音楽室や教会で『愛の挨拶』の練習を続け暗譜をしていた川知 真(
jb5501)が、速弾き変則にもついていけるような練習も交え、指がそれなりについていける様にまでなっていた。
それから海の家で練習を繰り返す修平の所に、顔を出す。
「こんばんは、修平さん。私も弾いてもいいですか?」
もう1台のピアノの前に座り、演奏を始める。曲目は練習してきた愛の挨拶だけに、修平は黙って耳を傾ける。
心が温かくなるような、幸せを感じさせる愛の挨拶。
(けど、どことなく不安が混じっている――かな?)
演奏が終わると、真が静かに口を開いた。
「この世のすべての音は正直です。出す人の心のままに音は生まれます。
ですから技術だけでも、心だけでも片方だけではダメだと思います。2つがちゃんと、噛み合わないと」
腰をあげ、真っ直ぐに修平の目を見つめる。
「修平さん、貴方の心はどこですか?」
何も言えない修平に「……8月までまだあります。頑張りましょうね」と言い残し、後にするのだった。
そのついでに理子の家へ寄って、遊園地のペアチケッを理子に差し出す。
「以前、友人から頂いたのですが、私は相手がいませんから。楽しんできてくださいね」
(さすがにいきなり2人で、というのは厳しそうですが)
クスクスと小さく笑ったところで、理子が慌てて踵を返し「ありがとうございましたっ」と言いながら、逃げる様に奥へと消えていった。
その直後、背後から人が近づいてくる気配に気付いて振り返ると、理子の父がこちらへと歩いていた。
短い挨拶をかわし、それから『母親の話を全員で聞ける日』の話を切り出すと不思議そうな顔をされるが、経緯と理由を説明する事で納得してもらえたようで、次回の練習日にその話が聞ける運びとなった。
お礼を言い頭を下げ、帰路へとつく真。
日程を全員に伝えようと苦手な携帯で、四苦八苦しながらメールを送信――消耗した顔に、安堵が浮かぶのであった。
練習日の早朝。
走りこみを続ける修平が不意に気付く、わずかだが聞こえるサックスの音。どことなく、自分を呼んでいるような気がする。
足を進めるたびに音は徐々に大きくなり、やや小高くなったところで朝靄に抱かれ『愛の挨拶』をサックスで吹いているアルジェ(
jb3603)と出会った。
「おはよう、修平……今の演奏は、どう感じた?」
問われ、自分を呼んでいる気がした――とはちょっと言えなかった。
返答を待ち続けるうちに、サックスを握る手に力がこもる。表情は変えないがやや不満げな気配を見せ、再び口を開いた。
「修平、結局お前はピアノで何がしたいんだ?」
「それは、りっちゃんの為に――」
「違う、理子の為とかそんな第三者の理由を聞いているのではない。修平自身の欲求だ」
「僕自身?」
首を傾げる修平に1歩迫る。
「切っ掛け等は些細なことだ。
では、理子がいなければピアノを弾く必要はないのか? 修平にとってピアノとは……音楽とはなんだ? 修平は何を求めている?
アルにはそれが感じられない」
「僕にとって、か……」
「全てが半端なんだ、修平の行動は……誰かの為、何かの為。それは尊ぶものだ。
しかしそこに自分の欲求を乗せずして、何が動くというのか。欲さなければ何も得る事無く、そして何も始まらない。欲するから求め、求めるから動き、動くから始まる」
ぴたりと密着し、修平の目を覗き込む。
「半年と短い期間だがずっと見てきた。何故この人間は何も求めないのか、他人の求めには応じて相手には何も求めず、この人間は一体何を欲しているのか。
アルは知りたい、だから求める。修平の感情(ココロ)を」
右手を伸ばし、襟を握りしめた。
「アルがそこに入り込んだ時、一体どういう変化を起こすのかを」
ぐいっと引き寄せ修平の頭を下げさせると、強引に唇を重ねる。
――唇を離す、変わらず無表情のアルジェ。その頬と耳は紅く染まっていた。
「……では、また後で」
振り返る事なく走り去るその背が朝靄の中に消えゆくまで、ただ黙って目で追い続けるのであった。
「お? 海に理子! 久しぶりだなー元気してたかっ」
2人の頭に手を置き、わしゃわしゃと髪が乱れるのも構わずなで繰り回す、亀山 絳輝(
ja2258)が今日、来れなかった弟の事情を手短に説明する。
「そーゆーこともあるだろーな。よろしくだぜ」
江戸川 騎士(
jb5439)が片手を上げて会釈すると、その手に勢いよくタッチする。
「あとは夢野だけかしらね」
「そうですね」
ケイ・リヒャルト(
ja0004)の言葉に、持参したケーキを切り分けていた真が答えた。
「遅れたな。すまない」
やがて顔を見せた君田 夢野(
ja0561)に理子が過敏に反応して振り返るが、どちらも気まずそうな顔をしていた。
顔をこわばらせ、カクカクと不審な動きを見せながらも何とか夢野が言葉を吐き出す。
「そのせつはたいへんおみぐるしいところをおみせいたしました……今はとりあえず忘れよう! ワスレヨウ! WASUREYOU!」
なにやら『そのせつ』で思い出したのか、耳まで赤くなった理子がトランペットで顔を隠しながらも「……はい」と、言葉を返した。
全員がそろったところで、理子の父もやって来た。娘の様子を見て、苦笑する。
「さて、美亜について何を話せばいいのかな?」
「そうね……どんな人物だったのか。どんな物を好んだのか。どんな人柄だったのか。普段の生活の様子、それに理子やお父様との接し方、かしら」
「どんな人物……塩とか知らなかったし、ずいぶん日常的な事を知らない人だったな。
ただひたすら、演奏するのが大好きだったね。トランペットをよく、ラッパって言ってたけど」
肩をすくめ、当時の料理の腕前をもう少し詳しく話すその顔は、苦笑しながらも穏やかで嬉しそうであった。
事前に母の話をする時の父の表情等をよく見ておきなさいとケイに言われていただけあって、理子はじっと父の顔を見ていた。
そして夢野も何も言わず、ただ黙って聞き続ける。
幼いころに母を亡くしたという境遇に、共感しているのもあるかもしれない。だがそれよりも、この話を聞いて理子が自分で結論を出せるだろうと信じる事にしたのだ。
「天魔のニュースを聞くたびに悲しげな顔をしていたな。
それと、あんま食事しない人だったね。馴染が無いとか不思議な事を言ってたよ。それでもがんばって――」
それからしばらく惚気にも聞こえるような話が続いている中、ケイが理子にそっと耳打ちした。
「理子、貴女は……貴女こそが、お父様とお母様の愛の形、なのよ」
父が戻った後もしばらくしんみりとした空気が漂っていたが、そんな空気を打ち破って騎士が理子の鼻に指を突きつけた。
「いいか。今回の曲は、妄想と想像で成り立っている。
こいつは乙女男な作曲家が、新婚生活を想像して作った曲だ。だから好きな相手とのデートを想像しろ。
さあ、デート当日だ。着ていく服はどうだ? 弁当を喜んでくれるか? と想像しながら演奏しろ」
お題を突きつけて去っていく騎士の背を見送る、理子。そこへ再びケイがこそっと耳打ちした。
「想い合う……素敵なことよね。理子は誰か好きな人、居ないの?」
そう訊かれた時、自然と理子の目は夢野に向いていた。そしていつの間にかすぐ横にいた絳輝がそれだけで察したのか、実に愉しそうな顔をして理子の頭をなで繰り回す。
逃げる様に真と8月に演奏する曲の話をしていた夢野の元へと向かうと、真はまた後でとピアノの練習に戻るのであった。
空気が2人だけにしようとしているのを感じ取るが、咳払いをして夢野は理子へと本題を切り出す。
「あー……まぁ軽く技術の――半ばメンタルの話をしよう。背中が丸くなるクセなんだが、理子さん。
君の母さんは天上にいらっしゃるんだ。だから、その母さんに音を届けよう! と思いつつ吹いてみるといい。そうすれば自然に、ベルも上向きになると俺は思う」
そしてと、話を続ける。
「思うに今、最も必要なのは『自信』だ。自分を、半年間の練習を、両親への想いを――信じて奏で続けるんだ。
大丈夫、焦る事は無い。君は上手くなってきているし、これからも上手くなってゆく。今は拙いなれど、君の奏でるその音律は人々の心に響いていく筈だ」
「センセイにも、ですか?」
「……ああ、俺の心には既に響いているよ。君の真心が、それを乗せた音色が。
だから、もっともっと俺に聴かせてくれ――トランペット、これからもずっと続けるんだろう?」
「はい。これからもずっと、聴いてください」
椅子に座り直し「紅茶を嗜みながら音楽鑑賞。何か優雅な気分だなー」と言っていた絳輝が思わず紅茶を吹き出し、むせていた。
本人達がどういう意図で言ったのかは別にしても、他の人からすれば2人の会話は『そう』としか聞こえなかった。
宿題のヒントになるからと、修平に好き嫌いという感情の原点から色々質問していたケイも、2人の言葉は耳にしていた。だから2人に目を向けると、修平の目もそちらへと向いていた。
「……修平は好きな人とか居ないの?」
突然な話に、今朝の事を思いだした修平がびくりと肩をすくめる。
「信頼している人でもいい。可愛がっている動物は? その人や動物との別れ。どう思うかしらね? これがヒントかもしれないわ」
そういう話かと胸をなでおろしたところで、絳輝が横に立つ。
「せっかくだし、修平も何か弾いてくれ。えと……今これ練習してんだっけ? じゃあこれな!」
楽譜を受け取り目を通したところで、後ろから騎士に頭をがっちりつかまれる。
「誰の言葉か忘れたが、恋愛は『借金の申し込み』の駆引きに似ていると言った」
それから「お題は、こうだ」と続ける。
「只今、午後8時。本屋に頼んでいた参考書を買い帰路に着いたお前だったが、よく考えたらホワイトデーのプレゼントを買ってない。
財布事情が同じ同級生からは借りれない。家族に相談したら、小遣い管理も出来ないのかと言われるに違いない。明日は月一練習がある。女性陣に借りるのは変だし、君田は貸してくれそうだが、万が一理子にバレると恥ずかしい。
って事で、お前は俺に借金の申込みをする事にした。
さあ、演奏で俺を口説いて見てくれ。因みにストレートに申し込んでも俺は貸さねぇぞ」
「……何となく、今ならわかる気がします」
力が緩み、解放された修平。様々な注目を浴びる中、真の音と言葉、理子の母の話、理子と夢野のやり取り、ケイの言葉――そして今朝の事。
それらを全て思い返しながら、愛のロマンスを弾き始める。口元には笑みまで浮かんでいた。
(音が、変わったわ――)
これまでの弾き方からケイは軽い音になると思っていたのだが、音がピンクに染まっていると感じた。この演奏には騎士も納得なのか、終わると同時に「やればできんじゃねーか」と後頭部を叩く。
音が変化した事は知らないが、絳輝は手放しに笑顔で凄いと褒め称えていた。
「すごいな!? CDとかで聴いてるみたいだ……! いや、私ピアノもよくわからんが、それでも凄いなー!」
「ありがとうございます――亀山さん、弟さんの歌の欠点、そのヒントだけでもわかりませんか?」
「んー……欠点とかヒントとは、多分関係ないんだが、な?」
弟を心配する姉の顔で、修平の目を覗き込む。
「お前、自分の演奏嫌いなのか? 色々あったり、できなかったり、自信が無くなることもあるだろうが……できないことばっかり見てやるな。修平の一番近く、ずっと一緒にいる人の音だ。
感情を表に出せない子供っぽい不器用なとこも、そのくせ人を驚かせるような凄い技術があるっていう、良い点悪い点、全部ひっくるめて、めいっぱい、愛してやらなあかんで!」
うっかり関西弁まで出てしまい、照れ隠しなのか修平の髪がぐしゃぐしゃになるまで、とにかくなで続ける。
(やっぱりみんな、大人の女性なんだなぁ)
「これ、聴いてみな。弟が中学の時のヤツ」
渡された一枚の白いCD。2008、3月初旬、276回目と手書きで記載されていた。
「ラジオで聴いて『あんな風に、聴いてると涙がでてくるようなそんな風に歌えるようになりたい』って、あいつ、ずっと練習してたなぁ……」
姉というより、大事な家族を想う目で遠くを眺めるのだった。
そうこうしているうちに思ったよりも時間が経ち、あまり理子も練習していないまま、その日、皆の前と父の前で愛の挨拶を独演した。
ただ驚くべき事に、修平と同じでその音は間違いなく変化している。背を伸ばし、真っ直ぐに父を見ながら愛を語る理子。
演奏が終わると父は「ありがとう。がんばれよ」と、どことなく寂しげに感謝を述べて後にするのだった。
不思議そうな顔をする理子の頭に、騎士の手が置かれた。
「俺はお袋さんが好きなんじゃなくて、親父が好きな曲だからお袋さんは吹いていたんだと思うぜ。
……ちゃんと好きな奴が出来たら話してやれよ。お前の事を信用してねぇ訳じゃないだろうがよ、心配なんだろ」
それだけを伝えると、バウロンで修平とセッションを続ける海の元へ「俺も混ぜろ」と向かって行った。
「お父様も、気づいてらっしゃるわ」
「そうなんですね。頑張ってください」
珍しく茶目っ気を含んだ笑みで理子に手を振り帰路に就く、ケイと真。
夢野が「俺も帰るか」と言うと、わざわざ玄関まで見送りに理子は無言でついていった。ちろちろと横顔を覗き込みながら、部屋から出る時に持ってきた鞄を握りしめ。
そして夢野が家を出ようとしたその背に、やっと理子が口を開いた。
「あの……チョコ、ありがとうございました」
逆チョコの話かと振り返った夢野の前に、ずいっとラッピングされた箱が差し出された。理子はずっと下を向いている。
「えっと、私からもありまして……あんま美味しくないんですけど……」
「ああ、ありがとう。それじゃ、また」
夢野が完全に見えなくなるまで、理子は顔をあげる事が無かった。横を通り過ぎたアルジェが「赤いぞ、理子」と淡々と述べ、海の家へと帰っていった。
結局その日、アルジェは朝以外で修平と話す事はなかったという。
その日の夜、夕飯中に理子は父にはっきりと「好きになっちゃった人がいる」と告げるが、父は案外そっけなく「そうか」と返し、寂しくも嬉しそうに笑うのであった。
そして修平は自宅でCDを聴き、今とまるで違う、ただなぞるだけの歌声に驚いていた。
「……こういう時期もやっぱ、あったんだなぁ」
しんみりとしながらも、今日で少し芽生えた自分の感情を音に乗せ、電子ピアノを弾き続ける修平。
ただその想いを、誓いの為にも今はまだ閉じておこう――そう決めて、音に閉じ込めるのであった。
拙いなれどその音律は心に 7章 終