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●そうだ、外に出よう
「今から、外出‥‥ ですか?」
「そうだ。病院で寝ているばかりではなく、いろんなところを見て回った方が良いと思ってな」
そうですか‥‥と言って悠紀はこちらに顔を向けた。
「ああ、彼らは君の友達だよ。‥‥ 思い出せないかい?」
黙って首を横に振る。その顔には、寂しさと申し訳なさが浮かんでいる。
「‥‥ん。忘れたなら。改めて。自己紹介しておく。最上 憐。初等部。4年。ナイトウォーカーだよ」
「よ、よろしく‥‥ おねがい‥‥ します‥‥」
彼女が差し出すその言葉は、かすかに震え、その顔にもわずかながらの不安が浮かんでいる。
「ボクたち皆、友達だからねっ。記憶が戻るまで…もちろん戻ってからも、一緒だよっ」
その、不安を打ち消すように、笑顔で。水無月 ヒロ(
jb5185)は、その震えを止めるように、彼女の手を握る。
「あっ」
かすれそうな声と共に、彼女はその頬を赤らめる。
「ご、ごめんなさい‥‥」
その謝罪とは裏腹に、彼女の言葉には安らぎのようなモノが。
「そういえば、お見舞いを用意しておいたんですけど‥‥」
セレスティア・ノエル(
jb3509)は、部屋の机に置いておいた紙袋に手を伸ばす。
カスッ。
その紙袋が本来有しているはずの質量は有しておらず。そこに残っているのは、わずかながらの油染み。その傍らには、なにやら口をモグモグさせている一人の少女。
「‥‥ん。見舞い品の。カレーパンを。渡そうと。思ったけど。いつの間にか。消えてた。そして。何故か。口に残る。カレーパンの味」
一同がずっこけている最中、悠紀は、わずかにではあるが微笑みを浮かべた‥‥気がした。
●カレーは飲み物!
「マスター、いらっしゃいますか?」
仄暗い店内に、オレンジ色の明かりがぼんやりと浮かぶ。木の暖かみを感じる椅子やテーブルに、BGMとして流れる心地よいクラシック。物静かな店内は、読書するにも、勉強するにも、静かにただコーヒーを味わうにも最適空間である。
そして、品の良いカウンターの内側には、ザ・ダンディなおっさ‥‥いや、お兄様が一人。
「ああ、いらっしゃい‥‥ お、みんな一緒じゃねえか」
ノエルの言葉に、マスターはその手を止め、君たちを迎え入れる。ちょうど昼と夜の中間点。空が紅く染まり、夜がやってくる直前。
「あの‥‥ ここは?」
「お、悠紀ちゃんも久しぶり。いつものコーヒーでいいかい?」
え、えとえと‥‥と狼狽する。
「あの、山野さん、記憶喪失なんです‥‥」
少し何か違和感を感じていたマスターも、そのことに気付き小さくOKを出す。
「はい、コーヒー。アメリカンね。」
「あ、ええと‥‥」
いいからいいから、とマスターは悠紀がお店でお気に入りのコーヒーを差し出す。
目の前の湯気の上がるカップを前に、みんなが座っている。あの、思い出の時間、座席、メニュー。
その全てがそろっている。
「‥‥ん。食べる事は。生きる事。とりあえず。食べていれば。死なない。死ななければ。思い出す。チャンスは。ある」
「‥‥それでですね、その時見たテレビ番組がですね‥‥」
テーブルの上には、『飲み物』が湯気を上げている。
たわいのない会話。なんと言うことも無い会話。まずは、友達から。悠紀にとっては、私たちと過ごした時間は殆ど無いのだから。
悠紀の顔に笑みがこぼれる。
「なんだか、私、ノエルさんと初めて会ったとは思えないです‥‥ なんというか、暖かい感じというか、優しいというか、そんな感じがします‥‥」
「ほい、カレー、とりあえず10杯ね」
確認しておこう。テーブルには『飲み物』が、湯気を上げている。
「‥‥ん。飲んで。行くから。見てて。もしかしたら。何か。思い出すかも。」
「え、で、でも‥‥ 憐さんのは‥‥」
困惑。カレーは食べ物。いくら記憶喪失とはいえ、その辺はわかってる‥‥ はず。その『食べ物』が、テーブルの半分以上を占拠している。
「‥‥ん。カレーは。飲み物。飲む物。飲料」
そう言って、憐はカレーを『飲み干して』いく。10杯、20杯と、ドリンクが入っていたカレー皿が積み重ねられていく。
「‥‥どうですか?」
ノエルの問いかけに、寂しげに首を横に振る。
「‥‥ん。マスター。カレー。限界まで。重力とか。店の。天井に。挑戦する。感じで。盛って」
「お、地獄盛り、やるのかい? 久々だから腕が鳴るねぇ!」
最後の手段。イチゾロ裏メニュー「カレー地獄盛り」。憐専用メニューとも言う。どこかの大食いギャルも裸足で逃げ出すのでは、とまで言われるほどにカレーを持った一品。
「あ、あの、この量、本当に食べきれるんですか‥‥?」
「これを食べきった帰りにカレーパンを食べたりするんですよ、憐さんは‥‥」
「‥‥ん。おいしかった。美味。美味かった。」
「って、もう食べきったんですか! あ、口元にカレーが‥‥」
ハンカチで、悠紀は憐の口元を拭う。
「‥‥あれ、このハンカチ‥‥」
●海と水着と初恋の思い出
「ヒャッホー! 海だー!」
シーズン前と言うこともあり、まだ人もまばらな砂浜に、緋野 慎(
ja8541)は突撃していく。
「すごく綺麗‥‥ キラキラ輝いてます‥‥」
「だよね! この辺でも一番綺麗な海なんだよ!」
ヒロは、自然に。あくまで自然に悠紀の手を握る。初恋の人と、こうして海に来れるなんて。本当は、こんな形じゃ無くって、二人っきりで来たかったけれど。悠紀さんと、新しい思い出をいっぱい作るん「おーい! みんな、早く早く!」
「‥‥慎くんも呼んでるし、行こっか」
海の家「みかん」。海の家組合の中にはとある侵略者的な従業員がいる海の家もあるらしいが、この海の家は平和である。
「みんな、まだかなぁ‥‥」
更衣室の前。水着の上にパーカーを羽織ったヒロは、女性陣を待っていた。
「あら、ヒロさん」
声の主は、ボクシングで鍛え上げた肉体美、その水着姿にも気品があふれる長谷川アレクサンドラみずほ(
jb4139)であった。
「あ、みずほさん。悠紀さんの様子は‥‥?」
「そうですわね‥‥。やっぱり、まだ記憶は戻りきっては無いみたいですわ。でも‥‥」
「でも?」
「少しだけ、楽しそうにしてますわ」
良かった。記憶を失うって、すごく不安だろう。その不安を、少しでも減らしてあげれているんじゃないか。もちろん、記憶は戻って欲しいけれど、今、大事なのは、その不安を無くすために、寄り添ってあげる事だと思うから。
「お、お待たせ‥‥」
清楚なブルーのストライプ。セパレートの水着を身に纏い、悠紀は砂浜にやってきた。
「ど、どうですか‥‥?」
さすがに、水着だけだとちょっと寒いですね、とはにかみながら。ちょっとした笑顔を見せる。
「か、かわいいね‥‥」
ドキッ。
ヒロの胸には、新たなときめき。
「‥‥でね、みんなで泳いでたんだけどね‥‥」
「へー、そうだったんですか‥‥」
砂浜で、ふたりの男女が座って思い出話をしている。いや、正確に言えば思い出話をしているのを聞いている、と言った方が正しいかも知れない。あくまで、明るく。楽しく。
「そうだ、海、入ろうか?」
ヒロの手には、大きな浮き輪が一つ。
「‥‥気持ちいい、ですね」
そうだねー、とヒロは悠紀の言葉に同調する。波に揺られ、ふたりはこの広い海にぽつんと漂っていた。もちろん、泳いで戻れる距離ではあるけれど。
「あのときも、こんな感じだったよね」
海が、夕焼けに染まる頃。悠紀が沖に流されたこと。そして、ヒロが泳いで悠紀のところにたどり着いたのはいいものの、周囲は薄暗く、どこに向かえばいいのかわからなくなってたこと。ヒロと、悠紀の大事な思い出。
「漁師さんがボクたちを見つけてくれて‥‥ 本当に涙目になっちゃってたんだよね」
「でも、あのときのヒロさん、すごくかっこよかったですよ‥‥ あっ」
「もしかして、記憶が‥‥」
「はい、思い出しました。ヒロさんが、私のことを励ましてくれて‥‥ 帰ってきた時に両親が私を抱きしめてくれて‥‥」
良かった。少しだけ、少しだけだけれども、記憶が戻ってくれた。このとき、顔を伝う水滴が ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、しょっぱかった気がした。
「すごく、すごく楽しかったです。また、来ましょうね」
昔の思い出も思い出せたけど。今日、ふたりで浮き輪に捉まり、波に揺られた事。砂浜で、お話をしたこと。新しい思い出も、イッパイできた。新しい、思い出の1ページが。
●雨に濡れた子猫
むせかえる石灰の香り。無造作に1枚だけ床に敷かれているマット。所々にあるシミは、生徒達が体育で頑張った証である。多分。
「ココは‥‥体育館倉庫?」
いかにも、と言った感じでイオ(
jb2517)は頷く。
「‥‥ほら、ココ」
慎は、棚の隅、マットで死角になっている部分を指さす。
「こ、これは‥‥?」
そこにある段ボールの中には、毛布と皿、そして、ミルクの空きパック。
「こやつに、見覚えは無いじゃろうか?」
その手には、1匹の猫が抱えられている。悠紀と目があった瞬間、その猫はイオの手をスルリと抜け、悠紀の足下へやって来る。
「あはは、やっぱり悠紀さんになついちゃってるね」
「うむ、こやつにとって、悠紀は恩人じゃからなぁ」
‥‥この子‥‥と悠紀はその猫を抱きかかえる。
もう少し小さかったとは思うけど。この子の事を、何か、知っている‥‥ 気がする。
「アレは、土砂降りの雨が降っている時じゃったなぁ‥‥」
イオが雨宿りをする場所を探していた時に、子猫が入った段ボールを抱えて雨に濡れている悠紀が通りかかったこと。そして、この体育館倉庫で雨宿りをしたこと。
「そこで、『飼っていいと言ってくれるまで倉庫から出ない!』なんて言っちゃったんだよね」
激しい雨に打たれ、熱を出してしまっても。そして、両親が迎えに来ても。『この猫を飼っていいと言ってくれるまで』この体育館倉庫に籠城した。悠紀の、両親に対する初めての、そして唯一の、反抗。
「まさか、悠紀がココまで頑固だったとはのう‥‥」
最終的には、里親探しを買って出る事でこの籠城事件は解決したのだが、普段、寡黙な悠紀がココまで頑固になるのを見たことが無かった。彼女の中にある、一本の芯のようなものを見た気がした。
「それで、ココにいるみんなで里親捜しをしたんだよね。あ、安心して。ちゃんと、里親は見つかったから」
「あのときのネコちゃん、こんなに大きくなったんだ‥‥」
悠紀から、言葉が漏れ出る。あのときの子猫が、ココまで大きくなったことに対する安堵感と共に。
●トレーニングは保健室で
「ジャブ! ジャブ! ストレート!」
「え、えっと、こう、こうですか?」
「ええ、良いですわよ! ちゃんと、体は覚えていますわ!」
保健室は、臨時ボクシングジムに。と言っても、サンドバッグがつるされているわけでもなく、パンチングボールがある訳でもない。ミットを付けたみずほが、悠紀のパンチを受けている。
「私に、ボクシングを教えてください!」
悠紀は、みずほに初めて会った時、こうお願いしていた。いや、正確には初めて会った時は練習試合後でみずほの顔がすごいことになっていて、見た瞬間に気を失ったので、2回目に会った時ではあるのだが。
「ステップが遅いですわ! もっと軽やかに!」
その後の、みずほによるレッスンの成果が、今、ココに出ていたのだろう。
(あれ、私、こんなに上手く出来ている?)
違和感。今まで、ボクシングなんてやったこと無かったのに。どうすればいいのかが、覚えている。いや、思い出す前に体が動いていると言ってもいいかもしれない。
「じゃあ、ちょっと休憩にしますわ」
保健室のベッドに座り込む悠紀に、スポーツドリンクを差し出すみずほ。
「すごく上手ですわよ」
ありがとうございます、とぺこり。
「わたくしが山野さんにお会いした時に、ボクシングを教えてださい、って言われてお教えしたんですわよ」
そうか、だからあんなに‥‥。
「初めてお会いした時は、練習試合の後でしてね。顔中が腫れてすごい顔になっていた時に山野さんと対面してしまって、気絶させてしまいましたわ」
「それで、謝りに行きました時に、山野さんから『ボクシングを教えてください!』って」
悠紀は、何も語らず、みずほの話に聞き入る。
「あれから、ボクシングの動きを手ほどきをいたしました。山野さんはわたくしが思っているよりも早く、上達していきましたわ‥‥」
「みずほさん、もっと練習しましょう。私、もう少しで思い出せそうなんです。もっと、もっとやりましょう」
わかりましたわ、とみずほはミットを手に装着した。
「ワン、ツー! ワン、ツー! ジャブ! ジャブ!」
ミット打ちは続いた。息苦しい。体も、だんだん動きが鈍くなる。しかし、ミット打ちは続いた。受けているみずほが心配するほどに。
「さぁ、これで最後ですわ! アッパー!」
ミット打ちの最後は、常にアッパーだった。練習を締めくくるアッパー。最後はこのアッパーで締めていた。
衝撃。今日のレッスン、いや、今までのレッスンでは感じたことのない、衝撃。完璧な、アッパー。今まで教えたことを、完璧に意識していないと出来ないような、完璧なアッパーがミットに突き刺さる。
●そして記憶は私たちの手に
「みなさん、本当にありがとうございました」
悠紀は、深々と頭を下げる。
「いやいや、礼には及ばんのじゃ」
友達のためじゃ、と。
「‥‥ん。記憶が。戻って。回復して。復元されて。本当に。非常に。まさしく。良かった」
悠紀の記憶が完全に元に戻り、一同は安堵する。いつもと同じ悠紀の笑顔を見ることが出来るようになったのだ。
「ところで、なんであんな事になってたのかな?」
慎の一言。なぜ、悠紀は1週間も失踪していたのか? そして、商店街で倒れていたのか?
「私もそれだけはどうしてもぼんやりしているんですけど‥‥」
悠紀が言うには、好きな男性に告白して撃沈した日の夜、イチゾロで一人傷心を癒していたところ、誰かに会って、話をしたぐらいから記憶がないという。後日、学園側の調査の結果、その『誰か』の正体がわかるのだが、それはまた別の話。
『それでは、ただ今より、長谷川アレクサンドラみずほ VS 黒神未来 の試合を始めたいと思います!』
試合会場に、アナウンスが響き渡る。
「みずほちゃーん! がんばれー!」
悠紀は、今までの記憶と共に。みんなとの、今まで以上に太い絆を手に入れた。
永遠に切れることの無いであろう、絆が。