中本修平からのメールを読み進めるうちに、江戸川 騎士(
jb5439)の変化に乏しい端正な顔が、少しずつ険しくなっていく。
「……今までの愚痴メールの理由が、やっと分かったぜ。あいつら、何やってんだよ」
昔、友達だった人物の顔が思い浮かぶ。今は――もう、いない。
唇を噛みしめ、友をなくしてしまった、自分の手を睨み付ける。
「色々、言っておかね―とな……掛け替えのないものってのは、失ってから後悔するんだぜ……」
津崎家に間借りして暮らしているアルジェ(
jb3603)が、持ちこんだ茶器を磨きながらもメールに目を通し、ちらっと椅子の背もたれに頬を乗せて、ふて寝している海へ視線を向ける。
(仲直り……か、親しい間柄の喧嘩は犬も食わないと言うが)
茶器を磨く手が止まる。
(人の感情とは得てして不思議なものだな。仲が良いほどに、こういう反発も大きいというのは)
無表情を崩さず、しばし黙って茶器を磨き続けている。
(……そういえば、気になる事があったな。切っ掛けになるかもしれないし、聞いてみるか)
「海、まだ仲直りできていないのか?」
返事は、ない。閉じていた目をうっすらと開けたからには、聞こえていないわけではないなと思い、続けた。
「そういえば、ふと疑問に思ったのだが……海は一緒に演奏しないのか?」
頬を乗せ、顔を横に向けたまま、だってと漏らす。
「2人でやってたことで、私はあんま関係ないし」
「それは2人に聞いてみたのか? 考えが読めるほど親しい仲なのは判っているが、聞かなければ判らないことは意外に、沢山あると思うぞ」
またもだんまり。
磨いていた茶器を戻すと、ゆっくり海へ向って歩み寄る。
「音を楽しむのに、理由や資格は必要ない」
そして海の前へ来ると、腰を曲げ、顔を覗き込んだ。
「もしやる気があるなら、勧めたい楽器があるが楽器があるが……興味あるか?」
「あれ、珍しいですね」
学校から出たところで、微笑みを浮かべたまま手を振る川知 真(
jb5501)に修平は目を丸くさせる。
「次の練習、2人で弾いてみませんか? 連弾用の楽譜なので、是非にと。次の時までにお互い、練習しておきませんか」
期間はそれほどないが、楽譜に目を通しながらいいですよと頷く。
そして学校にというか、教室を眺めていた真の横顔で、何を見ていたかを察した。
「海ちゃんとりっちゃんなら、まだ、ですよ」
「……そうなんですね。それでもきっと、丸く収まりますのでご安心くださいね、修平さん」
修平へと詰め寄る騎士が不機嫌そうな顔を耳元に近づける。
「メール読んだぜ。感情どうこうの前に理子は、覚えることが一杯だぜ? 楽団の一員として吹いている訳じゃねえだろうが」
顔を離すと、鼻面に指を突きつけた。
「くだらない心配をすんじゃねえよ。それよか、そんなこと気にしてられんようにしてやる」
意地の悪い笑みを浮かべ、楽譜を取り出すと修平の顔に押し付ける。
顔から楽譜を引きはがしその題名に目を通す――Romance Anonimo。
「来月までにそれを『暗譜』しろ。いいか、暗譜だからな――楽譜を読んでいるうちは、考えながら弾いてるからよ」
そして机に伏している海の頭を、わっしと掴むと立たせる。
「んな? どうしたの」
「皆の練習が終わるまでデートだよ、デート。俺も結構釣りするって言ったろ? ワカサギ釣りできる所あるらしいじゃねぇか、案内しろよ」
そうして2人して、一足先に外へと。
「あら、これは確かに今の修平には難曲かもしれないわね」
後ろから覗き込んだケイ・リヒャルト(
ja0004)がクスリと笑う。同じく覗き込んだ真もそうですねと苦笑する。
「さ、それはとにかく。この前のピアノでも感じたけれども、フレージングの理解の仕方が少し気に掛かるわね。
合ってないとは言わないけれど……呼吸を切ることが大切なのではなく、呼吸をすることが大切なの。しかも口呼吸では無く」
大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「そのフレーズの前に息を吸い込んで……そして吐いていく。
音楽には、呼吸が必要なの。息遣い、ね。音楽は息遣いそのもの。歌うように弾くのが一番良いと思うの。抑揚、ね」
ほんの短いフレーズに、歌を合わせる。音が声を追うのか、声が音を追うのか、それが判らないほどに音と声は混ざり合っていた。
歌と演奏を止めて、よくわかるのか、深く頷いている真と亀山 淳紅(
ja2261)へと顔を向ける。
「この点で言えば、真と淳紅の方が遥かに上手ね。ピアノに歌わせる、そんな感覚かしら。とりあえず……そうね、修平の思うフレージングを止めて弾いてみて。その後、あたしが言ったことを思い描きながら演奏してみて」
指示を出し終えると、席へと戻っていく。その途中、一度振り返った。
「あと……今の気持ち。海と理子が仲違いしていることを即興で弾いて。仲違いしている事実ではなく、それを修平がどう思っているのかを」
それを伝えると、海が出ていった戸口に視線を向けていた。
目を細め、寂しそうでいて、羨ましそうな表情を一瞬だけ見せる――が、気のせいだったのかもしれないという、本当に刹那の間であった。
それから何事もなかったように、着席する。
気にはなったが、言われた通りの練習を始めるのだった。
(アレンジや即興に慣れてきたみたいだけど、まだまだ、音に感情を乗せるのは下手ね)
しばらく聴き入っていると、時間はあっという間に過ぎていく。
「まだ少し時間がありますし、ちょっと遊びましょうか」
真が1フレーズだけを弾くと、遊びの意味を理解した修平が頷く。
そして『2台のピアノのためのフーガとソナタ』の連弾が始まった。
最初はスムーズなものだったが、ではこれはどうです? と小節の切れ間に真が急にアレンジを利かせる。アレンジを後追いする修平だが、息つく暇もないほどころころとさらに曲調をアレンジされ、翻弄されていた。
「楽しそうやなぁ。修平君も、もっと楽しんで弾いたらええんや」
「真はもう少し、指遣いに余裕を持った方がいいわね」
演奏が終了すると、修平はぐったり。
「楽しかったですか?」
「疲れました……音を楽しむだけの余裕が、僕には少ないのだと分かりましたよ」
「私の方はケイさんの指摘通り、指が追い付いていませんでしたね」
ニッコリと笑いながら手を振り、指をほぐす真。
「奏者の感情に、楽器は敏感に反応します。理子さんを見てるとわかりますよね」
その言葉に、ぐったりとして天井を見つめたまま、答えない。
わかるががわからない、そんな表情だ。
「ま、それも修平君の宿題やな。ついでに自分からも、もひとつ宿題だしたるわ」
コホンと咳払いをして、改まる。
「3か月以内に、亀山淳紅の演奏上の欠点を見つけること。
練習の宿題はいっぱいでとるみたいやし、ちょっとした息抜きにな。人を意識する時、人は嫌でも自分のことも考える。そこからまた、修平君の弱点も見つかるかなって。
欠点特定に必要な曲は、言うてくれれば練習して何曲でも歌うで」
肩に手を乗せる。
「ほな、頼んだ――さー本日のメイン、ワカサギ釣りや!」
一転して、浮かれ脚で部屋を飛び出して行く。残された3人は苦笑を浮かべ、腰を上げるのであった。
冬道を2人で歩きながら、騎士が切り出す。
「海よぉ。こういうのは、先に謝ったもん勝ちだぜ。
最近の理子は急に女の子らしくなったし、色々置いてきぼり食らったって気持ちがあるんだろうが、お前だって我儘言った自覚があるんだろ?
お前の方が、理子より先にやりたい事ができれていたら逆の立場になっただろうしよ」
言われた通りに自覚があったのか、答えない。
「言葉ってのは、使い方を間違えれば相手を傷つける暴力でしかないんだぜ」
少し空を見上げ、続ける。
「大事なもんってのは、結構簡単になくしてしまうんだぜ。それともお前にとって理子ってのは、そんな軽い存在なのか?」
そこでもだんまり。意地を張る中学生の頭を、騎士の大きな手がなで繰り回す。
「向こうに着いたら、理子に対して今の正直な気持ちを、手紙に書いとけ。俺が預かっておくからよ」
(読ませるかどうかは状況よりけり、だな)
トランペットを教えに、矢代理子の家へと君田 夢野(
ja0561)は1人で来ていた。
本来なら騎士への指導もあるから2人で来るはずなのだが――何やら意味ありげな笑みを浮かべ、騎士は海の家へと向かって行ったのであった。
2人きりになり、向かい合わせになったところで、まずと夢野はきりだした。
「音楽とは『音』を『楽』しむと書く。だから、それが誰かを悲しませるモノであって欲しくない。それが俺の音楽論だ」
手を組み、じっと真面目に聞きってる理子の目を見つめ返す。
「理子さんの逸る気持ちもわかるが、掛け替えのない友人を蔑ろにするのは1点減点だ」
何の事を言われているのか理解し、少しだけ目を伏せる。
「怒っているわけではないと、理解してくれ――さて、今日は午前いっぱいで切り上げる予定だ。真新しい事はせず、これまでの総ざらいといこうか。
その後ちょいと特別練習を考えている。メシの心配はしなくていいぞ」
少しだけ茶目っ気を利かせたが、理子の顔は晴れる事無くのろのろと演奏を始めた。
(確かに、音への力が足りないな。中身が薄い、というべきなのかもしれない。だが、矯正する必要はないな。推測ではあるが、理子さんの『音が心に響く』のは、彼女の心が音に映るからなのだろう)
だから感情に左右される今の状態を、欠点とは考えない。
むしろ真摯に向き合う限り、そのままであるべきだとさえも思っていた。
(ま、それはそれとしてだ。今日の状態で見る限り、指運びがやや気になるのとすぐ下がって背中を丸める癖が気になるな。
体力や筋力の問題かとも思ったが、自信の無さが身を縮こまらせようとしているのかもしれない)
次回への課題を考えながら、時計を見る。そろそろだ。
「さて、そろそろ行こうか。暖かい服装に着替えてくれ」
池へと到着すると、はしゃぐ淳紅が真っ先に氷の上へと。磨かれた氷と同じように、目をキラキラと輝かせている。
「初めて氷の上、乗った……割れんのかな」
ぶるりと身を震わせると、張ってあるテントの中へと逃げ込む。コンロにやかんが乗せられ、蒸気を吐きだしている中は、ほんのり暖かい。
そこへケイが入ってきて、遅れて逃げ込むような勢いの理子が入ってきた。
蒸気に手を当てている淳紅が、独り言のように呟き始めた。
「寒いやんな―理子ちゃん――自分にとって人に聴いてもらう歌は、商に近いんよ。
聴き手が望む歌を良い意味で裏切って、期待以上の……その人にとって最高の歌を提供するんや。
そのお代に、笑顔。拍手。歓声。涙。アンコール。色々貰うんやね」
その感覚がわかるのか、ケイは目を閉じて聞き入る。
「理子ちゃん、想像してみ。
理子ちゃんは8月、熱いライトが照るステージのセンターに、後ろにはきっと修平君や自分らが立っとるな。
なら正面、観客席には誰が座っとる? 自分には一組の夫婦が見えるで。
娘の演奏を楽しみでしょーないって顔で、礼をする自分らに拍手しとる」
そこでクルリと反転。
「観客席におるんは自分らやない。せやから、自分らがっかりささんための練習は、あかん。
一緒に遊びたい言うてくれる友達との、たまの遊びより優先して練習した完璧な音より、友達と笑って過ごした幸せも喧嘩した痛みも、うんっと乗せた音の方が、例えちょっと下手でも素敵に思ってくれはるよ」
にへっと笑う。
「きっとな」
理子の唇が、ぐっと何かを堪えるように震える。
「理子。楽器を触るだけが練習じゃないのよ? 色んなことを体験すること、経験すること……それが音へスパイスになるわ。
それを与えてくれる存在が、理子の周りには沢山居る。幸せなことだわ」
ケイの言葉に、淳紅が一瞬寂しそうな顔を浮かべて頷く。きっと今のケイも、そんな顔だ。
そして、外で聞いていた夢野と、騎士も。
「さ、ちょっと出ましょうかしらね」
淳紅に目配せをすると、大人しく寒い外へと出る――かわりに、真が海を連れて入ってきた。
2人の間に微妙な空気が流れているのは真もわかったが、どちらも外に出ようとはしない。
(あとはきっかけですね)
様子を伺いながらも、初めてのワカサギ釣りに高揚しながら海が用意してくれた釣糸を、穴へと垂らす。
うとうとし始めた頃に引き上げてみると、鈴なりにワカサギが食いついていた。
「釣りって、こういうものなんですね」
今度は手こずりながらも自分で用意し、糸を再び垂らす。
「たまには皆さんで遊ぶのもいいですね。よりその方々と仲良くなれる感じがします。息抜きにもなりますし、色々な経験は音を豊かにするための材料になりますしね」
またも鈴なりとなった糸を引き上げると、真は黙ってテントを出る。
外ではすぐ近くで夢野が糸を垂らしているが、まるっきり釣りに集中していない。騎士は釣った側からケイに揚げてもらっては、口に運ぶ。
修平はテントの中で、淳紅の歌声を聴きつつ釣っている。
アルジェはというと、何やら大荷物を抱えてずいぶん遅れての登場だった。
それから間もなくテントの中から海と理子の笑う声が聞こえ、場の空気が一気に和らいだ。
「どうやら、仲直りしたようね」
呟いたケイ。ただテントから顔を覗かせた修平には、その背中が小さく見え、どことなく寂しさを感じてしまった。
それをかき消す、サックスの音が響き渡ると、海が元気よくテントから飛び出す。
「りっちゃん、見てて!」
テントから晴れやかな顔を出した理子。
池のほとりでサックスを演奏するアルジェの隣に、見慣れない楽器があり、それを海が手に取る。
それを使い、アルジェの音に合わせ演奏するのであった。
「あれは……バウロン、だったか? ずいぶん練習したようだな」
いつの間にか隣にいた夢野の言葉に、海が自分に合わせてくれたと、そう思ったとたんに理子の目に涙が溢れる。
その涙をを見ていないふりをする夢野。
「ちなみに、さ。特に深い意味は無く、純粋に気になったから聞きたいのだけれど……理子さんは墓前での演奏が終わってからも、トランペットを続けたいとは思っているのだろうか?」
「……ずっと――ずっと、続けます」
途切れ途切れの言葉で、はっきりと答えた。
そして2人の演奏を聴きながら、真が修平におにぎりと紅茶を渡しながら提案した。
「8月の曲ですが、故人の前ですし鎮魂歌はいかがかなと。古典派にも鎮魂歌を作曲している方はいますし、それをアレンジして全員で演奏するというのはどうかと思って」
「そう、ですね」
楽しそうな海へと視線を向ける。
「それでいいと思います――海ちゃんも、交えて」
拙いなれどその音律は心に6章 終