しずしずと歩く老婦人を見つけた鳳 静矢(
ja3856)は、和やかな眼差しで挨拶した。
「御無沙汰しています、御元気だったでしょうか」
一年ぶりに見た元依頼人は「おかげさまで」と微笑みつつ「いらしてくださったんですねぇ」と嬉しそうに口元を綻ばせた。
幾分か皺も深まり白髪の増えた顔に、微笑みを返す。
「ええ。今年も花の咲く季節と伺いましたので……鮮やかな梅の園を見に来ました」
「見頃ですよ。綺麗に咲いてくれました」
「如何でしょう、ご一緒に」
「あら、いいんですか? こんなおばあちゃんで。奥様も待っているでしょうに」
「妻は……少しばかり予定が合わずに来られなかったのです。ですので宜しければ」
優美に微笑む鳳は、紫暗の和傘をさして老婦人をエスコートした。雪に埋もれる純白の花、桜にも負けない薄紅、そして真っ赤に燃える紅の花を愛でながら……大樹の前に立ち止まる。古の梅の大樹は変わらずに鎮座していた。
「今年も変わらず、立派な物だな」
『まだまだ幾年も……変わらずこの庭と人を、見守り続けてくれよ』
祈りにも似た気持ちを抱きながら、鳳は老婦人を振り返った。
「また来年……次は夫婦で共に伺いますね。その時までどうか、ご健勝であられますよう」
「ええ。奥様とおいでになるのを、お待ちしていますよ」
老婦人は穏やかに笑った。
「結衣香さん、どの和傘にしますかぁ〜?」
梅柄の着物を纏った深森 木葉(
jb1711)は、紫の瞳を隣に向けた。同じ梅柄の着物と言っても春色の淡い衣装を着た下一結衣香は「赤かなぁ」といいつつ和傘を手に取る。着付けのできない結衣香を発見して、深森が着せてやったのだ。そのまま一緒に庭を見ることになっていた。深森は「薄紫の和傘を借りるのです」と笑って、和傘をさした。
遙か空から降りそそぐ牡丹雪が美しい。
『梅花の宴ですかぁ〜。楽しみなのですぅ〜』
華やかな景色に心躍る。満開の枝もあれば、咲き待ちの梅の蕾もふっくらと膨らんでいるのが分かった。景色を堪能する深森は、心のままに一句詠み上げる。
「梅が香に 佐保の姫も 誘われ 雪のかんざし 空に溶けゆく」
「おぉ〜」
一緒に歩いていた下一結衣香は感動したように両手で拍手していた。
「ありがとうございますぅ。梅が咲き、春の女神が訪れれば、この雪たちも空に帰るのですねぇ……結衣香さんも一句どうですかぁ〜?」
「俳句の心得がさっぱりだからダメだわ。あ、お茶のみにいかない?」
「賛成ですよぉ。梅の和菓子、気になっていたのですぅ〜」
さくさく歩いて喫茶店に向かった二人は、芳醇なお抹茶を頂いた。
重厚な器を手に、ふーと息を吐く。
深森が胸中で句を囀る。
『薄緑、一片の紅、頬に受け、甘味を味わう、至福の一時』
幸せな一時に酔いしれる。
庭に降り立った振り袖姿の常木 黎(
ja0718)が可憐な花に指で触れる。
「花の世話はどれも煩わしいものだけれど、こうして見る分には悪くないわね」
まるで掛け軸に描かれる一瞬のようだと、傍らの点喰 因(
jb4659)は思った。
点喰は我が身を見下ろす。
無地の黒小袖は少し地味だっただろうか、梅の枝で囀る鶯の絵羽織を合わせているから丁度良いのかもしれない。蛇の目の傘も味を出しているはずだ。色々悩んで決めた格好を確認している点喰を振り返った常木は「どうかした」と声をかける。
「なんでもない。あはは、しっかしねぇ……人間卒業とは思わずだったわぁ」
種族間の確執は無論。
これから長すぎるにも程がある生涯を思うと、日々気が滅入りそうになる。
学園という特殊な環境下にいることで今は実感が薄くとも、容赦なく過ぎゆく時間は友人と自分を引き離して行くに違いない。
『黎ちゃんは、種族は気にしない口ではある……気はするけど』
どう、感じているのだろう。
伺う眼差しの先にいた常木は「……そ」と興味なさげに声を発した。
「私にとっては些末な事よ。貴女は、私の因なんでしょう?」
美しい梅を見上げた常木の言葉から香る、行間の意図を悟らされる。
……何も変わらないのでしょう?
今も昔もこれからも。
くすぐったいような、木漏れ日のような気持ちを抱えて、点喰は嬉しそうに笑った。
万民に等しく訪れる終点があるように。いつかその日が来るのだとしても。
願わくばどうか、遙か遠い日でありますように。
微笑みの影で点喰は祈った。
常木は歩き出す。
白銀の小径に草履の足跡が刻まれる。
葡萄色の振り袖の裾を翻し、しなやかな所作で唯一無二の友人の手を引いた。
ひらひらと可憐なラッセルレースが風に揺れる。
「くぅにぃはやくー!」
「わっと、ちょっと魅依? はやいって」
黒を基調とした和風ロリータ姿の狗猫 魅依(
jb6919)は興奮気味に手を振った。久しぶりのおでかけとあって、ころころと手鞠のように走っていく。華やかな梅の枝を見て回り、長閑に歩く白い着流し姿の狗猫 空羽(
jb6918)を思いだしては振り返って戻ってくるのだ。
「くぅにぃ、手!」
「はいはい」
冷たい雪の中でも温かい掌。勢いに任されるまま歩くと、和傘の隙間から雪が迷い込んで頬を撫でた。ふいに大きな巨木に目を留める。古の古樹は、堂々とした風格で鎮座していた。
「あ、魅依。ちょっとだけ待って」
枝もたわわな赤い梅花に心奪われていく。
ずっとずっと、このまま見ていても飽きないかもしれない。美しいたたずまいだ。
ふいに。
ぱちん、と小さな音がした。
古樹の枯れ枝でも折っただろうかと周囲を見回した空羽の腕に、するりと絡む華奢な腕。それまでの無邪気さが何処かへ消えた娘の首と手から、首輪と手枷が消えていた。
「大好きです、お兄さま。ネコは寒がりなんですよ、梅ばかり愛でないでください」
寄り添うように、きゅうっと抱きしめられる。
「まったく、……いつもいきなりだね」
骨張った指が艶やかな髪に舞い降りた雪を摘んだ。しゅっと肌の熱で溶ける。
空羽はゆっくりと頭を撫でた。
風流な庭に和装といえぱ此だろう。
そう考えた黒羽 拓海(
jb7256)は和装をぴっしりと着こなしていた。黒の紋付き袴は雪の庭によく映える。濡れるのは拙いから、と雪よけに借りた和傘は風流と粋を醸し出していた。
欲を言うなら少々寒いという事くらい。
ちらりと隣の様子を伺う。
赤い和傘を持つ天宮 葉月(
jb7258)は桃色が鮮やかな小振り袖に紺の袴を纏っていた。髪はいつものポニーテールだが、普段は縁のない格好に天宮は何処か夢心地。
「なんだか違う時代にきたみたい。ふふ。こういうしっとりした雰囲気のってマンガで見た時はいいなーって思ってて……」
頬を染めて嬉しげに話す声を聞きながら「そうだな」と相づちを打つ。
『ああやはり、葉月は和装もよく似合う』
すい、と黒羽は目元を細めた。
艶やかな髪にはきっと簪がよく映えるに違いない。
いつか着物に合わせて見繕うのも……等と考えていた黒羽は、満開の梅の枝を見つけて「折角だから」と手招いた。
「この梅を背景に写真を撮ろう。一緒に」
「え、えええ!」
「お互い普段とは違う格好だし、記念になるだろう」
天宮は頬を染めながら「はい、あぅ」等と言いつつ黒羽の傍らに立った。
胸が高鳴る。
黒羽は通りすがりの下一結衣香に撮影を頼み、再びカメラを返してもらって別れた。
「冷えてきたし屋内にいこう」
すっと手を差し出す。
天宮は顔を逸らしつつも手を重ねた。挙動不審な天宮の様子に首を傾げる。
『さっきから何故、目を逸らされるんだろうか? 心なしか顔も赤いか? 風邪か?』
これはいけないと微妙に勘違いした黒羽は屋内へ急いだ。
繊細な琴の音色が聞こえる。
屋敷の中に設けられた喫茶店は大正浪漫の風格を備えていた。
畳の上に置かれた飴色に艶めく木製のティーテーブル。彫り込みのある椅子。磨りガラスの梅が映えるランプは、蜜蝋色の光で天井を彩っていた。オールドクロックはコチコチと規則正しい音を立て、部屋の片隅では大正琴が華やかな音を奏でている。聞き覚えのある楽曲から、聞き慣れぬ曲まで、珍しい音色は客の耳を虜にするかのようだ。
「着付け、ありがとう」
チェス盤の如き古風なテーブルを挟んで座った空木 楽人(
jb1421)は気恥ずかしそうに告げた。
木ノ花 柚穂(
jb7800)は柔らかく微笑む。その笑顔に少し居たたまれない。
「本当に……ごめん、誘っておいて着付けしてもらうとかもうね」
空木はバレンタインの御礼をしようと思っていた。
きっと梅も見頃だろう、と。
事の始まりは一時間ほど前のこと。
『わ、木ノ花さん、やっぱり着物すごく似合う! 可愛いなあ……』
『ありがとうございます。なんでしたら先輩も、着てみませんか』
しかし。
空木は貸衣装屋で我に返った。己の着付けができなかったのだ。
係りの人を呼ぼうとオロオロしている内に待っていた木ノ花に発見され、しゅるりと流れるような手つきで着せられてしまった。
これを恥じずにいられようか。
「ふふ、お気に召しませんか? でも先輩、とっても恰好良いですよっ」
木ノ花は自前の付下げ小紋のモダン着物を纏っていた。折角二人で和装ならば、と木ノ花は貸衣装屋で髪も整えて簪をさした。
しゃらしゃらと揺れる硝子玉は美しく小顔を彩る。
「……木ノ花さんにそう言ってもらえるなら、これもいいかな」
流石に帽子は禁止されてしまったけれど、ガラス窓に映る二人の姿は景色に溶けあっていて『着替えて良かった』と思わせるものがあった。
「今日は素敵な宴へのお誘い、ありがとうございますっ! 琴の音色、癒されますね」
全く気にせず軽やかに話す。
やがて木ノ花達の所へ抹茶と甘味が運ばれてきた。
「あ、そうだ。食べ物も一緒に分けたほうがいいかな」
今日の目的は、梅花園以外に、ケサランのお披露目もかねていた。呼び出されたふわっふわもふもふの愛らしいけーちゃんを見て、木ノ花は抱きしめたい欲求と戦う。
「とっても愛らしいです! ううーん……とっても幸せです!」
なんという至福。
ふと木ノ花は我に返る。
「あ、先輩。よければ、後で梅花園を見て回りませんか? お隣を歩かせて頂けたらなー……なんて」
「うん、勿論! 一緒のほうが楽しいしね。じゃあ、食後に行こうか!」
今日はゆっくりした一日になりそうだ。
「3人共チョー可愛いよ〜、似合ってる!」
着物を纏う乙女の姿を熱心に撮影しているのが、女学生の装いをしているクアトロシリカ・グラム(
jb8124)だ。紺の矢絣に椿の花のアクセントがきいた柄の着物にあわせ、濃紺のグラデーションが麗しい袴からのぞくのは動きやすいショートブーツ。
『流石マイハニー達! 梅の花も女の子の着物姿も、一挙両得で華を堪能できるなんて素敵じゃない。立っている姿も良いけど、座ってる姿も捨てがたい!』
「ありがとう、クゥ」
穏やかに微笑む氷咲 冴雪(
jb9078)は白地に紅梅を散らした着物だ。
隣でぽやーん、とした笑顔を咲かせて友達に抱きつく御堂島流紗(
jb3866)は桃色を基調とした華やかな布に、白梅の花模様が散らされた可憐な振り袖だった。
「なんだかてれるのですぅ。本日はおつき合いしてくれて感謝なのですぅ」
「皆さん、とてもお似合いですよ。まるで一足早く春が来たような」
ほんわりと囁く褒め上手の桜ノ本 和葉(
jb3792)は、落ち着いた色合いの抹茶色地に梅柄の着物を着ていた。
注文を終えた氷咲達は、尤も梅がよく見える円卓の席に座っていた。
「右も左も全て梅、ですか。美しい花景色ですこと。こういった席は、なんだか親しみを感じますわ。悪くありませんわね」
グラムは庭を眺め「日本庭園ってゆーの? 何か落ち着くよね」と言葉を返す。
ああだ、こうだ、と。
話している内に、品が届けられる。
「実は抹茶とか初体験なんですぅ」
甘いジュースや紅茶はありふれているが、本格的な抹茶は馴染みが薄い。昨今では趣味で嗜む者ばかりだろう。
期待と不安を抱く御堂島は、一口飲んで眉間に皺を刻んだ。
「……想像していた以上に苦かったですぅ」
御堂島の瞳が潤む。抹茶を口にして得た感想は『抹茶は苦い』という事と『これが……わびさび』という斜め上の理解だった。
最初は「そんな大袈裟なー」と暢気な声を放っていたグラムも抹茶は口にした事がなく、まるで焙じ茶か緑茶の如き勢いで抹茶を呷った。ごくり、と呑んで瞬時に顔が歪み、慌てて漆の皿に盛られていた餡菓子を全て口に放り込む。
もはや品良くなんてできなかった。
「うぐぐ……これって大人の味……」
桜ノ本も初めての本格的な抹茶味に挑戦だ。
「んー、抹茶は苦いですけどその後に食べるお菓子が美味しいー、あ、梅味」
御堂島の眼差しに気づいた桜ノ本は「流紗さん。あーん」と花形の餡菓子を差し出す。
分け合うお菓子は、なんと美味しいのか。
御堂島は「これ美味しいんですぅ」と幸せそうな顔で微笑んだ。
機嫌が一発で戻る。
「ずるーい! 流紗が楽しかったならあたしも嬉しいわー」
ぎゅみー、とグラムが抱きつく。
賑やかな者達を「あらまあ」と微笑ましげに氷咲が見守った。
「本当に。お茶もお菓子もなかなか美味しいですわね。皆と一緒と言うのも美味しい理由ですかしら……そうだ。折角ですし、色々な和菓子に挑戦してみませんこと? 分け合えば色々食べられますわよ」
「さーんせーい」
次第に追加注文したお菓子を分け合う会になっていく。氷咲が目を留めた。
「あら、クゥ。頬にお菓子をつけてますわよ」
ぐっと細い身体を引き寄せて、ぺろりとひと舐め。
「……どうかなさいまして?」
驚きの行動に頬を押さえたグラムは身を「もー冴雪ったら大胆」と言って身をくねらせる。まんざらでもないらしい。氷咲は、ぽかーん、と眺める他の二人に視線を向けた。
「和葉も流紗もして欲しいのですかしら。だったらいつでもして差し上げましてよ?」
くすり、と愛らしくも妖艶に微笑む。
なんと賑やかな休日だろう。
桜ノ本が梅花を眺めた。まだ寒さも残る雪降る庭に赤い花が映える。あの可憐な花の気品を瞳の奥に焼き付けて、家へ帰ったら小物やアクセサリーにするのも素敵だ。梅の花が咲いたなら、じきに桜の花も咲き誇るだろう。
まだ寒いけれど、春はすぐそこ。
「また来たいですね」
隣の御堂島は「梅の花見も素敵なのですぅ」と和やかに微笑む。
賑やかな笑顔の女子会を振り返り、ぱしゃり、とカメラのシャッターをきった。
妻である星杜 藤花(
ja0292)に見立ててもらった着流し姿の星杜 焔(
ja5378)は、少し肌寒い窓辺から眼下の庭を見下ろしていた。太陽に照らされる梅は華やかな一方、月光に浮かび上がる梅は神秘的な気品を纏っている。
「梅が綺麗だねえ」
「本当に」
「陽がおちるとまた違う趣でいいねえ」
ふんわりと夢心地の焔が思い出すのは庭が造られた経緯の話だ。恋しい想いと約束を梅に託した持ち主。かの人物はいなくなってしまっても、残された梅は万民の心を和ませる。
「おじいさんの梅か……こうして受け継がれて大切にされるっていいねえ。こういう光景を守る為にも撃退士がんばりたいね」
戦って終わりと味気ない仕事が多い中で、守られたものを知れる機会は尊い。
大正モダンを意識させる梅柄の小袖を纏う藤花は、相づちを打ちながら室内を見回してあることを思いだした。
「そういえば我が家の家紋も梅鉢ですね。梅には縁があるようです」
「そうかもしれない。いつかお庭のあるお家に住める日が来たら、俺もなにか植えようかな? そうだね、縁を大事に梅を植えるのも……梅の実で美味しいものも作れるかなあ? 梅干しもいいけど、お酒もいいな〜。今年はとうとう成人だな〜」
楽しいことを考えていると、話題はぽんぽん弾んでいく。
「色々美味しい物が作れると思いますよ」
「美味しいものといえば……作ってきた梅ヶ枝餅そろそろ食べよう。確か荷物に」
旦那様の特製梅ヶ枝餅を一瞥して、藤花は腰を上げた。
「お茶をいれましょうか。偶にはゆっくりしていてください」
藤花は焙じ茶を湯飲みに注ぐ。古葉色の水面に、月が写り込んだ。
「そういえば……もうすぐ修学旅行だとか。最近は随分と忙しかったり、余裕がありませんでしたから……そちらも楽しめると良いですね」
庭の梅を見下ろしながら、ふふ、と微笑んだ。差し出されたお茶でほっこり一息。
「安心するお茶の味だね〜」
「きっと良いお茶なんでしょうね」
「藤花ちゃんが入れてくれたからだと思うよ〜」
淡い赤紫瞳が妻の瞳を射抜く。
ここ暫く家族の時間が多く、ふたりっきりの時間はなかった。焔が囁く。
「今年もどうかよろしくね」
『家族みんな元気に過ごせますように』
満開の梅花の狭間を彷徨い歩き、花の下から見上げる月のなんと美しいことか。
「昼間の風景も中々だったけど、やっぱ夜の方が風流って感じだよねー」
ひらりと後頭部で揺れる真っ赤なリボン。白い桜柄の咲く桜色地の着物に濃紫の袴。黒い編み上げブーツでサクサクと雪を踏みしめる嵯峨野 楓(
ja8257)は「うんうん、雅だねぇ」と上機嫌で庭を歩く。
傍らには隣室に泊まっている下一結衣香がいた。
『あ、結衣香ちゃーん。これから夜の散歩するんだけど一緒に行かない?』
デジカメを握りしめた女学生姿の嵯峨野は、そういって食後の結衣香を手招きした。
『被写体いた方が捻るしさっ』
何が、と問う程に結衣香も無知ではない。食事も風呂も済ませて暇を持てあました結衣香は嵯峨野の勧誘に二つ返事でのった。
樹木の根本から照らされ、ライトアップされる梅花園。
雪というのは不思議なもので、白銀の世界は淡い光を乱反射して煌めいていた。
「あー、降ってきた」
ふわり、ふわり、と舞う雪は掌で儚く溶ける。
「ライトアップが綺麗だし、雪降ってるのがまたいいよね。さって、資料集めも終わったしー、宿もどろっか。お茶漬けとか食べたくない? 出汁のやつ」
「いいね、つきあうよ!」
色気より食い気、花より団子。
ぱん、と気合いの入った音を立てて開かれた朱塗りの番傘をさして「相合傘して帰ろうぜー、風邪ひくよ」と嵯峨野は笑う。女二人、来た道を引き返して、食堂に向かう。
「次は桜で花見かなー」
「いいねー」
きゃいきゃいと賑やかな声が遠ざかっていく。
「昼の一服は格別だった」
シルヴァーノ・アシュリー(
jb0667)の言う一服とは煙草ではない。抹茶のことだ。
「茶道体験、美味しかったよね。梅にお琴に着物に抹茶。これぞ和、だったねえ」
「カフェオレボウルでも点てられるものだろうか。明日きいてみよう」
茶道体験で素直に習った作法は、和の調和を教えてくれた。ユーナミア・アシュリー(
jb0669)は渡り廊下で外を眺める。
「泊まりだとゆっくりできていいね。そうだ、昼間は二階席から見ていたんだし、着替えて一緒に庭へ降りてみよう! ほら、ライトアップされてる!」
「いいねぇ。せっかくの機会だし、二着目の衣装も借りたままだしな」
夜の庭を歩くのならば、とシルヴァーノ達は和装に着替えた。
貸衣装屋で赤地にするか黒地に赤柄にするか悩みつつ、結局二日レンタルということで二着借りてきた。
「巾着はこれ、かな。……よくお似合いだよ。素敵だな」
茶に縦縞の着物に墨色の和装コートを羽織り、中折れ帽を被ったシルヴァーノは麗しの双眸をすいっと細めた。しなやかな黒の着物には、以前、誕生日に贈った白いストールが良く映える。
ユーナミアは頬を染めつつ「シルは落ち着いた色が似合うね」と褒める。
「では行こうか。足元が暗いから気を付けてな」
シルヴァーノが手を差し出す。
ゆっくりとエスコートして庭へ降り立ち、闇を歩き出した。
「それにしても見事な枝振りだ」
夜桜にも負けない梅花の小径に吹き込む風は、ふんわりと梅花の香りを運んでくる。
「昼も素晴らしかったけれど灯りに照らされる様もいいな」
「うん。実は花びらの先端が丸だと梅で割れてると桜なんだ、って最近覚えた。でも、どっちも可愛くて綺麗で大好きだな。あと梅干し美味しいです」
「俺も梅昆布茶はうまいと思うよ」
ふいにユーナミアが、ぷるりと震えた。
部屋に戻って梅菓子とお茶を頂くことに決める。
春を待ち遠しく感じながら、手を繋ぐ二人は部屋へ戻った。
梅の花は、嫌いじゃない。
静かでいい。
風呂あがりのギィ・ダインスレイフ(
jb2636)は渡り廊下の長椅子に座して、ぼんやり庭を眺めていた。紗綾形紋の黒地の着物は、しとしとと肌を伝う水滴に濡れていく。
「なんだっけ……、……冬ごもり、今は春べと、咲くやこの花」
鋭利な唇は句を囀る。
廊下でくつろぐダインスレイフの横顔を、一人の娘が凝視していた。
陽向 木綿子(
jb7926)だ。
共に風呂上がりで偶然ばったりという奴だ。食後に「おやすみなさい」を言った後で、つまり会うなど想像していなかった分、何故か陽向の顔は赤く染まる。なんとなく浴衣が心許なくて、合わせ目をかきあわせた。
『先輩、着物姿もカッコいいな。色っぽいし……、ああ、何か恥ずかしい。意味ないのに身体念入りに洗っちゃったし。なんでこんな格好の時に……あああ』
淡い青地に白梅を散らした着物は変ではないはずだが、髪も整えていないし化粧も……
「って、先輩。髪、乾かして来なかったんですか?」
「ヒナ?」
頬や首筋を伝う水滴は、浴衣をぐっしょりとぬらしていく。
陽向に気づいた横顔は濡れた髪を摘んだ。
「……髪? 放っておけば乾くし。それより、ヒナ」
手招きされる。
すっかり恥ずかしさが吹き飛んだ陽向は、隣に座って膝に予備のタオルを置いた。
「拭きますからここに……」
ころん、とダインスレイフが頭を転がしてきた。
膝枕状態で「ヒナ、良い匂い、する」と眠そうな声を発する。
陽向は脱力しながら「……これでも拭けるから良いですけど」と濡れた髪をわしゃわしゃと拭き始めた。
「気持ち良いですか? 私の膝で良ければいつでも」
ダインスレイフが真上を向く。きろりと視線を動かして陽向を見上げ、頬に指を伸ばした。
「……って、あの。先輩。撫でられるとドキドキしちゃうんですが……」
つつー、と白い肌を辿る指。
「膝枕、ヒナも好きか?」
「はい?」
「今度俺もやってやるぞ」
うっかり髪を拭く手が止まった陽向は「せ、先輩のなら膝枕に限らず好……な、何でもないですっ」と慌てた声を発していた。
「夜の花も……また違った趣がありますね。大勢が足を運ぶわけです」
桜色地に花紋の付け下げ姿の樒 和紗(
jb6970)と藍色のアンサンブルを着た砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)も、ライトアップされた夜桜を眺めようと庭にきていた。
「そうだね。はい、手」
差し出された砂原の手を一瞥した樒は、素直に手を取った。
固まったのは砂原だ。
『え、あれ? ……素直に繋いでくれるとか、どうしちゃったの』
「子供の時みたい、だよね」
笑って動揺を押し殺す。樒は「まぁ偶には」と言ったきり押し黙ってしまった。
様子が変だ。砂原は『どうしたのかなー?』と考えつつ、梅花の庭へ樒を誘う。
二人が、この庭を訪れるのは実に一年ぶりだ。
『竜胆兄と一緒にこの梅花園を訪れてから、もう1年……早いものです』
『もう1年か、早いね。また和紗と一緒に来られて嬉しいけど……何かあったのかな』
考えることは殆ど似通っていた二人だが、沈黙が痛い。
大きな梅の古樹の前に到着して、ようやく樒が口を開いた。
「……はとこ離れできないのは、俺の方かもしれません。……何でもないです」
聞き捨ててくれと、いわんばかりの自嘲気味な横顔を見て砂原は頭を撫でた。
「……までは僕が、ね」
「何か?」
「ううん。来年も一緒に梅を見たいね、って思って」
さぁ見て回ろう、とばかりに砂原は手を引いた。華やかな梅花の横を通って、楽しそうにどれが見頃か教えてくれる。そんなささやかな気遣いを見せる砂原の笑顔を見ながら、樒は小声で「……花に誓います」と言った。微かな囁きは、雪風がさらっていく。
記憶の中の秋野=桜蓮・紫苑(
jb8416)は『おとまり!』と叫んで楽しそうにはしゃいでいた。
しかし今、百目鬼 揺籠(
jb8361)の目の前にいる少女は、青い顔で必死に布団を部屋の隅に寄せていた。
「……何してるんですかい、紫苑サン」
「だって、お、お札とか、かけじくとか、お面!」
天井の傍を仰ぎ見る。
翁面は笑っているけれど不気味で、小難しい漢字の羅列された札は立てかけられていて……何となく想像の翼を羽ばたかせたのだろうと察しはついた。
「ありゃあ、縁起物です。ったく、鬼っ子がお化け怖がってどうすんですかぃ」
苦笑しながら布団を遠ざけるのを手伝う。
自分が間に入れば恐怖も和らぐだろう。さて、どう寝かしつけたものか……と考えていた百目鬼の前で、紫苑が着物を引っ張り出し始めた。
「今度は何ですかぃ」
「どうめきのにーさん、庭がライトアップされてんです、着替えていきましょう」
確かに、夜の梅花園は人で賑わっていた。
花も美しい。
しかし子供は寝る時間……と良識の狭間で揺れつつ「少しだけですぜ」と了解した。紫苑は紅の矢絣の羽織、黄色地に紅梅の着物、紫ぼかしの刺繍袴に着替えて、髪をリボンで結ってもらう。一方、寝る気満々だった百目鬼は着物にインバネスコートを羽織った。
「どうめきのにーさん、どうですかぃ、いかすでしょ!」
「はいはい。ハイカラですよ」
「兄さんは何かうさんくさいですねぇ。なんて……ウソですよぅかっこいいですって」
可憐に笑う小顔は、部屋の恐怖を忘れたらしい。
部屋を出て、静まりかえった廊下を通り、草履を履いて庭に降り立つ。
「夜の梅も粋なもんですねぇ。けど紫苑サン、上ばっか見てたら転びますぜ」
「ころばねーですよ」
大きな手を引きながら、紫苑は鶯が囀るように梅花を語る。
「梅は凄いんですよぃ。寒い中ぎゅっと蕾をつけて、一番に咲くんですぜ!」
見上げた梅花の赤に見せられながら「梅酒ってどう作るんですかね」と無垢な質問が零れた、花については物知りとはいえ、まだ子供だ。けれど「お父さん好きかな」という呟きは気高くも柔らかい響きに聞こえる。
百目鬼は梅花を見た。
実るのは五月過ぎだろう。
「梅酒……作るのは難しくねぇはずですね。最近は店でも作り方の紙をおいてやすし、大人と一緒なら幾らでも。紫苑サンが作ったんなら美味しく飲むんじゃねぇですか」
さぁ、と百目鬼は紫苑の小柄な身体を引き寄せる。
「そろそろ戻って寝る時間ですぜ」
抱き上げて連れ帰りそうな気配に、ぷいっと顔を逸らす。
「まだ眠くねーですよ。もっと一緒に歩きやしょ、にーさん。まだむこうも花が!」
牡丹雪の中で凛と立つ紫苑を見て、ふ、と微笑んだ百目鬼は……殆ど無意識に紫苑の頭を撫でていた。絹糸のような髪を梳いて「はいはい」と小声を返した。
梅花園の一日は、多くの者に麗しの季節を運んだようである。