもいくらか隠れるようだ。
「うん、いいじゃない、かわいいよ」
とジェンティアンが言えば、「ああ、似合ってるな」と藤忠も同意した。
リュミエチカは「‥‥そうかな」とだけ言って、顔を伏せた。照れているのだろうか。
「せっかく揃えたんだ。これからも雨の日は、それを使うといい」
ファーフナーが言うと、ややあって赤いフードが揺れた。
リュミエチカが男性陣に囲まれている光景を、桃々が遠巻きに覗いている。
「おじさま達が悪魔の女の子を愛でている姿‥‥素敵ですわね」
なんだか満足そうに頷いていた。
*
「今度は、どこ行くの?」
コート越しに体を直接雨が打つ、新しい感覚を味わいながらリュミエチカが尋ねると、ジェンティアンが答えた。
「雨だからこそ、逆に『散歩』はどうかな? ってね」
雨はしとしとと降り続いている。
一行は島の中で小高くなっている丘のような場所へ向かい歩いていた。
道の脇に緑が増えていく。
「雨は億劫かもしれないけど、花や木はたくさん水をもらって喜んでる‥‥ぽくない?」
ジェンティアンはそう言った後、何かを誤魔化すように笑った。
リュミエチカは口をぽかんとあけてから、道ばたの緑に顔を近づけた。
「喜んでる‥‥?」
雨水を浴びた草木は、普段よりも緑を鮮やかにしている。
「ほら、紫陽花が咲いている」
藤忠が道の先を示した。薄い蒼から紫の小さな花をたくさん付けた紫陽花が、花束のように集まって咲いていた。
「そう言えば、日本では紫陽花の鑑賞も梅雨時の楽しみの一つらしいな」
ファーフナーが、知識を掘り返した。
花びらのひとつひとつに水滴をつけ、紫陽花は静かに咲いていた。
そして雨の音、雨の匂い、ひやりと冷たい、湿気た風が手の甲を滑っていく感触。
どこかでカエルが鳴いている。
「この風景全てを、楽しむものなのだろうな」
自分自身が得心したように、ファーフナーは言うのだった。
道のくぼみに水が溜まっている。
「水たまりとかあると、ばしゃーん! ってやりたくならない?」
「ばしゃーん?」
ジェンティアンが突然そんなことを言った。
「制服でやったら後が大変だけど、完全雨装備の今なら出来るよ」
「つまり、こういうことですわ」
レインポンチョを着込んだ桃々が、リュミエチカの手を取って──水たまりに足を突っ込んだ。ばじゃーん、としぶきが飛ぶ。
「結構深いですわね‥‥さあ!」
「あ、わ」
引かれるままに、リュミエチカも卸したてのブーツで水たまりに入り込む。足踏みする度、ばしゃばしゃと波が立った。
‥‥ただそれだけのこと、ではあるのだが。
「なんか、ヘンな感じ」
「これも、雨の日でないと出来ないことですわね?」
「なんだか、てるてる坊主が二つ並んでるみたいだな」
「ふふ、確かにね」
藤忠とジェンティアンは微笑ましくその光景を眺めていた。
*
「ここから商店街が見えるな」
丘をだいぶ登った辺りで、ファーフナーが言った。
リュミエチカが隣に並ぶ。彼の言うとおり、先ほど買い物をした商店街の様子を見下ろせた。
「空は灰色だが‥‥様々な人が様々な傘を差している」
くっついたり離れたり、万華鏡のように景色を変える、色とりどりの傘の花──。
ファーフナーが人の流れを眺めていると、不意にリュミエチカが言った。
「なんだか、あじさいの花‥‥みたい?」
ついぞ似た感想を抱いたことに驚いて、ファーフナーはリュミエチカを見た。
「ああ‥‥そうだな」
答えると、リュミエチカの口元が少し動いて、なにがしかの表情を見せた。
もしかしたら、笑ったのかもしれなかった。
「そろそろ戻ろうか。まだ教えたいことはあるからな」
藤忠が呼びかけて、夕刻前に一行は学園へと戻った。
●
学園の、調理室へと再び集合して、リュミエチカはエプロンを身につけていた。これも商店街で新たに購入したものだ。
「リュミエチカ、結び目が縦になってるぞ」
「‥‥ん?」
「そうじゃない、ああ、俺がやってやろう」
背中の紐がうまく結べていないのを見かねて、藤忠が代わりに結んでやる。エプロンを購入するときも、藤忠がいろいろ助言していたのだ。
「雨の日は、ちょっと手の込んだ料理を作る‥‥なんていうのも楽しみ方の一つだろうと思ってな」
「というわけで‥‥これから皆で、コロッケカレーを作ろうと思います」
透次が言った。
「コロッケなら、作ったことある」
「そうなんですか?」
リュミエチカが、ちょっと胸を張り気味に言ったので、透次は意外そうな顔をした。
ちなみに正確には、コロッケのタネの成形を、手伝ったことがある、くらいの内容であり、料理は正しく初心者である。
「でも、油は危ないからって、やらなかった」
「それなら、ゲレゲレさんの出番ですわね!」
桃々が嬉々として背中のゲレゲレさんを外した。
「ゲレゲレさんは、料理が出来るの?」
「あ、いえ、そういうことではないのですが‥‥」
なんだかちょっと角張っているゲレゲレさんの中から、結構大きな家電が箱ごと出てきた。
「このノンフライヤーがあれば、油を使わずに揚げ物調理が可能なのですわ!」
秘密道具の説明でもするかのように、得意げな桃々である。
*
「それじゃ、いただきましょうか」
全員分の皿が食卓に並んだのを確認して、透次が呼びかけた。
「いただきます」
きっちり挨拶をしてから、リュミエチカはスプーンでコロッケの一角を崩し、カレーと一緒に口へ運ぶ。
「お味はどうかねぇ?」
九十九が尋ねてからしばらく、もぐもぐと口を動かすことに集中していたリュミエチカの目が、サングラスの奥で見開かれていく。
「コロッケがちゃんと、サクサクしてる」
「さすがノンフライヤー‥‥文明の利器ですわね」
桃々もコロッケを口に運び、うっとりと呟いていた。
「辛さはどう? 辛すぎるとか、ないかな」
「平気」
ジェンティアンに答えるのももどかしく、二口目を口に運んでいく。
「どうやら、リュミエチカちゃんにはちょうど良かったみたいだね。──ってことは、これの出番かな」
ついと眼鏡を押し上げてジェンティアンが取り出したるは、赤い液体の詰まった瓶だった。
「それは?」
「皆も辛さが足りないと思ったら、使うといいよ」
自分の皿にこれでもかと中身を振りかけるジェンティアン。
「確かに、今回は甘口ですからね」
と透次。大人の男には若干物足りない味付けであることは否めない。
──だが注意せよ! ジェンティアンは並の辛いもの好きではない。彼と同じ感覚でソースを振りかけたものは、口中を容赦ない破壊の暴風が吹き荒れたことであろう‥‥!
●
「型紙に合わせてチャコペンで線を引いていくんです‥‥そう、上手いですよ」
食事を終えた後、リュミエチカは透次の指導で、マスコットづくりに励んでいた。藤忠と桃々も、一緒に挑戦している。
再び楽器を取り出した九十九が演奏を始め、室内に心地の良い旋律が流れていた。
「線を引いたら、切り抜きます。表裏で二枚」
ほつれが出ないフェルト生地なので、加工も比較的易しい。三人とも丁寧に切り抜いていく。
「リュミエチカ」
作業を続けながら、藤忠が声をかけた。
「今日は、楽しかったか?」
「雨の日でも、やることは沢山ある」
その声は感慨のこもったものだったので、藤忠は彼女が喜んでくれたのだと理解できた。
「お前が楽しめたなら良かった」
「何かに興味を持つことは、生きるのを楽しむことだ」
様子を見学していたファーフナーが、静かに言った。
「‥‥俺自身、その点ではお前と同じ、初心者だがな。今日は、俺もいろいろと、発見があった」
リュミエチカが顔を上げ、
「楽しかった?」
と、問うた。
「‥‥ああ、そうだな」
ファーフナーは緩やかに、口元に笑みを浮かべるのだった。
●
小一時間ほどで、三人のマスコットが完成した。
リュミエチカはアルペン。藤忠は桜。そして、桃々はミニサイズのゲレゲレさん。
それぞれ手作り感が溢れている所はあるが、上手くできていると透次も太鼓判を押してくれた。
「この裁縫道具は差し上げます。時間があるときに作ると、気分転換になりますよ」
透次からすれば、もっといろいろな縫い方なども教えて上げたいところだったのだが、気がつけば寮の門限も近い頃合いになっていた。
「今日はここまで、お開きだねぇ」
九十九は楽器をしまい込む。
「今度は晴れた日にでも、一緒に『ヤキュー』をするのさぁね」
リュミエチカは、こっくりと頷いた。
*
「今日は、忙しかった」
寮に戻って、リュミエチカはゆっくりと呟いた。
雨は小降りになっている。明日には止みそうだった。
「次、雨が降ったら、ええと‥‥」
散歩をしようか、縫い物をしようか、それとも漫画の読み方を勉強しようか。出来ることが沢山ありすぎて、迷うほどだ。でも、その前に。
リュミエチカはさっきまで読んでいた手紙をもう一度眺めた。別れ際に、ジェンティアンが手渡したものだ。
『今日は皆の話、参考になったかな?』ではじまり、
『良かったら次の雨の日に返事ちょうだいね♪』と締められていた。
「返事‥‥何、書こう」
次に雨が降るのは、いつだろう。
リュミエチカは、夜の帳が降りた窓の外を眺めるのだった。