荒野に巻いて立つ土煙の匂いだ。
ノイズの混じったラジオの音、異国の女キャスターの声が、激しく揺れる車内に響いている。
曰く、どこそこが軍事演習を行なった、だの、領空を侵犯した、だの、某国における政府側とそれに抗する武装勢力の激突は加熱の一途を辿っており、それぞれの後ろに立って支援している二陣営の国々も緊張感が高まっている、だの、それらは既に聞き飽きた類のニュースだった。
「ここでの代理戦争だけじゃ終わらなさそうですね」
紛争地帯の某国の荒野、オフロード車の助手席に座っている少女が、誰ともなしにぽつりと呟いた。相棒たる十代半ばの少女だ。
本名不明。
出身国不明。
解っているのは銃に天性の適性があり、腕が確かだということだけだ。
「……三度目の『大戦《グレート・ウォー》』か」
いよいよ現実味を帯びてきた――を通り過ぎてもう勃発間近だろうな、とハンドルを握っている壮年の男は思う。時は202X年、牙撃鉄鳴(
jb5667)、この時、三十余歳を数えていた。
世界が引き返せる時期はもう過ぎた。
今もどこかで誰かが諦め悪く足掻いているのかもしれないが、奈落へと向かって世界は加速し転がり落ちている。底にあるのは灼熱に煮えたぎったマグマか、身を腐らせ落ちる毒の海か、いずれにせよろくなものではあるまい。
だが止まらない。
世界は何故こうなったのか? 因果を紐解くならば、様々な要因を見つけられそうだったが、その中に自分達『アウル覚醒者』の姿が見られるのは間違いないだろうと鉄鳴は思う。
「鉄鳴、愁いますか?」
助手席に座る十五歳の少女が鉄鳴に問いかけた。
「構いはしない」
鉄鳴は答えた。
「傭兵《おれたち》にとっては、そのほうが生き易い。少なくとも失業はしない」
「私達は血肉に群がる禿鷹ですね、世間で言われているように」
アウル覚醒者の天敵はアウル覚醒者のみ。
彼等は人を超えた者であり、この世界で最強の者達であった。超人。自分達以外に天敵のいない超人達。もしも彼等を同じ武装で同じコンディションで一対一で止められる者がいるならば、それは天使や悪魔くらいなものだろう。そんな者達がこの世界に実在するならば、の話だったが。
故にこそ――世界は彼等を恐れた。
アウル覚醒者達は社会の中央から放逐され、流れ流れて行き着いたのは。
「そうかもな。だが、アウルなんて貧乏籤を引いてしまったやつは、こんな仕事でもなければ食っていけんよ」
鉄鳴の言葉に相棒は沈黙した。
まさか、否定の言葉でも欲しかったのだろうか、と男は思った。
「――認めるのが嫌なのならば、需要と供給だとでも思えば良い。傭兵《おれたち》は単なる弾丸だとでも思えば良い。引き金をひく奴がいる。それも事実だ」
傭兵が依頼を受けて動く時、そこには依頼主がいる。金による仮の主が鷹をけしかけるのか、鷹が主と仕事を選ぶのか。
それに、やや経ってから相棒は口を開いた。
「アウル覚醒者が就ける仕事が限られているのは、一般人達の意識とそれによる法のせいですが……でも高額報酬に釣られて必要以上に危険な依頼を受けるのは、あなたのせいですよね……」
「さて……もうじきαポイントだ。そこからは歩きだぞ。準備しておけ」
鉄鳴は相棒の愚痴を華麗にスルーすると、そう述べたのだった。
●
車を降り、山岳に分け入ってより一昼夜、ギリースーツに身を包んだ鉄鳴は、相棒の少女と共に深緑の木々の間に伏せていた。
眼下に広がるのは緑成す峻険な大渓谷。
人の手による開発はあまり進んでおらず、山肌に沿うように古代の時代に築かれたという木製の桟道が通されているのみである。天然の要害と言って良い地形であった。その為、鉄鳴の依頼人である政府側は、こちらの方面に防衛戦力をあまりおいていなかった。
「敵影発見」
双眼鏡を手にしている相棒の少女が言った。
方位と距離を報せてくる。
鉄鳴はスコープを覗き込んだ。
およそ四キロ先の峻険な山岳の桟道を、軍服に身を包んだ男達が荷物を背負い歩いてきているのが見えた。
「……事前情報通りだな」
政府の諜報機関は武装勢力側が車両も通れぬこの道を歩兵の一個中隊のみを以って踏破し、方面軍の命運を握るレーダー・ジャミング施設へと奇襲をかけようと計画しているとの情報を掴んでいた。東部の戦線に多数の戦力を張りつけている為、自由にできる戦力抽出に時間がかかりそうだった政府は、凄腕として知られる牙撃鉄鳴とその相棒たる少女を雇い、武装勢力側一個中隊の足止め、その侵攻の遅延を依頼してきたのだった。
なおこの国における平均的な一個中隊は歩兵ならば二百人である。これを二人で足止めしろ、というのが依頼だ。2vs200、兵力差およそ百倍、少女曰く「いつも通り捨て駒じみた無茶な依頼ですね」との事。彼女が愚痴るのも実に道理な兵力差である。
「指揮官は列の中頃にいるのだったか?」
鉄鳴は問いかける。
「はい、情報によれば……いえ、まって、敵中隊長発見」
「なに?」
「あの顔は、間違いありません」
「位置と補正をくれ、撃つ」
「了解」
双眼鏡を覗き込んでいる相棒が、風や敵の行軍速度を確認しつつ、様々な数字と指示を鉄鳴に伝えてくる。四キロメートルの超長距離狙撃である。相手は動いている、着弾までにかかる時間による位置のずれがある。他、風やコリオリ力やその他諸々も計算に入れねばならない。
鉄鳴はスコープを覗き込みつつ照準を指定位置にピタリと合せる。この倍率だとスコープの中に対象は映っていない。
「射撃準備、3、2、1――」
相棒の声を聞きつつ、息を吐き、そして止めた。
「――テッ」
相棒の合図と同時に引き金を絞る。
電力の代わりにアウルよって駆動する、長大なレールガンが振動し形成された弾丸が、空を裂いて射出され、音速すらも十倍以上に大きく凌駕し、真っ直ぐに飛んでゆく。
発砲の反動で、超倍率になっているスコープ内の景色は大きくずれた。銃身が作動して放熱板が展開する。再び、指定位置に鉄鳴がスコープを合せると、山肌しか見えなかった。
「頭部への命中確認。移動を」
観測手が言う事には無事、仕留めたらしい。
「了解」
鉄鳴は頷くと、相棒と共に第二狙撃ポイントまでの後退を開始する。
「見事に柘榴でしたよ」
相棒はそう言った。着弾の瞬間、爆ぜたらしい。
その後も鉄鳴は相棒の観測のもと、ポイントを移しながら狙撃を続け、敵の副隊長や小隊長ら、軒並みの仕官・下士官を射殺した。さらに仕掛けておいた罠に誘い込んで一般兵達にも多大な被害を与えてゆく。
指揮官を失い、さらに罠にはまって大きな被害を被った中隊は、射線の通らない場所に入るとそれ以上の前進も後退もしばらくしなくなった。どうやら恐怖と混乱が部隊内に蔓延して進退窮まったらしい。
やがて、政府側より二個中隊が到着したとの連絡が入った。鉄鳴と相棒の仕事はここまでだ。あとは正規軍が、大幅に弱体化した敵軍を倍以上の戦力で叩きのめして、手柄とするのだろう。
「任務完了だ」
「……私達、もしかしたら、一大戦局転換になったかもしれない敵の奇襲作戦を潰す事に成功したんですよね? 諜報部もお手柄ですけど、でも、もしかして、私達だって、すごく、英雄的なことだったんじゃないですか?」
「任務完了だ」
鉄鳴は少女に繰り返した。
顔を向け、水の入ったペットボトルを投げ渡し、言う。
「報酬貰って次の仕事に行くぞ」
「何故ですか」
受け取ったペットボトルを握り締めて少女は言った。
壮年の傭兵は答えた。
「そういう契約だ。アウル覚醒者の傭兵など、そういうものだ」
二重苦である。
しかしアウル覚醒者がなれるものなど。
「……グレート・ウォー、来るんですよね。ねえ、どさくさに紛れてどっかの辺境にでも国を作りませんか。私達アウル覚醒者の。鉄鳴ならできると思うんです」
鉄鳴はつまらない冗談を言う――と思い相棒の顔を見て、そして、その瞳に真剣な光が宿っている事を確認し、正気を疑った。
(何を馬鹿な)
子供みたいなことを、と思い――そして、目の前の少女がそういえばまだ十五歳に過ぎないのだという事を思い出した。
「うんざりなんです」
「そうか」
鉄鳴は頷いた。極端なほどの現実主義者で厭世家な性格の己に、相棒は一体何を見たのか、と思う。
少女が言うそんな事は到底不可能であろうという事、その根拠を説明することはいくらでも出来る。しかし。
己はこの相棒に向かって、どのような言葉で、答えてやるべきなのだろうか。
少しの沈黙の後、三十余歳になっていた牙撃鉄鳴は言った。
「三度目だ。任務完了だ。報酬貰って次の仕事に行くぞ」
「……ッ!!」
ブシュッとペットボトルが音を立てて潰れた。
その音を、鉄鳴は聞いた。
壮年の男がオフロード車の幌を開き、車内の座席を倒して寝転がって、青い空を流れてゆく雲を眺めていると、どすんと隣の席に少女が座った。
鉄鳴はシートを起こすと、膨れ面の少女へと地図を手渡した。
「ナビゲートを頼む、観測手」
「……三時の方向へ発進どうぞ」
「了解」
壮年の男はキーを回してエンジンをかけ、ハンドルとクラッチ、アクセルを操作して車を発進させる。
オフロード車はがなるようにエンジンの駆動音をあげて、荒野の彼方へと向かって走り去って行った。
●
漆黒に広がる夜の海。
黒く塗り潰された世界の中で、一点、輝く光があった。
近づけば、それは街の光だと解る。
久遠ヶ原島。
日本国が茨城県の東、太平洋上に浮かぶ人工島だ。
2016年の初め、日本のみならず世界の各地が天界の軍勢に制圧されてゆく中、安全を求めて多くの人が流入し、島は拡大・拡張され、今では海上要塞の如き装いで、それは世界最大を誇る一大拠点と化していた。
人が多く密集すれば、問題は多く起こる。地下に建設された”プラント”のおかげで食料事情は賄われているが、島に住む多くの住民の生活状況はお世辞にも良いとはいえなかった。
しかし、それでも、島の外に比べれば”非常にマシ”と言って良かった。
天の対抗馬たる冥魔も敗れ去って異界に退却し、既に、久遠ヶ原島の外、地球上のほとんどは天の百万の軍勢とその主達が支配する領域となり果てていた。
「この終末の――」
小田切ルビィ(
ja0841)はカメラを回して島の風景を撮影しつつ、半世紀以上も前にアメリカで出版された、世界の滅亡を描いた小説の一節を口遊んでいた。
浜辺での詩だ。
「――ハッ!」
銀髪赤眼の男は鼻を鳴らした。
カメラに映る風景は、詩とは違う。
薄汚れた子供、くたびれ果てた老人、呆けた顔で空を見上げて動かない婦人、資材を担いで歯を食いしばっている男、陽気に笑っている女、天界ではない神に祈りを捧げる者、何も表情に浮かべず前を見て淡々と歩いてゆく者、十人十色。
混沌がそこにはあった。
「密やかに滅びを受け入れるなんざ、死んでも御免だぜ」
最後の最後まで足掻き、未来を信じ続ける、それが小田切ルビィの生であった。
●
薄暗い倉庫の中、LEDカンテラの灯りを中心に男達が車座に座り地図を前にして言葉を交わしていた。
「偽情報をリークして天魔勢を誘導、か……それが可能であるならば、効果的かもしれないが……どんな情報で、どうやって?」
「海を渡って上陸というのも、当然、船が必要になるが……調達するあてはあるのか?」
『久遠ヶ原義勇青年団』の面々は口々に疑問と不安を述べた。
彼等の視線が向く先リーダーたるブロンド赤眼の男、カルロ・ベルリーニ(
jc1017)である。
180cmの長身を軍服で包んだ二十代半ばの若者に見えるはぐれ悪魔だ。
かつては『ただ戦争がしたい』という理由だけで冥界各地を転戦し『より良い戦争ができそうだから』、『片方よりも両方相手にした方が面白そう』という理由で久遠ヶ原へとやって来た筋金入りの戦争狂である。
ブロンドの男は口元に微笑を浮かべながら芝居がかった口調で述べた、
「あぁ、君達の疑問はもっともだ。だが何ら問題はないな! 偽情報をばら撒く為の算段は闇に輝く極星の瞬きよりも明瞭に既につけられてる。詳細は伏せるが、協力者達からは確かな感触を得たとの連絡を受けている。船については高速魚雷艇を二百隻、学園からこの作戦の為に貸与を取り付けてきた。それだけあれば我等連隊二千人、全員が搭乗可能だ。魚雷艇は時代遅れの型落ちだけれど、速度だけは今でも一級品だ。足として使うだけなら問題ないだろう。何も心配はいらない。君達は武器の整備をしながら来るべき時を待っていれば良い」
「おぉ……!」
「そうか、流石はカルロ!」
なりたての新米からベテランまで、幅広い層の撃退士から構成される青年団は着々と準備を整えていっている。
一方、
「戦いに絶対はありません。最善を尽くしましょう」
黒井 明斗(
jb0525)は島内の防衛施設の点検がてら、仲間達を励まして回っていた。
十六歳程度に見える、眼鏡をかけた黒髪の少年だ。
まだ若いが、その戦いの軌跡は歴戦、ここまで生き残ったのは伊達ではなく、彼は非常に優れたアストラルヴァンガードだった。
「ただ死にはしませんよ」
一通りの見回りを終えた後、レーションを食べつつ、自身の武装の手入れをしながら少年は呟いた。
翳した白銀の槍の刃が、ランタンの明かりを反射し、紅蓮の光を宿していた。
「いよいよこの島にも天界軍が来るのね……」
学園の一室、多くの時を過ごした部室の一席でナナリエル(
jb3008)は俯いた。
「……今夜、最終便がでます」
女の声が響いて、コトリ、と音が鳴った。
ナナリエルが顔を上げると、目の前の勉強机に湯気立つマグカップが置かれていた。
「世界の何処かにはまだ、天界軍の手が及んでいない地域もあるそうですよ」
もう一個のマグカップを手にした濡羽色の髪の娘――生徒会長・神楽坂茜が、ナナリエルが着いている机の傍に椅子を引っ張ってきて、腰を降ろす。
「そう……有難う」
ナナリエルはマグカップに手を伸ばすと口をつけて湯気立つ中身を飲んだ。コーンポタージュだった。黄色白の液体は甘く、暖かかった。
「美味しいわね」
紫髪の童女は脱出船の事には触れなかった。
多くの人が、船に乗って新天地を目指すという。
ナナリエルは乗る気はなかった。
その船に己が乗らなければ、席は一つ空くだろう。
ただ、乗船者達が無事天界軍に制圧されていない新しい住処を見つけられる事そしてそこに天界軍がやってこない事を祈った。
「……作り方とか、前に教えてもらいましたから」
そんなナナリエルに対し、茜は微苦笑を洩らすだけに留めて、そう言った。
「腕をあげたわね、インスタントでないとは驚きだわ」
「あら、私だって進歩するんですよ?」
そんな事を言い合ってくすくすと笑いつつカップに口つける。
ずずっと、ポタージュを啜る音が二人だけでがらんとした室内に響いた。
「ナナちゃん、良ければこれを」
しばし雑談した後に、茜が手提げの袋から帽子を一つ取り出して、差し出してきた。
「あら……帽子?」
ナナリエルは帽子を受け取ってしげしげと眺めた。ナナリエルにピッタリ合いそうなサイズだった。
「はい、幸運を呼ぶ帽子です。ナナちゃんの身を守ってくれると良いな、と思って作ってみました」
「手作りなのっ?」
ナナリエルは吃驚した。
「料理以外なら大体出来ます」
「さすが茜、器用ねぇ……有難う。似合うかしら?」
ナナリエルは早速かぶってみた。
「有難うございます。うん、うん、良い感じですよ」
ぽむと両手を併せて叩き、へらっと茜が笑った。
「そう? 良かったわ」
にこっとナナリエルも微笑した。
終末の時へと向かって夜は更けてゆく。
●
夜明け前。
夜来野 遥久(
ja6843)はいつもの通りに、静かに装備の確認を行なっていた。
蟹の甲羅のような模様が描かれた愛用の盾は、その表面に多くの傷を残しつつも、過去と変わらない頑強さを誇っていた。
遥久が布でその表面を拭えば、盾はそれに応えて鈍い輝きを取り戻した。
盾の確認を終え遥久はふと周囲を眺める。多くは、悲壮な表情か、あるいは、いつもと変わらぬ様子だった。
ファッションの勇敢さが幅を効かせる時期はもう過ぎたらしい。
この期に及んで武器を手に取るのは、信念への殉教者か、もしくは相当に諦めの悪い連中のみ。
死兵だ。
『――全員での無事帰還を』
それでも遥久は戦いのたびずっと願ってきたことを同じように願い、そして苦く笑った。
不可能な願いだ。
だが、それでも遥久は願った。
これまでの、ように。
「思えば色々あったもんだな」
傍らで声がした。視線を向ければ、月居 愁也(
ja6837)もまた、まったくいつもの調子のままであった。
悲壮感はなく恐怖もない――何故? と人は思うかもしれない。酔ったように生き、夢と思って死ぬのか。
否。
赤髪の青年は思っていた。
”細く長く生きるより、太く短く濃い人生を”
と。
学園へ来たことで愁也の人生は随分と色づいて楽しいものになった。
だからこそ、最後までこの力は『人』として『人』のために。
その思いがある。
「そうだな」
遥久は頷いた。
二人の青年は魔具の手入れをしつつ、学園での出来事を振り返りあれやこれや思い出話に花を咲かせる。
そんな中、不意に愁也が言った。
「お前ならこの先も生き延びれるんじゃねえの」
と。
赤髪の青年は続いて”俺は無理っぽいけど”とへらりと呟く。
「どうだろうな」
遥久は何気なく応えた。
「お前のいない世界はつまらない」
と。
「それに鉄砲玉の回収は俺の役目だ」
言って遥久が視線を向けると、愁也はぽかーんとした顔をしていた。
そして、次の刹那、そのまま崩れ落ちた。
「どうした?」
声をかけるも愁也は蹲ったままで、返答がない。
良く見るとその耳までが真っ赤に染まっている。
「……仕方ない」
遥久は軽く息を吐いた。
「持ち場へ向かうのは五分待ってやるか」
言うと今度は返答があった。
「うん、わかった、とりあえず五分ほど放置で頼むわ」
愁也のそんな声を聞きつつ、遥久は彼方へと視線をやる。
群青の闇に包まれた東の空に光が差し、太陽が昇らんとしていた。
●
夜が明けた。
カルロの協力者達の働きにより、愛知県・静岡県からの人類側の反攻作戦があるとの偽報が天界軍に伝えられ、一部がそれへの警戒へと向かっていたが、しかし天界軍は大兵力であり、警戒の戦力を割いてなお、久遠ヶ原島を圧倒する大多数で攻め寄せてきていた。
「いよいよ天使の軍勢と……」
島の城壁上に立つリアン(
jb8788)は魔法書を手にして空を睨んだ。夥しい数の天使達が空から迫りくる。
「全ては……私の御護りするあの方が、平穏に過ごせる世界を創る為」
青年が左手に持つ魔法書が開かれると、風に吹かれるようにページが勢い良くめくれてゆく。黄金色の光が迸った。
「退がれ、招かれざる天の使いどもよ!」
青髪紫瞳の青年が右腕を振り上げると書物より黄金の光が立ち昇って腕へと絡みつき、青年が一閃して振り下ろすと光は空へと向かって伸び、途中で黄金に輝く炎へと変化して、先頭の天使へと襲い掛かってゆく。
炎が鎧兜に身を包んだ天使を呑み込み、一瞬で消し炭に変えて地上へと撃ち落してゆく。
(お嬢……!)
だが、その傍らを抜けて、まったく無傷の無数の天使達が一斉にリアンへと殺到して来る。リアンは魔法書を虚空へ消し去ると、同様に虚空から赤と青の槍を一本づつ出現させ、両手に構え、背より翼を出現させながら空へと向かって飛翔した。
●
「――空を蝗のように天使とサーバントが飛び交い覆っている。百万の天使の軍勢。地上より天空を睨み上げ立ち向かうは撃退士……」
小田切ルビィは塔の上より、ひたすらにカメラを回し始めていた。戦いの記録。ここに生きていた者達の証明。撃退士達の姿を撮影してゆく。
「始まったか……」
鬼無里 鴉鳥(
ja7179)は呟き、味方の弾幕を抜け稲妻の如くに天より突っ込んで来た天使の一体へと大太刀を一瞬、顕現させると、常人の目には目視も適わぬ程の速度で抜刀ざまに斬り抜いた。
光が一閃、宙にはしり、鮮やかに赤い液体をぶちまけながら、鴉鳥の傍らを身を両断された天使が突き抜け、大地に激突して転がる。
間髪入れずに次々と飛来する天使と飛行サーバントに対し、鴉鳥は同様にすれ違いに身をかわしつつ大太刀を手品のように消したり出現させざま、居合いの斬撃を連続して放って斬り伏せてゆく。
「距離を取るか?」
周囲に骸の山を築いた鴉鳥は、天使達が突撃を中止し空中でその手に雷光を膨れ上がらせ始めているのを見て、その赤と黄金色の瞳を細めた。
「だが、遅いな」
言葉が響き終わった時には既に、長大に伸びた黒焔の斬閃が天空を無数に斬り刻んでいた。斬天の刃。
空から赤い雨が降り、薙ぎ払われ一瞬で斬り刻まれた天魔達が身体を分かたれながら地へと落下してゆく。
「……結局、何もなくなっちゃった……」
鴉女 絢(
jb2708)は虚ろな瞳で、最前線の後方に位置取り、長い銃身にスコープやバランサーが搭載されたライフルを構えていた。
スコープの中に、味方の撃退士へと斬りつけている天使の姿が見えた。
精密機械のように素早く照準を天使の頭部へと合わせ、引き金を絞る。
刹那、旋状に回転しながらライフル弾が空気を裂いて飛び出し、雷光の如き速度で天使の頭部に突き刺さった。側頭部より赤い色を宙へと撒き散らしながら、仰向けに天使が倒れてゆく。
その間にも絢は次々に標的を移して引き金を絞っていた。天使達の頭部が砕かれ、砕かれ、砕かれ、数秒のうちに十数体の天使達が頭部を貫かれ、赤色をぶちまけながら倒れてゆく。
死神がそこに居た。
「諦めてはいない」
遥久は金糸を放って突撃してきたサーバント達を次々に切り裂いた。
「へえ?」
その背を守るように愁也が立ち、空へとライフルを向けフルオートに入れ猛射、薙ぎ払うように群がるサーバントと天使達をまとめて撃ち落してゆく。
「ただ」
遥久は糸を消して符を出現させた。男の身より光が吹き上がり、翳すその手より氷の刃が勢い良く噴出した。
煌き唸る氷刃が天使の首元へと炸裂し、そのまま真っ二つに両断して抜けてゆく。
鮮血が吹き上がり首が飛ぶ。
「標のない世界を生きるつもりはない、それだけの話だ」
「まっ――!」
愁也は天使より落雷の如く振り下ろされた剣をライフルの銃身で受け止めると、下腹部を蹴り上げ、銃底を振り上げて天使の顎をかち上げると、よろめいたその天使の顔面へと銃口を突きつけて引き金をひく。
爆砕。
「お前の言うとおりだな」
愁也はさらに振り向きざまに横から迫ってきてたサーバントへとバースト射撃し吹き飛ばし、笑う。
「俺だってつまんねえよ」
親友が消えてしまったら、そんな世界の何が面白いのか。
故に、
「最後の最後まで隣に立ってやる」
「ふ――その調子だな。倒れるものか」
銀髪の男と赤毛の男は背中合わせに立ち、二人の周囲を囲む天界軍に対し氷の刃を飛ばし、アサルトライフルで弾丸を猛射してゆく。
一方、
「あぁっ!」
紫の童女が一撃を受け止めたものの堪え切れずに吹き飛んで、島内の街のストリートに転がった。
最前線の撃退士達は、圧倒的な物量差を前にしても鬼神の如き戦いぶりで善戦していたが、敵は数が多く、そして空を飛べるものも多かった。天界軍の一部は前線を越えて一般人達が避難して立て篭もっている中央にまで迫り来ていた。
燃える二重の車輪を繋ぐ中央に巨大な肉塊を持ち複数の顔がついた化け物が、高速回転する円刃で石を切断する時に鳴るような甲高い音を響かせながらナナリエルに向き直った。
蒼白く輝く無数の瞳が、酷薄な狩猟性をおびた光を宿して、一斉に童女を睨み据えた。殺気。
「ひっ――!」
童女の腹の底に氷の刃でも突き込まれたかのように冷たい悪寒が走り、路上に転がったナナリエルは這うように後ろに下がりながら、近寄らせないようにぶんぶんショートスピアを振り回した。
――力が違いすぎる。
ナナリエルは戦いにおいて、ほとんど素人同然だった。
久遠ヶ原の学園生ではあったが、戦いは苦手で、戦闘依頼を受けたことは無かった。その戦闘力はいうなればLv1である。
激戦に次ぐ激戦で、ここまで生き延びている撃退士達の中にはLv99突破しているような者達も多かったが、ナナリエルにその力はなかった。街の区画にまで敵が浸透してきたことを受けて、勇気を出して仲間達と共に出撃し、頑張って戦っているが、役に立つどころか足を引っ張っているような有様だった。
「ナナ――くそっ!」
蒼白い光を纏った髑髏の騎士と斬り結んでいる仲間の一人が振り向いて叫ぶも、次の瞬間斬りつけられて、再びそちらに向き直って剣で受け止める。手練達は皆、最前線のほうへと出払ってしまっていて、後方に残っているのは戦闘を不得手とする者達が多かった。
周囲の撃退士達は皆、眼前の相手に手一杯のようで、誰も助けにこれる余裕はなさそうで――車輪の顔がニィと笑みの形に歪められ、車輪が高速で回転し高速で突っ込んで来る。
刹那、天空より無数の矢の嵐と、光り輝く彗星が車輪の天魔へと降り注いだ。
貫かれた天魔が白目を剥き、車輪の片方が彗星に粉砕されて、スピンするも、勢いのままナナリエルへと向かって来る。
激突する瞬間、赤い光が空から地上へと降り立った。
紅蓮の光の斬線が無数に宙に浮かび、車輪の天魔が細切れにされて、血飛沫を撒き散らしながら路上に崩れ落ちる。
「会長!」
黒井明斗は地上へと降下しながら再び彗星を放った。降り注ぐ光雨に爆砕された牛頭の天魔が吹き飛び、家屋の壁に叩きつけられて転がり動かなくなる。
空から次々に手練の撃退士達が降下してきて周囲の天魔を一掃してゆく。
「大丈夫、返り血です」
真っ赤に全身を染めた女は隣に降り立った明斗へとそう答えた。
「血に毒がある奴もいますから、気をつけてくださいね」
「はい」
「茜……?」
ナナリエルが呼びかけると、濡羽色の長い神の女は顔を拭いながら振り返って、心配そうな顔で、
「ナナちゃん、ご無事ですか?」
とナナリエルの傍らに膝をついて問いかけてきた。
「え、ええ、なんとか」
「良かった」
ナナリエルが答えると茜はほっとしたように微笑んだ。
「有難う……」
ナナリエルは血に汚れた姿の女を見つめて思った。自分にもっと力があれば、と。
「ナナちゃん…………どうか、ご無事で」
茜は一瞬ナナリエルへと血塗れの手を伸ばしかけて、次いで一度瞳を閉じると手を引っ込めて立ち上がった。
「会長」
明斗が茜へと述べ、
「はい。行きましょう明斗さん」
女は頷くと、明斗ら精鋭達と共に再び空へと飛翔していって、ナナリエルは地上から遠ざかって行くその背を瞳に映していた。
●
(読まれていた……? いや、そういう対応の仕方ではないな……)
カルロをリーダーとする二千人ばかりの『久遠ヶ原義勇青年団』は二手に別れ、高速魚雷艇で、敵の後方拠点である東京を突くべく、千葉県北西部および神奈川県から上陸していたが、上陸直後に天使の部隊による襲撃を受けていた。
(久遠ヶ原島にあれだけの数で攻め、陽動警戒に数を割かれてもなお、単純に監視網が厚いのか……!)
大兵に兵法無し。
戦略が戦術に勝る由縁だ。
「はは、天界軍は呆れるくらい兵力甚大だな。一割で良いから分けて欲しいものだよ」
カルロは笑いながら空へとショットガンの銃口を回すと、迫り着ていた天使の身へと散弾を叩き込んで爆砕し、吹き飛ばす。
「カルロ! どうするっ?!」
うろたえる仲間達からの声に対しブロンドの青年は腕を一閃し彼方を指した。
「進めッ!!」
それは、ある種の戯曲の一場面のような響きを宿していた。
ピタリと止められた指先が向けられた方向は、東京。
「我々に中断の文字は無い!! 諸君、山肌を転がり落ちる岩が果たして途中で止まるだろうか? 益荒男たる岩は目標を粉砕するか、自らが砕け散るまで転がるのみである! 幸い敵の数はそこまででもない! すべてを蹴散らし、かの地へ一撃を加えるのだ!!」
カルロの声に団員達は「おお!」と気合の声で応える。
行く手には暗雲しかなかったが、いずれも士気だけは皆、高かった。
カルロは笑う。
(天使諸君、暫く付き合ってもらうぞ――私の戦争に!)
●
光が奔る。
黒い水兵服姿の少女が、海辺付近の外壁の上をマフラーと銀髪を靡かせながら駆けていた。
鬼無里鴉鳥は膨大な黒焔のアウルを大太刀に収斂させると、裂帛の気合の声と共に振り向きざまに一閃、斬撃は漆黒の閃光と化して、砲撃の如く撃ち放たれ一直線上を貫いた。
少女を追っていた巨大な白蛙や大蛇、半魚人らが薙ぎ払われて砕けながら吹き飛んでゆく。
が、閃光の範囲の外側にいた半魚人達が銛を手に駆け寄り飛び掛ってくる。
次々に突き出される銛をかわしながら鴉鳥は大太刀を消しては出現させて居合いの一閃を放ち斬り伏せてゆく。
(何体斬った?)
返り血をかわす余裕もなくなり、赤く染まり、肩で息をしながら、鴉鳥は囲まれぬように常に機動しながら大太刀を振るってゆく。
サーバント、天使併せて何体斬ったのか、三十あたりで数えるのは早々に放棄したが、百は斬り伏せただろう。だが敵は後から後から雲霞の如くに湧いて来る。なんせ百万の軍勢だ。
(他の味方はどこへいった?)
気付けば、周囲にいるのはほとんど敵ばかりになっている。城壁上にまだ少しは残っているようだが、圧倒的に少数だ。
駆けながら太刀を振るっていると、行く手に壁が見えた。
敵味方の骸が転がっている。
赤い床と壁だ。
どうやら、城壁の角に入ってしまったらしい。
空中で遠巻きにしていた天使達がそれを見て好機と見たか、彗星の如くに次々と剣を構えて突撃してくる。
それを見た鴉鳥は『力』を具現させた。
左瞳が黒く染まり、右瞳も黄金の獣瞳へと変化してゆく。
刀身に黒焔を集めると伸ばし、長大な黒い火の刃を形成せしめる。
次の刹那、
「ハァッ!!」
空間を無数に黒い斬線が走りぬけ、天使とサーバント達がまとめて滅多斬りにされて吹き飛んでゆく。
少女は荒い息をつきつつも、血煙の彼方からさらに迫り来る敵を睨みつけ、構えを取る。
肺は破裂しそうで、腕は鉛のように重く、疲労で目も霞んできた。幾多の敵を屠ろうと、まるで先の見えぬ焦燥と絶望感がのしかかってくる。
だが、それでも振るわれる刃は鈍らなかった。
島の中央には皆がいる。
何より茜がいる。
飛行する敵の何割かは防衛ラインを超えて突破してしまったようだが、それでも膨大な数の歩兵が雪崩れ込むのと込まないのとでは状況はまるで違う。
敵はここで防いでいなければならなかった。
(私の宝石を、穢させる訳にはいかぬだろうが……!)
鴉鳥は迫る天魔の群れを待ち構え――群れは、横合いからの矢と彗星の嵐に穿たれて吹き飛んだ。
「なっ?」
そして、
「呉葉ちゃん!」
声が響き、血塗れの黒髪娘が現れた。
「茜、殿……? 何故、ここに?!」
神楽坂茜の姿を認めて、鴉鳥は目を見張った。
「無事でよかった……!」
茜は目元を緩めた。
「今の状況下では前に出るべきだと思いましたので来ました。城壁上の敵を一掃します。敵の歩兵を中央になだれ込ませる訳にはいきません。戦えますか?」
「……心得た。無論、まだまだやれるとも!」
鴉鳥は茜が率いてきた隊と合流すると来た道を引き返し、共に城壁の上から天魔を一掃してゆく。
「天界軍の勢いが……弱くなった?」
狙撃ポイントに敵が迫り、アサルトライフルに切り替えて猛射していた絢が最初にそれに気付いた。
「なあこれ、結構いけるんじゃねーの?」
返り血を浴びて血塗れの愁也がぜいぜいと肩で息をし、銃を杖にして立ながら言う。
「ええ、戦いに絶対はありません。寄せ手は怯んでいますよ!」
笑顔を向けて明斗が言う。城壁に張りついていた天魔達は潮がひくように後退していった。
「第一陣は退けたか……」
遥久は呟き、海上と空と本土とを繋ぐ大橋――戦いの前に落としていたのだが、天界軍が補強して復旧させていた――を睨む。
だが天界軍の数は依然として膨大であり、決して楽観は出来ぬ状況だ。
(敵は、次は、どう動く……?)
リアンは蠢く大量の天の軍勢を睨みながら胸中で呟いたのだった。
●
一方。
久遠ヶ原義勇青年団は猛進しておよそ八百名が東京へと辿りついていた。
しかし、都内に入ると廃墟と化している街のあちこちからサーバントと天使が湧いてきて、カルロ達へと猛然と襲い掛かった。
どうやら待ち伏せをされていたらしい。
四方を幾重にも包囲された青年団は、方円の陣形を取り、中央に久遠ヶ原校旗とベルリーニ家の家紋を基にデザインされた青年団旗を立て、頑強に抵抗した。
銃火が轟きサーバントが砕け、雷光が爆ぜ、刃が閃く。
斬り裂かれた天使が血飛沫をぶちまけながら倒れ、撃退士が消し炭になって消し飛んでゆく。
時の経過と共に、敵味方の数千の骸が都内に転がり、撃退士側は血塗れのカルロが最後にただ一人残った。
彼は笑っていた。
「ああ、実に良い……とても良い戦争だった」
ブロンドの青年は両腕を広げ、天魔が彼を屠るべく殺到した。
その手から『天馬に騎乗する死神』が刻まれた拳銃が吹き飛び、音を立てて岩片と肉片が飛び散っている路上に転がっていった。
●
「また来やがった……!」
小田切ルビィがカメラを回しながら言った。
第一陣は無秩序な突撃だったが、今度の天界軍部隊は整然としたものだった。
大盾を構えた木乃伊騎士型のサーバントを前衛に、後方上空に長大な光の弓を携えた天使達が飛行し、その周囲を槍を手に背から翼を生やす夥しい数の鳥人型サーバントが護衛している。
彼等は速度を合わせ足並みを揃えって、大橋の上を進軍してくる。
そして、先頭に立つのは、
「ザインエル……!」
見覚えのある顔を発見し、ルビィは呻いた。
機動する殺戮兵器、神の剣、黄金光の戦神、ザインエル。
「会長サン」
小田切ルビィは最後に仇敵の姿を撮影すると、次いでそのカメラを生徒会長へと手渡した。写し続けた戦いの記録全てを、青年は茜に託した。
「もし、戦線が崩壊した場合は……会長サン、アンタだけは生き延びてくれ。大将さえ生きてりゃ、希望はある」
カメラを受け取った神楽坂茜は無表情で、ルビィの赤い瞳をじっと見つめた。
それに、
「例え、ここで死する事になっても、命の使い方に後悔はない」
血塗れになっている鴉鳥もまた言った。
「只一つ、思う事があるなら――私は、自分が如何なっても、茜殿には生きて欲しい。そして叶うなら、その後に笑っていて欲しい……だから」
濡羽髪の娘は、鴉鳥の言葉を聞いて瞑目した。
「…………有難うございます、お二人とも。お気持ちは、とても嬉しいです」
女は黒い瞳を開くと、柔らかく微笑した。
「私がただの一人の女なら、頷いて、このカメラを持って逃げました。けれど、私はおっしゃる通り大将です」
そして、茜は笑みを消した。
生真面目な表情で淡々と言う。
「島には多くの人々が残されています。彼等をすべて乗せてゆける船もありませんし、例えあったとしても、そんな大人数を天界軍が見逃してくれるとも思えません」
侵略者達は一般人含め数百万を数える人間達を見逃す程、甘くはない。
「ですから、私はこの島で戦おうと呼びかけました」
そして、一縷の望みをかけて、あるいは、死に場所を求めて、学園生のみならず多くの撃退士が、この島に集まって、天界軍とこうして戦っている。
「大将は、逃げて良い時といけない時があり、今の状況は逃げてはいけないと思います。何故なら、死ぬ可能性が高いと、最初から分かりきっている戦いだからです。そして私はそれでも戦おうと言った人間です。それでも命を賭けて戦おうと言った人間が、土壇場で最後に逃げたと知ったら、私を信じて死んでいった皆さんは、この島に残って死んでゆく皆さんは、悲しいんじゃないでしょうか。だから、私はこの島に残る人達と最後まで運命を共にします」
だから、と、茜はルビィと鴉鳥へと言う。
「だから――御免なさい。お二人は私に生きていて欲しいのでしょうけど、その望みは聞けません。許してください。ルビィさん、いよいよとなったら逃げる、という条件で、中央の守りについている撃退士達もいます。その中にシィール・クラウンというはぐれ悪魔の娘がいます。お知り合いであると聞いています。彼女なら、きっと、このカメラの中におさめられたものを無碍には扱わないでしょう。私の名前を出せば、聞いてくれる筈です」
「…………シィールか、ああ、確かに、知っている」
茜の説得に失敗した小田切ルビィは返されたカメラを受け取り、頷いた。あの臆病な娘が未だに島に残っていたとは驚きだ、条件付とはいえ。
「わかったよ……決意は固いみたいだな。なら仕方ねぇ……でも会長サン、それでも、出来れば、死ぬなよ」
「……善処します」
「便利な言葉ダヨナそれ」
「ふ――世間様のせいでそういわれる可哀想な言葉だと思います。ほんとですよ、私だって死にたい訳じゃないんですから、可能な限りの努力はします。負けませんよ」
「はは、そうかい……じゃあな! せめて俺が戻ってくるまで死ぬなよ!」
ルビィは踵を返して駆け出した。
それからしばし後、天界軍が迫り来て、修復されていた橋から島に入る正面の門が、ザインエルの大剣より放たれた黄金の爆光を受けて、紙切れの如くに吹き飛んだ。
●
空でリアンの身が回転した。
左右の手に握った短槍を振るい、周囲の天使達へと斬りつける。
一体を斬り、二体を斬り、三体を突き、四体、五体、六体と薙ぎ払う、しかし、七体目の首を刎ね飛ばした所で、運が尽きた。
彼方より巨大な黄金の爆光が飛来し、リアンは咄嗟に身をさばいたもののかわしきれず、光は脇腹をごっそりと抉り取って抜けていった。真っ赤な血肉が宙へと撒き散らされる。
「……ッ!」
凶悪な一撃にリアンの身は弾き飛ばされて大きく吹き飛び、独楽のように回転しながら島へと向かって落下してゆく。
世界が目まぐるしくまわり、激痛の中、赤色を撒き散らす彗星のように落ちてゆきながらリアンは思う。
圧倒的な脅威の上にはこの心さえ通わないのか、と。
(こんなにも……こんなにも。真っ直ぐ前だけを見詰めているのに)
衝撃。
男の身は島の城壁内の赤い水溜りに叩きつけられ、何度か弾んで転がり、仰向けに倒れて止まった。
立ち上がらんともがく。痙攣する身に力を込め、上体を起こしてゆく。
周囲は、敵味方の骸で埋まり、真っ赤に染まっていた。血の海だ。
(神と言う存在が居るならば……無慈悲、だ)
眩暈がして、力が抜け、後頭部が血溜まりの上にパシャンと落ちた。
――お嬢……最期の刻が来ているようです。
ぼやけた視界の中、空より槍を持った鳥人型サーバント達が己に向かって降下してきているのが見える。
思う。
ここで自らが死に、お嬢だけを置いて消えてしまったら、お嬢はどうなってしまうのか。
――生きねば。
リアンは叫び声をあげた。
視界がぐらぐらと回る中、歯を食いしばって身を起こし、震える膝を立て、立ち上がる。
――足掻いて転んで立ち上がり、また転んでも……ッ!
槍を失った男はその手に魔法書を出現させ、黄金の光を立ち昇らせる。
次の瞬間、
「お」
空から飛来した無数の光の矢が、スコールの如くに立ち上がった青年の身を貫いた。成す術も無くリアンが血の池に転倒し赤い飛沫があがる。
「じょ」
降下してきた鳥人型サーバント達が倒れた男へと次々に槍を撃ち込み、串刺しにして地面へと縫い付けてゆく。
「う」
鳥人型サーバント達は、一斉にその嘴でリアンに噛みついた。ブチブチと喰いちぎりながら空へと飛翔してゆく。
もはや痛みすらも感じなくなった。
リアンの口からごぼりと血の塊が吐き出された。
運命は、残酷だった。
目の前が暗くなってゆく。
何も見えなくなる。
――せめて。
――最期に御尊顔を拝見したかった。お嬢の笑みを見たかった。
――これからは……ご主人様達と同じく。
――星になり、風になり……お嬢を……ずっと…………
やがて、意識すらも闇の中に溶けて消え、男は呼吸を止めた。
●
鴉女絢は宙を翔けていた、目まぐるしく飛び回りながら己を追ってくる鳥人型サーバントの一体へとアサルトライフルの銃口を向け一射、ヘッドショットを決めて撃墜し、横手から突っ込んで来た鳥人サーバントへと左目を瞑り右目にアウルを集中させ睨みつける。
――最後の一発。
目視不可の魔弾が唸りをあげて飛び、鳥人の頭部が爆砕されて吹き飛んだ。
直後、光の矢が嵐の如く飛来し、絢の身に次々に突き刺さった。無数の矢に貫かれた絢は、バランスを崩し、錐揉みながら島の街の家屋の屋根の上へと落下してゆく。
激突、衝撃、屋根の上に身体が転がる。
青い空が見えた。
「はぁ……はぁ……っ!」
心臓が破裂しそうな程に脈打っている。身体は鉛の如くに重く、どこが痛いのか解らない程に激痛に苛まれている。
銃を持つ右腕を持ち上げようとしたら、腕が変な方向に曲がって、脳髄が焼き切れそうな程の痛みが走った。
「あはっ…………あははっ!」
絢は笑った。
声をあげて笑って、自棄のように勢い良く身を起こし、そして、真顔になった。
彼方に舞う天使達が絢へと一斉に光の弓矢を引き絞っていた。きらきらと輝いている。まるで、渚に反射する光のようだった。
嘴を赤く濡らした鳥人型のサーバント達が群れを成して迫って来る。
「…………ここまで、かな……」
絢はアサルトライフルを抱くと、
「……天使にやられる位なら……」
口に咥えて思いきりに引き金をひいた。
轟音と共に銃口から弾丸が放たれ、咥内から上に抜けた弾丸は、少女の脳をぶち浮き頭蓋をぶち抜き空の彼方へと飛んでいった。
爆ぜる。
頭をなくした少女の身体が横に倒れて転がってゆき、飛来した光の矢が屋根を穿ち、破壊を撒き散らしていった。
●
己が死んだら、茜は悼むだろう。
慟哭もするだろう。
だが、そんなのは嫌なのだ。
如何あっても、笑っていて欲しい――
「呉葉ちゃんッ!!!!」
鬼無里鴉鳥、呉葉は数多の天魔を斬り続けたが、その男と激突した時、ついに刀身の方が使い手よりも先に音をあげた。
大太刀が半ばから折れ飛び、回転しながら宙へと吹き飛んでゆく、そして、茜の絶叫が響いていた。
眼前の巨大な影――甲冑に全身を包み込んだ偉丈夫は、その身の丈程の巨大な剣を、まるで柳の棒の如く、軽々と、神速で振るった。
鴉鳥は、熱い何かが己の身体を突き抜けていったのを感じた。
視界が横にずれて、ゆく。
世界が回った。
己の身が両断されたのだと銀髪の少女が気付いたのは、大地に転がった後の事だった。
●
赤い光を全身から爆発させた女がザインエルへと突っ込んだ。
黒井明斗もまたそれに合わせて駆けると甲冑を着込んだ大男へと白銀の槍を突き出した。一閃の槍が、身を捻ったザインエルの甲冑へと中り、その表面を火花を巻き起こしながら滑り抜けてゆく。
赤光の斬閃とザインエルが拳上がりに掲げ上げた大剣とが激突し、男は茜の斬撃を流しつつ間髪入れずに巻き打ちで剣を振り下ろした。
茜はすり抜けるように横にかわしながら再度斬りつけ、明斗もまた槍を回転させて斬り降ろす。剣と剣が激突し、白銀の槍がザインエルの首元を強打した。
金属音と火花を巻き起こしながら高速で剣が閃き槍が唸り激突してゆく。
その最中、
(よーく狙って……)
ナナリエルは物陰からピストルの照準を高速で斬り合っている三者のうち一人、ザインエルへと合わせんとしていた。
(……う)
速すぎて思わず茜や明斗を撃ちそうになってしまい、引き金がなかなか引けない。
すると一際大きな激突の後、三者は互いにはかったように後方に跳び退いた。
(今!)
引き金を絞り、発砲。
弾丸が唸りをあげて飛び、ザインエルは振り向きもせずに大剣を一閃した。弾丸と鋼の大剣が激突して弾かれ、瞬間、
「あぐっ!」
ナナシは足に痛みと熱さを覚えて転倒した。
ザインエルが弾いた弾丸が跳弾しナナシの足を貫いていた。
「ナっ、ナナちゃんっ?!」
悲鳴に茜が思わず視線を走らせ、ザインエルが閃光と化して動いた。
茜は斬撃を咄嗟に受け流したものの鋼鉄の具足を腹に叩き込まれて吹き飛び、石壁に激突して倒れた。
ザインエルが大剣を振り上げて駆け、
「会長ーーーっ!!」
明斗が叫び駆ける。
次の刹那。
ザインエルの大剣が、倒れた茜の前に割って入った明斗が掲げた槍を切断し、少年の肩口から腹部までに喰い込み、路地の横から飛び出して来たルビィの光を喰らう闇を纏った両手剣の切っ先が、ザインエルの甲冑の脇の下から、深々と突き刺さっていた。
「京都での戦い以来か? ――ザインエル! 俺はお前には絶対に負け無ぇ……ッ!!」
燃えるような赤眼の青年が吼えた。
ザインエルは即座に大剣を動かしてルビィを斬り払わんとしたが、思わぬ抵抗を受けて刃がすぐには動かなかった。
「ただでは死にません……ッ!」
黒井明斗が大剣の刃を抑え込むように、まだ動く片腕一本を回して抱きこんでいたのである。
ルビィはさらに一歩を踏み込みながら刃を捻りかき回して押し込んでゆく。ザインエルは咄嗟に片手の平をルビィへと向けるとその手に光を収束し、一閃の爆光として解き放った。
黄金の光の奔流を受けて小田切ルビィの身が木の葉の如くに吹き飛び、ザインエルは大剣を振るって明斗の身を掻っ捌きながら引き抜く。赤いものがぶちまけられ、そして――明斗を見るザインエルの眼光が一瞬、変化した。
明斗は、口から血を吐き、絶命しながらも、背後に倒れている会長を守るように立ち続けていた。既に死んでいた。
未だ立ち続けていたが、既にその心臓は停止していた。
それに気付いたザインエルは、一歩横に動いて明斗の脇を通り抜けると、気絶している茜の頭部に無造作に大剣を叩きつけて爆砕し殺した。
ボロボロになりながらも再び戻ってきたルビィがその様を目撃し、呻いた。
「会長サン……三千世界ってのが本当にあるなら、また別の世界で会おうぜ!」
赤眼の青年は機動する殺戮兵器を睨むと、両手剣を手に雄叫びをあげながら突っ込んでゆく。
一方、ナナリエルは泣いていた。
「私がもっと強かったら……」
景色が滲む。
ザインエルの背の翼より光の粒子が爆発的に噴出されてその姿が掻き消える。
「私、何度生まれ変わっても、たとえ記憶が無くなっても、絶対にまた茜と友達になるから!!」
直後、剣撃の嵐が空間を滅多斬りにしながら突き抜け、ルビィとナナリエルはその身を真っ二つに両断されて吹き飛び、路上に転がった。
●
誰かに呼ばれた気がして、童女は瞳を開いた。
気付くと、見知らぬ場所に立っていた。
ここは、どこだろう?
解らなかった。
今は、何時だろう?
解らなかった。
私は、誰だろう?
解らなかった。
この帽子は、なんだろう?
とても、大切なもののような気がした。
門の前に立っている学生に問いかけると、学生は微笑して、
「ようこそ久遠ヶ原学園へ、私達は貴方を歓迎します」
と、そう言った。
●
遠く、煙が一条、天へと向かって立ち昇っている。
燃えているのだろう。
様々なものが。
あの島より、一般人は資源として連れ去られ、そして他は殺され破壊され燃やされ灰燼に帰した。
「逃亡者、か」
小型船の甲板、既に遠ざかり島影も見えなくなった青い青い大海原のど真ん中、遥久は呟いた。
「悪いな」
愁也は答えた。
あそこで死んでいた方が楽だった、とは言わないが、これからの未来はきっと地獄絵図だろう。
しかし、
「なに……構わんさ」
遥久は視線を船縁へと向けた。
「生き延び、そして人類が存在していた記録を後世に伝える――か」
遥久の視線の先では、カメラを胸に抱いた小柄なはぐれ悪魔の童女が、海の彼方を見つめて立っていた。
「……あると良いな、後世」
遥久が呟き、
「作るのさ後世」
愁也がそう応えた。
「……違いない」
遥久は頷いた。
最後までこの力は『人』として『人』のために。
それが愁也の言葉だった。
故に、愁也と遥久は彼等を除き、会長ら最前線の精鋭達が全滅した後、混乱する島から脱出する船舶の護衛についていた。途絶えさせてはならぬものがそこにあったからだ。
「どこへ行く?」
遥久は問いかけた。
「わからねー」
愁也は応えた。
太平洋は青く青くどこまでも青く広がっていた。
●
「瓦礫だらけの街。何もない街……」
セレス・ダリエ(
ja0189)は崖の上からかつて栄えた都市の残骸を見下ろし呟いた。
「私と一緒」
西暦2017年。
地球は悪魔の支配するところとなっていた。
セレス・ダリエは現状を変える気も無いし、変えようとも思わなかった。
此のまま、時過ぎるまま、流れる様に、流される様に生きている。
無為に。
セレスが山奥の隠れ家へと帰ると、共同生活している人々の目が出迎えた。
皆、暗い顔で、疲れた顔で座り込んでいる。
洞穴の入り口前で、子供がしくしくと声を押し殺して泣いていた。
「……良かったら、私の分食べて……」
セレスは泣いている子供に自分が持っていた最後のビスケットを差し出した。
子供はセレスを見上げて、手の上に乗っているビスケットとセレスの顔を見比べた。
そして、奪い取るように掴むと口の中に放り込みバリバリと貪った。
「……良いのかい?」
傍らの婦人が虚ろな目をセレスへと向けて問いかけ、セレスは頷いた。
「食べる事は大切……でも私には必要ない」
「セレスさん……もう……疲れちまったのかい?」
「……生きるのに疲れた訳じゃない」
セレスは訥々と言った。
「けれども、全てを受け入れて……」
否。
そういう事でもない気がした。
そう、本当は。
「……このまま散ってしまうのが私に似合う気がするだけ……」
セレスは、やはり、淡々と言った。
「……そうかい」
「本当に生きたい、という思いのある人達が生き残るべきだと思う」
「そうかい……ああ、きっと、そうなんだろうね……あんたのその言葉は、正しい……」
婦人は頷いた。
セレスは子供と婦人の隣を通り過ぎ、洞穴の奥へと向かった。
「良い旅路を」
背の方から婦人の声が聞こえた。
洞窟の奥は、暗く、光が届かない。
燃料や電力は貴重だったので、セレスはアウルで光球を出現させるとそれを手に、奥へと進んでいった。
最も奥まで辿り着くと、腰を降ろした。
しばらく、光球に照らされる闇の彼方を見つめていたが、やがてそれも消えた。
周囲はまったくの闇に包まれた。
完全な闇だ。
麓の街は、見渡す限り瓦礫の山だった。
あれが、世界の全て。
セレスは思った。
きっとこれが何時までも、何時までも続くのだろう。私が、消えるその日まで……
●
ざく。
ざく。
ざく。
穴を掘る。
ざく。
ざく。
ざく。
穴を掘る。
狩野 峰雪(
ja0345)は穴を掘っていた。
「これくらいで良いかな……」
峰雪は出来た穴を確認すると、傍らで眠るように目を閉じている少女へと視線をやった。
病だった。
死に水は、峰雪が取った。
まだ若かったのに、と峰雪は嘆いた。
「まだ、若かったのに……」
峰雪はもう一度嘆くと、大振りのナイフを手製の木鞘より引き抜いた。
●
「良いんですか?」
「どうぞ、子育てには栄養が必要だからね」
峰雪は赤子を抱いた雪花へと肉の詰まった木箱を差し出して微笑した。
峰雪は、冥魔の侵攻により、息子も娘も失っていた。故に、幼い子を持つ者の力になろうと動いていた。
「有難うございます、有難うございます」
雪花は涙ながらに何度も峰雪へとお辞儀した。
峰雪はそんなに礼をすることはないと雪花に言いつつ、片手を振ってその場を後にした。
しばらく歩くと、背後から声がかかった。
「ねえ」
女の声。
峰雪が足を止め、振り向くと、そこにはやつれた顔で鋭い眼光を向けて来るパトリシア・スミスが立っていた。
「何かな、パトリシアさん」
「一つ聞く、あの肉、何処で手に入れたの?」
「あぁちょっとそこでね」
「……ちょっとそこ?」
「ちょうど先日亡くなった少女の埋葬をしていたら、野犬が寄ってきてね、それを仕留めたんだ」
「野犬ね……」
青い瞳がじっと、微笑する中年男を睨みつけていた。
峰雪は一片の曇りも無く微笑している。
「インフィルだから狩りは得意なんだ」
「あんた、狂ったの?」
「僕は正気さ。パトリシアさんも食べていくかい?」
「……やめて」
ブロンドの娘は弱々しく首を振った。
「……悪いとはいわないわ。でも私は、皆に伝える。知った上で選ぶべきだと思うの」
「誠実で勘の良い娘さんというのは、嫌いじゃないんだけどね」
峰雪が微笑している。
●
ざく。
ざく。
ざく。
穴を掘る。
ざく。
ざく。
ざく。
穴を掘る。
狩野峰雪が穴を掘っている。
「狩野さん」
赤子を抱いた雪花が不安そうな表情でやってきた。
「あぁ戸次さんか、どうかしたかな」
「あの、パトリシアさんを見かけませんでしたか?」
「パトリシアさん?」
「はい、昨日から姿が見えないんです」
「あぁ、彼女ならまた食料を山の外へと探しにいったよ。今度は、南西に行ってみるって」
「え、この前帰ってきたばかりなのに、もう?」
「僕も止めたんだけどね」
「そうなんですか。解りました……有難うございます」
言って雪花はお辞儀した。その時、瞳が一瞬動いて、傍らのシートの方を見たが、峰雪は子を抱く母のその表情を見て、何も言わなかった。
「おっ……お邪魔、しました」
「いえいえ」
峰雪は微笑して去って行く雪花を見送った。
再びスコップを振るう作業に戻る。
ざく。
ざく。
ざく。
穴を掘る。
ざく。
ざく。
ざく。
穴を掘る。
狩野峰雪が穴を掘っている。
傍らにかけられたシートの陰から、蒼白い女の腕が伸びていた。
●
散弾銃を持った、赤目の悪魔がやってくる。
散弾籠めた銃を片手に笑いながら、廃墟の彼方から歩いて来る。
「あ、れ、は……」
パウリーネ(
jb8709)は戦慄した。
胸の奥の心臓が激しく跳ね上がった。呼吸があらくなる。動悸、息切れが酷くなる。
「間違いない……」
帽子をかぶった赤目の悪魔はパウリーネの姿をみとめると、口端をあげてニィッと笑った。
片手で帽子を抑えながら、勢い良く散弾銃の銃口をパウリーネへと向けて来た。
「……!」
轟音と共に発砲。
パウリーネは反射的に駆け出した。
距離がある。
弾丸の雨は、ほとんどがパウリーネの立っている位置とは別の場所に突き刺さった。
だが、一部が腿に、足に、突き刺さって血飛沫と共に激しい痛みを与えてきた。
「くっ……!」
魔女は魔力を一気に増幅させて全身に纏った。
瘴気にも似た魔力が黒炎の如くに揺らめいて顕現し、女の周囲に漂う。
黒く染まった魔女は足を負傷しながらも瓦礫に飛び込み、その陰から突撃銃の銃口を赤目の悪魔へと向けて射撃した。
唸りをあげて飛んだ弾丸が、赤目の悪魔へと襲いかかり――そして展開された障壁に中ってあっさりと弾き飛ばされた。
「笑えないよ……」
ガウン、ガウン、ガウン、と銃声を轟かせながら連射する。だが悉くが弾かれてゆく。
散弾銃を片手に赤目の悪魔が笑いながらパウリーネへと迫って来る。
●
旧友へ、私が望んだ世界は遠そうだ。
それでもわずかな希望に託すよ。
〜緋打石(
jb5225)の手紙の序文より〜
メメント・モリ。
死を思えと緋打石は人々に説いて回っていた。
それは自分が死を恐れないため。
ざく。
ざく。
ざく。
顔を隠すフードをかぶりスコップを担いだ小柄な童女は。コンビニ付近に転がっていた名も知らぬ青年の為に墓穴を掘った。
近くに壊れたV兵器が転がっていたから、撃退士であったのだろう、骸と共にそれも一緒に埋めてやる。
スコップで土をかける。
スコップで土をかける。
どういう理由か、悪魔にも人にも彼女は姿を認識されなかった。
「死神は神様だからいなくなる時は誰にも分からないんだよ」
と少女は笑った。
不可思議な力が働いている。
彼女は『死神』であった。
死者を埋葬し死を看取る存在《もの》である。
恐れていた孤独は甘んじて受け入れた。
「私が救いになりたいんだよ――」
それは最期の時の孤独をせめても薄れさせるため。
絶望の中でも人として埋葬される尊厳はあるはずだと思うため。
死神は独りで戦いを続けている。
●
「全ては、無駄かもしれない──それがどうした。それが何だ」
インレ(
jb3056)は絶望的な世界で尚、紛い物のヒーローとして有り続けている。
古びた紅いマフラーを靡かせ、余命幾許もない身体に鞭打って、世界を跳び回っている。
誰かの希望とならんが為に。
「……最近の冥魔界の者共は加減と云う物を知らぬ」
廃墟と化した街を見遣り溜息を一つ、小田切 翠蓮(
jb2728)は地下のショッピングモールにて阻霊符を展開し、生き残った一般人や撃退士を集めて反撃の機会を窺っていた。
ファーフナー(
jb7826)は、翠蓮の一団に身を寄せていたが、あくる日、冥魔との戦いにおいて負傷し、撃退士として再起不能となっていた。
男はそして――足手まといとなったことを恥じ、食料探索時に冥魔の目を引き付ける囮役を引き受けた。
「来世があるなら、そこで会おう」
「ウーヒャヒャヒャヒャヒャ!」
けたたましく笑い声をあげる血染め白衣を身を纏った男へと、槍を手に突っ込んで行った背が、人々が”撃退士として生きた”ファーフナーを見た最後の瞬間であった。
仲間達が死にゆき、しかし、それ以上に行き場をなくした人々が多く集まってくる中、翠蓮は仲間達と共に”かつては同胞であった悪魔共”の動向を探っていた。
あくる日、
「ふむ。あのナース娘がヨハナ・ヘルキャット……」
偵察に出た翠蓮は物陰より双眼鏡で薄桃色のナース服に身を包んだブロンド少女の姿を捉えていた。
「この一帯の指揮官かのう?」
偵察を終え、拠点へと帰った翠蓮はヨハナ強襲計画を仲間達に持ちかけた。
「衰えたとは言え、儂とて嘗ては冥魔界で恐れられし者。
――せめて最期に一花咲かせたいものよ」
爺さん無茶だ、とか、無意味だ、とか反対の声も多くあがったが、
「……この拠点の近くに、冥魔の指揮官が近づいて来ているのだろう?」
部屋の隅の壁に背を預け、一同の議論を聞いていたインレが声をあげた。
「ならば、早晩、激突することは必至だぞ」
このモールだけでなく、付近の山に隠れている者達にとってもそうだろう。
このインレの一声が決め手となって、翠蓮モールに集う撃退士達は計画の実行を決めた。
インレは共に準備をしつつ思う。
――祈りがある。
――願いがある。
――誓いがある。
――膨大な己の過去が、この身を突き動かしている。
人は滅びるかもしれない。
この世界は絶望的かもしれない。
全ては、無駄かもしれない。
──それがどうした。それが何だ。
知っている。
インレは知っている。
未だ尊きモノがそこに在る事を。
微かな希望が生まれ落ちている事を。
なれば。
ああ、なれば。
僕は手を伸ばそう。
諦める理由など、そうしない理由などありはしない。
我が心が燃えゆく限り。
「死ぬのは老いぼれからだ。例え辛くとも若人は生きねばならん」
出撃の際、インレは一同へとそう述べた。
それに”爺さん全員で生きて帰るんだ”と若者達は答えた。
一団の士気は高かった。
●
「ウーヒャヒャヒャヒャヒャ!」
「あっはぁ! そーんな壊れかけのV兵器振り回す者どもがいくら群れたところで、なんとかなると思ったのかーえー?」
紅蓮の大爆発が連続して巻き起こり、極大のビームが咲き乱れる。
そして、次々に殺されてゆく撃退士達がその瞳に見たものは、
「死してなお、ココからは抜け出せないのさ」
撃退士達の前に立ちはだかり魔槍ゲイボルグを振るう大柄な男の姿だった。
「……ファーフナー?!」
団員達の間から驚愕の声があがる。
「何故……何故、アンタが!」
「まさか……裏切ったのか?!」
「落ち着かんか童達! 捨て身で足止めにいった男が、今更裏切る筈がなかろう!」
爆炎が咲き乱れる中で翠蓮が叫ぶ。
インレもまたメスの先から放たれたビームをかわしながら呟く。
「それに、ファーフナーは撃退士として再起不能だった筈……だが、この力はどうだ」
撃退士達の前に再び現れたファーフナーは、V兵器がしっかりとメンテされ、撃退士達の力が最盛期であった頃――いや、それ以上の動きを見せていた。
魔槍が黒い稲妻の如く縦横無尽に翻る度に、宙に赤く鮮やかな鮮血がふきあがり、撃退士達が斃れてゆく。
「んー! これぞプロホロフカが誇る新技術ぅぅぅぅううう! ヴァニタス・デビルハーフですぅ!! 略してヴァデハーッ!!」
悪魔博士が血衣を翻しながらポーズを取って叫んだ。
「……ヴァニタス・デビルハーフだと?」
通常、宰相級に匹敵するような強大な冥魔でなければ、アウルに満ちている撃退士をヴァニタスにする事は出来ない。
しかし、ファーフナーは再起不能状態に陥りアウルを著しく失っていた。そこへハーフへの改造だと意気込んで新技術を悪魔博士が試し、生み出されたのがこの、ヴァニタス・デビルハーフ・ファーフナーである。
「あっはあ、かつての仲間に刃を向けられる気分はどうじゃあ? 死してなおその骸を使役される気分はどうじゃあ?」
ブロンドのナース娘が赤眼を細めて意地悪く流し目をくれてくる。
「おのれ外道な……インレ!」
「応!」
小田切翠蓮は己に残された力を全開に解き放つと雷光と化して宙のヨハナへと突撃した。
(未来の礎となれるのならば、この老体の命など惜しくは無いわ……!)
古い悪魔の命は尽きる前に激しく燃え上がる蝋燭の火の如く、全盛期の片鱗を見せる凄まじい速度を発揮していた。
「にゃがふっ?!」
翠蓮の斧槍が目にも留まらぬ速度で閃き、すっかり勝利を確信していたヨハナの胸を貫いた。
さらに同時に突っ込んだインレの腕がナース娘の身を背中から貫通する。
「ばかにゃ、なんじゃこの力は……」
ごふっとヨハナの口から鮮血が吐き出され、紅蓮の光を膨れ上がらせる手を己に向けた。
「――自爆?!」
刹那、デビルナースの手より放たれた紅蓮魔弾は少女自身の身に炸裂して大爆発を巻き起こした。
インレは間一髪で脱出する事に成功したが、一撃にすべての力を籠めていた翠蓮は避けられず、爆発に巻き込まれて吹き飛んでゆく。
「あぁっ! 小田切の大将が!!」
地面に叩きつけられて転がり、ぴくりとも動かなくなった翠蓮――その死を目撃して団のメンバー達が絶望的な声をあげた。
「も、もう駄目だぁ……! あのふざけた博士だけならともかく、ファーフナーさんまで敵にいるんじゃ……!」
同じく地面にズタボロの状態で叩きつけられたデビルナースも絶命しているようだったが、敵はいまだ悪魔博士カーベイとヴァデハー・ファーフナーが残っている。
「うろたえるな」
ピシャリとインレが言った。
「しかし、残念ながら今の戦力では勝てぬようだな……ここは儂が引き受けた。おぬしらは退け! モールの者達を逃がせ!」
「イ、インレさん……くっ!」
悪魔博士がビームを乱射する中、インレを殿に撃退士達が撤退してゆく。
「……どうやら、待っていてくれたようだな?」
「昔の誼だ」
口に咥えたものに火を灯していたファーフナーはそう応え、
「だが、これ以上は待てないようだぜ」
一つ息を吸って吐き出すと投げ捨てた。
中年のタフガイは魔槍をうなりをあげて回転させその切っ先をインレへと向ける。
「良かろう……では、一つ真髄をお見せしよう」
インレは静かに半身を取り、腰を落として構える。
「勝負といこうか」
二人はしばし睨みあい、そしてほぼ同時に矢のごとく駆け出して、廃墟の路上で激突した。
●
空に雲が集まって霙交じりの雨を降らせ始めた。
「んー、なかなかの性能ですねぇ」
悪魔博士はファーフナーへと手を翳した。
(自分は悪魔ではなく人間になりたかった)
ファーフナーは転がっている骸達を見渡しながら胸中で呟く。
「ふぅむ、こういうケースの場合、リミッターを外したらどう動くんでしょーねぇえええ? あ、自由に動いてみてくれて良いですよ」
ファーフナーが黒い雷光の如く動き、甲高い音が盛大に鳴り響いた。
「なるほど、なるほど、反逆する、と」
大型メスで魔槍を受け止めながらカーベイ・アジンは呟いた。
光が放たれ、ファーフナーの身に浴びせかけられる。
が、それだけだった。
「……殺せ」
「そんな無駄な事する訳ないじゃなーいですかぁ。死んで楽になんていけませんよぉ? 命は何よりもとうとぉおおおおおいっ! 生きてこそです! 何があっても生き延びるのです! さきほどそこの拳法使いを仕留めた槍捌きは見事でしたぁ。こーれからもわったしの手足となって、きりきーり働いてくださいねぇ! ウヒャヒャヒャヒャッ!!」
カーベイ=アジンがけたたましく笑いながら歩き出し、再び行動を制限されたヴァニタスは、主の後ろを虚ろな瞳で歩き出す。
「永遠に、ココからは抜け出せないのか……」
行動を呪縛された男は呟き、己の滅びを願った。
●
フードをかぶった死神がスコップを担いで戦場跡へとやってきて、ざく、ざく、ざく、と穴を掘り始めた。
十分な大きさまで掘られると、死神は骸を穴の底へと運んで、スコップで土をかけていった。
そうやって、緋打石は翠蓮やインレや戦いで死んだ撃退士達を埋葬していった。
●
散弾銃を手にした赤目の悪魔がひたひたと歩いて来る。ことさらに大きな歌声を響かせながら向かって来る。
パウリーネはこの悪魔を知っていた。
元上司だ。
征服の流れに便乗したのか、元上司がなんとダイレクトに来てくれやがったのだ。
本人で間違いなかった。
(奴の事だし、私を“殺さずに”生かして徹底的に利用する気だろう……)
あの赤目の悪魔は他人の苦痛が大好きだ。
この場合のパウリーネの上司にとっての利用法とは”生殺し的に苦痛を与え続けてその様を見て楽しむ”事に他ならない。
いたぶるように追い回し、追い詰め、無力化して抵抗できなくし生かさず殺さず拷問を与える気満々だろう。
この上司、筋金入りであるようだ。
(笑えないね……)
その狂気が向けられる先であるパウリーネにとって、実に笑えない状況だった。
先の邂逅後に抵抗は試みたのだが、やはり今の状態では力量差は圧倒的であり、散弾によりあちこちに傷を負ったパウリーネは衰弱し、辛うじて廃墟の一室に逃げ込んで息を潜めて隠れていた。
だが、ゆるゆると上司の歌声が近づいてくる。こちらの居場所など手に取るように把握しているという事なのか。
――どう足掻いても、帰りたい場所には帰れない。
魔女はそれを悟った。
パウリーネはそれを悟った。
もう駄目なのだ。
人類側は敗北したのだ。負けてから、失ってから足掻いてもどうにもならない。
「私の事は嫌いだけど、私はパウリーネで在り続けたい……」
大切な人から譲ってもらったライフルも破壊されていたが、幸運にも拳銃ならまだ使えるようだった。
「側にいて、と彼に願っていたのは私なのにね」
パウリーネは拳銃のセーフティを外すと右手に持ち、その銃口をこめかみに押し当てた。
「何度も何度も死にそびれ、結局生き抜く事もできなかった――悔しいなぁ」
次の刹那。
パン、と音がして弾丸が飛び出し、パウリーネの頭に穴があいて、赤色のものが宙にぶちまけられた。
魔女の身が横倒しに部屋の床に倒れ、歌う悪魔がやってきた。
部屋の中、赤い目の悪魔は、血の海を作って倒れているパウリーネの骸を見下ろすと、ニィッと笑った。
悪夢は死んでも終わらない。
●
ちゅんちゅんと雀が鳴いて、電線の上で飛び跳ねている。
道場のある邸宅の母屋の一室、ベッドで寝ていた少女が赤瞳を開き、むくりと起き上がった。
「……朝ですか」
雫(
ja1894)である。
んーっと声を洩らしつつ一つ伸びをして、はう、と息をつく。
ベッドから降り、シャーッと音を立てながらカーテンを開く、窓から眩い光が飛び込んで来た。
どうやら空は晴れていて、太陽は今日も輝いているようだった。
部屋から出た雫は洗面所へと向かって顔を洗い、部屋に戻って久遠ヶ原学園の制服に着替え、妹の部屋の前へといって声をかけ「起きたよー」との返事を確認してから、リビングへと向かって母達と挨拶をかわしつつ席につき朝食を取る。
食後のお茶を啜りながらTVの隅に浮かんでいる数字を一瞥し、
「……あの子は置いて先に行きますか」
雫は剣道部に所属しており、全国高等学校総合体育大会――俗に言うインターハイへの出場を目指して頑張っている。目指せ全国である。その為の朝練があるのだが、妹はまだベッドの中のようだ。
十六歳の雫は席を立つと玄関へ向かい、とんとんと爪先を叩いたりしながら靴を履き、がちゃりと扉を開いて外に出る。
「いってきます」
いってらっしゃい、という母の声が後ろの方から聞こえた。
時は2012年の初春の某日、
「平和ですね」
そう形容するに相応しい実に平和な国での一日が始まった。
●
アスファルトの道が伸びている。
早朝の通学路には会社へと急ぐ勤め人や時間帯が早いのでまだ少ないが様々な制服の学生達の姿がちらほらと見られる。
例に洩れず、久遠ヶ原の高等部の制服姿である大炊御門 菫(
ja0436)は、行く先に友人の後ろ姿らしきものを発見して小走りにタッタカ駆け出した。
長い黒髪が宙になびく。
スカート丈が膝下までと長いので走りづらい。あれ、私ってこんなに走るの遅かったっけ? とか思ってしまうくらいになかなか距離を縮められない。
「テーレージーアー」
なので、菫は声を投げた。
名を呼ばれた日仏ハーフの長い金色の髪を持つ少女は、足を止め振り向いた。
菫と視線が合うと少女は微笑し左手をあげた。
ややたって小走りに駆ける黒髪娘がブロンド娘の傍らへと追いつく。
「おはよう、菫」
「おはようテレジア、こないだの怪我大丈夫? って、うわ、それ、やっぱり……割と漫画みたいな飛んでいき方してたもんね」
菫はテレジア(
ja0067)の右腕に気付いて目を見張った。ブロンドの少女の右手には包帯が巻かれ、三角巾で首から吊られていた。
「ううん、うちの母さん、利き腕だからって大袈裟なのよ」
テレジアは苦笑する。
しかも何もない場所で勢い良く転んで負った怪我なので、この仰々しい手当は十七歳の娘としては恥ずかしくて仕方なかった。
なので、照れ隠しもあって、テレジアは笑いつつ「大丈夫よ、ほら」と包帯の巻かれた右手をシュシュッと鋭く振るってみせる。
すると、
「だめー!!」
菫が血相を変えて叫んだ。
「ぽろっと取れちゃったらどうするの!!」
その言い草にテレジアは吹き出した。
「もう、菫も大袈裟だよ!」
振ったら腕が取れるなんて、それこそそんな漫画みたいな事”ありえる訳ないじゃない”と思う。
それに真顔で菫が言う。
「いや、大袈裟じゃないよ。あの時、びっくりしたもん! 空飛んでたよ! 人間あそこまで奇麗に転べるんだなって私、新しい境地が見えたもの!」
「や、やめてよ、大袈裟だよ! ちょっとは飛んだかもしれないけれど、そこまで飛んでなかったよ! だから怪我もたいしたことないの!」
赤面してテレジア。
「えー」
「もうっ」
そんな事を言い合いつつ二人は駅へと向かって歩いてゆくのだった。
●
「いいいいい行ってきまーす!」
不破 十六夜(
jb6122)は身支度もそこそこにサンドウィッチを片手に家を飛び出した。母親が後ろから何か叫んでたような気がするが良く聞こえなかったので気にしない。
高等部の少女は前傾の見事な――通行人の元陸上選手の爺さんに「ほう」と感心されるような――フォームでダッシュしつつ、「わ!」と思わず思春期の少年達を赤面させる勢いでその大きな胸を制服の下で暴れさせつつ、サンドウィッチを口の中に放り込んで、もぐもぐごくりと呑み込む。
走りながら髪の毛を手串で整え、リボンでツインテールに縛ってゆく。高速で疾走しながらである。職人芸。
十六夜は朝の街をばびゅーんと駆けに駆け、改札をピッとやって抜けて、ホームに立つ列車待ちの列の中に、見覚えのある姿を発見した。列車はまだ来ていない。どうやらなんとか追いつけたようだ。
「お姉ちゃん〜、もー! 家を出る前に一声掛けてよ〜」
十六夜は雫の隣に駆け寄って声をかける。
「着替えた後に声かけましたよ」
雫は前を向いたまま答えた。
「えー、うそー?」
「ほんとです。あなた、起きたよって答えましたよ」
「ボクの記憶にはない!」
どうやら妹は寝惚けていたようである。
雫ははぁ、と嘆息すると、
「それより十六夜」
雫は妹へと振り向いた。
「なぁにお姉ちゃん?」
十六夜が小首を傾げる。
「きちんと列の後ろに並びなさい」
「……お姉ちゃんは真面目だなぁ」
「社会常識です」
しぶしぶと十六夜は列車待ちの列の最後尾へと並びなおすのだった。
●
ガタンゴトンと列車は揺れながら快速で走り、本州から島を繋ぐ橋の上を抜け、久遠ヶ原島へと到着する。
多くの生徒が駅から出てきて、島内の街を抜けて中央に立つ巨大なマンモス学園の門をくぐってゆく。
やがて朝のホームルームから講義が始まって、多くの生徒達は真剣な顔で、もしくは眠そうに欠伸をして机に突っ伏しつつ、あるいはその中間で、教師の話を聞きながらノートに筆記用具を走らせていた。
が、中には例外もいる。
中等部の改造ジャージにクロックス姿のRobin redbreast(
jb2203)はその時、今日も校舎の屋上にいた。
何故か。
その原因は彼女の出自にも大きく起因している。
元々ロビンは北方の遊牧民族の生まれで、幼い時分に拐われ暗殺組織に売られ、そこでキル・マシーンに仕立て上げられたという経歴を持つ。
しかし暗殺組織が摘発され、アウルがあったので学園に送られてきたロビンだったのだが――学園は平和ボケていた。全力で平和ボケていた。
この、危機意識の無い弛緩した空気にロビンは馴染めず、幼い日から磨いてきた戦闘技能を活かせない日々に鬱憤が溜まりに溜まって――
グレていた。
昨晩もヤンキーな彼氏とその仲間達と共に深夜までファミレスにたむろっていたのである。
おかげで眠い。
一応、学園に出てはきたのだが、早々に眠くて講義はバックレテいた。
「……だりー」
不良な銀髪少女は屋上の塔屋の上に大の字にねっころがり、緑の瞳で碧空を眠たそうな半眼で睨んでいる。
思う。
一体、今まで磨いてきた己の技術は何だったのだろう、これまでの人生はなんだったのだろう、これからの人生はなんなのだろう。
白い雲が流れてゆく。
ヤンキー・ロビンはもう一度「だりー」と呟いた。
●
「ダリ?」
「うん、サルバドール・ダリ。スペインの画家」
美術の時間、自由画の講義で『記憶の固執』を模写しているテレジアへと菫は声をかけた。
融解したように折れ垂れ下がる時計、木の枝に布が干されるようにかけられた曲がった時計、地平には黄色い光があって、海が白く反射している。
「凄い絵だね」
「凄いのはダリで、私じゃないわ。模写しているだけだもの」
「そう? でも凄い集中力だよ。声かけるまでずっと筆動かし続けてるんだもの」
「あはは、描いてると時間忘れちゃうんだよねぇ」
包帯が巻かれた腕に絵筆を握り、あは、とブロンドの娘は笑う。
「それだけでもたいしたものだよ。ホント、絵描くの好きなんだね」
菫は感心していって、視線を自らの絵へと映した。三脚型イーゼルに乗っている菫の画には、我ながら何がなんだかわからないものが描写されていた。
「……それは?」
「”絵画の妖精に嫌われし者の学術体制下における強制に対する従順と反抗”と名付けようと思うの」
「題名はアートっぽいね」
うん、と二人は頷いた。
ひゅおんとエアコンの暖風が二人の間を吹き抜けていった。
菫は肩を竦めて見せると、
「何か”私にはこれだ!”っていう夢を持っている人は良いねぇ。私はそういうのはさっぱりだよ。テレジアはやっぱり進路は美大にするの?」
「うん、私は美大かなぁ……絵、描くの好きだし。ほら、前に私の母さんが通っていたって言ってたあそこの」
なんでもテレジアの母は名のある画家で、交換留学で日本の大学に通っていたらしい。
お母さんっ子であるテレジアは母が通ったという美大に行ってみたいのだという。
そして、
「菫は?」
とブロンド娘が進路を問いかけると、黒髪娘は渋面を作って、
「うーん、自衛隊に入れーとか言われてるけれど、同じ安定している職業なら市役所の役人さんの方が気楽そうなんだけれどな……」
「市役所もそう楽ではないと思うけれど、でも自衛隊は、確かにとても大変そうだよね」
「だよねー。あ、ねぇ、テレジア―――」
菫が何かを思いついたか、また話題を変える。
それは、戦いとは無縁な、有り触れた日常だった。
平和な国の生徒達の声が教室に響いている。
●
カカッカッカッとチョークが黒板を叩く音が教室内に響いている。
「――という訳で、では……そうだな、雫!」
ピッ! と、身を捻り立つどこかのオラオラ漫画の登場人物のような態勢で、教師が雫を指差し、
「ここの答えは解るかな?」
と問いかけてきた。
「はい。第三次ポエニ戦争です」
背筋をしゃんと伸ばし、銀髪赤眼の少女は頷き、明瞭に答えた。
さらに立て板に水を流すかの如くスラスラと解説してゆく。
「ローマは『武器と防具をすべて引き渡せ』と要求しました。カルタゴが『わかった。それで戦争にならずに済むのなら』と全武具を引き渡すと、今度はローマは丸腰となったカルタゴへとさらに『お前ら消滅しろ』と言うに等しい要求をしました。ここに至ってようやくカルタゴは要求を拒否する事に決め、返答猶予の間に連日連夜武器を作り、戦いの準備を開始します。ローマ軍団の包囲下、滅びを背負ったカルタゴはそれでも死に物狂いで抗戦し三年間粘りますが、飢えと疫病と戦闘により八割が死亡、スキピオ・アエミリアヌスによってカルタゴは陥落します。この時、生き残ったカルタゴ人はすべて殺されるか奴隷として売り払われました。そして、カルタゴ市はローマによって徹底的に破壊され、土地には作物が育たぬようにと塩が撒かれました」
「う、うむ……! さ、さすが雫だ、よく予習しているな!」
教師はちょっとびびったように仰け反りつつも言った。
「あー、そんな訳で、かつて地中海の雄であったカルタゴは滅び消滅してしまった訳だな。完全消滅だ。復讐すらも許さない消滅だ。戦を嫌うカルタゴ人達はローマと戦った鬼才ハンニバル・バルカを追い出して最終的に自殺に追い込んだ訳だが、その果てに、滅亡の運命を辿る事となったというのは、まあ、考えさせられるものがある。要するに敵国には平和主義の思想を叩き込んだほうが侵略する側にとっては楽なんだな。だから、同じ轍を踏まぬ為には、我々も今がいかに平和だとはいえ、もしも異世界からの攻撃があった場合、この世界を守れるだけの実力と意思は備えていなければならず、それを担うのが、我々、アウル覚醒者であるから、お前らも雫を見習って文武共に身を入れてしっかり訓練を――」
講師の話が全力で講義から説教へと逸れてゆく。流石にその説教の内容は、曲がりなりにも世界の防衛を担っている学園のものではあったが、しかし、
(この先生、話が良く脱線するんだよね……)
はぁ、と真面目な優等生である雫は嘆息する。
講師の説教は、そんな事いわれずとも日々しっかりやっている雫にとっては何を今更、な言葉ばかりである。
(あ、そうだ。今日はお母さん達の帰りが遅いから食事の準備をしないと……)
雫はノートの端に歌を思い出しながら、ジャガイモ、タマネギ、挽き肉と帰りにスーパーで購入すべきものをメモ書きしてゆくのだった。
●
陽波 透次(
ja0280)の夢はサリエル・レシュの側近になり彼女を支える人になる事だった。
「な、なんでぇ?」
大鎌を肩に担いだ銀髪碧眼の幼天使は、透次から将来そうなりたいと打ち明けられた時、ぎょっとしたように目を剥いた。
ちなみに大鎌を担いでいたのは美術デッサンのモデルをやっていた時だからである。純白の翼を持ち、ドス黒い隈も無い彼女は、齢十三歳程度に見える少女だったが、容姿端麗だった。
しかし、
「……いや、なんでそう思うのか、自分でも分からないんだけどね……」
黒髪黒瞳の青年はぽりぽりと頬を掻きながら答えた。言葉の通り、本人も本当になんでそうなりたいのか解らないのである。
「はぁっ?! なにそれっ?!」
サリエルは眉間に皺刻み眉を顰めてサファイアブルーの瞳を細め、胡散臭そうに透次をじーっと睨んだ。
が、透次が視線を逸らさず、しばし見詰め合っていると、幼天使はぶはっと吹き出して笑った。
「ヘンなの! ま、意味わっかんないけど本気だっていうなら良いヨ! うちは落ちぶれてるけど家格だけは古くからの名門だから、しきたりとか色々面倒だし煩いから大変だけれど、アタシは将来一族の棟梁だからね! 来る者拒まず! 去るものは決して許さない!」
「……去るの、許されないんだっ?」
透次が問うと少女は悪そうな魔女じみた表情を作って、
「ひひひひ、ソーダヨ! それが嫌なら他をあたりなっ! キャハッ!」
と脅すように言ってきた。
「……いいえ」
透次は首を振った。
「赤い翼の天使様……僕は誓います」
青年は胸に手をあてて言った。
「……人と天使が悲しいすれ違いをしないように。
……心優しい誰かが泣かないように。
そんな世界である為に……僕は、頑張ります」
それに、シルバーブロンドの天使はまたじっと青年を見て。
「ふぅん……」
と瞳を細めた。
「君、名前は?」
「陽波透次」
「わかった。それじゃアタシ、君がうちに仕官するの待ってる。頑張って!」
花が咲くような笑顔を見せてサリエルはそう言った。
その後、
「……でも、アタシ、羽、赤くないよ?」
と小首を傾げてみせた。
「あれ? そういえば、そうですね、なんでだろ……」
と、青年は己の目をこすったのだった。
それからというもの――透次はレシュ家の仕官試験の合格を目指し、必死に努力を重ねて来た。
それが叶わなくとも天界を助け、サリエルの力になれる人になりたかった。
狂ったような執念による努力の成果が実ったか、十六歳になった時、透次の成績は、今の平和ボケした時代にあって突出したものだった。
「学年首席か……でもまだ甘い……」
成績表を睨みながら黒瞳の青年は呟く。
”あいつは狂気じみている”
そう、ライバル達からは噂されている。何故、そこまで駆り立てられるものがあるのか、その執念が何処から来るのか、本人にも解らなかったが。
(行かないと……僕は、彼女の傍に行かないと……)
前に会った時に見た、太陽のような笑顔を胸に青年は歩いてゆく。
貴女が好きだから。
――あいつは狂っている、と、かつて試験の組み手で透次とあたったライバルは、ゾッとしたように言ったという。
そのように、透次に対する周囲の評価は高かったものの、一部からは忌避されていた。
透次の狂気に対して、サリエルはどうなのだろう。彼女ならどのような感情を抱くだろうか。恐怖するだろうか? 平和な国の小さな娘ならば、身に覚えの無い狂気じみた好意に対して脅えても不思議は無い。
けれど、透次は、振り向いて貰えなくとも構わなかった。
ただ笑顔でいて欲しかった。
数年後――多くの年数を経て、多くの人々があいつは異常だという認識を拡大させていった頃、血の滲む努力を越えて、透次はレシュ家の士官試験を突破した。
抜けるような青い空、太陽のように光り輝くものが燃えている。
天界の群島、透き通ったエメラルドブルーの海、輝く白い浜辺、緑成す小高い丘に立つ石造りの神殿、白い翼のシルバーブロンドの天使がそこに居た。
「合格おめでとう!」
サリエル・レシュは透次に笑顔を見せて言った。
「久しぶりだね。頑張ったね。君は凄い奴だよ」
互いに挨拶をかわす。
異界との問題の最前線で働いているという両親の仕事を手伝っているという少女天使は、前に会った時よりも少し大人びていた。
「君の噂は良いものも悪いものも色々聞いているよ。君が狂っているという人もいるけれど、本気で何かの為に闘ってきた証だろうと私は思う」
サリエルは真面目な表情で言った。
「けれど、正直に言うなら、その先にいるのが私だというのが良く解らない。なんで、私なの? それが解らない。君も自分でも解らないと言っていたね。解らないものは信じられない。恐い。だから、私が君の好意に応えられるかどうかは今後実際に傍で接してそれ次第だ。偉そうで恐縮だけれど、私は次期当主だから偉そうなのは仕方ない、許せ。そのように、私は君の想いに応えられるかどうかは不明だよ。それに、実際に接すれば君は私に幻滅するかもしれない」
サリエルは青い瞳で透次を見た。
「けれど……君が私に言ってくれた、遠いあの日の誓いが今も生きているなら、どうか力を貸して欲しい。天界、人界、魔界、冥界、あまねく四海の安寧の為に尽力して欲しい。楽な仕事じゃないしあんまり報われない。君は本当に私と一緒に来てくれるのかな? 嫌なら別に私の側近にならなくても、他で働くこともできるよ。君は優秀だから。それでも私のところに来てくれるなら、どうかこの手を取って欲しい」
言って、サリエルは透次へと右手を差し出してきたのだった。
透次がその手を取って、サリエルの隣で活躍したのか、それとも、また別の道を選んだのか、そのあたりの詳細についてはまた、別のお話。
●
時は戻って再び2012年の放課後。
学園の構内にある剣道場。
やー! たー! とー! えええーい! と男女の気合の声が響いている。
高等部の制服姿の少女が一人、こっそり道場の小さな窓から顔を覗かせて内部を覗き見ていた。不破十六夜である。
「おー、あれ、お姉ちゃんかな? すごい、強い強い! 今年は絶対レギュラー取ってインハイだね!」
パンパンパーンと竹刀を打ち合わせてから華麗に相手に面を決めている小柄な剣士の姿が見えた。面をかぶって、防具に身を包んでいるからはっきりとは解らないのだが、妹的にあの見慣れた体格は姉だろうと看破していた。
(って、そうじゃない、今日はお姉ちゃんを見にきたんじゃないんだよね)
胸の大きな黒髪少女はおよそ控え目な姉から視線を外すと、剣道部の主将である男子生徒の観察を開始する。
一戦を終えて道場の隅に座り面を取った下から現れた顔は、剣道部主将というその厳つい肩書きに似合わず、柔和そうな、爽やかそうな印象を与える美少年だった。
(えっ! あの人がそうなの?)
十六夜は驚愕した。
汗ですらキラキラしている。
何かそこらのむさっくるしい男子とは一線を画する貴公子である。
姉に好きな人が出来た事に感付いたので、周辺を調査し、その相手を見に来たのだが、予想外の佇まいに妹は驚いていた。
「へ〜、お姉ちゃんって面食いだったんだ……なんか意外かな」
十六夜調査によれば、この少年は世界を隔てた遠い異界から交換留学で訪れた生徒であるらしい。
ハードル高っ!
と妹としては思わなくもないのだが――なんせ異世界人である――まあ恋というのはそういうものなのかもしれないなぁ、と妹はうんうんと大人ぶったことを思ってみる。きっと間に障害があればあるほど燃え上がっちゃったりするのだろう、と。
(姉想いの妹としてここは一つ、雫お姉ちゃんの恋を応援してあげなくっちゃねー)
とむふふと二人の間を取り持とうと画策する。
「具体的にはどうしよっかなー」
と考え始めたが、これがなかなか、すぐには良案が思い浮かばない。
むしろ下手をしたらその恋の進展に対して逆効果になってしまうかもしれない。
「……やっぱり止めて置こう。少なくとも今日は」
怒らせたら後が怖いや、と十六夜は撤退を決意する。
大事な事には意外になかなか慎重派な妹であった。
●
冬の教室は、エアコンのおかげで暖かく、ともすれば暑いくらいだった。
窓から差す夕陽の光が、磨かれた机にあたって反射し、黄金色に染まっている。
高等部の制服に身を包んだポニーテールの赤毛の少女――陽波 飛鳥(
ja3599)は、放課後、閑散とした教室で窓辺の席で椅子に座って、膝の上に本を乗せて読んでいた。
「おー待たせしましたっ!」
元気の良い声が響いた。飛鳥が文庫本から顔を上げると、高等部の制服に身を包んだ黒髪の娘が立っていた。
神楽坂茜である。
「飛鳥ちゃん先輩、何読んでるんですか?」
問いかけられて飛鳥は、膝上においていた本を上にあげ、背表紙を見せた。
「『とびきりスイーツ100選〜久遠ヶ原島編〜』……わぁ、さすが先輩、下調べは十分なんですね!」
茜が指を組んで目をキラキラと輝かせる。
「ふふ、その通りよ。今日はこのカルミナ・ブラーナっていうカフェでどう?」
飛鳥はページを開くと茜に見せながら指で記事を指す。
「おお、三ツ星ですね、了解ですっ」
茜が敬礼した。
「珈琲も美味しいらしいけれど、名物はモンブランとババロアらしいの。迷うところだけれど、神楽坂さんどっち食べてみる?」
「両方!」
「……流石神楽坂さん、コンマ一秒の迷いもなく即答ね……」
飛鳥は後輩の勇猛果敢ぶりに少したじろぐ。この後輩は、向こう見ずなところがある――飛鳥もあんまり人のことは言えなかったりするが。
しかし、ここは年長者として後輩に警句を出す事にした。年長者といっても一つ上なだけだが、学生時代に年齢が一つ上というのは、なかなか大きな意味を持つ。
「その意気や良しよ、でも私達の『敵』の存在は覚えているかしら? あの、くるくると簡単に回るメーターを持つあいつが声高に報告してくれる、気を抜くと私達の身体にまとわりついてくる『例の奴』よ」
そう――声高な報告者とは、風呂上りなどに上に乗るだけで身体の質量を計ってくれちゃったりする例の機器であり、『敵』とは、彼が常より回るとき、往々にして自らの身体についている例の柔らかいものである。
それは年頃の少女達にとって強敵であった。
茜はふるふると首を左右にふると、
「『例の奴』は確に強敵です……でも飛鳥ちゃん先輩、同じ後悔するなら、食べないで後悔より食べて後悔です! 違いますか?!」
後輩のその信念に飛鳥、衝撃走る。
黒髪少女はきりっとした顔でのたまい、手を差し出してきた。
「飛鳥ちゃん先輩! 私と共にいきましょう! 楽園《エリュシオン》へ!」
「ええ……そうね、その通りだわ! 行きましょう神楽坂さん!」
飛鳥はガシッと茜の手を握って立ち上がった。
「体重増えたらまた一緒にマラソンね!」
「はい!」
先輩は後輩の肩を抱いて片手で夕陽を指しつつ言い、後輩は指差す彼方を見つめつつ頷く。
冬の日暮れ時、黄金の空でカラスが鳴き声をあげながら飛んでいった。
●
「そういえば、冬休みに実家帰った時、大丈夫だった?」
落ち着いた曲が流れている小洒落たカフェの一席についた時、飛鳥はカバンを置きながら問いかけた。
相向かいの席についた冬の制服姿の黒髪娘は、お冷のグラスを握り締めながら、視線を横に動かした。
「あっ、飛鳥ちゃん先輩! あの観葉植物、超緑ですね!」
「そうね、超緑ね。このうえなく超緑ね」
飛鳥は”神楽坂さん、緑でない観葉植物の方が珍しいと私思うの”という言葉を呑み込んで頷き、そしてすべてを察した。
「うう、お母さんにビシバシやられました……」
「神楽坂さん家のお母さん厳しいものね……」
案の定であったようだ。
「飛鳥ちゃん先輩はどうでした?」
「私? お察しの……お察しの通りよ……!」
飛鳥の成績は体育以外壊滅的である。
音楽と美術も駄目なので、もしかしたら茜よりも悪いかもしれない。
「このお店の観葉植物は緑だけれど、私の成績表は夕焼けよりも鮮やかに燃えていたわ……」
普通に破滅的だ。
学生船飛鳥号のシステムはオールグリーンではなくオールレッド(体育を除いて)である。
「あ、飛鳥ちゃん先輩……! 今日は、今日は、美味しいものいっぱい食べて癒されましょう! 私達は一人ではありません!」
遠くを見つめて儚くなっている飛鳥の手をガシッと握って茜。
「神楽坂さん……ええ、癒されましょう……! きっと二人なら頑張れるわ……!」
ガシッと握り返して頷き飛鳥。
ちなみに体重計への心配は以下略。
そんなこんなを話しているとウェイトレスが注文を取りにやってきて、二人はそれぞれ飲み物とモンブランとババロアを一つづつ注文し、やがてそれが運ばれてきた。
「わあ、美味しい!」
モンブランを一口、食べると先程まで悲壮な顔をしていた後輩は満面の笑顔になった。背景に花が咲いている。
飛鳥もまたスプーンで一口、口に運んでみると、まろやかなクリームとマロンの甘みが舌の上に広がった。こうして甘い物を食べているとなんだか幸せな気分になる。
「ふふ、ほんと、美味しいわね」
飛鳥もまた満面の笑みの茜に言って、くすっと笑みを零したのだった。
●
甘味を食した後、暖房が効いていたカフエを出ると、外の冷気と凍えるような冬の風が勢い良く吹き付けてきた。暖かさが吹き飛び、冷水でも浴びせかけられたかのように幸せな気分もまた吹き飛んでゆく。
「うひゃー、北風さっむいですねぇ」
隣を歩く後輩は変わらず能天気そうだったが。
日も落ちて、空はすっかり闇の色、暗くなった夜の道を、外灯の明かりに照らされながら、飛鳥は茜と並んで歩いた。
雑談をかわしながら夜道をゆく。
時折車がライトで闇を切り裂きながら、二人の横の車道を勢い良く走り抜けて行った。
思う。
自分がこうして遊び歩いている間にも、弟は目標に向けて頑張っているのだろうか。
弟の陽波透次は優秀だった。なんせ学年首席である。
夢も持っていて日々努力している。
けれど、飛鳥には将来の夢が何も無かった。成績は最悪、日々友達と遊んで甘い物を食べてはだらだら過ごしているだけ。
”陽波さんちって弟さんは優秀なのにお姉さんの方は駄目よねぇ”
という口さがない噂を耳にした事も結構ある。両親からさえ成績については、少しは弟を見習ったらどうだ、と言われる。
飛鳥は、そんな自分に劣等感を強く感じていた。
(私には何も無い)
空っぽ。
そう、思った。
やがて飛鳥と茜は学園へと戻り、園門を潜ってそれぞれの寮へと分かれ道が延びる十字路まで来て、別れとなった。
「……日々が虚しいと感じる事があるの」
別れ際、飛鳥はぽつりと言った。
視線は下を向いていて、すっかり元気がなくなっていた。
「……飛鳥ちゃん、先輩?」
茜の戸惑ったような声が聞こえた。
「私は世界に必要とされてるのかな」
疑問があった。
「私の居場所はどこにあるんだろう、とか」
飛鳥が言って顔を上げると、茜は泣きそうな顔をしていた。
視線が合うと黒髪少女は涙をぶわっと溢れさせて、飛鳥にがばりと抱きついてきた。
「わ、私は……私は飛鳥先輩が欲しいです! ずっと傍に居てほしいです! 大好きです、私では、先輩の居場所には、なれませんか……っ?!」
「神楽坂さん……」
飛鳥はぎゅっと己に抱きついて泣いてる少女をあやすように撫でてやった。この黒髪の後輩は、百錬鉄火の地獄を越えてきた阿修羅でも会長でもなく、まだ子供だった。
ひとけの失せた学園の夜の構内、闇の中、外灯の明かりだけがあたりを照らしていて、夜風が吹いて、道の傍らに植えられている常緑樹の葉を揺らして、抜けて、消えていった。
しばらくして、少し落ち着いたのか、茜が言った。
「……御免なさい、解ってます、私と遊んでても、先輩は虚しくなったり、居場所がなかったり感じるって事は、それじゃ駄目だって事ですよね、私では、足りないって事ですよね」
飛鳥から少女は身を離すと、飛鳥を見上げてダバダバと涙を流しながら言った。
「でも私、先輩のこと好きです。先輩の居場所、見つけてあげたい。満たされてて欲しい。私は、私は……ずっと、先輩の味方です。だから、私が必要な時は、いつでも言ってください。そして、ご迷惑でなければ、一緒に居てください」
飛鳥は、己を見上げている後輩の少女を見つめ返しながら思った。
(私は……)
赤い髪が夜風に揺れる。
一陣の風がまた吹いて、飛鳥と茜の間を吹いて抜けてゆく。
(何が、したいのかな……)
どこに、行きたいんだろう。
弟は力強く進んでいる。
けれど自分は。
闇の中、外灯に照らされた十字路の上、赤毛の少女は己の在り方に悩むのだった。
●
「Yeahhhhhhーーー!!」
ロビンは夜の高速を疾走するヤンキー彼氏の大型バイクの後部座席で歓声をあげていた。
あたしは風になるの!
白金の柔らかい髪を向かい来る暴風に靡かせ、翡翠のような瞳を闇に爛々と輝かせ叫びをあげる少女は、自らの意思を持たないキル・マシーンではなかった。
鬱屈から爆発した心は、今は多彩ないろどりを見せて、不良化しているものの、ある意味よほど人間らしくなっていた。
仲間内に聞けば「ロビンが人形っぽい? ハハハ! 寝顔だけならな!」とかいう返答が帰ってくるだろう。
「HA−! HA−! HA−! HA−! HA−!」
ちょっと世紀末入ってるパンクな風貌の彼氏さん達もゴキゲンなようだ。
「ロビ助ヨォーーー! イザ今宵、何処マデ走ル?!」
「皓イ、月ハ、刀ノ耀ニ、輝イテル、ゼ!」
彼氏さんであるヘッドがロビンに問いかけ、仲間達が歌ってる。
ロビンは牙を剥いて吼えた。
「地平の彼方までぶっ飛ばせッ!!!!」
「HA−! HA−!! 合点承知ノ助、ダ、ゼッ!!!! YA−!! YA−!! YA−!! YA−!! YA−ッ!!!!」
バイク達の集団は、エンジンの爆音を轟かせ、闇と風とを切り裂きながら、道の彼方へと疾走してゆくのだった。
●
「暴走族でしょうか……」
雫は闇夜の彼方から遠く響いて来るエンジン音に対しそう呟きを洩らしつつ明かりのついている玄関の鍵を開け、中に入った。
「ただいま」
「おかえりー」
雫がキッチンに入ると十六夜が先に夕食の準備を進めていた。
今日はコロッケとトンカツの予定で、トンカツが一枚揚がっていた。
ので、試しに端を切って味見してみたのだが―−
不味かった。
とんでもなく不味かった。
衣は油を十分以上に吸ってぬちゃっとし、どこをどうやったらこういう味になるのか、まるで腐った――いや、よそう、以下略。
”見せられないよ!”な状況になった雫がキッチンの流し台の上に身を乗り出して伏せ、涙を流している。
「お……お姉ちゃん、大丈夫?」
バツが悪そうに姉を気遣いつつ十六夜。
少し落ち着くと口元を拭いながら雫は振り向いて妹を涙目で睨んだ。
「味見位はしなさいと何時も言ってるでしょ! なんでトンカツがこんな味になるんですか??!!」
「え、基本通りだと芸がなくてつまんないだろうからちょっとツナギをアレンジしてみようかなーって……」
「ア・レ・ン・ジッ?! なんで余計な事するんですか! 貴方は基本に忠実にやっていれば良いんです!」
「な、何よ、そんな言い方しなくても良いでしょ? 実際――もぐもぐ、ほら、十分食べられる味だし!」
「……おかしいです……このバカ舌、味オンチ」
「あ、それボク、ちょっとカッチーンと来たかもお姉ちゃん」
「事実でしょう妹よ」
少女二人は睨み合いバチバチと視線に火花を散らせ、ここに姉妹喧嘩が勃発する。
ギャンギャンと言いあった末、ヒートアップした十六夜の口から爆弾発言が飛び出す。
「――ほとんど同時に生まれたのにほんのちょっとの差で偉そうに姉面してうるさいんだよ、この面食いっ!!」
「な、なっ……」
雫がショックを受けたように目を見開いてぴたりと動きを止めた。
効果ありと見た十六夜はふっふーんと意地悪く笑ってやると、
「剣道部の主将さんでしょ? お姉ちゃんが好きな人。いっがいにああいうナヨナヨしたのが好きだったんだねー。どうせ異界から来たっていうもの珍しさに惹かれたんでしょ、お姉ちゃん結構ミーハーだーよーねー」
すると、スッと雫の顔から表情が消えた。
(あ……やばっ……逆鱗に触れたっぽい……?)
ふと十六夜は我に返る。
元々表情の変化の少ない姉だが、今は絶対零度の表情と化していた。
「――十六夜」
雫は柔らかく猫撫で声で妹に呼びかけた。
「今夜は少し、私の部屋でお話ししましょう?」
姉の怖さを知っている妹の顔はひきつっていた。
「え、いや、ちょっと待っておねえちゃん」
「貴方の部屋でも良いですよ? とことんまで」
「ちょっとじゃないじゃんっ?!」
「あの人は……あの人は、なよなよしてませんっ! 優しいだけです! 故郷から遠く離れて頑張ってるんです! 本当はとっても芯のある強い人なんです! 剣の腕だってとっても優秀なんですよ!」
「うわ〜……今度は惚気だしたよ……」
「貴方の認識の間違いを正してあげようと言っているのです、私があなたの姉ですこのバカ妹がぁ!」
「げぇっ、これは……本気だ! ちょっとボク急用を思い出したから!」
「待ちなさいッ!!」
ピューッと十六夜が駆けてキッチンから飛び出し雫がそれを追いかける。
そして、玄関から脱出しようと靴を履いていたところで、襟首を掴まれて捕獲された十六夜は、ズルズルと部屋に連行されていった。
姉妹の夜は、長くなりそうであった。
(またボク、明日寝坊しちゃう……)
「聞いてますか十六夜?」
「はいー!」
ひーんと十六夜は涙するのだった。
●
三年後――時は流れて二〇一五年。
暗闇の中に乱れ飛ぶ光輝くアウルの花達、大気を震わせる歓声が地鳴りの如くに響き渡る。
華やかな衣装に身を包んだ、紫がかった髪の少女がステージ上に現れると、歓声は最高潮に達して爆発した。
「皆ー! 今日は来てくれてありがとー!」
川澄文歌(
jb7507)である。少女が跳びはねながら両手を振るうとまた、歓声がドーム内に唸るようにあがり、それにはフーミーカー、とかフミカちゃーんとか叫ぶ男女の声が混じっていた。
中には人外の装いの客も混じっていた。
文歌は天魔にもウケるアイドルを目指す路線で頑張っていたのである。
現れた少女がアウルを用いて己そっくりの彫像を出現させると会場がどよめいた。
場を暖めたところで文歌はマイクを握って叫んだ。
「まずは『みんなに届け♪HappySong☆』歌います!」
その言葉にワーッと会場が沸き立ち、照明が鮮やかに変わり、イントロが流れる。
文歌は息を大きく吸うと、身を躍動させ、抜群の歌唱力で歌いはじめた。
――少し前まで 臆病だった時も
――素直になれず ブルーな気持ちで
――ただ眩しいヒカリを 見てるだけだった
左右に反復して流れるようにステップを踏み、長い髪を揺らし、少女が透き通った声を響かせてゆく。
――でも見つけたの 君のかがやき
――これが君の 答えなんだね
客席では暗闇の中で、光り輝く棒がリズムに合わせ、文歌の動きに合わせて左右に揺れている。
――勇気を出して その手をとって
――この歌を歌うよっ☆
バックバンドの演奏が一際盛り上げってゆく。
文歌は片手を客席に向けて伸ばすと煌くような笑顔を浮かべて声を響かせた。
――Happy Song☆ みんなに届け Happy Song☆
――みんなで一緒に 輪になって歌おう
――Happy End☆ ふたりの望み Happy End☆
――これがふたりの 夢のカ・タ・チだよー☆♪
サビのパートが終わると間奏と共に光の花が特撮さながらに咲き乱れ、歓声がまた大きくあがる。
アイドルのステージはまだまだ始まったばかりだった。
●
さらに二年後――時は流れて二〇一七年。
「一時はどうなる事かと思ったけれど、このあたりも新しい人が増えて良かったねぇ」
「そうだねぇ」
そんな会話を雪室 チルル(
ja0220)は地域内でよく耳にする。
チルルの故郷は雪国で、チルルが子供の頃には、深刻な過疎問題に直面していた地域であったという。
しかし、天魔の流入に伴い過疎化には歯止めがかかって、ギリギリではあるが、住民の増減のバランスは保たれ、故郷はなんとかやっていけていた。
が、さすがに家の近くに高校が出来るなんて事はなく、その年十五歳になっていたチルルは最寄の町の高校までやたら時間をかけて通っていた。
そう、チルルは久遠ヶ原へは行っていなかったのである。己にはアウルの才能があるので、それを覚醒させれば色々楽になるとは聞いていたが、結局地元に留まっていた。
そんな彼女も休日となればみんなと一緒に遊びたかった。
という訳で、
「皆、雪合戦やりましょ!」
チルルは子供達に直接や電話やメールで呼びかけると、あたり一面真っ白な銀雪原の上に集合させ、大雪合戦を開催した。
「高校生にもなって雪合戦とかだりー……」
チルルと同級生の男子がぼやいた。
この二人が最年長組で、あとは皆年下である。
「もうっ、来たんだったらしゃんとしなさいよ!」
チルルが同級生に怒っている。
「勝ったら何か賞品くれよチルル、そうすりゃやる気だすわー」
「賞品……わかった! 勝ったら次回大会にも参加する権利と栄誉をあげるわね! これは名案! やっぱり、あたいったらサイキョーね!」
「ちょ、おまっ、勝っても次回強制参加とか罰ゲームじゃねぇか! やる気むしろ減るわ!」
「あんた、あたいの敵側ね! この勝負、あたい陣営が勝つ!」
「うわきたねぇ! 絶対、負けたくねぇ! 畜生!」
「なんのこと? 年齢的にあたいとあんたが別れるのは当然でしょ」
「俺が勝ったらお前学校で弁当寄越せ!」
「えー……まぁいいわ! サイキョーなあたいがいるチームが負ける訳ないもんね。でもあんたが負けたら、あんた弁当じゃないから、購買でパンとジュース買ってきなさいよ!」
「ぐ……いいぜ、それで勝負だ!」
「ねーちゃんねーちゃん、盛り上がってるとこ悪いんだけどさ、あんちゃんとねーちゃんは別れるとして、おれらの組み分けどうするー?」
「そうね、より人望があるのがサイキョーだから、それぞれあたいかこいつか好きな方に自由につくと良いと思うわ!」
「ちょっとまてぇ!!」
「「「わー! 勝ち馬につくぞー! 勝利の女神軍だー!」」」
「こっ、このクソ餓鬼ども! お前ら! 俺の側で勝てばチルルが弁当、そう、握飯作ってくれるってよ!」
「「「わー! ねーちゃんの手料理ー! おにぎりー!」」」
「あっ、勝手にそんな、ヒドイ奴ね! あたいにつけば、にーちゃんがジュースとパンを奢ってくれるわよ!」
「……どーしよっかな?」
かくて、雪国の子供達の勢力はニ陣営で拮抗した。
四方に旗を立てて戦場とする範囲を決め、中央に壁を作り、西と東にかまくらを複数築き、雪球を作り置いて、やがて開戦の合図である。
「握り飯が喰いたいかー! この勝負、俺達が勝つ!」
「きっと勝利のジュースは格別よ! この勝負、サイキョーなあたい達が勝つわ!」
うおーと両陣営の子供達が声をあげヒュンヒュンと雪球が飛んでゆく。
天魔の子も多かったが透過能力と飛行は禁止されているのでもっぱら地上戦である。
かくて、雪国の子供達は皆仲良く雪合戦に興じるのだった。
結果。
「だぁ畜生!」
最後に雪玉の集中砲火を受けてついに被弾し男子生徒が仰向けに倒れた。ゲームセットである。
「ふっふっふ、やっぱりあたいったらサイキョーね!」
「うるせぇお前! 中盤で強引に突貫してやられてたじゃねーか!」
男子生徒が上体を起こして吼える。
それは事実だったが、
「チームが勝てば良いのよ!」
とチルルは胸を張ってみせた。
「はぁ……そういえばよ」
「なに?」
「サイキョーって何を以ってサイキョーとするんだ?」
「……さぁ?」
「さあっておい」
「サイキョーなものがサイキョーよ!」
言って、チルルは笑った。
正直、自分でもよくわかっていないのだが、今を楽しく生きようと、雪室チルルはそう思うのである。
「……なるほど……お前は確かに最強かもな」
ははっと男子生徒は笑い、また大の字に雪原に倒れたのだった。
了