●橙の風
一面に土と木の匂いを感じながら、舗装された部分とむき出しの土が半々くらいの路を行く。
樹々は色づき、空気は澄み渡っている。
乾いた風が涼しく、日は暖かい。
警戒区域であることを忘れそうな、穏やかな時。
鷺谷 明(
ja0776)はすでに忘れているようにも見える。元より享楽的な男だが、今回はいつにもまして楽しんでいた。
「はは、公費で酒呑んで温泉に入れるとは」
「……」
ラズリ・シールは黙ってその横顔を見つめるが、鷺谷は気づいた様子もない。
逆側では、砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)が大きな伸びをしている。
「温泉いいね温泉」
こちらは、ラズリの視線に気づいたようだ。
ジェンティアンは笑みを向けた。
「それくらい気持ちに余裕もっといた方が、僕はいいなぁ。ピリピリし過ぎると見えてる様で見えないモノとか出て来ない?」
流暢な英語。
これなら「通じる」のではなく、「伝わる」のだ。
ラズリが何か言いかけたところで、更にその後方に人影が舞い降りた。
「私もそれなりに長い間、この人界に居りますが、温泉は初めての体験で御座います」
上空から周囲を偵察していたリアン(
jb8788)だ。礼服もかくやというジャケット姿は、秋めいた山路にまるでそぐわないが、彼はどこでもそれを崩さない。
「ただ、油断は赦されませんね」
リアンは上空から見えた内容を仲間に通達した。以前、天魔と戦いがあったのは山一つ向こう。近くはないが安心できる距離ではない。
ラズリは結局なにも言わず仕舞いだったが、それはリアンが代弁してくれたからなのかもしれない。
油断はできない。だが、初めての温泉は楽しみなのだ。
「ライオンチームの報告は以上だよ」
鷺谷が通信機に向けて言うと、元気な少女の声が返ってくる。
「ファミダン! ベズーディミビナムト!(了解、また後で)」
ラズリが割って入る。
「フーリ、イングリッシュ」
「ドモ・アリガト! ホナ・サイナラ!」
通信が切れて、ライオンチームは一人の溜息と複数の笑いに包まれた。
一方、妖精チームは山頂からの調査を終え、温泉旅館『はのゆ』へ向かっていた。
「フーリたちは通信機、持ってるわね?」
巫 聖羅(
ja3916)は通信機と連動させた山地図アプリを開き、指先でポイントを付けてゆく。
旅館が天魔に襲撃された場合を想定し、天魔の侵攻ルートや襲撃地点等を逆算して割り出しているのだ。
この辺りはまず人がいない。敵の拠点もすでに無く、残党と化した奉仕種族に襲われる危険があるのは、まさにこの旅館だ。実のところ、ここで迎撃できれば、旅館の人には悪いがアテもなく山狩りをするよりはるかに効率的だった。
手元を覗き込んで、フーリは感心した声を上げた。
「便利ね、セラのそれ」
セラ、というより「セヘラ」という発音だった。フーリは人の名を呼ぶ時、癖がある。特に日本人の名は難しいのもあって、少し奇妙な抑揚になる。
ヘブライ語で王女の意味を持つセヘラ……聖羅は作業しながら応えた。
「文明の利器は活用しないとね。天魔の影響力が強い土地では使えなかったりするんだけど」
「ふぅん」
勉強になるわともっともらしい顔で頷く。
「お、社会科勉強か?」
ラファル A ユーティライネン(
jb4620)が首を突っ込む。
「だったら教えてやろう。ここは知る人ぞ知る秘湯があるんだぜ。その名もフロン風呂だ!」
「誰が入るんだそんなの」
「俺だ!」
ラルひな、ラファルと川内 日菜子(
jb7813)がいつものやり取りに入ると、フーリは楽しそうに笑い、聖羅はアプリの打ち込みを続ける。
そんな中、十歩ほどを先ゆく神酒坂ねずみ(
jb4993)が振り返って声を上げた。
「早く行きましょうよ」
特に不機嫌なわけではないのだが、表情に乏しいので誤解されそうな言い方になった。
それを気にする者などいなかったが、聖羅はやや呆れた口調で声をかける。
「意外ね、温泉好きなの?」
「いえ、まあ」
返すねずみの表情に、ほんの僅か、微妙な揺らぎがあった。
それでも、口調に躊躇いはなかった。
「じつは旅館も温泉も初です」
だから何、というわけでもなく。
「家族旅行とか行ったことないんですよねえ。父様家から出ないし」
それだけ言って、歩き出す。
小さな足音がその背を追いかけ、ねずみの手をとった。
小柄なねずみよりさらに小さなフーリの手が、少し半端な力加減で二人を繋ぐ。
「なんでしょう?」
目を丸くしているねずみだが、彼女はいつもこんな表情だ。
「ダメかしら」
見上げる笑顔。
「いいですけど」
見下ろす大きな目。
二人は並んで歩き出す。
聖羅は苦笑して後を追った。
ポケットに手を入れて歩き出す日菜子と、その腕を取ろうとして払われても何だか嬉しそうなラファルが、さらにその後を追った。
●緑の香
『はのゆ』は、葉の湯とも書ける。イグサや竹、水苔の香りが仄かに流れる、風情ある佇まいの立派な宿だ。
「ども、お世話になります」
ねずみとフーリを先頭に、旅館の主人に挨拶して、和気藹々と店の門をくぐる若者たち。一見するとただ遊びに来ただけの集団だ。
だが、出入り口から中庭をぐるりと見渡したラファルの瞳に油断はなく、旅館の背にある山際を見つめる鷺谷はやけに楽しそうだ。
「これ、一応見ておいて」
聖羅は来る時にまとめておいた情報を皆の通信機に回していた。
リアンも空中から見た感想を述べる。
「野生動物を全く見ませんでした、鳥の巣もカラです」
それぞれ、油断なく楽しむ準備は万端だった。
畳風の廊下を歩いて部屋に移り、それぞれ、お茶を呑んだり、部屋からの眺めを楽しんだり。
どちらかと言うと和室にそぐわない面々だが、浴衣や茶菓子について教えて回るのはジェンティアンだった。
「外見こんなで名前もそんなだけど、日本生まれ日本育ちの魂は純日本人なんで」
それにはラズリも表情を変えた。ジェンティアンは英語もネイティヴな発音だったのだ。
「見た目とか血筋でイメージ植え付けられがちだけどね」
その笑顔は確かに、和をもって尊しとなす民族のものだった。
その頃、女湯ではすでに黄色い声が飛び交っていた。
「なぜ! さわる!」
「ヒナちゃん何か固いからほぐしてやろうかと……」
「でも柔らかかったわ! ラァルは自分に無いものを求めてヒナを選んだのね!」
「何言ってんだフーリ、あれは俺が育てた」
あれとは何を言っているのかわからないが、揉んで大きくなるくらいなら世の女は苦労していないだろう。
そしてこれもフーリの癖だが、ラファルを「ラァル(ラァレはトルコ語でチューリップ)」と呼んでしまう。ヒナはアラビア語に「カーヒナ(女神官、巫女)」という言葉があるせいか普通に呼べる。
「先いってるわね」
「はぁい……えっ!?」
振り向いたフーリの顔が固まる。
視線の先には、湯煙の向こうへと消えゆく聖羅の、完璧なマーメイドラインと脚線美があった。
その脇ではラファルと日菜子がああだこうだと言いながら服を脱いでいる。
「どうしました?」
「!?」
声に振り向いたフーリは、ねずみ(「ねずとか「なず」とか呼んでしまう)を見上げ……一回視線を落としてタオルに包まれた意外に豊かな胸元を見て、それからまた見上げて、声を失った。
「はだか?」
「お風呂ですから」
「お風呂なの!?」
「はい?」
実は男湯でも似たような誤解と説明がなされているのだが、女湯の方は説明が雑だった。
「いいから脱げっ!」
「きゃーっ! ラァルのエッチ!」
「うるさいっ、とにかく脱げ! 話はそれからだ! ヒナちゃんそっち持て!」
「断る、フーリの好きにさせろ」
「そ、そーよっ! だからっ離してっ! ぱんつ伸びちゃううーっ!」
『はのゆ』には外湯がある。
男女とも露天風呂はあるのだが、そこからもう少しゆくと柵があり、源泉に近い混浴用の強泉がある。
「ふむ。これが温泉と言うモノですか」
リアンは興味深く湯を覗き込んでいる。深く息をすると、湯の香に硫黄の匂い、僅かな錆の匂い、そして周囲の植物の香りが混ざり合い、心身をゆるやかに通り抜けた。
教わった『かけ湯』をするため桶を持つ手の甲には、六芒星。もう片方、左手には目のような印がある。
一般の利用客がいたら、入浴を断られていたかもしれない。そういう意味では天魔警戒も悪いことばかりではない。
「月見に一献、紅葉に一献、善哉善哉」
鷺谷も、浮かべた桶に徳利を載せ、だいぶエスカレートした入浴を楽しんでいる。これも一般客がいたら出来なかっただろう。
そんな中、ジェンティアンの説明は妙に律儀だ。
「タオルは頭に乗せとくの」
「バ・レ(YES)」
素直に頷いたラズリは、タオルを頭に巻きつけた。「オゥ」とジェンティアンが眼を見張るほど器用で美しい。
「オスマン風だね」
鷺谷が声をかけた。
「聞いてみたかったんだよ、君の国のこと」
「……」
ラズリは頷き、湯に身を沈めた。傷だらけの身体が白い湯に隠れる。彼の身もまた、一般利用客には見せられないものかもしれない。
大きく息をついて、ラズリはゆっくりと、日本語で語り始めた。
●藍の音
「あの大地には古い国、たくさんある。古い時からある国、たくさんある。でも、もっとも古い時、国はない。砂漠と、人。アラーブ、パルスィ、オトゥマン……同じ。同じ砂漠の人」
誰もが黙って聞いていた。
「フェルドースタン、同じになった。私の国は、砂漠の、人の、国」
そう。
やっと一つになれたのだ。
延々と争い続けてきた砂漠の民が、一つに。
フェルド、その意味は『楽園』。
湯が揺れる。
「素敵な国」
彼女が入ってきたことは分かっていたから、誰も驚きはしなかったが、振り返らずにはいられなかった。
それほど、聖羅の声は透明だった。フーリは一瞬、湯煙が消えるかと思ったほどだ。
「今度は飛び込まないでよ?」
「合点承知」「はーい」
女湯でしこたま怒られたねずみとフーリである。聖羅に続いて静かに入る。
男女とも湯浴み着があるとはいえ、男性の只中に涼しげな顔で分け入る聖羅は、フーリにすれば未来の女性だった。
「ふゅう、極楽極楽」
ねずみも気にした様子はないが、これはどちらかと言うと異星人だ。
しばし世間話や、今日の道中、宿の良さなどを語らう中、一瞬途切れた会話を、聖羅が継いだ。
「既に知ってるとは思うけれど……私の種族は悪魔ハーフよ」
誰も驚かない。
しかし、フーリの身体はこわばった。それは聖羅に対するものではなく、義兄の反応が怖かったからだ。
無論、聖羅も考えあっての発言だ。人間以外が共存している学園の現状に、特にラズリが戸惑っている事は感じていた。
「おかしなところよね、うちの学園。人間・悪魔・天使。そして混血達が共存している」
「……」
頷いたのは、リアンと、そしてジェンティアン。
「現代の『エーリュシオン(楽園)』と言った所ね」
ハーフは、異邦人だ。それは人間だけの話ではない。
人間として生きようとする、すべてのものに対する問題だ。
特に聖羅は先天的な混血では無く、戦う為の力を得る為に悪魔の力を呼び覚ました『先祖返り』的な存在だった。
「私はずっと人間扱いされて来たし、先天的な人達の苦しみはよく分からないけれど」
一瞬、視線が揺れた。
その視線を受け止めたのは、リアン。
天使と悪魔の血を引く青年は、髪をかきあげ、微笑んだ。その手に浮かぶ奇妙な印。
聖羅も笑みを返すと、今度はラズリと、フーリを見詰める。
「もし、貴方達の国に混血児がいたら、受け入れて上げて欲しい」
「……」
フーリは思い切り頷きたかったけれど、どうしてもその前に、義兄を見てしまう。
気付いているのか、ラズリは黙ったまま、真っ直ぐに聖羅を見て……頷いた。
「約束する」
「ありがとう」
聖羅は笑って、「また後で」と立ち上がった。
思わず目で追ってしまい、その眩い脚線美に慌てて目を逸らしたラズリは、人の悪い鷺谷の笑顔と対面した。
「いいねぇ、混浴」
ラズリはすぐには応えなかったが、女性たちが皆行ってしまってから、小さく言った。
「……悪くは、無い」
青年たちの笑いが響いた。
笑いがやんでも、鷺谷は笑顔のままだった。
「そちら風に言うなら、精霊(ジン)と共に戦うようなもの、かねえ?」
「……」
言われ、ラズリはやや躊躇ってから、口を開いた。
「リアンさん、には、もしかすると良くない話、かも知れない」
水を向けられたリアンは、「お気になさらず」と静かに首を振る。
ジェンティアンが笑う。
「温泉はさ、のんびりぐだぐだ日頃抱えてるの吐き出す場所でもあるんだよ」
ラズリは頷き、一同に訊ねた。
「天魔とともにあって、何を、感じる?」
すぐに答えたのは鷺谷だった。
「炎が吐けたり手が鋼になったりするけど人間さ」
鷺谷から見れば、細かな強弱正邪の差異はあれど、天魔も人も皆等しい。享楽主義者として気にするべきは、楽しいか楽しくないかの一点である。筋金入りの論法だ。
ジェンティアンも言い淀んだりはしない。
「使えるものは使う。己に害がなければ無問題」
良い奴がいて、悪い奴も居る。そして何より、戦争をしている。戦争は時に善悪を消してしまう。
それなら、自分で信じるものを、信じてゆくしか無いではないか。
……虫の音が聞こえてきた。
山の暮れは早い。夕闇は宵闇へと変わる。
星を見上げ、ラズリは言った。
「ありがとう」
ひとり、またひとりと湯を上がり、ラズリは最後に残った。
そろそろ行こうかと腰を上げ、男湯を通り抜ける時、声がかかった。
「いーい話、聞けたぜ」
それが女の声なのでさすがにラズリは足を止めたが、聞き覚えがあったので警戒はしなかった。
「なぜ、ここに?」
湯煙を割って現れたのは、笑顔のラファルと、呆れ顔の日菜子。
「混浴が混んでたからさあ」
「あなたと直接、話がしたいのだそうだ」
「ゆーなよぉヒナちゃん!」
ラファルが口を尖らせ、日菜子は「うるさい、はやくしろ」と腕を組んで、さり気なく胸をかばった。男湯に居るのは落ち着かない。むしろ相棒はなぜこんな平然としていられるのか。
それを嬉しそうに見ていたラファルだが、その顔のままラズリに視線を移す。
「何を学びに来たのか。何を学んだのか」
表情の割りに、言葉は淡々としていた。
だからラズリも、端的に応えることができた。
「この国を学ぶため訪れ……ひとを、知った。人として生きるものを」
「……ん」
ラファルは頷き、『引っ掛かりがない』せいで落ちかけた湯浴み着をひょいとずり上げた。
「なんか考えは変わったかい?」
「難しいが」
少し考え、最近知った日本語で応えた。
「ゼンシンとマエムキ」
「……」
ラファルは笑い、日菜子も男湯に居る羞恥を忘れ、「ほう」と頷いた。
それで満足だった。
「じゃあ、よろしくな! とりあえずメシ行こうぜ!」
「おい、ラル、そっちは男性用の脱衣所だ! ……ああ、それじゃ、また後で」
堂々と男湯を突っ切って帰ってゆく二人を見送って。
ラズリは、笑った。
この日は、二人にとって記念日となった。フーリもラズリも、何度となく思い出話にこの日のことを語った。
生まれて初めての卓球や、コーヒー牛乳、浴衣で皆で囲む和食の夕飯、枕投げとか恋話とか……
しかし、この夜の話は、これで終わらない。
「ネズミか……」
呟いた声は無意識だったかもしれない。
メガネの下、いつも通りにパッチリと目を見開いて、少女は闇を見据えた。
ざわざわと樹々がなっている。
風か。
それとも。