●
しんと静まり返った月明りだけの暗い丘。
そこから少し離れたところに撃退士達が現れたが、天使は気づいている素振りもしない。
持って逃げたというロザリオは分らないが、彼女は大きな木の根元に膝を抱えて丸くなっていた。
そんな中、ぽっとスマホの小さな明りが灯った。
エルフリーデ・シュトラウス(
jb2801)が操作するそれは、ディスプレイに過去の依頼の報告を表示する。
「全く、ケータイも随分と進歩が著しいな」
僅か十四歳ほどの少女に見えるエルフリーデ。
だが、その見た目とは裏腹に、齢は百三十程ほどの久遠ヶ原学園に帰属した悪魔だ。
その間の歴史を見て来たからこその言葉だろう。
「一応は窃盗……という事になるのでしょうか?」
おっとりとした神月 熾弦(
ja0358)が考えるのは、受けた依頼内容についてだ。
「ふむ。つまり盗人を叩き伏せて連れ帰れという事か」
「いえ、天使が物欲でそんなことをするとも思えませんし」
「何、違う?」
どうやら悪魔は結論を急ぎすぎるきらいがあるようだ。
「やはりユエさんの話をしてくださった月島さんに関連しての行動でしょうか」
依頼人東雲 緋色とは別に、先に天使と関わっていた少年、月島 心からメンバー達は話を聞いていた。
今回唯一天使に遭遇したメンバー、クルクス・コルネリウス(
ja1997)は、月島 心の依頼にも参加をしていた。
だからこその違和感を口にする。
「サーバントまで与えた相手をなぜシュトラッサーにしなかったのか。とにかく知らないと、理解もなにもありません」
天使がなにをしたいのか。
「やれやれ……天使にお説教とは、ね。……余り、柄ではないのだがな……」
ユリウス・ヴィッテルスバッハ(
ja4941)は、自分の髪の色に似た月を見上げて、青い目を細める。
空に、白い溜息のような息を吐き出して、金色の瞳に丸い月を映すマキナ・ベルヴェルク(
ja0067)。
考えはエルフリーデと大差ないのだが、彼女の心情はかなり違うもののようだ。
「……何か、調子狂う天使だな」
月詠 神削(
ja5265)はそう言うには訳がある。
別の依頼で戦った天使と全然様子が違っているからだ。
(人を資源とか家畜ではなく、対等な存在として見てるように思える)
だから、月の話を聞きたいと思う。
「争わずに済むようにしたいですが……」
「戦闘しつつ……というか、攻撃はせず、天使の攻撃に耐えながら説得、か」
対話による解決を望む熾弦と神削に、エルフリーデは小さく笑う。
「……成程。随分と優しいなお前達」
まずは説得をすると受取ったエルフリーデは、皆より先に丘へと歩き出した。
それに少し遅れて他のメンバーも歩き出す。
戦わずに終わるか、戦闘になるかは目的の天使次第。
「ふふ、小心な天使が虚勢を張ってまで何をしたかったのだろうな?」
報告書に書かれた天使と目の前の天使では随分違う。
呟くエルフリーデは、どこか楽しそうに見える。
●
ひゅう、と一陣の風が吹いた。
はっとして顔を上げる天使。
なにかを期待したような表情は、一瞬にして強張った顔に変わる。
「今日も、月が綺麗ですね」
クルクスがふっと月を仰ぐ。
心のときも、こんな月夜だった。
天使・月が腰を浮かして立ち上がろうとする。
「逃げないで下さいよ? 攻撃されない限り、攻撃する気はありません」
まだ誰も光纏はしていない。
「あの、私達の話を聞いていただけませんか?」
熾弦が一歩踏み出すと、表情を歪ませた天使が一歩退き、顔を隠すように前に出した両手を交差させた。
シュッ! と鋭い音が空を斬る。
「やれやれ……矢張り、こうなるか……」
やや落胆したような溜息交じりのユリウスの声は、先ほど立っていた場所より後方で聞こえる。
有無を言わさぬ月の先制の魔法攻撃が、撃退士の踏んでいた草を焼いていた。
立ち上がった天使は、真っ白い大きな翼を広げ、長柄の杖の先についた月の飾りで顔を隠して見えない。
弱っているとはいえ、圧倒的な力の差を感じる。
が、天使は震えているのか、杖に飾りのように巻かれた細い鎖が立てる音がさらさらと聞こえた。
「改めて言っておくが、此方に敵対の意思は無い。話をするつもりになったら何時でも言ってくれ……」
そう言ってユリウスが構えたのは、武器ではなくカイトシールドだ。
敵対の意思がないとの言葉通り。
じりじり、と撃退士が天使に詰め寄る。
例えそれが天使を傷つけない行動だとしても、天使の目には恐怖に映る。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
咆哮にも似た叫び、それが衝撃波となり撃退士を穿つ。
咄嗟に前に出、盾を構えるユリウス。
すさまじい衝撃が盾を打つ。
「くっ……!」
続けて天使が杖を振り上げると、杖の先に光が集まり見る見る大きな輪を作る。
光が弾けた、そう誰もが思った瞬間、光は弾け鋭い刃となって四方へ飛ぶ。
自分の後ろにいる仲間を守るように盾を突き出したユリウス。
だが、受け切れなかった刃は、体を僅かに裂いた。
激しい痛みに歪む表情。
しかし怯まず、ユリウスは真っ直ぐに天使に目を向ける。
「貯まっているモノがあるのなら、今ここで全て吐き出せばいい。……それくらい、受け止めてみせる、さ……」
ぐぐっと両足に力を込めるユリウスは、倒れるまで自分が矢面に立つつもりだ。
やや後方で蒼色の盾を掲げて同じように攻撃を防いだ熾弦は、どうやって天使に話を聞いてもらうか考えていた。
(ユエさんがロザリオを持っていったのは、間違いなく月島さんの事があったから。対だという言葉が耳に入っていなかったとしたら?)
熾弦の頬をかすめた刃に痛みが走り、丸い血の玉が後ろに散った。
(話もできないまま倒されるわけにはいきません。耐えます!)
アジュールガードを握りなおし、熾弦は歯を食いしばり天使に向き直る。
「月島さんの話を聞いてきました。攻撃する気はありません。だからどうか、事情を聞かせて欲しい」
熾弦の良く通る声は、天使の耳にも届き、ふっと攻撃が止んだ。
「……何故か貴女は、月島様をシュトラッサーにしなかった。その方が簡単なのに」
クルクスの言葉が熾弦の言葉を追う。
天使は、唯一心を許した人の名を聞いて、少なからず動揺しているように見える。
驚いたように目をいっぱいに見開いた顔には、まだ恐怖がある。
不意に、天使はきょろきょろと顔を動かした。
天使を取り巻く撃退士達は誰も口を開いていない、にも拘らず、天使には声が聞こえていた。
ふふ、とエルフリーデが笑う。
意思疎通の射程圏に入った悪魔が、防御していた盾を下ろした。
(面倒な奴だな……天など見切って学園に来れば良い)
かつてはエルフリーデも天使と戦っていた悪魔だ。
だが今は帰属し、撃退士として学園に席を置いている。
(少なくとも人の感情すら満足に奪えず、葛藤を感じる様なら天の使徒として不適格だ。何処にいようと変わらん)
エルフリーデの言葉は天使の心に突き刺さる。
「そ、んなこと、知ってる――!!」
閉じていた天使の翼が大きく広がって、飛び立とうと上下に動かされる。
ふわり、と宙に浮いた天使の腕を掴むものがいる。
人を怖がる天使は、人が近づくのを嫌がる。
(逆にあえてそういう距離まで近づかないと、説得の機が訪れない気がする)
そう考えた神削が、エルフリーデが意思疎通で天使と対話をしている隙に、全力跳躍で一気に天使との距離を詰めたのだ。
「おっと、逃がさない」
振り向いた天使を神削の黒い瞳が見据える。
「い、いやああああああああああああああああ!!」
「ぐはあっ!」
腕をしっかりと掴む神削の指先から、まるで雷に撃たれたような電流が全身に走った。
バチバチバチッと鋭く乾いた音が響き、焼けた匂いが広がる。
ゆらり、と神削の上体が揺れる。
しかし、焼けた大きな手は、天使の腕をしっかりと掴んだまま離さない。
「月詠さん!」
熾弦はすぐさま神削にアウルの光を送り込んだ。
「け、っこう、痺れたぜ……」
「いっ、嫌っ!」
がくっと頭垂れた神削は低く呟くような声を発する。
「俺は……、月が何を考えてるかなんて解らない」
握る指先に、天使がぴくり、と反応する。
「だから、説得の言葉なんて出てこない。ただ、月は苦しそうだ。理由を――教えてくれ」
神削の言葉に、天使が戸惑っている。
振り払おうとしたのか、自由の利く手に持った杖を振り上げ止まったままだ。
「ロザリオを手放した貴女が、何故ロザリオに惹かれたのか」
(知らないと、理解も何もありません)
クルクスは天使の答えを待たずに話を続ける。
「……置いていく方も、置いて行かれる方も哀しいものです。理由があったのかもしれません。でも望みは当人しか分らない」
そう言って月を見上げるクルクスの両親はシュトラッサーだ。
想いは今回の依頼と重なる。
「――貴女は、何をそんなに恐れているのですか?」
天使の背から静かな声が聞こえた。
いつの間に天使の背後に回ったのか、振り上げたままの天使の杖はマキナの左手に握られている。
黒夜天による偽神化したマキナは、天使が攻撃をしようとすればいつでも拘束可能な状態だ。
天使がどう出るか様子を伺っていた。
だからこそ気がついた、天使さえ気がついていない心の奥が。
「傷付ける事を恐れている? いいえ、違うでしょう?」
「――え?」
「貴女は単に、自分が傷付くのを恐れているだけだ。相手を傷付けたと。その事に耐えられぬと」
ぶるっと天使が震えた。
「ちがう、ちがうちがうちがう――!」
「そうでなければ――……何故、戦う相手の顔さえ見れないのです? 傷付けたと、その相手を見るのが怖いからではありませんか?」
「ちが、う……」
「それは単に逃避でしかありません。そして。……逃げた先には碌な事が待っていませんよ」
きっぱりと言い切るマキナの言葉に、天使の手から武器が消えた。
支えられていたものを失ったかのように、天使はがくっと両膝を地につける。
これ以上何もしないだろうと思われたが、天使の腕を掴んだ神削はそのまま、少しだけほっと息を吐き出した。
「……まぁ、今更何があったのか根掘り葉掘り聞くつもりはない。……が、これまでやってきた事に後悔があるのなら、今からでもそれを償おうとしてみても良いのではないか?」
武器を消した天使の姿を見たユリウスも、構えていた盾を下ろす。
ぴりぴりとした戦いの空気がやや和らいだが、天使は下を向いたまま顔を上げず、力なく頭を左右に振っている。
「人を害した己が受け入れられるか不安か? そんな事知るか」
エルフリーデは自嘲気味に笑っている。
(私はそれなりに喰ってきたぞ。にも拘らず、見ろこの状況を)
天使に共感はできないが、理屈としてエルフリーデは理解していた。
が……、ああ、めんどくさいと悪魔は月を見上げる。
まだダメージが残る神削に走り寄った熾弦は回復を施しつつ、思い切ったように天使に話しかけた。
「あの……、月島さんとまた話してはどうですか?」
ゆるゆると、天使が顔を上げる。
「……し、んと――?」
「どんなことでも、話すと少し楽になる。それは天使でも同じだろう?」
そっと天使の腕を離した神削は、ゆっくりと頷いた。
「……一つ、教えてあげます」
天使に背を向けて立つマキナの物言いも、先ほどとは違い柔らかく感じられる。
「人との触れ合いとは即ち傷付け合うと言う事に他なりません。各々が『個』である以上、傷付けるのは避けられぬ事」
諭すように。
「故に『然し』と求める事が大切なのです。そうしなければ、他者の理解など出来ぬでしょう」
「――傷つけて、も……?」
あれだけ、人の表情を見るのを嫌っていた天使がどうだろう。
今は、ゆっくりとだが、話す撃退士の顔を見つめている。
彼等には、何より表情がある。
「人間も不完全なものさ、最初から間違わないなんて事は出来ん……まぁ、一般論だがね。だからこそ、後悔して、次に生かそうとするわけだ。……君は、どうしたいのだ?」
膝をつき、月に問うユリウス。
「ボク、は……」
月が、胸に揺れるロザリオをぎゅっと握った。
そう、したい事はひとつだけ。
今まで怖くてできなかった事。
「貴女がしたい事を、『それでも』と求める事。逃避ではなく、前へと望む一歩の勇気。それが貴女には、必要なのではありませんか?」
月の前に、マキナの左手が差し出される。
「ゆう、き……」
天使は、ロザリオを握っていた手を離し、マキナの手に自分の手を乗せていた。
おずおずと、それでも確実に。
撃退士を見返す瞳は、どこか穏やかなものに変わっていった。
「それと、万引きは駄目です」
依頼人の元への帰り道、思い出したようにクルクスは言って笑う。
不思議そうに顔を傾げる天使には、まず万引きの説明が必要のようだ。
●
その後、依頼人東雲緋色のアンティークショップに連れて行かれた天使・月は、しばらくの間、緋色の監視下に置かれることとなる。
どうやら緋色が裏で色々動いた結果らしいが。
報告書には、『緋色が駄々をこねた』とは書かれていなかった。