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久遠ヶ原学園依頼斡旋所には、放課後になると多くの学生が詰めかける。
多くの者は依頼を受けに、あるいは報告書を受け取りに訪れるのだが、ここには過去の依頼の報告書がまとめられているため、それを閲覧するために訪れる者もある。
まさしく鳳 静矢(
ja3856)がそうだった。
そこから少し視点をずらせば、凪澤 小紅(
ja0266)、諸伏翡翠(
ja5463)、十三月 風架(
jb4108)、長谷川アレクサンドラみずほ(
jb4139)といった面々が仕事を探している。
人で賑わう斡旋所は、決して静かとは言えない。だが喧騒は飽く迄喧騒。
その中で一際大きな声で話す者があったとしたら、それは喧騒ではなく、騒音と言えるのだろう。
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斡旋所を出てすぐの廊下では、小倉舞と男子生徒が言い争いをしていた。
男子生徒の言い分は、万引きを働いた舞は依頼を受けるべきではない、ということ。これに舞は反発している。
互いに譲れぬ主張をしているだけあって、語調も強くなり、声も大きくなる。
道行く学生たちは彼女らを一瞥して、我関せずといった様子で通り過ぎる。
その中には、霧原 沙希(
ja3448)の姿もあった。
(……今の、小倉さんね。……喧嘩かしら)
そんなこともあるだろう。沙希は特にそれ以上気に留めることなく、歩を進めようとする。
だが、ふと耳に入った言葉が、その足を止めた。
「万引き犯のくせによォ!」
「だからって……」
万引き犯。
それは、確かに舞へ向けられた言葉。
過去、依頼に同行したことのある沙希は、きっと何かの間違いだろうと考えた。しかし万が一ということもある。角を曲がってそのまま立ち去ろうとした彼女は、引き返していた。
「お前みたいなのに依頼の枠取られちゃ、こっちが迷惑なんだよ」
「でもお仕事しなきゃ、生活費が……」
「んなん知らねーっつーの」
論争する二人に、沙希が近づく。声をかけようとした、その時だ。
「あー……ちょっと良いだろうか」
斡旋所で報告書に目を通していた静矢が出てきた。その目は明らかに不機嫌の色を湛えている。
男子生徒はちらりと静矢を見やった。こちらもまた、その顔に不機嫌を浮かべている。
「もっと静かにしてくれないかな。うるさくて報告書も読めやしないよ」
「こいつが大人しく引き下がれば静かにしますよ」
視線を投げられた舞はむっとした。そして、眉尻を下げた。
怒りと反省。両方をその心に抱いたからである。
しかし男子生徒は引き下がらない。
「どうした、何があった?」
「舞さん! 一体どうされたのです?」
騒ぎを耳にした小紅とみずほも現れる。この二人、舞とは友人といえる間柄だ。
様子を見ればすぐに分かる。言い争いをしていたのは舞とこの男子生徒。
しかし、小紅もみずほも、舞が好んで争いごとを起こすような人物ではないと考えている。だから二人は、事情を知ろうと声をかけたのだ。
「その、私は依頼を受けちゃ駄目だって……。この間、万引きしちゃったから」
「……万引き? どういうこと、なの」
黙って様子を見ていた沙希が口を挟んだ。
先ほど聞こえた万引き犯という言葉は、聞き間違いではないらしい。
問いかけた先は、舞ではなく小紅だ。
小紅と、沙希。この二人もまた、友人関係にある。
「舞と知り合いなのか?」
「……えぇ」
「そういうことなら――」
「何の騒ぎですか?」
説明しようとする小紅だが、そのタイミングで風架と翡翠が顔を覗かせた。二人はこれといった依頼が見つからず、引き上げたところだったらしい。騒ぎは斡旋所の中にまで聞こえており、気になっていたのだろう。
ギャラリーが増えることを好ましく思わなかった小紅だが、まずはこの場を収めることが先決と考えた彼女は、風架と翡翠に少し待ってもらうよう伝えてから、なるべく周囲に広がらないように声量に細心の注意を払って、話を始めた。
「先日のことだが、舞は万引きを働いた。が、本人も店へ謝りに行き、店側からも許してもらったことで解決している」
「……本当に、小倉さんが、そんなことを?」
覚悟はしていても、沙希にとってその言葉はショックであった。
「確かに舞は万引きをした。舞の意思がどこにあったかは別として、な」
最後に、小紅はそう付け足す。
舞が働いた万引きというのは、彼女自身が積極的に行ったものとは考えにくいからだ。確固たる証拠があるわけではない。が、舞の言動や、彼女の性格を考えて、万引きせざるを得ない状況に置かれたのだと小紅は推理していた。
「小倉がやったことには変わりねぇだろ? だからよぉ」
「その子には依頼を受ける権利はない、と言いたいわけか」
男子生徒が唇を尖らせた言葉の続きを、静矢が引き継いだ。
先ほどの論争を耳にしていれば、何が問題なのかは自ずと導き出される。
つまり、静矢の言った言葉がそのまま、この論争の争点なのだ。
「そんなのおかしいですわっ!」
「みずほ、声を荒げるな」
それまで黙って話を聞いていたみずほは、舞へ向けられた心の狭い考え方に、怒鳴り声を上げた。
この話は、無暗に無関係な人へ聞かせるようなものではない。それに、ここは廊下だ。大きな声を出すのはよろしくないと小紅が制止する。
「今、問題なのは、舞さんが依頼を受ける権利があるないよりも、ここで言い争っていることの方だと、私は思うのだけど」
翡翠は小さくそう述べた。
みずほの声で道行く何人かの生徒が彼女らを振り返った。それは飽く迄きっかけにすぎないのだが、人通りの多いこの廊下で論争をするのも問題である。
その証拠に。
「なんだ、昼間から痴話喧嘩かぁ?」
「全く以て騒がしい、ここを何所だと思っている」
通り過ぎようとしていたイクス・ガーデンクォーツ(
ja5287)、アイリス・レイバルド(
jb1510)もこの論争に加わった。
これ以上人が集まると、廊下を塞いでしまいかねない。
とにかく場所を移した方が良いだろう。今加わった二人も伴い、一同はひとまず、近くにある談話室へと雪崩れ込んだ。
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「何で俺が説教されなきゃなんねーんだよ」
開口一番、男子生徒は不満を漏らした。彼としては、彼自身の倫理観に則ったことを口にしているつもりだ。だから、注意されることに対して納得がいかないのだろう。
「何が気に入らないのかは知らないが公共の場だぞ」
アイリスはそう諭した。仮に男子生徒の主張が正しいものだったとしても、廊下で騒ぎを起こしたことには非がある。
もちろん、巻き込まれたとはいえ舞にも言えたことだ。
「で、結局どういう話なんだ?」
この論争に参加したばかりのイクスはそう問い掛けた。
騒ぎを起こした場所の問題になり変わろうとする話題を修正。そも、何故こんな論争が起きたのか。改めて整理する必要がある。
これまでの話をまとめると、以下のようになる。
小倉舞は万引きを働いた。男子生徒の主張は、舞は犯罪者であるから依頼を受ける権利はない、ということであった。
「なるほどにゃぁ。感情として許せない物があるのは分かるかねぇ」
「何を仰いますの!」
ようやく事情を理解したイクスは、男子生徒の主張に一定の理解を示した。
これに猛反発したのはみずほだ。
「いいですか、舞さんは罪を償うために」
「あの、どちらかというと、その、生活費が……」
「舞さんは黙って!」
「熱くなるな、みずほ」
またも制止したのは小紅だ。
胸の内に強い怒りを抱くみずほは、口を開かせると止まらなくなるだろう。それは、論争を収めるということに関しては決して効果的ではない。
男子生徒を責めるより、まずは論争に決着をつけることを優先に考えるべきであろう。
そこで口を開いたのは、風架だった。
「その理論だと、自分も依頼を受けちゃいけないことになるんですよね」
「どういうこと?」
呟くように漏れた声の続きを、翡翠が促す。
ほんの少しの逡巡の後、風架を言葉を繋げた。
「正直に言うと自分はここに来る前には暴走して自分の意志ではなかったけど……『仲間を』殺しています」
それはつまり、殺人。
程度の違いこそあれ、罪を抱えるという意味では舞と状況は同じ。
舞が依頼を受けていけないのであれば、風架もまた、依頼を受けてはいけないということになる。
「それでも学園はその事実を知ったうえで自分に働く権利を与え、人のために動くことで罪を償う機会を――」
「でもそれって、入学前のことだろ?」
唐突に、男子生徒は風架の話を遮った。
「学園の生徒が、今、犯罪やってんだ。だから久遠ヶ原学園生徒としてケジメをつけないとなぁ」
「堂々巡りだな。埒が明かない」
静矢は嘆息。
話に終わりが見えない。落とし所が見つからない。
男子生徒は、舞には依頼を受ける権利がないという。舞だけに権利がないという。
本当にそうなのか。その主張を受け入れるしか、答えはないのだろうか。
「依頼を受ける権利の有無は君が決める事ではなく、学園が決める事だろう? 確認なのだが、依頼を受けてはいけないと、学園側から通達があったのだろうか」
「その、特には何も……」
「なら依頼を受ける権利はあるというわけだ」
これでこの話はおしまい。
舞は学園に何も言われていない。依頼を受けてはいけないのであれば、その旨の通知があって然るべきなのだから。
だが、それでも男子生徒は食い下がった。
「じゃあ何か、犯罪者のために、悪いことしてない俺たちが依頼受けるのを我慢してこいつに仕事を譲れってのか?」
「いい加減になさい!」
「みずほっ!」
その言い草はあんまりだ。みずほは椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
最早小紅が止めるのも構わない。
「あなたは何のためにルールというものが存在しているとお思いですの? あなたは少しでも過ちを犯した人間に対してあまりにも不寛容すぎますわ。それで私刑を与えるのであれば、それは法治とは言えませんわ。あなたは何様のつもりですか?人は神の前に平等であるのですよ。あなたは自分のことを神だとでも言うお積りですの? 法、ルールと言うのは人の自由な活動を保障するために存在するのであって、あなたのつまらない正義を満足のために存在しているのではありませんわ」
一気に捲し立て、荒い息と共に肩を上下させるみずほ。これだけ言ってもまだ怒りが収まらないのか、気圧され気味の男子生徒の胸倉を掴みにかかる。
慌ててアイリスも止めに入るが、みずほは止まらない。
硬く結ばれた拳が振り上げられる。
恐怖した男子生徒が目を瞑った。
「やめて! もう、いいよ……」
思わず舞が叫ぶ。
宙を浮かんだみずほの拳は、振り降ろされることなく、その場でわなわなと震えた。
アイリスが小さく息を吐く。
「これ以上続けるようなら、風紀を呼ぶことになるぞ」
「ここも公共の場よ。荒事はよくないわ」
ヒートアップしがちな一同をクールダウンさせるべく、翡翠はゆっくりと告げた。
突き飛ばすように手を離したみずほは、不機嫌な表情はそのままにどっかりと椅子に腰を降ろす。
俯く舞の隣に寄り添ったのは沙希だ。
「……本当に、それでいいの? ……あなたが、我慢することは、ないわ」
舞はキュッと唇を結んで答えない。その代わり、目がほんの少し、潤んでいた。
「小倉の肩を持つのかよ。俺が悪者かよ。そいつは犯罪者なんだぞ?」
「んー、罪を憎む気持ちは分かるけど、それを差別の理由にしたらあかんわ」
顎をしゃくりながら、イクスが口にする。
男子生徒の主張は、一定して舞は犯罪者だから、といったことに起因している。しかし、それを理由にするのは間違いだ、とイクスは主張するのだ。
「差別じゃねーよ。犯罪者のために――」
「犯罪者、犯罪者犯罪者犯罪者犯罪者……!」
「みずほ、もうよせ」
またもいきり立とうとしたみずほに、小紅がピシャリと言い放った。
千切れそうなほどに唇を噛むみずほ。
ふいに、男子生徒が立ち上がった。
「何で俺が間違ってるんだよ。意味わかんねーし。つきあってらんね」
「罪を憎むのは正しい事だろう。だが君のその発言は正しいと言えるのか」
「もういい!」
アイリスの言葉も響かず、言うだけ言って男子生徒は立ち去る。
これを追ったのはみずほではなく、翡翠だった。
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「待って」
談話室を出たところで、翡翠は彼を呼び止めた。
男子生徒が論争の決着を見ないまま退席したのは、自分の主張に同意する者がいなかったからに他ならない。
第三者がこの論争に介入した時点で、彼の主張を肯定する者はなくなった。繊細な中学生の精神は、味方がいないくなった時点で引き下がるほど器用にはできていない。むしろ我を通そうと躍起になる。
そのことに、この時点になってようやく翡翠は気付いたのだ。
「聞いていた限り、貴方の言い分は全部が全部間違っているとは思わない。舞さんは犯罪を犯した。いかなる理由があれど、それが真実。簡単に許されることではないわ」
「今さら俺が正しいって認めるのかよ」
「部分的にね」
彼の主張を肯定してやることで、相手に話を聞く姿勢を作らせる。
談話室での論議には、それが欠けていた。
「でも、償う機会はあるべきだから。もう一度、彼女にチャンスをあげてあげて?」
「そのために、俺が依頼を受けるのを我慢しろってのか?」
「そうじゃない。依頼が早いもの勝ちなら、彼女にもその競争に参加させてあげてほしいの。それだけでいいから」
納得しかねる。彼の表情はそう語っていた。
ほんの少しの沈黙。
去り際。男子生徒は一言だけ口にした。
「……どいつもこいつも」
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論争に巻き込まれた静矢、イクス、アイリス、風架は、ひとまず話が終わったとして解散。
談話室には、舞、小紅、みずほ、沙希が残っていた。
舞が泣いているから。
「どうして我慢してしまうの? 舞さん、あなたは……」
「まだ分からないのか、みずほ。その拳は何のためにあるのか、それを知っているから、舞が止めたんだぞ」
言われて、みずほは押し黙った。
すんと鼻をすする舞。
その髪を撫でるようにして、沙希は静かに言葉をかける。
「……事実がどうであれ、貴女は悪意を持って行動した訳では無い。私は、そう、思うわ。だから……」
続きが、出てこない。
胸に閊える感情が、想いが、形にならない。
もどかしい。こんな感覚は前にも味わったことがある。あの時、どんな言葉を発したのだろう。
「もう遅い時間だ。今日はもう帰ろう。特にみずほは頭を冷やせ」
小紅がみずほを伴って席を立つ。
「沙希はどうする?」
「……少し、残っていくわ」
「そうか。舞を頼む」
暗くなった談話室に残る舞と沙希。
今の舞は、誰かによく似ている。
その人が辿った悲劇を、繰り返してはいけない。
沙希はそっと舞の頭に手を回し、自らの胸元へと引き寄せた。
あの時……。口にした言葉は、そう。
優しく抱きしめてあげれば……。