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「ふふ、笑っちゃうね」
玄朗の言葉を聞き終え、ハルルカ=レイニィズ(
jb2546)は不敵に笑んだ。
彼の記した日記には、「永遠にも等しい力」とあった。シュトラッサー、サーバントになることで、人間の寿命を遥かに上回る時を生きることができる、という意味である。しかし、玄朗が言うところの救済とそれを結び付けるのは滑稽だと、ハルルカは感じたのだ。
「永遠は不変と同義さ。そんなもの、ただ退屈なだけだろう?」
「それを生きているって言うんなら、命への冒涜以外なんでもねぇな」
ハルティア・J・マルコシアス(
jb2524)も、感じたことは同じのようである。
言葉を吐き捨てたハルティアに、ハルルカは「いいことを言うね」と口の端で笑みかける。
魂なき肉体は、いわば死体。今目の前に立つエリカは、魂を、感情を失った時点で既に死んでいるのだ。これを生きていると表現するのなら、懸命に魂ある肉体を動かす生命たちはなんだというのか。
死者を生者の下に見るつもりは、彼女らにはない。しかし、死者と生者を同列に扱うのは許せなかった。
「私には、命への固執にしか聞こえぬな」
まるっきり価値観が違う。二人の言葉は、玄朗には一切響いていなかった。
人間のサーバント化を救済と言い切る男。サーバント化する能力を神の力と言い張る男。玄朗。
仮にそうだとしても、今を生きる者たちには到底納得できない。
だからこそ。
「それで私たちの、命への固執を解放し、救済してくれるというわけか。嬉しくて涙が出るな」
鳳 静矢(
ja3856)は皮肉った。
ニタと笑んだも束の間、その表情は苦痛に歪み、体を抑えて膝をつく。
駆け寄ったのは亀山 淳紅(
ja2261)だ。
「なんや、どうしたん?」
「……なんでも、ないさ」
「せやかて――」
「この間の戦闘……その疲れがほんの少し残っているだけ、さ。問題ない」
強がる静矢だが、その額は脂汗に濡れている。とてもまともに戦えるような状態ではなかった。
玄朗は笑う。
「はっ、手負いでこの私に立ち向かうか。随分と下に見られたものだな」
「だから、生きてんだよ」
静かに、緋伝 瀬兎(
ja0009)は口を開いた。
「痛いから、苦しいから……。それが分かるから生きてるんだよ、苦しくても生きるから人間なんだって、それが分からないの?」
「痛み、苦しみ。それらから解放されることこそ救いではないか」
最早言葉は通じない。何を言っても、どう説いても、玄朗の胸を揺さぶることはないだろう。
文字通り、玄朗は人間をやめた。そこに狂信的な名誉さえも覚えている。
話し合いのできる相手ではない。戦いは避けられない。
ただ。
それでも一つだけ、霧原 沙希(
ja3448)は知っておきたいことがあった。
怒りや憎しみの感情が胸の内に渦巻くのを抑え、見つめた先は玄朗の背後にいるエリカだ。
「……貴女は、今、生きているの? それで幸せなのかしら?」
「はい、ぱぱといっしょにいると、とてもしあわせ、です」
エリカの言葉は、そのままの意味で先に届いたわけではない。
失われた感情は、亡くした感情は、心の乗らぬ言葉を発するのみだ。
彼女の答えは、エリカの答えではない。エリカという魂の抜けた、空虚な嘘でしかない。
だから沙希には聞こえた気がした。
助けて、と。
「聞いたか。エリカは既に幸せなのだ。これが救いなのだよ!」
「救いやない!」
キッと睨むような視線で、淳紅が怒声を上げる。
「そうだぜ。その子は抜け殻だ。もう生きてないんだ。幸せもなにもあるもんか!」
ハルティアも怒鳴る。
誰の耳にも、エリカの言葉は中身のないものとして聞こえていた。
彼女は幸せなんかじゃない、と。
(はて、アレが本音に聞こえたのは私だけかな)
荒い息に揺れる胸中、静矢はそう考えていた。
パパと一緒にいると幸せ。きっと本音だろうと。
言いかえれば、パパと一緒でなければ幸せでない。
エリカの心は、魂は、既にこの世にはない。玄朗はシュトラッサーとなり、今も現世に留まっている。
魂は離ればなれだ。もう一度蓮の上で父と娘の魂が揺れ合うことこそが、最上の幸せなのではないか。
きっとエリカは、川のほとりで待っている。父の魂が手を引いてくれるのを。
「くだらん。話はこれまでだ」
す、と玄朗が片手を上げる。
以前戦った時の経験から次の展開を予測した撃退士たち。瀬兎と静矢は急ぎサングラスをかけ、ハルティアは腕で目を覆うが、他の者には用意がない。
直後、強烈な閃光と轟音が部屋全体に満ちる。雷を操る玄朗、目眩ましだ。
簡易ながらも耳栓の用意をしていた静矢と淳紅は轟音を免れ、また静矢と瀬兎、ハルティアは閃光から目を保護した。他の面々は目、耳、または両方をやられてたじろぐ。
「あー、またおえあ……」
目も耳もやられたハルティアが呟く。自分で発した言葉も聞こえず、上手く喋ることもままならない。
そんな彼女へと、玄朗は手を向けた。
ハルティアの頭上で雷がスパークするが、彼女は気付けない。
「動いへ、散っれ、散っへぇ!」
瀬兎が必死に声を荒げるが、ハルティアには届かない。
白んだハルティアの視界に、火花が散った。
ギャ、と声を上げて倒れるハルティア。自分の身に何が起きたのかも分からず、焼けた肌は床の冷たさすらも認識してくれない。
「鳳ふぁん、お願いひまう」
まだ聴覚が働かないのであろう瀬兎の言葉を理解した鳳は、できる限り大きく腕を振った。
任された、と示すために。
確認した瀬兎は遁甲の術を用い、気配を殺す。
全員で一カ所にまとまるのは危険だということは、前回の戦闘で学習済み。散開して被害を抑える作戦は事前に決めていたことだ。これに際し、瀬兎は玄朗とエリカをなんとか包囲することができないかと考えたのである。
「ほう。多少は考えているようだ」
玄朗は満足気に言い、そっと背後を振り向いた。
エリカは指示待ちといった様子だ。
「さぁ、お前の力を見せてやりなさい」
言葉に頷き、エリカは沙希を視界の中心に捉える。
ようやく視覚と聴覚が回復した彼女は、散開のために走る。何かがくることは予感した。しかし、何がくるかまでは分からない。
目に見えるものなら、あるいは回避できる。そう踏んだ。
だが。
「ヒィィィイイアアアアッ」
悲壮に満ちた叫びが、沙希の耳を貫いた。
硝子を引っ掻いたような、悪寒混じりの汗を呼び起こす声に、沙希はビクリと震えてすっ転ぶ。
「あ、あぐ、ぁ……っ」
全身の筋肉が弛緩してしまったかのような感覚。まるで力が入らず、痙攣。
唾液や涙が漏れることすらも止められない。起き上がることもできず、沙希は力なくもがく。
「なるほど、それがそっちの子の能力……」
ハルルカは、心配するよりも先に相手の力を把握できたことに頷いた。
今、沙希を助けにいくだけの余裕はない。
何よりも、相手の動きを止めるのが先だ。
玄朗が、沙希へと手を向ける。
「雷には、雷だろう」
玄朗とエリカの距離は近い。今狙えば、もしかしたら。
ハルルカは朱雷を放った。
色濃い雷が、天界の二人へと疾る。
「いかん!」
玄朗は攻撃をやめ、咄嗟にエリカを突き飛ばした。
雷は玄朗だけを撃ち抜く。
苦悶の声は、淳紅の声に掻き消された。
「隙ありやでっ!」
淳紅がブラストレイを放つ。
光に撃たれたエリカは悲鳴を上げ、ガクガクと体を震わせ始めた。
肉体が、気温を正常に認識しなくなったのだ。元より血色の悪い唇が、紫に染まってゆく。
「エリカ!」
「反撃、いくよ!」
駆け寄ろうとした玄朗の眼前を、火遁・火蛇が駆ける。
回り込んだ瀬兎が放ったものだった。
ハルルカも次の攻撃タイミングを伺っている。
玄朗が標的に選んだのは、淳紅だった。
「お前か、エリカを……!」
「自分のせいやで!」
頭上より降る雷をステップでかわしながら、淳紅は距離を詰める。
「そうだぜ、逆恨みってやつだ!」
戦線に復帰したハルティアも駆け、一矢報いんと武器を振り上げる。
前後左右から迫る撃退士に、玄朗は焦った。
「エリカ、くるんだ」
敵としては、包囲されたままでは面白くない。これを抜け、態勢を立て直さんと玄朗が動く。
よろりと立ち上がったエリカが玄朗について歩く。
「邪魔だ、どけ!」
「ィァアアアアッ!」
包囲網を崩さんと、玄朗とエリカが攻撃に出る。
落ちた雷はハルルカの足を捉え、エリカの叫びは瀬兎の耳へと届いた。
「ぐぁっ!? ぐぅ、あ、足が……」
「ひ、ぁ……ぅ」
攻撃を受けた二人は地に伏し、玄朗たちが距離を取るため再び動く。
途端、エリカが悲鳴を上げた。
「ァッ」
「捕まえたで、逃がさへんからな!」
淳紅のRequiemによって呼び出された死霊の手が、エリカの四肢を掴んだのだ。
反復の要領で、玄朗が救助に向かう。
そこには、筋肉の感覚が戻った沙希が迫ろうとしていた。
「させん!」
「こちらの台詞だ!」
玄朗が腕を上げる。またあの閃光で目眩まししようというのか。
これを、静矢が狙う。拳銃から放たれた弾丸が、玄朗の鼻先を通り抜けた。
反射的に回避しようと、玄朗がのけぞる。
沙希は、動けぬエリカへと迫っていた。
「……エリカ、貴女は、貴女は……ッ!」
全てが重なって見える。
間違いない。エリカをサーバントにしたのは、父である玄朗。
親のために犠牲となる子供。心さえも失ってしまったその子供に、沙希は自分の姿を見ていた。
白の部屋に、セピアの記憶が浮かぶ。
親によってつけられた全身の、そして心の傷が一斉に疼く。
忘れたい、忘れられない記憶のひとつひとつが、エリカまでの道を形成した。
一歩踏み出すごとに蘇る負の記憶。消し去りたい過去。その上に自分が立っていることは皮肉だろうか。
沙希の走る背に向けて、キラリと輝く筋が残る。
この一撃に、怒りはない。
悲しみは緩みそうになる筋肉を繋ぎ、力となる。
「アァァアアアッ!!」
突き出した拳はエリカの腹部を抉り、杭はその身を貫く。
冷たい感触の肉体は、ただ最後に一瞬だけ、沙希の顔を見つめて、呟いた。
「すごいめ……だね。ちゃんと、ねな……きゃ」
だらり。
力の抜けた体が、沙希にもたれた。
亡骸を抱き、沙希はへたり込む。その背を優しく叩きながら、ひたすら繰り返す。
ごめんなさい、ごめんなさい、と。
「エリカを、よくも……!」
玄朗は激昂した。
攻撃の対象は、言うまでもなく沙希。娘を殺した張本人だ。
しかし。
「お前がしたことと同じだ。お前もそうやって、自分の娘を……!」
ハルティアが痛打を叩き込む。
周囲が見えなくなっていた玄朗はそれを腹に受け、呻き、よろめく。
そして。
「もう終いや。こんなん、終わらせたる!」
淳紅が大鎌を手に飛びかかった。
「まだ、終わるわけにはいかん!」
間合いの内側に入った玄朗の拳が、淳紅の頬を捉える。
よろけたところへ、手から直接雷が放たれた。
全身を焦がすほどの衝撃に、悲鳴が上がる。
瀬兎とハルルカはまだ動けない。ハルティアが急ぎ救援に入ろうとするのを、淳紅は止めた。
「離れて、や……」
汗も浮かばぬ拳を握りしめ、力を振り絞って立ち上がる。
そして、至近の玄朗へ、それを叩きつけた。
禁呪『炸裂掌』――。
自らをも巻き込む爆撃。
悲鳴は爆音に掻き消える。
生まれた閃光が白の部屋に反射し、全てが光に溶けた。
●
戦いは終わった。
玄朗は、あの爆発の中で生きていた。息は絶え絶え、死の瞬間はすぐそこまで迫っていたが。
「死んでしまう前に聞いておくよ。何故、こんなことになってしまったんだい?」
ハルルカは問いかける。この男は、不自然なほど狂気に満ちていた。回りくどい力試しや、腑に落ちない行方不明者のサーバント化。
そして、わざわざエリカをサーバントにした理由。
ただの狂人ならば、それだけで理由になってしまうだろう。
しかし、玄朗は幾度かエリカを庇う素振りを見せた。贄として天界へ捧げたエリカを、そこまでして庇ったことには、説明がつかないのだ。
「……全て、話そう。私は、堕ちてしまったのだよ」
そもそも玄朗は、青の森を少し離れた都市に住んでいた。
美しい妻と共に幸せに生きていた。
妻に新たな命が宿ると二人して喜んだ。
が、妻は、出産と同時に息を引き取った。
たった一人の娘となる、エリカを抱くこともできずに。
玄朗は深く悲しんだ。しかもエリカは体が弱く、都市の空気では生きていけないと告げられた。
そして、青の森に移り住むことにしたのだ。
エリカは、それでも度々体を壊し、三歳になっても滅多に家の外へ出ることができなかった。十歳まで生きることができるかどうかも怪しかった。
そんな時、玄朗は天界の力を知った。
自らがシュトラッサーとなり、エリカをサーバントにすれば、共に長い時を生きることができる。
玄朗は賭けに出た。強く昂った感情があれば、それに釣られて天使が現れるのではないかと考えたのだ。
以後、玄朗はエリカを虐げるようになった。椅子に拘束し、小屋の地下に閉じ込めた。
時に食事を運び、時に鞭を打った。
功を奏したのかどうかは、分からない。だが、天使は現れた。
玄朗が望みは叶った。シュトラッサーとなり、エリカをサーバントとした。
そして誰にも邪魔されぬ場で静かに生きるため、教会の仕掛けを作り、その下で生きてきた。
時として森に踏み入れた者の感情を、天界へ送ることと引き換えに。
全てを語り終えると、玄朗はそのまま息を引き取った。
まるで逃げるように。撃退士たちの感情を、向けられまいとするかのように。
「……娘の為に、なんて、そんなのお前の勝手な妄想よ! 何死んでんのよ、優しく抱きしめてあげれば、それで良かったのに! 私だって、私だって……!」
「霧原さん」
我を忘れたように玄朗の死体を揺さぶる沙希を、静矢が止める。
生き場をなくした感情は、自分の胸へと返ってくる。悔しさに、沙希は意味を成さない声を上げた。
涙は、もう出ない。
「エリカってのは、生きたかったんだろうな。その分、俺たちも生きていかねーと」
ハルティアの呟きに、静矢が頷く。
「なぁ、おっさん……」
ボロボロの体のまま、淳紅は静かに口を開いた。
「……あんた、やっぱり間違ったんよ」
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青の森を巡る事件は、幕を降ろした。
行方不明者は全員死亡。この責任は撃退士にはないと、報酬も出た。
森の教会と、洞窟には、トレイが置かれている。その上にはチョコレート。
瀬兎が供物として捧げたものだ。死んでしまった子供たち、そしてエリカへの供養になれば、と。
事件の中心にいた玄朗とエリカは今、先に旅立った女性の墓で眠っている。