●
麗かな春の日差しが降り注ぐ。温んだ風が吹き抜けると、温泉の匂いが鼻腔を擽った。
さらさらと流れる水の音、人々の喧噪、木々のざわめき。有馬は穏やかな空気に包まれている。
より熾烈を極める天魔との抗争の日々を思えば、さながら異世界のようだった。
神谷春樹(
jb7335)は荷物を降ろすと早々に街に降りた。商店街を抜けると、一見古びた民家にずらっと行列が出来ていた。
「評判通りだなあ」
苦笑して最後尾に付く。すると、「ん?」と前に並んでいた女性が振り返った。
「おや、もしかして久遠ヶ原の?」
大炊御門 菫(
ja0436)である。春樹は一瞬戸惑ったが、出発前の説明会で見かけたことを思い出した。
「そうです……あれ、一緒に来てましたっけ?」
そういえば行きの電車では見かけなかったと首を傾げたが、菫は
「いや、私は別便だ。芦屋から歩いてきた」
そんなことをしれっと言った。芦屋から有馬までは六甲山を越えなければならず、言うまでもなく厳しい道のりである。
「アクティブレストだよ。動いた方が身体は休まる」
「……なるほど」
まあ撃退士の身体能力ならば、ハイキングの範疇に収まると言えばそうなのだが。
「しかし並ぶな。むう、やはりコロッケはもう一つあってもよかったか」
ぐう、と菫の腹の虫が鳴った。消費カロリーはまた別問題、ということで一つ。
……二人がお目当てにありつけたのは、三十分以上並んでの末だった。
「美味しかったですね」
「ああ、薫り高かった。素晴らしい」
築百年以上、古びた民家のように見えるこの店の正体は蕎麦屋である。
「しかし、塩を付けるというのはなかなかに珍しい」
「そうですね。それで値段相応って思わせるんだから、名店というのも頷けます」
二人が頼んだのは普通の盛りそばだ。しかしそれでも驚くなかれ、お値段は千久遠を下らない。
この店はいわゆる『星付き』である。薫り高い十割蕎麦を贅沢に楽しめる、有馬でも屈指の名店だ。
並んだ甲斐はあったと春樹は大きな満足感を覚えながら、軽く右手を挙げた。
「それじゃあ、またホテルで」
「うむ。では私はデザートと洒落込もう」
言うが早いか、菫はそのまま商店街に吸い込まれていった。
……敢えて何も考えず、春樹は逆方向となる寺社仏閣通りへ歩を進めた。
「おお、菫さんではないか!」
菫がアイスを見繕っていると、不意に声を掛けられた。
振り返ると浴衣姿のギィネシアヌ(
ja5565)が立っていた。髪がしっとり濡れているので、どうやらもう一風呂浴びてきたらしい。
「ギィネシアヌか。満喫しているようで何よりだ」
「菫さんもな……ん? そのトッピングは何だ?」
手渡されたアイスには白い煎餅が刺さっている。薄くぱりっとした拵えだ。
「炭酸煎餅だ」
「炭酸……しゅわーっとなるのか」
「そうではない。炭酸泉の銀泉を原料に使っているからだ」
「え、温泉のお湯って食べられるのか……?」
あーだこーだと会話が何周かループし、最終的に二人でアイスを美味しく頂くことで打ち止めとなった。
「そうだ。これも銀泉を使っている名物でな」
「おー!……ゲフッ! 炭酸きっつ!」
『てっぽう水』と呼ばれる地サイダーもプラスして、二人は有馬の銘菓を満喫することとなった。
――たくさん食べれば菫さんみたく大きくなれるかな?
ギィネシアヌはちらりとそんなことを考えた。
●
夕食会はホテルのレストランの一角を貸し切る形で行われた。
和牛コース、魚介コース、精進料理コースの三つがあり、各々最初に申請したコースが運ばれてくる形になっている。
「どうしてこうなった」
小田切ルビィ(
ja0841)は目の前の小鉢を虚ろな目で見つめていた。
胡麻豆腐。それはいい。きっと美味しいのだろう。だが、そういうことではなくて、
「肉や魚なんてどこでも食べられるでしょ。精進料理なんて早々機会がないわよ?」
しれっと言いながら巫 聖羅(
ja3916)は漬け物を口に運ぶ。絶妙な塩加減の牛蒡だ。こりこりした食感が心地よい。
「何より美容と健康は撃退士には大事よね」
「それお前の都合じゃねーか! なんで俺達まで合わせなきゃならんのだ!」
ルビィは吼えた。肉だ。肉が食べたかったのに! 聖羅にいつの間にか上書きされていたッ!
「ダンナもなんか言ってくれよ!」
「……騒がしいぞ小田切。これはこれで味わい深い」
ファーフナー(
jb7826)はお吸い物をゆっくりと口に含んだ。主張しすぎず、それでいて芳醇な風味が鼻腔を抜けていく。
「くそう、くそう……」
「あらあら、ではお一ついかがですか?」
見かねたのか、和牛コースの木嶋香里(
jb7748)が丁寧に切り分けたステーキを小皿に乗せてルビィに差し出した。すごい肉厚のミディアムレアだ。思わずごくりと喉が鳴る。
「……あ、いやいや。それは申し訳ねえよ」
「いいんですよ。こんなに食べられませんから♪」
却って断るのも失礼に思える程の笑顔だった。聖羅は聖羅でジト目を向けてくるし、ここは、
「……それじゃ、お言葉に甘えて」
たった一口。それだけで圧倒的な味の奔流。肉厚なステーキは、しかしほろほろと口の中でとろけていく。涙が出そうだった。
「ふっくらしてる……」
浪風 悠人(
ja3452)は鰆の塩焼きにすっと箸を入れた。驚くほど簡単に身がほぐれていく。まるで綿飴のようだ。
一口含んで噛みしめる。魚の旨みと脂がぎゅっと弾けた。
「塩のタイミング……? あ、皮もしっかり包丁が入ってるな。これで火の通りを良くしているのか……」
身に刻み込むように独り言つ。添えられた日本酒がこれまた合うのだが、あまり酔うわけにはいかない。
そうこうしているうちにホタテ貝のステーキなるものが運ばれてきた。しっかり火の通った立派なホタテが貝殻の上に乗っている。見た目にもお洒落だし、随分肉厚で食べ応えがある。
「酒と醤油……三つ葉で風味を整えて……」
どうすればこの味に近づけるだろう。イメージトレーニングを続けながら、悠人はじっくりと味わう。
偏に来られなかった妻のためだ。どうしても都合が付かなかったのである。
折角の機会なのに残念なことになった。だからせめて、この味だけでも家に持ち帰りたいと思ったのだ。
……最近は調子も悪いし、それならせめて精一杯のびのびしよう。
ああ、美味しい。
●
その後はホールを貸し切ってカラオケパーティーを行うことになっていた。
ミラーボールはやや古めかしい印象を受けたが、それでもカラオケマシンは最新である。それに併設されたバーカウンターが何より大人の雰囲気を醸し出していた。
ルビィが高らかに歌い上げる。かなりのハイトーンを難なく乗り越え、さらにビブラートを効かせる。定番の『ぐるぐるダンス』がばっちり決まり、拍手喝采を浴びていた。
続く聖羅は定番のアイドルソングをちょっとした振り付けと共に可愛らしく。するとマーメイドラインの着物ドレスを纏った香里が乱入し、ちょっとしたミニライブと化した。
そんな様子をファーフナーはバーから眺めていた。手元にはモヒート。グラスの中には爽やかな緑色が浮いている。
「いいからダンナも歌おうぜ!」
「そうよおじさま、ここまで来たなら後は流れに任せて、よ」
小田切兄妹にはさんざん参加をせがまれたが、そもそもファーフナーは歌を知らない。協議の結果、見学で妥協した。
……そもそも、以前の自分だったらこの場にすらいなかったろうか。これは一時の気の迷いか、それとも。
バーテンダーに勧められたモヒートを呷る。ラムとミントの爽やかな辛みが喉元を駆け抜けた。
カラオケ大会は少しずつミニライブの様相を呈してきた。良い感じに空気が温まって、ついでに酒も回っているのである。
「もっとアゲてこーッ! きさカマーッ! カマふぃーッ!」
ライブさながら、鳳 蒼姫(
ja3762)のアツいマイクパフォーマンスが繰り広げられる。
「ヘイヘイヘーイ!」「ヘイヘイヘーイ!」
それに合わせて鎌を振り上げるカマキリーズ。カマキリの着ぐるみを着た私市 琥珀(
jb5268)と香奈沢 風禰(
jb2286)が場を盛り上げて、子供向け番組のような状況になっていた。
蒼姫の選曲はアップナンバーがメインである。テンションで押し切った方が楽しくなる選曲だ。そしてカマキリと楽曲の関連性がまったく見いだせない以上、なんかもう何でもいいようなカオス空間。
「こういうゆったりした時間はいいねぇ……」
鳳 静矢(
ja3856)は日本酒を傾けながらその様子を見ていた。地元名酒を燗にしてもらい、ほろほろと染みいるような旨さだ。そして肴には川魚の塩焼き。骨も柔らかくて、頭からかぶりつける。
「ええ、本当に」
隣で咲賀 円(
jc2239)が頷いて、『サービス』のフィッシュアンドチップスをつまむ。揚げ物にも関わらず、あっさりと仕上がっている。
「しかし、これは美味いな」
「『幻』って言ってましたけど、タダで頂いていいんでしょうか……」
「咲賀の善意の賜だろう。ありがたく頂こう」
なんでもこの魚料理一式は、流通量が非常に少ない『幻の川魚』を使ったものなのだそうだ。食事の後、円宛てに届けられた。
事の次第は昼過ぎのこと。荷物を置いた円がホテルを出ようとすると、坂の途中で座り込んでいる初老の男性を発見した。何事かと円が声を掛けると、どうやら荷物を運んでいる間に腰を痛めてしまったらしい。
……すったもんだの末、男がこのホテルの料理長であることが判明した。そして荷物は急を要する品らしいと聞いて、円は男を荷物ごと背負った。
「お嬢ちゃん、そりゃあ申し訳ねえよ」
「遠慮しないでください。これでも力はあるんですよ」
――そのお礼がこれ、ということだった。
不意にばーん、と扉が開け放たれた。
「おうおうおう、若人よ! ヒットチャートだけが音楽ではないと知るがいいわ!」
そしてくるくるくると回転しながら飛び込んでくる鬼道忍軍。いかにも湯上がりな緋打石(
jb5225)はすっかり出来上がっているようだった。
緋打石は予約した上でマイクを奪い取る。囃し立てる声とブーイングの狭間から流れてくるイントロは――
「完全に歌謡曲とか演歌が来る流れだったじゃん!?」
「これメタル? 喉大丈夫!?」
ルビィや琥珀の心配を尻目に、緋打石は声を張り上げた。
「ヒャッハー! 自分の歌を聴けぇーッ!」
――ケイ・リヒャルト(
ja0004)はこっそりと会場を抜け出し、開放されている庭園を見つけた。
綺麗な月が浮いている。夜空には星が瞬く。そして足下に広がる夜景が星空のようだった。
ここはホテルにおいて三階に当たる。そしてこのホテル自体が高い位置にあるものだから、六甲山より向こうの景色がよく見える。
百万ドルの夜景と人の言う。下手なプラネタリウムよりもロマンティックな天球儀。
夜風で髪をなびかせながら、ケイは歌い始めた。優しく、穏やかで美しい歌を。
●
ホテルにはいくつも温泉が入っている。花の名前を冠した浴場が十以上あるのだ。
遅い時間になっても開いている温泉もある。折角の温泉宿なので、客室のシャワールームを使うのはもったいないという考えらしい。
山里赤薔薇(
jb4090)はタオルを手にしながら、暖簾の前で立ち尽くしていた。
――結局、この時間になってしまった。それでも部屋のシャワールームを使おうか未だに悩んでいる。
「山里さん、どうしたの?」
首を傾げて、桐ケ作真亜子(
jb7709)は赤薔薇の袖を引く。けれど赤薔薇は動こうとしない。
……気になってはいた。出発からこっち、微妙に赤薔薇のテンションが低いことを。
「神谷さん、上がってきちゃうよ?」
「……うん」
春樹は既に隣の男湯に入っている。
三人で夕食を取った後、軽くカラオケに参加して早々に切り上げた。赤薔薇がと真亜子がまだ温泉に入っていないという話になったからだ。
フルーツ牛乳を春樹が奢るという形で、『一緒に入る』ことにしたのだが――。
真亜子が手を引く形で暖簾を潜る。こうなってしまえば入らざるを得ない。
時間が時間なだけに、人の気配がない脱衣所。
「……どうしたの?」
「――――」
赤薔薇は意を決して、自分の服を脱ぎ始めた。
「――――あ」
すぐに真亜子は気づいた。
傷。傷。傷。
赤薔薇に刻まれた痛々しい痕跡が、身体中にびっしりと残っていた。タオルでも隠しきれない、全身の傷跡。
そうか、だから。
「…………こんなの、女の子の身体じゃないでしょう?」
痛みを堪えるように赤薔薇は呟いた。
「――かっこいいよ!」
「……え? あ、ちょっ、」
真亜子はにこりと笑うと、赤薔薇の手を引いて浴場へと躍り出る。むわっとした湿度と、かぽーんという音が鳴った。
「山里さんはかっこいいんだよ! それは数え切れない人達を助けてきた証拠だもの。尊いんだ! 醜くなんてないよ!」
「……マア、ちゃん」
「ボク、山里さんみたいになりたいな!」
花のような笑顔で真亜子は言う。そこに気遣いとか遠慮とか欺瞞とか、そういった諸々は一切感じられなかった。この子は本心からコレを言っているんだと、赤薔薇はなんとなくそれを信じることが出来た。
「……ありがとう」
「いいからいいから! それより貸し切りだよ! いっぱい浸かろうね!」
「……うん」
柵の向こう側。春樹は頬が緩むのを感じていた。
一方で。
――ああ、疲れた……人の善意が痛いよ!
小宮 雅春(
jc2177)は貸し切り状態の露天風呂に浸かりながら、うんうん悩んでいた。
――孤高のぼっちに戻ろうかなあ。いや、でもそれは昔と変わらない……!
ぐるぐるループする思考に溺れそうになっていた。
久遠ヶ原学園に来てからというもの、誰も彼もが輝いて見える。いっそ失明しそうなほど、眩しくて見ていられないのだ。そして自身と比べて絶望する。
きっと彼ら彼女らは立派な大人になるのだろう。こんなみすぼらしい自分とは違う、しっかりと地に足の付いた人間に。
ちょっと太陽が多すぎて、こんがり灼けてしまいそうだ。
自分の過去を省みる。思い出したくもない。何もかもから逃げ出して、自分の世界に籠もっていた。この結果がこのザマだ。
背負う物も誇れる物も何もない、がらんどうの自分がここにいる。身から出た錆、自業自得、因果応報。
……ダメだ。どうしても時間が出来るとこんなことを思ってしまう。
なんのための慰安旅行なのか。なんのための温泉なのか。こんなんだから僕は、
ふと、綺麗な音が耳を擽った気がした。歌声だろうか。気になってそっちに目を向けると、ガラスに反射している綺麗な夜景が目に入った。
顔を上げるとなんてことはない。そんなことをしなくても、ここは夜景が見える位置にある。
……あー、良い景色だなあ。今は余計なこと考えるのやめよ。
温泉まんじゅうでも買って帰ろうか。
●
猫野・宮子(
ja0024)は目を覚ました。
「お目覚めになりました?」
まだ胡乱な宮子に、使用人然とした口調で、AL(
jb4583)はにこりと微笑みかける。
「……うん、おはよう」
……んー、あれ? えっと、なんで同じ部屋にいるんだっけ?
「朝食は十時までに行けば良いそうです。それと、……ありました」
「……えっと、何が?」
目が覚めてきて徐々に思い出してくる。
何故か同室に割り振られていたこと。宴会もそこそこに部屋に戻ってきて夜景を楽しみながら眠ってしまったこと。そして、その間に交わしていた会話は……
「混浴です」
――あったんだ!
ALは女性的な外見をしているが、れっきとした男性である。故に本来なら同じ部屋に割り振られることもなければ、同じ湯船に浸かることも出来ない。
しかし、何かの手違いか現にこうして同室になっている上、
「女将さんに掛け合ってもらいました。……えっと、限定的にボクたちだけに開放してくれる、と」
「わあ、なんだか悪い気もするけど……嬉しい♪」
いわゆる『お約束』としての混浴ではないが、どうやら気を回してくれた誰かがいたらしい。
こうして、年若い恋人達は朝からお湯を楽しむのであった。
温かいどころか茹で上がりそうな時間は、残念ながらカメラを外そうと思う。
●
さて。有馬温泉は言うまでもなく高級温泉街だが、その中でも特に格の高い旅館が存在する。
明らかにVIP用の値段設定、それに見合うだけのサービスと接客。
本拠地であるグランドホテルも格式高いことには違いないが、『より最高のおもてなしを』を信条とした、ある種の別世界。
「――で。結論から言うと、断られた」
「そうですか……残念です」
出発前の未唯の言葉に、香里は小さく溜息を吐いた。
香里は和風サロンを営んでいる。そしてこの機会に『最上級の店のおもてなし』を学びたいと未唯を通じて申し出たのだが、結果は芳しくなかったらしい。
「研修は徹底するのが企業理念らしくてな。流石に半日は許可できないんだと」
「物見遊山のつもりはなかったのですが……」
「そこは伝えたよ。向こうもそれは分かった上で、だろうな。だからと思うが、代わりにこういう提案を出してきた」
そして。
「いらっしゃいませ。ご予約頂いていた木嶋様ですね。本日は遠路はるばるどうぞお越しくださいました」
「ええ、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」
見るからに品の良い店員の一挙手一投足を、香里はつぶさに観察する。
――客としてもてなすから、その技術を盗んでこい、ということだ。
これも本来ならあり得ない対応らしいのだが、そこは柔軟さということなのだろう。香里は身が引き締まる気がした。
一方で。
「御影様、九鬼様ですね。本日は遠路はるばるどうぞお越しくださいました」
スーツを着た若い男性は、惚れ惚れするほど綺麗なお辞儀をした。タイミングや声色から何まで『徹底』している。
「お世話になりますわ」
華澄・エルシャン・御影(
jb6365)はふわりと笑った。
「よ、よろしくお願いします……」
対照的に九鬼 龍磨(
jb8028)はやや緊張気味だ。あまりに丁寧すぎて、逆に恐縮してしまう。
「龍磨さんは大丈夫、いつも通り笑顔でね」
「そうは言われてもなあ……」
これから体験するのは未知の世界である。
――この旅館に宿泊することは出来ない。遠足のスケジュールというものもあるし、そもそも宿泊可能なのは十部屋もないのだそうだ。
その代わり、日帰りのプランがある。その内容はエステ、お弁当、温泉、そして。
「ヘマした時のフォローは頼むね……」
「大丈夫よ、そんなに気負わなくても」
――芸妓さんとのお座敷遊びである。
「うわー、負けたー!」
「ほんまに始めてですか? お上手ですわあ」
龍磨の緊張はあっという間に解けた。
華澄の振る舞いが堂々としているのもあるし、芸妓さん達の愛想の良さにすっかり絆された。この辺りもプロの技なのだろう。
「龍磨さん、ふねふね強いね。勝っても負けてもおおらかで座が華やぐわ」
今回の座興は『こんぴらふねふね』と『投扇興』だった。三味線で奏でられる民謡に合わせてリズムゲームをするのが『こんぴらふねふね』である。龍磨は初心者とは思えない反応速度で、座を一気に盛り上げた。
一方で扇子を台座の上の的に向かって投げて、その結果から点数を計るのが『投扇興』である。華澄はこちらを主に楽しんだ。
「流石、お綺麗ですわ……」
「華澄様こそ。投げ方に品がありますわ」
「龍磨様、素晴らしいですわ! 『須磨』ですわよ!」
「え、これすごいの? にはは、それほどでもー」
「龍磨さんは謙虚でしょう? お強くて優しい、人気のある方ですの」
「素晴らしいご友人ですわ。とてもお似合いで、正直妬いてしまいますわあ」
おほほ、と座が上品な笑いに満たされる。龍磨は照れくさそうに頭を掻いた。
「いえいえ、まだ若輩者ですから」
……こうして、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
華澄はお礼のお花代を多めに渡し、龍磨は名刺を芸妓さんに配った。彼女らはとても朗らかな笑顔で受け取ってくれた。
「本日は誠にありがとうございました。またのご来店を心よりお待ちしております」
スーツの店員に見送られる頃には、そろそろ帰る時間になっていた。
「それじゃあ龍磨さん、炭酸煎餅を買って帰りましょう。これを食べなきゃ有馬じゃないわ」
「そうだね。……いやあ、本当に楽しかったな。誘ってくれてありがとう」
二人は笑顔を交わしながら、帰り支度を始めた。
●
さて、そんなセレブな時間もそこそこに、本来の遠足にカメラを戻そう。
「やあやあご同輩! わしが来た!」
訝る他の観光客を尻目に、社殿の前で白蛇(
jb0889)はそんなことを宣った。
ここは有馬の寺社仏閣通りである。当然ここには有馬に縁の深い神様が奉られており、古事記に登場するようなビッグネームばかりだ。周囲からして見れば「何言ってんだコイツ」ってなものである。
しかし自称神様であるところの白蛇にしてみれば、神様は紛れもない『同業者』だ。
白蛇は周囲の目など一切気にせず、寺社仏閣を闊歩した。
静矢と蒼姫、琥珀、風禰、円は一緒に温泉を満喫していた。
「健康にいいとあらば!」
「ぽんぽんいっぱいなの……」
「ふ、二人とも程々に……」
街には『金泉』『銀泉』を飲める『飲泉』コーナーがある。蒼姫と風禰がガブ飲みしにかかるのを、円は止めに入った。
「……ところで。カマキリとラッコはどちらが強いと思う?」
「カマキリもラッコもどっちも強いんだよ!」
温泉に浸かりながら、静矢と琥珀はそんな話で盛り上がったりしていた。
「ソフトクリーム食べよう!」
「炭酸煎餅がトッピング出来るみたいですよ」
「何故に炭酸煎餅とはこんなに美味しいんでしょうか?」
「カマキリの簪ってないの?」
さながら夫婦と仲良し兄弟達のような空気感。五人は仲良く手を繋いで、ゆっくりと心ゆくまで温泉を楽しんだ。
「ふはは、暴力こそが正義! いい時代になったものだ!」
「ちょ、なんだこれ! ハメ技かよ!」
緋打石とルビィはゲームコーナーで、いかにも古ぼけた格闘ゲームに精を出していた。
ルビィは学内新聞の取材のために街を練り歩いていた。温泉に浸かりながら真面目に取材をしていたのだ。……ゲームコーナーを見つけるまでは。
ヒャッホウとゲームコーナーに突撃したルビィを待っていたのは、昔懐かしの格闘ゲームで恐ろしいテクニックを見せつける緋打石だった。そして、
「どうじゃ若いの。一戦交えてみんか」
「上等だ爺さん。若者パワーを舐めるんじゃねえぜ!」
「……二人ともキャラおかしいよ?」
聖羅のツッコミも余所に、格闘ゲームにお金を入れる二人。そして白熱の乱闘は、お互い飽きるまで続いたのであった。
ちなみに、
――ああ、レミエル様と一緒に来れたら素敵だろうなあ……。
その隣で、聖羅は乙女の妄想に耽っていた。
「……助かる」
ファーフナーは店員に着物を着付けてもらうと、次の温泉へ繰り出していた。
密かにファーフナーは温泉を気に入っていた。開放的な雰囲気が、今までの自分が抱えていた抑圧を一時的にでも取っ払ってくれたからである。
そしてこの有馬の静かで寂れた雰囲気もとても気に入った。また暇を見つけて来たい、とふと思った。
「――――」
そんな自分に思案を巡らせていると、土産物屋が目に入った。美しい拵えの簪が並んでいる。
……たまにはこういうのも悪くないだろうか。
ファーフナーは聖羅に似合う簪を見繕って、土産物として包装してもらった。
●
夜桜 奏音(
jc0588)は出発前にゆっくりと露天風呂に浸かっていた。
「……今回の温泉も楽しめました」
うーんと伸びをして、空を眺める。青空がどこまでも綺麗で、心が洗われるようだった。
まず寺社仏閣巡りをし、飲泉を試してみた。『金泉』が思いの外しょっぱかったことを覚えている。
古風な街並みは奏音の好みに合う物だったし、温泉巡りもとても気持ちよかった。
何より、ご飯が美味しかった。初日の夕飯に和牛、二日目の朝に精進料理、そして昼食は魚介コース。制覇してやった。
お土産も買い込んだ。学園がお金を出してくれる以上、その予算ギリギリまで買い込んだ。
「出してくれる分は使いませんとね……」
沢山贅沢させてもらった。しかも学校のお金で。
実に有意義な旅行だったとしみじみ思った。
「……まあ、惜しむらくは」
ここにお盆に乗った日本酒がないことだろう。昨晩は出来たので注文しようと思えば出来るのだろうが、それで酔っ払ってしまうと帰りに間に合わなくなる可能性が出てくる。
そうなったら自腹切らないといけないし、ここは我慢我慢っと、
「……うい〜……」
「……?」
不意に、どこかからそんな声が聞こえた。どこか聞き覚えのある声だ。同行者だろう。
奏音は声の主を探す。どうやら岩陰の向こうに隠れていたらしい。気になってそちらに移動する、と、
「幸せじゃ〜……」
白蛇がいた。その脇にはお盆に載せられた日本酒があり、完全に出来上がっている。ちなみに出発時間まであと数時間もない。
「し、白蛇さん?」
「……ん? おー、飲むか?」
「いえ、もうすぐしたら出発ですが……」
「……おー…………?」
しばしの沈黙。
「……あ、ほんとじゃ。上がるとするかの……」
白蛇が立ち上がるが、酔いのせいか、その身体がぐらっと傾いた。
「危ない!」
間一髪、奏音の支えが間に合った。ついでにお盆もセーフ。
「お、おー……すまんの。ちと飲み過ぎた」
「私ももう上がりますから、一緒に支度しましょう。さ、掴まって」
「わしとしたことが……すまん、恩に着るぞ」
こうして間一髪、遅刻者はゼロで済まされたのである。
●
街を一望できる場所。ホテルの空中庭園に黒井 明斗(
jb0525)は腰掛けていた。
スケッチブックに鉛筆を走らせる。題材はこの街だ。夜景が素敵だとみんなは言っていたが、この光景も素敵だと明斗は思う。
あの辺りにあるのは、街に来てすぐに巡った入浴施設だ。
どこも素敵なお湯だった。活気があって、老若男女、みんなが幸せそうにしていた。
ゲームコーナーが見えた。
レトロゲームと古びたクレーンゲームばかりだったけど、あれはあれで風情があったと思う。
あの山の向こうで日の出を見た。
今朝、日の出前に露天風呂に浸かりながら日の出を見た。お風呂で気持ちよくなりながら、日の出を見るのはまさに絶景と言えた。
街の道路を走っているトラックは、このホテルの美味しい料理の食材を運んでいたのだろうか。
魚介と精進料理を頂いた。どちらもとても素晴らしい味だった。忘れられない思い出になるだろう。
金泉と銀泉の飲泉コーナーが見える。
どちらも事前情報に違わぬいいお湯だったと思う。この二日で身体と精神の疲れが吹っ飛んだ気がした。
親子連れが子供にお湯を飲ませてあげているのが見えた。なんとも微笑ましい。
この街はとてもいい場所だと思った。
明斗はそんな思いを噛みしめながら、スケッチブックに鉛筆を走らせる。
この一筆をもって、大事な思い出として自分に刻みつけていく。
また来たいな。明斗は素直にそう思った。
●
出発の二時間前。ケイは片付けもそこそこに、足湯コーナーに足を運んだ。
すると、ようやくお目当ての人物を見つけることが出来た。
「未唯先生」
「……ん、どうした?」
「ちょっと隣、いいかしら?」
「構わんが、帰り支度は出来たのか?」
「ええ、大丈夫よ」
「そうか」
――――。
少しの沈黙。ケイは、意を決したように口を開いた。
「ね、先生」
「……何だ」
「前に『大丈夫』って言っていたけれど。……あたしはやっぱり、『最近の』先生のことが心配なの」
「…………」
ケイの言葉に、未唯はわしわしと頭を掻いた。
「本人でも自覚していないことって、あると思うの」
未唯の抱えているであろう事情。ずばり『元クラスメイトが敵対者として存在している』現状。
――そこに友情、あるいはそれ以上のものがあったとするなら、余計にだ。
未唯はあまり感情を表に出さない。それが例えその元クラスメイトが関わっていようと、いつも通りの先生であろうとする。
「先生は……その、今回の旅行。少しは、色々と癒やせたかしら?」
そして何より、人と一定以上の壁を作っているように思う。
ケイはそれが心配だった。そしてどう踏み込めばいいのかも分からない理由となっていた。
――――。
長い沈黙が降りた。
「……さて、そろそろ戻らないとまずいな。帰れなくなる」
唐突に未唯はそう言うと、タオルで足を拭いた。上がろうとしているのだ。
「……! 先生、」
ケイが言いさすと、未唯は手でその先を遮った。
そして、くすりと笑った。
「……いや、本当に大丈夫なんだ。私は冷たい人間だからな。その辺りの割り切りはすぱっと出来るんだ」
「でも……」
「教え子に心配掛けてるようじゃ、教師失格だな。すまん。次からはもうちょっと分かりやすくするよ」
振り返った未唯の表情は、穏やかなものだった。
「――ありがとうな。その気持ちで、本当にだいぶ楽になった。もし次に危なくなったら、もっと素直に頼ることにするよ」
「……そう。約束してね」
「ああ、約束する」
言って、未唯はタオルをケイに差し出した。それでケイは足を拭く。
「それじゃー、帰るか。我らが母校へ」
●
がたんごとん。電車は軽快に有馬温泉を後にする。
明日からまた、いつもの日常が始まっていく。
願わくば、いつでもこの平和を享受できるようになりますように。
撃退士達の戦いは、まだまだ続いていく。