紅 鬼姫(
ja0444)は走っていた。
連絡が入った時点で、鬼姫は織部たちから一番近い位置に居た。
鬼道忍軍の身軽さを活かし、単身現場へと急行する。
苦い記憶が蘇る。
すべてが終わってから、ただ一人――あのとき確かに抱きかかえたはずの一人だけ、救えなかったことを知った。
想起する景色に重なるように、今朝、はじめて会った少女の顔が浮かぶ。
(……少し、似てますの)
ビルの壁を駆けあがり、街並みの屋上を行く。
織部たちが背にしているビルに到達しても、鬼姫の足は止まらない。
屋上のフェンスを飛び越え、そのまま壁づたいに駆け降りる。
二人が見えた。手にした双銃をディアボロの群れへ向ける。
鬼姫は、睦海の姉を救えなかった。
恨まれているかもしれない。それでも。だからこそ。
「――今度こそ、助けてみせますの」
鬼姫に次いで救援に駆け付けたのは、彼女と共に行動していた緋桜 咲希(
jb8685)だった。
「あうぅ……今日の敵は見た目が気持ち悪いよぅ」
だからと言って逃げ出すわけにはいかない。
アウルを槍状の炎として顕現させ、手近な敵に投げつけて注意を引く。
『炎焼』が直撃したディアボロは悲鳴をあげたが、力尽きるまでには至らない。
ひっ、と短く悲鳴が漏れた。爪が振りぬかれ、血が舞った。
「いたっ……痛い、じゃナい……ナニスルノ?」
咲希の体が黒い靄に包まれる。
真紅に変色した瞳がギラリと光った。
「そっちガその気なラ、容赦しなイよ? あはッ。アははハはッ!!!」
再び槍状の炎が現れる。
投げつけられたその火炎は、一体の頭を燃やし尽くし、倒れる体を火達磨にした。
「よォく燃えてルねぇ♪ 怖イ? 大丈夫……痛いノハ、一瞬だケだかラさぁ!!!」
別人へと変貌した咲希は、自ら敵へと斬りかかった。
「急いで逢いに来たつもりでしたが……出遅れてしまいましたかねえ」
翼で飛行するディアン(
jb8095)が呟いた。
隣を飛ぶアデル・リーヴィス(
jb2538)はそれに答えず、違う場所に視線を向けている。
織部、鬼姫の二人は奮戦していた。その背後でうずくまり、動こうとしない者が一人。
東北での戦い。その結末。アデルは、報告書に目を通していた。
助けに行く、と彼女は決めていた。信じる『正義』を為すために。
「……わたしは行くね。こっちは任せていいかな」
「もちろんです。索敵にも飽きてきた頃合いでしたから」
敵中に降り立ちワイヤーを手繰るディアン。自然と口角が上がる。
戦地に焦がれ、血を愛し、漸くこうして逢えたのだ。
ヴァニタスでないことは少々残念だが、待ち望んだ対峙には変わりない。
「お逢い出来て何より――楽しい戦場といたしましょう」
細い糸がディアボロを切り裂く。
動きの止まったグールドッグ、その頭部が瞬く間に切り刻まれる。
次いで飛びかかってきた一頭も、鋼の糸に両断された。
千切れ跳ぶ首が牙を剥き、傷を負おうとも、ディアンの口元の笑みは消えなかった。
「死して尚、噛み付いてくるその姿勢……好いですねえ。嫌いじゃありませんよ」
闘争に酔う一方、冷静に状況を把握する。
救助対象を包囲した敵をさらに囲み、挟撃する。それが最善だと思われた。
しかし、増援は未だ終わらない。
包囲を維持することに拘り続ければ、今度はこちらが挟撃されかねない。
(長居は出来そうにありませんか……存分に楽しんでおいた方が良さそうですね)
ディアンが戦闘を開始した後も、アデルは飛行を続けた。
味方の半数は揃っている。とにかく、彼女を安全な場所へ移動させなければならない。
アウルの炎が舞い、双剣と双銃が敵の爪牙を防ぐその中心へ、アデルは降り立った。短く問う。
「立てる?」
ヒリュウを抱く少女は答えない。
視線は傷の増えていく織部と鬼姫を追っていた。
そこへさらにもう一人、翼で飛翔し敵陣を越えたトグ(
jb8834)が合流した。
「状況は芳しくないようですねえ。このままだと押し切られますよ」
飄々と告げられた言葉。答える者は居なかった。トグはやれやれと肩を竦める。
自身を狙って飛んできたディアボロの頭を鋼糸で絡め取り、それを血と肉の塊としてから語り出す。
動きもしなければ答えもしない睦海に向かって。
「残りますか? ではどうぞお死になさい。消え入りそうな魂はヴァニタスに回収され、残った身体はディアボロとして再利用してくれますよ。趣味の良い悪魔なら、生前の記憶を残したディアボロにしてくれるかもしれませんねぇ」
少女の肩が震えた。腕に抱くヒリュウが、俯く顔を心配そうに見上げる。
睦海の近辺で何があったのか。それをトグは同行者から聞いていた。
はぐれ悪魔は、死の標を囁く。
「……ところで、そうなった魂が、果たして貴方のお姉様と同じ所へなんて、いけるんですかねぇ? 助けようとする仲間をも道連れにしようとした、貴方のような魂が。悪魔に回収された魂が……ねぇ?」
「いい加減にしろ。怒るぞ」
振り返ることなく、織部が口を挟んだ。
もう一度肩を竦めてトグは閉口する。果たして怒られるのは自分か、それとも動かない少女か。
織部同様、眼前の敵の群れを睨んだまま、鬼姫が呟く。
「睦海は連れて帰りますの。それが、汐里の望みですもの」
普段と変わらず、抑揚の少ない声だった。
普段と違い、強い意志の込められた言葉だった。
汐里。姉の名を聞いた睦海は、唇を結んだ。
アデルは手を伸ばす。肩に触れて、ようやく目が合った。
「誰だって大切な人には生きて欲しい。きみのお姉さんは、きみが死んだら喜ぶのかな」
少女は、沈痛な面持ちで首を振った。
睦海の姉のことをアデルは良く知らない。顔も声もわからない。
それでも。彼女たちの間の繋がり、その強さは、睦海の沈み様から容易に想像できた。
「それじゃあ、生きよう。きみは此処に居るべきじゃない」
未だ一言も発しない少女は、しかし首を縦に振ろうとはしなかった。
これ以上は待てませんよ? トグが視線でアデルを促す。
小さく息を吐き、アデルは少女を抱えた。召喚を解除されたヒリュウが消える。
アデルが翼を広げ、包囲の外を目指す。獲物を逃すまいとディアボロたちは猛った。
鬼姫と織部が体を張って止める。彼女たちを抜けた生首は、悉くトグが撃墜した。
眼下で吠える獣たち。アデルはそちらを見ようともしない。
押し黙る睦海は、戦う仲間たちを見ていた。
「――おし! 届いた!!」
虎落 九朗(
jb0008)は、思わず叫んだ。
グールドッグたちによる包囲の外側、アデルが抱える睦海がサクリファイスの射程に入った。
直剣を構えるファーフナー(
jb7826)が、九朗の傍へ着地するアデルをカバーする。
(随分と手間取ったな)
言葉には出さなかったが、ファーフナーはそう感じた。
咲希やディアンらは健闘しているが、この人数では包囲を維持できない。
敵中突破を図る織部たちを援護し、早々に撤退しなければ危険だ。
「何があったかは知らねーが、掛かってんのはあんたの命だけじゃねぇんだ」
九朗の言葉に、睦海はさらに消沈した様子だった。
しかし、それだけだった。言葉は返ってこない。
向かってきた敵の両手足を斬り落とし、ファーフナーが告げる。
「退くぞ。これ以上は持たん」
「死ネっ! 死ねッ!! 死ね死ネしね死ねエええェッ!!!」
返り血に染まりながら、咲希は大鉈を振り回し続ける。襲い来る恐怖を狂気で叩き斬る。
それでも彼女を囲う輪は着実に形成されつつあった。状況は悪化の一途。
「無尽蔵に湧くとは。さながら悪夢ですか」
発する言葉とは裏腹に、ディアンは笑みを崩さない。
楽しいのは結構だが、敵が減らないのは宜しくない。退き際だろう。
手にした鎌の柄で進路を塞ぐ敵を殴り伏せ、暴れ狂う咲希の元へ向かう。
「いやはや。予定通りにはいきませんねえ」
ひとりごちて、トグは上空へ飛んだ。飛びかかってきた一頭の爪から逃れる。
積極的に戦闘に参加するつもりの無かった彼だが、状況がそれを許さなかった。
地上を行く鬼姫と織部は道半ば。双方ともに満身創痍、撤退するにも援護無しでは厳しい。
移動力で劣る織部を庇い、鬼姫は幾度か振り返って敵を迎撃しながら退いていく。
やや前進した九朗から、回復の援護がもらえるまであと僅か。
――逸る気持ちが、隙を生んだ。
「ッ!?」
織部が転倒した。
左足に、生首が食らいついている。
蹴飛ばす。立ち上がろうとして、もう一度倒れた。
極度の疲労が、彼女の足をもつれさせる。牙が、爪が、――死が迫る。
織部が終わりを覚悟したそのとき、グールドッグの頭が盾によって殴り砕かれた。
鈴木悠司(
ja0226)だった。
トグと共に駆け付け、今まで戦い続けていた彼は、血まみれだった。
普段の微笑みはその顔に無く、冷たい瞳がディアボロを見据えていた。
「……すまない」
立ち上がる織部を一瞥し、悠司は尚も襲い来るグールドッグを淡々と斬り伏せる。
その姿を見た織部は思う。別人のようだ、と。
以前、友人と一緒に笑っていた彼と同一人物だとは、到底思えなかった。
包囲を突破し、一丸となった10人は、戦場を離脱した。
撤退間際に放たれた九朗のコメットが功を奏し、追手は数頭にとどまった。
その追手もディアンと鬼姫によって駆逐され、撃退士たちは激戦地から離れた場所で足を止めた。
●
「傷は?」
乱れた呼吸の合間に、織部が悠司に尋ねた。
悠司は首を振って答える。回復は必要ない、と。
だが、と食い下がる織部に、悠司は心中を吐露した。
「俺の事なんてどうでも良い。もう、どうでも良いんだ。これ以上、誰かが倒れるのは……見たく、ない」
思い出す。
手を伸ばした。
あと少しで届いた。
あと一歩で、救えるはずだった。
悠司は語った。織部は、黙って聞いていた。
「睦海さんのお姉さんを救えなかったのは、俺なんだ。俺は憎まれて当然だ。睦海さんには、生きてもらいたい。せめて、俺を殺すまでは―― 」
「それは違う」
否定された悠司は、光の無い目で織部を見た。
真っ直ぐな視線が返ってくる。真っ直ぐな言葉が返された。
「あいつは、誰も憎んでいない」
私とは違う。小さく呟き、織部は続けた。
「お前にも兄弟が居るらしいな。今のあいつと同じ思いをさせるつもりか? それとも、お前はあいつを人殺しにしたいのか?」
長いようで短い沈黙があった。
いや、と小さな声で悠司は答えた。
織部は不器用に笑った。少し照れくさそうに。出来る限り優しく。
「私にとって、お前は命の恩人だ。感謝している。だから、そんなことを言うな」
鬼姫は、睦海に頭を下げていた。
「汐里を連れ帰ることが出来なかったのは、鬼姫の慢心と力不足のせいですの……申し訳ありませんの」
「いえ、そんな……!」
ようやく声を発した睦海は、慌てた様子でそう言った。
顔を上げた鬼姫は、どこかほっとした表情を浮かべていた。
生きて護る為に死んだ姉と、死を望む妹。同じ場所に辿り着ける筈など無い。
良かった、と鬼姫は思う。睦海を守ることが出来て。
「生きて変わる事はあっても、死んで変わる事は何もありませんの。辛くても……失った命の分まで、生きるべきだと思いますの」
「……私は」
鬼姫の想いを聞いた睦海は、答えに詰まった。
その表情は未だ暗く、立ち直ったようには見えない。
「私は……皆さんを危険に晒すだけで、何も出来なかった。私なんか――」
「おい」
死んだ方が良かった。
その言葉を遮ったのは、九朗だった。
睦海の正面に立つ彼の表情は険しい。
ぱん、と乾いた音が響いた。
驚きに目を見開き、睦海は自身の左頬に手を当てた。
「いてぇか。それはあんたが生きてる証拠だ。……事情は聞いたよ。俺だって、救いたい命が目の前で失われた事も、知らねぇところで決着がついてた事もある。何度もあったんだ」
けどよ。
九朗は、共に戦った仲間たちを指した。
「それはてめぇの命を、周りの命を捨てて良い理由にゃならねえ! 絶望したって、自己嫌悪したっていいんだ! あんたは此処にいるだろ! 生きてるじゃねぇか!!」
睦海は救われた。それは、事実だった。
彼女が自ら死を望むことは、命を賭して救ってくれた人たちの想いを捨てることと同義だと、九朗は思う。
少女は唇をきつく結んだ。涙を堪えていた。
餓鬼の寄せ集め部隊か。
睦海たちを横目に、ファーフナーはそう思った。
事実、彼女たちはまだ子供だ。撃退士である以前に。
ふと考える。
自分は何故生きているのか。どうして此処に居るのか。
偽りの関係が全ての人生だった。喪うものなど何もない。
――そうだとしたら。この未練がましい感情は、一体何だというのだろう。
「戦場で散ってしまえば敗北者。彼女の姉は、最期の一瞬まで戦っていたのでしょうね。僕はそれを敬いますよ」
誰に告げるわけでもなく、ディアンが独り言を呟く。
ファーフナーは無言だった。トグは相変わらず軽薄な笑みを浮かべている。咲希は、九朗と睦海のやり取りにオロオロしていた。
誰も聞いていないようで、皆が聞いている。それを何となく感じながら、ディアンは続けた。
「彼女まで負けてしまうほど、人間というものはか弱いですかねえ……?」
だからこそ、僕は此方の味方なんですがね、とディアンは締め括った。
遠吠えが響く。
「……まだ来るか」
忌々しげに呟いたのはファーフナー。
建物の陰から現れたグールドッグの姿を認め、咲希が悲鳴をあげた。
「あ、あとは帰るだけだと思ってたのに……!」
臨戦態勢を取る撃退士たち。唯一、睦海だけは武器を構えようとしなかった。
彼女を背に庇いながら、鬼姫は鞘から二刀を抜き放ち、アデルは魔法書を再び手にした。
「……死とは、忘れることですの。汐里の魂は鬼姫が連れて生きますの。ですので、貴女も助けますの」
決意を告げて、鬼姫は接敵した前衛班に加わった。
彼らを援護すべく魔法を放ちながら、アデルは睦海に背を向けたまま語る。
「きみは逃げても良いよ。撃退士を辞めても、きっと許される。立ち止まる事は悪じゃないし、進むだけが善じゃない」
唯、忘れないで。
ヒーローをかたる堕天使は、熱の無い科白が少女に届いていることを願った。
「今も何処かで、きみと同じ感情に苛まれている人が居る。その人達を救う事も、わたしの役目。出来る事なら、きみも救いたい」
いつか聞かせてくれるかな。
アデルは一度だけ振り返り、翳った微笑みを浮かべた。
「きみが撃退士になった理由を。きみが此処に居る意味を」
この日。
少女が再びヒリュウを召喚することは、ついに無かった。