●なんでもない日
一件のダーツバー。
打ちっ放しのコンクリートは、簡素だが落ち着いた雰囲気だ。
オーナーのジェラルド&ブラックパレード(
ja9284)は、静かな店内を掃除していた。
夕方というにはやや早い時間。
静かに流れるアメリカン・ポップスと、カウンターの奥で義娘の黒田紫音(
jb0864)が食器を並べる音だけが聞こえている。
不意に扉が開いた。
風が流れ、音が逃げてゆく。
だが空気が壊れても音は乱れない。
そういう男が現れた。
「よぉ」
ヤナギ・エリューナク(
ja0006)が、この日の最初の客だった。
「いらっしゃい」「いらっしゃいませー!」
父娘の笑顔に迎えられ、ヤナギは無造作にスツールを占拠する。傍らにベースケースを置いた。
ロングカクテルのひとつを注文してから、ジェラルドを振り返る。
「連絡いったか?」
「連絡?」
電話が鳴った、ジェラルドの個人用携帯機だ。
「もしもし……もちろん、やってるよ〜」
電話の内容に、ジェラルドは声を弾ませた。
「うん……ワケあり悪魔ちゃんのおもてなしだね、うん、大丈夫……僕も愛してるよ」
電話が切れた。
「そいつだ」
ヤナギは背中越しに言って、紫音からグラスを受け取った。
「パパ、誰から?」
「悪魔も泣き出すお友達から」
紫音に笑顔で応え、ジェラルドは入り口へと歩く。
シンプルかつ重厚なデザインの黒い扉を内側から押し開け、「本日貸し切り」の札をかける。
揺れる札に隠される、『Black Hat』の文字。
扉を閉めて、ジェラルドは紫音を振り返った。
「さあ、今日はパーティだよっ」
「はーい!」
少女はパパと同じ笑顔になった。
何でもない日を祝うため、パーティのためのパーティを!
店に流れる音色が、明るさを増したようだった。
「では、護衛を続けます」
「マジメか」
「おじさん、ふわふわうってるわ、ふわふわ」
「自由か」
イリン・フーダット(
jb2959)と柘榴姫(
jb7286)に挟まれて、トホルは頭を抱えたくなったが、すでに柘榴姫に抱え込まれていた。
少女はトホルの肩の上、そこからあれこれ指図するのだ。ちなみにふわふわとはケーキのこと。
彼らは商店街を歩いている。
歩きながら、トホルは苦労して後ろに視線をやった。
そこには見事に姦しい女子会の絵図があった。
「あ、この小柄(こづか)カワイイっ」
可愛らしく両の握りこぶしを胸元で振る神雷(
jb6374)に、トホルは「無理すんなよ」と思ったが、殺気を感じて目を逸らす。そもそもどうして小柄が売っているのか。
「とりあえず適当に買ってきたわァ、好きなのを食べてねェ」
人数分のアイスを配りながら、黒百合(
ja0422)はあまり心休まらない笑みを浮かべた。
「味は保障しないけどさァ」
少女たちはそれぞれ受け取り、通りに面したアイス屋のテーブルについた。
呼ばれた柘榴姫は、強制的に馬首をめぐらせ(ボキッと鳴った)飛び降りて、女子会の輪の中へ駆けてゆく。
そして、今度はマリス=プレザンス・ピュッペントート=ドライセンの膝の上に座る。
「ただいま」
「あ、うん」
マリスは曖昧な表情で柘榴姫を見下ろした。
「マリスさん」
「えっ?」
揺れる水面に溶けゆくような声に、マリスは驚いてそちらを向いた。
「どれがお好き、でしょう?」
特別な会話ではない、けれどその少女、華桜りりか(
jb6883)の声と間合いは、不思議と皆の心を和ます。
そのような和みに、マリスは慣れていない。
「あの、よかったら食べっことかしませんか……です」
りりかが自分のチョコパフェを差し出す。
「あ、その、ええ」
互いにぎこちなく、スプーンを扱う。
一口を交換しあって、りりかは笑顔になった。
「あたしはチョコが好きなの……食べると幸せな気分になるの、です」
「……」
ぎこちなく頷きを返すマリスに、りりかはもっと笑顔になった。
「好きなものがあるというのは良いことだと思うの」
マリスは不意に、強い不安に襲われる。
好きなもの。
何が好きかと訊ねられたとき、彼女には明白なこたえがない。
手にしているクレープのアイスクリームだって、いま初めて知ったのだ。
美味しいと解かった。
じゃあ、好き?
「溢れますよ?」
北條茉祐子(
jb9584)の声に、マリスは我に返る。
「……あっ」
だいぶ危険な角度に崩れていたアイスを、柘榴姫の舌が受けていた。
「ちょっと失礼します、袖がつきそうで」
言って、茉祐子はマリスの袖を捲ってやった。膝上に重荷のあるマリスは自由に動けない。
「あ、ありがとう」
「いえ」
先ほど、洋服を選んだとき以来、二人はほとんど話していない。本来は彼女のような、静かな人のほうが接しやすいはずなのだが。
茉祐子がモンブランと紅茶を頼んでいるところも、マリスとしては好印象だった。それなのに。
「マリスさんも一口召し上がりませんか?」
手元を見ているのをどう思ったか、茉祐子が言った。
「え?」
「おいしいですよ。私、栗、好きなんです」
茉祐子の穏やかな笑顔を不安に思うのは……自分に問題があると、マリスは気づいていた。
「では、いただく……」
また少しずつの交換。
等価交換のため、少女たちが自然にスプーンを使う中、マリスだけがぎこちない。
……いや、もう一人。
ぎこちないというより使っていない者がいた。
「それはなにかしら?」
胸元の声を見下ろしたマリスは、見上げる柘榴姫と目が合った。
先ほどから周囲の女子たちに一口ずつ要求していた柘榴姫が、灯台下暗しと言わんばかりにマリスの手元を覗きこんでいる。
「……要る?」
「いる」
口を開けて待っている柘榴姫に、恐る恐るスプーンを使うマリス。
(まるで、初めて見る赤ん坊に食事をあげる子供のよう)
神雷は笑みを堪えもせずに、柘榴姫の口元をハンカチで拭ってやった。
「はぐれ悪魔と堕天使以外の天魔は人工島に入ってはいけない」
いわゆる常識なのだが、トホルとマリスは知らなかった。
「是非もなし」
トホルは皮肉に笑い、マリスは俯いた。
だが、生徒たちは曲がらぬを曲げた。
行く場所を厳選し、りりかや黒百合が中心となってマリスに似合いそうな服を買い、人目につかぬよう取り計らった。
結果、むしろマリスが埋もれているとトホルは感じたが、それは服装のせいではなく周りが濃すぎるだけだ。
「見事なカムフラージュです」
感心するイリンに、トホルは笑った。
「着せ替え人形って感じだったけどね」
そのとき手錠をかけられてる悪魔が小さく手を上げた。
「あのー、洋服代、俺もちなんやけど……」
「危険な悪魔が徘徊してたけど、イリン君がいて良かった」
「私にできるのは、護ることだけですから」
「ちょ待てぇ!」
女子会に乱入した危険な悪魔、ゼロ=シュバイツァー(
jb7501)は目をむいた。
「サイズ聞いたってええやないか! 俺が買うんやし!」
「オヤジか!」
●夢のような
マリスはその日のことを、後に「夢の様な一日」と形容する。
素晴らしいという意味もあるが、あまりに荒唐無稽で目まぐるしい、理解の追いつかない日という意味もある。
「いらっしゃいませ!」
「ようこそ、BlackHatへ」
紫音、ジェラルドに迎えられ、マリスはおずおずとダーツバーに踏み入る。
各々グラスが行き渡り、ほぼ強制的に後押しするような皆の拍手の中、マリスは真っ赤になって立ち上がると、
「あ、nun……Gesundheit(乾杯)」
「乾杯!」
銘々唱和し、パーティが始まった。
誰も彼も、グラス片手に動きまわる。
主役は当然マリスだ、彼女の周りには人が絶えない。
柘榴姫が独占している感じだが、マリスは戸惑いながらも嫌がってはいなかったし、周りも気にしなかった。
「プリンちゃん、おねえちゃんがえらんだ、ふわふわ。おいしいのよ」
「お、おねえちゃん?」
少女にしては長身なマリスの膝にすっぽり収まっている柘榴姫だが、実は年上なのか。戸惑うマリスに、柘榴姫は甲斐甲斐しく、ケーキを口元に運んでやった。
「はァいこれェ、さっきの写真ン」
黒百合が手渡したのは、女子で撮った集合写真。ゲームセンターにあったインスタント撮影のものだ。「ありがとう」
「どういたしましてェ、あとねェ」
差し出されたのは『よろいわんこ』のぬいぐるみ。
「好みが分からなかったからァ、とりあえずこんなのォ。人形、好きなのよねェ?」
「……ええ」
マリスは一度、抱きしめるように受け取って、礼を言った。
「かわいいの」
りりかが手を伸ばし、ぬいぐるみを撫でた。
顔を見合わせて、少女たちはぎこちなく微笑んだ。
初めてこんな大勢で集まって、お菓子を食べて、ダーツというものをして……
「疲れてない?」
ジェラルドがお茶をベースにしたカクテルを作ってくれた。
「名前は『マリス』っていうんだ」
「……素敵」
ハーブティーとはまた違う味わいに、マリスは新鮮な感動を覚えた。自分の名をつけてくれたのが嬉しくもあり、どのような気持ちで作ったのか、少し気になった。
そこに現れた、鮮やかな影。
「この席、いいですか?」
「……どうぞ」
茉祐子だった。
すぐそこに皆がいる。二人きりというわけではないが、何となく周囲が意識に入らなくなる瞬間。
騒々しくも静かな空気が流れ……弱まり、淀みかけたとき。
茉祐子が口を開いた。
「トホルさんが、言ってました……そっくり、って」
理解できなかった時間は、一瞬。
マリスもそれを強く感じていたから。
体格、年齢、声、それらデータが無意味になるほどの、雰囲気、全て。
「……北條、茉祐子」
お茶を置いて、マリスは茉祐子を見る。
「きみは、とても怒ってた、あの時」
「……」
茉祐子は目を伏せた。
夜の公園で己の偶像と戦った、あのとき。
茉祐子は怒っていた。
神雷やトホルも怒っていたが、彼らの怒りとは違う。
茉祐子だけが、造り手、マリスに対して、怒っていた。
「北條茉祐子、わたしは」
「あの、茉祐子って」
ほとんど同時に口を開いたが、茉祐子は言葉を止めなかった。
「名前で呼んでくれませんか? マリス、さん」
「……」
マリスは頷き、それから、微笑んだ。
「わたしのこともマリスって呼んで、マユコ」
ただの少女のように。
不思議な夢は続いた。
両親以外の前で、歌うことになった。
「好きな歌を好きに歌え」
適当なコードを爪弾きながら、ヤナギが言った。
「むしろ難しい」
「適当でいいんだよ、詩でも何でもいい、思ったことを音にのせるだけだ」
「詩なんて」
マリスが呟くと、
「!」
優秀なディーは、目に浮かぶ文字を壁に反射させ、主が保存した黒歴史(ポエム)を映しだした。
「きゃーっ!?」
飛び出して遮ろうとするが、マリスの身体に投影されるだけだ。
結局、「それでいこう」ということになり、マリスは二回も音読させられ、そのうちに歌が出来上がってしまった。
「炎となれ、凍える夜の吹雪の中……雨となれ、無限に続く乾いた大地で……」
いいじゃねえか、ヤナギは笑った。
白銀の天使と、紫音の作ってくれた大きなパフェを二人で食べたのも、夢心地だった。
銀のスプーンが触れそうになるたび、マリスは体ごと避けた。
おかげで彼の話す「諸君、私はパフェが好きだ」で始まる『パフェ道』は頭に入らなかったけれど、そこはしっかりディーが記録しているようだった。
「よろしい、ならば二杯目だ」
「……え?」
●澄んだ目をして
夜の公園のあちこちで、小さな輝きが爆ぜている。
夏に余った花火を持ち寄ったら、けっこうな数になった。
色とりどりに咲く炎の花と、小さな歓声。酸っぱい煙は花火のもので、苦い煙はヤナギのタバコ。
そんな中、マリスは、甘い煙に誘われるようにそこへ行く。
少し離れた木陰でティンシガーを吸っていたのはトホルだった。マリスを見るとニヤニヤ笑う。
「告白した?」
「……何の話」
「おーい、イリンく」
「っ!?」
口を塞がれ、トホルの下顎骨が軋んだ。
どうにか解放されたトホルは、情けない顔でマリスを見て、笑った。
マリスも笑った。
不意にトホルは、重たい声を出した。
「聞いたかい、いろいろ」
重たくはあったが、暗くはない。
静かな問いかけであり、確認だった。
「……聞いたわ」
「それで、どう?」
「……」
マリスはトホルと並んで、木に寄りかかった。
闇の中、光で遊ぶ彼らが見えた。
「いろいろありすぎて、でも」
『他に選択肢なかったからなぁ』
『私は捨てられる側だった、それだけです』
あんなに強いと思っていた黒い死神が、白銀の天使が、生き方すら自由にならず力を捨て。
『鬼は人の心の美しさに気付いたのでした。めでたしめでたし』
気ままに見えた黒髪の少女は、乾いた笑みで昔話を終わらせて。
『私は、手放しで愛せるような生まれでは、ありませんから』
鏡の国の少女は、未だ迷いの中にいる。
だが、それでも。
「彼らは、絶望しない」
「なぜだと思う?」
「……自分で、選んだから」
それを聞くや、トホルはシガーの先端を拳で潰してケースにしまい、マリスの目の前に立った。
そしてまっすぐに目を見て、「死人形(ピュッペントート)」と呼びかけた。
「それを知ったうえで、決めてくれないか」
ようやく、ここが、0。
ここからが始まり。
「……」
マリスは目を閉じ、背中を預けた木から離れる。
目を開き、そして……
拳を握った両腕を水月の前で交差させ、静かに開いて、両腰の脇に置いた。
礼。
「あなたが教えてくれたわ、押忍(おす)の精神」
可憐な容姿にまるで似合わない単語。
なんて馬鹿なこと教えたんだろ、トホルは、ぼんやりと思う。
「死の恐怖を、殺しの責を、押して忍ぶ」
いつでも死ねる、だから殺せる。僕が使う技は、どれも僕に使って良い技だ。トホルは言った。確かに言った。
……なぜそんなことを言ったんだ。
「だからわたしも言わないと」
マリスは、澄んだ目をしている。
別れの時が来た。
マリスは、笑顔だった。
神雷は着物を差し出した。持って来ていたのだが、これに着替えては余計に目立つと思い、お土産にしたのだ。
「後悔はしてませんよ。だから貴女もね」
背伸びしてマリスの頭を撫でた。アリスは頷いた。
「ちょい御免」
そこに、ゼロの大きな手が続いた。
「ま、困ったらいつでも呼べ。同じ貴族のよしみで話は聞いたるわ」
「うちは成り上がりですけどね」
照れたように言いながら、マリスはおとなしく撫でられていた。
そして、両手にあふれんばかりのお土産を抱えて……
そこにバナナオレが追加された。
「またね、プリンちゃん」
「……またね、おねえちゃん」
マリスは身を屈め、柘榴姫の頬にくちづけした。
顔を上げ、皆を見て……イリンさんを、マユコを見て。
「ありがとう、みんな」
少女は去っていった。
後をディーがついて行く。ふわりと翻って、何度も頭を下げながら。
見送りが一段落した頃になって、トホルが姿を表した。
「皆、ちょっと聞いてくれるか。大したことじゃないんだ」
……ある夫婦が戦死して。
母親は、体を半分近く失っても、娘の類稀なる技術で生き存えてしまって。
半欠けの脳で、娘を子供のままと思い込み、それ以外の存在が近づくだけで狂乱して攻撃する。
だから娘は自分の子供時代を再現するために、完璧な人形を作るため研究を……
でも大したことじゃないんだよ。
あいつ、一番大事なことは、ちゃんと自分で、皆に伝えたから。
それなのに。
どうして。
今夜は楽しかったのに。
これから、もっと、楽しいことあるはずなのに。
ああ、最初にそれを教えていれば……
僕らはきみと、戦わなくてすんだのだろうか。