●
インターフォンは問題なく動作した。ぴんぽーん、と平和な音がこだまする。
やがて、「はい」というくぐもった声が聞こえてきた。
なるほど最近の怪談はこういうのにも対応しているのかと感心しつつ、小田切ルビィ(
ja0841)は最大限の愛嬌を込めてこう言った。
「突然失礼致します。私、民生委員の佐藤と申します」
丁寧になでつけられた黒髪、黒い虹彩、眼鏡と背広。いかにも『日本人』を体現したような出で立ちである。彼を知っている人間が見れば、毒物でも食ったのかと思わんばかりの姿だった。
返ってくるのは「はあ」という生返事。
「本日は折原源二さんのことでお伺いしたいことがあり、お邪魔させて頂きました。少しお時間よろしいでしょうか?」
少しの間の後、「どうぞ」と返ってくる。無視された場合の対応策も考えてはいたのだが、どうにも肩すかしだ。
ルビィは背筋を伸ばし、いかにもフレッシュな公務員『佐藤健二』の振る舞いで庭を歩いて行く。その途中、携帯を操作した。
『クリア』
無料通話ソフトを介して、そう仲間にメッセージを送る。
――さて。
一般家庭にしてはやけに多い植物の群れ。外から見て分かっていたことではあるが、いざこうして入ってみると、まるで血に飢えた食肉植物の群れのようにも思えるのであった。
うっすらと異臭がするのも、きっと気のせいではないのだろう。
「『佐藤さん』、突入だ」
「ノリノリね」
同じ頃、ミハイル・エッカート(
jb0544)とケイ・リヒャルト(
ja0004)は折原家の裏口に詰めていた。
塀を乗り越える程度、撃退士にとっては苦でもない。例えばこれが正面からでないと入れない類の結界なら厄介だが、どうやらそこまで高尚なものではないらしい。
あくまで認識を狂わせる程度。そうと分かっていれば、正気を保つのは訓練を積んだ覚醒者にはたやすいことだった。
「きゅうひとふた、突入」
「なんで自衛隊なのよ」
「似たようなものだろ?」
軽口を叩きながら、ミハイルは裏口のドアノブをいじる。カチャリと音がして錠が外れた。二人は気配を消して家の中に滑り込む。
表玄関はリビングのテーブルを挟んで向かい側、『佐藤健二』の話し声が聞こえてくる程度の距離だった。
――そうは言われましても、父は健在でして。
――今頃はお友達と公園にでもいるんじゃないかしら。義父は散歩が趣味でして。
そうと気をつけなければ、実に穏やかで真っ当な夫婦の会話だった。気をつけなければ、の話だ。
「いえいえ、今すぐという話ではないのです。ただ前もってお声かけして、いざという時にお電話頂ければということなのですよ」
『佐藤さん』はしれっと会話を繋ぐ。大した腹芸だと苦笑しながら二人は階段を上った。
折原家の二階は誰の気配もない。『さつき』と書かれた可愛らしいプレートが目の前の扉にぶら下がっているが、部屋の主はしっかりと不在のようだった。そうでなくては困る。平日の朝に自宅にいられては、この怪談は成り立たない。
「監視は?」
「――そこの部屋に一つ、反応はあるけど」
ケイが示したのはいかにも和室といった拵えの扉だった。事前の情報が確かなら、
「……要介護の爺さんってところか。外奪の野郎、監視のディアボロは飛ばしてないのかね」
「『聖女』絡みというのが先生の勘ぐりすぎならいいんだけど」
二人は足音も立てずに和室の扉を開け放つ。
――饐えた臭いがした。
●
「なるほど。参考になりました」
電話を置くと、ファーフナー(
jb7826)はごきりと首を鳴らした。
演じるのには慣れているが、それにしても電話調査は面倒だ。溜息の一つも吐きたくなる。
「何か成果が?」
折原家に突入したという警官が声を掛けてくる。ファーフナーは眉間に指を当てながら頷いた。
「まあ、事前情報の裏が取れた程度だがな……」
整理した情報を手帳に纏める。粗筋は見えてきた――が、あまりにも想像通り過ぎてうんざりしそうだった。
今回の作戦に当たって、三人でチームを分けることにした。片方は潜入調査班、もう片方は聞き込み調査班だ。
というのも、呈示された制限時間が二日だったからである。なるだけ時間は有効に使いたかった。
未唯曰く、『クレーマーに餌をやりたくない』。アンチ覚醒者が被害者になっている可能性がある以上、無駄に時間をかけるとやれ怠慢だ、やれ差別意識だと騒ぎ立てる可能性があるという。想像に難くなかった。
そこで一日目を捜査編、二日目を解決編とすることにしたのである。
うち、ファーフナーが担当したのは電話での聞き込みだった。現地警察に説明し、電話を借りて関係者に聞き込みをする。
撃退士の立場を明かし、折原一家の関係者に片っ端から電話をかけた。おざなりな対応をされることもあれば、真摯な対応のこともあり、あるいは与太話に付き合わされることもあった。
面倒ではあったが、雑な対応をするとどこで角が立つか分かったものではない。お陰で無駄な時間を食わされた。
ファーフナーは断りを入れて席を立つと、警察の喫煙所で紫煙を燻らせることにした。
花見月 レギ(
ja9841)と天宮 佳槻(
jb1989)は、住宅街周りで聞き込みを行うことにした。
こちらも撃退士として動いている。アンチ覚醒者団体の構成員とぶつかる可能性もあったが、その時はその時だと割切ることにした。どうせ警察が既に動いているのだ。むしろ『真面目に仕事してますよ』アピールになるだろう。
そして実際のところ、この地域での団体の評判は芳しくなかった。悪質な新興宗教と同一視されていて煙たがられていたのだ。実際、大差ない。
「そうなんですよー。デモはうるさいし、子供は泣くし、チラシはゴミになるし、なんか変な訪問販売までやってたし……」
「本当、迷惑よねえ」
「うちの子は久遠ヶ原の人に助けてもらったのよ? ごめんなさいねえ、あんな人がいて」
ようやく接触できた折原七瀬のママ友達は、どこか浮き足立っているように感じた。そしてものすごく協力的だった。
無理もない。エキゾチックダンディーと綺麗な美少年の組み合わせだ。刺激の薄い田舎町に住んでいるおばさまにしてみれば、アイドルの突撃レポート同然である。もっとも二人にその機微は理解出来なかったし、どうでもいいことでもある。
「それで、折原七瀬さんが団体に足を踏み入れたきっかけですが、何か心当たりはありませんか?」
佳槻が訊くと、おばさま達はああだこうだと議論を交わす。不毛な時間だったが、無碍にするわけにもいかない。ただ、友達という割には容赦が無いなという印象を受けた。七瀬についてある事ない事ほじくり返す。少々不憫に思うくらいだった。
やがて一段落したのか、思い出したように「ああ」とおばさまの一人が声を上げた。
「そうそう。あの着物のじゃない?」
「ああ、あのヘンテコな人ね」
「……着物?」
レギが訊ねると、おばさま達はうんうんと頷いた。
「えーっとねえ。今時着物に下駄履いて、キセル持ってる男の人がいたのよ。腰にはお祭りの仮面みたいなのひっつけて」
「あの人もすごいイケメンだったわよねえ」
「探偵って言ってたけど、折原さんと話し込んでたんですよ」
ざわ、と不意に風の音がした。
「それは、失踪したという探偵ではなく?」
「あの人は……えーっと誰が頼んだんだったかしら? とにかく別の人よ。結構前の話だし」
「それからかしらねえ。折原さんが来なくなったのって」
「そういえばそうだわね。浮気かと思ったもの。ああいうのが趣味なのかしらって」
ざわざわと葉擦れの音がする。脈絡もない突飛な話だ。だというのに、変な引っかかりを覚えた。
●
全員が揃ったのは午後八時過ぎだった。日没がついさっきだったことを思うと、本格的に夏である。
一行は住宅街から少し離れたビジネスホテルに宿を取ることにした。
「あー、あっちい……よくあんなもん着てられるよな、社会人」
スーツをクリーニングに出していたルビィが部屋に戻ってきた。
「おう、お疲れ佐藤さん」
「なかなか様になってたわよ、健二さん」
ミハイルとケイの軽口が迎える。「うるせー」とルビィはやる気無く応えた。
ウィッグとカラーコンタクトを外せば、銀髪紅眼の日本人離れした風貌である。現代の変装技術は凄まじい。とはいえ真夏日にあれこれ装着していたので、ルビィの気力は萎えていた。業務用スマイルをずっと貼り付けていた疲労もある。
「……ところで、きみたちも着替えたのか?」
冷蔵庫の瓶ジュースを開けるルビィを尻目に、レギは潜入組に訊ねた。ミハイルとケイも、朝とは違うカジュアルな格好をしている。それも普段は着なさそうな量産品だ。
「まあ、ね。急いで揃えたのよ」
「全く参ったぜ。外に出た瞬間アレだもんな。明日は全員覚悟しとけよ」
極めて憂鬱そうに、二人は言った。
「五月以外の三人は、もう人間じゃねえな」
全員が落ち着くと、ミハイルはそう切り出した。
「予想通りというわけか」
ファーフナーは重く呟く。資料の時点で出来るだけ可能性は洗い出していたが、これで要救助者は一人に絞られた。明日もそうである保証はどこにもない。
「両親は確実に冥界寄りだ。ヴァニタスってほど上等じゃなさそうだからディアボロだろ。なんていうか、アレだ。ボット」
ルビィは瓶のオレンジジュースをラッパ飲みすると、ふうと一息ついた。
「適当な言葉を返すだけの機械ってところだな」
「警官の証言と一致しますね。笑顔で対応されたんでしたか」
佳槻が言う間に、瓶は空になる。よほど喉が渇いていたらしい。
「『民生委員』だから笑顔で対応したんだろう。会話の無限ループって恐ろしいぜ」
「……ああ、そういうこと。お爺さんの能力を前提とした会話パターンしか組み込まれてないのかしらね」
ケイがふと思いついたように口を挟んだ。
「あの家の違和感の原因は源二よ。正しくは源二を素にしたディアボロかしら? ミハイル、写真」
「やれやれ、何度も見たいもんじゃねえんだがなあ」
ミハイルのスマホには、源二の部屋とおぼしき光景が映っている。
――率直に言って、惨い有様だった。
「……うん。虐待かな、これは」
レギの冷静な分析に、ミハイルは苦笑する。
「機械までは欺けないのか、欺く気が無いのかは知らんが、こんなデータは早々に処分したいね。スナッフを持ち歩く趣味はないんだ」
「これが肉眼で見るとこうじゃないのよね。普通の和室に見える。けど、『コレ』がおかしいというのは感じ取れるわ」
それ相応のスキルを使うまでもなく、撃退士なら見れば分かるとケイは言った。曰く、あの家に蔓延している違和感の原因は源二(コレ)だと。
「判断力を低下させるスキルか、そういう特性なのか、ともあれそういう『モノ』だな。非覚醒者なら判断力を落とされて、なあなあの内に家から追い出されるか、あるいは――ってところだろうな。ちなみに運動能力はなさそうだったから、破壊するのは簡単そうだぜ」
ミハイルはにやりと笑った。
その時、部屋の電話が鳴った。ルビィが電話を取ると、届け物があるとのことだった。
――果たして、覚醒者用の拘束具だった。未唯を通じての貸与申請が通ったらしい。
●
資料の時点で折原五月が覚醒者であると推測出来る要素はいくつかあった。そもそも一人だけ正常に生活している時点で異常なのだ。何かしらの特異性がないと話にならない。
乗り込んだ警察は認識障害を起こした。『家族が元気でやっている姿』を見せられたという。
しかし五月は『一人分の買い物』しかしていない。一人分のレトルト食品や生理用品、家族で使うには少なすぎる洗剤類、あまつさえ介護用品には一切手を付けていない。
すなわち『気づいている』のだ。その上で見ない振りをしている。現実逃避。それは、ファーフナーが担任教師から聴取した内容からも汲み取れる。
――最近、不自然なくらいに元気というか。前はもっと影のある子だったんですけど。
そして『気づいている』ということは、『幻覚が作用していない』ということでもある。乗り込んだ三人の覚醒者は、幻覚を見せられようとしていることに感づいた。つまり、五月も幻覚が通りづらい状態と考えられる。
勿論、穴の多い推測なのも事実だ。特に『精神の均衡を欠いているから』の一言で片付いてしまう。
だが、ここで折原夫妻、特に七瀬がアンチ覚醒者団体の一員だったという問題が浮上する。
つまり、簡単な話。
『娘が覚醒者である』という事実を、受け入れられなかったのではないか?
推測は推測でしかない。折原家はあの住宅街から浮いてしまっていた。聞き込み調査も空振り気味で、誰もあまり折原家に関心を持っていなかった。要するに村八分である。その事実が余計に先行きを暗澹とさせる。
――まさに現代社会の病巣だ。自分たちは今からそういったモノを解体するのだ。
外奪なら気まぐれでやりそうだとミハイルは言った。
悪魔故の悪趣味というのは、まあありそうな線だと思った。
●
今日、ナントカ委員の人が来たらしいです。
よく分かりませんが、なんだかおじいちゃんを病人扱いしていたらしいのです。
おじいちゃんはカラカラと笑っていました。そうです、こんなおじいちゃんを病気だとか保護だとか介護だとか放
なんか裏口の鍵も開いてたし、きっとそういう悪質な詐欺グループなんでしょう。
よくある話です。
気をつけないといけないよって、お父さんとお母さんに言っておきました。
五月は色んな事を知ってるねえと褒められました。
だから、気をつけないと。
私が頑張らないと、この家はもう、でもとっくに
この家を守るのは私なんだから。
大丈夫。
今日も明日も平和に行こう。
そのためには手段を選んでは
そうだ、庭のお手入れをしないと。
●
翌日。世間一般で言うところの休日。
折原家を監視しながら、ルビィは呟いた。
「佐藤さん、免職」
「公務員すら安定しないなんて、随分世知辛い話だな」
ミハイルはからかうように言ったが、ここに来ての作戦変更を余儀なくされるのは面倒だった。
当初は民生委員として五月に接触し、出来るだけ穏やかに真実を認識させた上でディアボロを討伐するつもりでいた。しかし想定外のアクシデントが発生したのである。
ウィッグが使い物にならなくなった。ついでに言えばスーツもだ。
きちんと洗ったにも関わらず、二度装着するのは躊躇われる有様に成り果てていたのである。
「ああ、ホント憂鬱」
ケイは髪を撫でながら独りごちる。女としては由々しき事態だ。しかしそれを優先してしまっては、撃退士としては失格だ。
「で、どうします?」
「そろそろ十時か。……動く気配がないな」
佳槻とファーフナーは折原家を伺う。しかし、時間が止まったかのようにひっそりとして動かない。
そして、五月が出てくる気配もない。
「……正攻法しかないんじゃないか?」
レギの呟きに溜息を吐いたのは誰だったか。誰でもいい。何であれ、これから暴き立てるのは憂鬱な真実だ。
いつまでも目を背けてはいられない。いずれ壊死する前に、膿は掻き出さねばならないのだ。
●
「どちら様ですか?」
庭に踏み込んだ一行を待っていたのは、どこか幼さの残る少女だった。
資料にあった顔と同じ。折原五月だ。
その手にはシャベルが握られている。園芸用の大きなものだ。それで花壇を耕していたのだろうが、それにしたって物騒な絵面である。
さて問題。かつての大戦で、対人戦で最も人を殺したとされる武器はなんでしょう?
「……撃退士だよ」
ミハイルは素直に答えることにした。五月の顔が見るからに引きつった。
「アンチ覚醒者団体の構成員を、『恒久の聖女』が狙っているという情報が入った。君の両親は、」
「知らない」
ぴしゃりと遮るように五月が言う。五月はシャベルを握った。土を耕すにしては、刃先が上を向いてしまっている。
「知らない知らない知らない、そんなの知らない」
「……まだ何も言ってないんだけどな」
ルビィが一歩前に出る。
「帰ってよ!」
五月は叫ぶと、スコップを振り上げて一直線に跳んできた。その姿が一瞬ぶれた。そのスコップには赤黒い、
すぱん、とスコップがあっけなく裂けた。
ルビィの手にはいつの間にか二メートルほどの大剣。ネフィリム鋼の前には、一般の武器など紙くずに等しく。
「きゃっ!」
ケイの鞭が手に残った柄の部分を弾き飛ばした。
そして地面から影が伸び、五月の身体を捕らえる。
「悪いな。こっちも仕事なんでね」
ミハイルは務めて冷徹にそう言うと、五月の両腕に拘束具をかけた。
「い、嫌ッ! 助けて!」
五月の悲鳴に呼応したように、ドンドンと家の中から大きな物音がする。やがて玄関の扉を強引にぶち破って、一縷だったものと七瀬だったものが現れた。
『だったもの』、だった。人としての面影は進行形でボロボロと崩れている。形が人であるというだけで、その中身はドロドロと流動的に崩れていた。
「一気にB級ホラーじゃない」
阻霊符を握りしめながらケイは嘲笑する。透過能力を防いだからこその破壊だろうが、ありきたりなシーンになってしまった。本性を暴いた途端に襲いかかってくる化け物というのは、なんというか王道だが芸がない。確かにルビィの言った『ボット』なのだろう。しかも、至極単純なアルゴリズムで動いている。
「い、嫌、嫌ァッ!」
しかし、五月は絹を裂いたような悲鳴を上げた。
「見るんじゃない!」
「あ、ああ、おとうさ、おかあ、さ」
二体のディアボロは、何事か言葉らしきものを発した。意味をなさない音の羅列。
「わた、私は、私はね」
五月が何かを言おうとした瞬間、不意に周囲が凍り付いた。そして五月はそのまま昏倒する。
「……うん。いいんじゃないか、首筋を殴るよりも」
レギの賛辞に、ファーフナーはふんと鼻を鳴らした。
そして佳槻は瞬時に陣を組み、五月の周囲に展開させる。
「これでしばらくは安泰かと」
「オーケイ、ナイスアシストだ」
ミハイルはぐっとサムズアップをすると、銃を構えた。
「それじゃ、いい加減夢から覚まさせてやらないとな」
ルビィはぐるりと大剣を回した。キラキラと装飾が朝日に輝いた。
●
一縷と七瀬のディアボロは、シンプルすぎるほどシンプルな性能を持っていた。
一縷は素直に格闘術で、七瀬は素直に遠距離からの魔法攻撃を打ち込んでくる。ひねりがないと言えばそうだが、しかし。
「よ、っと!……おおう!?」
一縷の右ストレートをルビィは体捌きで躱す――かと思いきや、そこに七瀬の打ち出した火球が迫っていた。
あわや命中という刹那、薄いアウルの盾が火球に被さる。着弾こそしたが、だいぶ威力が減衰していた。ダメージらしいダメージはなさそうだ。
今のは陰陽師の技、となると、
「サンキュー佳槻!」
「何度も使えるものではありませんから。前を見てください」
佳槻は素っ気なく言うと、次の護符を手に取った。既に夫婦は次の行動に入っている。
シンプル故に、純粋に強い。そういう設計のようだった。
「……ここは俺達に任せて欲しい。家の中を誰か」
レギは魔力の塊を七瀬にぶつけた。七瀬がゆらりとレギの方に狙いを変える。――挑発成功だ。
「応援が来ないとも限らないわ。速攻で一気に片付けるわよ」
ルビィに振り下ろされた拳を、ケイは的確に撃ち抜いていく。コンビネーションが完成しているお陰で、まだ有効打らしいものは一撃ももらっていない。そしてこの四人でこの場は回っていた。
「オーケイ! ファーフナー、索敵頼む」
「了解した。――家の中には、一体だな」
ミハイルとファーフナーは、隙を突いて家の中に突入した。
折原家の中は、既にほころびを見せ始めていた。
白い壁紙は薄汚れ。
無造作にぶちまけられた芳香剤の液体。
キッチンはレトルトのゴミがうずたかく積まれ。
何より象徴的な、赤黒い汚れの数々。
フローリングには、いくつもいくつも傷がついている。
『健全な一般家庭』にノイズがかかって、『怪奇現象の現場』が見え始めている。
ミハイルもファーフナーも、走りながらなんとなく理解した。
これをやったのは。
『神隠し』とは。
『実行犯』は。
全速力で駆け抜けて、階段を上り、和室の扉を開け放つ。
饐えた匂いがした。いや、そんな生温いものではなく、いくつもの腐臭が混ざり合った、不快極まりない空間だった。
集る蛆、腐った畳、飛び交う蝿、汚れた寝具、うち捨てられた介護用品、片付けられていない汚物、顔の上に載せられた枕。
その中心に、このノイズの正体がある。
夫婦以上にドロドロな、人の形を保っているだけの液体。それが、折原源二のなれの果てだった。
一切の躊躇をせず、二人は同時に拳銃を抜き、撃ち抜いた。
●
報告書。
折原五月、アウル適正有り。ナイトウォーカーへの適正あり。
ただし多大なストレスとショックによる不安定な状態が続いているため、しばらくは静養が必要。
心神喪失状態にあったとして弁護に当たる。
●
「……お疲れ。災難だったな」
数日後、未唯はねぎらうようにそう言った。
「本当、災難だったわ。……まだ臭う気がする」
ケイは不愉快そうに自らの髪を撫でた。
「まあ、あれだけの死臭だからな……」
未唯は頭痛を堪えるように眉間を抑えた。どうやら事後処理に追われているらしい。
「……で、結局どうなってたんだ」
ミハイルの質問に、未唯は肩を竦めた。
「……二十人余りが『埋められていた』。ディアボロの食料分を差し引いても、まあ……」
「……うん。犯罪白書にとんでもない記録が載ったんじゃないか」
「は、は、は。ほんとどうしてくれような、これ」
レギの感想に、未唯は乾いた笑いを零した。
源二を退治した瞬間、全員を襲ったのは凄まじい腐臭だった。
『幻想』が剥げた瞬間、『現実』が一瞬にしてやってくる。その結果、折原家の敷地が溜め込んでいた臭気が一気に開放されたのだ。
街は一瞬にして異臭騒ぎでパニックになり、サイレンが鳴り響く異常事態となったのだ。
そしてその渦中にいた撃退士達は、その異臭をモロに食らうハメになった。
なんともはや、災難としか言いようがない。
「いや、流石に俺もアレはビビった。見慣れない花だと思ったら、」
「それ以上はやめておけ」
ルビィの言葉をファーフナーが遮る。花壇、肥料、桜の木の下には。猟奇趣味は程々に。
「それで、折原五月はどうなるんですか」
佳槻は淡々と訊ねる。未唯は唸った。
「……なんとも言えん。心神喪失状態での犯行、というのはあるが、数が数だ。そこに天魔まで絡んできているからな」
とりあえず、しばらくは入院生活らしい。
「それじゃ、報酬はこの通りに。……お疲れ様」
未唯はふらふらと教室を出て行った。
●
ケイはなんとなく屋上に来ていた。そして歌を歌う。
――ふと、拍手の音が聞こえた。
振り返ると、ミハイルがいつの間にかそこにいた。
「見事なもんだな」
「盗み聞きなんて趣味が悪いわよ」
「いや、公共の場所で歌ってるんだから盗むも何もないだろ――それで、鎮魂歌か。今のは」
ケイは答えない。けれど、それが肯定であるとミハイルは見なした。
――時間も距離も離れてしまったけれど、せめて届きますように。
夏の屋上に温い風が吹き抜ける。停滞した熱気は、どうにもやりきれない気持ちを代弁しているような気がした。
ミハイルは夢想する。
五月がいつか、この学園に来られますように。そして願わくば、彼女の望んだ『家族』を得られますように。
自分がそうだったように。
ファーフナーとレギは、なんとなく食堂で時間を潰していた。
「愛とは、なんだろうね」
不意にレギがそんなことを言う。ファーフナーは素っ気なく答えた。
「さてな」
「俺には、家族も愛も、分からない」
「……ああ。俺もだ」
今回の事件。一人の幼い少女が起こした、大量殺戮事件。
その動機にあるのは、家族愛。
――二人には、どこまでも縁遠いものだった。
「おう、佳槻」
「……なんですか」
「おいおい、前から思ってたけど素っ気ねえなあお前」
「放っておいてください」
ルビィは処置無し、と肩を竦める。いまいちコイツはよく分からん。
無言の時間が過ぎる。と、不意に佳槻が口を開いた。
「家族って、なんでしょうね?」
「なんだ藪から棒に」
「いえ。何か話題を提供した方がいいのかと思っただけです」
「はあ」
ルビィは少し考えた。少しだけ考えて、あっけらかんと答えた。
「わっかんね」
「そうですか」
「ただ、そうだな。気の置けない付き合い同士、それも一つの家族なんじゃねえかってのは思う」
「……そうですか」
……一瞬だけ、佳槻が肩を落としたように見えたのは気のせいだろうか?
ともあれ、今回の事件は色々としこりを残したが、なんとか解決をした。
未唯の心配していたようなアンチ覚醒者のクレームもないようだし、一件落着と言っていいのだろう。
おそらくは。
●
事件が解決した直後のことである。
野次馬に混じって、男はそこにいた。
男は時代錯誤な着物姿に下駄を履き、キセルまで持っている。
細い顔立ちに、眼鏡の下には細い目。長い黒髪をうなじで纏め、どことなく狐を連想させる顔立ちだった。その腰には狐面がぶら下がっている。どうやら、狐がアイデンティティらしい。
撃退士達が折原家から出てくるのを確認すると、男はそっと野次馬から抜け出した。
そして、携帯電話をかける。その番号は、
「ああ、もしもし外奪君? うん、こっちはつつがなく終了したよ。愛すべき後輩達は、きっちりとやってくれたらしい」
男はにこやかに微笑みながら、そんな聞き捨てならないことを口にした。
「え? いやいや、別にいいんだよ。この場をセッティングした時点で、私のやることは終わってる」
男は上機嫌に通話を続ける。
「余興?……まあいいか。うん、君がそう思うならそれでいいよ。ともあれ、君から教えてもらった技術はなんとか私にも形に出来そうだ。うん、うん。それじゃあ、またね」
男は携帯を仕舞うと、ふらふらと歩き出した。その足取りは軽い。
「……さて、と。しかし二十人強程度か。もっと精進しないといけないなあ」
男はにこりと爽やかに笑むと、そのままふらふらと姿を消した。