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なだらかなハイキングコースは、町を見下ろせる程度には高度があった。
「すごいね、マンションの裏が森になってるよ」
桜 椛(
jb7999)は感嘆を込めて言った。
「その対面には昭和があるぜ」
三鷹 夜月(
jc0153)はわざとらしく手で庇を作った。
「まるで漂着した宇宙船ですの」
ちぐはぐ、と紅 鬼姫(
ja0444)は独りごちる。
「お前らは昭和には生まれていないだろう」
いや、この中で昭和を経験したのは自分だけだろうか。ファーフナー(
jb7826)は眼下の町を、何もない田舎だと評する。
蒼輝輪(トンネル)を抜けるとそこは田舎だった。
広がる田園、鬱蒼と茂る雑木林、崩落寸前の木造建築。新築マンションや申し訳程度のショッピングモールが逆に風景から浮いている、まごう事なきド田舎。千疋狼なんて時代錯誤なものが現れるには、確かにお似合いである。
「……さて、こんなところでいいかな」
龍崎海(
ja0565)がそう言うと、一行はハイキングコースに設置された東屋に腰を下ろした。この辺りが大体中心部だろうと辺りを付ける。
「誘い出すのはここ、ということですか?」
仁良井 叶伊(
ja0618)の確認に、海は頷く。
今回は海が一番経験豊富ということで、暫定的なリーダーとして動くことになったのだ。こほん、と海は咳払いをする。
「よし、それじゃあ作戦前に最後の確認をしよう」
東屋の中央には古びた木製の机がある。物を広げるには十分な大きさだ。
各自、用意した物を広げた。
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缶ビール、日本酒の一升瓶、魚の干物。
傍から見れば、すわ日中からの宴会かと思うような光景が広がっていた。しかも半数が明らかに未成年である。警察に話を通していなければ危なかったかもなあ、と海は思った。
「というか、何故にくさやなんですの」
鬼姫は口元を抑えながら椛を睨め付ける。きちんと包装されてはいるが、それでも饐えた匂いを放っているような錯覚がした。
「えっと、強い匂いも嫌がるかなって」
「そりゃ嫌がるだろうけどよ。犬だし」
夜月はくさやのパウチを摘む。防臭されているはずなのだが、やはりオーラがある。
「臭い攻めにするのはいいけど、やりすぎて逃げられても困りますね」
「そうだね。緊急回避の手段として考えておこう」
叶伊と海の言葉に、椛は鞄から出そうとしてた芳香剤を引っ込める。張り切ってあれこれ揃えたのだが……。
「で。この東屋に誘い出して叩く、でいいんだな」
ファーフナーが仕切り直すように言う。
東屋には三角の屋根が付いている。高さとしてはまずまずだ。周囲の木々と大差ない。
「紅さん、ファーフナーさん、桜さんが空から。俺、仁良井君、三鷹さんが歩いて相手を誘い出す」
「確認しておくけど、素面で、だよな?」
「もちろん。助かるのが目的じゃないからね」
夜月の言葉に海は頷く。鬼姫は薄く笑った。
「仕事中に飲酒しようなんて不埒な真似は感心しませんの」
「違えよ」
むしろ逆だ、飲みたくない。細かい事情を説明すると話が脱線するので、夜月はそれ以上続けない。
「確認。紅さん、まだ犠牲者が出ていないのは『飲酒していたから』でいい?」
「ええ。他の被害者の方にも伺いましたけど、どいつもこいつも飲酒した状態で襲われていますの」
「とんだ飲んだくれの町だな」
そのくらいしか娯楽がないのだろう、とファーフナーは独りごちる。それにしてもそれだけの条件で犠牲者ゼロとは、出来損ないの天魔もいたものだ。
「それと面白いことも聞けましたの。逃げた野犬は一体だけだったという証言が複数。あれだけいた野犬が影も形もなかった、とのことですの」
「ということは、本体は一体。分身する特性、という推測でいいみたいですね」
「そうだね、仁良井君の読み通りかな」
叶伊は学園の資料の時点でそれを提案していた。どうやら的を射ていたらしい。
「酒の臭いで能力も制限されるっつーなら、だいぶ楽になるんだけどな」
夜月は一升瓶を手に取る。用途を考慮して安物を用意した。
「むしろ楽すぎてただの野犬狩りになるかもな」
「ファーフナーさん、余裕だねえ」
そう言うと、椛は鞄から発煙筒を取り出す。一同は首を傾げた。
「桜さん、これは?」
「えっとね。道をはぐれるようなことがあっても戻ってこられるように、焚いておこうと思うんだ」
ふむ、と一同は辺りを見回した。……確かに森が鬱蒼としているので、土地勘のない自分たちでは迷いそうだ。
海はしばらく考えた後、
「……そうだね、万一には備えないと。消防と警察には使用許可を取っておこう。目印はこの東屋。もし襲われて道を外れてしまった場合は、これの煙を目印に」
やった、と椛は笑った。折角色々用意したのだ。一つくらいはちゃんと役に立ってもらわないと。
夜を待った。
千疋狼の目撃証言は夜が大多数だった。昼間に襲われた例もないではなかったが(よって解決しなければハイキングも中止となる)、そこは狼が夜行性という『習性』なのだろう。
午後九時。とっぷりと日は暮れ、町の灯りはほとんどない。風の音、虫の声、蛙の声、水際には蛍、そして満天の星空。田舎だからこその情緒だった。
無論、それを満喫している場合ではない。
「それじゃあ、作戦開始」
海の言葉に合わせて、椛は発煙筒を起動する。もくもくと赤い煙が立ち上り、この暗さでも認識できる。
一同は薄暗いハイキングコースを探索し始めた。
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『それ』は腹を空かせていた。
いつから空かせているのかは既に記憶にない。元より時間の概念はなく、そして記憶が失せるほど腹を空かせるということは、本来なら死を意味する。既に本来の生命活動からは大きく外れていた。それを嘆く知性も元よりない。
ただ、ひたすら腹が空いた。
忌まわしいあの臭い。鼻腔を刺すあの臭い。あれさえなければ、この腹を一杯に満たせるのに。
『ヒトを食らう』。『それ』に定義された行動原理はそれだけだった。それ以外の動物的本能は削除され、生態系から大きく逸脱した存在としてここにある。故に、肥沃な森の中にある栄養源には目もくれない。果実も、野草も、小動物も、小鳥も。かつて貪り付いたそれらが、今は認識の外にある。
ただ、ひたすらヒトの肉が欲しい。『それ』はもはや、それだけの概念だった。
だから、聴覚と嗅覚が情報を拾ったその瞬間、『それ』は全速力で駆け出した。
人間の気配。多少の誤差はあるものの、十分『それ』の捕食対象。
自身でも意識しないうちに、『それ』の身体は幾重にもぶれる。
そうして『それ』は、漸く最後となる稼働を開始した。
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椛は思った。哀れなほどに単純だと。
――千疋狼がモデルなら、実は襲われた男性と何かしら関わりがあるのではと思った。
その推測は早々に否定された。男は思い当たる節は何一つないと言った。そもそも犬嫌い、今回の件でさらに嫌いになったと答えたのだ。少し寂しい気分になったことを覚えている。
しかし。目の前の『敵』は、なんだかそれ以上に哀れなものに思えた。
「あらあら。鳥の一羽も仕留められない狼なんて、聞いたこともありませんの」
遭遇したのは先行していた鬼姫だった。
偵察の意味も込めて木の上を跳躍して移動していたのだが、いきなり足下からわらわらと黒い狼の群れが湧いてきた。そして一回り大きい狼がそれを踏みつけて駆け上ってくる。組体操を連想する。その体型でよくもそんな器用なと、少しだけ感心した。
だが所詮は大道芸だ。鬼姫はひらりと身を躱すと、隣の枝に飛び移る。群れは慌てて隣の枝に群がり始めるが、そんな予備動作をしている間に、鬼姫はどんどん先へ進んでしまう。
「知能は畜生程度、目先のことしか見えていないようですの。鬼姫はもう少し上から観察していますの」
「了解。後は俺たちで引きつける」
鬼姫はふわっと夜空に浮き上がる。同様に上空から状況を観察していた椛とファーフナーもそれに倣う。敵の性能を上から見極めるのが三人の役割だった。
狼の群れは木の上で吠え立てていたが、やがて地上の三人に気がついたのだろう。あっさりと標的を切り替えてきた。
「ヒュウ、来た来た」
夜月は口笛を吹いて、上機嫌そうにライフルを構える。その表情はまさに狩人のそれだ。
海は阻霊符を起動しながら、年頃の少女がそういう顔をするのは如何な物だろうかと苦笑する。
「一般人でも逃げ切れる相手だ。俺達なら余裕だろう」
それは身体能力のことだけでなく、アレが遠距離攻撃を持たないということでもあった。
「遠距離攻撃で牽制しながら誘導する。仁良井君、しっかり観察してくれ」
「了解です」
叶伊は『目』に集中した。やがて昼間と変わらない視界を確保する。彼の目には、それこそ千もいそうな狼の群れがハッキリ映っていた。
「討伐開始だ!」
海は魔法書を開くと、群れに向かって大雑把に攻撃を開始した。
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撃退士にとっては散歩のような気軽さの逃走。
海は群れに岩を落とし、夜月は軽快なテンポで銃弾を発射する。狙いは適当。相手は道を埋め尽くすほどの数なのだから、そんな調子でも何かしら命中する。
しかし。
「消えた傍から再生していますね。見た感じダメージのフィードバックもないようです」
叶伊は目立ったダメージを確認できなかった。
「本体以外は外れってことか。厄介だな」
「いーじゃん、メイン能力くらいは多少壊れてねーとつまんねーぜ?」
ゲラゲラ笑いながら夜月は銃を連射する。鄙びた田舎には似つかわしくない発砲音。本当、警察と消防に話を通しておいて良かったと海は思った。
上空の三人は群れの動きを観察していた。叶伊のように『夜目』が効くわけではないが、それでもある程度は把握出来る。
結論として。
「統率は取れている。けれど戦略性は皆無ですの」
「なんか、どれも似たり寄ったりだね」
群れという『一つ』が三人を追っている、そんな印象を受けた。
これが複数の個体ならそれぞれの個性が出る。知性があるなら作戦が生まれる。しかしアレからはそういった諸々を一切感じない。同じパターンを大多数で繰り返している。ただそれだけなのだ。
「所詮、ただの分身か。それを操る頭もないようだな」
「なんとも身に過ぎた能力ですの」
やがて集合場所の東屋に辿り着く。発煙筒の煙が夜空に吸い込まれていく。三人は各々の武器を構えた。
「……じゃあ、一気にやっちゃおうか!」
椛は舞台用のよく通る声で、景気づけのように叫んだ。
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結末は、それこそ伝承のようにあっけなかった。
東屋に到着すると、海は翼を広げ、叶伊と夜月を屋根の上に引っ張り上げた。
屋根は周囲の木と同じくらいの高さがある。狼の群れは当然のように自分たちの身体で梯子を組み上げ、一回り大きな個体がこれまた愚直にそれを駆け上がる。
叶伊はそれにペイントボールを放り投げた。防犯用のカラーボールに、アルコール臭がきつい安物の香水を混ぜ込んだものだ。蛍光塗料が犬の鼻先にぶちまけられ、目に見えて怯む。合わせて東屋を取り囲んでいた群れが、蜃気楼のように揺らめいた。
海は意識を集中する。生命反応は――一つだけ。どうやら、目の前のコレが本体のようだ。
キャインと情けない声を上げて、本体はとって返す。逃げるつもりだろう。『千疋狼』ならこれで一件落着だ。
だが、これは御伽噺ではなく。
行く手を阻むように、さながら隕石のように鬼姫の刀が地面に突き立てられた。合わせて周囲の地面が隆起する。打ち上げられた砂塵は、分身を悉く消し去っていく。
怯んだ隙を夜月は見逃さなかった。嬉々として駆け抜け、二本の小太刀で刻みつける。その際に本体の『影』がその場に縫い止められる。
そこに降る銃弾の嵐。ファーフナーの射撃によって、本体が膝を突く。
最後に、椛が飛んだ。身の丈よりも長い槍の穂先が、狼の首を刎ね飛ばす。その軌跡は、まるで流星のようだった。
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「お疲れ。どうだった、狼退治は」
一行が学園に戻ってくると、依頼を担当した女性教諭が迎えに立っていた。
「……また雑魚。先生、もう少し歯ごたえのある依頼はありませんの?」
鬼姫はつまらなさそうな顔をした。余談だが、鬼姫は先日も『怪談じみた』依頼をこの教師から受けたのだ。その結果、正体見たり枯れ尾花である。
「そう言うな紅。お前達のお陰で、未来ある少年少女の楽しみはとりあえず守られたんだから」
「そうだよ。ハイキングは無事に行われるんでしょ?」
椛が訊くと、教師は頷いた。
「ああ。多少の日程調整は必要だそうだが、問題ないとのことだ」
「何よりですね。まさか小学生に飲酒を勧めるわけにもいきませんし」
海は冗談めかして笑った。今回が平和な結果に終わったのは偏にアルコールのお陰だ。もし何の事前情報もなしにハイキングが始まっていたら。いや、気まぐれにノンアルコールの散歩があったのなら。それを思うと心底ほっとする。
「あんな田舎だしなあ……他に娯楽ねーだろうし」
現地では控えていた本音を、夜月はようやく吐き出した。似たような田舎出身としてよく分かるのだ。ファーフナーは全くだ、と頷いて同意する。
「そうですか? 自然が多くて修業しがいがある土地だと思いましたが」
叶伊の多少ズレた発言に、女性教諭はぷっと吹き出した。
「いや、なんとも前向きで面白い評価だ。……さてと、報告と手続きだけ済ませてしまおう」
今回の顛末を纏めていると、不意に女性教諭が口にした。
「ところでお前達。買ったとかいう酒類、どうした」
あ、と声が上がった。
「そういえば、使ってないな」
海が鞄から缶ビールを取り出す。当たり前だが、とっくに温くなっていた。
「ペイントボール一発であれだけ効果覿面だったもんなあ……」
夜月も鞄から一升瓶を取り出す。一発殴りつけてやろうかと考えていたのに、すっかり無駄になってしまった。
「あと。くさやもあるんだろう?」
「ふえ?……あ、はい」
言われて思いだした、とばかりに椛は鞄からくさやのパウチを取り出す。
女性教諭はそれらを見て、少し考えた。そして、言った。
「……よし。それ全部買い取ろう。名目上は没収」
「え、いいんですか?」
海は意外、と目を丸くした。
「飲み会オチにするには、未成年が混じっているからな」
「明らかな安酒に、ぬるいビールだぞ?」
怪訝そうなファーフナーに、女性教諭は笑う。
「なに、カクテルや料理、掃除用具。使い道は色々ある。それに」
くさやのパウチを取り上げて、女性教諭はにんまりとした。
「くさやは好物だから」
その後、とある寮から異臭騒ぎがしたという話が持ち上がったが、関連性は定かではない。
ともあれ、今回はこれにて一件落着。