●1:白い敵
白い。
大地も空も風も、樹々も、人も、刃のような白さに包まれて、静かに命の火を削られていくようだ。
唸り声が聞こえた。
それが自分のものだと気付いたラズリ・シールは、ターバンを一部緩めて口元を覆った。布越しに湯気のような吐息が上がる。
通信が届く。
「こち、Bは、ん」
通信機が風音を拾うため、B班、鷺谷 明(
ja0776)の声は酷いものだった。
「ふも、とに、救きゅ、到着、ほん、ぶ、ヘリ、あと5分……」
「バ・レ」
思わず母語で返してから、ラズリ・シールは「了解」と言い直した。
雪に足を取られるうえ山路だ、速度は出ない。だが急がねば、夜が来れば捜索はさらに難航する。行方不明となった子どもたちの生存率も刻一刻と低下してゆく。
寒さ、地形、そして時間。全てが敵だ。
言っていたのは確か……ラファル A ユーティライネン(
jb4620)
『時間が無いからあちこち回っている暇はないぜ。まずは地図出しな』
いつも大胆不敵な彼女ですら険しい顔になっていた。
嫌な予感ではなく、確信めいた危機感があった。
最後に通信があった場所は、大まかには分かっている。それでも、雪の山路をのろのろ進んで虱潰しにするには広すぎる。
「……」
若獅子は再び唸り声を漏らした。
「山はこの時期でもまだ寒いね」
それは通信ではなく、肉声だった。
吐息は風に散り、白くもならない。それでも砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)はわざわざ防寒具の衿元を緩めて、笑顔を見せていた。
「女の子は体冷やしちゃダメだし、さっさと助けてあげなきゃねー」
言って、後方の足元を示す。
シールが振り返ると、東條 雅也(
jb9625)が雪に屈みこんでいた。
「見つけた」
マントを翻して立ち上がる。
足あとだ。雪に覆われつつあるが、複数の人間が歩いた跡が続いている。
リアン(
jb8788)も屈みこむ。
「複数のようです」
巫 聖羅(
ja3916)も頷いた。
「雪が強くなる前の足あと、子供みたいに小さい……待って」
聖羅は感覚が鋭く、地形や天候についても詳しい。足跡を目で追っていたが、何かに気付いたように顔を上げた。
もう一つの発見は……
「フーリ達は不測の事態に巻き込まれた可能性が高いわね」
巨大な足跡。
禍々しい爪を持った獣の足跡だ、自然の獣であろうはずがない。
子供たちはその足跡を追っていたようだ。
「竜胆兄」
樒 和紗(
jb6970)が言うと、ジェンティアンも頷きを返し、通信機を開いた。
「足跡を発見、子供と、羆のような足跡。恐らく敵だね」
そして、ラズリ・シールを振り返る。
焦り過ぎちゃ見える物も見えなくなっちゃうよ?
言葉はなくとも、その静かな笑みは、決して軽いものではなかった。
「……」
未熟な獅子はゴーグルを上げ、頷くと、顔に戻しながら力強い足取りで歩き出した。
この先に敵がいる。
だが彼には、心強い仲間たちもいるのだった。
川澄文歌(
jb7507)はゴーグル型魔装サードアイを神経質に調節した。
(全員無事でいてっ)
祈りは口に出さず、足を進める。無駄口など体力と時間を消耗するだけだ。
「ポイント到達」
神酒坂ねずみ(
jb4993)が淡々と言う。彼女もまた地形把握に優れていた。寒いところも慣れているような、いないような。
出発時に和紗とマーキングのスキルを互いに撃ち合うという手を考えたのだが、効果時間の問題で断念した。その代わり定期的に連絡を入れ、両チームの位置を把握できるよう務めている。
到着したのは、先ほどA班から報告された足跡の場所。
索敵を担当していたねずみが、元より大きな眼をさらに見開いた。
血の海に浮かぶように、少女と少年が横たわっていた。
「フーリ!」
川内 日菜子(
jb7813)が叫び、雪を蹴立てて駆け寄った。
「フーリを発見した、少年も一緒」
鷺谷は本部とA班に通信すると、返答も聞かずに切った。一分一秒も惜しい、すぐさま癒しの風を発現させる。
文歌が言葉を詰まらせたのも、一呼吸に満たない間だ。すぐさま癒やしのアウルを子供たちに注ぐ。
「必ず助けるから、後少し我慢してね」
「……」
フーリから返事はないが、トルコ人少年ワヒドはどうにか顔を上げ、頷いた。
回復手段を持たないメンバーも休んではいない。ねずみと日菜子は周囲を警戒し、ラファルは淡々と本部へ通達する。
「つーわけでB班は下に向かう、以上……ヒナちゃん、行こうぜ」
「ああ」
肩に置かれた相棒の手を感じて、日菜子は握りしめていた拳を僅かに開いた。
自力で歩けるワヒドと比べ、フーリは内臓の見える患部をどうにかしなければ動かすことも出来ない状態だったが、撃退士が修める技術は殺すだけのものではない。数分と待たず重傷者たちの患部は固定され、移動できるようになった。
ここからが本番だ。迅速に、確実に、救助者を運び……
その時、空気がひび割れるような音がした。
咆哮。
ドス黒い怒りに満ちた、暴力的な叫び。
A班がいるはずの方角だった。
●2:黒い獣
半身を雪に埋められたミーリヤを発見したのは樒和紗だった。
「心肺停止……」
「でも僕の生命探知に引っかかった」
和紗はそれ以上何も言わず回復スキルと心臓マッサージを始め、ジェンティアンも癒しの光を輝かせる。かなり強力なスキルだが、それでも裂けた胴体や骨の覗く手足を完全に治せるわけではない。
「再動しました」
和紗の声に、一同が大きく息をついた。
だが処置を手伝う東條雅也の瞳は険しい。
「これでどうにか動かせる、けど」
皆の手を借りながらミーリヤを寝袋で包む。「……目を覚ましてくれるだろうか」
「急ぐ、ましョウ」
ラズリ・シールが言った。先ほど鷺谷から「フーリ発見」の報告を受けて依頼、一言も喋らずにいた。
ジェンティアンが頷き、笑顔でラズリ・シールの肩を叩いた。
「大丈夫、彼女も無事だよ」
「バ・レ(ああ)」
撃退士たちは、寝袋を抱えた雅也を中心に、もと来た道を戻り始めた。
次の瞬間、白い世界が割れた。
「?」
雅也が気付いた時には、黒い獣が直前まで迫っていた。巨体からは信じられない速度と、静けさだった。
(そうか、雪が音を消して……)
ディアボロ『鬼熊』の振るう、五つの刃が並んだ凶器。
ジェンティアンが咄嗟に割り込む。
黒い凶器を防いだジェンティアンは、体内で骨の軋む音を聞いた。シールドのスキルがなかったら肩が外れていたかもしれない。
「行くんだ!」
「了解!」
雅也は翼をひろげ、大地を蹴る。
獣が怒りの咆哮を上げる。獲物を奪われたことへの怒りが形を持った殺意となって雅也を追う。
その動きが、鈍った。
この世ならざる数多の腕が『鬼熊』に纏わりついていた。
「その巨体で縦横無尽に動かれると厄介ね」
印を組む巫聖羅の身体が真紅のアウルに包まれている。
身を捩らせる『鬼熊』に、さらに植物のツタが襲いかかり束縛を強めた。
「追わせるものか」
リアンだった。彼も翼をひろげていたが、逃げるのではなく阻むために空中に留まる。
「待って!」
和紗も、雅也と同じく敵の接近に気づけず一手遅れてしまっていたが、雅也に駆け寄ると、彼が高度を下げるのを待ってアウルの絵筆を振るった。
「これで見つかりにくくなります、お気をつけて」
「助かる!」
足留め以上に効果的な作戦だ。雅也は礼を残して吹雪の中へと舞い上がった。
「お願いね……」
聖羅は敵の束縛に集中しながら、一瞬空に目をやる。
「!!」
はっと視線が空へ戻った。
……震えるような声が漏れる。
「ザバーニーヤ……」
「チィスト!?(なんだって)」
ラズリ・シールが思わず叫び、空を見る。
いた。
灰色の空と白い大地の間に浮かぶ、斑の翼。
……挟み撃ちか。
遠間からの攻撃を仕掛けているが、『鬼熊』に効いた様子はない。
毎回確実に束縛がかかるわけではないし、そもそも術者の気力が尽きるまでだ。だが、ここで勝負を決めるには手数が足りない。
麓まで行ったB班が到着するまで持ちこたえられるのか。
それまでにザバーニーヤが攻撃してきたら……
聖羅は術を切り替えた。仲間たちが充分に離れているのを確認し、眠りを誘う霧を呼び出す。
暴れていた『鬼熊』の動きが重くなり、やがてドサリと身を横たえた。
眠った。
誰ともなく溜息が漏れた。
「今のうちに合流を」
聖羅が言った、その時。
仲間たちは一斉に振り返り、上空へ攻撃した。
だが、急降下するザバーニーヤにはどれ一つ当たらなかった。
来る!
「……」
回避行動をとる撃退士たちをよそに、ザバーニーヤは見当違いの方向に、羽に似た何かを放っていた。
たった一本、そもそも誰にも当たらない……
いや。
当たった。
『鬼熊』に。
「どうでもいいんだけどね」
つまらなそうに女は言う。
「もうちょっとだけ、戦って」
つまらなそうな女が言う。
怒りの咆哮が響く。
●3:紅い炎
その怒りは炎となって荒れ狂った。
初めて悲鳴があがった。
……獣の悲鳴が。
「貴様には地獄の業火すら生温い……!」
爆発のような蹴りを叩き込んだ川内日菜子は、間髪入れず燃え盛る拳を振るった。
「よくもフーリを……よくもよくもよくもッ!!!」
しかし、雪路の寒さが彼女の体力を奪っていた。苛烈な打撃にいつものキレが足りない。『鬼熊』は相打ちを狙うように鉤爪を振り回す。
「出すぎだぜヒナちゃん」
鉤爪は日菜子をかばったラファルを捉え……すり抜けた。身代わりになったジャケットが引き裂かれた。
ねずみのライフルはザバーニーヤを追ったが、射程外へと逃してしまった。反撃もない。
「サバにゃんはやる気なし、と。それは重畳」
ヘンなアダ名つけないでくんない? 天魔の唇がそう動いていた。
皆の盾となり、癒しの輝きとなりながら、ジェンティアンにはいつもの笑顔が戻っている。
「ずいぶん早かったね」
その盾に更なる力を授けながら、川澄文歌が応えた。
「一刻を争うことでしたから」
「おかげで、あまりスマートじゃない手を使ってしまった」
言葉を継ぎながら、鷺谷明はまず己の傷を癒やし、それから味方への援護を開始した。
A班が敵と遭遇したと分かった時、B班は鷺谷を除いて戦場へ急行した。
残された鷺谷は己の手首を大きく切り裂くと、吹き出す血をそのままに、しかし背負ったフーリには浴びせぬよう最新の注意を払いながら全速力で駆けた。
生存本能を刺激し、精神と身体の制御を外したのだ。
天魔も及ばぬ速度で夕闇迫る雪山を駆け下りた鷺谷は、待機車両にフーリを預け、再び山を駆け上ったのである。
「獲物への執着ねえ」
鷺谷はアウルの墨化粧をリアンに施しながら、皮肉に笑った。
「少女には雪が被せてありました、保存食扱いだったのでしょう……けだもの風情が」
後半は敵に向けたものだ。身ごなしも軽く、リアンは空中から敵に襲いかかる。
「狩るものと、狩られるもの」
ラファルは二着目のジャケットを代償に、白い残像となって鬼熊の懐に潜り込むと、
「今の俺は?」
神速の魔刃をいっそ静かなほどにねじ込み、ナノマシンを起動させた。
絶叫と血しぶきは、吹雪の色すら変えるようだった。
炎とフラッシュライトが照らす吹雪の中を、青い影たちが舞い踊る。
怒声、銃声、爆音、咆哮……
獣たちの激戦。
『鬼熊』の一撃は重く、鋭く、容赦がない。まともに受ければ一撃で終わる。ジェンティアンですら二撃目は耐えられるかどうか。
それでも彼らは目標を分散させ、多くの癒し手たちの活躍もあり、戦闘不能者を出さぬよう立ちまわることが出来た。
雪上の用意がなければ、またスキルによる援護がなければ、一人また一人とあの前脚に捉えられ、八つ裂きになっていたかもしれない。
遠間から攻撃を浴びせる戦法も、決して安全とは呼べない。驚異的な反応と跳躍力で、復讐の一撃が襲いかかる。
「ギュッ」
被捕食者の代表格の名を持つ少女は、ネズミのような悲鳴を上げて転がった。防具が破れ肋骨の表面をざくりと削られていた。すぐさま回復が飛ばなければ危ないところだった。
「このくらいなら修理可能ですね」
雪上にあってなお目立つ白い肌を晒し、ねずみは眼鏡の奥を不思議にきらめかせた。「心はホットに、頭はクールに」
心の引き金を引く。
怪しく輝く蝶の群れが、『鬼熊』の顔を包み込んだ。
グオオオオオ。
身を持ち上げて前足を振り回す。
獣は、ついに狩られる側となった。
「あなたは、自然に還してあげることもできない」
聖羅の炎は、辺りの雪を一瞬で蒸発させ、『鬼熊』の毛皮を燃え上がらせた。
その一撃は獣の命を大きく削りとった。
火は、人間にとって大いなる知恵であり、武器。
しかし、羆は火を恐れぬという。
知恵も武器も効果のない敵に、どう立ち向かえというのか。
……それでも、この最強の獣を狩ることが出来たのは、人間だけだった。
「悔しいのかい?」
トルコ語で声をかけられて、ワヒド少年は顔を上げた。
『青の司』が笑っていた。
「おれもきっと負けていたよ……彼らに会わなかったら」
ワヒドが視線を戻した時、戦いは終わっていた。
皆、傷だらけだった。
吹雪は止まず、辺りは暗くなっていた。
精も根も尽き果て、気力もアウルも残っていない、そんな状態で。
彼らは支えあい、立っていた。
それは気高き群れだった。
●4:青い夢
数日が過ぎた。
全員、生還。
報告した際、奇跡だという声が飛んだ。
「吝嗇(けち)な奇跡だと思わないかね?」
治療施設の白い廊下で、鷺谷明は朗らかに笑う。「全員無傷で勝負は圧勝、子供たちの冒険は大成功の笑顔で凱旋……奇跡ならそのくらいやってもらわんと」
「まあ、理想は」
並んで歩きながら、東條雅也は曖昧に頷いた。
子供たちの様子を見に来た彼らは、先ほど、奇跡の安さを知った。
ミーリヤに、深刻な後遺症が残った。無酸素状態が長すぎて、脳の一部が死んでいたという。
虚ろな視線は誰かを追うことはなく、開かれた唇から言葉が漏れることはない。
雅也は、白い天井を仰いだ。
「……後に響かなきゃ良いですけどね」
思い浮かべた少女の名は……
……フーリは目を開いた。
最初に見えたのは、見知らぬ少女……お姉さんだった。
「気がついた?」
聞こえたのは男の声。
視線を上げると、こちらは見知った顔だが、珍しく硬い表情。
フーリは意識の混濁もあり、ジェンティアンだと分かるのに少し時間がかかった。
「撃退士は万能じゃない。それは身に染みて分かったはず」
冷水のような声と、言葉。
「失うのが嫌なら阻めるよう賢くなるんだね」
え?
どうしたの、ジェンティ。
何が……
……わたし。
何を、うしなったの?
「撃退士の任務は常に危険が伴うよ」
お姉さん……川澄文歌が言った。
厳しい顔だが、声に慈しみが溢れている。「ましてや私たちは未熟な学生だから,常に冷静な判断を心がけないとダメ! 今回の事を胸に刻んで,ニ度と軽はずみな事はしないようにね」
「ハイ」
応える声があった。
ワヒド。
フーリの口から漏れる声はかすれた。
ワヒドは、ベッドの反対側にいた。振り向こうとしたら、止められた。
「オレ、ミーリヤを守れなかった」
動かせない掌を握りしめる、小さな手。
一つ年下の男の子の手。
「だからこれから、ずっと、ミーリヤを支えていくって、決めた」
その手は熱かった。
何だか、とても力強く感じた。
「フーリが助けを呼んでくれなかったら、オレたち死んでた。それと……」
待って。
待って、違うの。
「友達になれて、嬉しかった」
そうじゃないの。
「ワヒ……ド……」
「テシキュルエデリム(ありがとう)」
そして。
友は去った。
次なる戦いの場所に、一足先に旅立った。
「……」
文歌は静かにフーリを抱きしめた。
温かさに包まれ、フーリは失ったものを理解した。
そして、手に入れたものも。
(わたしも、必ず……)
流れる涙は、熱い。