●1日目
どれほど車に揺られていただろうか。目的の宿はまさしく冬山の奥地にあった。
「‥‥すごい雪」
送迎車から一歩降りるなり、降りかかってきた雪を払いながら六道 鈴音(
ja4192)がつぶやくと、真っ白な息が煙のように立ち上った。
点喰 因(
jb4659)は雪煙に霞む先を見やった。うっすら見える木造建築は、大量の雪を屋根の上に乗っけて、何とも頼りなさそうに一行を出迎えていた。
「あれがお世話になるお宿ですかぁ。‥‥ええと‥‥」
「ボロだな」
「せっかく因サンが言葉を選んでるってぇのに、台無しにしてどうするんです、狐サン」
百目鬼 揺籠(
jb8361)が恒河沙 那由汰(
jb6459)の肩を小突いた。
「元からあった建物を修繕して宿にしたそうだ。外観はまぁ確かにアレだが‥‥中は大丈夫だろ」
そう言ったのが依頼者、獅号 了(jz0252)。
「それはいいんだけど‥‥」
砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)が不安を前面に押し出している。
「もしかして、屋根の雪下ろしとか雪かきとか‥‥僕らでやらないとダメなのかな?」
「確かに‥‥そうねぇ」
マリア(
jb9408)が右頬を手で押さえ、頷いた。宿の前はかろうじて雪が避けられた形跡があるがすでに新雪がそこそこ積もっているし、屋根の上に至っては明らかに今日はノータッチだろう。今にも雪塊が滑り落ちてきそうである。
「あー、トレーニングも兼ねて、俺がやるって言ったんだ」
獅号はそう答えた後、少しばつが悪そうに頬を掻いた。
「とはいえ‥‥想像以上だな。一人じゃ終わりそうもないから、何人か手伝ってくれ」
「すごい積もってますしね‥‥寝てる間につぶされるのはごめんです」
東條 雅也(
jb9625)が屋根の上を見て苦笑いした。
「このままだと投げ込みできる場所もなさそうですしね。ミット持ってきたのに」
鈴音はやる気十分だ。
「あの、私は‥‥」
おずおずと聞いたのは、美森 あやか(
jb1451)。
「美森は台所を頼む。初日は器材の確認とか、時間かかるだろ」
料理は主に、彼女の担当ということになっていた。
「じゃあ、僕は美森ちゃんのお手伝いってことで!」
すかさずあやかの傍に貼り付くジェンティアン。
「ほら僕賑やかし担当だから。スポ根とか無理だし、男と熱血するより女の子ときゃっきゃしてたい‥‥ってことで宜しく☆」
獅号はその捉えどころのない笑顔に少しばかり面食らったようにしながら、「わかったわかった」と言った。
「そんじゃ、荷物を運び込んだら始めるとするか」
*
「はい美森ちゃん、野菜刻めたよ。こんなもんでいい?」
「えっと‥‥はい、十分です。ありがとうございます、砂原さん」
まな板の上をのぞき込んだあやかは、ジェンティアンにはにかむような笑顔を見せた。
「ふふん、料理はほとんどしたことないけど、このくらいの作業なら任せてよ」
得意げに胸を張るジェンティアン。
「女の子のお手伝いならいくらでも、ってことで、次は何しようか? 何でも言ってね」
「ありがとうございます。でも、後はもう煮込むだけなので‥‥」
あやかは広い台所を見回してうーんと唸る。
「‥‥そうでした」
ふと思い出して、柱に吊されていたノートを取り上げると、ぱたぱたとジェンティアンの元へ駆け寄って差し出した。
「これ、管理人さんのところに届けてもらっていいですか? 明日使う食材とか、まとめてあるので」
この辺りは周囲に店どころか人家もほぼないので、一日一回、ふもとから物資が届くようになっていた。ちなみに、費用は気にしなくていいと獅号からお墨付きをもらっている。
「なるほどね。じゃあ行ってくるよ」
「お願いします」
ジェンティアンはノートを手に、台所を後にした。きしむ廊下を歩きながら、ノートの中身をぱらぱらと覗く。
「‥‥やっぱり、アクセントは欲しいよね」
あやかのリストの最後に、さらさらと追記を施した。
*
夜になるより少し早い時分に、獅号たちが戻ってきた。
「‥‥空を飛べるって便利だな。梯子なしで屋根に上がれるし」
「確かに、雪下ろしにはもってこいの能力ですねぇ。万が一埋もれても雪を透過すりゃ出てこれますし」
獅号と揺籠のやりとりを聞いていたリュミエチカ(jz0358)は、納得したように頷く。
「なるほど」
「‥‥出てくる前に息が詰まったら死ぬからな。止めとけよ」
すぐさま那由汰に釘を刺されていた。
「わあ、お鍋だ!」
台所を覗いた鈴音が声を上げた。コンロの上に大きな土鍋が二つ、乗せられている。
「何鍋かな」
「今日は寄せ鍋です。いろいろ入っていますよ」
食器を取り出し並べながら、あやか。
「せっかく合宿ですから、夕食はみんなで囲めるものがいいかな、って‥‥。食堂に運ぶの、手伝ってもらえますか?」
「じゃあ、こっちの鍋は俺が運びますよ」
「食器の類はあたしが持ちますねぇ」
雅也と因が率先し、ほかのものも手分けして食事を運ぶ。
これからしばらく、この光景が続くのだ。
食事中、マリアがふっと呟いた。
「それにしても温泉。アタシ、どっちに入るべきかしらぁ?」
「えっ」
「それは‥‥」
食事風景が一瞬凍り付いたという。(男湯に入りました)
●2日目
「あ? 何だ、クロスカントリーか? それなら付き合えるぜ」
朝食の席で、那由汰が言った。
「くろすかんとりぃ? なんですかぃそれは」
「くろすかんとりぃ」
揺籠が明らかに咀嚼し切れていないカタカナ語で問うと、リュミエチカがまねをした。
「自然の起伏があるところを走るんだ。雪山だから、スキーでな」
答えつつ、獅号は焼き鮭を頬張り、味噌汁をすすった。あやかが用意した朝食は、いかにも日本の家庭料理といえる内容だ。
「こういう朝飯久しぶりだ」獅号は感慨深く言った。アメリカに本拠を移して、今年で四年目である。
「おかわり、ありますから。‥‥でもトレーニング前だと、食べ過ぎない方がいいんでしょうか?」
「いや、俺はまだ筋肉をつけたいからな。しっかり食うぞ」
獅号の言葉に、鈴音がうんうんと首肯する。
「近頃は日本選手も大型化が進んでますからね。獅号さんももっと身体を大きくしないと!」
「まあ、そう言うわけだ。これからもこんな感じで、宜しく頼む」
*
「スキーは初めてですねぇ」
これがスキー板ですかぃ、としげしげ眺めながら、揺籠は呟いた。
「じぃさんは足腰弱いから見学でもしとくか?」
すかさず那由汰がニヤつきながらからかった。
「足腰がどうのと言われるほど年食っちゃいませんよ! ‥‥とはいえ、勝手がわからねぇですから、無理についていこうとはしないほうがいいですかねぇ」
「俺もクロスカントリーはやったことないですけど‥‥」
雅也はそう白状した後で、いつものように落ち着いた笑みを浮かべた。
「まぁ何とかなるでしょ。多少は警護の人間がいたほうがいいし、俺もついて行きますよ」
「確かに、天魔の情報はないとは言っても‥‥ここは群馬。警戒だけは怠らないようにしないとねン」
マリアもその考えに同調する。
時が経ち、地域によっては人が戻り始めているとはいえ、かつて悪魔の一大勢力地だった事実は変わらない。
「でもアタシはスキーは無理だから‥‥チカちゃんはどうするの?」
リュミエチカを見やると、サングラス越しにしげしげとスキー板を眺めていた彼女は振り返って、
「見てる」
とだけ言った。
「じゃあ、アタシと一緒にいましょうか。こんなにいっぱい雪があるんだもの。雪での遊び方、教えてアゲルわぁ♪」
こくりと頷くリュミエチカ。
「マネージャーもどきはどうしましょう?」
因が聞いた。彼女なりのマネージャー・スタイルなのか、首からストップウォッチを下げていることに気づいて獅号が言った。
「丁度いいからここにいて、一周ごとのタイムを計ってくれるか。早すぎたり遅すぎたりしたら言ってくれ」
「了解ですよぉ」
「じゃ、いってらっしゃーい♪」
手を振るジェンティアン──周辺を警戒する、ということで見学──に見送られ、獅号達が滑っていった。
*
雪は今日も降り続いている。
「これ以上、強くならないといいんですけど‥‥一応、予報では大丈夫そうですが」
スキーを滑らせながら、雅也が言った。左耳に嵌めたイヤホンから、ラジオで天気予報を確認しているらしい。何とかなるでしょ、と言ったとおり、ここまで獅号たちについて行っていた。
「コースを外れなきゃ大丈夫だろ。中間点にはじぃさんが立ってるはずだしな」
と那由汰。
「それもありますが‥‥視界が悪いときに天魔が出たりすると、いろいろ面倒ですしね」
先頭を行く獅号はすでにトレーニングに意識を集中しているのか、口を挟んでこない。
雅也はその背中を追いかけながら、コースの左右に広がる林に目を光らせていた。
「お、近づいてきたね」
スキーの滑る音を聞き取って、ジェンティアンが口を開いた。因がストップウォッチを取り上げる。
間もなく上り坂をスキーで駆け上がってくる獅号たちが姿を見せた。眼前を通過するタイミングでラップを刻む。
「一周!」
獅号は軽く手を挙げ、そのまま滑っていった。那由汰たちも遅れずについて行く。
「やあ、やっぱり練習中は表情が違いますねぇ」
タイムを書き付けながら、因。
「頑張るよねぇ、寒いのに。‥‥あ、ホットレモン飲む? 甘くないけど」
と水筒のコップを差し出すジェンティアン。
「雪、雪、雪」
リュミエチカはマリアとともにいた。
おそらく、この量の雪を見るのは初めてなのだろう。興味深そうに手で積もった雪を崩している。
「ね、チカちゃん」
マリアが笑いかけた。
「この雪で‥‥そうね、アルペンちゃん達を作ってみない?」
そう言われると、サングラスに隠された瞳が大きく開かれるのが分かった。
「作ってもいいの?」
アルペンとは、リュミエチカが学園に来る前──冥魔勢力に属していたころに使役していた、独特の風貌を持つディアボロだ。リュミエチカはアルペンを可愛がっていたが、学園に帰属するにあたり全て処分しなければならなかった。
「雪のアルペンちゃんなら、居たっていいのよ」
マリアはウィンクした。
「居なくなってもまだ、チカちゃんの中でアルペンちゃん達は大切なお友達でしょぉ?」
アルペンが、果たしてリュミエチカの本当の意味での「友達」だったのか──いろいろな考え方があるだろうが、少なくとも、孤独に蝕まれていたリュミエチカの唯一の心の拠り所であったことは間違いない。
マリアに見つめられると、リュミエチカはいつものようにほんの少し視線をずらし、こくと頷いた。
「アタシが雪を集めるから‥‥一緒に作りまショ!」
「マリア」
背中を見せるマリアに、リュミエチカが声をかけた。
「マリアも‥‥友達、だから」
いつもより、ちょっとだけ下を向いて──もしかしたら、照れているのかも知れない。
「とびきり可愛く作ってあげましょう」
濃いメイクに彩られた目元を細めて、マリアは言った。
「アルペンちゃん達が、今もチカちゃんの傍にホントは居るように‥‥ね?」
*
「お昼を食べたら、投げ込みしますよ!」
スキー板を脱いだ獅号に鈴音が宣言した。すでにキャッチャーミットを持っている。
「今回は下半身強化メインなんだがな‥‥」
「もちろんそれも大事です‥‥でも!」
鈴音は力説する。
「獅号さん、今年はローテーション約束されてるんですか? 早いうちから仕上げて、オープン戦から全開アピールで、シーズン終了まで突っ走るんですよ!」
私が受けてあげますから、とやる気が迸る鈴音である。
「今年こそ、獅号さんにとって勝負の年なんですよ!」
まずは軽いキャッチボールから始めながら、鈴音はなおも熱く語った。
「渡米一、二年目は‥‥まぁ事情もあったし仕方ないにしても! 今年は絶対獅号さん自身が納得できる成績を残してもらわないと」
「去年はそこそこだったんだがなぁ」
獅号はぽつりと言ったが、鈴音は納得しなかった。
「出発前、約束したこと覚えてますか? ‥‥15勝して、って言ったんですよ!」
「‥‥返す言葉もねぇな」
確かに、そこまでの成績は残していない。鈴音の言うとおり、アメリカでの立場は安泰ではない。年齢的にもそろそろ若手ではなくなっている。
「勝負の年か。確かにな」
獅号は改めて大きく頷いた。
「‥‥そうじゃなきゃ、ラークスだって浮かばれないのよ」
鈴音は小声で言った。獅号の前所属である茨城ラークスは、近年も上位浮上しきれずにもがくシーズンが続いている。
「獅号さんが残ってたら、勝ちが15増えて、負けが15減るから‥‥優勝だって狙えていたかもしれない年があったかもしれないんだから!」
まぁそんなに思い通りに行くはずなどないのだが、そう考えてしまう悲しきファン心理であった。
「あ‥‥変化球はまだいいですよ!」
獅号が本格的に構えに入る前、鈴音が叫んだ。
(さすがに捕れないし)という鈴音の思考が読めたのか、獅号はニヤリと笑って「分かってるよ」と返してから、足を上げる。
ゆったりとした動作から、腕を振り抜く。まだ力感はこもっていない、筋肉の動きを一から確認するようなフォームだ。それでも、放たれたボールは糸を引くようにすぅっと伸びていって、鈴音のミットの構えたところにまっすぐ飛び込んだ。
「きれいな球がいくもんですねぇ。さすがにプロは違いまさ」
遠巻きに見ていた揺籠がその軌道を見て感嘆した。
「じぃさんは野球知ってんのか?」
「うるさいですねぇ、野球くれぇは知ってますよ」
那由汰の混ぜっ返しに反論しつつも、揺籠は少し残念そうに眉を寄せた。
「──とはいえやったことも観に行ったこともないですねぇ。獅号サンが日本にいるうちに観に行ってみたらよかったでさ」
「僕もほとんど行ったことないねぇ。この前リュミエチカちゃん達とバイトしに行ったときにみたくらいかな?」
ジェンティアンもあっさりそう言った。。
「これはヤキューじゃないの?」
獅号とのキャッチボールが野球の全てだと思っていたリュミエチカに至っては、未だに正しい野球というものを理解し切れていないらしい。
「六道‥‥今度、こいつらスタジアムに連れてってやってくれ」
獅号は若干うんざりした顔で鈴音にそう懇願するのだった。
*
「フンフン‥‥フフン♪」
さて、そろそろお待ちかねのお風呂シーン。
ただし先に断っておくと今回女風呂のシーンはほぼありません。
鼻歌を口ずさみながら、一足先に露天の温泉を堪能しているのはジェンティアンである。
「い〜いお湯だね〜♪」
すぐ目の前を川が通っているから、せせらぎの音が耳に入ってくる。ちらつく小雪のせいで、ほかの音はほとんど聞こえない。自然の醍醐味を味わえるのだ。
‥‥その分、なのか、すぐ隣に接している女湯とは竹製の柵一枚で仕切られているばかりで、その気になってひょいと覗けば簡単に覗けてしまう、なんともモラルを問われる造りにもなっていた。
もっとも、ジェンティアンをはじめ、今回の参加者にはそんな不届きものは一人もいなかったのであるが。
「ま、逆に覗かれる場合は仕方ないけどね‥‥!」
女性に対してはあくまでも広い心で臨むジェンティアンである。
一人でのびのび浸かっていたら、脱衣所から「寒! 寒!」と叫びながら獅号がやってきた。
湯船に浸かれば雪も風情だが、浸かるまでが大変だ。獅号は大急ぎで掛け湯をすると、どぼんとお湯に入る。
「いや、公共の温泉ってぇのはなんとも苦手でして‥‥」
「じぃさんがシャイぶるな気色悪ぃ!」
すぐにまた奥の方からやり合う声が聞こえてきた。揺籠と那由汰であろうことは、やりとりの調子ですぐ分かる。
揺籠が渋っている理由は、彼を一目見れば理解できた。体の左半分を覆うように浮かぶ、百目の紋様だろう。肌をさらす場所では、よくても好奇の視線を浴びたに違いない。
だが、今ここにはほかの客はいない。
「やっぱり後で一人で‥‥」
「い・い・から! さっさと入れ!」
那由汰は容赦なく、揺籠を湯に向かって蹴っ飛ばした。しぶきが盛大にあがる。
「っぷぁ‥‥! てめぇ何してくれてんですかぃ!!」
お湯から顔を出すなり抗議する揺籠は、那由汰は放った何かを咄嗟にキャッチする‥‥お猪口だ。
「それ持って待ってろ」
那由汰はそう言うと、脱衣所に引っ込んでいく。獅号とジェンティアンが、傍に寄ってきた。
「いいな、雪見酒か」
「恒河沙ちゃん、お猪口追加ね!」
結局、酒の力で四人で入浴する男どもである。──肝心の那由汰は飲まないのだが。
「ほー、さすがにいい身体してるね、獅号ちゃん」
「野球選手の体ってそうなってんだな。人間にしては筋肉があるっつー感じだな」
「‥‥」
「あ? 変に勘操るんじゃねぇよ!」
カポーン。
「男湯はなんだか賑やかね」
女湯の方は、鈴音が一人で入浴中。仕切が薄いので、会話内容はだだ漏れである。
「あ、そうだ獅号さん! あがったら私がマッサージして筋肉をほぐしてあげますからね!」
仕切越しに叫ぶと、またわっと反応があった。獅号が冷やかされているようだ。
「そんなに変なこと言ったかな‥‥」
以上、女湯でした。
●3日目
「お茶が入りましたよ」
「お、あたしが持ってくねぇーん」
食事をすませ、人心地つく朝。あやかが淹れたお茶を因が配っていると、ジェンティアンがスキー板を担いで現れた。
「お、今日は見学じゃないのか」
「んー? ちょっとは体を動かそうかなって。スキーなら人並み以上にはできるし、まあ一般人に置いて行かれることはないかな、と」
獅号のこめかみがひく、と動いた。
「ほー。まぁ確かに、撃退士の体力は底が知れないからな。なんなら競争するか?」
「男と熱血は御免だってば」
と言った後で、涼しい顔のジェンティアン。
「でも昨日のペースくらいだったら、置いていけちゃうかもね?」
「言ったな。ぶっちぎってやる‥‥点喰、昨日のタイムメモってるか?」
「こちらにござい」
因が獅号にクリップボードを渡す。と、那由汰が口を開いた。
「なあ、だったら俺は今日は付き添わなくてもいいか」
「‥‥ん、なんかあんのか?」
*
「チカさんはこれを千切ってくだせぇ」
「こう?」
「そうそう、上手いですぜ」
那由汰は暇そうにしていたリュミエチカを、台所に連れてきていた。昼食の支度を手伝わせようというのだ。
「全部できたら、ボウルごとこちらに渡してください」
「ん」
何事も勉強、とは那由汰の弁──ただし、実際に面倒を見ているのは一緒に来た揺籠とあやかがメインであったが。
「さて、次はコイツの皮むきです。熱いから気をつけるんですぜ」
「気をつける」
茹であがったジャガイモの皮を手で剥いていく。
「狐サン、もうちょっと丁寧に‥‥芽はちゃんととってくだせぇ」
「あー? いいだろ、少しくらい」
「獅号さんが腹こわしたらどうするんですかぃ」
「ちっ、面倒くせーな」
那由汰自身、料理が得意というわけではなさそうである‥‥が。
「恒河沙さん、ご飯炊けましたよ」
「ああ、全部あけてくれ。そしたら後は俺がやるわ」
あやかに促されて炊き立てご飯の入れられた桶の前に立つと、イモの皮むきをしていたときとは別人の手慣れた動きを見せ始めた。
目分量だけで酢飯を作り、いくつかの具材を混ぜ込むと、準備してあった油揚げで包み込んでいく──大皿の上に、見る間に稲荷寿司が出来上がっていく。
「ナユタ、すごい」
リュミエチカはその手際に心底感心したが、揺籠は冷静に言い放った。
「稲荷だけめちゃくちゃ上手なのなんなんですかぃ‥‥どうせ好きなもんばっか食ってるんでしょう、ガキみてぇに」
「はぁ? だから稲荷は嫌いじゃねぇだけだ! 好きじゃねぇよ!」
噛みつかんばかりに抗議する那由汰。
「んな事言ってじぃさんは料理出来るのかよ! どうせレトルト止まりだろ?」
「レトルトは割高なの多いですしねぇ」
しかしあっさり躱された。
「カレーならスパイスから作れますよ‥‥チカさん、ジャガイモが剥けたらこれで潰していくんでさ」
「ん」
事実、揺籠が普段から料理に慣れていることは、リュミエチカの面倒を見る様子からも割と明白なのだった。
「マジかよ‥‥何だよこの敗北感‥‥じぃさんの癖に‥‥」
打ちのめされる那由汰。
「ナユタ、すごくなかった?」
「‥‥マジでへこむから止めろ」
「さて、これで準備は万全でさ」
「‥‥これ何?」
トレイの中に、ジャガイモその他を丸めてこねた種がいくつも並んでいる。リュミエチカの作ったものは少々不格好であったが、「こーやって気持ちを込めて作ったもんは、上手くなくても美味しいもんですよ」と揺籠が優しくフォローした。
「これは、コロッケになるんです」
「コロッケ?」
あやかが言うと、リュミエチカは口をあんぐり開けた。
「リュミエチカさん、確か以前、気に入ってましたよね」
「でもこれ。カリカリしてないよ」
リュミエチカが好むのは、揚げたての衣のサクサク部分。でも目の前のコロッケ? はフニャフニャだ。
「‥‥ふふ。いきなり油を扱うのは危ないから、後は私がやりますね」
あやかは微笑んで言うのだった。
トレーニング組がスキーから戻ってきて、昼食の時間。
「稲荷に‥‥コロッケか。どういう組み合わせなんだ?」
「今日は、皆で作ったんですよ」
食器を並べながらあやかが言った。
「これは、途中までチカが作った」
ひときわ巨大で不格好なコロッケを示して、リュミエチカ。
「へぇ、すごいですね」
雅也が素直な賞賛を示したが、リュミエチカは首を振る。
「すごいのはアヤカ。フニャフニャをカリカリにした」
「ええと‥‥?」
全く言葉が足りていない返事に、曖昧な表情しか出来ないでいると、リュミエチカはその不格好で巨大なコロッケを雅也の前に置いた。
「あげる。マサヤはもっと食べた方がいい」
「なんだお前、食が細いのか?」
獅号が意外そうな顔をした。
「あら、雅也ちゃん結構いいカラダ、してるのにぃ?」
しなを作ったマリア当人ほどではないが、雅也はかなりの長身だし、体つきも決して細いわけではない。
「いや、ちゃんと食べてますよ」
席に着きつつ、雅也は弁明した。
「ただ、リュミエチカの思う『ちゃんと』のカテゴリーからは少しはずれてるみたいですけど」
「マサヤは、同じものばっかり食べてる」
「パンとスープみたいな組み合わせが多いのは事実ですけど‥‥同じってわけじゃないんですけどね」
だがそんな抗議もむなしく、リュミエチカの特製コロッケは雅也が平らげることとなった。
「‥‥多分俺、成長期終了なんだけどな」ぼそりと呟く雅也であった。
「ところで、キムチが置いてあるんだけどこれはなんだ?」
「食材の中に入っていて‥‥私は頼んでないんですけど」
獅号とあやかが首を傾げあっていると、ジェンティアンが「あ、それ僕」と手を挙げた。
「美森ちゃんの料理は最高に美味しいんだけど、食卓にアクセントが欲しいかなってね」
嬉々として封を開けるのを、リュミエチカが興味深そうに見た。
「‥‥美味しいの?」
「美味しいよ。リュミエチカちゃんも食べる?」
ちなみにリュミエチカ、辛味はほぼ初体験。
これ見よがしに「激辛」と銘打たれたキムチを口に入れた後のリアクションは──ご想像にお任せするとしよう。
●4日目
「どぅぉおおおりゃああああ!」
積雪を掻き分け、獣のような野太い雄叫びを響かせながら走り抜ける野人、ではなく、マリア。
「ベスト更新ですよぉ」
因にストップウォッチを見せられ、「うっしゃあ!」とガッツポーズ。
「チカちゃん、見てたかしらぁ♪」
ひと呼吸置いたら元に戻った。
「見てた」こっくり頷くリュミエチカ。「リョーは、遅い」
マリアにぶち抜かれた獅号は肩で息をしている。
「さすがに基礎体力じゃ撃退士にはかなわねぇな‥‥」
「スキーの腕もね」とジェンティアン。
「うるせぇ」
獅号は口をへの字にした。「バットを持ってくるんだったぜ‥‥こてんぱんにしてやったのに」
そんな呟きも、鈴音にしっかり聞かれていた。
「何言ってるんです、まだ打者を相手にするのは早いでしょ」
「オーバーペースはダメですよぉ」
因にも諭され子供のように頬を膨らませるのだった。
ここまで、天魔の姿は影すら見えない。そんな中でも雅也は油断なく──というより、やや忙しなく周囲に目を配っていた。
「何かいるのか?」
その様子に気づいて、獅号が声をかけた。
「‥‥いえ、むしろ何も居ませんね。熊でも出るかと思ったんですが」
「勘弁してくれ」
冗談と受け取って、獅号は笑った。
「退屈なら、お前も走るか?」
「今日は、遠慮しておきます」
「‥‥あんまり気張るなよ」
そう告げてトレーニングに戻っていく獅号を、雅也は見送った。
(獅号選手に気づかれるとは思わなかったな)
どことなく所在なげにしていた自分を気遣われたのかと思い、雅也は小さく苦笑した。
出発前の情報通り、この地に天魔はおらず、山ごもりは平穏なまま終わるのだろう。それは素晴らしい事だと、もちろん本心から思うが──戦場に身を置く日々から離れることが、彼をどことなく不安で、落ち着かない気持ちにさせるのだった。
(やっぱり、俺は兵士だってことか)
「よし、もうワンセット行くぞ!」
「‥‥チナミ、それ、何やってるの」
「ん、興味ある? んじゃおねーさんと一緒にタイム計ってみよっか」
騒がしい風景を少し遠くに見て、雅也は周囲の警戒に戻っていった。
*
ちなみにこの日の夜、雅也をはじめとした数名の希望により獅号が夕食当番となった。
いくつか感想を紹介しておこう。
「あめりかじゃ毎日こういうもん食ってんですかぃ?」(疑問)
「火、通しすぎだろ。せっかく高そうな肉なのによ」(正論)
「でもほら、ちゃんと食べられますよ!」(フォロー)
「美森ちゃんの料理が美味しかったから、ほら、ギャップがね?」(変化球)
「固い。噛みきれない」(直球)
──詳細は記さずにおくことにする。
●5日目
最後の夜。
長らく覆い隠していた雲が晴れ、星々の散る空を因は飛行していた。
白羽根の翼を顕して、アウルの力で空を飛ぶ。ほんの少し前まで、自分にあるとは思いもしなかった力。
だが、その手にある以上、捨てさりはしない。
昼間は腰に下げたきりだった錆虎を抜き、足場のない空を駆け、振るう。月光に照らされて、刀身は鈍く輝いていた。
ひとしきり体を動かして宿に戻ると、揺籠が待っていた。
「せいがでますねぇ」
「あにいさん」
いつから見ていたのか──因は言い訳するように口を動かす。
「昼間の様子を見ていたら、こう‥‥」
「あすりーとってのは純粋ですねぇ。分かる気がしまさ」
冷えねぇうちに一風呂浴びるとよいでしょう、と揺籠は因に笑いかけた。
「あがったら、広間に来てくだせぇ。今大人組で一杯やってるんでさ」
「はい‥‥」
「心配しなくても、いつぞやのように潰したりはしませんぜ」
少しだけ意地悪な笑みを残して、揺籠は戻っていくのだった。
*
「ほら、最後の夜だからって夜更かししない! 明日も練習はするんでしょ!」
「わかったわかった、──引っ張るなって!」
宴会に参加していた獅号を鈴音が引っ立てていく。
一緒にいたリュミエチカも、眠い目をこすりながら寝室へ向かおうとしたのだが。
「リュミエチカさんリュミエチカさん」
あやかが手招きをしていた。
「なに‥‥?」
ぽてぽてとリュミエチカが歩み寄ると、あやかは広間に聞こえない程度の声で話す。
「明日は最終日なので、食堂でご飯を食べるのは朝が最後です。トレーニングは軽めの調整にして、お昼前にはここを出立するって聞きました」
「ふうん」
「そこで‥‥」
●最終日
「時間ですよー」
時計を確認した因の声が響く。冬山ごもりのトレーニングスケジュールは無事すべて終了した。
「結局、天魔は出なかったな。まぁ、付き合ってくれて助かったよ」
「お礼なんていらないわぁン♪ アタシもイイオトコと可愛いオンナノコに囲まれて、とっても楽しかったもの♪」
そう言ってマリアは、獅号と一緒に戻ってきた鈴音にバチンとウインクを決めた。
「と‥‥とにかく! 特訓の成果を活かして、今年こそは先発ローテーションで15勝! お願いしますね!」
全員が出立の支度を済ませたころ、あやかと、リュミエチカが最後に出てきた。
「遅かったな」
「お弁当を作っていたんです。帰り道で、お腹が空くでしょうから」
あやかはにっこり笑うと、一人一人に折り詰めを手渡していく。
「さすが美森ちゃん、気が利くね‥‥あれ?」
さっそく中を覗いたジェンティアンがはてと動きを止めた。おかずが整然と詰められている美味しそうなお弁当だが、二つ入りのおにぎりだけはやけに不揃いで、形が崩れている。
「おにぎりは、リュミエチカさんが作ったんです」
あやかが種を明かした。
「獅号さんの分を作ったらどうかって、お誘いしたんですけど、それなら全員分作りたいって‥‥」
リュミエチカは恥ずかしそうに俯いていたが、あやかに促されて、ぽつり、と言った。
「ちゃんと‥‥作ったから。た、食べて」
「もちろんでさぁ」
揺籠が、大きく頷いて見せた。
「きっと、たいそう美味しいおにぎりだと思いますぜ。ねぇ、狐サン?」
「──まぁ、まずいことはないと思うぜ」
リュミエチカを囲んで、言葉が広がっていく。その中心で少女はかすかに頬を染めて俯いていた。
「帰り道の楽しみが出来ましたね、獅号選手」
雅也が獅号を見ると、彼は感慨深そうにその光景を眺めていた。
「‥‥良かったよ、連れてきて」
緊張の解けた、落ち着いた顔を見せていた。
「後は、俺だな」
来年こそは、恥ずかしくない成績を残しての凱旋帰国をしなくては。
気持ちを新たにした獅号とともに、一行は冬山を後にしたのだった。