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静まりかえった中、子供の泣き声だけが途切れがちに聞こえてくる。
「この声は上の階からみたいね」
呟いたケイ・リヒャルト(
ja0004)の視線が声の方向を追う。天魔の動きは今のところ極めて鈍く、透過して下に降りてくる気配もない。
「看護師はまだ生きてるのかしらねぇ?」
次々と扉の開いた部屋の中を確認しながらErie Schwagerin(
ja9642)は淡々と口にした。
避難時に混乱した形跡は多少あるものの破壊の跡もなく、遺体や血痕なども見当たらない。上から聞こえるのも泣き声だけだ。生きているとすればどこかで息を潜めているのだろうか?
「確か二階は全部病室で、鍵とか掛からないって事だったわよねぇ」
だとすれば隠れるのには不向きだ。隠れるとすれば一階だろう。
「でも、天魔は壁を透過出来るのよね」
そんなところへ鈴代 征治(
ja1305)が入ってきた。少し遅れて黒井 明斗(
jb0525)と川澄文歌(
jb7507)も顔を見せる。ただ、ファーフナー(
jb7826)の姿が見えない。警察にもう少し聞いておきたいことがあるのだという。
「とりあえず一階から捜索しましょう」
「そうね。色々気になることはあるけど、今はそれが最善ね」
征治の提案にケイが頷く。反対する者はいなかった。勿論要救助者が二階にいる可能性は低いとは言え完全に否定できないし、天魔を押さえなくていいのかという考えはある。だが。
一見すると単純な依頼だが、腑に落ちないことが多い。天魔は獲物になり得る多くの人間に目もくれず、今も特に動きもなく泣き声が聞こえるばかり。
一体何が目的なのか。何かの罠か、それとも……
「発見しました!多分要救助者です!」
程なくして生命探知を使用して周囲を探った明斗の押し殺した声が皆の耳に届いた。
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「腕だけが透過してきた、ですか?」
文歌の問いに年嵩の女性が頷いた。
二人の女性看護師の内、二十代前半と思える方はまだショックを引きずっていたが、年嵩の方はしっかりとしていた。
「仕方がありません。この人はあの時……」
年嵩の看護師は次の検査の準備に掛かろうとしており、二十代の看護師が少女の体を支えていたという。腕が異形化した際に看護師は反射的に飛び退き、結果的に少女を医師の方に突き飛ばすような形になってしまったらしい。
医師が襲われたのは自分のせいだ。そんな罪悪感が看護師の怯えに拍車を掛けているようだ。
「あなたのせいじゃありません。それに、お医者さんもちゃんと生きてます。大丈夫ですよ」
いきなり天魔を目の当たりにして、平静でいられる一般人の方が珍しい。文歌がしゃがみ込んでいる若い看護師にアイドルの微笑みを交えながら語りかける。
「他に何か気がついた事はありませんか?」
どんな小さな事でもと明斗に尋ねられた年嵩の看護師は少し考え込んでいたが
「気のせいかもしれませんが、『お母さん』と声がしたような気がします。何だか……迷子がいなくなった親を探してるみたいに」
「わかりました。ありがとうございました」
もうこれ以上、看護師から聞けることはないだろう。
「あなた方はすぐにここから避難を」
「待て」
入ってきたのは警察で追加の情報を収集していたファーフナーだった。
「ここなら安全だ。鍵を掛けて待機して貰えないか」
他の五人が不審そうな表情になる。どう考えても外に避難した方が安全に思えるのに。
「詳しい事を説明している暇はないが、あの子自身は人間だ。それに、後で頼みたいことがある」
ファーフナーの持つ雰囲気に押されたのかそれとも頼みたいことが気になるのか、年嵩の看護師は承諾し、何か連絡手段をというファーフナーに院内連絡用のPHSを貸してくれた。
「何かわかったの?」
尋ねるケイには応えず、行こうと皆を促す。おそらくあまり聞かれたくない話なのだろう。
閉ざされる扉の向こうで、気をつけてと声がしたような気がした。
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「さっき言ってたことだけど」
ケイがファーフナーに声を掛け、口火を切った。
「確かに阻霊符が使われた訳でもないし、腕だけが透過してきたと言うより腕しか透過出来なかった。それってつまり、腕だけが天魔だということ?」
ケイの言葉は疑問と言うよりも確認の意味を帯びていた。人間にとりつく天魔は過去にも例がある。充分にあり得る話だ。
「そうだ。爆破された民家の部屋で見つかったのは子供の右腕、つまり天魔と同じ側だ。もっとも警察はその腕が誰のものかなかなか特定出来ず、そのせいでここに連れてきた警官は天魔の介入など疑いもしなかったらしい」
そして、問題の爆破事件が起こってから現在までほぼ一日たっている。
「それくらいの時間でそういうことが出来るのは悪魔の方よねぇ」
エリーが言葉を継いだ。
「だとしたら、腕の元は母親ってとこかしら?」
その場に沈黙が落ちた。
「腕が誰のものかの特定が遅れたのは、あの家に当時誰がいたのかわからなかったせいだ」
ファーフナーが重い口を開く。
あの親子には関わるな。それが周囲の不文律だったらしい。
時折不審な人間が彷徨いたり、家に石やゴミを投げ込まれるような者に関わってとばっちりでも受けたらいい迷惑だ。そんな感覚で誰もが親子を無視し、無関心を決め込んでいた。
だから近隣住民は爆発に気付いていながら通報さえせず、たまたま通りがかった宅配便の運転手が通報しなければ爆破事件の存在はそのまま消えてしまったかもしれない。
「それと、これは役立つかどうかはわからないが」
更に語られたのは、親子がそうなった原因。
「三年前にある町を襲った水害の際、それまで人間を装っていた悪魔が本性を現し、避難中の人間十数人を濁流に落として水死させたという事件があったそうだ」
そして手下にした人間と共に避難所を狙ったその悪魔は撃退士に倒された。
それが公式に残された小さな記録。
だが、悪魔があまりにもあっけなく倒されたこと、そして悪魔と共にいた女性が叫んだ言葉が今でも引っかかっている関係者もいるという。
「殺したんじゃない、助けられなかっただけだ……女はそう言ったそうだ」
だが、悪魔は死に、女性はその際に死亡した人々の親類縁者、友人知人から憎悪と侮蔑を受けることになった。
「それが」
皆が階段の上に目をやった。更に弱々しくなった泣き声が途切れがちに聞こえてくる。
背後にいるであろう天魔の手がかりを得ようとして得たのは、そんな背景。
少女が父と呼んだ悪魔はただのはぐれ悪魔だったのかもしれない。殺そうとしたのではなく、助けようとして本性を現したのかもしれない。だが、その真実を確かめる術は今となっては無い。
「ホント、人間って碌な事しないわねぇ……悪魔もだけどぉ」
呆れているのか、怒っているのか。エリーが何とも言えない表情で呟いた。
介入した悪魔が何を考えていたのかは、正直わからない。
三年前に人々が女性、つまり少女の母親の言葉に少しでも耳を傾けていれば。せめて爆破事件に気がついた時に匿名ででもすぐに通報していれば、今度の事件は起こらなかったかもしれない。
「天魔の部分を、切り落とすしかないですね」
征治が低い声を発した。
「ちょっと待ってください。いきなりですか?」
天魔でも覚醒者でもない普通の、それも衰弱した子供にそんなことをすればショック死もあり得るのではないかと明斗が危惧の声を上げる。
「切り落とすにしても、ちゃんとした医療体制の手配を」
「普通の医者に天魔が切り落とせますか?それこそ危険です。現に医師が一人重体なんですよ。今度は死人だって出るかもしれない」
征治も譲らない。
「あの、学園の方で保護して貰うことは出来ないでしょうか?」
学園でならこうした事例でも対処出来るのではないだろうかと文歌。
「可能性は低いわね。その子が覚醒してるとかならともかくだけど」
ケイに言われるまでもなく、甘い考えかもしれないと文歌自身も思う。学園側にも様々な事情がある。それでも可能性を信じたい。
「他に方法が無ければ反対はしないけど、いきなりはちょっとねぇ」
エリーは文歌とは違う理由から保護という方向を考えているようだった。
もし、腕にとりついた天魔を少女が自分の意思で制御できるとしたら?
監視、あるいは観察という名目であっても学園での保護が叶うかもしれない。
「このままあの子がいなくなって万々歳なのは碌でもない人間だけよねぇ」
「私、あの子と話してみます」
文歌が切り出した言葉は皆が心に抱いていた方針を代弁していた。どのみちここで議論していても始まらない。
撃退士達は目の前の階段を重い足取りで、だが、しっかりと上り始めた。
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泣き声は今にも消えそうになっていた。
そして声の主は泣き腫らした顔でフラフラと……彷徨うと言うよりまっすぐ立っていられない様子でいる。対して右腕は鎌首を持ち上げる毒蛇のように少女の頭より高く立ち、低いうなり声を上げている。指があるべきところにはそれぞれ蛇の頭のようなものが付き、そこに人の面影はない。
あれが母親?誰もがそんな疑問を抱く。
「……確かに、あの子がいる位置からは生命の反応が二つあります」
明斗の声が聞こえたのか、少女はこちらを見た。が、同時に引き攣った悲鳴を上げて後退ろうとする。撃退士に怯えているのが明らかだ。
「あなたの事を助けに来たの。少しお話を聞かせてくれない?」
スキルだけではなく少しでも少女を安心させようと微笑んで近づこうとした文歌の声が、獣の咆吼にかき消される。
「撃退士は天魔を殺す、そう思っているのか?」
そう言ったファーフナーの背に顕現する、悪魔の羽根。
悪魔ハーフである自分がこうして生きている。恐れることは無いのだと。
「ころさ、ないの……?あたし……」
生きていても、いいの?
だが、少女の反応とは関係なく異形の右腕が大きくうねり、少女が足をもつれさせて転倒した。腕がうねるたびに少女自身の物と思われる上腕部がねじ切れんばかりに捻られる。
「痛い……痛いよう……お母さん……どこ……」
しかし、その声に異形が静まることはない。まるで動きの枷となっている少女を振り払おうとするように荒れ狂う。
元が何であれ、普通ディアボロに人だった頃の人格や感情は残っていない。
それは皆理解していたが、それでも思っていた。
このディアボロに母親としての心が残っているのではないかと。
だが、目の前に突きつけられた現実。異形の腕には既に人の心はなく、少女をまるで邪魔者のように扱っている。
「もうやめて!この子が傷つくだけです!」
文歌の髪が異様に伸びた……ように見えた。アウルで作られた髪の幻が異形の腕を締め上げる。
その隙にケイが少女を抱き起こす。
「泣いているの?」
少女をこれ以上痛めつけないようにそっと抱き寄せた。透き通るような歌声と優しい旋律が少女を包む。
腕を残す可能性は既に無い。自分に出来るのは、せめていくらかでも少女の心を安らかにしてやることだけ。
「ほら、怖くない……」
「もういいでしょう。これ以上引き延ばしても」
少女が苦しむだけだ。征治の脳裏に以前受けた依頼の事が浮かぶ。
あの時も、天魔を切り離せば小さな命は助かったかもしれない。だが、あの時は既に天魔によって災害レベルの犠牲者が出ていた。
本人が望んだ事では無いとは言えそれだけの業を背負って、幼子がどうやってこの先生きていくのだろうか。それを考えれば、あの時は安らかな死しか選べなかった。
だが、今度は違う。重体者は出ているものの、誰も死んではいない。
生きてさえいれば、きっとまだ取り返しがつく。
「待ってください!もう少し、せめて医師の手配が出来るまで」
せめて少女に麻酔を掛けて切断の恐怖や痛みを感じさせないように出来ないかと思っていた明斗だったが、連絡を取った医師の答えは良いものでは無かった。
非覚醒者に天魔の対応をさせるのか?少女が人間ならば麻酔は素人に扱えるものではない。話が曖昧すぎる、安全が保証されない。
「私が魂縛を使うわぁ。それで麻酔代わりになるでしょぉ?」
痛いのが続くなんて嫌だものねぇ。そう言ったエリーに、束縛を解いた腕が襲いかかる。だが。
「させません!」
明斗が咄嗟に自分の腕を噛ませ、もう一方の手で噛み付いてきた腕を掴んで押さえつける。ケイに抱きしめられた少女が喉の奥で悲鳴を上げた。
「平気です。こう見えても僕は強いんです。このくらいで傷付いたりしません」
噛み付かれたところが熱い。だが、治癒スキルを使いながら明斗は耐えた。
自分が傷付けば少女の心が傷付く。生きることに罪悪感を抱かせる。
「行きますよ!」
征治が神速の早さで踏み込み、白い光が一閃する。
エリーの魂縛でケイの腕の中で少女が眠り、天魔の断末魔が響く中。
「……そうだ。こっちに来てくれ。人の命が掛かっている……大丈夫だ、安全は保証する」
PHSで二人の看護師に連絡を取るファーフナーの声が低く流れた。
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救命措置とその後の治療で少女は命を取り留めた。ただ、爆発で失った右腕までは無理だったが。
当初医師や看護師の中には少女を恐れる向きもあったのだが、撃退士のみならず天魔を目撃し、且つ少女の救命に当たった看護師二人が少女は只の不遇な子供だと言い切り、積極的に世話をしたことで和らいでいった。
「お母さんからキミへの言葉を贈るよ。『生きて』と」
エリーがあの後少女から読み取った記憶の中の一言を征治が告げても少女は無反応だった。が、医師によればそれは当たり前だという。
大きすぎる辛さは時間を掛けて吸収され、いつかすっかり飲み干されるものなのだと。
「撃退士さん」
そんな声に、ファーフナーは振り返った。そこにいたのはパトロールの最中らしい警官だった。
「例の爆破犯、捕まりましたよ。それがね……」
少女が父と呼んでいた悪魔とは何の関わりも無い、退魔師気取りの男だった。撃退士に憧れ、しかしアウルの適性も無いその男は撃退士が取りこぼした悪魔を退治しようとしただけと主張している。現に周囲の人間も親子を悪魔と呼んで忌避していたでは無いか、と。
「そうか」
人は天魔に対して非力だ。それ故に恐怖の闇を心に宿す。闇を見据えて手探りで真実をつかみ取れる程人は強くない。目を閉じ、耳を塞ぎ、闇の存在そのものから目をそらす。そこに生まれる無知や無理解、齟齬。
「そんな身勝手は通用しないって事をきっちりと教えてやりますよ」
今度のことで色々目が覚めたって人もいますしねと言って警官は去って行った。
闇は広く深く、撃退士にその全てを払う程の力は無い。だが、足許を照らす小さな灯火にはなれるのかもしれない。
少女がいつか辛さを飲み干して周りを見る時、その目に映すだろうか。
撃退士が灯し、人々に受け継がれて闇を照らす沢山の灯火を。