「……すまない、少し寝坊したようだ」
アルジェ(
jb3603)に、海が手をひらひらさせる。
「今日はりっちゃんが風邪で寝込んでて悔しい思いしてるから、みんなでりっちゃん家に行こうって話をしてたんだ。向こうで練習したり看病したりってね」
「そうか。では看病の準備をしてこようか」
「あ、あちゃー……そうか、風邪か」
アルジェの後ろで、早めに来てしまった君田 夢野(
ja0561)が、渋い顔をするのであった。
メールを受け取ったケイ・リヒャルト(
ja0004)の顔が一瞬、曇る。
「理子が、風邪……」
唇に人差し指を当てて、しばらくそのまま動かずにいた。
その足元で2匹の猫がじゃれあっているのを目で追い、視線は可愛い小瓶で留まった。
1人歩いていた亀山 淳紅(
ja2261)はどこか、塞ぎ込み気味のような表情を浮かべていたが、メールに気付くと弱々しく笑い、顔をパンッと両手で挟み込んだ。
「よっしゃ、元気出させたるか!」
ピアノの前に座っていた川知 真(
jb5501)が少し手間取りながらもメールを確認する。同じくメールを確認した江戸川 騎士(
jb5439)が、愚痴る。
「風邪か……正直、俺様は人の看病に向かねぇ奴だぜ」
「そうなんですか」
「おお。つーことで、看病とかは皆に任せた」
立ち上がり音楽室を後にしようとしたが、1度、振り返る。
「楽譜通りにちゃんと弾けてたぜ。後はもう少し、余裕を持って弾けるようになんねーとな」
そう指摘して、後にする。
残された真も「そうなんですよね」と苦笑いし、最後にもう1度だけ鍵盤に柔らかく指を走らせ――口を開いたところで、音が外れてしまう。
「……やはり、まだまだですね」
楽譜を閉じ、何を持っていこうか考えながら音楽室を後にするのであった。
仏壇の前で、黙って手を合わせる夢野。
(理子さんの想いをトランペットの音色に乗せて届ける為に、私は全力を尽くします)
理子の母親に、そう誓っていた。そして、上を見上げ目を閉じる。
再びゆっくり瞼を開くと、持参のトランペットを黙々と組み立てる。
「……1曲、天上の貴女に捧げましょう。聴いて頂ければ、幸いです」
静かに、ゆっくりと始まる鎮魂歌。
理子の事を考えて抑え目の音だが、それでも言葉無きメッセージが込められていた。
(心を伝えるための技術――それが『何のためにこの旋律を奏でるのか』を意識する事が大事だ。それを、この音で感じ取ってくれ)
決して長くはないが、様々な想いの詰まった言葉を伝えきると、背後に人の気配を感じて振り返った。
「今のは理子へのメッセージ?」
ケイが微笑むと、夢野は肩をすくめる。
「わかってくれればいいんだが……」
少しだけ不安げな夢野の横を通りぬけ、仏壇の前に座り、目を閉じて手を合わせる。それからうっすらと片目を開け、夢野に視線を向けた。
「きっと届いてるわ。言葉で伝える以上に、ね」
ケイの言った通り、理子は「センセイの音だ」とベッドで上半身を起こし、目を閉じ聴きながら頷いていた。するとノック音、アルジェが入ってくる。
「具合はどうだ?」
その手にはトレイがあり、ほどよく蒸らした熱々の紅茶を温めたカップに注ぎ入れると、紅茶特有の香りが部屋中に広がる。
「紅茶を淹れてきた。ちょうどダージリンのオータムナルがでていたのでな、殺菌効果があるから飲むといい。
それとココアペーストを瓶詰めにしておいた。お湯か温めたミルクで溶かせば、すぐ飲めるようになっている。菓子皿のマシュマロを好みで入れるといいだろう」
理子に差し出しながら「……ちなみに海の家にもあるから安心しろ」と、 付け加えるのであった。
理子が一口すすり、ほっと息を吐いたところで、少し遠慮がちなノック。
「お邪魔するわね、理子」
「失礼する」
入ってきたケイと夢野を見て、理子は「あ、う……」と短い呻き声を漏らし、ひざ掛け程度になっていた布団を肩までたくし上げていた。
そんな理子の様子にいち早く感づいたケイが優しく笑うと、入口で佇む夢野から少しでも理子が隠れるように位置取りをしながら、
リボンが瓶の口に巻かれた、可愛い小瓶を見せた。
「身体を暖めるモノよ。中身は生姜のジャムね――生姜のジャムって珍しいでしょう?
でも意外と美味しいのよ? お湯で割って生姜茶にしても良いし、勿論、其の儘でも良いし。身体が良くなったら生姜焼きなんかにも使えるわ」
説明で納得したのか「ありがとうございます」と頭を下げつつも、その目線は夢野に。
それがわかっているから、ケイはこう、切り出した。
「お家のお掃除でもしましょうか。お掃除の基本は奥から上から。普段使わないようなお部屋も綺麗に、ね」
そう言いながら夢野の背を押し、部屋から出ていく。するとアルジェも動き出した。
「看病の手は足りているか。アルも掃除をしておこう」
掃除が始まる少し前、フルーツ盛りを手にした騎士と、リンゴや生姜飴などを詰めた袋を手にした真、それに冷却ジェルシートやアイスなど入った袋を手にした淳紅がばったりと理子の家の前で出くわした。
各々挨拶をかわし、その足はまず理子の父がいる整備工場に向かっていた。
「お邪魔します、やね」
「おー……? ああ、理子の知り合いの方か」
「お初にお目にかかります、川知真と申します。理子さんのお見舞いと、理子さんの願いとは言え不躾かもしれませんが、ピアノの練習をさせていただきに参りました」
「病人んとこ大勢で押しかけんのなんだが、理子んちには来てみたかったしよ。つーわけで江戸川騎士だ。よろしく」
「亀山淳紅やで、よろしゅーにな。ほんじゃま、失礼して上がらせてもらうで」
淳紅が玄関へと向かうと、ぺこりと頭を下げた真もその後を追う。
「ワリぃな。仕事の邪魔してよ――それと、仏壇にご焼香? してもいいか」
「それは構わないけど、君も理子の見舞いに来たんだろ? なんで仏壇に?」
「上手く言えねぇが……あんたに挨拶したかったのと、同じかな?」
腰に手を当てながら、上手い言葉を探ろうと目線が上を向く。
「あんたとおふくろさんがいたからこそ、今の理子がいて。理子がおふくろさんを想ってトランペットを吹いて、それが縁で俺らと知り合った。
巡り会わせって言うか、そういう機会を作ってくれたあんたらに感謝の気持ちを伝えてぇなぁってよ」
その言葉に、どことなく寂しそうな顔をする理子の父。
「君は、彼女の音を継いだ理子の音を、好いてくれているんだな」
「あったりめぇさぁ。おっと、時間が無くなっちまう。そんじゃ失礼するぜ」
片手を上げて玄関へと向かうその背を見送り、そして理子の部屋を――いや、その隣の部屋を見上げる理子の父であった。
「はろはろ、具合はどーお?」
マスクを着用した淳紅が努めて明るい口調でふわっと登場すると、横になったまま理子が笑顔で出迎え起きようとするが、海がそれを止め、ずれ落ちた額のおしぼりを修平が戻す。
「無理せんでな。夜寝る前にでも、これ使ってや――管弦や声楽はもろ体の影響でてまうもんやからね。今度から気を付けんとな」
「すみません……ちょっと改めて音楽って凄いなって、お風呂場で考えてたら寝ちゃってて……」
「せやでー。音は万能なんや。歌の力なんて、ホントに凄いで……ふふー。ほなら歌の薬、聞いてみる?」
どういう意味なのかと理子が尋ねると、淳紅は理子のすぐ横に座って、懐かしむような表情を浮かべた。
「自分が熱だすと、決まってお母さんが歌ってくれた魔法の歌やで。目閉じて――煩かったら言うてな」
閉じた理子の瞼に掌を重ね、囁くように歌いだす。
「Again Hake Rainy Nuke 掌の中の小さな炎――」
一呼吸。
「A Aurae Hyena King Kin 眠りについた 君に愛を――」
歌いながらも、悲しい顔で笑う淳紅。今だけは、理子に見せる訳にはいかない。
「……はよ、元気になりなぁな」
「失礼いたします、理子さん」
「おーっす。ま、俺はこれ渡したらすぐ帰るけどな」
音楽プレイヤーとスポーツドリンクを枕元に置く。
「複数人で同じ曲を、様々な楽器で演奏しているのが入ってっから。理子のみならず、修平も聞いてみると面白いだろうよ」
それだけを伝え、さっさと出て行ってしまう。看病もそうだが、アルジェやケイが埃払いと拭き掃除、それから床掃除をして調度品等は磨いた後、元の位置に戻したりなどを見て、今日は自分がやれる事がないなと感じたのだろう。
そんな騎士が気になったのか、海が「ちょっとごめん」と追いかける。
「さて、申し訳ありませんがお二方。退室を願います――これから清拭させていただきますので」
そう言われては、出るしかないと、男2人も部屋を出た。
「髪も洗いたいでしょうけど、体だけでもスッキリしますよ」
理子の身体を起こし脱がせると、身体をぬるま湯で絞ったタオルで雑談を交えながらも拭き始める。それだけでなく、8月にはどんな曲がやりたいのか、今まではどんな曲をやってきたのかを尋ねるのであった。
「待って、江戸川さん」
騎士の後を追いかけた海の言葉に、騎士が足を止める。
「お、海か。そういえばよ、釣りは、楽しかったか?」
「えっあ、うん」
「よかったな。俺も釣りするよ。少しだけど……腕はあんまり良くないが、お気に入りのポイントに何時も野良猫親子がいてさ。視線が痛いっていうか……プレッシャーが半端ねぇ」
その様子が脳裏に浮かんだのか、海は笑顔を浮かべる。
「今度、一緒に行こ」
「おお」
「それと――江戸川さんのピアノも聞きたいな」
海なりの気遣い――途端に騎士は嬉しそうに「仕方ねぇなぁ!」と、2人して海の家に向かって行った。
追い出された男2人はとりあえずピアノの置いてある部屋に入ると、夢野が綺麗な状態のピアノに首を傾げ、鍵盤をいくつか叩く。
「ピアノ綺麗やなぁ。調律もしてあるし……大事にしてはるんやね」
「変だな。使われてないと聞いてたのだが、ここまで手入れが行き届いているなんて。何にせよ、持ち主に愛されているピアノなのだろう。いいピアノだと思う」
「やね。まぁそれはともかく、遊ぶで修平君!」
2つの楽譜を取り出す。連弾用ピアノ曲である。
「つられるって、よう言うやろ? あれ利用して、自分のフレージング? 体験してもらおうかなーて」
2人並んでピアノの前に座ると2人して弾き始め、最初は楽譜通りののんびりとしたメロディーだったが、淳紅がニッと笑う。
「これは踊りの曲や。お嬢様、お手をどうぞ――おいてかれんように、ついておいで――いくで」
それを合図に、テンポを急に速め、にぎやかな宴の真ん中で軽快に踊る変則的なメロディーに変わった。
「あ、ほら足遅れてるでー……ここで大きくジャンプッ!」
(面白い方法だ……それにしても楽譜だけでなく、教則本も充実しているな。これらを勧めるか)
連弾を聞きながら棚を眺めていた夢野が、理子のためにホットの蜂蜜レモンを作った。
理子の部屋をノックしようとしたところで「少しピアノ借りますね」と真の声。それから出てきて「どうぞ」と譲られるまま、夢野は中へと入っていく。
先ほどよりは少しだけ気持ちにゆとりができた理子が、パッと顔を輝かせる。
横に座ると蜂蜜レモンを差し出し、話を切り出す。
「今後の理子さんへの課題なのだが……正直なところ、今の所は『これまで教えてきた事を継続しろ』としか言えないな。練習量を増やすなら、唇の負担を考えて無理しないペースで――まあなんにせよ、まずはとりあえず風邪治せ! 今日はもう寝てくれ! 練習とか今はいいから!」
「はい、センセイ」
カップを置いて嬉しそうに笑い横になると、すぐに寝息を立て始めた。額に手を当ててみると、まだまだかなり熱い。
よく見ると机の上に栄養ドリンクと『風邪にも疲れにも効きますので良かったらお飲みください。これから寒さも増しますので、お体ご自愛下さい』という、真の書置きがあった。
言う事を聞いてくれるかなと苦笑しながらも、そんな理子のためにタオルを絞り額に乗せ、目を閉じて隣から聞こえてくるピアノの音に耳を傾ける。
部屋に置いてあった楽譜から、修平が選んだ連弾曲を今度は真と肩を並べ、弾いていた。
「そこは、この方がいいと思うんですよ。楽譜に書いてありますし」
「うーん……でもたぶん、伝えたいのはこういう事なんだと思うんですよね」
「あぁ、そういうイメージなんですね」
お互いの意見を出し合い、曲への理解を深めている。そこへケイとアルジェが部屋へと入ってきた。
譲られた真の席に、ケイが座る。
「修平。今日はフレージングを勉強しましょうか。音に出さずとも良いわ」
前置きをして、唇に指を当てるケイ。
「例えば……そうね『今日は風邪の理子をお見舞いしてピアノを弾きました』これに、適当な所で句読点を付けてみて。『今日は、風邪の理子をお見舞いして、ピアノを弾きました』。これなら自然でしょう?
音楽に句読点を付ける。これがフレーズとなるわ。そして分けた上で呼吸を合わせるのよ。一気に弾くフレーズでは呼吸を止めるように、歌い上げるように、一気に弾く。出来るかしら?」
歌がメインである淳紅や真はその意味がよくわかるらしく、黙って聞きながらもなるほどと頷いていた。
ただ、修平にはやはりどうにもわからないらしく、弾かずに指だけ動かすが首を傾げるばかりであった。
「これはね、修平。感情を出す面でも技術面でも役に立つ知識よ。頑張って練習してみて」
ニッコリと微笑むと、修平は「わかりました」と頷いて繰り返す。
「さて、と。さすがに長居はできないでしょうから最後に修平……これで理子に対して子守唄を弾いてみて? 理子がゆったりとした気分で眠れるように……安心して眠れるように……そんな気持ちを込めて」
少しだけケイが見本として弾くと、優しい、柔らかな音が流れる。そこにアルジェが口を挟んだ。
「せっかくだから、それでセッションはどうか? 練習の成果も聞いてもらいたいしな」
「セッションと言えば、理子さんから伺いましたが、今まではピアノと合わせた物ばかりだったそうですので、来年は私達全員がそれぞれを活かした曲で聴かせたいそうです」
「なるほど、ね……そうなってくると、オリジナルでなければダメかもしれないわね」
「かもしれませんね――今から考えませんとね。これからやるべき事がひとつ、決まりました」
ニコリと笑う真と、ケイ。
そして部屋に流れ出す、修平が作り上げた子守唄。それにアルジェがサックスで、淳紅、ケイ、真は声で合わせる。
家全体を包む、とても優しい子守唄――眠っている理子の顔が和らぐのであった――
拙いなれどその音律は心に4章 終